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建築家 潤 の『独断と偏見』

「酔龍の独り言:その039」

                [ 少子化対策その四 ]

 「少子化対策その四(窮屈になった日本の社会と核家族[政策]の失敗)」


また金融機関大手である都市銀行が振り込み手数料を値上げすると発表したとの報道があったが、前回の振り込み手数料値上げから僅か一年しか経っていない。
殆どの銀行は数十億円か千億円以上の利益を出しているにも拘らず、まだ不足だと言っているのですよね。対外的にはお客さんのため、利用者の為と言いながら、どのように考えてみても、やっていることは銀行が今以上の利益確保と手間の省略が目的であることは明白であろう(振り込み手数料を値上げすることが本当にお客さんのためや利用者の為になるのかねぇ。自問自答して欲しいものである)。
このような社会にしてしまったからこそ、庶民は将来的な不安を感じて希望が持てない気持ちになってしまうので、結婚して子供を産む意欲が湧いてこない(社会を取り巻いている環境が何時また値上げをするのだろうか・・・と)。
四月二十七日にこの発表を聞いたので、つい愚痴ってしまいましたが、本文に入ります。

世界中を見渡しても今の日本ほど綺麗な街並みを維持している国はなかろう・・・道路にゴミやタバコの吸殻など殆ど見かけないし、安心安全の謳い文句の下で手摺や柵などがあちらこちらに張り巡らされて、道路や歩道における高低差の解消までが進められている。
とても綺麗で安全な国ですよねぇ、でもこのような良い国で何故子供が増えないのか不思議で仕方がありません(綺麗で安全な国との表現は形態の話しです)。
では今の日本は本当に住みやすく、国に対して信頼がおけて将来にも希望が持てる様な国ですかと聞かれれば、殆どの人は「否」と答えが返ってくる様な気がしています(これが本質の話です)。
今の日本は外見上の見た目は良いけれど、中身はどうやら違っているようで、とても住み辛く窮屈で、先の見えない社会だと考えている人の方が圧倒的に多いように思えます。
まず、住み辛いと感じてしまう事について検証してみましょう。
現在の日本国に於いて法律(政令・省令・条例・告示・規則・細則などは行政側が作成するのでしょう)は国会が開かれるたびに新しく作られていますし、現在では時代にそぐわず不要になったと思われる様な法文も削除されず生き続けているのが現状です。
私達日本国民は膨大な法文の下で、これらの法に触れずに生活していると言うことになるわけですが、その全ての法文を理解した上で生活している訳でもありません。
法とはある意味で言えば、魚を捕る網のようなものだと思えば解かり易いもので、網の種類が多くなり、網目の大きさが小さくなるほど庶民にとっては窮屈になるということですから、業種を問わず年齢性別をも問わずに掛けられている網(法)は恐らく道路交通法でしょうから、自転車を例に取れば判り易いと思いますので少し触れてみれば、二人乗り禁止から始まり通行方法や通行場所まで決められ、ながら運転の禁止に防犯登録の義務や保険加入にヘルメットの着用まで口出しされるようになったのは、自転車の性能が格段に向上し、交通量の増加に加えて事故も増えている現状では、建前上で人命尊重・安心安全を謳い文句にしている我が国ですから、これらの法が決して悪いとは言えないけれど、高が自転車ですよ・・・そこまで規制するのか・・・何だか窮屈ですよねぇ、でもこのような規制は30年前には無かったと思うけど・・・。
しかし、このような規制を設けても、スマホを触りながらの運転や通行禁止の場所での運転などをよく見かけますので、法で縛ってみても効果は薄いものだとの証でしょう。
だからやはり自転車や車・スマホなどの道具を扱う側である「人の心の在り方や美しさ」
「惻隠の情」などが日本人の心から欠けた事によるところが大きいと思っています。
自転車の例などは、どれほどあるのか判らない法の中の一例でしかありませんから、砂浜の中にある砂の一粒と言ったところでしょうが、それぞれの業界に係る法を加えたら一体如何程の法文があるのやら、そして法文は国債の発行と一緒で増え続けているし、改正と謳いながら本質は国民虐めの改悪に近い内容と思われるものが多いと感じているのは私だけではあるまい。
話が少し脇道に逸れますが中国の史実に基づいた物語「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)」では、秦を滅ぼして漢帝国を築き上げた劉邦が最初に法を定めたのが「殺すな・盗むな・騙すな」の三つであったと記憶しているが、秦の時代では難しい法が多くあって国が纏まらなかったけれど、この三つの法にしたら民にとって判り易く、格段に治安が良くなったと言うことであったらしい。
昔から言われていることに「法は簡素なほど良い」と「法は運用されるべきで適用するべきではない」があるけれど、現在の法文は専門職の弁護士でも難解な法文も多く、法を適用していることも多くあるように感じているから、やはり窮屈ではないでしょうか。
法による規制に頼ることは、善良な人の心を痛めるだけで返って悪循環に陥りやすいのに、新しい法ばかりを作り国民の心を窮屈にするのでは「子供を産んで、育ててみよう」との気持ちは湧いてこないでしょう。
社会全体が自己中心的となって、他人を想い遣る気持ちが薄れ、助け合うことをしなくなった人の心が小子化を招いていることなのに何故それに気づかないのだろうか。

これに輪をかけて小子化の要因となったのは「核家族(政策)」である。
日本では戦後の高度成長・経済成長の下で官民一体となって個人住宅産業を育成してきた経緯があり、今日まで来る途中の40年ほど前までは建設される公団住宅や個人の家(建売住宅がほとんどである)が2DKや3DKでも、床面積は15坪(50㎡)以下で、とても小さく(狭く)て、諸外国からも「ウサギ小屋」と揶揄された時期もあったが、家の広さから考えると子供は2人までだったでしょう。
 この頃から小子化と言われる兆候が顕著となってきたのではと思っています。
しかし、同じ日本国内でもまだ田舎の方では、古くから住み続けていた広く大きな家で夫婦の両親(中には夫婦どちらか数人の兄妹)と同居している中で子育てをしていた家庭が一般的だったので、長く子育てをしてきて蓄積された親の知恵を貰いながら、忙しい時は親や兄弟の手を借りることが出来たから、家の中でお互いが助け合いながらの生活が確かにそこにあった。
だから先行きのことなどに関しても今と同じように不安を感じていたと思われるが、現在とは違って心身共に余裕が持てる中で子育てが出来ていたと言うことではなかろうか。
それから次第に女が結婚する相手は「長男以外で、高学歴、高収入」でなければ嫌だと言う社会現象が生じた時期もあり、親との同居を嫌がる風潮が広まってしまった。
更に悪いことに学歴に偏執する社会となったため子供達の多くは都会の大学に行き、そのまま街で就職し結婚して家を持つようになった流れがごく普通の家庭の姿となったので、日常的に兄弟・親子で助け合って生活していた社会が世の中から消えてしまったのが現在である。
また都会に出て行かなければ希望する仕事にも就けず、十分な収入も得られない社会となっては一家の長男までが家を出てしまい、広くて大きな田舎の家は終に住み手を失い、買い手も借り手も見つからないでは、朽ち果てるのを待つ以外に残された道が無い現状は、まるで現在の我が身と重なるようにも思えるのは、これまで日本の行く先が誤った方向であることに気が付かずに歩んで来た団塊の世代である75歳前後の者達の共通した悩みなのに、追い討ちをかけるように田舎の空き家となった家をそのまま放置すれば「空き家税(新法です)」を課せられるようになるとは、年寄りに鞭打つ政策としか捉えようのない政策である。なにせ住む人が少なくなってしまった田舎の家や土地など借り手の需要など無く、売ろうにも買い手が付かずの現状ですからねぇ~一体どうしろと言うのでしょうか。地方自治体が引き取ってくれれば有難いのだけど、負となる土地や家は引き取らないそうですから困ったものです。
それなら家を壊せば良いではないかと思われるかもしれませんが、広い家を壊すのには少なくとも今直ぐ数百万円以上は必要やで、そんで持って家を壊したら今度は土地の評価額が上がるから土地の固定資産税が何倍かになりますわなぁ、どちらを取っても踏まれたり蹴ったりされるようで面白くありませんなぁ、やはり窮屈で仕方ありません。
先進国と言われている都市に人口が集中しているのは日本だけではなくて世界中で共通していることです。そして同じく共通しているのが「核家族」と「小子化」ですよ。
 人口が増加している国「インド」では三世代が一つの住まいを共有しているのではないでしょうか、詳しく調べている訳ではありませんので自信はありませんが・・・。
 ただ、戦後アメリカから押し付けられた多くの法によって良き日本の心と生活習慣や文化が駆逐されたことは否定できません。
過去の日本において鎌倉幕府が潰れてしまった最大の理由は現在と同じ平等相続にあったことを忘れてはいけません。「平等相続」は「核家族」と同じことです。
 一見良さそうに見えるけれど、相続を繰り返すごとに資産は痩せ細り、幾ら生活に必要な物といえども本家に一つあれば全員で使いまわして済んでいたのに、相続したら子供の数の分だけ必要となるのですからねぇ、この上もなく無駄を増やしているのが今の日本でしょうか。
鎌倉時代と同じ道を歩んでいるのが昭和・平成・令和ですから、滅びの道を辿っているということでしょうか。






