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建築家 潤 の『独断と偏見』

「窮屈になった日本~その103」:調和の取れた社会へ  その58

 平成最後のブログ更新になります。
思いとしては、懸案であった鉄骨造3階建て共同住宅の確認申請書が交付されたので、これに関して「くたばれ建築基準法・追録」の続編を書きたかったのですが、平成最後という事で、平成の纏め編にしたいと思います。

 平成年代となって一番印象に残ることは「消費税」ではないかと思います。
平成元年4月1日に導入された(押し付けられた)消費税3%以後、5%になり、現在は8%まで値上げ?されて、令和元年には10%にしようと政府(陰で目論んでいるのは恐らく官僚であろう)はその気になっている中、ある副大臣が「消費税の延期も考えられる」と個人的発言をしたとして、物議をかもしているが、消費税を導入した目的は何であったのか皆が忘れてしまっているのではないか。
「財政再建」が目的であったはずなのに、消費税導入後も国の借金は増え続け、消費税を2度値上げしたにも拘らず、借金はいまだに増え続けている。
1年間に民間が支払う消費税の額は3%でも莫大な金額なのに、5%・8%と恐ろしいほどの金額となっても、一向に財政再建が進まない。
一体この莫大な消費税はどこに消えているのだろうか・・・。
少なくとも私達庶民にとって消費税が上がり続けた結果で日常生活が過ごし易くなったとか、便利になったとか、地方の「シャッター街」が「シャッター開」になったとかの話も聞かないし、高齢者の多い過疎地の交通の便がとても良くなった話など聞いたことがない。
逆に「窮屈になって仕方がない」の声の方が圧倒的に多いのは一体?どうしたことか。
税の仕組みは支払った国民の利益(金銭ではありません)として還元されるのが本筋であるはずだが、どうやらその多くは霞ヶ関関連天下り先ばかりに流れているようだし、国民を犠牲にしてまで行う海外支援とアメリカへのご機嫌取りでしょうかねぇ。
でなければ、どこに消えた消費税でしょう。
以前もありましたが、今回も同じ様に「保育園・幼稚園の無償化」などと目くらまし作戦を行うようだが、お母さんあの約束した「財政再建」は何処に行ったのでしょう。
さすがに財務省は「土地」には消費税を掛けなかったが、殆ど消費が出来ないと思われる貴金属や美術品などにも消費税を課し、消費税を課すなら固定資産税を廃止するべき建築物など二重課税(本来二重課税は禁止のはず)も甚だしい。
政治家や官僚達は先進諸外国にはもっと高い税率が多くあると嘯いているが、その税の使い道については語らない・・・というより比較すれば恥ずかしくて語れないのだ。
形態ばかりを言って誤魔化すのが得意で、決して本質を語ろうとはしない本当に「ずるい輩」である。
この辺りの事は以前このブログに書いた記憶がありますが、平成最後のブログと言うことで、ご容赦いただきたいと思います。
「本質を語ろうとしない」についてはテレビの宣伝で嫌というほどに「嘘」を流され、本質から目や心を遠ざける手法は見事であるが、少し考えれば誰でも判ることなのに、馴らされると感覚まで麻痺するのでしょう。
有名で美人の女優や二枚目男優が車の宣伝に一役買っている姿を多く見かけるが、多分その車を買ったことはないだろうし、乗ってもいないのは明らかであると思われるのに「素晴らしいものだ」と思わせて購買意欲をそそる。
恐らく食べたことなどないと思われる「食材や食品」も同じ様に宣伝する。
今や、宝くじにまでが、その分野を広げ、購入していないことなど判り切っているのに「購入している」と映像を流す。
宣伝の出演者には1等の賞金額は無理だろうが2等か3等の賞金くらいは出演料で支払われているはずだから、確率から言って当たるとは思えない宝くじなど出演者はまず買わないだろう。
少し考えたら判りそうなものだと思うがねぇ。

 それと多くの有名一流と言われる企業が行った(これからもまだまだ表に出てくると思っているが)偽装・不正がある。
マンションの杭偽装に始まり・車・レオパレス・大和ハウスと社会の手本とならなければならない企業ばかりである。
以前から言っているように、TVや新聞に掲載している多額の広告宣伝費は全て該当消費者が支払った対価から支払われているものだから、その対価の中身は如何程のものであるか位はいくら素人さんでも少し考えれば想像がつくはずだ。
また、工事の中で不正をしなければ余分な不当利益(利益と言って良いのか・・・)を生み出せる訳がないことも想像してみれば判ることでもある。
量を見せ付け、形態のみで進めてくる目くらましに馴らされていると、いつの間にか騙されてしまうので、本質を見抜く目を養わなければ、政治家・官僚・大企業にいいように操られてしまう。
現在の日本社会が既にそうなってしまっているが、やはり日本は捨てたものではない。
これらに警鐘を鳴らし続けている人物は沢山いるが、一般人の我々の自覚が足らないことを反省すべきであろう。
 下らない馬鹿馬鹿しい話はさて置いて、最近読んだ本の中に是非とも皆様にも読んで頂きたい本を2冊御紹介したいと思いますので、未曾有の十連休に読んで見て下さい(前段の警鐘を鳴らしている方々の本です)。
一冊は「アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ:馬淵 睦夫・KKベストセラーズ」で、もう一冊は「日本が売られる:堤 未果・㈱幻冬舎」です。
お読み頂ければ「ぼーと生きてんじゃねーよ」と感じていただけると思います。


 月が明け、令和になってからは「雑感」を「酔龍の独り言」とブログの題を変えて書き続ける予定です。
題が変わっても、中身は変わりませんが、引き続きお読み頂き、人生の何らかの足しにしていただければと思っています。 





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「復活 くたばれ建築基準法:追録の13」

数年ぶりの「復活くたばれ建築基準法」です。 
何故かと申しますと、近年の「建築確認申請」に於ける「審査内容」が余りにも酷くて、これは審査の域を超え、最早「粗探し・間違い探し」と化しているので、その実態をお伝えしようと思い立ちました。
折しも、元号が「令和」となり、何とも言えない違和感を持っての更新となりました。
この「令」と言う言葉は「令月・令夫人・令嬢」などに使用され、良いという意味だと政府は言っているようだが、現在の日常生活では余り馴染みの無い使い方である。
特に若い人など令夫人と言ってもその意味が判らない人のほうが多いのではないかと思う。
「令」を辞書で引いても、良いと言う意味は出てこず、命ずる・お達しなど全てと言って良いほど行政がらみの言葉であり、何だかお上が下す命「令」に従っていれば、平「和」な生活を保障してやるとの、まるで上から目線の押し付け元号のような気がしてならない。
まぁ別に元号が何と決められようが人の名前と同じだから、文句をつけたいわけではないのだが「名は体を現す」と言われるように、もう少し馴染みがあり心が穏やかに感じられるような元号にして欲しかったと思うばかりである。
 さて、昨年より鉄骨3階建ての共同住宅(賃貸マンション)を設計し、確認申請書を審査機関に提出して2ヶ月近くが経とうとしているが、まだ確認済証の交付を受けていない。
一ヶ月以上の期間を費やして、意匠関係(建築基準を含む他の法令関係)の審査は一応終えたけれど、現在は構造計算適合性判定という構造計算の審査を受けているところです。
姉歯建築士の事件以来、建築確認の厳格化が叫ばれ、審査が厳しくなったと皆さんもお聞きの事と思いますし「厳格化=厳しい審査」と聞けば、詳しく設計内容を審査しているとお思いでしょうが、これはある意味間違いではないけれど、審査内容が全く違った結果と化してしまって、建築主(俗に言う施主)・施工者・特に設計者には余り意味の無い過大な労力と時間に費用を掛けさせられている現状を少しお伝えします。

