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建築家 潤 の『独断と偏見』

「双龍物語:第五章・幼少期の二」

 当時における柳井町の銀天街というのは近郊の町村から買い物客が多く集まる天蓋を持つ商店街で、長さにして500m位はあっただろうか、4m程度の道路の両側に様々な専門店を含む商店が軒を連ねていて、それはとても賑やかな通りであったのに、三十年前頃からではなかったかと記憶しているが、大型量販店の進出などの影響で一軒また一軒と商店が店を閉め始め、長い期間のシャッター街を経て、現在では一軒の建物も無くなり、少し広めの道路と河川公園に姿を変えてしまいました。
自然の原野や草原に戻ったわけではないけれど、あれほど賑わっていた光景を思い起こす度に芭蕉が詠んだ「夏草や、兵どもが夢のあと」の心境と重なってしまう。

 ただ、柳井町に新しい住まいを構えることになったところまではよかったのだが、問題が一つ生じていた。
それは滋子の母親ムメの妹である隆子とその娘が、別れた主人に付きまとわれて困っている状況にあったため、誠は二間の内の四畳半をこの親子の為に住まいとして提供したのである。
誠一家は奥の六畳に親子四人で住み、叔母親子は四畳半に同居するという、狭い中ではあるけれど何ともにぎやかな共同生活が始まった。
この頃滋子は建物を購入した返済のためか生活のためかは定かではないけれど、次男を身籠っているにも拘らず小学校の教諭として再び教壇に立っていた。
潤と栄子の二人は叔母に面倒を見てもらいながら、潤は金座街の奥の少し先にある幼稚園へと通い、園から帰ると柳井川に下りて行って川に入り、ススリン(うなぎの稚魚)を捕ったり、網で鮠(はや)・ハゼを掬ったりしながら、商店街の子供達と一緒に毎日々子供らしく楽しい日々を過ごしていた。
やがて次男「崇」が誕生し、潤も柳井小学校へ通うようになっていた頃には行動範囲も広がって、少し遠くにある用水路ともドブ川ともつかぬような中に入り、足に蛭をいっぱい付けながら小鮒や田螺を捕っては家に持って帰り、小鮒を飼いたいから水槽を買ってくれと誠にせがんだ。
もともと誠はこのようなことが好きであったのだろう、小さいけれどもガラスの水槽を買ってきて潤に与え、潤が水槽に砂を入れ水草を植えて小鮒が泳ぐさまを楽しそうに眺めている姿に目を細めていた。
このように潤は水棲動物が大好きで、誠に釣に連れてゆけとせがみ、夜になると柳井川にいる鰻が穴から出てきて休んでいる姿が見えているので土手から見釣をしたり、夏には川の上流に遡って蛍を捕まえたりと、片腕で何をするにも不自由であったにも拘らず、よく潤の我が儘をきいてくれた。
 これは潤が大学生になった頃に滋子から聞かされた話なのだが、小学一年の時に学校で知能テストがあった。
この時のテストについては、はっきりと記憶に残っている内容があり、それは円の中に迷路が書いてあって、それを入り口から終点まで鉛筆で線を引いてゆくものがあった。
その問題は合計で三問か五問あったような気がしているが、最初の一問目は入り口から線を引きながら終点に向かって鉛筆を這わせていたところ二・三箇所行き止まりに出くわすので、又戻りながら線を引き終点まで辿り着いた時にふとこれは終点から逆に出発点に向かった方が行き止まりに出会うことなく線が引けるのではないかと思った。
次の問題からは、そのようにやってみたところ全く迷うことなく線が引けてゆくではないか。
そのようなことがあって、全部の知能テストを終えたのだが、その日の夜に担任の先生が突然家を訪ねてきて滋子にこう言ったという。
「お宅のお子さんの教育はどのようにされているのですか」と聞かれた滋子は何のことか、さっぱり判らず「それは一体どういうことでしょうか」と問い返したところ「いや、お宅のお子さんの知能テストの結果があまりにも高いので驚きまして、それでどのような教育をされていらっしゃるのかをお伺いしようと思って・・・」と言われたそうだが、滋子は「いえ、特別なことは何もしていません」と答えたという。
仕事から帰ってそのことを聞かされた誠はこの子は先ではどのような子になるのだろうか・・・と期待と不安が生じたと言っていたようだが、結果的には潤の知能の高さは学問には反映せず、別な方向へ向かっていったようである。