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「酔龍の独り言:その038」

                [ 少子化対策その三 ]

今の日本において士業を含めて専門的職業についている人達の殆どは国家資格保持者である。
この国家資格を有するには、まず受験資格(国家資格の試験が受けられる最低の基準)と言うものがあって、その殆どが学歴と習得した学科となっています。
これまで国家資格の受験資格を全て調べてみたことはありませんが、恐らく高校卒業以上の学歴が必要とされているはずで、中には大学の特定されている学科を修了した者に限定されているものもあります。
と言うことは、中学校卒業以下では国家資格を得ることは出来ないと言うことになり、学歴が無くてもその職業には就けるかもしれないけれど、仮に本人の素質や能力がその道において、とても優れているものを有していたとしても、国家資格を有することは出来ないと言うことになるので、社会的な扱いが粗末にされることが多いと思われます(会社における地位や給与待遇など)。
尤も高校卒業と同等となる認定を受けられる機関もあるようですが、世の中には本質的といえばよいのか、心情的にと言う方がよいのか、明らかに学問的な能力が劣っている方や学問がとても苦手な方も多いのです。
ではそのような方々はどのような仕事に就けば社会的に信頼されて、少しでも尊敬が得られ、お客さんからも喜ばれて、ある程度安定した収入が得られるのかと言えば、職人になる道と家内工業である家業を継ぐことであったのはもう一昔の話で、今の日本に於いてはその道は残されていない。
今まで何度も同じことを書いてきましたが、政府と官僚が良き日本の社会構造を壊してしまったことが小子化の原因の一つにもなっていると思うのです。
学問など出来なくても十分に社会の中で活躍が出来きて、安定した収入が得られる社会こそ本来人が形成するべき社会形態であって、かつての日本では地域の方から喜んで貰えていた職人としての腕や、作る食品・料理の味、製造する製品の良さなどが尊敬とまでは行かなくとも、少なからず賞賛される職業として活躍できていた社会であったものを壊してしまったのである。
大手企業による製品の工業化を押し進めて、職人や家内工業の生きる道を狭めてしまい、大店法(だいてんほう)を施行させることで地域に深く根付いていた商店や店舗を壊滅させたつけが現在形になって顕われて、学問が出来ない若者は生活の糧を得る場を失ってしまった。
ほんの一例に過ぎないけれど、それによってこのような若者達は振り込み詐欺などの特殊詐欺と言われている悪事に手を染めるような事柄に巧みな手法で取り込まれてしまっているのではないかと思うのです。これらの事件で検挙された人は、氷山の一角であろうし、その予備軍は相当数いるはずなので、酷い格差社会の底辺に近い人達は生活の糧を得ることが出来ないから、不本意ながら悪事の道に引きずられてしまっていると言うことでしょうか、このような若者達が自分の将来像として描く「結婚・出産・子育て」など考えられるわけなどないでしょう。

 人は自分の持つ能力を高めるために、長い間に渡って少しずつ周囲の人達との信頼関係を築き、仕事の腕を磨きながら積み上げてきた技術でもって働いてその対価を得る。その対価で「結婚・出産・子育て」を含む日常生活を営むからこそ充実感や満足感が得られるものであって「働くことは喜び」であるなどの意識が持てるようになれば、自ずと「心の充足度」は高まり、多少収入が低くても人は不平・不満など口にしないものである。
 ただ、現在のような社会構成下では「仕事は金を得る」手段となってしまい「仕事をすることは喜びである」との意識を持っている人はとても少ないと思う。
このような意識の差が日本を駄目にした根本原因であって、欧米の悪しき習慣を取り入れて現在は正にアメリカ合衆国日本州と化してしまったようである(戦後マッカーサーがやったウオーギルド・インフォメーション・プログラムは大成功を収めたと言ってよいと思うけれど、当のご本人は後日アメリカに帰国して綴った回顧録の中で、あのプログラムを日本に押し付けたのは間違いであったと懺悔している内容の近代歴史書を読んだことがある)。
労使関係に於いてもかつての日本の創業者は社員を我が子以上に可愛がり慈しみ教育しながら「(人としての素地を)育てていた」けれど、欧米の経営者は社員を「金を稼ぐ道具」程度にしか考えていないから、人を育てることなど決してせず、業務マニュアルを押し付けているだけである。
現在の日本の大企業は正にアメリカのこの方策を模倣して企業運営を行っているから多くの若い社員を抱えながらも金儲けの為の教育はしているようだが「人を育ててはいない」ので殺伐とした会社となってしまっているのではなかろうかと想像していますし、経営陣達が先を争うように法令を含み同義的違反に手を染めていることからも推察できる。

かつての話が多くなってしまいますが、かつて戦争が起こることを前提として国は国民に対して戦闘員確保のために「産めや、増やせや」政策のようなものがあったと聞いていて、勿論子供のことなのだけれど、このことを奨励するわけではありませんが、ではその当時と大東亜戦争終結後に復員して帰ってきた時に生じたベビーブーム(団塊の世代と呼ばれた)人達の子育てと現在を比較してみればもう少し本質に迫ることが出来るのではないかと思います。
そこで終戦後に於ける当時の子育てを振り返ってみると子供の生活費や出産費用に加えて教育費などに対して国が補助金を支給していたのかと言えば「否」であるにも拘らず多くの子供達を産んで育てていた(子供の人数に応じての所得減税はあったと思うが、微々たるものであったと思っている)。
では当時子供の生活費や教育には金が掛からなかったのかといえば、そんなことはあろうはずもなく、やはりある程度の金は掛かっていたのだから、一体何が違うから子供を産まなくなったのかの答えがここにあろうと言うものである。
 仮に我が子が学問など出来なくても「十分に生活できる環境が社会の中にあった」から親は安心して子育てができたのだと思っている(子供の出来不出来に係らず将来に対しての不安など感じなかったからではないだろうか)。
現在SDGs(エスディージーズ)と盛んに叫ばれている内容だけれど「多様性を認め」「誰も置き去りにしない」「貧困をなくす」」など全部で17項目あるようですが、日本の当時には近隣同士で助け合い、家族や親戚と協力し合って生活を成り立たせていた環境を構築していたので、真のSDGsを既に行っていたと言うことになるが、それをぶち壊しておいてから今になって何故SDGsなどと叫ぶのかと言いたい。
それは全て日本の良き文化と生活様式をアメリカに倣って捨ててしまったからに他ならない。自分にとって都合のよい権利の主張ばかりを振り回して他を攻撃し、真偽を確かめもせずに無責任に嘘の情報を垂れ流し、世間に向けた謳い文句はとても良いのだが、やっていることは自分の都合を消費者に押し付けているだけの大企業の姿などをみていては「このような社会の中で多くの子供を産んで育てる意欲」が湧くでしょうか。
 小子化については高額な出産費用に加え、子供を育てる為に必要な生活費や教育費が不足すること以外にもっと大きな要因があることに政治家も官僚も気付いていないから的外れな議論と政策ばかりが出てくるのだろうと思っています。