建築基準法第六条には「建築主は建築物を建築しようとする場合は、工事を着手する前に、建築基準関係規定に適合するものであることについて、確認の申請書を提出して建築主事の確認を受け、確認済証の交付を受けなければならない。(法文がとても長く括弧が沢山あって、一般の方にはとても判り難いので大部分割愛しています)」とあります。
読んでみても別段不思議なこともなく当たり前の法文で、違和感を覚えることなどありませんし、この法文の目的は「建築基準関係規定に適合するもの」であるか否かを審査する。
とありますから、適合しているか否かを審査していると思ったら大間違いなのです。

現実例として面白い話をしてみますと、木造平屋建て専用住宅の建築確認申請を提出した時のこと確認申請書の中に記載する欄に「4 建物等の用途」と言うところがあり、そこに「専用住宅(用途区分:08010)」と記載したら、確認申請の厳格化で「一戸建ての住宅(用途区分08010)」に訂正するように指導を受けた。
確認申請書提出時には、これ以外に「建築計画概要書」「建築工事届」と別な書類を作成して同時に提出するように決められている。
その内の「建築工事届」(第三面)の記載事項の欄には [ (1)専用住宅 ] と記載された項があり、民間が勝手に使用している文言ではないし、この項を見ると一体この様な表現があるのか?と思えるほどに難解な区分がしてあるのですが、文が長くなるので割愛します。
一体「一戸建ての住宅」と[ 専用住宅 ] とは何が違うのか?そして、この記載は何故法令違反となるのか?良く判らない。
確認申請は前にも述べたように「建築基準関係規定に適合するもの」であるか否かを審査する。であるのだから訂正させられると言うことは「法令違反」ということになります。
しかし、誰が考えてもこれが法令違反になるとは思えるはずもない事柄まで「言い掛かり」に等しい訂正が余りにも多く実は閉口している現状なのです。
この木造平屋建て住宅は「4号確認」と称され、確認申請を受理した後7日以内に確認申請済の交付を行わなくてはならないと法令で定められていますが、何か図面内容や記載事項に法令違反があると、その期間は延長される仕組みとなっていて、一度「確認できない旨」の通知を受けると審査期間は延長され、再度指摘を受ければまた審査期間を延長される。という一体何時になれば確認済証の交付が受けられるのか・・・。
と毎回のように時間の浪費と修正する紙の無駄使いには心が痛み面倒臭い手続きを強いられます。
この建物について言えば、まだ他に13項目の修正を要求されましたが、法令違反による訂正など一つもなくて、確認申請書の記載事項に係る事ばかりでした。
指摘事項が余りにも細かいので、その理由を聞いてみたところ、審査機関も行政の監査を受けるそうで、その指摘を回避するためだそうです。
だから最低でも8項目程度の修正を指示するように言われているとの話であった。
つまり、設計者が間違いをしないで設計図書を完成させているはずがない!との立場から考え、言っていることは明白である。
と言う事で、今や確認申請は法令に違反がなくとも、最低8項目の指導を受けることになってしまっています。これが確認申請の「厳格化」の実態ですから、建築主の経済活動を妨げ、設計者には余り意味を感じない指導・修正に多大な労力と時間に紙を浪費させていることが建築基準法第一条に掲げてある「国民の生命、健康、財産の保護を図り、もって公共の福祉疎増進に資する目的とする。」になっているとは到底思えないのですがねぇ。

 木造平屋建て住宅でこの様な実態ですから、階数が多く面積の大きい建物であれば、その審査期間の長さと言い掛かりに等しい訂正内容に想像を巡らせて頂ければと思います。
建築物の設計図書を完成させるには、数百種類の記号と種類別に分けて表現する線に加え、文字と部分的に色づけまでして判り易いように表現します。
文字数など数十万文字・線の合計長さは日本縦断できるほどありそうで、図面枚数も判の大きさにもよりますが木造住宅でもA2判(新聞の閉じた大きさ)30枚・少し大きい建物になると100枚以上は普通に書き上げます。
その図面に記載した文言に不備(今はパソコンで図面を描きますので、入力間違いなどが起こります)があれば、別段法令に違反しているような内容ではなくても訂正を強いられます。
だから、最早確認申請はもう「申請」ではなく「許可」に等しい実態と化してしまいました。
指先に目が付いていれば、この様な間違いは起こさないのでしょうが、手書きでは起こらないような不思議な変換や記載違いが時には生じています。
勿論見直しも行っていますが、なんせパソコンがやった仕事は印刷物(本などと一緒で間違いがないという先入観と錯覚が起こってしまいます)なので、自分で書いた図面中の間違い探しは困難を極めます。
などど、言い訳をしても始まらないのですが、なんだか人間的でない嫌な世の中になったと感じてしまいます。





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「窮屈になった日本~その102」:調和の取れた社会へ  その57

一ヶ月が経つのが早くて、気が付けばブログ更新期限が迫っていました。
1月16日に引越しをしたので、現在はバス通勤になりまして、以前は徒歩5分足らずの通勤でしたが、今はバスで約10分程度かかります。
でもバス路線の便がとても良くて、これまでにバスに乗る待ち時間で5分以上待った経験は無く、とても有難く感じています。
 実は引越しの際に書籍の整理をしていたところ、本にカバーが掛けてあるままのものが2冊出てきまして、気になって中を見たところ、どうも読んだ記憶が無い感じで、本の中の文に黄色のマーカーが一切付いていない。
私は太芯のシャープペンシル・ボールペンと黄色のマーカーを絶えず持ち歩き、本を読んでいる時に読めない漢字や意味の解からないものに出くわすと、そこにマーカーをして、後に調べることにしている習性があります。
ということは、未だ読んでいなかった本で積読をしていたのだと、少し恥じました。
 その内の1冊の題名は「恥と無駄の超大国・日本:落合信彦 著」でした。
その時は読みかけの本があったので、読み終えてから直ぐにこの本を読み始めたところ、何と!本の内容は私のブログ内容と同じで、驚くやら、感心するやらで(隠れ手前味噌になっていますねぇ)、嬉しく感じたような次第です。
しかし、私のように漠然とした記述ではなく、数字に裏付けされた説得力があるもので、本当に「良く調べているものだ」と感心して、この本いつ出版されたのだろう・・・と本の最後頁を見てみると、2000年8月1日小学館とあり、今からだと約20年前に出された本である。
彼が警鐘を鳴らし、議員や官僚について戒めていたにも拘らず、20年が経っても全く良き方向に向かわず、かえって当時より酷くなっている感さえあるのは一体どうしたことか。
やはりこの国の議員や官僚は「恥」「自省」と言う言葉を知らないのだと認識を新たにした。
 話は少し逸れますが、この本のことを親しい友人に話したところ「落合信彦」は作品をゴーストライターが書いていたとかで非難を浴び、今では書籍コーナーも無くなっているとの話を聞いた。
そう言われてみると確かにそうだなぁ~と思ったのだが、彼が国を想い、憂う心に偽りがあったわけではなかろう。
もしかして・・・私のブログと同じで、霞ヶ関や千代田町辺りから何か仕掛けられたかも知れない・・・と頭を過った(真偽のほどは定かではありませんが)。 

