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建築家 潤 の『独断と偏見』

「双龍物語:第四章その1」

  「第四章・長男の誕生」

 
日本通運 株式会社 周防大島久賀営業所の所長に抜擢された「誠」は「滋子」と共に住まいを周防大島久賀町に移して新しい生活を始めることになった。
この久賀町は南に小高い山と北に面した瀬戸内海に鋏まれた風光明媚なところで田舎にしてはとても活気があり、町内の方の人柄も良く、とても住みやすく感じた二人は直ぐに近所の方達と親しくなって暫くは平穏な日々が続いた。
「誠」の仕事は順調で「滋子」はこの時点で既に二人目を懐妊していたから二人は幸せを噛み締めていた時期であろうと想像できるが、季節が秋に差し掛かった頃、不運にも「滋子」は高熱を伴う風邪の症状に見舞われたのである。
最初は風邪だと思っていたようだが、一向に熱が下がらず症状の改善が見られないことから医師はインフルエンザと判定し「今の状況は母子共に危険な状態であり、このままの病状がこれから先も続くようであれば、覚悟はしておいた方がよい」と告げられた「誠」には、なす術がなく、ひたすら神棚の前に座り祝詞を唱えながら「滋子」の回復を祈り続けた。

「滋子」の腹の中にいる子は「聖師・王仁三郎」が特別に仕組んだ曰く因縁のある子供で、この子がこの世に出てきては都合が悪いと考えている敵対勢力である闇の世界が仕掛けた第一回目の命の危機が訪れたのである。

尤も「聖師・王仁三郎」が仕組んだ内容がはっきりと判るのは、この後四十三年も後のことで、
それまで「誠」「滋子」「腹の中の子供」共にそのようなことなど知る由もなく、ごく平凡な中流(の中か下)の家庭人として人生を歩んでゆくこととなる。

 しかし、この後「誠」の祈りが通じたのか「滋子」の体力が勝ったのか「聖師・王仁三郎」の導きがあったのかは定かではないけれども、ワクチンが無い時代であるにも拘らず、医師が驚くほどの奇跡的な回復を見せた「滋子」はインフルエンザを克服して母子共に危機を脱したので、父親となる「誠」がとても喜んだ事は言うまでも無く、臨月を迎えた十二月には母「ムメ」が大島にやってきて「滋子」と共に陣痛が始まるのを待っていた。
このような中「誠」は嬉しくて「大本」の教団本部に生まれてくる子供の名前を付けて欲しいと数ヶ月前に手紙を出していた。
長女「明子」の時は何故そうしなかったのかについては不明であるが、自分が付けた名前だから早死にしたのでは・・・との思いがあったのかもしれない。

予定日を十日も過ぎた頃「ムメ」は「こりゃあ、この様子じゃぁ何時になるか判かりゃあせん。もう年末が近こうなるんで、そろそろ正月の準備をせにゃあならんけぇ、私しゃあ明日は柳井へ帰るけぇね」と言って床に就いた。
その翌明け方近くになって「滋子」の陣痛が始まり昭和二十四年十二月二十四日午前四時過ぎに訳ありの子である長男が産声を上げた。
「誠」の喜びようは例えの言葉が見つからないほどであった言うが、一方祖母となる「ムメ」は「このクソ忙しい年末に生まれてくるとは何と親不孝な子じゃ」と自分の都合をぶちまけていたというが、そのようなことを言いながらも「ムメ」は甲斐甲斐しく娘と孫の世話を続け、もう直ぐ年が明けようとしていた頃となっていた。 

一方「誠」から命名依頼の手紙を受け取っていた「大本」では予てより死期が近かった「聖師・王仁三郎」より遺言の如く聞き及んでいた「いずれ、山口県の三田誠より子供の名前を付けて欲しいと必ず連絡が来るので、その時には男が生まれたら「潤」と女が生まれたら「栄子」と名付けるようにしてあるから、これを渡してくれ」との言いつけ通り「誠」に「聖師・王仁三郎」が半紙に書き残しておいた命名書を送ったのである。
この二枚の命名書にはそれぞれ「潤」と「栄子」とだけ書いてあり、命名の文字以外は「王仁三郎」の花押も落款も無いものであった。
命名書を受け取っていた「誠」は「潤」が生まれた三日後の昭和二十四年十二月二十七日に久賀町役場に出向き出生届を提出している。




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