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建築家 潤 の『独断と偏見』

「双龍物語:序章・第一章」

 「双龍物語:序章」

 大東亜戦争(太平洋戦争)終戦間際の頃、三田 誠上等兵(二十九歳)は歩兵銃を手に持ち、背嚢を身に付けフィリピンのジャングルを一人で彷徨っていた。
当ても無く歩き続けている中、少し先の木立の隙間から小石が敷き詰められた河原が見えたその時、突然背後から銃声が聞こえた。
瞬間右手首に焼け火箸を当てられたような感覚を覚え「撃たれた」と思ったので、思わず銃声がした方向を振り返ると、歩兵銃を持った日本兵らしき人物の姿が眼に入ってきたが、そのままジャングルの奥の方へと逃げていった。
恐らく背嚢に食料が入っていると思って撃ったに違いないと想像したものの、もう何日もまともな食べ物を口にしてはいない体は衰弱しきっていて、すでに歩けるような状態ではなかったが、何かに誘われるような感覚で出血する手を庇いながら河原の方へ歩いていった。
 やっとの思いで小石だらけの河原に辿り着いた時には体力も気力も失せてしまい、ばたりと河原に倒れこんでしまった。
まだかろうじて意識はあったが、銃声を聞いたのであろうか現地民が数名近寄ってきて、血だらけになった誠を見ながら「三田、何かして欲しい事は無いか」と声を掛けてきたので、見ると顔見知りのフィリピンの人達であった。
ここ数年激戦地フィリピンで米軍と戦って来ていたが、原住民との交流では良い関係ができていたからであろう、正に死に絶えようとしている誠を見て、哀れみと、人としての良心がそうさせようとするのか、末期の水を取ろうとしてくれているのである。

 もう意識も覚束ないほどの状態になっていたが、誠は「それじゃあ、この背嚢の中にコーヒーが入っているので、コーヒーを飲ませてくれ」と伝えると、空き缶を探してきて川の水を汲みコーヒーを入れてくれている気配を感じながら、数分がたっただろうか、大好きなコーヒーの香りが漂ってきた。
これで最後か・・・と覚悟を決めかけようとしていた時のこと、薄れ行く意識の中で、何やら英語の話し声が聞こえたような気がしたのだが、そのまま意識を失ってしまった。
 
 どのくらいの時間が経ったのだろうか・・・意識を取り戻した誠の目に映ったものは建物の白い天井であったが、瞬時に我に返り、腹の周りに手を当てて、長い戦いの中で一時でも肌から離したことの無い、命より大事と思っていた「さらし」を探したが、その感触が無い。
我を忘れて「さらし」を探そうと周りを見渡せば、どうやら病室にいるようで、右手を動かそうと思えども手が出てこない。
瞬時に撃たれた記憶が甦り、利き腕を失った衝撃と見当たらない「さらし」に気が動転した誠は、大声を上げて騒ぎ始めたところ、悲痛な叫びに近い声を聞きつけた白人の看護婦が病室に入ってきた。
状況がまだよく飲み込めないままに、身振り手振りで腹の周りに手を当てて「さらし」の行方を看護婦に訴えると、寝かされているパイプベッドの頭の部分にかけてあるものだろう・・・と理解してくれ、そこを指差してくれた。
後ろを振り返ると、そこには洗ってきれいになった「さらし」が干すように掛けてあり、それを見た誠は安心したかのようにまた深い眠りに落ちた。
翌日の朝、比較的穏やかに目を醒ました誠は失った利き腕のことを思うと絶望的な気持ちになりながら、少しずつ戦地に赴くまでのことを思い返していた。