又文章が長くなってしまいましたので [ 少子化対策その四(窮屈になった日本の社会と核家族政策の失敗) ] は次回に持ち越します。






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「酔龍の独り言:その037」

                [ 少子化対策その二 ]

 本文に入る前に少しお伝えしたいことがあります。
今、藤原正彦氏の「日本人の真価」と言う本を読んでいるのですが、その中に面白い一節がありましたのでご紹介してみます。

2020年5月中旬に米外交誌『フォーリン・ポリシー』が、「日本の新型コロナ対策はことごとく見当違いに見えるが、結果的には世界で最も死亡率を低く抑えた国のひとつである。奇妙な成功」と評しました。

オーストラリアのABC放送は「日本は、満員電車、高い高齢化率、罰則なしの緊急事態宣言、低い検査率など、イタリアやニューヨークの二の舞になる全てを揃えていた。封じ込め成功はミステリー」と報じました。英紙ガーティアンは「衛生観念の高さと、ウイルスに対する国民の静かな決意が賞賛される」と書きました(と本の中の記述にあります)。

この文の中で「日本の新型コロナ対策がことごとく見当違い・・・」の下りには思わず笑ってしまいました(政治家と官僚の無知に医師会の狡猾さが揶揄されていますよね)。

さて、それでは前回の続きを書きます。
前回お伝えしたように、かつて日本が持っていた良き社会構造を崩壊させてしまった今、日本の若い夫婦に子沢山への道が残されているのだろうか・・・と考えてみても、現状の政策では否以外の言葉が出てこない。
子供を沢山産んで育てられないと言うことの裏には、多くの理由があると思っていますが、前回に続き今回はその内の二つについて書いて見ました。
一つは「子育てに金が掛かりすぎる」二つ目は「子供が成長した時に、学歴が無い者には職業の選択肢が極めて少ない資格試験制度にある」と考えています。
ただ、現在の日本における社会構造は一見すると、便利で安全で快適に見えていますが、その裏面に隠されている本質の部分にその原因があり、それが複雑に絡み合っているから、これとこれでだから、これさえ直せば小子化の問題は解決しますと言うことが本当に難しいので、それぞれを繋ぎ合わせて推測していただければと思います。
親が子供を産んでも、現状で破綻寸前となっている年金制度や、上がるばかりの税制に加え、負担が増え続けている医療保険などを鑑みると、親としては子供の教育、子供の将来に対して不安ばかりが覆い被さり、心を痛めるようになってしまうので、一人か二人を育てるのが限界であろうと思うことの方が自然の流れではないでしょうか。
 もし将来に希望が持てるような社会構造になるとすれば、親は子供を多く産んで育てる意欲も持てるだろうが、今のところその兆しすら見えてこない。
かつて国民である勤労者が積み立てていた厚生年金基金の莫大な金を使って、官僚が天下り先として多くの施設を造った後に、経営が破綻寸前(民間からは持ち上げられ、国民を見下している輩に事業など出来るわけが無いのに)になったと言いう理由で他企業に土地と建物を二束三文で売却した経緯があるけれど、官僚達は一切の責任を取らずにお構い無しとなっている。このようにして官僚達が国民から金を吸い上げて、都合の良い大義名分をかざして余剰金が生じると使いたい放題使っておきながら大金をドブに捨てた件(これは明らかに事件ですけどね)はこれに限らず今までに数多くあります(厚労省は何十年も前から日本の将来は小子化となり年金制度が破綻することを知っていたのだから、それなら今のうちに使ってしまえ・・・と思ったに違いない)。
このようなことが許される国の制度下では国民に希望が持てる社会であり、信頼できる国であるとは到底思えるはずも無いから、将来が悲観的になっても仕方があるまい。
何故官僚達が国民の金を好き勝手自由に使った上に失敗しても「お咎め」を受けないのかについては「行政のやった仕事の結果に対して上手く行かなかった時に責任を取らせたら、役人が萎縮して十分な仕事が出来なくなるから」だそうです(何かの本で読んだ知識ですが・・・民間企業ではありえないことですけどね)。
しかし、これはなんと恐ろしいことでしょうか、日本一頭脳が優秀だと言われている霞ヶ関の集団が失敗を前提にして仕事をしてよいとの免罪符を与えられているのですからねぇ気楽なことこの上なかろうし、我田引水・牽強(けんきょう)付会(ふかい)・唯我独尊などの言葉は与えられた権利だと腹の中で主張し、朝令暮改などを行っては官僚にとって都合のよい法律ばかりを作り、言葉巧みに法の改正と謳いながら、本質は改悪を平気でやるのだからねぇ、国民が黙して辛抱していることを良いことに、やりたい放題であるが、これを正す機関が日本に無いことが淋しいし、諸悪の根源となっているように思う。
ただ唯一あるとすれば、国会だが政治家達は皆勉強不足で、もし官僚にそっぽを向かれると国会運営が上手く行かないからねぇ、ここには手を付けない、いや付けられないのが本音だろうか(しかし、官僚の人事権は官邸が握るようになったのではなかったかなぁ~)。
このような流れでは、上に立つ者が国や国民のための政治や行政を行っているとは、とても思えなく、逆に国民からは官僚の為に税の搾取をされているような感覚になる。この辺りが是正されれば国民の心に中には役得や不公平感が無くなり本当の意味での安心・安堵感が生まれてきて、将来に対する希望が持てるようになるはずだから自然と子供を多く産んで育てたくもなるように思う(政治家や官僚が信頼に値するようになればの話です)。 

『公務員は刑事事件を犯さなくても、国や国民に対して背任行為に近いことを行えば、必ず責任を取らせる』制度を設けなければ日本の国は良き方向に向かうことは無い。
このことは多くの国民が心の中で思っていることだろうと思うので、文にしてみました。

 子育てするのには金が掛かるだろうから、金をやれば子供を産むだろうと政府は子育て支援金などと言うものを出そうと企んでいるが、所得制限無しに一律に支給するとか、制限を設けるべきだとかで言い争っているようでは、やはり的が外れたことばかりに目が向いていて本質が見えていない証拠であろう。
 国から金を貰うと言うことの意味が判っていないのである。政府は国民全員が乞食だと思っているのではないかと思えるほどで、金を配ることができるのなら最初から各種の税を含めた負担を少なくすれば良いことであって、一旦強制的に召し上げておいてから後になって「恵んでやるから有りがたく思え」では国民の心の中は燻りしこりが残る。
 国民の殆どは自分の力で子を産み育てたいのであって、補助金を貰わなければ子供が産めず育てられない社会だというのは、どこか軸が狂っているとしか思えない。

 文が長くなってしまいましたので「子供が成長した時に、学歴が無い者には職業の選択肢が極めて少ない資格試験制度にある」は次回にさせてください。






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「酔龍の独り言:その036」

                [ 少子化対策その一 ]

 新型コロナの扱いが正式に「5類」に引き下げられると発表された途端に感染者が激減し始めたのには驚いているし、もしコロナウイルスに意思があるとすれば「これから先はもうコロナ・コロナと大騒ぎして貰えないのなら、これ以上感染者を増やしても面白くないので感染の拡大もう止~ぁめた」とでも言っていそうな感じがするけれど、感染者に対する統計の扱いが変わっていることも感染者減少の大きな要素なのかも知れません。 

