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建築家 潤 の『独断と偏見』

「双龍物語:第三章その1」

 「聖師・王仁三郎」に直接お会いして戦地で体験した不思議な出来事を伝え、命を助けて頂いた御礼を述べようと思って亀岡まで出かけたけれども、願いは叶わず失意のまま大畠村に帰ってきた誠であったが、誠の将来を気に掛け、心配をしていた両親や親戚・大本信者の方々の中では就職先と嫁取りの話が持ち上がっていた。
 当の誠にしても戦争で利き腕を落として片腕となっているのだから、新しい働き口を見つけるのは並大抵のことではなかろうとの想いが頭から離れず、またこのような体となっていても来てくれる嫁はいるのだろうか・・・も心配の種であったが、そのような中で先に進んでいった話しは見合いの方であった。

 柳井町に住む大本信者で顔見知りの女性の方から「誠さん一度話し方々遊びにいらっしゃいよ」と言われていたので、予め約束の日を取り付けてから出かけて行ったのだが、後から考えてみると、これはどうやらこの女性が仕組んだ見合いの場になっていたようなので、さて好意で仕組んだものやら仲人仕事にしたくて仕組んだものやら、真意は不明であるが、これがきっかけとなって話が先へと進展して行ったのである。
その相手とは柳井町に住んでいて、山口県女子師範学校(現山口大学の前身)を卒業し、小学校の先生をしている背が高く近所でも評判の美人女性で、誠より八歳年下であった。
この女性にも誠と同じく以前から「信者さん同志の集まりがあるので、そのときには家に来てみたらどうかね」と誘っていたのである。
 そして後に「誠」の嫁となるその相手とは、父「江堀 治作」と母「ムメ」の次女としてこの世に生を受けた大正十三年生まれの才女で名を「滋子(しげこ)」と言い、山口県立柳井女子高等学校(現・山口県立柳井高等学校)を主席に近い成績で卒業し、山口県女子師範学校には特待生(授業料・寮費共に免除)として推薦入学の厚遇を受けた本当に学問の優秀な女性であった。
 ここで、父「江堀 治作」と母「ムメ」のことについて触れれば、母「ムメ」の先祖は「後醍醐天皇」に使えた「児島 高徳」(こじま たかのり)『太平記』にその記述があるそうです)の子孫で山口県周防大島の「郡代」を勤めていた家系である(家系図があり、現存していると聞いているが「ムメ」の父親「森脇 利助(もりわき りすけ)」の弟の家方が所有していると聞かされている)。
江戸時代には柳井の庄屋を勤めていたということのようだから「ムメ」の出自は歴とした家柄であった。
一方 父「治作」の出自は定かではないが、両親は子供二人(兄がいた)を日本に残したままで何故かハワイに移住してしまった。
子供二人を親戚に預け、一旗上げようとハワイに向かい、成功した暁にはハワイへ呼ぼうとしていたのではないかと思われるが、通常の日本人の感覚からすれば、ちょっと考えられない行動だと思えるけれども、やはり無理な思考の末には良い結果が伴わないもので、思惑通りに事は運ばずハワイの自宅で火災に遭い両親共に焼死してしまったのである。
それをよいことに、二人の子供を預かっていた親戚はその財産を私物化し、子供二人を洋服屋へ丁稚奉公に出した。
兄の方はこの洋服屋で長い間辛抱を重ね、服作りを教わり、腕を磨き、後には山口県一と言われるまでの洋服屋を持つようになっているが、弟の「治作」は丁稚奉公が耐え切れず暫くして洋服屋を逃げ出し、その後大人になるまでの経緯を誰も知らない。
辛抱が出来ず、手に職を付けようともしなかった「治作」が何故「ムメ」と結婚できたかについて判らないままであるが、男女の縁とは本当に不可解で不思議なものである。
だからこの「治作」は定職を持たず働くこともしない風来坊のような気質のままで親になっているから長女「瑛子(てるこ・大正七年生まれ)」が働きに出ていた勤め先に出向いて「瑛子」に無断で給与を先取りするようなことまでしていたというのだから、よほど出来の悪い男であったということだろう。




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