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建築家 潤 の『独断と偏見』

「復活 くたばれ建築基準法:追録の14」

 先月から仕事が重なってしまい、図面を描き、仕上げ、完了検査に立会い、新しい依頼の企画・計画図の作成対応に追われていましてブログの更新がままならず、やっと少し落ち着きましたので、早年末近くになってしまいましたが更新します。
近い内に「双龍物語」も必ず更新する予定ですが、その前にどうしてもお伝えしたいことがあって今日はその内容にいたします。 

また建築基準法が改正と改悪?(と思われます)が行われました。
まず改正の方からお伝えしますと、建築基準法施行令第112条(防火区画)12項13項には(俗に・異種用途区画)と呼ばれる規定があるが、その一部が削除されました。
法文が削除されるのは異例なことですが、今回それが行われ、前記載の12項には次のような法文がありまして、法文のまま記載しますと [ 建築物の一部が法第二十四条の各号のいずれかに該当する場合においては、その部分とその他の部分とを準耐火構造とした壁又は法第二条第九号の二ロに規定する防火設備で区画しなければならない。] ですが、一般の方にはこれが何を意味するのかも判らないと思いますので、その一例を砕いて説明すると、一般の住宅であれ床面積が50㎡を超える自動車車庫を設けようとすれば、その車庫から住宅内部に出入りできる扉や開口部(窓など)は金属製の扉にして、壁の部分は一定の防火性能を有する仕様にしなけければならないと言う規定です。
尤も金属性の扉であればどのような物でも良いと言う訳ではなくて、国交省が規定した性能評価試験に合格した物でなくてはなりませんし、壁の防火性能に関しても細かな規定があり、その両方を満足しなければ50㎡を超える駐車場付きの建物は建てられません。
これ以外にも「倉庫」に関する規定もあったのですが、この法文には少し首を傾げたくなる内容で、2階建ての建物に限ってその中に「倉庫(収納物品の可燃・不燃の種類を問いません)」があり、その床面積が200㎡を超えていれば、前文と同様に扉と壁に規制が掛っていました。
3階建て以上の建物であればこの規定は適用されませんので、この意味する内容は一体何なのだろう防火?・避難?の疑問が解けないでいましたが、削除されたので国民にとっては良き方向と言ってもよいのではないかと思っています。

 これ以外にも建築物の新築工事においては建築確認申請の交付(都市計画区域外で除外の建物もあります)を受けなければ建築物を建築してはならないこととされていますが、学校・映画館・保育園などの特殊建築物と称される用途であれば、現在建っている建物の内部を改築して使用する場合も床面積が100㎡を超えれば建築確認申請(用途変更)が必要とされていました。
しかし、この法文中の「100㎡を超える→200㎡を超える」に改正されたのです。
100㎡とは10m×10mの大きさで、坪数にして約30坪の面積です。
ビルの中に企業型の保育園を設けようとすれば、100㎡の面積では十分に余裕を持たせた企画が出来ず手を焼いていましたが、今回改正されましたので少し良き方向へ舵が切られたかと感じています。
これで、200㎡以下の面積であれば建築確認申請(用途変更)の交付を受ける必要はなくなりましたが、届出は必要なので、確認申請から届出に変わったという事になります。
この建築確認申請(用途変更)から届出への変わりは大変に大きく、私達設計者の業務の内の大部分を占める設計内容に変わりはありませんが、建築主が負担を強いられる「審査手数料・完了検査手数料」が必要でなくなり、審査機関が行うグズグズと言い掛かりにも等しい「いちゃもん」に付き合わなくて良くなりましたので、時間が有効に使えるようになりました。
でも充分に余裕を持たせて100㎡を超える広い面積で企画を行い、同確認申請(用途変更)を提出すれば良いではないかと言われそうですが、費用と時間がもったいないのです。
10万円に近い費用に加え、1ヶ月以上の審査期間を必要とされるのであれば、出来れば避けたい と思うのが設計者の良心であろうと考えてしまうからで、特に期限が決まっている場合(補助金申請)などではとても助かります。
保育園などでは工事が終わらなければ、補助金は疎か開園まで出来なくなる憂き目に会うからです(認定保育園などでは他に所轄保育課の検査に消防の検査もありますのでねぇ)。
建築確認審査機関は建築主の都合に合わせて残業をしてくれたり、建築確認検査済証の交付を早くしてくれることはまず皆無に近く、相手任せの世界なので、こちらの努力も誠意も全く通用しない情けない形態なので、少し気持ちが楽になりました。
 
 さてと、改悪と言わなければならないようなこともありまして、その法文が削除された時期と前後して、ある企業の不良工事の発覚が世間を騒がしました。
その法文とは建築基準法施行令第114条1項1号2号に規定されている共同住宅・長屋の住戸間「界壁」と言われている部分のことです。
住戸間「界壁」とはマンション・アパート・長屋など、入居者同士を境にしている壁の事を指します。
「界壁」と呼ばれるこの壁の仕様は防火に関する仕様よりも厳しい対応が求められていて、施工業者泣かせの面倒臭い工事ではありましたが、入居者にとってはとても良い構造のものだと捉えていました(遮音・防音が主たる目的で作られた法です)。
この法律が削除されたころ、友人でもあるシステムエンジニアの方が当社のパソコンの不具合を修理に来てくれていた時のことです。
「いやぁ以前長期の出張でRパレスの一部屋を借りていた時のことです。玄関の呼び鈴が鳴ったので玄関に出てみると、隣の住人の所でした。でも自分のところが鳴ったほどに大きく聞こえたので、それが理由でしたか・・・納得できました。」と話していました。
そうです、この「界壁」の手抜き工事で日本全国に何万戸もの不良物件を造って稼いでいたあの会社のことです。
恐らく信じられないほどの巨額の差額金を手にしたはずで、これは明らかにアパートの建て主に対する詐欺行為です。
通常であれば、倒産しても不思議ではないほどの補償と改修工事費になるはずであったが、倒産の話を聞かないし、糞蝿報道者達も何ら報道すらしなくなった。
それもそのはず、確か報道各社がこの違法工事を報道し始めて暫くたってからのことだと思いますが、この「界壁」の部分の法文が削除されたのですから、それまで違法であったものが、少し手を加えるだけでその日を境に合法に変化してしまいました。
これでRパレスの建物は僅かな改修工事の費用で済むようになったと思います・・・一体何なのでしょうか、この時期にこの法文の削除です。
国交省の天下りを数名でも受けているのではないかと勘繰りたくもなるし、仮にそれはなくても他の大手プレハブ各社も同じ様なことをしていて、それの目隠しに利用されたのではなかろうかと思わざるを得ない私は、やはりひねくれていますかねぇ。
しかし、燐家の声や音がまる聞えの部屋で、男女間の睦み声まで響き渡るのでは、性犯罪の増長にまでなり兼ねないことなどお構い無し!で、これは不眠症大量増産政策ですか。
企業を助けて国民を殺すようなことを平気でやる霞ヶ関ではねぇ・・・令和の信長早く出てきて何とかしてくれえ~。