先に誠の生い立ちについて話せば、明治生まれの父「乙次郎(おとじろう)」と母「ヲトミ」との間でこの世に生を受け、長女「スガ子」を頭に七人兄弟の二番目に生まれ、長男として誕生したこの夫婦唯一の男子であった(後に次男が誕生するも生後直ぐに他界している)。
父の乙次郎は若くして事業に目覚め、製氷業を営むようになってからは比較的裕福な生活環境を持っていたようで、山口県の瀬戸内海に面した小さな村内ではあったけれども、当時選挙権を持っていた三人の内の一人であったというから田舎の名士の内に入っていたのであろう(他の二人は村長と造り酒屋の主であった)。
しかし、この乙次郎は背が高く体は屈強な上、随分とやんちゃな性分で、酒は飲むし無類の博打好きとして通っており、広島県の三原市にまで博打を打ちに出かけていたというのだから、当時既に山陽本線が開通(明治三十四年)していたとは言え、相当の好き者であったということだ。
 ある時、三原の博打場でのこと、負けが込んだ遊び人の博打打ちの一人が負け金を払えなくなり、乙次郎にこう話しかけてきたという。
「金の都合がつかんので、わしの妹を差し出すけえ、これで堪えてくれんかのう」面倒臭いことになったと思いながら、乙次郎は仕方なくその妹を連れて帰ったものの、扱いに困り、近所にある「うどん屋」で暫く働かせていたが、後に嫁にしたということなので、何とも・・・といったところか。
 このような夫婦の下で生まれた誠は病弱体質で、心臓が悪い上に肋膜炎を患ったりしたものだから、近所の雀連中からは「まだ生きちょるかいねぇ~」と言われるほどであったと言うのだから、よほどの虚弱だったということになろうが、その後戦争で片腕を失いながら八十九歳の天寿を全うしたのだから、人の生き死にだけは神のみぞ知ると言うことになろうか。
そんな誠は女ばかりの姉妹の中で甘く大切に育てられつつ、病弱ながらも海に遊び山野を駆け巡って尋常小学校を卒業・中学校[ 柳井商業学校(現山口県立柳井商工高等学校)]へと進んだ。
中学生[ 現高校生 ]となった誠は学友達と柳井市街をうろついていた時のこと、果物屋の前を通りかかった時に何ともいえない良い香りが漂ってきたので足を止めて香り先を探し始めた。
するとその香りは、どうやら巨大な「松かさ」の形をした物から出ているようで、店主に聞くと、これはパイナップルと言い、南洋産の珍しい果物で、とても甘くて美味しいものだと聞かされた誠は思わず衝動買いをしてしまった(当時のことだからかなり高価ではなかったかと想像できるので、やはり裕福であったのだろう)。
悪ガキ一同は早速このパイナップルと言うものを食べてみようと近くの海辺まで行ったものの、どのようにして食べるのか聞くのを忘れていたので、皆で思案を巡らせたけれど判るわけがない。
松かさの形をしているので、ウロコ(鱗片)とウロコの間に「松かさ」には種があるから、そこを食べるのだろうということになって、小刀を出してウロコを剥がし、その根元の部分を食べてみたが不味くて食べられない。
皆口々に「あの親父に騙された。今度文句を言ってやる」と不平を口にしながら不満たらたらの中、腹立ただしく思った短気な誠は手にしていたパイナップルを海に放り投げた。
であれば猿の方がまだ知恵があろうというもの・・・ただこのことだけで誠の知能はこの程度であったものか、なかったものかを推し測ることは出来ないが、青春の一齣であった。
柳井商業学校を卒業した誠は大阪にある汽車製造株式会社(現・川崎重工業株式会社)に入社し、社会人となったが、それ以降は大した病気にも罹らず比較的平静な日常生活を送っていた。
休日のある日、誠は大阪の繁華街へ遊びに出かけていた時のこと、通りを歩いていて、ふと街頭易者と目が合ってしまい、何気なく前に置いてある蜜柑箱に座った。
別に何かを占って欲しかったわけではないのだけれども、易者の言うままに生年月日と名前を紙に書いたところ、当たり障りの無いことを話し始めたので、誠は「それはそうと、わしは将来大恋愛をして結婚したいと思うちょるんじゃが・・・」と言うと、少し間を置いて易者は「う~ん、そりゃあダメだね、あんたには嫁になる相手が決まっているから、あんたの思い通りにはならん」と言われた途端に短気の虫が頭を擡げ、何だ!この野郎・・・と急に面白くなくなり憤慨した誠は金を払ってその場を立ち去った。
このように左程怒る事とも思えないようなことでも、癇に障ると直ぐに怒りを表すほどに短気な性分ではあったけれども、何とか無難に会社勤めを続けることが出来たのは幸いであった。
その一方、誠は性格的というか心情的といえばよいのか判らないけれど、身内に対する情合は異常とも思えるほど深かったので、岡山に嫁いだ姉の家や東京の親戚を度々尋ね、故郷の山口県大畠村へも何かにつけて帰省していたようだが、誠の情合は少し偏狭的であった。
 勤めて数年が経った盆休みに誠が帰省したある日のこと、子供の頃より短気な性分に手を焼いていた母ヲトミは誠にこう話し始めた「誠や、おまえの短気には本当に困ったもので、中々直りゃあせん、それでなぁ柳井に立派な人がおるそうだからその人のところへ行って話を聞いてみたらどうかいねぇ」。
そのように自分の欠点を指摘されて、はいそうですかと素直に従うような誠ではないので、ぐずぐずと屁理屈をこね回し、生半可な返事で持って何とかその場を誤魔化そうとしていたのだが、誠の将来に不安を感じていたヲトミはしつこく誠に食い下がって引こうとはしなかった。
結局根負けしたのは誠の方で、嫌々ながら渋々その人物に会いに行ったのだが、この人物との出会いが後の人生を大きく左右し、戦時中に不思議な体験をする切っ掛けになろうとは夢にも思っていなかった。

 その人物とは広島県神石郡神石町出身の知団(ちだん)さんと言い、年齢は誠より十歳ほど年上で、九州博多管区の国鉄職員として連結士(列車同士を繋ぎ合わせる業務)をしていたが、勤務中に右足関節より下を事故で失い、業務復帰が叶わなくなったところを国鉄側の計らいで誠の実家がある国鉄山陽本線大畠駅の売店業務を任されていた方であった。
また知る人であれば、彼のことを悪く言う人など一人もいないほどに評判の良い人物でもあったようで、渋々だった誠が柳井市中塚にある知団さんの住まいを尋ねたところ、知団さん夫婦は初対面の誠をとても優しく迎えてくれたことや、招かれた家の中が綺麗に整理整頓されている状況を見て、誠は評判通りの良き人物であることに疑いを持つわけにはゆかなかったし、初対面にも拘らず少し話を聞いているうちに直ぐに地団さんと打ち解け、心が穏やかになってゆくのが判るほどであった。
と言うのも、知団さんの話はとても理にかなっていて、誠に通じ、正に迷える子羊にとっては天空から救いの蜘蛛の糸が降りてきたかのように感じられたのかもしれない。
知団さんに魅入られた誠はこの後、知団さんご夫婦に勧められたこともあって「大本(教)」に入信し、信者となって活動するようになり「大本(教)聖師・出口 王仁三郎」と出会う切っ掛けとなる。
知団さんは本業の傍ら「大本(教)の柳井支部」に属し「宣伝使(キリスト教の宣教師のような役割)」をされていて、熱心に布教活動を行っていた。