 さて、毎回同じ様に議員・官僚について書いても現状はこの有様ですからねぇ。
視点を変えて、その後に気になっているTV編を少しお伝えしてみます。
放映内容の趣旨が悪いと感じているわけではないが、日本人の善意を巧みに擽り(くすぐ)、寄付を募ろうとしている団体がある。
日本における戦後の話に遡りますが、私達団塊の世代が小学生の頃のこと、給食では必ず「脱脂粉乳」をお湯で溶いた飲料が出されていた。
別段美味いとか不味いとかの感覚は無く、出されたものを食する感覚だった様に記憶する。
この「脱脂粉乳」だが、子供の頃の記憶で曖昧ではあるが、アメリカから支援(無償ですよね)して貰っているものだと聞かされていたように感じていた。
しかし、ある本からの知識では、あれはバターなどを生産した残りかすだから、本来アメリカ国内では処分(費用が掛かります)をしなければならないものなのだが、日本に押し付けて買わせていたとあり、一石二鳥を狙ったということだった。
誰の著書の内容であったのかはっきりと思い出せないのだが、確かアメリカの公文書の中には、この件が記載されていると書き添えてあったように思う。

 斜め的な思考をすると「脱脂粉乳」だけが本当に欲しいのであれば、日本の企業がバターなどを製造した残りかす(費用を掛けて処分しているのか、他に有効利用しているのは不明だが)を貰えば済むことであって、日本の国民から寄付を募ることではあるまい。
もしかして戦後日本で行ったことを再び考えているのではないかと疑ってしまう。
恐らく支援に使用される「脱脂粉乳」の購入先はアメリカの企業であろうと想像できる。

TVの放映内容では団塊の世代が子供の頃に感じていた(聞かされていた)そのままの内容で伝え、あたかも子供の頃の恩に感謝し、出来得れば遺産まで寄付して欲しいと訴えている。
飢えで苦しむ子供達を救うことは人道的であり、賞賛に値する事業であることに疑いの余地はないけれども、数日・数週間・数年の延命が出来たところで、その国の物心共に基盤が変わり、整備されない限り延命できた子供達はもっと悲惨な社会の中に放り出されることになりはしないか、の疑問が絶えず脳裏をかすめる。
本当に一時しのぎの対処療法になっているのではないかと思えてならず、複雑な気持ちになってしまう。
確かに「飢えている子供」だけに焦点を当てれば、何とかして救いたい気持ちは良く判るし、誰もがそのようにしたい気持ちになると思われるが、別の角度から見れば、はたしてその行為は良となるのか否かの疑問が払拭できない。
あたかも肉食獣が草食獣を襲って食している場面を見るのと同じようで、それを可哀想と捉え助けるのか、自然の定めと捉えるか・・・人は獣ではないとの意見も出そうだが、人だって多少の理性を持っている生き物(獣)であることに変わりは無いと考えるし、もう一つ人にとって大事な要素は「縁」があるか無いかの問題も大きい。





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「窮屈になった日本~その101」:調和の取れた社会へ  その56

 1月16日に取り敢えず引越しを終え、十数箱のダンボールに詰めた生活用品を取り出して整理収納を終えるまでに2週間程度かかりましたが、何とか通常生活が出来るまでに持ってゆくことが出来ました。
過ぎてしまえば・・・のことになりますが、この年になって、引越しは気力と体力が必要なのだとつくづく思い知らされました。
前回の引越しは60歳の時だったのですが、今回ほどの苦痛?を感じた記憶がありませんから、十年の歳月が体の衰えに加え、気力を削いできていたのだろうと感じた次第です。

 さて、このひと月の間で世間を騒がせた件を先に考えますと、まず一つが千葉県や東京都で防潮堤扉などに描かれた「ねずみ絵の落書き」についてです。
どうやら「バンクシー」と言う世界的に有名で正体不明の画家が描いたのでは・・・と言われながら真偽のほどは定かではないという状況下、扉を外して保管しているとの報道を耳にした。
この人物は以前に作品がオークションで高額落札された時に自動シュレッダーで絵の半分を裁断する仕掛けをしていた人物だということで一気にその映像が世界中に流れ一躍時の人となった経緯があり、世界中を歩き回り壁等に落書きをしているようですから、とても悪戯好きな人物であろうとの想像がつく。
ここで、何に故に行政は扉を外して保管したのだろうとの疑問が湧いてくる。
バンクシーの作品なら高額で売れる?から、世間が騒ぐ種になりそうだからその防止のため?でしょうかねぇ、でも移設費用は税金ですよね。
これがバンクシーを真似て書いた絵の上手い者のいたずらだったらどうする?行政なら誰が描いていようが、落書きは落書きだから消すべきであろう(当然職員の手で)。
如何に著名人が描いたものであっても公共施設に描いたものは落書きであり、著名人が旅館や飲食店を訪れた時などに店主の要望を受けて描かれたものとは訳が違う。
これが古刹の壁や塀に描かれたものであったらどのように扱かっただろうか?同じ外国人観光客が書いた、いたずら書きは「落書き」だが、著名人が描いたものは「芸術的」扱いとなり、許されるのかねぇ、どちらも同じ軽犯罪ですけど。
この風潮こそが今の社会を病ました病巣の部分でもあると思えてならず、著名人を持て囃しすぎで、何をしても許され、賞賛されるような偏った意識を造り出している元凶は報道者にあるのではなかろうか。
「騒ぐ」ことは多くの人の興味対象であることは理解できるが、本質の部分を捉え、見極めてから「騒ぐ」材料を提供するべきで、報道者は「質を見極めた」後でなければ世間に公表するべきではないと思うがねぇ、節操が無く薄っぺらな正義感や人道主義を大上段に振りかざし、報道の自由を盾に世間を混乱させるようでは報道者魂を疑いたくなる。
 続いては誰もが「またか・・・」と思ってしまう厚労省の行った統計詐欺である。
今も盛んに野党が追及していて、厚労大臣の資質を問うだとか、アベノミクスへの忖度だとか、結局のところ総理や大臣・官僚への個人攻撃ばかりを行っているから何が目的なのか訳が解からない。
大臣や総理の首を取ってみたところで、別の首に代わるだけで、同じことの繰り返しだ。
そんなこと解かっているはずなのに、揚げ足取り発言の予算委員会は野党に於いて長年に渡り脈々と受け継がれて、茶番劇として聞いているに於いては面白いが、国を想い、国民のことを想うことが本来の仕事のはずだから的外れも甚だしい。
それに、官僚や役人の不誠実な業務実態を一々大臣の責任にされては大臣も堪ったものではなかろう。
それに加え明石市の市長発言が社会問題にされ、気の毒としか言いようがありません。
これも本質に於いては同じで、役人の不誠実な仕事実態を「叱った」だけであり「叱った内容」には少し問題があったにせよ、それほどまでに怒りがこみ上げてくる役人の業務実態の方を何故大きく責めないのだろうか。
市より用地買収の纏めを依頼されながら、何年も経過しているにも係らず相手方と価格交渉すらしていなかった業務実態は問題視された市長発言より罪が大きいと私は考える。
税金で禄を食みながら、何ら仕事をしていない実態を野放しに出来る役所体質こそが、この社会を窮屈にし、民間を苛める体質の元凶であると言っても過言ではない。
今こそ官僚や役人に於ける公務員法を抜本改正する時期ではなかろうか。
民間では罰が課される内容でも、役人や官僚にはお咎めなしのような甘い体質を厳しく糾弾し免職に出来るような法が必要ではないかと考える。
何か官僚が問題を起す度に聞いてきた総理や大臣の発言は「信頼の回復をすることが急務であり・・・」が常套文句であるが、今だ嘗て信頼が回復されたことは一度も無いのではなかろうか。
だから、心から国を想い国民のことを想うと言うのなら、野党の皆さん公務員法の改正に手をつけなさいよ、そうしなければいつまでもいつまでも今までと同じ予算委員会を繰り返すようになりますよ。
問題の本質は公務員や官僚の不誠実な業務からでしょう、それに端を発した表面事象ばかりを追いかけていたのでは本末転倒、めくらましから抜け出られませんよ。
考えてごらんよ、優秀で聖人君主のような人物が国会議員になろうとするはずも無く、今までどれだけのお粗末な議員を見てきたことか、という事は追求している議員の資質も似たり寄ったりであろう事は容易に想像がつくので、私の提言が叶うことなどないでしょうね。
また報道によると、戦後最大の景気回復が続いているということのようですが、一般の国民には全くその実感が無い・・・と多くの声を取り上げ、市民が節約に節約を重ねて遣り繰りしている話も沢山映像で流れていたので、これも統計詐欺の一種でしょうか。
大企業と役所のみの調査に基づいた調査結果なら頷けなくもないが、何せ(好景気である)根拠を提示しないでの結果発表ですからねぇ、どのような発表だって出来るんですよ。

