「酔龍の独り言:その036」
2023-02-28
[ 少子化対策その一 ]
新型コロナの扱いが正式に「5類」に引き下げられると発表された途端に感染者が激減し始めたのには驚いているし、もしコロナウイルスに意思があるとすれば「これから先はもうコロナ・コロナと大騒ぎして貰えないのなら、これ以上感染者を増やしても面白くないので感染の拡大もう止~ぁめた」とでも言っていそうな感じがするけれど、感染者に対する統計の扱いが変わっていることも感染者減少の大きな要素なのかも知れません。
さて政府は長年の課題である出生率低下による「少子化問題」に関して、またもや税金を投入しての一律金額支給支援を目論んで国会が紛糾しているようだが、このような政策では全く効果などは出ないと申し上げておく。
どうして政治家と官僚は物事の「本質」が見えないのだろうかと情けなくなってしまう。
戦後直ぐに生まれた俗に言う「団塊の世代」の子供は沢山いた。丁度私がその最後の世代であるが、振り返ってみて当時は本当に日本国民の殆どが貧しかったように記憶している。
しかし、人の世であるから中には金持ちもいたけれど、皆一様に金持ちを妬み羨むわけでも無く「他所の家とうちは違う」の一言で片付けて淡々と生活をしていた。
着る物や履物は粗末であったし、食べる物も粗末な物が多かったけれど望んでみても美味しい物など貧しくて手に入らなかったのだから同じように「仕方が無い」で片付けていたように思う。
それでも親は多くの子供を育てていたのに、今なぜ当時と同じようにそれが出来ないのか?の中に少子化問題解決の「本質」が潜んでいると考えているのだけれど「本質」の要素が一つではなく、またそれらが複雑に絡まりあっているので一言では片付けられない。
まず第1番目に挙げてよいのは「共働きをしなければ子供が育てられない」ことである。
昔は主人の稼ぎだけで一家を養っていたけれど、充分な収入が無くとも、ただただ贅沢をせずに何事につけても「もったいない」の精神を持って、知恵を絞り工夫をしながら生活を営んでいた一言に尽きる。
ちょうど現在生活保護を受けて生活している方の暮らし振りと同じような感じではなかったかという気がします(生活保護を受けている方の生活振りは報道で見ただけなので、それからの推測に過ぎませんが・・・)。
今や一家に一台の車を持ち(交通の便が悪い地域では一人一台持っています)、大型のテレビを備え、食べ切れないほどの美味しい食品を手にし、各室にエアコンを備え便利な家電製品に囲まれた生活が日本に於ける一般的な普通の家庭でしょうか。
更に昔は一家に一台の固定電話があれば十分に家庭の中で役割を果たしていたのに、今や一人に一台の高価なスマホを持っていて、それぞれが電話料金を支払っている。
加えて一匹数万円から数十万円もする愛玩用小動物(犬・猫など)まで養っているのに、子供が産めないと言うのはどこか不思議ではないだろうか。
確かに生活の便利さや状況は向上したけれど、良く考えてみれば最低限生活に必要な物以外に対する出費が多過ぎるのではないかと思われ、本来日本人が長く受け継ぎ営んできた生活における本質を低下させているのではないかと考えられます。
と言うことは、自らが望んで余裕の無い生活へと向かっているように思えてなりません。
恐らく心情としては「皆が持っているから」「皆が飼っているから」「不便だから」などの理由であろうと思っていますが、これらから思考や意識が出発すると、もうそこには生活面での「工夫」は考えず「知恵」も生まれてはこない生活を送るようになり「人は人、自分とは違う」「他所とうちとは違う」との自己を規律する意識すらなくなってしまって「足るを知る」や「分相応」の言葉が脳裏から消え失せてしまうのではないかと考えます。
そもそも人の世では「自分の能力や人柄に加えて、その人物が持つ(不思議な)魅力に対して金も物も人も自らが望まなくとも自然と付いてくる」ものなのだけれど、自分の能力や人柄と魅力を削除しておいて「金」「物」「人」が欲しいと望んだところで手に入るわけなど無いのだが、錯覚するのでしょうかねぇ。