さて政府は長年の課題である出生率低下による「少子化問題」に関して、またもや税金を投入しての一律金額支給支援を目論んで国会が紛糾しているようだが、このような政策では全く効果などは出ないと申し上げておく。
どうして政治家と官僚は物事の「本質」が見えないのだろうかと情けなくなってしまう。
戦後直ぐに生まれた俗に言う「団塊の世代」の子供は沢山いた。丁度私がその最後の世代であるが、振り返ってみて当時は本当に日本国民の殆どが貧しかったように記憶している。
しかし、人の世であるから中には金持ちもいたけれど、皆一様に金持ちを妬み羨むわけでも無く「他所の家とうちは違う」の一言で片付けて淡々と生活をしていた。
着る物や履物は粗末であったし、食べる物も粗末な物が多かったけれど望んでみても美味しい物など貧しくて手に入らなかったのだから同じように「仕方が無い」で片付けていたように思う。
それでも親は多くの子供を育てていたのに、今なぜ当時と同じようにそれが出来ないのか?の中に少子化問題解決の「本質」が潜んでいると考えているのだけれど「本質」の要素が一つではなく、またそれらが複雑に絡まりあっているので一言では片付けられない。

まず第1番目に挙げてよいのは「共働きをしなければ子供が育てられない」ことである。
昔は主人の稼ぎだけで一家を養っていたけれど、充分な収入が無くとも、ただただ贅沢をせずに何事につけても「もったいない」の精神を持って、知恵を絞り工夫をしながら生活を営んでいた一言に尽きる。
ちょうど現在生活保護を受けて生活している方の暮らし振りと同じような感じではなかったかという気がします(生活保護を受けている方の生活振りは報道で見ただけなので、それからの推測に過ぎませんが・・・)。
 今や一家に一台の車を持ち(交通の便が悪い地域では一人一台持っています)、大型のテレビを備え、食べ切れないほどの美味しい食品を手にし、各室にエアコンを備え便利な家電製品に囲まれた生活が日本に於ける一般的な普通の家庭でしょうか。
更に昔は一家に一台の固定電話があれば十分に家庭の中で役割を果たしていたのに、今や一人に一台の高価なスマホを持っていて、それぞれが電話料金を支払っている。
加えて一匹数万円から数十万円もする愛玩用小動物(犬・猫など)まで養っているのに、子供が産めないと言うのはどこか不思議ではないだろうか。
確かに生活の便利さや状況は向上したけれど、良く考えてみれば最低限生活に必要な物以外に対する出費が多過ぎるのではないかと思われ、本来日本人が長く受け継ぎ営んできた生活における本質を低下させているのではないかと考えられます。
と言うことは、自らが望んで余裕の無い生活へと向かっているように思えてなりません。
恐らく心情としては「皆が持っているから」「皆が飼っているから」「不便だから」などの理由であろうと思っていますが、これらから思考や意識が出発すると、もうそこには生活面での「工夫」は考えず「知恵」も生まれてはこない生活を送るようになり「人は人、自分とは違う」「他所とうちとは違う」との自己を規律する意識すらなくなってしまって「足るを知る」や「分相応」の言葉が脳裏から消え失せてしまうのではないかと考えます。
そもそも人の世では「自分の能力や人柄に加えて、その人物が持つ(不思議な)魅力に対して金も物も人も自らが望まなくとも自然と付いてくる」ものなのだけれど、自分の能力や人柄と魅力を削除しておいて「金」「物」「人」が欲しいと望んだところで手に入るわけなど無いのだが、錯覚するのでしょうかねぇ。
それに拍車をかけているのが消費者金融やローンと言う仕組みで、金がなくとも瞬時に現金を手にし、物を買うことが出来る「打ち出の小槌(現在はカードと言います)」を国民が手にしたことだと考えています。
欲望の趣くままに生活必需品以外の物を多く購入して家の中の居住空間を狭くし、挙句の果てには使わなくなって部屋の片隅に追いやられてゴミ扱いとなっている(結果としては借金までしてゴミを買ってしまったという事になりますよね)。
しかし、購入した物の代金は支払いが終わるまで続いてゆくのだから、収入が増えない限り何かを犠牲にしなければ今まで通りの生活は成り立たない。
その犠牲となっているものの一つが「結婚」や「出産」ではないかと思っています。
また犠牲に出来ることの限界が来て、収入も増える見込みがない状況に陥ればスマホなどからから来る誘いに乗って、軽い気持ちで犯罪に手を染め一生を台無しにしている者が増えていることはその証ではないでしょうか。
人が長い人生を歩んで行く間には年代によって様々な欲求が生じてくるものですが、「自分の能力や分を超えた欲求」など叶うわけが無いことの理解が出来ていないように感じています。人が生きるという事は「醜い欲求を生じさせる己の心との戦いである」と思っていますが、核家族を推奨してきた政府のお陰でこの様な事を子供の頃から教え導く同居する大人がいなくなり、教育を含めて心の充足度を成長させる場を失ってしまった結果、よき社会を構成していた日本の文化が崩壊寸前となっていることが、大きな要素であると私は確信している。
ではどうすれば良いのかという事になりますが、現在の官僚や政治家が一番苦手とする「心の在り方」を論じることになるから期待すら持てそうにない。
「時節には神も適わん」と言われているようだから、行き着くところまで行かねばならないのだろう。その結果を受け止めなければならないのは我々であるが、今の状況では悲惨な結果とならないように祈る以外なす術が無い。
             続きは後日更新します






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「酔龍の独り言:その035」

        [ やはり、考えていた通りとなりそうなコロナ感染対策 ]

 今年の5月から新型コロナ感染の扱いが「2類」から「5類」に引き下げられことになるようです。
ただ2類から5類に引き下げると言われても、一般の我々には医療関係の法律用語は馴染みが薄く、2類が何を示し5類が何を意味するのかについても調べてみれば判るのでしょうが、日常生活に於いて、さして必要な知識とも思えないので調べる気は起こりません。しかし「引き下げる」と言う言葉から新型コロナに対する扱いが緩くなる事くらいの想像はつきますので、やっとコロナウイルス感染対策が本筋に戻ったかと思うばかりで、報道によると季節性インフルエンザと同じような扱いとなるのが5類のようです。