ここで大本(教)について、概略の説明をすれば、明治二十五年、後に大本(教)教祖となる「出口なお」は、くず拾い(であったと聞いている)で何とか生計を立てていた極めて貧しい文盲の女性であったが、突如神懸りとなり「お筆先(神が語る言葉)」なる文字を「なお」の意思とは無関係に手が勝手に書き始めたことに端を発し、狂人扱いされるも、その内容はこの後日本が辿ることになる姿を現した予言書であった。
またこの頃、同じくして神の啓示を受けた「上田 喜三郎」は導かれるように「なお」と出会い、暫くして娘婿に迎えられて「出口王仁三郎(でぐち おにざぶろう)」と改名し、「なお」が開祖、「王仁三郎」は聖師と称して明治三十一年に大本(教)の組織を作る。
昭和に入った頃には信者を百万人以上擁するほどの組織となり、信者の中には多くの知識人や大臣級の政治家・陸海軍の将校に加えて皇族なども名を連ねていたが、国家による数度の大弾圧を受け「なお・王仁三郎」共に投獄されるなど不遇の時期を乗り越えながら、日本が大東亜戦争に負けないようにと中国に渡ってまで活動していたけれども終戦後の昭和二十三年一月「王仁三郎」はこの世を去っている。
余談になるが、過去には弘法大師も相当の霊能力者であったようだが、出口王仁三郎ほどの霊能力者は後にも先にも人として現れることはなかろうと思えるほどであったと言う。
三十年以上も前の曖昧な記憶だが「巨人 出口王仁三郎」という本が出版されていて、この本を読めば、かなり詳しく彼のことが書かれているので、興味のある方は是非御一読をお勧めする。
また現在日本にある新興宗教の開祖は当時「出口王仁三郎」の弟子であった者が多いことも事実である。
※(インターネットで「大本(教)」を検索すれば客観的事実と比較的詳しい内容が掲載されていますが、記述者の主観による説明が多く、的を射ているかは疑わしいのだが興味のある方は調べてみて下さい。)
 大本(教)に入信し、信者となった誠は知団さんの勧めるままに大本(教)の本を読み、先達の方々の話を聞きながら勉強し、知識を深めていった。

大阪に戻った誠は、持ち前の気の良さに加えて多少お節介なところがあり、その性分もあってか誠自身も大本(教)の宣伝使となり布教活動を始めたようで、布教活動をしていると意外なことに会社にも大本(教)の信者が数名いることが判り、その方達と共に勉強会を開いて更なる知識を深め、時には大本(教)本部から講師を招いての講話会まで行っていたようだから相当の入れ込みようで、京都の亀岡・綾部にある大本(教)本部にもよく参拝していたようである。
そのせいでもあろう、自分が良いと思ったことは強引に他の人にも押し付けるようなところがあった誠は姉妹六人を全て大本(教)に入信させている。

そのような中、大本(教)が数度の大弾圧を受けた際には、大本(教)の幹部に加え日本全国にいる信者達にまでも官憲の手が及び、誠も二度逮捕され留置所に拘束されているが、その時はさして厳しい取調べもなく、ただ布教活動の内容や他の信者の名前などを聞かれた程度で、一週間から十日程留置されていただけであったという。
と言うことは上意下達を受けた官憲が事件の良し悪しや罪状の十分な吟味も行わず、大本(教)の信者で布教活動をしているというだけで逮捕しているのだから、時代が移り代われども公務員とは人としての判断を持って行う仕事が許されない気の毒な職業であろうか。
また本星である大本(教)に対しては特別な罪状がないものだから、言い掛かりにも等しい無理やりな罪状を作り上げ、必ず何かがあるはずだの信念の下に大本(教)の幹部を根こそぎ逮捕して取調べをしているところを見ると、大本(教)が余りにも巨大な組織になってしまったことを恐れた国が国策捜査の一環として厳しく取締りを行った結果であろうことは容易に想像できるが、いつの時代も国家権力のやることは後に嘲笑されるようなことをやるものである。

話を元に戻し、歴史を遡れば、既に明治時代の頃には英国を始めとする欧州の各国は東南アジアを殆ど植民地にして、多大な資源をほしいままにしていたが、その矛先は次なる清国(中国)へと侵略の魔手を伸ばし始めていたところまできていた。
清国(中国)と朝鮮が植民地となれば、次はわが国が標的となるのは火を見るより明らかなことだから、欧米による植民地化を恐れた日本は大東亜共栄圏なる構想を打ち立てて、昭和十二年七月七日支那事変(日中戦争)に突入し、欧米に対抗しようとするも、朱子学に毒された清国・朝鮮共に共存同盟・工業国化への提案を受け容れようとはせず、中には敵対勢力も生じて、いよいよ日本が米国との開戦へと、きな臭さが漂ってきた頃となっていた。

補足説明・文中「大本(教)」と表現してあるのは、宗教組織としての正式名称は「大本」なのだが、宗教の(教)を補足しなければ判り辛いと思い(教)を敢えて加えてきましたが、以降「大本」と表現します。