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「酔龍の独り言:その005」

 少し前にスウエーデン在住の10代の少女が地球温暖化による気候変動の危機を訴える防止活動を始めていて、国連で演説をした記事が大きく取り上げられていた。
この少女は日常の移動に伴う交通手段でも飛行機には乗らず、鉄道や船を利用していると言い、飛行機は大量のCO2を排出するので、講演先のアメリカに向かう手段としてヨットを使って大西洋を横断するということが報道陣達に受けたのであろう。
確かにヨットでは殆どCO2の排出は無かろう、しかし大西洋を横断するには15日も掛けなければならず、数名の乗組員やヨットの手配に加えて、それに掛る人件費を含めた費用をどのように考え捉えるかが論点から抜け落ちてはいまいか。
ヨットなど一般人が通常の移動手段として利用するには余りにも現実離れしているのに、この部分は蔑ろにされているし、飛行機が大量のCO2を排出するのは事実として、しかし所要時間は乗客2百名以上を乗せて、僅か1日足らずであろうと思われるのに、一般人にとってヨットは非現実的として、もし千名以上が乗船可能な客船で移動するとすれば一週間程度を見込まなければならいのではないかと考え、それに必要な動力が排出する乗客数一人当たりのCO2量との比較検証もしないで、この話題を取り上げる報道者達の軽薄さには呆れてしまう。
地球温暖化の犯人は人間が便利さを追求することによって生じるCO2の排出であろうと言われているが、これは消去法による結果であって、確証では無いとの説もあるようです。
結果CO2が地球温暖化の真犯人だとして、その大量輩出の元凶は間違いなく「車」であると私は考える。
車一台と飛行機1台が年間に排出するCO2の量はとても比較対象にならないだろうが、全世界のそれぞれの稼動の台数を掛け算すれば圧倒的に「車」のほうが多いように思われる。
この報道はある意味話題性があるだけで、未だ無知な子供が一面だけを見ての行動を必要以上に賞賛する報道者の姿勢はとてもいただけるものではありません。
(念のため申し添えますが、この少女の活動を否定しているわけではありませんからね)

最近「双龍物語」に力が入り「酔龍の独り言」が疎かになっていましたので、今日は一気に書き上げます。
 少し前にまた新しい「宝くじ」ハローウインの発売が開始された。
テレビの宣伝も盛んにやっていましたが、芸能人や落語家を起用し「買わないと言う選択肢は無いやろう」とまで言わせていましたが、因果関係から言えば確かに買わなければ当たらない「宝くじ」ですが、結果から言えば買っても当たらないのが「宝くじ」です。
それは皆さんも良くご理解しておられることと思いますが、金の無い一般国民の射幸心を煽り、今以上に金を集めようとする自治省のいやらしさは如何なものであろうか。
宣伝に出演している芸能人や落語家には2等か3等の当たりくじ程度?いやそれ以上の金額が支払われているかもしれないのに、それでも買いたくなるのを射幸心と言うのだそうですよ。
 
何度も同じことを口にすることになるけれど、今回の関西電力経営陣のお粗末さと矜持のなさには呆れてしまい、言いようの無い寒々しい気持ちになってしまいました。
商売には「三方良し」の原則があると一昔の事業家は言っていまして、確か「客良し・店良し・自分良し」だったと思いますが、お客に喜んで頂き、店(看板や社員)に対しても恥ずかしくなく、それから最後に店主である自分も良い状態を維持することが商売の基本であると言う意味だそうです。
一人で商売(事業)を始め、仕事と金の苦労に人の苦労、役人の股の下を潜るような思いを強いられる状況を何十年にも渡って続けながら築いた信用と育ててきた社員が何ものにも変えられない財産であると自覚しているからこそ、自然と己の心の中に「矜持」のようなものが湧き出てくるものなのだが、苦労が全く無いとは言わないけれどもサラリーマン社長にはこれが無いし、してきた苦労の質が全く異なることの理解は到底できまい。
だから「越後屋お主も悪よのぉ~」が通常感覚を逸脱している事柄であるにも拘らず、単なる謝礼であり、風通しを良くする為に仕方なくしたのだとの方便が罷り通って居直れる。
重ねて言うが「特に大企業の経営者・役人」は世人の手本となるべき事業形態と人格を現わさねばならず、立身出世を果たした人物や権限を持って人の上に立つ立場にある者の「義務」であると思いますけどねぇ。

 安部総理の今回の台風19号の被災地・被災者に向けた発言をテレビで聞いたが、その内容は確か「省庁から150名を被災地に派遣して復興の支援を行うようにしていますし、復興には7億円の予算を組んで・・・・」であったと記憶している。
省庁の役人が被災地に行ってボランティア活動をするというのなら、総理の発言は有難いと思えるのだが、現実はそうではなくて、役人が被災地に行くと言うことは地方の自治体に行くことであり、被災地に足を運び被災状況を見て、直接被災者と会って現状の不便や困りごと、要望を聴いてその手助けをすることではないのだ。
被災を受けた自治体は中央省庁の役人が来れば接待をしなければならず、それに時間を取られてしまっては復興業務が疎かになることにも繋がるだろうから、返って迷惑なことと思っていることだろうと想像する。
組まれた復興予算7億円も何日居るのか判らないけれど、役人の出張旅費(日当として課税対象外)と旅費・宿泊費で幾ら消えてゆくのだろうと思うと情けなくなる。
片や日本中から集まっている支援のボランティアの方々は旅費・宿泊費を含め全てを手弁当で持って泥まみれになりながら活躍しているし、外国のラグビー選手は試合が延期になったからと言う事で、やはり泥まみれの顔をテレビに映していた。
これが日本の政治と役人の仕組みを見事に物語っていると言って良い現状ではなかろうか。
綺麗で美味しいところだけ役人はつまみ食いをし、汚くて重労働の部分は国民の善意に甘えている現状では、きっと恥ずかしいと言う意識など持ち合わせてはいないのだろう。
「越後屋お主も悪よのぉ~」を口にする悪代官を懲らしめるため「この印籠が目に入らぬか!」の決め台詞を言う黄門様は現在の千代田町にも桜田門の辺りにも居ないのだから世も末だということだ。

消費税が10%となって、複雑極まりない課税方式に商店も消費者も困惑している現状下であるが、ペイペイなどと言う訳が判らない支払い方式だと消費税の一部が還元されると言う政府の方針には何が目的なのか輪をかけて判らない。
カード会社への利益誘導なのかスマートホンの普及が目的なのかもあやふやで、これらを普段使用していない年寄りは戸惑っているけれど年寄りは、だからと言ってカードを購入(するものなのかしら)?したり俗に言うガラケーをスマートホンに替えたりはしない。
現金での支払いとカードやスマートホンを使っての支払いに何の差があると言うのだろうか?何故現金の支払いだと消費税の還元が受けられないのか、政府の真の目的とは一体何なんだろう。

 NHKのニュースでの話しですが、経済面で株価などを知らせる囲みがある。
外国の為替やアメリカでの株価は口頭で伝えるが、日本の株価は画面で表示されるだけである。
これは何故?だろう、私は株を扱うことが大嫌いなのでどうでもよいことではあるけれど、盲目の人が株価に興味を持っていたら不親切だと思うがねぇ。
副音声で知らせているのかもしれないが、日本の報道社が日本の株価を口頭で伝えず、アメリカの株価は口頭で伝えるのは何か深~い理由でもあるのだろうか。