 日本で始めて新型コロナウイルスの感染者が報道されてから、もう3年が経ちます。
その間「マスク着用」に「手指のアルコール消毒」「うがい推奨」「密を避ける」「不要不急の外出制限」などの対策を政府と医師会が一緒になって煽ってきた。
これらの中で本当に感染防止となるものは「密を避ける」「不要不急の外出制限」くらいのことです(人を介して感染するので、人との接触を避けることの意味は大きい)。
以前から何度も本ブログを通じて「マスク着用」と「手指のアルコール消毒」には大した感染予防効果はないと言い続けてきましたけれど、医師会が煽るものだから無知な議員連中と政府も乗せられてしまい今日まで来ています(十万分の一ミリの大きさではマスクを通過するのでウイルスの感染は防げず、アルコール消毒など細菌の扱いと混同している)。
 アルコール消毒などはごく弱い「細菌(大腸菌のような雑菌)」を殺菌する効果はあるかもしれませんが、ウイルスは「菌」のような生命体とは異なり「殺菌」することが出来ないので全く「無意味な対策」であったことを再度お伝えしておきます。
少しくどくなりますが、再度改めて「菌」についてお伝えすると、「菌」と名がつくものは細胞を持った「生命体」ですから「殺菌」することが可能ですが、ウイルスは細胞を持たない「不思議な存在」で、どうしてこのようなものが地球上に存在しているのかよく解からないにも拘らず、人や動物の体内に入り込むと活動(増殖)?を始め、更に厄介なことには変異を続けながら地球上の生命体を脅かすのだから始末が悪い。
全く理解が出来ないこの「不思議な存在」は、ある意味で地球も「生命体」であると言うことと同じなのですが、通常人が持つ既成概念では中々そのことの理解は出来ません。
しかし、地球(自転しながら公転している)は動いているし、誰かが熱を加えている訳でも無いのに温度(マグマと言う高熱を百億年近く地球内部に保持し続けている)があり、水分(海に川に雨)を持っているから地球上の生命体と同じ仕組みだと捉えてよいと思いますが、ただ動植物の細胞に値するものが何なのかは判りません(土なのかマントルなのか、それとも何か別なものなのか・・・)。
ただはっきりしていることは地球内部で「地殻変動」が生じていることはご存知だと思いますので、ご理解いただけると思いますが、誰も力を加えていないのに巨大なフィリピンプレートなどが地球内部で動き続けているのですから、これをどのように捉えますか。
死んでいるものは自ら動くことは出来ませんからね。
新型コロナの対策が如何に無意味であったのかをお伝えするつもりでしたのに脱線してしまいましたが、政府が推奨して無料で接種させたワクチンも然りで、そもそもワクチンを接種したなら「感染しない」とならなければ意味が無いのに、数度のワクチン接種を終えた後の人達が次々と感染していった現状をどのように捉えればよいのかねぇ。
その上ワクチンの副反応では多くの方が苦しんでいるし、亡くなったりしている現状もひた隠して公にしていない。
医師会は「重症化を防ぐ役割がある」と嘯いていたけれども、ではワクチンを接種していない人の殆どが重症化したのかといえば、そうではないから実情はややこしくなる。
結局効果の無い、いや無かったワクチンを莫大な税金を投入してアメリカから購入し、それに乗っかって稼ぎ捲った医師の為の政策であったように思うのは私だけだろうか・・・。
そして次の方針としては「当面」コロナ関連の医療費は国費で賄うと言っているけれど、「当面」と言っているので、やがて健康保険の対象にはなるだろうがワクチン接種は自費となり、重症化となって入院しても自費となりそうな気配である(インフルエンザと同じ扱いとなるのですからね)。
更に悪いことは今まで自宅療養でも民間医療保険会社から支給対象となっていた入院給付保険金は今後支給されなくなるそうである。
恐らく今後ワクチン接種が健康保険対象となり一部が自費負担になれば誰も打たなくなると思います。そしてそのまま新型コロナ感染が終息に向かうようであれば私の言ってきたことがもっと顕著になると思います(しかしその時になると医師会や政府はここにきてやっとワクチンの接種効果が顕われたと言いそうですけどね)。
 ここまで来ると、これまでの新型コロナ感染に関する扱いは一体なにだったのでしょうかねぇ?やはり感染防止対策と同じで誤った方向を向いていたと言うことでしょうか。






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「酔龍の独り言:その034」

             [ 問題先送りの東京都知事発言 ]

 東京都知事が今月の初旬に戸建て住宅(一定以上の戸数を提供販売する住宅販売会社などの建物が対象)にまで太陽光発電パネルの設置を義務付ける条例を取り決めた。
2025年4月からの施行を目指しているようであるが、とても深謀遠慮の上で決定したとは思えず、目先のみを見た場当たり的な人気取りに近い方針であるといってよいと思う。
CO2排出の削減を目的としたことであることは判るのだが、太陽光発電パネルの寿命は約20~30年程度と言われていて、役割を終えたパネルの処分に関しては如何様に考えているのかが御座なりにされている。
太陽光パネルには「カドミウム(四大公害病を引き起こした物質の一つで、日本ではイタイイタイ病の原因となった)」やその他の有害物質(いずれも少量ではありますが)が含まれていて、これらに加えてガラス面に付着させているカーボンの除去方法やリサイクル技術の確立がまだ不十分で、処理能力が追いつかず処理場では太陽光発電パネルの廃棄品が山積み状態となっていて、いずれ大量廃棄の時期が来たときには大きな社会問題となると言われているのです(もっと詳しくお伝えしたいのですが、私は化学や科学の専門家ではありませんので、この程度のことしか判からないので申しわけありません)。
尤も日本製の太陽光パネルには「カドミウム」の使用が禁止されていますが、外国製には現在も使われていて、日本製と外国製の価格を比較すると外国製の方が安価だから太陽光発電パネルの設置を義務化すれば圧倒的に外国製品が蔓延することになろう。
 そうなるといずれ出てくる大量の太陽光発電パネルの処分を野積みにしようが埋め立てにしようが、いずれ有害物質が流れ出し地中に浸み込んで地下水に紛れて人体や海へと運ばれて行くから食物連鎖を伴って有害物質の無限連鎖が起こることが想定できる。
また、外国での太陽光発電パネル製造には多量のCO2の排出が伴うことを知らないのではあるまいか。日本のCO2排出量を削減する為に外国でCO2の排出を促進するようなことが本当にCO2削減になるのか・・・と問いたい。
だからと言って、まさか有害物質の処分先として以前のように外国へ捨てに行くようなことはしないと思うけれど、このような状況下で太陽光発電パネルの設置を義務化するなど愚かな行為ではないかと思う。
 CO2の削減や電気量不足に関しては国民の節電意識向上と無駄な電気を垂れ流し続けている現社会の仕組みにも目を向けて、法を含めた改革の方が先ではないかと思うのだが、国も霞ヶ関も一向にやる気配が無い。これはまるで国民からの税収である国の予算を使いたい放題使い続けて来た結果、それでも不足すると言って1000兆円を超えるほどに膨れ上がった国債を含めた借金の返済を先送りし続けている政府が国民に対して安易に増税を課する無責任な姿と何ら変わりはない。
 いつも思うことだが、政治家の勉強不足は明らかであり、霞ヶ関の世間知らずにも困ったものだとつくづく嫌気が差す。
 先日ある閣僚だったと思うが防衛費増額に対しての増税に関して「賢明な国民には理解が出来るはずだ」と言う主旨の発言をしたが、霞ヶ関は「馬鹿な国民は我々が主導してやらなければならない」と心根では思っているのだから千代田町と霞ヶ関は都合の良いことばかりを言っている。
特に政治家は「広く国民の意見を聞いて・・・」「多くの国民に理解を求めて・・・」とよく口にしているが、私は73年間も日本国民であったけれど「これまでに一度も意見を聞かれたこともなければ理解を求められてことも無い」恐らく政治家を除く日本国民の全てが同じであろうと思っている。
まあ国会議員も同じ国民の一人であるからこの者達だけに意見を聞き、理解を求めたことを口にしているに違いないけれど、国民に向かって聞こえの良い発言のみを繰り返して煙に巻く姿はとても戴けたものでは無いし、「善の心から言葉を発した」政治家とは言えないだろう。
今の政治家も官僚もその言葉と姿勢に「美しさ」を感じることが出来ないのは恥ずべき姿と言ってよいと思う。
日本国に於いて「国民の手本」となり「憧れ」の職業となるべきものであるはずなのに、政治家は国民の手本となるどころかお粗末なことばかりを繰り返しているし、官僚は天下り先作りに血道を上げているようでは国民の税に吸い着いている寄生虫と何ら変わりはなかろう。
最後に余計なことを「雌鳥鳴いて国滅ぶ」と言う諺があります。確か中国数千年の歴史の中で生まれた言葉だったと思っていますが、歴史から判断するとその根拠はありますよね。
最後に私の私見を少し述べさせてもらいますと、防衛費増額は大賛成ですが、防衛兵器をアメリカから買うのではなく、国内で製造することが条件で、法が邪魔するなら法を変えればよいだけのことですよ。戦車などの防衛兵器の国産が可でミサイルなどの攻撃兵器が不可と言うのはもう時代遅れで、防ぐだけでは何ら意味を成さないことくらい子供でも判るはずである。
他国が攻めて来て、盾だけで撃退できると言う論法など絵空事であり、矛があってこその国防であることくらい判らないはずはなかろう。
防衛兵器と攻撃兵器を国内製造すれば国内産業は息を吹き返し、不景気など何処吹く風となるはずで、攻撃兵器をアメリカから買って配備するも国内で製造して配備するも本質は同じである。