          「第一章・戦地へ」

 逮捕留置されたにも拘らず、誠は己の心に照らし合わせて何ら恥じることなど無いとの信念があり、その後も仕事に励みながら熱心に布教活動も続けていたのだが、日本を取り巻く世界情勢は一段と厳しくなり、昭和十六年十二月八日真珠湾攻撃で口火を切って、日本はアメリカに宣戦布告を行い大東亜戦争に突入する。 
 開戦当時から暫くは日本軍の連戦連勝で国中が湧きかえっていたようであるが、数年が経って戦局が次第に危うくなりかけた頃、誠に三度目の召集令状が届いた。
と言うのも、誠はこれまでにも召集令状を二度受け取っているが、徴兵検査の段階でいずれも不合格となっていたのである。
想像の域を出ないが、誠の身長は一五五センチ程度しかない小男で体型は痩せ型の上、心臓が弱く子供の頃に肋膜炎を患っている経緯があってのことなどが原因で、これまでは徴兵を免れていたのではないかと思われる。
しかし戦線を拡大して行く方針を採った日本軍の戦況は徐々に逼迫し、悪化の傾向となっては、何が何でも兵隊を集めなければならないとの思いからであろう、軍は小男であろうが多少病弱であろうが、もうお構いなしの徴兵を行ったので、今回の徴兵検査では見事に丙種合格となって戦地へ向かうことになった。
 誠にまで召集が掛ったと言うことで、家族・親族に加え「大本」の信者を巻き込んでの大騒ぎとなり、話が地域の大本信者全体に伝わって行くのにそう時間は掛らなかった。
その中に昔の日本ではよく見かけた世話好きな女性の信者さんで山脇さんという方が話しを聞きつけ、すぐに誠を訪ねて、こう話を切り出した「誠さん、あなたが戦地へ行くんなら、そりゃあ聖師さんに会うて、お陰を貰わんにゃあいけん。うちも一緒に行くけえ京都に行こうやぁ」
突然の話ではあるが、巨大な組織となっていた当時の「大本」では、いくら古くからの信者といえども、そう簡単に「聖師 王仁三郎」に面会できるとは思えないので、恐らく世話好きなこの女性は「王仁三郎」に会える特別な人脈を持っていたのであろうと思われる。
誠の方も「聖師さん」に会えるのなら・・・と直ぐに申し出を受けて、京都に行く日時や手筈を山脇さんに委ね、その支度や準備を整えている内に出発当日がやって来た。
 京都に向かう汽車の中で、誠は二度も徴兵検査で不合格になったにも拘らず、今回戦地へ赴くことになったと言うことは、恐らく激戦地であろう・・・との不安が頭を過っていた反面「聖師さん」と直接会える期待に胸は高鳴り、複雑な心境であったが、お節介なご婦人のおしゃべりで気が紛れたことは救いであった。
約半日ほど掛けて汽車は京都駅に着き、二人は山陰線に乗り換えて亀岡を目指し、亀岡駅より十分程度歩いて「大本」本部へ到着した。
受付で山脇さんは「今日聖師さんにお会いする約束で山口県から来ました山脇です。日向(ひゅうが)さんをお願いします」と告げると、少し甲高いその声が届いたのであろう日向さんが奥の方から出てきて「やぁ山脇さん遠くからご苦労でしたねぇ待っていましたよ。さぁこっち、こっち」と手招きで二人を迎え入れ、他の人に何やら耳打ちをして使いに出したようだった。
事務所の奥に通されて、出されたお茶を戴きながら、道中でのことや、誠のことにことについて雑談交じりの話をしていたら、先ほど使いに出された方が戻ってきて「聖師さんがお待ちですこちらへ・・・」と事務所を出て「王仁三郎」の下へ案内をしてくれたのである。
誠達は案内されるままに従い、歩いて5分ほど離れた場所にある「王仁三郎」の執務室へ通された。
部屋の入り口まで来た時には誠の緊張は極限にまで達していたが、入り口を開けてもらい、伏し目がちで部屋に足を踏み入れたと同時に「王仁三郎」が「やぁ良くお見え下されました。待たれましたか?」と声を掛けてきた。
誠は顔を上げ「聖師・王仁三郎」の方へ目を向けると、穏やかな笑みを浮かべた「王仁三郎」の姿がそこにあり、やっと直に会えた・・・ただそれだけでこれまでの緊張は一気にほぐれて感激と幸福感で心が満たされてゆくのが判るほどであった。
一方「王仁三郎」の方は事前に誠が来ることは知らされており、出生地なども聞き及んでいたから「やれやれ、やっと来てくれたか、さてこの若者を死なすわけにはゆかないのだが、上手く助けられるかいなぁ・・・」と心で呟きながら誠を見つめて「三田さんでしたね。召集されたと伺いましたが・・・」と言いかけると、傍から山脇さんが「そうなんです。これまでに二度も召集令状が届いたんですが、徴兵検査で不合格となっていたのに今回は丙種合格になって・・・」と口を挟んできて「それで、聖師さまにお陰を戴きに参りました。何とか宜しくお願いします」と誠に代わって想いを伝えてくれる。
すると誠を見ながら「聖師・王仁三郎」は誠の行く末を瞬時に見通してのこと「そうですか・・・さて、三田さんあなたは大変なところに行くことになりますが、何とか命だけは助けてあげましょう・・・」と言いながら「何かさらしのような布は無いか」と付き人に声を掛けたが「金物・布類など全て軍部に供出して何もございませんが、紙なら少しは・・・」と返事が返ってきた。
「紙か、紙ではダメだ。白い布なら何でも良いのだが・・・」と「王仁三郎」が口にすると、山脇さんが突然着物を脱ぎ始め「白い布なら長襦袢でもいいでしょう。これを使って下さい」と長襦袢を脱いで裂き始めようとした。
それを見るなり、お付の人は「ちょっと待って下さい。それなら鋏を持ってまいりますので」と鋏を用意してくれ、山脇さんはその鋏で以って切る巾や長さを「王仁三郎」に聞きながら、大凡で裁断を始めた。
その間「王仁三郎」はおもむろに脇机に置いてある硯に手を伸ばし、硯の蓋を取って墨を磨り始めていた。
「こんなもんでいいですか」と裁断した長襦袢を「王仁三郎」に見せると、「王仁三郎」は「うん、いいんじゃないか」と手を伸ばして腹巻になりそうな巾に裁断された襦袢を受け取った。
墨を磨り終えた「王仁三郎」は床に襦袢を広げて筆を取り、おもむろに和歌を書き始めた。
誠は正面から「聖師・王仁三郎」の筆先を目で追いながら何が書かれるのか読み取ろうとしたけれど、良く判らない字もあり首を傾げながら書き終えるのを待った。
誠が読めなかったのには訳があり、当時の知識人なら通常に「変体仮名」を交えた和歌を詠っていたので、学問に疎い誠には過ぎたものであったかも知れないが、和歌の内容を現代文で記すと「大君の家の み盾と えらまれて いくさのにわに立つこの若人」と詠んであり、その下には漢文で「忠勇義烈 皇軍萬歳」と記されてある。
また和歌の横には薄い文字で「月」と添えられた文字があるのだが、これについては推測の域を出ないが、もう少し後にその意味をお伝えしようと思う。
そして「聖師・王仁三郎」は襦袢を床に置き祝詞(のりと)を唱えながら、拇印を押し始めた。
・この長襦袢は今も現存しており、いずれ機会があればその写真を掲載しようと思っています・真剣な顔つきで祝詞を唱えながら拇印を押す「王仁三郎」の姿を見て、誠はどうやら大変な激戦地に行かされるのだろうと、また絶望的な気持ちになったが「聖師・王仁三郎」の「命だけは助けてあげる」の言葉を信じ、かろうじて平静を保っていた。
 拇印を押し終えた「聖師・王仁三郎」は「これを肌身離さず身に付けて下さい」と襦袢を誠に手渡し、戦地へ赴く労いの言葉を掛け、最後に「命だけは大丈夫だからね」と念を押してくれた。
 