 最後に女の教員が後輩(イケメン?)を同僚と一緒になって苛めていた件などは現在の日本の恥部を象徴しているような事象ではあるまいか。
真偽は定かでないけれど、中年女の欲情が発端で悋気によるものだろうとの記事を目にしているが、生徒の虐めが社会問題なっている中で同僚を巻き込んでのこの行為はとても看過できるものではないし、大人として恥ずかしい気持ちが生じないのだから呆れてしまう。
またその者を指導監督する立場にあるはずの教頭・校長が取っていた対応や処置も記事で読んだけれど、税金で生活を成り立たせている地方公務員の自覚も無い輩達と言われても仕方の無い有様で、これでは生徒による校内の虐めを無くす事など出来るはずもなかろう。
これが大人と言われる立場の人物が構成している今の日本である。
良き昔の日本は一体何処に行ってしまったのであろうか。
これに関連しているかどうかは判りませんが、NHK朝の連続テレビ小説は少なくとも過去数件共に高視聴率を維持しているようです。
そして、その時代背景は全て戦前から戦後に掛けての物語となっていたことに気付いておられるでしょうか?貧しくとも物が無くとも不便であったけれど生き生きとして人が人として生活していた良き時代であったから皆がその心を取り戻したい、あの時のような社会に戻れるものなら戻せたいと思っているからではないでしょうか。
余計なことを一言言わせてもらえれば、現在の連ドラの題名は「スカーレット」欧米人の女性の名前ですよね。陶芸家を目指す日本の女性が主人公なのに何故この題名なのだろう。



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「酔龍の独り言:その004」

 今年の広島は結局のところ梅雨が無くて、台風による雨が降った後に突然夏が来たという感じで、これまで規則的な周期を繰り返していた気候が近年少し変になっているのではないかと思えることが多くなりました。
地球規模で天変地異が起こる前触れで無ければ良いのですか・・・。

 久し振りに書店で本を探していたところ「養老猛」氏の本(題名は「遺言」)を見付けて手に取り、頁をめくりながら中を拾い読みしたところ興味深そうな内容に思えたので購入した。
しかし内容はとても遺言とは思えないようなもので、氏にとっては最後の著書という意味合いなのかも知れないと感じましたが、氏の伝えたいと思われる遺言の内容は哲学書だと感じられるようなもので、読み終えたらもう一度読み直したいと思えるほどの記述でした。
このような本を上梓し無知な私に啓蒙を与えてくれる養老猛氏に感謝の意を表します。

 さて、私の愛煙は十六歳の時より始まって、今年でもう五十三年の付き合いになってしまいました(今の時代では自慢にならない話ですけど1日40本程度は体が要求します)。
これまでは事務所の中で喫煙をしていたのですが、諸事情を鑑み数年前からは事務所の中では吸わず1階の駐車場に下りてタバコを飲んでいましたが、今年に夏は余りにも暑くて、外でタバコを吸っている間が苦痛に感じられるようになり、3階にある事務所の窓から顔を出してタバコを吸っていた時のことです。
三十代前後と思われる女性(母親であろうと思われる)に手を引かれて歩いた女の子の上向き加減に笑っている顔が見えたのです。
明らかにダウン症の子供だと思ったけれど、その仕草と笑みに例えようのない美しさを感じた。
もうすぐとても楽しいことが待っているのだろうか、少しはしゃぎ加減で歩く姿とその笑みは穢れ無き微笑みと表現しても言葉が不足しそうなほどに心を震わされてしまいました。
今思い出しても、目頭が熱くなり心が締め付けられるような感情が湧いてくる。
この親子に幸多からんことを祈る以外になす術がないのだけれど、自然は時折人に対しても惨い仕打ちをするものだと改めて考えさせられた日になりました。

 先日の朝のこと、バスでの通勤時につり革を持って立っていたところ、三十五才頃と思われる男性に席を譲りかけられました。
見た目で頭は薄くて、残った髪は真っ白では仕方がないかと・・・思えども、本人にとっては衝撃的な出来事で、何だか人生が終わりに近づいたような気持ちにさせられました。
でも思い遣りのあるこの男性に感謝します。




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「酔龍の独り言:その003」

 広島は入梅宣言から2週間が経とうとしているのに、雨は降らずに晴天が続き、ダム貯水量は二割を下回る状況下となり、今後渇水が起こりそうな気配の中、数日前から夏が来たかと錯覚した蝉まで鳴き始めました。
七十年近く人生を歩んできましたが、今まで経験の無い初めての気候を体験しています。
 
さて、もう報道者達は過去のことのように報道をしなくなりましたが、忘れかけた頃に、何かを言いたくなるのが、本ブログの特徴なので、今日はこの話題から。
香港の「逃亡犯条例」の改正(悪?)に対して市民が引き起こした大規模なデモです。
恐らく容疑者の段階から「身柄の引渡し」を中国政府にまで対象国を拡大したことによる恐怖と不安が起こした結果であることは明らかであるが、何故そうなる?と問われれば、中国政府は正当な裁判を行わないからに決まっている。
中国共産党による裁判は、理不尽で惨い判決結果を出していることを世界中の人が知っているし、その判決内容は良識に基づいたものではないことも知っているからに他ならない。
小さな国でこれほどの大規模なデモは史上初と言ってもよいのではないかと思えるほどだが、日本で国会議事堂に相当する建物に乱入して肖像画や壁にスプレーでイタズラをしている映像を見たが、この程度で治まっているのは、やはりアジア民族が持つ特性であろうと想像する。
欧米ならこれに混じって起こるのが略奪行為だが、これは一件も報道されなかったように記憶する。
これで判るように市民全体が良識的であり、ただ単に政府の方針に対しての怒りが爆発した、少し行きすぎた部分のあった結果であろうと推測できる。
しかし、その結果、行政長官はこの行為を「暴力的な行為であり、非難する」の声明を出したけれど、そこだけを捉えれば確かに暴力的行為に該当するが、立場を変えてみれば、政府が行おうとしていた「逃亡犯条例」は市民に対して明らかな「暴力的行為」ではないのかと言ってもおかしくはあるまい。
権力と力を持たない一般市民が政府の横暴に対して訴える手段としてのデモを行っていた中で、群集心理に捕らわれ多少興奮した一部の人によって起こった突発的軽微な破壊活動と思われる行為をみて、これほどまでに反感を買っているのかと反省もせず「暴力的な行為であり、非難する」は市民を市民と捉えていない証拠でもあろう(何処の国の為政者も同じ資質か・・・と寂しくなる)。
略奪行為も無く死傷者を出していることも無いようですから、真に「法改悪」を止めたかっただけであることは容易に想像がつくけれども、強大な軍事力を持つ中国政府から押し付けられた台湾政府にとっては断ることも出来ず、対抗する術も無かったのであろうと思えば気の毒でも有るが、若しこのデモを中国政府の圧力に対抗する手段として台湾政府が裏で糸を引いていたとしたら、見事!と言わざるを得ないが、実際のところどうなのでしょうかねぇ。

日本では参議院の選挙活動が始まり、早朝より雑音が街中に鳴り響き、暑い上に鬱陶しいことこの上ない季節となってしまいましたが、どうやら争点は消費税と年金のようです。
与党を代表して総理は「年金に具体的な案を示さず、野党は国民に対して不安ばかりを煽っている」と言い、その解決手段は「強い経済を作れば年金の財源も守ってゆけるし、年金も増やせる」と言っていた。
優等生的な内容ではあるが、これも詭弁に近く総理だって「具体的な案」は出していない。
案として言葉に出した「強い経済」とは具体的な案ではなく、抽象的な表現であって、どのようにすれば「強い経済」に出来るかを言葉にするのが具体案である。
このように言葉巧みに国民を煙に巻く手法は見事の一言に尽きるが、なに!年金問題などの解決は簡単なことですよ。
過去に官僚が無駄使いで無くした年金10兆円を官僚の給与と退職金で補填させることに加え、無駄使いの温床となっている天下り先を全廃すれば一気に片付くことです。
勿論のこと責任は大きく国会議員にもある訳だから同じ様に議員定数削減に加え与野党を問わず歳費を減らして、国民に対して責任の一端を明確にすること以外にないではないか。
口でもって言葉巧みに国民の意識を逸らして、都合よく誘導し、ちゃっかり議員年金を復活させようとしているようでは、その性根に賎しさに反吐が出そうである。