今年もあと数日を残すのみとなりました。体に気を配られて良いお年をお迎え下さい。                       
一年間お読み下さり有難うございました厚く御礼申し上げます。






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「酔龍の独り言:その033」

              [ 裁判判決に関して思うこと ]

 先だって地方裁判所の民事裁判記録が数件廃棄されていたという記事を目にした。
いくら民事裁判とは言え判決記録は双方に対して「良し悪し」を決定した最終判断書となるから、とても大事な記録であり永久保存されるものと思っていたのだが、案件によってはそうでもないようなことが読んだ記事から推定できたので、少し驚いている。
 またその数日後には森友学園事件に係る公文書改竄の指示を受け、上司(元理財局長)による改竄指示と良心の板挟みで悩み続けた後に自殺した赤木さんの件では、以前に国会でも取り上げられて審議されたけれども日本国民が納得できるような終わり方ではなく闇に葬ったような終わり方であった為、赤木さんの妻が元理財局長に対して提訴していた判決が出された。
 判決の内容文は赤木さんの妻や日本国民が期待していたものとはならず、問題となっていた当時の部下達に指示して行わせた公文書の改竄の経緯も詳らかにはされず、奥さんが望んでいた謝罪の要求にも応じなくてよい内容で実質何らお咎めを受けないと言うものとなっていた。
 公文書改竄は「犯罪」ではないのか?の疑問がまたしても上塗りされるようでは日本国民の心の中は行政への不信感が増すばかりとなりはしないか。

 日本が法治国家とは言え、日本人の心情は欧米諸国の意識とは異なり「法」に触れなければ良いと言うことよりも、行った行為が「善」から派生したものなのか「悪意」や「己の保身」から派生したものなのかの方がより大きな「良し悪し」の判断基準となる。
 つまり森友学園事件に関しての公文書改竄を指示した元理財局長の行った行為は法文に照らし合わせれば「無罪」となってしまったけれど、やはりその行為の本質が「善」であったのか「悪」であったのかの方が国民にとっては大きな比重を占めるのではなかろうか。
「善」を「美しい行為」と読み替え「悪」を「醜い行為」「賎しい行為」と読み替えればもっと判り易いかもしれません。
 自分が行った指示で部下の一人が亡くなっているにも拘らず、道義的責任をも感じずに謝罪すらしないというのはどのように捉えても「美しい行為」とは言えないと思う。
しかし当時もし自殺者が数名出ていたとしたら、どのようにこの件が扱われたであろうか。
自殺者が一人だから「心が弱かったのよ」と片付けてしまい、もし自殺者が数名となっていれば「大事件」にするような行政と国会の風潮に加えて、最後の頼みの綱である裁判所の判決までが日本国民の望んでいるようなものとはならないようでは心が寂しくなる。
亡くなられた赤木さんの奥さんは公文書改竄指示の経緯とご主人の自殺に対する同義的責任の謝罪を望んでいたようであるが、それすら叶えられなかったのだから日本の「法」は「美しい」のか「美しくない」のかの疑問だけが残る。
 しかし、若し民間人が同じようなことをしたなら厳しい処罰を受けることになるのは火を見るよりも明らかで、官僚だと何ら処分を受けない日本はやはり「美しい」とは言えない。
だから、いつまで経っても公務員の「醜い行為」が後を絶たない。

 話は変わりますが、最近のテレビ番組には面白い(深く心に刻み込まれる)番組が全くと言ってよいほどに無くなってしまった。
どの番組もお笑い芸人を使って費用を掛けない番組がやたらと多いと感じるのは私だけではあるまい。
 私など若い頃は仕事と女で忙しくてテレビなど見る余裕がなかったので、今まで見ていなかった番組を最近BS番組の時代劇を録画してみている。
その中の一つで「必殺仕事人Ⅳ」を見ていると、出だしに次のような字幕が音声と共に流れてくる(番組の放映は1984年となっているから今から約40年前である)。
「近頃世間に流行るもの 押し込み強盗 高利貸し 賄賂を貰う偉え人 金金金の世の中で泣くのは弱い者ばかり」<涙を拭いておいでなせえ><恨みを晴らす仕事人 陰善据えて待っておりやす>。
最近は「押し込み強盗」の報道は余り聞かなくなったけれど「高利貸し(今なら銀行で一昔前なら消費者金融かな)」と「賄賂を貰う偉え人(直近では五輪関連)」などは一向に後を絶たない。
40年が経っても世情は代わり映えせず、一向に進歩しない日本の社会に先があるのだろうか?民衆を導かなければならない立場の官僚や政治家が今の体をなしているようでは、いずれ一揆が起きてもおかしくあるまい。
いや、それまでには大地震に襲われて「これでもか!これでもか!まだ目が覚めぬか!と厳しい試練を受ける羽目になろう」






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「酔龍の独り言:その032」

           [ 韓国でハローウィンの前日に起こった事故 ]