 「王仁三郎」が書いた和歌の意味は「天皇家を守る盾となる為に選ばれて、戦に赴くこの若者」であり、漢文(詩)の方は読んで字の如く、漢字の持つ意味そのままである。
また薄く書かれた「月」の意味は、どうやら誠に「つき(幸運)」があるようにとの意味であろうと想像ができる。
と言うのも「王仁三郎」はよくこの様な粋で洒落たことをやっていたというのだから、まず間違いはあるまい。
 そして、この様に他の誰の目にも触れることはなかろうと思われる腹巻に書かれた和歌から推測すれば「王仁三郎」の心情は天皇家と日本を守りたいとの信念を持っていたことを伺い知ることが出来るけれども、不敬罪などの罪を着せられ数度の大弾圧を受けているのだから、いつの時代も権力を振るう立場にある者は見識の低さに加え、心の貧しさが故に生じる猜疑心や恐怖心に怯えるのは人としての性であろうか。
誠はこれ以来この襦袢を腹巻として使用し、復員するまで肌身離さず身に付けることになるのだが、不思議なことは、誠が激戦地フィリピンから生還できたことと、詠まれている和歌の文字には、誠の命を助けるなどの文言はどこにも無く、ただ「つき(幸運)」の文字が添えてあっただけだから、真に誠の命を助けた「おかげ」の正体は「聖師・王仁三郎」が祝詞を唱えながら押した「拇印」ではないかと考えている。
この襦袢に押された「拇印」はこれまでに何度も洗濯をしている経緯もあり、薄れてしまって少し判別し難い状態になってはいるが、襦袢に書かれた文字と調和が取れるように二十箇所余りちりばめて押されていたように記憶している。 
 何故「王仁三郎」は山口県の片田舎から来たこの若者にそこまで肩入れしたのであろうか?
との疑問が湧いてきても不思議ではなかろうと思うが、その理由は高齢に差し掛かっていて、余命が短いことを自覚していた「王仁三郎」は次なる一手を模索していたのであろうと思われる。
「王仁三郎」は既にこの時には日本が戦争に負けることも、東京を始めとして日本全国が空襲の嵐に曝されること、広島・長崎に得体の知れない爆弾が落とされ、日本が米国に占領されることも知っていたのだから、「龍族(ここでは詳しい説明が出来ないので、話が進むに連れて少しずつ解かり易く説明を加えようと思っている)」の一員である「王仁三郎」は自分の代では、もはや世界の平和は叶わないことを悟り、次へ託す準備を考えていた。(尤も、東京の大空襲などは既に明治から大正時代に渡って書かれた「開祖・なお」の「お筆先」によって予言がされている。)
信者の数が百万人を超えるほどの巨大な宗教団体を組織し、人とは思えぬほどの霊能力を持ちながら、我が想い(役割)を達成できなかったのだから「龍族」としてこの世に出された役割を次へ託すことを真剣に考えていたと言うことであろう。
しかし、その役割が誠であったわけではなく、誠を使って次なる作戦の計画を立てようと企んだに違いなく、その企みとは次の世代に「龍族」の一人をこの世に顕わして「その役割を委ねことにした」との記述があるから、誠をここで死なすわけにはゆかなかったと言うことになる。
亀岡で「聖師・王仁三郎」から「おかげ」を貰った誠は山脇さんと共に京都を後にし、山口県への帰途についた。
帰りの車中で誠はこれから向かおうとする戦地は一体何処になるのだろう・・・などの様々な想いや妄想にも近い想像が目まぐるしく頭の中を駆け巡り、不安と恐怖で逃げ出したい衝動に駆られたけれど「聖師・王仁三郎」の「命だけは助けてあげる」の言葉を思い出し腹巻に手を当てて、大丈夫だ「聖師さん」が約束してくれたのだから・・・と自らに言い聞かせて自分を納得させなければならない心情は赤紙を受け取り戦地へ向かおうとする本人以外には判らないであろう。
大畠村に帰ってきた誠は早速出征の準備に取り掛かったものの、数日の間は出征祝いと称した地域での送別会や親族を交えた大本信者による激励会が催されて慌ただしい数日が続いた。
当の誠は不安を抱えながらも戦地へ行く準備を整え終えて、明日には今生の別れとなるかも知れない家族と、ごく親しい大本信者数名を交えた最後の晩餐を共にしたのだが、その場でうっすらと涙を浮かべながらも微笑みを絶やさなかった母ヲトミの姿が痛々しく感じられ、不安でいっぱいとなっている誠の胸を更に痛めたのであった。
翌日の朝いよいよ出立のため駅に向かうと、そこでは既に大勢の人が集まっていて、幟や旗が用意され盛大な見送りが準備されていた。
列車が到着するまでの間、皆から励ましの言葉や「立派に戦って死んでこい」などの手痛い言葉を受けながら皆に別れを告げ、御礼を述べていたところへ列車が到着し、世話人の方の発声による万歳三唱の声と汽笛を背に誠は汽車に乗り込み集合場所の駐屯地へと向かった。