 野党などはもっと滑稽で、「蓄えが2000万円無くとも安心して暮らしてゆける社会に一歩も二歩も進めて行ける・・を目指して選挙を戦っている」とはこれ如何に・・でしょう。
お粗末極まりない内容で、党首の発言とは思えないほどに酷く、概念論にもなっていない空論に近いものである。

最後にもう一つ、とても良い話を最近ある方から聞きましたのでお伝えします。
ロシアで学校の先生をしている非常に日本語が堪能な方(ロシア人ですよ)と食事をした時のこと、その人が「日本の学校教育は一体どうなってしまったのですか?」と聞いてきたそうです。
ロシアでは以前の日本の教育を見習い「黒板の横には、先生とご両親を敬いましょう」「年下の生徒や弟妹を労わりましょう」などの文章が箇条書きで掲示されていて、毎朝生徒全員で斉唱していると言うのです。
そして、先生が教室に入ってきた途端、生徒全員が起立し、挨拶をした後、先生の「着席」の声が出てから座るそうです。
私達団塊の世代がかつて学んでいた小学校の教室を思い出しました。
今の日本は本当に良い方向に向かっているのでしょうか・・・疑問だらけの日本国を大きく舵を切り直す指導者を待たなければ、最早この国の未来など無かろうと暗澹とした気持ちになりました。




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「酔龍の独り言:その002」

 高齢者の自動車事故が多発している。
その原因の殆どは運転操作の間違いや、標識などの確認不足にあるようですが、年を重ねるごとに人は記憶力・体力・判断力・瞬発力が衰えてくるのが自然であり、人によって大きく個人差が生じる分野ではあろうが、これを止める事は出来ない。

 報道各社も何かしら「高齢運転者の事故報道」を多くしているような気がして、気になっていたのですが、つい先日のこと有名芸能人が75歳の運転免許証更新前に返納した映像つき報道があった。
つまり、高齢者は運転免許証を返納しろと煽っていることに他ならない(恐らく政府や警察関連の要請があってのことと想像している)。
誰でも年を取ってまで危険が付きまとう車の運転などしたいと思うはずも無いと想像していますが、車が無くては日常生活が出来ないような社会にしてしまったのは一体誰だ!。

 戦後に日本が国を挙げて目指してきた「便利さ・快適・豊かさ」の追求だが、これに「経済効率」が加わるようになってから、ちょうど日本の東京に官民(経済界)問わず全ての中枢機構が集中する一極集中型都市機能が出現した。
東京に行けば、そこにはすべての機能が集約されているので何でも出来る・・・便利で効率が良い・・・と益々この型は勢いを強めて現在に至り、その流れは今も変わっていない(これまでに何度か地方に省庁分散の動きがあったけれど実現はしていない)。
これを成功だと錯覚した官と経済界は同じことを地方において企てるようになる。
それが、郊外(公害)型の大型スーパーマーケットである。
大店法(大規模小売店舗法:昭和48年に制定・翌年施行)という法がかつてあったけれども、26年後の2000年(平成12年)に廃止されている。
廃止されたこの大店法では「地元の中小小売店を保護する目的」も含まれていたが、アメリカからの圧力もあり、現在は大規模小売店舗立地法に取って代わられている。
大規模小売店舗法に代わって制定された大規模小売店舗立地法だが「立地」が付け加えられただけの法名で、何だか良く判らないけれどもこの法には「地元の中小小売店を保護する目的」は謳われていないので「シャッター街促進法」の方が良かったのでは・・・。
制定時までに至る経緯では「中心市街地の体力が強化されるのを待ってから」と但し書きがあったようですが、その僅か2年後には法を制定させている。
と言うことは僅か2年で地方中心市街地の小売店舗の体力が強化したという事になるが、税法も変えず・補助金の支給も皆無では、出来るわけも無いのに、絵空事を平気で言葉巧みに並べてその場をやり過ごし、国民の意識が薄れた頃を見計らって、ちゃっかりと思い通りの法を成立させる狡猾さは世界中を探してみても皆無に近いと思えるほどの詐欺集団である。

「おれおれ詐欺」は犯罪者の行為で、やっている本人の意識も犯罪であることは承知しているはずだが、これより性質が悪いと思う。
東大出の官僚達が考えるのだから、頭の悪い「おれおれ詐欺」集団では勝負にならず、言葉の巧みさでは到底適うはずも無いのだけれども、犯罪者の意識が無いことが大問題ではないでしょうか(人間の質を比べたら・・・どうだろう?)。

大型店舗は確かに「便利さ・快適さ」においては申し分ない機能と品揃えがしてあるので、誰もがその魅力の虜になり、その陰に隠された悲惨な結果を想像もしないうちに日本全国津々浦々に出店が繰り返され、現在に至っては古くから親しまれてきた人情味溢れる商店街の店舗にはシャッターが下ろされ無人の商店街が出現した(現在地方の小中都市の町中では人が歩いている姿を見ない)。
町に商店と商品が無くなってしまえば、人は品物を求めて町中を歩くことを止めるのも自然な流れである。
このかたちは車社会の先駆者であるアメリカでは早くから顕在化し、地方の個人商店が壊滅的打撃を受けた結果を、まさか外務省まで持っている頭の良い官僚や大型連休には必ず海外へ視察旅行する政治屋達が知らなかったことはあるまい(と言うことは、やはり観光旅行だったのだろうか)。
若し知らなかったと言うのなら、不勉強極まりないし、税金で禄を食んでいる資格があるとは到底思えないと考えるが、如何であろうか。
公害型スーパーマーケットが齎した害は地域の「人情の決如」「学歴型社会」「無人の町並み」に加え「食品添加物」「遺伝子組み換え食品」などであろうか・・・。
便利さと快適さに加え豊かさの感覚は人の心に齎す「快感」ではあるが、これは「形態の快感であり」同時に「質の快感」にはなっていないことの方が多い。
 例えば「銃・車」などがその典型的な道具であろう。
アメリカでは銃による乱射事件が後を絶たず、日本では(一般人は銃が入手できないので)刃物による殺傷事件が同じ様に起こっているし、車による悲惨な事故?を招いていることも元を糺せば同じ質の部分の欠如が垣間見える。
 鋭い牙も爪も持たず、柔らかい皮膚で覆われた体しか持てない人間が、猛獣を相手に大型の獣と戦うことなど出来ようはずも無いことではあるが、知恵と工夫で「槍」を持ち「弓矢」を持つようになり、現在は「銃」を持つまでになった。
「銃」を持つようになった時点で人は恐ろしいほどの力を得たと錯覚し、やがて傲慢の芽が心の中に生じ、やがて見事な傲慢花を咲かせてしまった・・・現代人の心の中身。
「便利さ」が進んだ究極が「銃」になり「快感」を得るようになったわけだが、「銃を持つ」「銃を撃つ」ことは「形態」であり「何故銃を持つ」のか「何ゆえに銃を持たなければならないのか」「何故に銃を撃つ」のかが「質」の問題である。
刃物も車も人の身体能力を遥かに超えた道具なのに、これを手にして簡単に使うことが出来るようになってくると、あたかも自分の身体と同化し、我が体に強大な力が備わったような錯覚に陥るので、自己中心的な考え方になり、排他的になり、攻撃的になる。
「形態」だけで物事を判断し行動すると「気違いに刃物」に等しい行いを人が取るのは一種の性かもしれませんが「質」を同時に持ち合わせることがその抑止力になるのに、欧米人ならいざ知らず、日本でも「効率」や「経済性」を最優先して「質」を疎かにしているから、何をやっても物事が旨く作動しなくなってきている。
 銀行や携帯電話販売会社の窓口では「当の本人」より「必要な書類の提示」の方が大事では、本末転倒な社会が出現しているのに誰も異を唱えず辛抱していること自体が異常な社会だと何故気付かないのだろうか。
これら窓口で「当の本人」が持参した預金通帳と印鑑より「運転免許証や健康保険証」の方が信頼に値するとされる事自体が「形態」と「質」の取り違えなのに、これが罷り通る日本は既に病んでいるとしか言えまい。