 では本題の「車は既に時代遅れ」について書きます。
本気で書けば、とても長い文になりそうなので、要点だけ述べてみます。
今テレビの宣伝で流されている映像には食品・衣類・携帯電話・薬・化粧品・住宅・車などがありますが、食品を除けば、依然として車の宣伝は多いと感じる。
十年前あたりから「若者の車離れ」が言われているけれど、若者はある意味時代の先駆者であって、時代の流れを察知するのに敏感であるのかも知れない。
車の便利さを否定するつもりは無いが、既に自家用車に限っては時代遅れと言ってもよい。
戦後好景気の波に乗って3C(車・カラーテレビ・クーラー)を手に収めることが希望であった時代もありました。
当時は自家用車を持つことが憧れで、道路には車も信号機も少なくて、確かに便利さを十分に享受できた時代であったと思う。
その後は車の所有が急激に増え続け、街中は車だらけとなってしまい、運転しながら車の多さを嘆き、不平不満を口にするが、自分が乗っている車も渋滞を引き起こしている車であることを忘れてしまうほど自己中心的な思考に支配されるようになっている。
勿論信号機の多さは昔に比べると何倍いや十倍以上に増えているのではないかと思えるほどの多さであるから、街中において信号機に捉まらずに3分走れる道路など今はなかろう。
つまり、自家用車はもう便利ではなくなってきた乗り物なのですよ。
欲しいものはインターネットや通販で申し込めば、宅配便が自宅の玄関まで届けてくれるので、車を使い遠くまで買い物に行く必要がなくなってきたから、宅配便は急激な伸びを見せた。
アメリカや中国のような広大な国土を有するなら、まだ自家用車の利用価値は大きいと思えなくもないが、車の走行は道路と言う平面上を交差する仕組みだから、数が増えてくれば便利さには必ず限界が来る それが今である。
近年ドローンと言う(まだ乗り物にはなっていないが)機械が急激に普及し始めてきた。
ある意味無限の高さと広がりの空間を行き来できる改良小型ヘリコプターでしょうかね。
現在軽量のものなら運ぶ事が出来るのだから、何れは重いものまで運ぶ事が出来るようになるまでにはそれほどの時間は掛るまい。
ドローンタクシー・ドローンバスは遠い未来のことではなくなっているのではないでしょうか。
飛行機とは違って空中静止が出きる・ヘリと違い大騒音を出さないなど利点も多く考えられ、製作費用や交通整備などまだ課題も多かろうと思うけれど、必ずその日はやってくると信じて止まない。





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「窮屈になった日本~その100」:調和の取れた社会へ  その55

 明けましておめでとうございます。
本年も拙い文ですが、書き続けようと思っていますので宜しくお願いいたします。

 さて、昨年のことになりますが12月21日朝、東京八王子市在住の妹のところに身を寄せ、介護を受けていた母親が95歳で現世を離れました。
突然発生する相続や田舎にある家屋の電気・ガス・水道・造園業者・NHKなどの廃止や変更手続きの対応に加え、相続に関する必要書類の作成を司法書士に依頼し、税理士にも相談しなければならず、慌ただしい年末でした。
ただ相続については生前に「遺言公正証書」を作成し、憂いの無いようにしておいたので、
揉め事はないのだけれど、多くの書類と手続きには悩まされます。
それに12月14日突然の腹痛(20代の頃よりある持病のようなもので、数ヶ月に1・2度、腸閉塞のような激痛が就寝時に起こり、大体小一時間程度で痛みは治まるのだけれども、今回は軽い痛みが一時間おきに続き診療所で診察を受けた)で、その診療所で処方された薬を飲んで二時間が経過した頃に大量下血が始まったので、痛みに加え下血とくれば、これはただ事ではない。
下血をビニール袋に取って再度診療所を尋ねて状況を説明し、内視鏡による腸内検査が直ぐにできる医院の紹介をして貰い受診し、検査をしてもらったところ、大腸内はただれ、おびただしい出血で哀れな姿を呈していた。
病名は「上虚血性腸炎」ということであったが、薬による出血ではないかと疑っている。
この数十年間同じ様な激痛を何十回となく経験しているけれども下血は初めてで、この痛みで診療所を尋ねたこともなく、薬も飲んだことがないからだ。
そんなこともあり、面倒なことが重なるものだ・・・と思っていたのだが、実はまだもう一つ同時に面倒な引越しを抱えていて、この16日に住まいの引越しをします。
昨年の4月に新築分譲マンションの購入契約を済ませていて、この年末頃になって売買の決済や引渡し・入居手続き等など本当に面倒臭いことが重なってしまいました。
引越し先は広島市でも同じ中区なのですが、住まいから会社までの距離は現在が徒歩5分のところなのに、引越しすれば徒歩25分(実際に歩いてみて時間計測してみました)となるので、少し気が滅入っています。
 ここで、建築の設計者が何故分譲マンション?と自問自答したくなるような行為をしてしまったか・・・については、諸説があり詳しいことは割愛させてもらいますが、広島市の中心部に一軒家の自宅を構えることとなれば、ゆうに億を越える金額を必要とするから無理の限度をはるか超えてしまう。
私は若い頃より土地や家など欲しいと思ったことは一度たりとも無いのだが、年を取ってくると若い時とは違って様々ことを一つ一つよく考え、それ相応の答えを出しておかなければならない気持ちが自然と湧いてくるようになった。
それは、死期が遠くにあるものではなく、現実のものとして認識しなければならなくなってきたと言う事以外にない。
しかし、いつかは訪れる死の導きの日が特定できない以上、日々衰えてゆく体の機能と体力で如何にこれからの生活を維持してゆくのかを考えると、気は滅入るが避けては通れず、団塊の世代が今抱える共通の面倒臭い通過点であろう。
田舎には私一人が住むには広すぎる大きな家がありますが、現在の環境では「車」が無くては生活が成り立たないほど近隣には店舗がない(今日本の田舎は殆どこの状況下にある)。
今はまだ車の運手は出来るので、今なら田舎に住むことは可能だ、しかしいくらインターネットが使えるからといっても田舎に戻れば仕事の関係の成立が難しくなるから、今その選択肢は考えられないし、何れそう遠くない日に車の運転が困難となる日も来よう・・・。
そう考えると、年を取って徒歩圏内で自活できる場所(生活必需品の調達・医療など)を求めようとすれば、やはり街中のマンションということになるでしょうかねぇ。
それと、借家で死ねば大家に迷惑が掛かる(独り者だから死んだ後の発見はいつになるやら・・・)ことなどを思えば、苦渋の選択であったことをお伝えしたい。
という事で、年末にブログ更新が出来なかった言い訳と、私がブログの原稿を書き上げても私自身の力(能力)ではインターネット上のブログに掲載する術がないので、仕事始めの日まで待って社員の力を借りなければ掲載できない実態を暴露しまして納めます。