駐屯地に着いた誠は配属先の部隊に合流すると、上官から「三田君、君には帝国陸軍上等兵の位を授ける」と言われ、軍の経験など全く無い誠は恐らく二等兵であろうと想像していたにも拘らず「上等兵」と言われたので意外に思っていたけれども、後になって聞かされたのだが、どうやらその理由は中学を出ているからということのようであった。
それからの誠は駐屯地で少しの間、基礎的な軍事訓練を受けさせられた後に船でフィリピンに向かったようだが、既に制海権は少し危うい状態に差し掛かっていた状況下において、米国潜水艦の標的となって狙われ、撃沈されずに無事フィリピンへ到着できたことは幸いであった。
とは言うものの、制空権も同じく危うき状況となっていたのだから、とても順風満帆の航海であったとは思えないが、駐屯地からフィリピンへ到着するまでの口述された記憶や記録がなく、詳細な内容をお伝えすることが出来ないのが残念です。

 フィリピンに到着した誠は第十四方面軍の指揮下にあってルソン島に駐留していた連隊(所属の連隊や部隊名その設営場所なども聞かされていたのかも知れないけれど記憶に留めていません)の高射砲部隊に配属され、射手として戦闘に参加することになった。
今となっては当時フィリピンに配属されていた全部隊の兵数を詳しく知ることは出来ないが、5個師団を上回る兵数が配属されていた記録があるので、少なくとも5万人以上の兵数がいたと思われ、米軍は圧倒的な武力と物量を背景にこの大部隊の兵力を全滅させる目論見を持って攻撃目標としたためフィリピンは猛攻撃の標的とされたのではなかろうかと思われる。
その中で誠が所属した連隊は総勢6千名を擁し、直属の高射砲部隊は三百名ほどであったと聞かされている。
そして、この日を境に誠のフィリピンでの戦闘生活が始まったのである。

配属された部隊の基地は比較的海岸線に近い密林を切り開いたところに設営されていて、施設の状況は粗末ではあったけれども司令棟に兵舎・厨房・食堂施設・小さな病棟など一通りを備えた前線基地であった。
またこれらの施設に面してちょうど学校の運動場のような広場をも持っていたが、流石に弾薬庫だけは密林の一部を旨く偽装して隠していたということであった。
配属されて半年以上の間は戦闘もなく広場で体操や教練を行っていたものだから、本当にここは戦地なのだろうかと思えるくらいに平穏な日々が続いて少し気も緩みかけていた中、ある日突然グラマン(当時の米軍戦闘機名)が数機飛来して基地内に機銃掃射を浴びせながら突入してきたものだから、けたたましくサイレンが鳴らされ「戦闘配置!」の号令とともに全員が戦闘態勢に入ったけれども反復攻撃はなくそのまま飛び去っていったので、皆は戦闘にもならず拍子抜けしたと言っていたが反復攻撃が無くてその後も何度か同じ様なことが起こったことから想像すると、恐らくフィリピン全土における日本軍の戦闘能力を目視で調査・写真撮影するために偵察部隊の一部が来ていたのであろうと考えられる。
効率よく攻撃するためには他からの情報のみに頼らず、直接に偵察を行い見聞きした情報を収集し全体の作戦を組み立てて、その上で局地的な戦闘の作戦を練っていたと考えられるので、これでは軍備に加え燃料・食料が不足気味であった日本軍が勝てるわけがない。
余談になるが、この当時からアメリカ軍は、こと戦争に関しては中国の古書「孫子の兵法」や「六韜(りくとう)」に至るまでの文献を真剣に研究していたというのだから脱帽ものである。
それに対して日本軍の戦争に対する姿勢は精神性を重視したお粗末極まりないものといっても良かろうと思えるけれど、ミサイル攻撃が主体となっている現在でもペンタゴンはいまだにその研究を続けているというのだから流石に他国の軍隊では真似のできない探求心だと感心する。
当時の戦争の作戦を立てた日本の官僚は、作戦を立案すると作戦の期間を定め、兵数・武器・弾薬・食料まで緻密に計算して、その通り実行させようとしたというのだから、作戦の一部が予定通りに進まなければ、これらの内のいずれかが当然不足してくることになるけれども、それは全く考えなかったということのようだからねぇ、これでは国を離れ異国の地の最前線で戦っている兵士を見殺しにするに等しい行為と思えるが、過去も今も日本の官僚の考え方とはこの姿勢なのだろうから、頭脳があまりにも明晰すぎて何事に関しても旨く行かずに失敗するかもしれないという「失敗」の文字など彼らの頭脳の中の辞書には無いのであろう。
 さて話を誠に戻すと、その後三ヶ月余りはグラマンの飛来も無く平穏な日々が続き、教練の合間には皆で相撲を取ったり騎馬戦に興じたり、それぞれの故郷の話をするなどして戦地へ赴任し、戦争に来た感など全く感じられなかった様子であったという。
そして誠はといえばこの数ヶ月間で何度も施設周囲の偵察を命じられて出かけていたのだが、誠のお人好しの人柄もあってのことか、いつの間にか現地の人達と顔見知りになり、次第に打ち解けてことばまで交わすような間柄になっていた。
そうしている内には現地の人達が果物などを持って前線基地にも度々遊びに来るようになっていたというのだから良き交友関係が出来ていたようだが、穏やかな日々はそう長くは続かなかったのである。
良く晴れたある日の朝のこと、突然と爆撃機や戦闘機の編隊が部隊の遙か上空を飛来して来たものだから、すぐさま臨戦態勢が敷かれ、高射砲部隊の射手である誠は密林の中に配置されている高射砲に飛び乗って上空へ向け何発もの砲弾を打ち放ったが、この日は一機も撃墜することは出来なくて悔しい思いをしたと酒を飲みながら話していた。
だがその日を境に同じ方向に向けて護衛戦闘機を伴った爆撃機の編隊が度々飛来するようになり、いくら高射砲を撃とうが全く応戦をしてこないので、誰もが不思議に感じていたようだが、恐らく米軍は十分な偵察を行った上で作戦を立てた結果、まず最高司令部を叩くことから始めたと考えられ、前線の小部隊など眼中にも無かったという事であろう。