子供の教育も然りで、子供に「本質」を学ばせることや「量(形態)」と「質」の区別を解からせ、自分でものを考え、文を作り、価値観を構築することよりも、文科省の教育方針に従った薄っぺらな受験対策の表面的な教育を与えることのみに専念させ、問題を生じさせず事故なきことの書類を作成すること方を大事とするのでは将来の日本を背負って起つ子供達が良き日本人として育つことは無かろう。

戦後七十余年「便利で快適で安全で豊かな」生活を手に入れたようだけれども、失ったものの方が遥かに大きいと思うが、当の大人が目くらましに遭い、そのことに気付かないでは、日本の将来は暗い。
今回より「縦のものを横にした」不思議な物語「双龍物語」も次頁に掲載しています。




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「酔龍の独り言:その001:序段の1」

 令和最初のブログ更新になりました。
更新期日が迫ってくるので、早く更新を・・・と思っていたのに、このところの朝夕の寒暖差に注意をしてはいたのですが、風邪を引いてしまい発熱→寝込みました。
仕事も依頼が重なってしまって忙しくしていたところなので、気が急くばかりで、更新がギリギリとなりました。

 世間を騒がせる元凶はいつまで経っても、やはり政治屋と官僚達では心が荒んできます。
昨日の新聞に報道されて知ったのだが「公証人役場の公証人の斡旋を、事務次官になれなかった人物を主体に行っていた」とあった。
公証人の年俸は二千万円を上回る高給(官僚の報酬と同等以上)だそうである。
担当省は、公証人については広く一般から公募をしていると嘯いているようだが、実態は新聞記事の通りで間違いなかろう。
しかし、どうして官僚達は自分の身の保全と退職後の安泰を謀ろうと考えるのだろう。
自らが手を挙げて国のため・国民のためと気負って就いた仕事ではなかったのか・・・巧妙に数え切れないほどの天下り先を作り、税金で我が身を養うことばかりを考える輩達の資質を疑いたくなる話ばかりである。

 政治屋の発言で北方4島返還については喧々諤々の様を呈しているが、大東亜戦争の終戦のドサクサに紛れてロシアが占領したいわくつきの島々であり、話し合いで返還できるものなら、とっくに返還されているはずだが、返す気など毛頭ないという事であろう。
ならば戦争でも・・・の気持ちが湧いてきた当たり前なのだが、今の日本では「戦争」と「タバコ」は口にしただけで「犯罪者」扱いですからねぇ。
何処か狂っているとしか思えません。
略奪者に言って聞かせれば改心するなどが通用する甘い世界構造でもあるまい。
ロシアや北朝鮮・アメリカにそう言えば改心するか?する訳が無いことは明らかである。
さて、このような社会情勢で日本が取るべき道は・・・と想うのだが、政治屋と官僚がこの有様ですからねぇ。

さて、急拵えの更新になりましたが、アメリカと中国の核戦争の危機が迫ってきています。最初に核を打つのはアメリカですが、次回からこの辺りのことを小説まがいにしてブログに乗せてみたいと思っていますので、宜しくお願いいたします。 




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「窮屈になった日本~その103」:調和の取れた社会へ  その58

 平成最後のブログ更新になります。
思いとしては、懸案であった鉄骨造3階建て共同住宅の確認申請書が交付されたので、これに関して「くたばれ建築基準法・追録」の続編を書きたかったのですが、平成最後という事で、平成の纏め編にしたいと思います。

 平成年代となって一番印象に残ることは「消費税」ではないかと思います。
平成元年4月1日に導入された(押し付けられた)消費税3%以後、5%になり、現在は8%まで値上げ?されて、令和元年には10%にしようと政府(陰で目論んでいるのは恐らく官僚であろう)はその気になっている中、ある副大臣が「消費税の延期も考えられる」と個人的発言をしたとして、物議をかもしているが、消費税を導入した目的は何であったのか皆が忘れてしまっているのではないか。
「財政再建」が目的であったはずなのに、消費税導入後も国の借金は増え続け、消費税を2度値上げしたにも拘らず、借金はいまだに増え続けている。
1年間に民間が支払う消費税の額は3%でも莫大な金額なのに、5%・8%と恐ろしいほどの金額となっても、一向に財政再建が進まない。
一体この莫大な消費税はどこに消えているのだろうか・・・。
少なくとも私達庶民にとって消費税が上がり続けた結果で日常生活が過ごし易くなったとか、便利になったとか、地方の「シャッター街」が「シャッター開」になったとかの話も聞かないし、高齢者の多い過疎地の交通の便がとても良くなった話など聞いたことがない。
逆に「窮屈になって仕方がない」の声の方が圧倒的に多いのは一体?どうしたことか。
税の仕組みは支払った国民の利益(金銭ではありません)として還元されるのが本筋であるはずだが、どうやらその多くは霞ヶ関関連天下り先ばかりに流れているようだし、国民を犠牲にしてまで行う海外支援とアメリカへのご機嫌取りでしょうかねぇ。
でなければ、どこに消えた消費税でしょう。
以前もありましたが、今回も同じ様に「保育園・幼稚園の無償化」などと目くらまし作戦を行うようだが、お母さんあの約束した「財政再建」は何処に行ったのでしょう。
さすがに財務省は「土地」には消費税を掛けなかったが、殆ど消費が出来ないと思われる貴金属や美術品などにも消費税を課し、消費税を課すなら固定資産税を廃止するべき建築物など二重課税(本来二重課税は禁止のはず)も甚だしい。
政治家や官僚達は先進諸外国にはもっと高い税率が多くあると嘯いているが、その税の使い道については語らない・・・というより比較すれば恥ずかしくて語れないのだ。
形態ばかりを言って誤魔化すのが得意で、決して本質を語ろうとはしない本当に「ずるい輩」である。
この辺りの事は以前このブログに書いた記憶がありますが、平成最後のブログと言うことで、ご容赦いただきたいと思います。
「本質を語ろうとしない」についてはテレビの宣伝で嫌というほどに「嘘」を流され、本質から目や心を遠ざける手法は見事であるが、少し考えれば誰でも判ることなのに、馴らされると感覚まで麻痺するのでしょう。
有名で美人の女優や二枚目男優が車の宣伝に一役買っている姿を多く見かけるが、多分その車を買ったことはないだろうし、乗ってもいないのは明らかであると思われるのに「素晴らしいものだ」と思わせて購買意欲をそそる。
恐らく食べたことなどないと思われる「食材や食品」も同じ様に宣伝する。
今や、宝くじにまでが、その分野を広げ、購入していないことなど判り切っているのに「購入している」と映像を流す。
宣伝の出演者には1等の賞金額は無理だろうが2等か3等の賞金くらいは出演料で支払われているはずだから、確率から言って当たるとは思えない宝くじなど出演者はまず買わないだろう。
少し考えたら判りそうなものだと思うがねぇ。