という事で、重ねて本年も宜しくお願い致します。


急遽言い訳のブログに変更しましたが、次回は間違いなく時代遅れの産物「車」について書こうと思っています。







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「窮屈になった日本~その99」:調和の取れた社会へ  その54

 依頼が重なりそうなので、今手懸けている物件の図面を急いで描き上げねば・・と思っていたところ、案の定スポンサー広告を貼り付けられました。
今から書きます。
 久し振りに「養老猛」氏の著書を読み、感動感激の想いに包まれながら、我が身の不勉強を恥じ、勉学を積み上げてきた方と、いい加減な人生をやってきた差は歴然としたものがあるものだと、今回もつくづく思い知らされました。
氏の表現は魔球表現となっていて、普通に読み流すと何だか意味が良く判らないと言う人も多いようですが、本質はど真ん中のストライクなのに一見暴投に近いような表現をするものだから、本質が見え難くなり、はぐらかされた様に感じるのでしょうか。
 しかし、政治家や官僚などの批判は魔球的表現で見事に本質を突いているのに、文字を目で追っているだけでは、批判文に読めないところが凄いところなのでしょう。
私など単純馬鹿で、直球しか投げられないから、彼の書いた文を読むと落ち込んでしまいます。
 まぁ東大卒と工大卒(広島ではこう言うと・広島工業大学を指します)の差は僅か漢字で一文字、平仮名でも一文字しか違わないのに随分と差があるものだと、更に落ち込み溜息が出ます。
尤も生れ落ちた時の能力と弛まぬ努力の結果が現れていると言うことだと思いますが、仮に氏が工大卒(物足らなく思われるはずですが)であったとしても現状と代わらぬ活躍をしているであろうことは容易に想像できるし、私が東大卒(入学すら叶わないことです)であったとしても、やはり現状は変わらなかったでしょう。
でもこうして多くの方にその思考と表現を示していただけることは有難い事で、現代に生まれてよかったと感じる次第です。

 さて、ゴーンと頭を叩かれた日産の最高責任者ですが、就任当時から経営手腕を買われて、2兆円の負債を乗り越え、黒字会社に立て直した功績は見事だと、経済界での評価が高かったようですが「一将功なりて万骨枯る」の諺にもあるように、協力業者(俗に下請け業者)を泣かし、切捨て、惨い仕打ちを行って来た結果であることは容易に想像がつく。
血も涙もない仕打ちが経営で出来るのなら、別にゴーンでなくても誰でも出来る。
日本には古くから商売の原則の部分である「三方良し」がある(今は廃れてしまったかな)。
「店良し」「客良し」「世間良し」で、商売を繁栄・継続させる秘訣のような3文であるが、ここに「社長良し」の言葉は無い。
 戦後日本経済が発展し、経済大国とまで言われてきた頃までは何とかこの3文を掲げていた経営者がいた事であろうと想像しているが、ことここに至って経済が行き詰まり、でも利益を上げなければ・・・と大手企業は「自分だけ良し」を決め込んで、協力業者を苛め、利益の追求を行っている。
でも、誰の為に?利益を出さなければならないのか解かっているのでしょうかね。
彼らの答えは一様に「株主のため」と言うのでしょうし、学校でも社会に出てからもそう教え込まれてきて、ある意味洗脳されているからです。
ここに経済が行き詰まった原因があることに気付いているサラリーマン経営者はまずいないであろう。
金が金を生む社会構造など基本的に間違った社会構成で、これは一昔前に欧米がやっていた奴隷制度と何ら変わりはなく「主人だけ良し」の価値観であるからこのような状態が長く続くわけがない。
 今の法の下で違反せずに経営が出来るのは「役所」と「大企業」だけで、そこには「三方良し」はなく、「自分良し」があるだけである。
さてこれからどのような社会が出現するのか何とも不気味な気がしないでもない。
次回は時代遅れの産物「車」についてにしてみようと思っています。







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「窮屈になった日本~その98」:調和の取れた社会へ  その53

 今巷の話題で賑やかしいものと言えば、ハローウインと野球の日本シリーズでしょうか。
それと、陸上で日本新記録を出した選手に支払われる報奨金がなんと!1億円だって。
更に消費税10%と言ったところでしょうか。

 まずハローウインについてですが、31日を待たずして、早くも数日前から東京渋谷の交差点では仮装した輩が騒ぎ始めているとか・・・の報道を聞いて、日本人は本当に心が希薄になったものだと思わざるを得ない気持ちになってしまいました。
31日当日は機動隊まで導入して渋谷の交差点を警備するようで、また多くの税金が機動隊隊員の懐に転がり込むことになるので、財源難の折、少しでも減らせないものかねぇ~。
しかし、そのようなことは別にどうでもよいのですが、神道・仏教が大半を占める日本国で、現在はキリスト教徒が行っているよく解からない祭り(異教徒ケルト人による起源の祭り)にハローウインの意味も知らず参加して騒ぐ日本人の何と多いことか!「チコちゃんに叱られます」よ。
野球の熱狂的信奉者とは中身の部分では少し違いはあるけれど「集まって騒ぐ」事に関して同じである(きっと騒ぐ本質の部分や理由は何でもよいのでしょう)。
欲求不満の捌け口なのでしょうか?それとも集団の中に混じっての擬似一体感で孤独を紛らわす自己欺瞞なのか、己の能力でもって社会の中で脚光を浴びることが出来ないから、兎に角、目立つ行動をする欲求に駆られるのか(それも集団でなければ行動しないこと)については心理学者でない私には詳しく分析する力は無いが、はっきり言って異様であり、異状に感じる。
自分だけが楽しめれば他人にかける迷惑も集団の中にいるから薄れるのであろう、車両を倒してその上に乗って騒いだり、飲食物の残骸を路上に放置したりで、まるで暴徒と化している連中が中にいる事はとても残念なことではあるが、これが現実の日本だ。
 己の人生を切り開き、生き抜いて行くには「心の中での価値観の構築」が欠かせないのに、それは放っておいて、目先の欲と楽なこと楽しいことへのみ心を向かわせていれば、「価値観の構築」など出来ようはずもない。
でも、社会全体が金儲けの為に「(不幸に繋がる)スマートホン」や「ゲーム」を売り「簡単借入金融」を世に蔓延させてその手助けまでして「日本の若者の心」を育てなくしたのだから、この様な現象は自然に起きることなのかもしれませんし、悪いことに政府や霞ヶ関がその後押しをしている感すらある。
そう言う私も若い頃は同じようなものであったかもしれませんが、集団で事を起す、集団の中に混じって行動する(何らかの行事などは除きます)ことはしなかった。
何故なら「恥ずかしい」と言う意識があったからに他なりません。
何が恥ずかしいかって?その部分が「心の中での価値観の構築」だとおもっています。