 この頃にはまだほんの僅かではあったけれども商店街の中には裕福な店もあって、早々とテレビを購入した家があった。
当時の放送はまだNHKだけだったのではないかと思っていますが、近所の人達も一緒になってテレビのある家に集まり面白い番組だけを見せてもらっていたものです。
その中で時に記憶に残っているのが連続番組で「恐怖のミイラ」というのがあって、面白いのですが、子供の潤にとってはとても怖いものでした。
テレビを見終えての帰り道、商店街の店は全て入り口を閉め、電気が消えた薄暗い中を僅か数十メートルの家路がとても長く感じ、怖かった思い出が残っている。
 柳井小学校での思い出は2年生の終わりまでで、何の理由なのか解からないけれど、誠は柳井の銀天街にある店舗付きの住まいを同居していた義叔母に無償で与えて再び大畠に居を移したのである。
大畠の住まいは祖父母が住んでいる家から百メートルばかり離れた山陽本線上り側の線路沿いにある十五坪ほどの木造平屋で、どうやら遠縁の方の家を借りたようであった。
そして、その隣には祖父・乙次郎が若い頃に製氷業をしていた時の氷倉がそのまま残っていて、それは階高が異常に高く、中から見ると屋根に近い位置に小さな明かり窓が一つだけ設けてある気持ちが悪いほど薄暗い平屋の建物があった。
 何とか病魔から逃れることが出来た潤のその後は、誠が闇市で購入してきた粉ミルクや練乳で母乳の不足を補いながら、すくすくと成長していった。
そして数年後、父親の誠は久賀営業所の所長から課長に昇進し、柳井支店勤務を命じられたので、
取り急ぎ両親と妹五人が住んでいる大畠の家に居を移して同居することにしたのである。
この頃にはもう三歳となっていた潤坊は、同じ村内にあって、お寺が経営している幼稚園(保育園だったかも)に通うことになった。
季節は夏を過ぎ秋になった頃、幼稚園では運動会が催されるが、今と違って当時の小中学校を含む運動会と言えば村内の一大行事で、弁当を作り朝早くから運動場を囲むように筵を敷いて、それぞれの家の陣を構え、爺ちゃん婆ちゃんを始め家族全員が参加するのが一般的で、もうまるで祭りのような騒ぎであった。
運動会が間近に迫った頃、誠は潤坊にと新しいズック(運動靴)を買ってきていた。
真っ白な新しい運動靴で運動会に出してやろうとの親心であるが、日曜日となった運動会当日の朝、新しい靴を出して履かせようとしたところ潤坊は「先生が新しいズックやら運動着を着てきちゃあいけん。いつもと同じものを着て来い言うて言いよったんじゃけぇ、こりゃあいらん」と言って靴を履こうとしなかったと言う。
それでも誠は嫌がる潤坊の足に無理やり新しいズックを履かせて幼稚園へと向かったのである。
半べそとなっていた潤坊は嫌々ながら皆と一緒に運動場に腰を下ろし座ったところ、左右に見える足の靴はいつも通り薄汚れたズックで、自分のズックが真っ白いのに違和感を覚え、心の中で「それみろ!」と自分の言う事を親が聞いてくれなかったことに対しての不満が募った。
運動会の式次が次々と進んで行き、お遊戯が済んで、いよいよ駆けっこの時がやってきた。
しかし、走る順番が来たにも拘らず潤坊は「新しいズックはいけん言うて、先生がそう言うたんじゃけえ走らん」と駄々をこねはじめた。
親と先生が潤坊をなだめるのだけれど頑として受け容れない。
先生は「私が余計な事を言ってしまいましたか・・・」と困惑している中、誠は思い立って自転車に飛び乗り家まで古いズックを取りに戻ったのである。
古いズックに履き替えた潤坊は顔に笑顔が戻り、それは一所懸命走ったそうな。
そのときの記憶はうっすらではあるが残っていて、親は真面目過ぎるのか頑固なのか、やれやれと思ったそうである。
大畠村の大半は漁業と細々とした農業で生計を立てている家庭であったため、先生は余分な出費に対する配慮をしたのだろうと思われるけれども、潤坊にとってはやさしい親の配慮が仇となってしまったようである。

 この頃の滋子は二歳年下で生まれていた次女・栄子と潤坊の世話に掛かり切りの中で、舅・姑・小姑五人との共同生活をする大所帯の中では随分と気を遣いながらの毎日であった為、気持ちの休まるときがないように感じていた。
いくら大きめの家であっても大人七人と学生二人に子供の潤と乳飲み子の栄子を入れて総勢十一人が住むには、やはり窮屈であったのだろう、誠と話し合い、思い切って誠の勤務先のある柳井町へ居を移そうとの結論に至った。
新しい住まいを探していたところ、ちょうど売りに出ていた柳井町の銀天街入り口付近にある店舗付きの住宅(平屋で間口が二間半、奥行きは六間半の面積十六坪余り)を運よく購入することが出来た。
この店舗付き住宅は表に衣料雑貨店が借りて営業しており、店舗の裏に四畳半と一間の土間を挟んでその奥に六畳の畳部屋を持つ建物で、六畳の間は柳井川(満潮時には海水が上がってくる川)に足(石柱)を立てて架けだしした造りとなっているもので、土間からは直接柳井川へ下りて行ける構造になっていた。
ただ便所はあったが風呂が無かったので、親子揃って毎日のように銭湯に通っていた記憶が甦る。
 ただ当時の記憶として鮮明に残っているのが昭和二十九年八月の台風5号(グレイス台風)による恐怖の出来事である。
大量に降った雨で柳井川が増水し、大潮で満潮時期と重なったのであろう家の土間にまで水が上がってきて、川に張り出して造られた六畳の間が今にも浮いて流されそうになったのである。
誠と滋子は子供たちを手前の四畳半の間に避難させて叔母に預け、自分達は膝まで水に浸かりながら六畳の間に置いてある家財道具を運び出そうと懸命に動き回っていた。
濁った水で溢れている土間を行き来する両親を見ながら子供達は家共々両親が川に流されるのではないかの不安と恐怖で「お母ちゃんそっちへ行っちゃあいけん。流されるけぇ!お父ちゃんもこっちへ来んさい!」と泣き叫んでいる内に何とか両親は大事な物だけは運び終えたようで、
全員が四畳半に身を寄せて暫くした頃に土間の水が引き始めたのを見て安心した思い出がある。



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