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建築家 潤 の『独断と偏見』

「酔龍の独り言:その030」

               [ 俯き国民・下向き国民 ]

 今年になって虫の音(コオロギ)を聞いたのは9月3日の夜でした。
蝉の声を聴いたのが7月2日だったので、1年の命すら持たされていない虫たちは次に世代を残す為にと自然(気候)の移り変わりを逸早く感じ取り姿を現すのであろう思われる。
人が作った暦など命短い虫たちにとっては、きっと大雑把過ぎて馴染めないのでしょう。
そう考えると自然界では夏と秋の間は2ヶ月間ということになり、虫の声が途絶えたら秋から冬に移り変わると言うことなのでしょうね。

 「俯く」と「下向き」と言う言葉が日本語にあるが、いずれもあまり良い言葉ではない。
ものごとが衰える形態や気落ちしている状態を示すと言うのがこれら言葉の意味である。
 今の日本において8割を超える人達が [ 俯き国民・下向き国民 ] と化してしまっている。
新幹線・電車・バスの中で下向を向いて何やら片手で四角いものを手にして指で操作している姿を見るのは日常的な光景となっていて、つり革片手に片腕で操作をしている人も多くいる。
バス停や電車を待っている間も立ったままで下を向いて同じ動作をしている光景が違和感なく社会の中に受け容れられている光景は異常であると私は思っているのですが、多くの方はそのように感じてはいない様子である。
その四角いものとはスマートホン(以下スマホと略します)と呼ばれる携帯電話機である。
信号待ちをしている車の中(僅か1分か2分ですよ)でもスマホを触っているし、挙句の果ては車を運転しながらスマホを操作している光景を対向車とすれ違い様によく見かけるし、自転車に乗りながら片手で操作をしている若者や歩きながらの操作も時折見かけることがある。
街中の歩道で小さな子供を連れた若い母親が子供の手を離し、歩きながらスマホを操作していて、子供は母親の前後左右をうろちょろしている。あらゆることに興味津々な子供は急に方向を変えて走り出したりするもので、歩道を走る自転車との衝突や急に車道に飛び出すかも知れないのに一体何を考えて子育てをしているのだろうかと腹立たしい思いが湧いてくる。
自分の子供であっても子供は日本社会の財産でもあるのにその自覚すら持たない。
このような母親は仮にこの状態で子供が事故に遭遇すれば、相手を責めるばかりで己の不注意と子育ての自覚の無さが原因であったと反省すらできない人種であろうと想像する。
 この方達は一つ間違えば大事故を起こすかもしれない危険を孕んでいる状態でありながら一体何をスマホで調べたいのであろうかといつも疑問に思う。そこまで急いで調べなければならないことが本当にあるのだろうか?会社の経営者が振り出した手形が落とせないので急遽金策を行っているとか、出かけていた医師が急変した患者に対する手当ての指示を出すなど危急存亡の状態でなければそこまでする必要があるのだろうかと、つい空しさを伴った溜息が出ます。
 スマホがとても便利であることを否定するものではありませんが、スマホは道具ですから上手に使わなければ意味を成さない。
上手に使うことの意味は操作が上手いと言うことではなくて(これは形態の話し)本当に必要な時に使うもの(これが質の話し)です。
 バス停で待っている時などを含めて傍でスマホを触っている人の画面をチラッと見ることがあります。私は目が悪いのではっきりとは見えていませんが、ほとんどと言ってよいほど画面の中はゲーム・漫画・服装・食い物・映画などと思われ、今バスを待ちながら見なければならない内容のものではあるまいと思うのだが止められない様子である。
家に帰って落ち着いてからスマホを触ったのでは遅いのでしょうか?何か手遅れになるような事象でもあるのでしょうか。
人は外出している時など何時暴走車がこちらをめがけて突っ込んでくるかもしれず、刃物を持った暴漢が近くによって来るかも知れない危険を孕んでいるのに、目と耳はスマホに奪われてしまい全く危機意識を持たない人が余りも多くなったのだと嘆かわしくなる。
これも政府が無責任に「安心安全」を事あるごとに口にするものだから、安全は保障されていると錯覚しているのだろうと思えるが、政府はあなた個人の身の安全の保証などしてはいませんよ、良く考えたら判るはずで、気持ちが浮ついている証拠です。
人間の社会も自然界における動物の社会と同じで自分の身は自分で守らなければならない責任を背負っているのにその自覚が全くといってよいほどに無い。
このような状態は言うならご本人はスマホを使っていると思っているようですが、明らかにスマホに使われています。
車の普及の時(今も変わっていませんけれど)もそうでしたが、僅か百メートルしか離れていない店にタバコや週刊誌のような物でも車で買いに行くのは、もう車を使っているのではなく車に使われている状態を意味します。
形態に目も心も奪われてしまったら本質が見えなくなるのでこのような状態が起こります。
便利な道具を手にした代わりに本質を見る心を失い、心が貧しくなったのではあるまいかと自問して欲しいものだと思います。
 便利さを認めた上で操作の煩わしさに加え価格を比較した結果、私はガラ携を愛用しています。恐らくこれからもずっとガラ携を手放さないと思います。
またやたらとスマホで写真を撮影している方も多く見かけますので、これではカメラ産業が衰退の一途を辿るのも頷けます。
しかし、写真を撮るのはことばで説明できない事柄や事象を伝達する為に記録するものであって、どのように素晴らしい景色であれ、美しい花など感動的な季節の移り変わりの様であっても私は写真には収めません。
感動や美しさは心の中と脳の記憶に納めることにしています。
一番大事なことは写真を撮っても説明が出来ない「善意の行動」を見たときや「心の優しさに触れた時」「惻隠の情に触れた時」などと同じで心で感じ納めておくものだと思っているからです。
今ではスマホで手軽に写真が取れるので何でもかんでも撮影していている方を多く見かけますが、殆どの方は撮った写真の整理もせずにそのままスマホの記憶媒体の中に残っている状態が何年も続いていると思っています。一体何の為に写真を撮ったのでしょうかねぇ。これも私にはスマホに使われている人間の哀れな姿に見えるのですが、当のご本人たちは本質を見失っているので気が付かないままこれからもスマホを使っていると思いながらスマホに使われる人生を過ごされるのでしょう。
 国民の殆どが「下向いている姿」を見て何も感じないのならどこか感受性の焦点が狂っているとしか思えません。
殆どの人がしているから大丈夫と安心していても決して良いことではありません。自分の行動をよく分析してから良し悪しを考えて身の振り方を考えましょう。
決してスマホが使えない悔しさから言っているのではありませんので、念のため申し添えます。






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