 陸上の高々日本新記録(失礼かな)で報奨金1億円とはふざけた話であるし、報奨金は政府から支給された振興金で賄われていると思うので、国民を馬鹿にした金額となってはいないだろうか。
学校を出て社会で苦労を重ね40年余り働いても1億円を一度に手にできる機会はまず当選しない宝くじに当選する以外ない。
日本新記録を馬鹿にするつもりもなく、揶揄したいわけでもなく、ただ報奨金の額が余りかけ離れた金額となっていないかと思うだけです。
近年スポーツ選手の懸賞金や賞金・年俸が桁違いに高額となっていることに警鐘を鳴らしておきたいのです。
中には「感動した」「勇気を貰った」などの言葉をよく聞きますが、「感動した」「勇気を貰った」後、ご自分の中に何が芽生え、貰った勇気で何をするつもりなのか、何をしたのかの話を聞いたことがないから、一時の快楽に近い気分を味わっただけで終わっているのかも知れませんね。
そうであれば、別にスポーツでなくてもよくて、きっと対象としては何でもよいのでしょう。
という事で、このようなことは日本を良き将来へ誘導できる道標にならないと思うのですが、私は相も変わらずこのような直球表現しか出来ないので、明らかに勉強不足だと思っていますし、自覚もあります。しかし如何せん理系出身ですので、お詫びします。

 あと消費税10%と久し振りに読んでいる「養老猛氏」の新書を読んだ感想と所感を書くつもりでいましたが、仕事が重なって忙しくなりそうなので、準備のため今回はこれでマウスを置きます。

段々と寒くなってきましたので、風邪など召されぬよう気を配ってお過ごし下さい。







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「窮屈になった日本~その97」:調和の取れた社会へ  その52

 前回は弁護士泣かせと言われる摩訶不思議・難解極まる建築基準法の一部を垣間見て頂きましたが、この道40年余り取り組んできた私が未だに良く判らないのですから、一般の方にとって、建築家とは一体何の仕事をしているのだろうかと思われたのではないかと想像しています。

 さて、1ヶ月が経つのが早くて、急ごしらえのブログ更新です。
今話題になっている「ふるさと納税」について、何やら総務省と地方自治体とが揉めているようですね。
行政の上下で揉めているのは面白いやら可笑しいやらで、内心面白がっているのですが、しかし、この本質を覗いて見ると、やはり行政はいい加減だな~と思えてきます。
そもそも総務省が言っていた「ふるさと納税」の定義そのものが曖昧で、細かな決め事までしていたわけではないようです。
お互い行政同士という甘え事もあってのことだろうと想像しているが、ここに至って、返礼品について総務省が地方行政に噛み付いてきているのだから、おかしな話で、地方財政を助けようと始めたはずの「ふるさと納税」だが、何ともお粗末な結果になろうとしている。
 まず納税者である国民の側に立ってみてみれば「毎年々税を納めれども何ら見返りがある訳でもなく(失礼、目に見える目先の見返りのことです)、年々様々な納税の額は上がるばかりで行政対応が良くなっている実感などない」と言ったところでしょうか。
そこに「ふるさと納税」が現れ、「ふるさと納税」にして税を納めれば、税額の控除が受けられる上に、返礼品が貰えると言う事なのですから多くの人が飛び付いた。
 地方自治体からみれば、東京以外は年々人口が減少し、高齢者は増加して、財政は窮屈な状況が続いている中で、総務省主導で願ってもない財源が転がり込んでくるようになったのだから、返戻品を高級なものにすればするほど「ふるさと納税」は増えると考えるのは自然であろう。
ある意味「ふるさと納税」を集めようとして返礼品過当競争が生まれてしまった。
これが総務省にとっては面白くないのですよ、そもそも本質から離れた状況が起きているから返礼品を「ふるさと納税額」の3割以下にしろ、そうしなければ「ふるさと納税」を認めないと恐喝してきたのだから、さてどうしたものでしょうかねぇ~。
元々返礼品の額は「ふるさと納税額」の3割以下と決まっていた訳ではないようですし、先ほど書いたように細かい決めごとなど無かったようですから、今になって何で?と感じている自治体も多かろうと思う。
総務省が自治体に対して忖度した結果でしょうが、例え行政とは言え財源に関しては違法でさえなければ、やりたいだけやるが本音でしょう。
総務省が本気で地方の財源を助けたいのなら、補助金を交付するのではなく、財源のいずれかを手放して渡してやれば済むことなのに、利権は手放さないよねぇ~結局都合のよい餌を少し撒いて、嬉しいだろうと恩着せがましくしてはいたが、結果その状況が気に入らないと言っているのですから、お節介が過ぎる。
高額な返礼品が良いとは思えないけれど、その返礼品で製造業者・生産者は潤い、消費税が国に入るのだから、決して悪いことでもなかろうと思えるのだけれど、国や議員連中は一方的な見方しか出来ない人種の集まりだから仕方がないか・・・やれやれ。
 
「ふるさと納税」が発表された時に私は「ふるさと納税」とは生まれ故郷(出生地)・田舎に対して過疎化が進み財源が乏しくなってゆくだろうから、それを助けようとするのが本質だと思っていたのだが、生まれ故郷(出生地)・田舎とは全く関係の無い全国何処の自治体にでも「ふるさと納税」が出来ると言うのだから、これが出来るのなら「ふるさと納税」ではなく「返礼品納税」としなければならなかったのではないだろうか。
ここがそもそも間違いの原点であると考える。

霞が関の役人は、学問は優秀であったかも知れないが、その他のことに関して本当に優秀なのか否か疑問だらけである。

今週末には、また大型の台風が日本列島を直撃するような気配です。
これ以上の被害は願い下げですが、大きな被害が出ないことを祈るばかりです。







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「窮屈になった日本~その96」:調和の取れた社会へ  その51

 前回のブログで建築物の高さについては定義があり、その内容を今回お伝えしようと考えて構想を巡らせていたのですが、高々「建物の高さ」程度のことについてご説明をしようとすれば、余りにも複雑で難解極まりない内容となりそうなので、一文に纏めるのではなく、ブログの最後に少しずつお伝えしたいと思います。