 10月29日深夜韓国の梨泰院(イテウォン)地区において人並みに押されて起こった群集雪崩による事故で死者149人負傷者149人と平時に街中の繁華街で起こったとは思えないほどの犠牲者を出した。
犠牲者や負傷者の多くは二十代三十代の若者であり、報道によればハローウィンで集まった群衆に加え、その地区にある飲食店に著名な芸能人が食事に来ているとの情報が流れて(恐らくスマホによるものと思われる)より多くの若い人が集まってきたとの報道であった。
 多くの若い人が命を落とした痛ましいこの事故について、日本では各方面の方が「何故事故が起きたのか」の検証を勝手に行い(私もその一人です)、中には韓国と日本の国民性の違いに焦点を当てて比較し論じている方もいるようですが、当の韓国ではこの事故は明らかに人災だから責任の所在を明らかにしなければ・・・と警察関係者の責任を追及し、更にその矛先は大統領にまで発展しそうな状況になっている。
 今の世の中では日本に限らず、何かしらの事故が起こって死傷者が出ると必ず誰かの責任にしなければならないとの風潮があります。十年ほど前に日本で起こった東日本大震災の時においては自然災害でありながら防潮堤の高さ10メートルについて津波の高さの想定が不十分であったのではないかと野党がその責任を追及していたような記憶があります(この追及は明らかな後出しじゃんけんですよ)。でもその時に「もし、当の防潮堤を企画する際に15メートルとか20メートルまでの高さまで想定して作ろうとしていたなら、恐らく野党は無駄な建設費であり過大設備ではないのかと言い出して、15メートル又は20メートルの高さにする根拠を示せ!などと迫ったに違いないと思ったものです。
 「自然の力は恐ろしいほど強大で人智の及ぶところではない」と本質の部分で解かっている筈なのに、人が少しばかり化学や科学の知識を身に付け、ある程度の地震や津波・火事などを克服してきたものだから、巨大な自然の破壊力に対しても対抗できると錯覚しているに過ぎないことが理解されていない。
何が言いたいのかと言えば、この世で起こるあらゆる事故についての全てが、誰かである人の責任に帰するべきものとするべきではないと思うのです。
 本題とは少し外れてしまいましたので、話を元に戻します。
今回起きた韓国での群集雪崩は自然災害なのか人災なのかと言うと、これは明らかな人災であろうが、だからと言って警察関係者や大統領に責任があるとは思えない。
警察関係者や大統領に責任を問うのは明らかに「後出しじゃんけん」のようなものだから、事故が起こる原因や事故内容が事前に判っているなら対処の方法もあったであろうが、当時より何倍も多くの警察官を配備していたとしてもこの事故が防げたか否かについては甚だ疑問に思う。
日本でも2001年7月に同じような事故を明石市で起こしていて、夏祭りの花火を見物に来ていた人達が橋の上で群集雪崩を起こし多数の死傷者を出している。この事故では警察関係者が処分を受けているが、気の毒である(これもある意味で後出しじゃんけん)。
狭い場所で一旦数千人・数万人・数十万人と多くの群集が動き出し流れ始めたら、いくら警察官と言え人の力でその流れを止めることなど出来ようはずがない(これは机上だけでものごとを考える人達には理解できない状況のことだと思いますが、この人達が判断して被疑者を作り上げ、送検した後に裁判所が判決文を出すのだからねぇ。人の脳が少し先のことを想定する・想像をする能力には限界があることの理解も必要なのではないでしょうか。ただ行政側の立場としては誰かに責任を取らさなければ世間が納得しない!の言い分も判らないわけではありませんが、本当にそれで良いのかの疑問はのこる)。
 ではここから本質の話しに移ります。
事故にあった人達には気の毒ではありますが、事故に巻き込まれない方法はあるのです。
それは特別な用事でも無い限り多くの人が集まる場所には出て行かないことです。
日本には昔からある「いろはカルタ」に次のようなものがあります「犬も歩けば棒に当たる」です。
これが本質をついている内容で、大した用事も無いのにふらふらと出歩くと棒で叩かれて酷い目に遭うから、むやみやたらと出かけるなと言う意味のようです。
 外国の祭りなのにハローウィン前日に仮装までして集まっていた若い人達の心情を想定してみると「ねぇ皆見てよ、私の仮装凄いでしょう。何時間もかけたのよ」仲間と共に仮装をして誘い合い「楽しいねぇ、凄い人出だねぇ、来て良かったねぇ」「芸能人の誰々も来ているんだって。そこに行ってみようよ」「皆でぱぁっと騒ごうぜ」「行けば何か良いことがありそうな気がする」などでしょう(これらは一部自己顕示欲に駆られた行動ですよ)。
 何が楽しくて人ごみに揉まれて良かったのかよく解かりませんし、芸能人などはテレビや銀幕の中で見れば十分だと思うのだけれども生で見てみたい欲求に駆られるなどの人達は「心が浮ついている人」「浮かれた人」の集まりであり、その人達が集団を形成しているのだから良いことなど絶対に起ころうはずが無いのに出かけて行ってしまうのは恐らく人生経験が不足している幼稚さであり愚かさであろうと言ってよいと思う。
特に子供を観察していれば解かることで、子供は意味もなく「はしゃぐ」「走る」「騒ぐ」「奇声を上げる」などの行為を行うので、このことから判断するとハローウィンに集まる人達はやはり体は大人となっていてもまだ心が未成熟な子供と同じ程度ではあるまいか。
また芸能人が来ているなどの情報などは恐らくスマホを通じてのことでしょうが、どうでもよい情報などには惑わされず、落ち着いて判断してから行動を取るべきであり、何より自分の身は自分で守る!の原則を忘れるとこのような目に遭ってしまうことになります。
いつも言っているように国や行政が自分を守ってくれているわけではありません!の通りとなってしまい、当時梨泰院(イテウォン)地区には百人以上の警察官が配備されていたけれど事故防止の役には立たなかったでしょう。
こう言う私も同じように子供(若い時を含めて)の頃には「心の浮かれるままに」人ごみの中に出かけていたことがあるけれど、悪いことには遭遇すれども良き事など一度も起こらなかった記憶がありますから、振り返りよく考えてそこから学んだことです。
しかし人は心が浮つくと居ても立ってもいられなくなるのは人としての性でしょうかね。
最後に格言をもう一つ「君子危うきに近寄らず」がありますが、若い人達には群集が「危うきところ」には思えないのでしょうね(いや最近では最早若くもない人達も同じかな)。
だから私などは「祭りなどで人が沢山集まっている中心辺りには決して近づかない」「行列には並ばない」「人だかりが出来ている所にも近寄らない」を守っています。






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「酔龍の独り言:その031」

                [ 交雑種 オオ山椒魚 ]

 先日NHKニュースでの報道だったと思うのですが、オオ山椒魚(生きた化石と言われていて国の天然記念物・絶滅危惧2類に指定されている)の交雑種が増えてきて問題となっているそうである。
 このオオ山椒魚は世界最大級の両生類で別名「ハンザキ」とも呼ばれ、その名前の由来は「半裂き(はんざき)」にしても死なないほど生命力が強いからだとか、大きな口を開けた姿が「半裂き」にされたように見えるからだとも言われている。
過去には日本でも食用にされていたこともあってのことか、数十年前に中国から食用として輸入されてきた外来種であるチュウゴク オオサンショウウオの固体が逃げ出して、日本固有種のオオ山椒魚と交雑し現在に至り交雑種が増え続けている現状を憂いているようである。
日本固有種のオオ山椒魚は捕獲も飼育も禁止されているけれど、チュウゴク オオサンショウウオは捕獲も飼育も食用もお咎めなしのようである。通常見た目ではその区別が付かないので、取り敢えず一旦捕獲してからその遺伝子を調べないと判別出来ないと言うことのようだからとても厄介である。
一般の人がチュウゴク オオサンショウウオの駆除に協力しようとして捕獲した山椒魚が日本固有種のオオ山椒魚であったなら罰を受けることになり、チュウゴク オオサンショウウオならお咎めなしの法の下では、特別に許可を得た機関や人物でなければ日本固有種は捕獲すら出来ないのだから一般の人は交雑種駆除に協力が出来ないということになってしまうから、結果交雑種の駆除には気が遠くなるような時間が掛かってしまい、交雑種は増えるばかりとなろう。
交雑種が増えてくることが何故問題になるのかと言うと、日本固有の遺伝子を持つ在来種が絶滅するからと言うことのようで、オオ山椒魚以外にも現在日本における動物の交雑種(亀やメダカに鯉など)が増えていて大きな問題となっているようです。
これらに関してはテレビの番組「緊急SOS池の水全部抜く」で報道されていますから皆様にも馴染みがあると思われますし、私は必ず録画してこの番組を観ています。
素人目で見る限りでは交雑種と在来種の区別がつかないような姿をしているものも多いので、ある意味結果的に雑種と成ってしまったからと言って、その生物が絶滅したわけではないのだから問題にすることはなかろうと言われればそれまでだと思いますし、ましてや遺伝子を調べなければ判別できないほどのものとなれば尚更の感があります。
しかし、何故国を挙げてこれほど在来種の保護にこだわるのでしょうか?についての答えは、どうもはっきりしないようです。
 それで私なりに考えてみたところでは①純潔を尊ぶ国民性②穢れを嫌う国民性に由来するなどであろうかと思うので、純粋に日本国内で棲息してきた純血固有種に外国からの遺伝子を混ぜ合わせることなど罷り成らんと言うことではないでしょうかね。
 しかしながら日本国有の遺伝子を持つ神国日本国民については交雑(国際結婚)を止めようともしない政府は一体何を考えているのでしょうか?交雑をすれば身体的な能力は勝る場合が多いようですが、人としての資質の低下はとても大きいかも知れませんのに・・・。
オオ山椒魚も同じ扱いをすれば、国際結婚とはならないのでしょうか?。

 その反面様々な野菜や果物などは交雑(この場合は品種改良と言う)を繰り返しながら質の良いものを作り上げてきているが、元々「米」や「白菜」「ピーマン」「トマト」など殆どの野菜や果物は大陸(中国・欧州など)からの外来種である。だからか、野菜や果物については日本固有の純血を問おうとしない?。
そうかと思えば、和牛や競走馬であるサラブレッドは血統を重んじて純血を保っている上に、室内犬に猫などは体型や毛並み毛色・顔付きなど品種改良を繰り返して行い、その結果作り上げた品種の血統を大事にして売買を目的とした?殖家達の稼ぎの場ともなっている現状をどのように捉えればよいのだろうか。

