fc2ブログ

建築家 潤 の『独断と偏見』

「酔龍の独り言:その025」

                [ 18歳からの成人 ]

 令和四年四月一日より成人年齢が二十歳から十八歳に引き下げられた。
日本における「成人」の扱いとしての歴史を遡ると、奈良時代には既に「成人」の儀式が行われていて、地域によっては儀式の様式は少し異なっていたようですが、日本におけるその儀式は通称「元服(頭に冠を載せる儀式)」と呼ばれ、年齢は十三歳頃からのようであった。
 「元服」の儀式は江戸時代まで続いていたが、明治時代(明治九年)になってから国は「成人」としての取り決めを年齢で二十歳になった時と定め、それ以降約140年間続いていたけれど、此の度その年齢が引き下げられた。

 成人年齢が引き下がられた理由は、諸外国では成人年齢を十八歳と定めている国が多いからであるとか、政治に関心を持ってもらいたい、民法(様々な契約事やクレジットカード作成が親権者の同意なくして自分の意思で出来るようになる)を学んで欲しいなどと言っているようであるが、今一つ決定的な理由に欠けるような気がしてならない。

 しかし「成人」と言いながら飲酒や喫煙に公営賭博は二十歳になるまで禁止とは一体どういうことなのか。
飲酒・喫煙は健康被害を考慮しての禁止であり、公営賭博はギャンブル依存症を防止するためだと言うのだから「成人」の意味をどのように捉えてよいのやらさっぱり解からない。
選挙権と契約事だけの「成人」で、飲酒・喫煙・賭博に関しては「未成年」ですからねぇ何とも都合のよい「大人」作成劇だと思えてならないが、唯一女子の結婚年齢が十六歳から男子と同じ十八歳に引き上げられたことは納得が出来る。
と言うのも、人は脳が考えたことを体に指令を出して行動しているのだから「成人」として扱う部分は「脳」が「成人」としての資格?を有するほどに成長しているか否かが問題とならなければならないはずである。
果たして現在に於ける幼稚な十八歳の「脳」がその域に達しているのかと言われれば私は「否」である。
 
 自分のことで恐縮だが、二十歳の頃(まだ大学生2年生)を振り返ってみると、何ともお粗末な知識と能力しか持ち合わせてなくて、政治・経済を含めて「社会の仕組み」や「法」に関しては全く無知のままであったことを思い出します。
親に甘え、守られ保護されながら、更に社会にも甘えてきた結果ですから恥ずかしい限りです。
その原因は何かといわれれば「教育」の欠陥であると言う意外にないと言いたいのですが、仮に「教育」が十分であったとしても受け取る側の「子供」の「能力」がまだ理解できる水準に達していないだから「十分な教育そのもの」が行われたとしても無作為に終わることは容易に想像できる。
 つまり人の「脳」は知識を学び理解力を深めながら成長して発達するもので、その栄養素となるものは「ことば」であり「情緒力」だと考えています。
だから「脳」と「体」の成長と社会との係わり合いに「調和」が取れる頃になって始めて「人」は「成人」とみなされるべきであろうが私の持論なので、その年齢は三十代中頃にならなければ難しいように思えるから、「成人」は三十五歳辺りが妥当と思われるけれど、今の社会通念上では余りにも乖離が大き過ぎて現実にはそぐわずただの空論になってしまいます。

再び私事になりますが、平成元年から平成十八年まで私立大学の非常勤講師を務めた時の経験からお伝えすると、二回生(二十歳前後の生徒達)を教えていたけれど年を追うごとに学生の「知識」と「理解力」が低下してきて「ことば」の共有が難しくなって当惑した記憶がある。
私が大学生の時を振り返ってみて恥ずかしいと思う遙か下層の位置に彼らの「意識」があり、まるで中学生か!と思えるほどの感覚であった。
そのことを思い出しながら十八歳の「成人」は果たして妥当なのであろうかの疑問だけが心に澱む。





ブログランキングに参加しています。賛同して下さる方はクリックをお願いします→ クリックをお願いします

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://junblog241224.blog95.fc2.com/tb.php/359-e59cc301

 | HOME | 

文字サイズの変更

ブログ内検索

FC2カウンター

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

QRコード

QRコード

プロフィール

潤の『独断と偏見』

Author:潤の『独断と偏見』

カテゴリー

Template by たけやん