「酔龍の独り言:その039」
2023-05-26
[ 少子化対策その四 ]
「少子化対策その四(窮屈になった日本の社会と核家族[政策]の失敗)」
また金融機関大手である都市銀行が振り込み手数料を値上げすると発表したとの報道があったが、前回の振り込み手数料値上げから僅か一年しか経っていない。
殆どの銀行は数十億円か千億円以上の利益を出しているにも拘らず、まだ不足だと言っているのですよね。対外的にはお客さんのため、利用者の為と言いながら、どのように考えてみても、やっていることは銀行が今以上の利益確保と手間の省略が目的であることは明白であろう(振り込み手数料を値上げすることが本当にお客さんのためや利用者の為になるのかねぇ。自問自答して欲しいものである)。
このような社会にしてしまったからこそ、庶民は将来的な不安を感じて希望が持てない気持ちになってしまうので、結婚して子供を産む意欲が湧いてこない(社会を取り巻いている環境が何時また値上げをするのだろうか・・・と)。
四月二十七日にこの発表を聞いたので、つい愚痴ってしまいましたが、本文に入ります。
世界中を見渡しても今の日本ほど綺麗な街並みを維持している国はなかろう・・・道路にゴミやタバコの吸殻など殆ど見かけないし、安心安全の謳い文句の下で手摺や柵などがあちらこちらに張り巡らされて、道路や歩道における高低差の解消までが進められている。
とても綺麗で安全な国ですよねぇ、でもこのような良い国で何故子供が増えないのか不思議で仕方がありません(綺麗で安全な国との表現は形態の話しです)。
では今の日本は本当に住みやすく、国に対して信頼がおけて将来にも希望が持てる様な国ですかと聞かれれば、殆どの人は「否」と答えが返ってくる様な気がしています(これが本質の話です)。
今の日本は外見上の見た目は良いけれど、中身はどうやら違っているようで、とても住み辛く窮屈で、先の見えない社会だと考えている人の方が圧倒的に多いように思えます。
まず、住み辛いと感じてしまう事について検証してみましょう。
現在の日本国に於いて法律(政令・省令・条例・告示・規則・細則などは行政側が作成するのでしょう)は国会が開かれるたびに新しく作られていますし、現在では時代にそぐわず不要になったと思われる様な法文も削除されず生き続けているのが現状です。
私達日本国民は膨大な法文の下で、これらの法に触れずに生活していると言うことになるわけですが、その全ての法文を理解した上で生活している訳でもありません。
法とはある意味で言えば、魚を捕る網のようなものだと思えば解かり易いもので、網の種類が多くなり、網目の大きさが小さくなるほど庶民にとっては窮屈になるということですから、業種を問わず年齢性別をも問わずに掛けられている網(法)は恐らく道路交通法でしょうから、自転車を例に取れば判り易いと思いますので少し触れてみれば、二人乗り禁止から始まり通行方法や通行場所まで決められ、ながら運転の禁止に防犯登録の義務や保険加入にヘルメットの着用まで口出しされるようになったのは、自転車の性能が格段に向上し、交通量の増加に加えて事故も増えている現状では、建前上で人命尊重・安心安全を謳い文句にしている我が国ですから、これらの法が決して悪いとは言えないけれど、高が自転車ですよ・・・そこまで規制するのか・・・何だか窮屈ですよねぇ、でもこのような規制は30年前には無かったと思うけど・・・。
しかし、このような規制を設けても、スマホを触りながらの運転や通行禁止の場所での運転などをよく見かけますので、法で縛ってみても効果は薄いものだとの証でしょう。
だからやはり自転車や車・スマホなどの道具を扱う側である「人の心の在り方や美しさ」
「惻隠の情」などが日本人の心から欠けた事によるところが大きいと思っています。
自転車の例などは、どれほどあるのか判らない法の中の一例でしかありませんから、砂浜の中にある砂の一粒と言ったところでしょうが、それぞれの業界に係る法を加えたら一体如何程の法文があるのやら、そして法文は国債の発行と一緒で増え続けているし、改正と謳いながら本質は国民虐めの改悪に近い内容と思われるものが多いと感じているのは私だけではあるまい。
話が少し脇道に逸れますが中国の史実に基づいた物語「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)」では、秦を滅ぼして漢帝国を築き上げた劉邦が最初に法を定めたのが「殺すな・盗むな・騙すな」の三つであったと記憶しているが、秦の時代では難しい法が多くあって国が纏まらなかったけれど、この三つの法にしたら民にとって判り易く、格段に治安が良くなったと言うことであったらしい。