 それにしても、何ともお粗末な行政機関であろうと皆様も溜息をついておられることと思います。
何の話しかと言えば、身障者雇用促進法に関する行政のお粗末極まりない対応である。
嘘のような話に聞こえるけれども、これが事実のようですから、やはり日本の行政は腐っていると言っても非難される事はあるまい。
約三分の二の省庁でこの法律に該当しない者を身障者に含めて定数に達しているとしていた件で、その極めつけは、裁判所を含めた司法関係までもが含まれているとか・・・を聞くと行政そのものは法を守る意識は無いのではないかとさえ思えてくる。
 中には「(法の)意味が良く判らなかった」を理由として挙げていたところもあったりしていたようですが、しかし行政側にはこの法に違反していたからと言って罰則規定がないのだから何をか言わんやである、この法に限らず民間に対しては「その様な言訳は決して許されず、厳しい罰則が科せられる」。
これは一体何を意味するのでしょうかねぇ、またその真意は何処にあるのでしょうか?。
まさかとは思うが、行政は絶対に法に触れるような過ちは犯さないと言う自負から来ているのだとすれば、とんでもない思い上がりである。
これまで行政は矜持を忘れ、いや棄去り、どれほどの失態を繰り返してきたかを思い起こして欲しい。
言訳と逃げ場がなくなれば、その度ごとに、いやいや頭は下げるが、罰が伴わないのだから一向に悪い意味での役人根性と性根が良き方向に向かわない。
「喉もと過ぎれば熱さを忘れ」の諺のように少し時間が経てばまた容こそ違えども、同じようなことを繰り返してばかり来ている。 
 話は少し逸れるが、日本における時代劇の長寿番組は今まで数多くありました。
代表的なものは「水戸黄門」を始めとして、大岡越前・鬼平犯科帳などが挙げられるが、全ての話の筋道は行政側が人の情と心を慮り「勧善懲悪」を描いた作品である。
だから多くの国民の支持を得て数十年に渡り放映されてきたものである。
今だって日本国民は「勧善懲悪」を心から望んでいるのに、これを裁く側が「勧悪懲善」に近いことばかりを行っているのでは、何とも情けない状況を通り越えていると言わざるを得ない。
「勧善懲悪」とは「強き(行政・政治家)を挫き弱き(善良な国民)を助ける」の意味に近いと思っているが、全く真逆な情況を呈しているのだから開いた口を塞ぎようがない。
年金・雇用を始めとして数々に渡り、民間をはるかに凌ぐ厚待遇が得られるように巧みに法を改悪して身の保全を図ってきた経緯をどのように抗弁できるのだろうかと思うのだが、当然の権利と思っているようですから、蛙の面に小便ですかね。
 自らが「国の為・国民の為」に働くのだと手を挙げておきながら、いつの間にかその手を下げて「我が省庁の為・自分の生活の為」に変えてしまった罪は大きいと思う。
自分で稼がない連中なのだから「税の重み」を考えて襟を正して頂ければ有り難いと思うのだが、どうやら彼らは襟のない衣類を着用しているようですね。
兎に角、政治家・官僚を含む役人・大企業は国民の手本となるべき立場だと思うのだが、近年彼らは反面教師に成り下がっているのだから、国が乱れても不思議ではあるまいて。

 では「建物の高さ」について少し触れてみます。
「建築物」の高さについては、建築基準法(以降 [ 基準法 ] と記載します)施行令第二条1項六号で定められていて、[ 建築物の高さ ] 地盤面からの高さによる。ただし、次のイ、ロ、又はハのいずれかに該当する場合においては、それぞれイ、ロ又はハに定めるところによる。

と明記されていますが、この但し書き部分のイ、ロ、ハは文面が複雑な上、専門用語が多く、とても難解なので一般の方に説明をしようとすれば、数十ページを必要とするほどの内容になりそうで割愛しますが、仮に数十ページを使って説明しても、はたして御理解頂けるかどうか、不安な気持ちになるような内容のものです。
さて、建築物の高さはどうやら、地盤面から測定するようですが、ここで [ 建築物 ] とは一体何か?と言うことが次の課題になるのです(不思議なことを言っているように思われるでしょうが、これが基準法なのです)。
[ 建築物 ] は基準法第一章第二条(用語の定義)1項一号に次のように定められています。

土地に定着する工作物のうち、屋根及び柱若しくは壁を有するもの(これらに類する構造のものを含む)、これに付属する門若しくは塀、観覧のための工作物又は地下若しくは高架の工作物内に設ける事務所、店舗、興行場、倉庫その他これらに類する施設(鉄道及び軌道の線路敷地内の運転保安に関する施設並びに跨線橋、プラットホームの上屋、貯蔵槽その他これらに類する施設を除く)をいい、建築設備を含むものとする。

以上、法文をそのままを記載しましたが、間違いなく日本語では書かれてはいますが、読んでみて理解できましたか?。
恐らく何が言いたいのか、何を伝えたいのかが良く判らなかったのではないでしょうか。
次は前文にありました 土地に定着する工作物のうちの [ 工作物 ] とは一体何ぞや?。
と言うことになりますから、基準法ではこの [ 工作物 ] を次のように定義しています。
基準法施行令第九章 工作物(工作物の指定)第百三十八条1項一号から第百四十四条の二の四に至るまで事細かに記載がありまして、前文を記載するには無理がありますから、生活に馴染み深いものだけ抜粋して記載してみます。

煙突、広告塔、高架水槽、擁壁その他これらに類する工作物で法第八十八条第一項の規定により政令で指定するものは、次に掲げるもの(鉄道及び軌道の線路敷地内の運転保安に関するものを除く。)とする。

一 高さが6mを超える煙突(支枠及び支線がある場合においては、これらを含み、ストーブの煙突を除く。)

二 高さが15mを超える鉄筋コンクリート造の柱、鉄柱、木柱その他これらに類するもの(旗ざお並びに架空電線路用並びに電気事業法第二条第一項第十条号に規定する電気事業者及び同項第十二号に規定する卸供給業者の保安通信設備用のものを除く。)