それに拍車をかけているのが消費者金融やローンと言う仕組みで、金がなくとも瞬時に現金を手にし、物を買うことが出来る「打ち出の小槌(現在はカードと言います)」を国民が手にしたことだと考えています。
欲望の趣くままに生活必需品以外の物を多く購入して家の中の居住空間を狭くし、挙句の果てには使わなくなって部屋の片隅に追いやられてゴミ扱いとなっている(結果としては借金までしてゴミを買ってしまったという事になりますよね)。
しかし、購入した物の代金は支払いが終わるまで続いてゆくのだから、収入が増えない限り何かを犠牲にしなければ今まで通りの生活は成り立たない。
その犠牲となっているものの一つが「結婚」や「出産」ではないかと思っています。
また犠牲に出来ることの限界が来て、収入も増える見込みがない状況に陥ればスマホなどからから来る誘いに乗って、軽い気持ちで犯罪に手を染め一生を台無しにしている者が増えていることはその証ではないでしょうか。
人が長い人生を歩んで行く間には年代によって様々な欲求が生じてくるものですが、「自分の能力や分を超えた欲求」など叶うわけが無いことの理解が出来ていないように感じています。人が生きるという事は「醜い欲求を生じさせる己の心との戦いである」と思っていますが、核家族を推奨してきた政府のお陰でこの様な事を子供の頃から教え導く同居する大人がいなくなり、教育を含めて心の充足度を成長させる場を失ってしまった結果、よき社会を構成していた日本の文化が崩壊寸前となっていることが、大きな要素であると私は確信している。
ではどうすれば良いのかという事になりますが、現在の官僚や政治家が一番苦手とする「心の在り方」を論じることになるから期待すら持てそうにない。
「時節には神も適わん」と言われているようだから、行き着くところまで行かねばならないのだろう。その結果を受け止めなければならないのは我々であるが、今の状況では悲惨な結果とならないように祈る以外なす術が無い。
続きは後日更新します
新型コロナの扱いが正式に「5類」に引き下げられると発表された途端に感染者が激減し始めたのには驚いているし、もしコロナウイルスに意思があるとすれば「これから先はもうコロナ・コロナと大騒ぎして貰えないのなら、これ以上感染者を増やしても面白くないので感染の拡大もう止~ぁめた」とでも言っていそうな感じがするけれど、感染者に対する統計の扱いが変わっていることも感染者減少の大きな要素なのかも知れません。
さて政府は長年の課題である出生率低下による「少子化問題」に関して、またもや税金を投入しての一律金額支給支援を目論んで国会が紛糾しているようだが、このような政策では全く効果などは出ないと申し上げておく。
どうして政治家と官僚は物事の「本質」が見えないのだろうかと情けなくなってしまう。
戦後直ぐに生まれた俗に言う「団塊の世代」の子供は沢山いた。丁度私がその最後の世代であるが、振り返ってみて当時は本当に日本国民の殆どが貧しかったように記憶している。
しかし、人の世であるから中には金持ちもいたけれど、皆一様に金持ちを妬み羨むわけでも無く「他所の家とうちは違う」の一言で片付けて淡々と生活をしていた。
着る物や履物は粗末であったし、食べる物も粗末な物が多かったけれど望んでみても美味しい物など貧しくて手に入らなかったのだから同じように「仕方が無い」で片付けていたように思う。
それでも親は多くの子供を育てていたのに、今なぜ当時と同じようにそれが出来ないのか?の中に少子化問題解決の「本質」が潜んでいると考えているのだけれど「本質」の要素が一つではなく、またそれらが複雑に絡まりあっているので一言では片付けられない。
まず第1番目に挙げてよいのは「共働きをしなければ子供が育てられない」ことである。
昔は主人の稼ぎだけで一家を養っていたけれど、充分な収入が無くとも、ただただ贅沢をせずに何事につけても「もったいない」の精神を持って、知恵を絞り工夫をしながら生活を営んでいた一言に尽きる。