 誠はこのような状況から考えてみると、現在の我が軍には食料の補給も十分でなく、武器弾薬の補充もない・・・フィリピンに赴任する以前から内地では金属を始めとしてあらゆる生活用品を軍に供出していたのだから物不足はここ以上に深刻になっているのではないかと思うようになり、以前に受け取った父 乙次郎からの手紙には「企業統制令」で経営していた製氷会社は閉鎖され、少し生活に困るようになっているとの知らせを受けていたものだから、誠はいずれ日本国内でも食糧不足が起こるようになるに違いないと考え、これまで蓄えていた軍からの給与を全て父に送り自給自活をするための「農地」を買うようにとの手紙を添えた。
手紙と金を受け取った乙次郎は誠の意向通りに農地を探したところ、運良く山口県大畠村で米川馬一氏所有の山林付き田畑が購入できたので、この後は百姓で生計を立てながら糊口をつないで来た。(当時の売買契約書を見ると日付は昭和十八年三月二十四日で購入額は壱千弐拾円・購入者は三田誠となっていて、田畑の面積は田が二反五畝四歩・畑が九畝二歩で計約千三十坪程度になろうかと思われ、別に千五百坪程度の山林があった。これは誠の死後、遺品の整理をしていた時に偶然見つけたものだが、司法書士に見せると、このような古いものは始めて見たと言っていたし、貼られている壱円の収入印紙など見れば当時を思い起こさせるような感じのものである。)