三 高さが4mを超える広告塔、広告版、装飾塔、記念塔その他これらに類するもの。

四 高さが8mを超える高架水槽、サイロ、物見塔その他これらに類するもの。

五 高さが2mを超える擁壁。

2項一号 昇降機、ウオーターシュート、飛行塔その他これらに類する工作物で・・・と延々に続いて記載されていますが、以下割愛します。

ここで本日の纏めをしてみますと、建築物の高さは地盤面から測定する。
「ということは、建築物でないものは地盤面から測定しない」ということになりますし、「門、塀などは、建築物に付属していなければ [ 建築物 ] ではない」と言うことです。
でも建物が建っている敷地に門や塀を造るとこの門や塀は [ 建築物 ] となります。
つまり、空き地などに門だけを造ったり、塀を造るのは [ 建築物 ] ではないという事ですから、その高さは地盤面から測る必要はないということになるのですが、ここで、プール上に造ってあって、倒壊した補強CB塀は建築物か、それともただの塀かということについての検証をしようとすれば、まず屋外プールは建築物か否かが争点になります。
しかし、屋外プールについて、更衣室などが付属していれば建築物になると考えられますが、単独での屋外プールは建築物に該当せず、工作物にも該当しないのではないかと思われます。
しかし、小学校という建築物に付属しているプールが建築物でも工作物でもなければ、それに付属する補強CB塀はただの塀と考えても良いと思われますが、この補強CB塀はあくまでも小学校という建築物に付属しているものだと考えれば、この補強CB塀は建築物となりますが、プール上に造られていて、土地に定着しているわけでないからやはり、建築物の定義から外れるとも考えられる。
という事で、何とも不思議な論争と見解をしなければ解決がつきそうもない事柄なのです。
高々プール横に造った補強CB塀の高さが [ 建築物の高さ ] となるや否やで、はっきりとした回答が見出せず基準法には本当に泣かされます。
当時地震直後の報道を聞いて、以上の事柄が頭に浮かんで「ウン?」と思ったのです。
でも、こんな高さ解釈論争などほんの序の口ですからねぇ~、弁護士が基準法は判らないという一端を垣間見ていただきましたが、下らないと言えば下らないし、定義だから大事な事柄だといえばその通りだし、面倒臭くて厄介な仕事の割には社会的地位と報酬に恵まれない嫌な仕事に就いたものだと嘆きたくもなります。

お詫び:書き出しでは [ 建築物の高さ ] について、ブログの最後に少しずつお伝えを・・・としていましたが、途中で止めると、もっと判らなくなりそうなので、一気に書き上げてしまいました。








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「窮屈になった日本~その95」:調和の取れた社会へ  その50

 例年なら梅雨が明けた途端に早朝よりクマゼミがけたたましく鳴くのですが、今年は蝉の声が聞こえなくて、もしかすると豪雨で地中の幼虫が溺れたか窒息したのかも・・・と思っていたところ、7月最後の週当たりからやっと鳴き始めたので、安心しましたが、今は毎朝五月蝿いこと五月蝿いこと、暑さを上乗せしてくれています。

 先月起きた豪雨災害の復旧が終わらないうちに「後戻り台風21号」がやってきまして、二次災害を心配しましたが、中国地方に上陸した時には、とても台風とは思えないほどに雨風共穏やかで拍子抜けした感がありました。
子供の頃より室戸台風・伊勢湾台風など大型台風の記憶は多く残っていますが、通常の台風なら南方で発生して北方向へ抜けてゆくものです。
しかし一旦は通常の動きをしておきながら、関東沖海上途中で東から西へ向かって後戻りするかのように動き始め、東海・近畿・中国・九州まで移動してきた台風を見たのは始めてで、呆れてしまうような動きを気象庁は気圧の配置による影響だと報道していましたが、それにつけても最近の気象は何もかもが異常だとか、想像を超えたとか、観測史上初めての言葉をよく耳にするけれど、自然に対しては異常という言葉・想像という言葉は及ばないのが自然であることを忘れているからこのような言葉を報道するのでしょうが、自然に
対して、地球の歴史から鑑みると人間が観測してきた僅かな期間を平均値で捉え、考えているからこの様な言葉が出てくるのだと思われますが、やはりこれも人間の驕りでしょう。

 前回のブログでコンクリートブロック塀の高さについてお伝えしましたが、建築物の高さについては定義があり、その内容を今回お伝えしようと思っていたところ、世間が騒いでいる「LGBT(性的少数者)よく意味がわからない表現ですけれど」と「医大」の件について私なりの見解を述べてみたいと思いますので、コンクリートブロック塀の高さについては「くたばれ建築基準法」編で後日お伝えしようと思います。

 自民党の女性議員が発言した「生産性がない性的少数者に税金を投入すべきではない」旨の週刊誌記事が世間を騒がせている事の発端のようですが、確かに一方的な問題発言だと思います。
でも私が言う一方的発言の内容は「差別」「偏見」とかではなく、税金を投入するべきでなければ、彼らからは所得税も消費税も徴収するべきではない(取るものは取っておいて、保障をしないは、明らかに片手落ちだ)。
それに言葉尻を捕まえれば、生活保護を受けている者や生産に従事していない高齢者や未青年にも同じことが当て嵌まるから、そのことには触れていないので、明らかな「差別」発言だと思われるので、これは謝罪に値する発言である。

 また文科省次官候補官僚の収賄事件から端を発した問題で、裏口入学に関する件について、世間では公平な入学試験が行われていると思っていたのにとか、女性差別発言が大半を占めているようですが、日本は公平な社会だと信じている人達にとっては、確かにその通りで、試験に挑んで不合格になった学生や浪人生も同じことで、さぞ悔しい想いをしていることだろうと思う。
しかし、昔から私大の医学部に関しては「寄付金の額」で入学が決まることも多く(尤も、最後に医師国家試験があるので余りにも学力の低いものは対象外だったと想像するが)、一般の私立大学でも学長・理事長・教授枠というものがあって、それぞれ2~3名程度の裏口入学者枠を有していることなど世間常識でもある。
人が作る社会では人間関係や学校・企業間の関係などからこのようなことは必要悪?とも言える事だが、大学に限らず世間一般で通常に行われていることの一部でもある。
この様なことは、人生を長く生き抜いてきた人にとって何度か経験したことはあるはずで、別段不公平と言うものでもなかろうと思うし、当事者も犯罪の意識は無かろう。
その冴えたるものは、企業の縁故採用ではなかろうか(実は役所でも多く行われている)。
企業の採用試験だって公平であるべきだが、これに関して余り騒がれることがないのは何故だろう?基本的仕組みは同じである。
大学では裏口入学は駄目だと言い、企業の裏口入社は容認できるは、これも片手落ちである。
 将来の医師を目指して果敢に医大を目指す若者達にとっては辛い事だろうが、人が作る社会の仕組みは理想や清らかさだけでは成り立たないものでもあるし、「水清ければ、魚棲まず」の諺もあるように、犯罪でなければ容認しているのが、人の社会である。
でも、清らかな水に棲む魚も人も居るのですが、魚に関して言えば「山女・岩魚」など重宝されるけれども、こと人に関しては貧乏くじを引く部類に入れられてしまう傾向があります。
あるテレビ番組を見ていて、この件に関して現役の女医兼タレントの発言を聞きましたが、女性や三浪以上の受験生の採点を減点しているのは全ての私大医学部がやっていることで、ある意味仕方がないことだとの発言でした。
と言うのも、公平に試験の採点を行い入学させれば、大半を女性の合格者が占め、将来は日本中が「眼科」と「皮膚科」ばかりになってしまうという現実的な分析発言でした。
女医は離職率が高く、外科医になりたがらないとか、出産・子育てで医療から離れるとかの意見も多く、ある意味人の社会にとって必要悪なのかも知れません。
大きなお腹での手術は無理で、出産により医療を離れれば、困るのは多くの患者であり、急な代わりは至るところに居る人に代わって貰って勤まるものではない。
 男女平等の社会は基本的人権や命の尊さなどに於いてのみ語られるものであって、男と女の社会生活の役割の違いにまで言及すべきことではない。
男には「生理痛」はないし「乳は出せない」のだから子育てに限界があるので、それぞれ役割が違うことを認めなければ真の男女平等とは言えないのではないかと思う。
世間の似非人権者達がよく口にする「男女平等」は味噌糞一緒の話に近い。








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