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建築家 潤 の『独断と偏見』

「双龍物語:第二章・帰還 その7」

 妹達と片付けを終えたヲトミは「誠今日はお前もえらかったろう(疲れただろう)布団を敷くけぇもう寝たらええ。今日はここで寝んさい」と誠のために宴会場となっていた八畳の部屋に床を整えてくれた。
寝床に入った誠は酒が入っていたせいでもあろう、もう何も考えられず少しぼんやりとしていたが、妹達が風呂に入る気配を感じながら、そのまま眠りに就いた。
 翌朝母ヲトミが朝餉の準備をしている物音で目が覚めた誠は障子を開けて板の間に向かい「母ちゃんお早う」と声を掛けると、ヲトミは「お~もう目が覚めたんか。もうちょっと寝ちょったらええのに」と言ってくれたが、台所から漂ってくる茶粥の匂いが懐かしく「母ちゃん、茶粥作りよるんかぁ懐かしいのう。早よう食べたいのう」と話しているところへ乙次郎と妹達が二階から下りて来て「お兄ちゃんお早う、もう起きたんね」と言いながら顔を洗って朝餉の準備をしているヲトミを手伝い始めた。
誠が顔を洗っている間に茶粥が炊き上がり、久し振りに家族全員揃っての朝餉を迎えることになった。
朝餉は茶粥と漬物に昨日の宴会の残り物であったが、誠が茶粥を食べる姿(茶粥が入った茶碗をちゃぶ台の上に置いたまま、腰をかがめて口を茶碗にあてがい、左手で持った箸で茶粥を啜りながら?き込むようにして食べるのだから、まるで犬や猫が食べているようにも見える)を見ていたヲトミは辛かったのであろう朝餉に箸がつけられず、とても寂しそうな顔をしていた。
三十年近く利き腕で生活をしてきていたのに、突然左利きで生活しろといわれても、そう簡単に出来るものではない。
米国所属の赤十字で療養してもらっている間の食事はナイフこそ使えなかったがスプーンとフォークだから然程に不自由を感じることはなかったのだが、いざ箸を使うとなれば上手くはゆかず、少し練習したからといっても、なかなか直ぐには使いこなせるようにはならなかったので、一番悔しい思いをしていたのは誠本人であったであろう。

 余談になるが、随分前のこと「箸」の文化について考えてみたことがあり、その切っ掛けは種子島に鉄砲が伝来された時、ポルトガル人の饗応を担当した当時の役人(武士)が書き残している文面に「食するに箸を用いず飲するに器を用いず、何と野蛮な人種である」というような内容が記されている歴史書を読んだことがある(この文面は現存し、資料館に展示されているとも記載があった)。
それまでにも三百年以上前の頃まではヨーロッパ人は食事をする際は手掴みで食べていて、飲料はラッパ飲みで、水道は無く便所すらなかった国々であったとの記述がある本を読んでいたこともあって、ふと「箸」について考えてみたのである。
 今の日本では幼児が自分で食事を食べ始めるころ最初に使う道具は「スプーンかフォーク」で、ナイフは危険を伴うので使わせることはないと思うが、単純な機能しか持たない道具である「スプーンとフォーク」は幼児でも直ぐに上手に使うようになる。
それから四・五歳前後からであろうか、次の段階になると「箸」を使う訓練に励むようになる。
「箸(弥生時代から使用されていたようです)」は細く削って作った竹二本で食事が可能なとても高度な道具で、スープや味噌汁などの汁物は扱えないけれど、刺す・掬う・摘む・掻き寄せる・別ける・包む(くるむ)など多くの機能を持ち合わせている反面、相当訓練を積まなければ使いこなせないものである。
このような経緯から考えると「箸」は大人が使う食事用の道具で「スプーンやフォーク」は幼児の使う道具であるから、大人になっても数多くの「スプーンやフォーク・ナイフ」を使って食事をしている欧米人の文化意識は日本人と比較すれば、やはり低いと捉えて良いのでないかと思う。
また金属製の「スプーンやフォーク」がいつ頃に日本で使われるようになったのかについては恐らく明治維新後ではないかと想像していますが、それまでの日本の幼児は木で作られた「匙」でも使っていたのだろうか?それとも親が箸を使って食べさせていたのだろうかの疑問が湧くけれど本題から逸れますので、今後の課題にします。
 
 誠が利き腕を失ったけれど帰還したことは、あっという間に小さな村中と近郊の大本信者に知れ渡り、話を聞きつけた多くの人達が誠を尋ねてきた。
誠から戦地での話を聞いた大本信者の方達は口々に「良かったねぇ、それなら直ぐにでも神前にお参りして聖師さんにお礼を言いに行かにゃあいけまぁ」と言い、誠も落ち着いたらそうしようと思っていたものだから、その気持ちに拍車がかかった。
数日が経つと尋ねて来る人も少なくなり、気持ちの落ち着きを取り戻した誠は京都行きを決意して、準備を始めた。
京都亀岡へは出征前に命の架け橋をして頂いた山脇さんを是非に誘ってと思っていたのだけれど、先日帰還の挨拶に伺った折に体調を崩しておられことが判ったので、誠一人で行くことにした。
山陽本線上りで京都駅を経由し、山陰線に乗り換えて亀岡に到着した誠は早速大本本部の事務所を尋ねて戦地に赴く前の経緯を話して、兎に角聖師さんにお目にかかり戦地から無事帰還できた御礼を申し上げたい旨を伝えたところ、聖師さん(出口王仁三郎)は体調を崩して誰にも会える状態ではないと告げられた。
誠が非常に残念がって少しうろたえ、もたもたしているところへ、誠が来ていることを聞きつけてきた「日向さん」がやってきて、王仁三郎の現在の状況を詳しく伝えてくれた。
そして誠が無事日本へ帰っていて、近い内に亀岡にやって来ることは既に聖師さんは判っておられ、自分も聖師さんからそのことを聞き及んでいたことなどを聞かされた誠は、そこまで判っておられたのかと納得しながらも、会えなかったことを悔やみながらも亀岡を後にし、そのまま総本山がある綾部へと向かい神前へ跪き祝詞・神言(かみごと・少し長い祝詞)を唱えて帰還の報告を行った後に山口県へと足を向けた。
 
 王仁三郎は自分の代では最早世界の平和は叶わず、その想いを次の世代に託す元となる誠が無事に日本に帰還できたこと確認した後、安堵したかのように穏やかにこの世を去っている。




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