昔から言われていることに「法は簡素なほど良い」と「法は運用されるべきで適用するべきではない」があるけれど、現在の法文は専門職の弁護士でも難解な法文も多く、法を適用していることも多くあるように感じているから、やはり窮屈ではないでしょうか。
法による規制に頼ることは、善良な人の心を痛めるだけで返って悪循環に陥りやすいのに、新しい法ばかりを作り国民の心を窮屈にするのでは「子供を産んで、育ててみよう」との気持ちは湧いてこないでしょう。
社会全体が自己中心的となって、他人を想い遣る気持ちが薄れ、助け合うことをしなくなった人の心が小子化を招いていることなのに何故それに気づかないのだろうか。
これに輪をかけて小子化の要因となったのは「核家族(政策)」である。
日本では戦後の高度成長・経済成長の下で官民一体となって個人住宅産業を育成してきた経緯があり、今日まで来る途中の40年ほど前までは建設される公団住宅や個人の家(建売住宅がほとんどである)が2DKや3DKでも、床面積は15坪(50㎡)以下で、とても小さく(狭く)て、諸外国からも「ウサギ小屋」と揶揄された時期もあったが、家の広さから考えると子供は2人までだったでしょう。
この頃から小子化と言われる兆候が顕著となってきたのではと思っています。
しかし、同じ日本国内でもまだ田舎の方では、古くから住み続けていた広く大きな家で夫婦の両親(中には夫婦どちらか数人の兄妹)と同居している中で子育てをしていた家庭が一般的だったので、長く子育てをしてきて蓄積された親の知恵を貰いながら、忙しい時は親や兄弟の手を借りることが出来たから、家の中でお互いが助け合いながらの生活が確かにそこにあった。
だから先行きのことなどに関しても今と同じように不安を感じていたと思われるが、現在とは違って心身共に余裕が持てる中で子育てが出来ていたと言うことではなかろうか。
それから次第に女が結婚する相手は「長男以外で、高学歴、高収入」でなければ嫌だと言う社会現象が生じた時期もあり、親との同居を嫌がる風潮が広まってしまった。
更に悪いことに学歴に偏執する社会となったため子供達の多くは都会の大学に行き、そのまま街で就職し結婚して家を持つようになった流れがごく普通の家庭の姿となったので、日常的に兄弟・親子で助け合って生活していた社会が世の中から消えてしまったのが現在である。
また都会に出て行かなければ希望する仕事にも就けず、十分な収入も得られない社会となっては一家の長男までが家を出てしまい、広くて大きな田舎の家は終に住み手を失い、買い手も借り手も見つからないでは、朽ち果てるのを待つ以外に残された道が無い現状は、まるで現在の我が身と重なるようにも思えるのは、これまで日本の行く先が誤った方向であることに気が付かずに歩んで来た団塊の世代である75歳前後の者達の共通した悩みなのに、追い討ちをかけるように田舎の空き家となった家をそのまま放置すれば「空き家税(新法です)」を課せられるようになるとは、年寄りに鞭打つ政策としか捉えようのない政策である。なにせ住む人が少なくなってしまった田舎の家や土地など借り手の需要など無く、売ろうにも買い手が付かずの現状ですからねぇ~一体どうしろと言うのでしょうか。地方自治体が引き取ってくれれば有難いのだけど、負となる土地や家は引き取らないそうですから困ったものです。
それなら家を壊せば良いではないかと思われるかもしれませんが、広い家を壊すのには少なくとも今直ぐ数百万円以上は必要やで、そんで持って家を壊したら今度は土地の評価額が上がるから土地の固定資産税が何倍かになりますわなぁ、どちらを取っても踏まれたり蹴ったりされるようで面白くありませんなぁ、やはり窮屈で仕方ありません。
先進国と言われている都市に人口が集中しているのは日本だけではなくて世界中で共通していることです。そして同じく共通しているのが「核家族」と「小子化」ですよ。
人口が増加している国「インド」では三世代が一つの住まいを共有しているのではないでしょうか、詳しく調べている訳ではありませんので自信はありませんが・・・。
ただ、戦後アメリカから押し付けられた多くの法によって良き日本の心と生活習慣や文化が駆逐されたことは否定できません。
過去の日本において鎌倉幕府が潰れてしまった最大の理由は現在と同じ平等相続にあったことを忘れてはいけません。「平等相続」は「核家族」と同じことです。
一見良さそうに見えるけれど、相続を繰り返すごとに資産は痩せ細り、幾ら生活に必要な物といえども本家に一つあれば全員で使いまわして済んでいたのに、相続したら子供の数の分だけ必要となるのですからねぇ、この上もなく無駄を増やしているのが今の日本でしょうか。
鎌倉時代と同じ道を歩んでいるのが昭和・平成・令和ですから、滅びの道を辿っているということでしょうか。
