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建築家 潤 の『独断と偏見』

「双龍物語:第三章その2」

 家がこのような状態であるから「治作」の家計は全くの無収入が続く中、主人の行状を見て堪り兼ねていた「ムメ」は国鉄山陽本線柳井駅前で「うどん屋」を経営していた知人が店を止めるので後を引き継がないかとの話しがあったとき、すぐさまその話に乗り、うどん屋を始めて「瑛子」と共に朝早くから夜遅くまで働いて家計を支え、後に中古ではあるが大きな家屋敷まで購入したと言うのだから大した生活の才女であった。
うどん屋を引き継ぐに必要な資金を持たない「ムメ」は父親である「森脇利助(腕の良い表具師)」に頼み込んで出資してもらったのではないかと想像している。

 更に「ムメ」の子供の頃について少し触れれば、「ムメ」は母親を早くに亡くしたこともあってか、父「利助」に尋常学校に通っていた途中で退学させられ、家業を手伝いながら家事一切をやらされていたことが、うどん屋を切り盛りする下地となったのではないかと考えられるので、人生途中の苦労は決して無駄にはならぬと言うことになろうか。
また「ムメ」には一回りも年が違う妹がいて名を「隆子(たかこ」と言い、父「利助」の「隆子」への扱いは「ムメ」とは違って学校に通わせ、稽古事では琵琶を習わせて、先では名取にまでなったと言うのだから、まるでお嬢様のような扱いで「ムメ」にとってみれば差別されていたような感じを受けていたのではないかと思われるが「ムメ」の献身的な助力があってのことでもあろう、家業である表具屋の仕事が次第に大きく評価されてゆき、金銭的な余裕が生じてきたことに拠るのではないかと思われるが「利助」にとっては嫁が次女「隆子」を産んで数ヵ月後に亡くなったことから、次女を不憫に思い溺愛したのではなかろうかとも考えられる。

 このような恵まれない家庭環境に生まれ育った「滋子」ではあったが、幼き頃より学業がとても優秀なので「治作」にとっては自慢の娘となるのだけれども、収入の無かった「治作」は「滋子」の学費が捻出できないので「ムメ」の父親である「利助」のもとへ孫である「滋子」を使って「お爺ちゃん、学校へ払うお金が無いから出して下さい」と学費の無心をさせてまで柳井女子高等学校(通称・柳女 [ りゅうじょ ] と言う)へ通わせたという事のようである。
一方「滋子」の祖父である「利助」も優秀な「滋子」をとても可愛がり、滋子の学費に使うのなら・・・と無心などしなくとも自ら進んで学費くらいは出してやりたいと思っていた節があったように聞いている。
このように嫌な思いをしながらも柳女を卒業・特待生の待遇を受けた師範学校を卒業して教師となった「滋子」は、このような家庭環境下で育ってきたこともあり、いくら諌めても父「治作」の行状が改まらず、揉め事が絶えない家庭環境に悩み続けて心が晴れないままに生活を送っていたところに偶然「大本」の宣伝使と出会う機会があり、その宣伝使より「大本」の教えである、人としての生きる道標を聞かされた時に「あっこれだ!これこそ私が求めていた、人が生きる基本姿勢であり方向である」と感じ、心に掛かっていた雲が払われたように思えたその刹那「滋子」も「大本」に入信し信者となっていたのである。
 
 この縁談を仕組んだ「大本」信者の女性は裁縫教室を主宰している年の頃四十代半の人物で、近所では名うてのやり手女だといわれながらも、お節介な世話好きであったようである。
「誠」と「滋子」はまんまと上手くこの女性の手練手管に籠絡されて見合いをすることになったのだが「誠」「滋子」の双方には見合いであることを一切伏せておいて会わせているのである。
考えてみれば仕組んだ方からすると、これは至極当たり前の話であって「滋子」は背が高く美人で学歴もあり小学校の教員をして収入も安定しているのだから、その気になれば引く手数多の縁談話があっても何ら不思議ではない女性である。
方や「誠」の方といえば、当時いかに尋常小学校卒で社会に出ていた者が多かった時代であるとは言え、学歴は中学校卒(現・高等学校)で、戦地から身一つで帰還したばかりの職も持たない片腕となっている身体障害者である。
身長は二度も徴兵検査で不合格となっている小男の上、家は借家で水飲み百姓ときていては、見合いだと言おうものなら当然「滋子」と家族は一も二もなく断ったと思われるが「滋子」はこの世話人の上手い口車に乗せられ、大本信者同士の集まりの会を時々開いているので一度出席してみたらどうかねと言うようなかたちで「誠」と引き合わしている。
「滋子」には前もって会に出席する「誠」のことについて「熱心な大本の信者さんであり、とても立派な方で、そしてそれは素敵な人である」と心に刷り込んでいたようであるが、実際に会ってみれば、そう話が上手く行くはずも無かろうと思えるのに、これが豈図らんや「誠」と会った「滋子」はまだ大本信者になったばかりで、この宗教こそ私の生きる道であると、ある意味盲のようになっていたからであろうか「大本」について知識を蓄えている「誠」の言葉にすっかりと魅入られてしまい、小男であろうが職がなかろうが片腕であろうがすっかり気に入ってしまったのである。
余計な話になるが「誠」は小男ではあったが随分と美形の二枚目であったから「滋子」はそこにも少しは気を引かれたのかもしれません。

 そして、二人は昭和二十三年九月十日には「滋子」の実家である柳井町の住所にて婚姻届を提出しているのだから、仕組まれた見合いから僅か半年後のことで、よほどお互いが惹かれあったということになろうか。
結婚式には両家族や親族に加えて「大本」の信者の方々も多く集まって盛大に行われたようであるが、その裏で父「治作」にとっては自慢の娘の「滋子」であるから、自分のことは棚に挙げて、職も無い片腕の男になどにやりたくはないと大反対をし、家族全員も相当に反対をしていたようだが、当の「滋子」が嫁に行くというのだから如何ともし難く皆が渋々折れたようである。
また当時の結婚式の写真を見ると神道である「大本」の信者同士の結婚では当然神前結婚となるから、神棚を背にして「誠は」羽織袴姿で扇子を持って立ち「滋子」は花嫁衣裳の着物を着て椅子に座った姿で写っているところを見ると、写真屋の配慮もあってのことであろう、見栄えが悪い「蚤の夫婦」の写真として残したくなかったということであろうか。
その後、昭和二十四年一月十三日には長女「明子(あきこ)」を出産しているのだから、十月十日を逆算すると、婚前交渉でできた子であったと思われる。 
当時の社会風潮が如何なるものであったかについては知る由もないが、教員をしている才女がねぇ~である。
ただ残念なことに「明子」は生まれて僅か三日で死んでいるので、何とも悲しい初産であったことであろう。




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