 それと多くの有名一流と言われる企業が行った(これからもまだまだ表に出てくると思っているが)偽装・不正がある。
マンションの杭偽装に始まり・車・レオパレス・大和ハウスと社会の手本とならなければならない企業ばかりである。
以前から言っているように、TVや新聞に掲載している多額の広告宣伝費は全て該当消費者が支払った対価から支払われているものだから、その対価の中身は如何程のものであるか位はいくら素人さんでも少し考えれば想像がつくはずだ。
また、工事の中で不正をしなければ余分な不当利益(利益と言って良いのか・・・)を生み出せる訳がないことも想像してみれば判ることでもある。
量を見せ付け、形態のみで進めてくる目くらましに馴らされていると、いつの間にか騙されてしまうので、本質を見抜く目を養わなければ、政治家・官僚・大企業にいいように操られてしまう。
現在の日本社会が既にそうなってしまっているが、やはり日本は捨てたものではない。
これらに警鐘を鳴らし続けている人物は沢山いるが、一般人の我々の自覚が足らないことを反省すべきであろう。
 下らない馬鹿馬鹿しい話はさて置いて、最近読んだ本の中に是非とも皆様にも読んで頂きたい本を2冊御紹介したいと思いますので、未曾有の十連休に読んで見て下さい(前段の警鐘を鳴らしている方々の本です)。
一冊は「アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ:馬淵 睦夫・KKベストセラーズ」で、もう一冊は「日本が売られる:堤 未果・㈱幻冬舎」です。
お読み頂ければ「ぼーと生きてんじゃねーよ」と感じていただけると思います。


 月が明け、令和になってからは「雑感」を「酔龍の独り言」とブログの題を変えて書き続ける予定です。
題が変わっても、中身は変わりませんが、引き続きお読み頂き、人生の何らかの足しにしていただければと思っています。 





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「復活 くたばれ建築基準法:追録の13」

数年ぶりの「復活くたばれ建築基準法」です。 
何故かと申しますと、近年の「建築確認申請」に於ける「審査内容」が余りにも酷くて、これは審査の域を超え、最早「粗探し・間違い探し」と化しているので、その実態をお伝えしようと思い立ちました。
折しも、元号が「令和」となり、何とも言えない違和感を持っての更新となりました。
この「令」と言う言葉は「令月・令夫人・令嬢」などに使用され、良いという意味だと政府は言っているようだが、現在の日常生活では余り馴染みの無い使い方である。
特に若い人など令夫人と言ってもその意味が判らない人のほうが多いのではないかと思う。
「令」を辞書で引いても、良いと言う意味は出てこず、命ずる・お達しなど全てと言って良いほど行政がらみの言葉であり、何だかお上が下す命「令」に従っていれば、平「和」な生活を保障してやるとの、まるで上から目線の押し付け元号のような気がしてならない。
まぁ別に元号が何と決められようが人の名前と同じだから、文句をつけたいわけではないのだが「名は体を現す」と言われるように、もう少し馴染みがあり心が穏やかに感じられるような元号にして欲しかったと思うばかりである。
 さて、昨年より鉄骨3階建ての共同住宅(賃貸マンション)を設計し、確認申請書を審査機関に提出して2ヶ月近くが経とうとしているが、まだ確認済証の交付を受けていない。
一ヶ月以上の期間を費やして、意匠関係(建築基準を含む他の法令関係)の審査は一応終えたけれど、現在は構造計算適合性判定という構造計算の審査を受けているところです。
姉歯建築士の事件以来、建築確認の厳格化が叫ばれ、審査が厳しくなったと皆さんもお聞きの事と思いますし「厳格化=厳しい審査」と聞けば、詳しく設計内容を審査しているとお思いでしょうが、これはある意味間違いではないけれど、審査内容が全く違った結果と化してしまって、建築主(俗に言う施主)・施工者・特に設計者には余り意味の無い過大な労力と時間に費用を掛けさせられている現状を少しお伝えします。

建築基準法第六条には「建築主は建築物を建築しようとする場合は、工事を着手する前に、建築基準関係規定に適合するものであることについて、確認の申請書を提出して建築主事の確認を受け、確認済証の交付を受けなければならない。(法文がとても長く括弧が沢山あって、一般の方にはとても判り難いので大部分割愛しています)」とあります。
読んでみても別段不思議なこともなく当たり前の法文で、違和感を覚えることなどありませんし、この法文の目的は「建築基準関係規定に適合するもの」であるか否かを審査する。
とありますから、適合しているか否かを審査していると思ったら大間違いなのです。

現実例として面白い話をしてみますと、木造平屋建て専用住宅の建築確認申請を提出した時のこと確認申請書の中に記載する欄に「4 建物等の用途」と言うところがあり、そこに「専用住宅(用途区分:08010)」と記載したら、確認申請の厳格化で「一戸建ての住宅(用途区分08010)」に訂正するように指導を受けた。
確認申請書提出時には、これ以外に「建築計画概要書」「建築工事届」と別な書類を作成して同時に提出するように決められている。
その内の「建築工事届」(第三面)の記載事項の欄には [ (1)専用住宅 ] と記載された項があり、民間が勝手に使用している文言ではないし、この項を見ると一体この様な表現があるのか?と思えるほどに難解な区分がしてあるのですが、文が長くなるので割愛します。
一体「一戸建ての住宅」と[ 専用住宅 ] とは何が違うのか?そして、この記載は何故法令違反となるのか?良く判らない。
確認申請は前にも述べたように「建築基準関係規定に適合するもの」であるか否かを審査する。であるのだから訂正させられると言うことは「法令違反」ということになります。
しかし、誰が考えてもこれが法令違反になるとは思えるはずもない事柄まで「言い掛かり」に等しい訂正が余りにも多く実は閉口している現状なのです。
この木造平屋建て住宅は「4号確認」と称され、確認申請を受理した後7日以内に確認申請済の交付を行わなくてはならないと法令で定められていますが、何か図面内容や記載事項に法令違反があると、その期間は延長される仕組みとなっていて、一度「確認できない旨」の通知を受けると審査期間は延長され、再度指摘を受ければまた審査期間を延長される。という一体何時になれば確認済証の交付が受けられるのか・・・。
と毎回のように時間の浪費と修正する紙の無駄使いには心が痛み面倒臭い手続きを強いられます。
この建物について言えば、まだ他に13項目の修正を要求されましたが、法令違反による訂正など一つもなくて、確認申請書の記載事項に係る事ばかりでした。
指摘事項が余りにも細かいので、その理由を聞いてみたところ、審査機関も行政の監査を受けるそうで、その指摘を回避するためだそうです。
だから最低でも8項目程度の修正を指示するように言われているとの話であった。
つまり、設計者が間違いをしないで設計図書を完成させているはずがない!との立場から考え、言っていることは明白である。
と言う事で、今や確認申請は法令に違反がなくとも、最低8項目の指導を受けることになってしまっています。これが確認申請の「厳格化」の実態ですから、建築主の経済活動を妨げ、設計者には余り意味を感じない指導・修正に多大な労力と時間に紙を浪費させていることが建築基準法第一条に掲げてある「国民の生命、健康、財産の保護を図り、もって公共の福祉疎増進に資する目的とする。」になっているとは到底思えないのですがねぇ。

