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建築家 潤 の『独断と偏見』

「双龍物語:第二章・帰還 その3」

 港には病人や負傷兵などを収容するためであろう赤十字船が停泊していて、誠はこの船に乗せられた。
収容された船室には4人分のベッドが備え付けられていたが、他の日本兵はいなかったので、少しの不安と寂しさを感じたけれども、日本へ帰れる嬉しさの方が勝り、その日は両親や姉妹に会ったら何と言おうか・・・片腕を落としたことをどのように伝えようか・・・などの思いを巡らせている内にいつの間にか眠りに就いた誠であった。

 翌朝出航の準備を整い終えた船は港を離れ、この港以外のフィリピンの港数箇所に寄りながら傷病人を収容して日本に船首を向けたが、日本兵の収容は一人も無かったので若しかしたら日本軍は全滅したのではなかろうかと感じるようになったけれども、日本に帰るまで広い個室のような使用が許された病室になったので、誠にとっては米兵の負傷兵以上の待遇を受けたことになるが、船内には米軍の負傷兵・病人が多数収容されているのだから、この様な状況の船内で一緒にいても大丈夫なのだろうかと少し不安が過った。
何せ、以前は敵味方に分かれて戦闘をしていた相手であり、負傷の原因は日本軍によるものだろうから、その恨みが自分に向かわなければよいが・・・とこの時は思ったのだけれど、後にそれは杞憂に終わり、危害を受けることもなく、侮蔑や恨み言のような言葉を掛けられることも無かったと言う。

 誠は日本に帰れる喜びと、片腕を失った失望感とが入り混じって複雑な感情と共に長い船旅を終えて着いた日本の港は横浜であった。
 横浜に着いた誠はここで日本側に引き渡され、その後に開放されて田舎へ帰れると思っていたようだが、そうはならず、相模原にあるアメリカ陸軍医療センター(現さがみ原厚生病院)へと移送されたのである。
この医療施設は終戦までは相武台陸軍病院と呼ばれていて、日本全国に六ヶ所あった旧陸軍造兵廠付属病院の一つであったが、終戦後はアメリカ軍が収用し、進駐軍が使用する病院となっていた。
 誠の術後の経過は良好・完治していたので、この時点では既に退院できる状態にあったのだが、どうやら誠が助けられた時点では既に終戦を迎えていたようなので捕虜ではないけれども捕虜のような扱いを受ける羽目になってしまい、これから約一年近くもここでの入院生活を強いられることになってしまったのである。
その訳と言うのは、要するに米軍が預かっている負傷していた旧日本陸軍の兵士を日本側に引き渡す手続きが非常に煩雑で、また終戦後間もない時だから日本の行政もまだ十分な受け入れ態勢(身柄引渡し書類の作成や手続きの手順など)が出来ていなかったのだと考えられ、その対応に相当の時間を要したと言うことであろうと想像できる。
また誠の下には米軍立会いで日本の行政側から度々役人が尋ねてきて、氏名・本籍地・父母姉妹の氏名・召集がかかった時期からフィリピンへ配属され所属していた部隊名や、はっきりと戦死したことが判っている所属部隊兵士の氏名・出身地など何度も同じ様なことを聞かれるので、最後の頃はうんざりしたと話していたが、恐らく戦死者の名簿作成に加えて戦後のどさくさに紛れた他人への成り済ましを警戒してのことであったのではないかと考えられる。
家族想いの誠にすれば、傷はとっくに治っているので、一日も早く田舎に帰りたかったのだけれど帰省は許されないまま身柄は病院に拘束されて思うようにならず、ならばせめて手紙でも出したいと願い出ても見たけれど、如何なる理由かについては伝えられないままその願いは叶えられずアメリカ陸軍医療センターに留め置かれ、結局終戦後二年以上経ってからの帰省となるのだが、一方誠の両親や姉妹達は激戦地であったフリピンの部隊は全滅したとの報道を耳にしていたものだから、てっきり誠は戦死したとばかりに思い込んでいたという。




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