「少子化対策その四(窮屈になった日本の社会と核家族[政策]の失敗)」
また金融機関大手である都市銀行が振り込み手数料を値上げすると発表したとの報道があったが、前回の振り込み手数料値上げから僅か一年しか経っていない。
殆どの銀行は数十億円か千億円以上の利益を出しているにも拘らず、まだ不足だと言っているのですよね。対外的にはお客さんのため、利用者の為と言いながら、どのように考えてみても、やっていることは銀行が今以上の利益確保と手間の省略が目的であることは明白であろう(振り込み手数料を値上げすることが本当にお客さんのためや利用者の為になるのかねぇ。自問自答して欲しいものである)。
このような社会にしてしまったからこそ、庶民は将来的な不安を感じて希望が持てない気持ちになってしまうので、結婚して子供を産む意欲が湧いてこない(社会を取り巻いている環境が何時また値上げをするのだろうか・・・と)。
四月二十七日にこの発表を聞いたので、つい愚痴ってしまいましたが、本文に入ります。
世界中を見渡しても今の日本ほど綺麗な街並みを維持している国はなかろう・・・道路にゴミやタバコの吸殻など殆ど見かけないし、安心安全の謳い文句の下で手摺や柵などがあちらこちらに張り巡らされて、道路や歩道における高低差の解消までが進められている。
とても綺麗で安全な国ですよねぇ、でもこのような良い国で何故子供が増えないのか不思議で仕方がありません(綺麗で安全な国との表現は形態の話しです)。
では今の日本は本当に住みやすく、国に対して信頼がおけて将来にも希望が持てる様な国ですかと聞かれれば、殆どの人は「否」と答えが返ってくる様な気がしています(これが本質の話です)。
今の日本は外見上の見た目は良いけれど、中身はどうやら違っているようで、とても住み辛く窮屈で、先の見えない社会だと考えている人の方が圧倒的に多いように思えます。
まず、住み辛いと感じてしまう事について検証してみましょう。
現在の日本国に於いて法律(政令・省令・条例・告示・規則・細則などは行政側が作成するのでしょう)は国会が開かれるたびに新しく作られていますし、現在では時代にそぐわず不要になったと思われる様な法文も削除されず生き続けているのが現状です。
私達日本国民は膨大な法文の下で、これらの法に触れずに生活していると言うことになるわけですが、その全ての法文を理解した上で生活している訳でもありません。
法とはある意味で言えば、魚を捕る網のようなものだと思えば解かり易いもので、網の種類が多くなり、網目の大きさが小さくなるほど庶民にとっては窮屈になるということですから、業種を問わず年齢性別をも問わずに掛けられている網(法)は恐らく道路交通法でしょうから、自転車を例に取れば判り易いと思いますので少し触れてみれば、二人乗り禁止から始まり通行方法や通行場所まで決められ、ながら運転の禁止に防犯登録の義務や保険加入にヘルメットの着用まで口出しされるようになったのは、自転車の性能が格段に向上し、交通量の増加に加えて事故も増えている現状では、建前上で人命尊重・安心安全を謳い文句にしている我が国ですから、これらの法が決して悪いとは言えないけれど、高が自転車ですよ・・・そこまで規制するのか・・・何だか窮屈ですよねぇ、でもこのような規制は30年前には無かったと思うけど・・・。
しかし、このような規制を設けても、スマホを触りながらの運転や通行禁止の場所での運転などをよく見かけますので、法で縛ってみても効果は薄いものだとの証でしょう。
だからやはり自転車や車・スマホなどの道具を扱う側である「人の心の在り方や美しさ」
「惻隠の情」などが日本人の心から欠けた事によるところが大きいと思っています。
自転車の例などは、どれほどあるのか判らない法の中の一例でしかありませんから、砂浜の中にある砂の一粒と言ったところでしょうが、それぞれの業界に係る法を加えたら一体如何程の法文があるのやら、そして法文は国債の発行と一緒で増え続けているし、改正と謳いながら本質は国民虐めの改悪に近い内容と思われるものが多いと感じているのは私だけではあるまい。
話が少し脇道に逸れますが中国の史実に基づいた物語「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)」では、秦を滅ぼして漢帝国を築き上げた劉邦が最初に法を定めたのが「殺すな・盗むな・騙すな」の三つであったと記憶しているが、秦の時代では難しい法が多くあって国が纏まらなかったけれど、この三つの法にしたら民にとって判り易く、格段に治安が良くなったと言うことであったらしい。
昔から言われていることに「法は簡素なほど良い」と「法は運用されるべきで適用するべきではない」があるけれど、現在の法文は専門職の弁護士でも難解な法文も多く、法を適用していることも多くあるように感じているから、やはり窮屈ではないでしょうか。