ちょうど現在生活保護を受けて生活している方の暮らし振りと同じような感じではなかったかという気がします(生活保護を受けている方の生活振りは報道で見ただけなので、それからの推測に過ぎませんが・・・)。
今や一家に一台の車を持ち(交通の便が悪い地域では一人一台持っています)、大型のテレビを備え、食べ切れないほどの美味しい食品を手にし、各室にエアコンを備え便利な家電製品に囲まれた生活が日本に於ける一般的な普通の家庭でしょうか。
更に昔は一家に一台の固定電話があれば十分に家庭の中で役割を果たしていたのに、今や一人に一台の高価なスマホを持っていて、それぞれが電話料金を支払っている。
加えて一匹数万円から数十万円もする愛玩用小動物(犬・猫など)まで養っているのに、子供が産めないと言うのはどこか不思議ではないだろうか。
確かに生活の便利さや状況は向上したけれど、良く考えてみれば最低限生活に必要な物以外に対する出費が多過ぎるのではないかと思われ、本来日本人が長く受け継ぎ営んできた生活における本質を低下させているのではないかと考えられます。
と言うことは、自らが望んで余裕の無い生活へと向かっているように思えてなりません。
恐らく心情としては「皆が持っているから」「皆が飼っているから」「不便だから」などの理由であろうと思っていますが、これらから思考や意識が出発すると、もうそこには生活面での「工夫」は考えず「知恵」も生まれてはこない生活を送るようになり「人は人、自分とは違う」「他所とうちとは違う」との自己を規律する意識すらなくなってしまって「足るを知る」や「分相応」の言葉が脳裏から消え失せてしまうのではないかと考えます。
そもそも人の世では「自分の能力や人柄に加えて、その人物が持つ(不思議な)魅力に対して金も物も人も自らが望まなくとも自然と付いてくる」ものなのだけれど、自分の能力や人柄と魅力を削除しておいて「金」「物」「人」が欲しいと望んだところで手に入るわけなど無いのだが、錯覚するのでしょうかねぇ。
それに拍車をかけているのが消費者金融やローンと言う仕組みで、金がなくとも瞬時に現金を手にし、物を買うことが出来る「打ち出の小槌(現在はカードと言います)」を国民が手にしたことだと考えています。
欲望の趣くままに生活必需品以外の物を多く購入して家の中の居住空間を狭くし、挙句の果てには使わなくなって部屋の片隅に追いやられてゴミ扱いとなっている(結果としては借金までしてゴミを買ってしまったという事になりますよね)。
しかし、購入した物の代金は支払いが終わるまで続いてゆくのだから、収入が増えない限り何かを犠牲にしなければ今まで通りの生活は成り立たない。
その犠牲となっているものの一つが「結婚」や「出産」ではないかと思っています。
また犠牲に出来ることの限界が来て、収入も増える見込みがない状況に陥ればスマホなどからから来る誘いに乗って、軽い気持ちで犯罪に手を染め一生を台無しにしている者が増えていることはその証ではないでしょうか。
人が長い人生を歩んで行く間には年代によって様々な欲求が生じてくるものですが、「自分の能力や分を超えた欲求」など叶うわけが無いことの理解が出来ていないように感じています。人が生きるという事は「醜い欲求を生じさせる己の心との戦いである」と思っていますが、核家族を推奨してきた政府のお陰でこの様な事を子供の頃から教え導く同居する大人がいなくなり、教育を含めて心の充足度を成長させる場を失ってしまった結果、よき社会を構成していた日本の文化が崩壊寸前となっていることが、大きな要素であると私は確信している。
ではどうすれば良いのかという事になりますが、現在の官僚や政治家が一番苦手とする「心の在り方」を論じることになるから期待すら持てそうにない。
「時節には神も適わん」と言われているようだから、行き着くところまで行かねばならないのだろう。その結果を受け止めなければならないのは我々であるが、今の状況では悲惨な結果とならないように祈る以外なす術が無い。
続きは後日更新します
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