 一方アメリカからの外来種であるブラックバスやブルーギルのような悪食で獰猛な上に異常な繁殖力を持つ魚が日本に蔓延ると、おとなしい日本の在来種であるメダカやヨシノボリにアユ・エビなどの甲殻類・蝌蚪(かと・おたまじゃくし)などは全て食べられてしまい、放っておけば日本の池や湖にはブラックバスとブルーギル以外の魚はいなくなり、日本の魚が絶滅するのは目に見えている(流れのある川などではブラックバスやブルーギルは育たないそうです)ので、結果として日本の池と湖はアメリカになってしまう。
だからこの現状を憂いている人達は外来種の駆除しようとしているが、心無いバス釣り愛好家などが日本の各地に外来魚の放流を繰り返しているようだからこれでは一向に数が減らず、鼬ごっことなっている。
アメリカのブラックバスやブルーギルが日本の魚を食い尽くそうとしている姿は、アメリカが日本の財産を食っている現状と重なっているので自然界も人間界も同じで情けない姿である。






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「酔龍の独り言:その030」

               [ 俯き国民・下向き国民 ]

 今年になって虫の音(コオロギ)を聞いたのは9月3日の夜でした。
蝉の声を聴いたのが7月2日だったので、1年の命すら持たされていない虫たちは次に世代を残す為にと自然(気候)の移り変わりを逸早く感じ取り姿を現すのであろう思われる。
人が作った暦など命短い虫たちにとっては、きっと大雑把過ぎて馴染めないのでしょう。
そう考えると自然界では夏と秋の間は2ヶ月間ということになり、虫の声が途絶えたら秋から冬に移り変わると言うことなのでしょうね。

 「俯く」と「下向き」と言う言葉が日本語にあるが、いずれもあまり良い言葉ではない。
ものごとが衰える形態や気落ちしている状態を示すと言うのがこれら言葉の意味である。
 今の日本において8割を超える人達が [ 俯き国民・下向き国民 ] と化してしまっている。
新幹線・電車・バスの中で下向を向いて何やら片手で四角いものを手にして指で操作している姿を見るのは日常的な光景となっていて、つり革片手に片腕で操作をしている人も多くいる。
バス停や電車を待っている間も立ったままで下を向いて同じ動作をしている光景が違和感なく社会の中に受け容れられている光景は異常であると私は思っているのですが、多くの方はそのように感じてはいない様子である。
その四角いものとはスマートホン(以下スマホと略します)と呼ばれる携帯電話機である。
信号待ちをしている車の中(僅か1分か2分ですよ)でもスマホを触っているし、挙句の果ては車を運転しながらスマホを操作している光景を対向車とすれ違い様によく見かけるし、自転車に乗りながら片手で操作をしている若者や歩きながらの操作も時折見かけることがある。
街中の歩道で小さな子供を連れた若い母親が子供の手を離し、歩きながらスマホを操作していて、子供は母親の前後左右をうろちょろしている。あらゆることに興味津々な子供は急に方向を変えて走り出したりするもので、歩道を走る自転車との衝突や急に車道に飛び出すかも知れないのに一体何を考えて子育てをしているのだろうかと腹立たしい思いが湧いてくる。
自分の子供であっても子供は日本社会の財産でもあるのにその自覚すら持たない。
このような母親は仮にこの状態で子供が事故に遭遇すれば、相手を責めるばかりで己の不注意と子育ての自覚の無さが原因であったと反省すらできない人種であろうと想像する。
 この方達は一つ間違えば大事故を起こすかもしれない危険を孕んでいる状態でありながら一体何をスマホで調べたいのであろうかといつも疑問に思う。そこまで急いで調べなければならないことが本当にあるのだろうか?会社の経営者が振り出した手形が落とせないので急遽金策を行っているとか、出かけていた医師が急変した患者に対する手当ての指示を出すなど危急存亡の状態でなければそこまでする必要があるのだろうかと、つい空しさを伴った溜息が出ます。
 スマホがとても便利であることを否定するものではありませんが、スマホは道具ですから上手に使わなければ意味を成さない。
上手に使うことの意味は操作が上手いと言うことではなくて(これは形態の話し)本当に必要な時に使うもの(これが質の話し)です。
 バス停で待っている時などを含めて傍でスマホを触っている人の画面をチラッと見ることがあります。私は目が悪いのではっきりとは見えていませんが、ほとんどと言ってよいほど画面の中はゲーム・漫画・服装・食い物・映画などと思われ、今バスを待ちながら見なければならない内容のものではあるまいと思うのだが止められない様子である。
家に帰って落ち着いてからスマホを触ったのでは遅いのでしょうか?何か手遅れになるような事象でもあるのでしょうか。
人は外出している時など何時暴走車がこちらをめがけて突っ込んでくるかもしれず、刃物を持った暴漢が近くによって来るかも知れない危険を孕んでいるのに、目と耳はスマホに奪われてしまい全く危機意識を持たない人が余りも多くなったのだと嘆かわしくなる。
これも政府が無責任に「安心安全」を事あるごとに口にするものだから、安全は保障されていると錯覚しているのだろうと思えるが、政府はあなた個人の身の安全の保証などしてはいませんよ、良く考えたら判るはずで、気持ちが浮ついている証拠です。
人間の社会も自然界における動物の社会と同じで自分の身は自分で守らなければならない責任を背負っているのにその自覚が全くといってよいほどに無い。
このような状態は言うならご本人はスマホを使っていると思っているようですが、明らかにスマホに使われています。
車の普及の時(今も変わっていませんけれど)もそうでしたが、僅か百メートルしか離れていない店にタバコや週刊誌のような物でも車で買いに行くのは、もう車を使っているのではなく車に使われている状態を意味します。
形態に目も心も奪われてしまったら本質が見えなくなるのでこのような状態が起こります。
便利な道具を手にした代わりに本質を見る心を失い、心が貧しくなったのではあるまいかと自問して欲しいものだと思います。
 便利さを認めた上で操作の煩わしさに加え価格を比較した結果、私はガラ携を愛用しています。恐らくこれからもずっとガラ携を手放さないと思います。
またやたらとスマホで写真を撮影している方も多く見かけますので、これではカメラ産業が衰退の一途を辿るのも頷けます。
しかし、写真を撮るのはことばで説明できない事柄や事象を伝達する為に記録するものであって、どのように素晴らしい景色であれ、美しい花など感動的な季節の移り変わりの様であっても私は写真には収めません。
感動や美しさは心の中と脳の記憶に納めることにしています。
一番大事なことは写真を撮っても説明が出来ない「善意の行動」を見たときや「心の優しさに触れた時」「惻隠の情に触れた時」などと同じで心で感じ納めておくものだと思っているからです。
今ではスマホで手軽に写真が取れるので何でもかんでも撮影していている方を多く見かけますが、殆どの方は撮った写真の整理もせずにそのままスマホの記憶媒体の中に残っている状態が何年も続いていると思っています。一体何の為に写真を撮ったのでしょうかねぇ。これも私にはスマホに使われている人間の哀れな姿に見えるのですが、当のご本人たちは本質を見失っているので気が付かないままこれからもスマホを使っていると思いながらスマホに使われる人生を過ごされるのでしょう。
 国民の殆どが「下向いている姿」を見て何も感じないのならどこか感受性の焦点が狂っているとしか思えません。
殆どの人がしているから大丈夫と安心していても決して良いことではありません。自分の行動をよく分析してから良し悪しを考えて身の振り方を考えましょう。
決してスマホが使えない悔しさから言っているのではありませんので、念のため申し添えます。






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