法による規制に頼ることは、善良な人の心を痛めるだけで返って悪循環に陥りやすいのに、新しい法ばかりを作り国民の心を窮屈にするのでは「子供を産んで、育ててみよう」との気持ちは湧いてこないでしょう。
社会全体が自己中心的となって、他人を想い遣る気持ちが薄れ、助け合うことをしなくなった人の心が小子化を招いていることなのに何故それに気づかないのだろうか。
これに輪をかけて小子化の要因となったのは「核家族(政策)」である。
日本では戦後の高度成長・経済成長の下で官民一体となって個人住宅産業を育成してきた経緯があり、今日まで来る途中の40年ほど前までは建設される公団住宅や個人の家(建売住宅がほとんどである)が2DKや3DKでも、床面積は15坪(50㎡)以下で、とても小さく(狭く)て、諸外国からも「ウサギ小屋」と揶揄された時期もあったが、家の広さから考えると子供は2人までだったでしょう。
この頃から小子化と言われる兆候が顕著となってきたのではと思っています。
しかし、同じ日本国内でもまだ田舎の方では、古くから住み続けていた広く大きな家で夫婦の両親(中には夫婦どちらか数人の兄妹)と同居している中で子育てをしていた家庭が一般的だったので、長く子育てをしてきて蓄積された親の知恵を貰いながら、忙しい時は親や兄弟の手を借りることが出来たから、家の中でお互いが助け合いながらの生活が確かにそこにあった。
だから先行きのことなどに関しても今と同じように不安を感じていたと思われるが、現在とは違って心身共に余裕が持てる中で子育てが出来ていたと言うことではなかろうか。
それから次第に女が結婚する相手は「長男以外で、高学歴、高収入」でなければ嫌だと言う社会現象が生じた時期もあり、親との同居を嫌がる風潮が広まってしまった。
更に悪いことに学歴に偏執する社会となったため子供達の多くは都会の大学に行き、そのまま街で就職し結婚して家を持つようになった流れがごく普通の家庭の姿となったので、日常的に兄弟・親子で助け合って生活していた社会が世の中から消えてしまったのが現在である。
また都会に出て行かなければ希望する仕事にも就けず、十分な収入も得られない社会となっては一家の長男までが家を出てしまい、広くて大きな田舎の家は終に住み手を失い、買い手も借り手も見つからないでは、朽ち果てるのを待つ以外に残された道が無い現状は、まるで現在の我が身と重なるようにも思えるのは、これまで日本の行く先が誤った方向であることに気が付かずに歩んで来た団塊の世代である75歳前後の者達の共通した悩みなのに、追い討ちをかけるように田舎の空き家となった家をそのまま放置すれば「空き家税(新法です)」を課せられるようになるとは、年寄りに鞭打つ政策としか捉えようのない政策である。なにせ住む人が少なくなってしまった田舎の家や土地など借り手の需要など無く、売ろうにも買い手が付かずの現状ですからねぇ~一体どうしろと言うのでしょうか。地方自治体が引き取ってくれれば有難いのだけど、負となる土地や家は引き取らないそうですから困ったものです。
それなら家を壊せば良いではないかと思われるかもしれませんが、広い家を壊すのには少なくとも今直ぐ数百万円以上は必要やで、そんで持って家を壊したら今度は土地の評価額が上がるから土地の固定資産税が何倍かになりますわなぁ、どちらを取っても踏まれたり蹴ったりされるようで面白くありませんなぁ、やはり窮屈で仕方ありません。
先進国と言われている都市に人口が集中しているのは日本だけではなくて世界中で共通していることです。そして同じく共通しているのが「核家族」と「小子化」ですよ。
人口が増加している国「インド」では三世代が一つの住まいを共有しているのではないでしょうか、詳しく調べている訳ではありませんので自信はありませんが・・・。
ただ、戦後アメリカから押し付けられた多くの法によって良き日本の心と生活習慣や文化が駆逐されたことは否定できません。
過去の日本において鎌倉幕府が潰れてしまった最大の理由は現在と同じ平等相続にあったことを忘れてはいけません。「平等相続」は「核家族」と同じことです。
一見良さそうに見えるけれど、相続を繰り返すごとに資産は痩せ細り、幾ら生活に必要な物といえども本家に一つあれば全員で使いまわして済んでいたのに、相続したら子供の数の分だけ必要となるのですからねぇ、この上もなく無駄を増やしているのが今の日本でしょうか。
鎌倉時代と同じ道を歩んでいるのが昭和・平成・令和ですから、滅びの道を辿っているということでしょうか。
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