 木造平屋建て住宅でこの様な実態ですから、階数が多く面積の大きい建物であれば、その審査期間の長さと言い掛かりに等しい訂正内容に想像を巡らせて頂ければと思います。
建築物の設計図書を完成させるには、数百種類の記号と種類別に分けて表現する線に加え、文字と部分的に色づけまでして判り易いように表現します。
文字数など数十万文字・線の合計長さは日本縦断できるほどありそうで、図面枚数も判の大きさにもよりますが木造住宅でもA2判(新聞の閉じた大きさ)30枚・少し大きい建物になると100枚以上は普通に書き上げます。
その図面に記載した文言に不備(今はパソコンで図面を描きますので、入力間違いなどが起こります)があれば、別段法令に違反しているような内容ではなくても訂正を強いられます。
だから、最早確認申請はもう「申請」ではなく「許可」に等しい実態と化してしまいました。
指先に目が付いていれば、この様な間違いは起こさないのでしょうが、手書きでは起こらないような不思議な変換や記載違いが時には生じています。
勿論見直しも行っていますが、なんせパソコンがやった仕事は印刷物(本などと一緒で間違いがないという先入観と錯覚が起こってしまいます)なので、自分で書いた図面中の間違い探しは困難を極めます。
などど、言い訳をしても始まらないのですが、なんだか人間的でない嫌な世の中になったと感じてしまいます。





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「窮屈になった日本~その102」:調和の取れた社会へ  その57

一ヶ月が経つのが早くて、気が付けばブログ更新期限が迫っていました。
1月16日に引越しをしたので、現在はバス通勤になりまして、以前は徒歩5分足らずの通勤でしたが、今はバスで約10分程度かかります。
でもバス路線の便がとても良くて、これまでにバスに乗る待ち時間で5分以上待った経験は無く、とても有難く感じています。
 実は引越しの際に書籍の整理をしていたところ、本にカバーが掛けてあるままのものが2冊出てきまして、気になって中を見たところ、どうも読んだ記憶が無い感じで、本の中の文に黄色のマーカーが一切付いていない。
私は太芯のシャープペンシル・ボールペンと黄色のマーカーを絶えず持ち歩き、本を読んでいる時に読めない漢字や意味の解からないものに出くわすと、そこにマーカーをして、後に調べることにしている習性があります。
ということは、未だ読んでいなかった本で積読をしていたのだと、少し恥じました。
 その内の1冊の題名は「恥と無駄の超大国・日本:落合信彦 著」でした。
その時は読みかけの本があったので、読み終えてから直ぐにこの本を読み始めたところ、何と!本の内容は私のブログ内容と同じで、驚くやら、感心するやらで(隠れ手前味噌になっていますねぇ)、嬉しく感じたような次第です。
しかし、私のように漠然とした記述ではなく、数字に裏付けされた説得力があるもので、本当に「良く調べているものだ」と感心して、この本いつ出版されたのだろう・・・と本の最後頁を見てみると、2000年8月1日小学館とあり、今からだと約20年前に出された本である。
彼が警鐘を鳴らし、議員や官僚について戒めていたにも拘らず、20年が経っても全く良き方向に向かわず、かえって当時より酷くなっている感さえあるのは一体どうしたことか。
やはりこの国の議員や官僚は「恥」「自省」と言う言葉を知らないのだと認識を新たにした。
 話は少し逸れますが、この本のことを親しい友人に話したところ「落合信彦」は作品をゴーストライターが書いていたとかで非難を浴び、今では書籍コーナーも無くなっているとの話を聞いた。
そう言われてみると確かにそうだなぁ~と思ったのだが、彼が国を想い、憂う心に偽りがあったわけではなかろう。
もしかして・・・私のブログと同じで、霞ヶ関や千代田町辺りから何か仕掛けられたかも知れない・・・と頭を過った(真偽のほどは定かではありませんが)。 

 さて、毎回同じ様に議員・官僚について書いても現状はこの有様ですからねぇ。
視点を変えて、その後に気になっているTV編を少しお伝えしてみます。
放映内容の趣旨が悪いと感じているわけではないが、日本人の善意を巧みに擽り(くすぐ)、寄付を募ろうとしている団体がある。
日本における戦後の話に遡りますが、私達団塊の世代が小学生の頃のこと、給食では必ず「脱脂粉乳」をお湯で溶いた飲料が出されていた。
別段美味いとか不味いとかの感覚は無く、出されたものを食する感覚だった様に記憶する。
この「脱脂粉乳」だが、子供の頃の記憶で曖昧ではあるが、アメリカから支援(無償ですよね)して貰っているものだと聞かされていたように感じていた。
しかし、ある本からの知識では、あれはバターなどを生産した残りかすだから、本来アメリカ国内では処分(費用が掛かります)をしなければならないものなのだが、日本に押し付けて買わせていたとあり、一石二鳥を狙ったということだった。
誰の著書の内容であったのかはっきりと思い出せないのだが、確かアメリカの公文書の中には、この件が記載されていると書き添えてあったように思う。

 斜め的な思考をすると「脱脂粉乳」だけが本当に欲しいのであれば、日本の企業がバターなどを製造した残りかす(費用を掛けて処分しているのか、他に有効利用しているのは不明だが)を貰えば済むことであって、日本の国民から寄付を募ることではあるまい。
もしかして戦後日本で行ったことを再び考えているのではないかと疑ってしまう。
恐らく支援に使用される「脱脂粉乳」の購入先はアメリカの企業であろうと想像できる。

TVの放映内容では団塊の世代が子供の頃に感じていた(聞かされていた)そのままの内容で伝え、あたかも子供の頃の恩に感謝し、出来得れば遺産まで寄付して欲しいと訴えている。
飢えで苦しむ子供達を救うことは人道的であり、賞賛に値する事業であることに疑いの余地はないけれども、数日・数週間・数年の延命が出来たところで、その国の物心共に基盤が変わり、整備されない限り延命できた子供達はもっと悲惨な社会の中に放り出されることになりはしないか、の疑問が絶えず脳裏をかすめる。
本当に一時しのぎの対処療法になっているのではないかと思えてならず、複雑な気持ちになってしまう。
確かに「飢えている子供」だけに焦点を当てれば、何とかして救いたい気持ちは良く判るし、誰もがそのようにしたい気持ちになると思われるが、別の角度から見れば、はたしてその行為は良となるのか否かの疑問が払拭できない。
あたかも肉食獣が草食獣を襲って食している場面を見るのと同じようで、それを可哀想と捉え助けるのか、自然の定めと捉えるか・・・人は獣ではないとの意見も出そうだが、人だって多少の理性を持っている生き物(獣)であることに変わりは無いと考えるし、もう一つ人にとって大事な要素は「縁」があるか無いかの問題も大きい。





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「窮屈になった日本~その101」:調和の取れた社会へ  その56

 1月16日に取り敢えず引越しを終え、十数箱のダンボールに詰めた生活用品を取り出して整理収納を終えるまでに2週間程度かかりましたが、何とか通常生活が出来るまでに持ってゆくことが出来ました。
過ぎてしまえば・・・のことになりますが、この年になって、引越しは気力と体力が必要なのだとつくづく思い知らされました。
前回の引越しは60歳の時だったのですが、今回ほどの苦痛?を感じた記憶がありませんから、十年の歳月が体の衰えに加え、気力を削いできていたのだろうと感じた次第です。

 さて、このひと月の間で世間を騒がせた件を先に考えますと、まず一つが千葉県や東京都で防潮堤扉などに描かれた「ねずみ絵の落書き」についてです。
どうやら「バンクシー」と言う世界的に有名で正体不明の画家が描いたのでは・・・と言われながら真偽のほどは定かではないという状況下、扉を外して保管しているとの報道を耳にした。
この人物は以前に作品がオークションで高額落札された時に自動シュレッダーで絵の半分を裁断する仕掛けをしていた人物だということで一気にその映像が世界中に流れ一躍時の人となった経緯があり、世界中を歩き回り壁等に落書きをしているようですから、とても悪戯好きな人物であろうとの想像がつく。
ここで、何に故に行政は扉を外して保管したのだろうとの疑問が湧いてくる。
バンクシーの作品なら高額で売れる?から、世間が騒ぐ種になりそうだからその防止のため?でしょうかねぇ、でも移設費用は税金ですよね。
これがバンクシーを真似て書いた絵の上手い者のいたずらだったらどうする?行政なら誰が描いていようが、落書きは落書きだから消すべきであろう(当然職員の手で)。
如何に著名人が描いたものであっても公共施設に描いたものは落書きであり、著名人が旅館や飲食店を訪れた時などに店主の要望を受けて描かれたものとは訳が違う。
これが古刹の壁や塀に描かれたものであったらどのように扱かっただろうか?同じ外国人観光客が書いた、いたずら書きは「落書き」だが、著名人が描いたものは「芸術的」扱いとなり、許されるのかねぇ、どちらも同じ軽犯罪ですけど。
この風潮こそが今の社会を病ました病巣の部分でもあると思えてならず、著名人を持て囃しすぎで、何をしても許され、賞賛されるような偏った意識を造り出している元凶は報道者にあるのではなかろうか。
「騒ぐ」ことは多くの人の興味対象であることは理解できるが、本質の部分を捉え、見極めてから「騒ぐ」材料を提供するべきで、報道者は「質を見極めた」後でなければ世間に公表するべきではないと思うがねぇ、節操が無く薄っぺらな正義感や人道主義を大上段に振りかざし、報道の自由を盾に世間を混乱させるようでは報道者魂を疑いたくなる。
 続いては誰もが「またか・・・」と思ってしまう厚労省の行った統計詐欺である。
今も盛んに野党が追及していて、厚労大臣の資質を問うだとか、アベノミクスへの忖度だとか、結局のところ総理や大臣・官僚への個人攻撃ばかりを行っているから何が目的なのか訳が解からない。
大臣や総理の首を取ってみたところで、別の首に代わるだけで、同じことの繰り返しだ。
そんなこと解かっているはずなのに、揚げ足取り発言の予算委員会は野党に於いて長年に渡り脈々と受け継がれて、茶番劇として聞いているに於いては面白いが、国を想い、国民のことを想うことが本来の仕事のはずだから的外れも甚だしい。
それに、官僚や役人の不誠実な業務実態を一々大臣の責任にされては大臣も堪ったものではなかろう。
それに加え明石市の市長発言が社会問題にされ、気の毒としか言いようがありません。
これも本質に於いては同じで、役人の不誠実な仕事実態を「叱った」だけであり「叱った内容」には少し問題があったにせよ、それほどまでに怒りがこみ上げてくる役人の業務実態の方を何故大きく責めないのだろうか。
市より用地買収の纏めを依頼されながら、何年も経過しているにも係らず相手方と価格交渉すらしていなかった業務実態は問題視された市長発言より罪が大きいと私は考える。
税金で禄を食みながら、何ら仕事をしていない実態を野放しに出来る役所体質こそが、この社会を窮屈にし、民間を苛める体質の元凶であると言っても過言ではない。
今こそ官僚や役人に於ける公務員法を抜本改正する時期ではなかろうか。
民間では罰が課される内容でも、役人や官僚にはお咎めなしのような甘い体質を厳しく糾弾し免職に出来るような法が必要ではないかと考える。
何か官僚が問題を起す度に聞いてきた総理や大臣の発言は「信頼の回復をすることが急務であり・・・」が常套文句であるが、今だ嘗て信頼が回復されたことは一度も無いのではなかろうか。
だから、心から国を想い国民のことを想うと言うのなら、野党の皆さん公務員法の改正に手をつけなさいよ、そうしなければいつまでもいつまでも今までと同じ予算委員会を繰り返すようになりますよ。
問題の本質は公務員や官僚の不誠実な業務からでしょう、それに端を発した表面事象ばかりを追いかけていたのでは本末転倒、めくらましから抜け出られませんよ。
考えてごらんよ、優秀で聖人君主のような人物が国会議員になろうとするはずも無く、今までどれだけのお粗末な議員を見てきたことか、という事は追求している議員の資質も似たり寄ったりであろう事は容易に想像がつくので、私の提言が叶うことなどないでしょうね。
また報道によると、戦後最大の景気回復が続いているということのようですが、一般の国民には全くその実感が無い・・・と多くの声を取り上げ、市民が節約に節約を重ねて遣り繰りしている話も沢山映像で流れていたので、これも統計詐欺の一種でしょうか。
大企業と役所のみの調査に基づいた調査結果なら頷けなくもないが、何せ(好景気である)根拠を提示しないでの結果発表ですからねぇ、どのような発表だって出来るんですよ。

 では本題の「車は既に時代遅れ」について書きます。
本気で書けば、とても長い文になりそうなので、要点だけ述べてみます。
今テレビの宣伝で流されている映像には食品・衣類・携帯電話・薬・化粧品・住宅・車などがありますが、食品を除けば、依然として車の宣伝は多いと感じる。
十年前あたりから「若者の車離れ」が言われているけれど、若者はある意味時代の先駆者であって、時代の流れを察知するのに敏感であるのかも知れない。
車の便利さを否定するつもりは無いが、既に自家用車に限っては時代遅れと言ってもよい。
戦後好景気の波に乗って3C(車・カラーテレビ・クーラー)を手に収めることが希望であった時代もありました。
当時は自家用車を持つことが憧れで、道路には車も信号機も少なくて、確かに便利さを十分に享受できた時代であったと思う。
その後は車の所有が急激に増え続け、街中は車だらけとなってしまい、運転しながら車の多さを嘆き、不平不満を口にするが、自分が乗っている車も渋滞を引き起こしている車であることを忘れてしまうほど自己中心的な思考に支配されるようになっている。
勿論信号機の多さは昔に比べると何倍いや十倍以上に増えているのではないかと思えるほどの多さであるから、街中において信号機に捉まらずに3分走れる道路など今はなかろう。
つまり、自家用車はもう便利ではなくなってきた乗り物なのですよ。
欲しいものはインターネットや通販で申し込めば、宅配便が自宅の玄関まで届けてくれるので、車を使い遠くまで買い物に行く必要がなくなってきたから、宅配便は急激な伸びを見せた。
アメリカや中国のような広大な国土を有するなら、まだ自家用車の利用価値は大きいと思えなくもないが、車の走行は道路と言う平面上を交差する仕組みだから、数が増えてくれば便利さには必ず限界が来る それが今である。
近年ドローンと言う(まだ乗り物にはなっていないが)機械が急激に普及し始めてきた。
ある意味無限の高さと広がりの空間を行き来できる改良小型ヘリコプターでしょうかね。
現在軽量のものなら運ぶ事が出来るのだから、何れは重いものまで運ぶ事が出来るようになるまでにはそれほどの時間は掛るまい。
ドローンタクシー・ドローンバスは遠い未来のことではなくなっているのではないでしょうか。
飛行機とは違って空中静止が出きる・ヘリと違い大騒音を出さないなど利点も多く考えられ、製作費用や交通整備などまだ課題も多かろうと思うけれど、必ずその日はやってくると信じて止まない。





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