その後何度か戦闘機が飛来してきたことがあったけれども、ただ基地の少し上空を通過するだけで機銃掃射を浴びせるわけでも無く爆弾を落とすことも無かったが、次第に戦況の雲行きが怪しい状況となって行く中で不運にも誠はマラリアに感染してしまい高熱で苦しみ医療施設のベッドに寝かされていた。
元々病弱体質の誠にとってフィリピンの高温多湿の気候風土は肌に合わなかったことにも拠るのかもしれないが、マラリアに対する十分な抵抗力を持ち合わせていなかったということだろう。
また当時のことだから特効薬など無い時代なので治りは遅く、意識も覚束ないほどの高熱が何日も続いていたところへ突然サイレンがけたたましく鳴り響いた。
見張りが油断していたのか居眠りでもしていたのであろう、廻りから「敵機来襲!敵機来襲!」の叫び声が聞こえてくるも、体に自由が利かず身動きが取れない状態なので、きっと医療班の誰かが来てベッドで寝ている誠を連れ出して一緒に避難させてくれるだろうと思い、少しの間待っていたけれども、誰も病室まで来て助けてくれそうな気配がない。
誠はこのままここで寝ていたらこの建物が機銃掃射を受けるか爆弾を落とされるかもしれないとの不安が過ったけれども体が思うように動かない。
数分間の慌ただしい騒動が治まると周囲は静寂に包まれたかのような静けさとなったので、どうやら医療班の連中は我先にといち早く防空壕や密林の奥へと避難してしまい、部隊の全員も避難を終えたようで、誠は病棟に一人置き去りにされ絶体絶命の窮地に陥ってしまった。
そして妙に静かになった中、少し遠くの方から十数機と思われる戦闘機の爆音が耳に入ってくるだけで段々とその音が大きくなってくるのである。
意識も覚束ない状態でありながらも恐怖に駆られた誠は意を決してベッドから這うようにして床に落ち、頭を持ち上げて何か杖になりそうなものはないかと周囲を見ると、何に使う目的なのか判らないけれど壁際に立てかけてある背丈より少し長めの竹竿のようなものが目に入った。
 「これこそ天の助け!」と思いながら竹竿の所まで這って行き、それを手にして渾身の力を込めて立ち上がり「早く防空壕に行かなければ・・・」と棒に体を預けながら一歩を踏み出した。
戦闘機の爆音は大分近くまで来ているように感じられたが、そんなことよりも早く建物から離れなければ・・・の思いが誠の体を動かし、何とか広場の真ん中の辺りまでは辿りついたのだが、そのまま意識を失い白衣を着たままうつ伏せに倒れこんでしまった。
 どのくらいの時間が経ったのだろうか、誠が意識を取り戻した時には既に爆音は消え去り、少し離れた辺りから叫び声に近い怒号の交錯が耳に入ってくるだけであった。
今の状況はどうなっているのかを確かめたくて誠は仰向けになり空を見上げると空は青さでいっぱいの美しさが広がっていて「ワシは助かったのか・・・」と安堵の思いと同時に体に別段痛みを感じないから機銃掃射も受けなかったのだろうとほっと胸をなでおろし、ただただ「良かった」の思いだけが心と体の中に満ち溢れて来た。
暫くすると避難していた者達が誠を見つけて「三田上等兵殿無事だったんですね。良かったですねぇ~。」と近寄ってきたが病人を置き去りにしたままで自分達は逃げておきながら「無事だったんですね」は無かろうと思ったけれども、今更そのようなことを言ってみたところで始まらない。
傍に来た二人が誠の両脇を抱えるようにして立ち上がらせくれたので周囲を見渡せば病棟の建物は爆撃を受けず無事で、密林の少し入った辺りから三本の黒煙が上がっているのが目に入り、その方から大勢の声が聞こえてくるので「あれは何で騒いでいるのか」と聞くと防空壕の一つに爆弾が直撃して中に逃げ込んでいた者全員が死んだのだと聞かされた。
 病室に戻ってきた誠はベッドに寝かされた後も暫くは興奮が冷めず、何が何だか解からない状態であったが、少し落ち着きを取り戻してから改めて今回のことを振り返ってみた。
マラリアに感染したことを不運と感じていたけれど、感染していなければ防空壕に避難していただろうからそこでワシは死んでいたのだ・・・と言うことは聖師さんが助けてくれたのか・・・と思い、腹に巻いている「さらし」に手を当てて「有難うございました」と心の中でつぶやいた。
その後数日が経過すると誠の熱は下がってきて症状は驚くほどに快方に向かい、食欲もでてきて十日ほど後にはすっかり元の体調を取り戻して元気にはなったが、今回のようなことが起こるようでは、もしかしたら日本は負けるのかもしれないと思うようになって、不安の毎日を過ごしていたところ、誠が感じた通り前線の高射砲小部隊に対して連日のようにグラマンの編隊が飛来してくるようになって、ここに来て始めて激しい戦闘を繰り返す日々が続くようになった。
高射砲のことについて少し述べれば、撃つ弾は炸裂弾なので、上空を飛んでいる飛行機に対してはある程度の威力を発揮するようではあるが、命中率はかなり低かったようである。
高射砲を撃つ誠にとって低空を飛行してくる戦闘機に対してはある意味無力であって、なす術がない。
しかしある日の戦闘で誠は遙か先より低空でこちらに向かって飛行して来る一機の戦闘機らしきものを見つけた。
まだ点のように見えるが、間違いない戦闘機グラマンだと確信した誠は高射砲に跨りながら手にしている棒で水平方向・上下角度を担当する兵のヘルメットを叩いて砲身を下げさせ真正面から近づいてくるグラマンの方向を棒で指し、そちらに向けて砲身を合わせるように指示を出した。
このグラマンは必ず何処かで上空へ向けて操縦かん切るはずだからその時が撃つ絶好の時とばかりに、息を潜めるようにして待った。
周りは戦闘機の爆音と大砲や機銃の音で、はち切れんばかりの轟音の中だから声など届くような状況ではない。
両傍にいる兵隊に棒切れでヘルメットを叩きながら照準を微調整させ、近づいて来たグラマンの操縦席に座っている若い白人の顔がはっきりと見えた時、誠はここぞとばかりに射撃の紐を引いた瞬間、号砲音と共にグラマンは木っ端微塵となって視界から消え、思わず「やったぞぉ!」と叫んだ誠であったが、フィリピンに来て以来戦闘に加わった誠の最初で最後の撃墜劇であった。
しかしその日の戦況報告会において、部隊長から「三田上等兵がグラマンを一機撃墜したと言っているようだが怪しいものだ」と揶揄されてしまう。
共にいて補助をしていた兵隊が証言してくれても良さそうなものだが、射手が撃とうとする気配を感じたら両手で耳を塞ぎ、顔を下に向けて防御体制を取るものだから、飛来してきたグラマンが木っ端微塵となったのか頭上を通り過ぎていったのか解からなかったそうである。
高射砲は字の如く高度に位置する飛行機を撃ち落とす目的で製造された砲身の長い大砲である。上空で命中したのなら黒煙を引きながら墜落してゆく飛行機の姿を見ることが出来たであろうが、元々すばしっこく動く戦闘機の撃墜用に造られているわけではないから、部隊長が疑いを持ったのも仕方がなかろうと思われるが、誠の悔しがりようと言えば相当のものだったようである。
何せ戦闘機を一機撃墜したとなれば本来なら大手柄となるはずなのに、それを軽くいなされてしまったのだからねぇその気持ち判らないでもないが・・・。
その後も戦闘が毎日のように続く中、弾薬も食料も底を尽きかけた頃には既にフィリピンに上陸していた米軍海兵隊は誠の所属する部隊近くにまで進攻し始めていた。
連日砲弾を浴びせられ、空からは機銃を撃たれて窮地に陥った誠の所属する部隊長は「弾薬も尽き最早これまでである。止むを得ず撤退する」と命令を出した後、フリピン総司令部がある方向から海兵隊が攻め寄せてきているのだから恐らく連絡が取れなくなっている本隊は全滅したのではなかろうかと考え、戦闘で生き残った部隊の約半数近くとなった百名余りを連れて、行く当も無く司令部がある反対方向へとジャングルの中を進み始めた。
部隊長は軍馬を連れて刀とピストルを携行し、他の兵隊は全員が歩兵銃を持っただけの軽装備で、もしこれで米軍と遭遇したなら戦闘にならないであろう偵察隊のような部隊と化していた。
その上、持ち出し出来た食料と言えば大した量ではなかったが部隊に残っていた米を全て皆が手分けして背嚢に入れ、他に残っていた物といえば少量の乾パンだけであったと言うのだから、玉砕覚悟の死地への旅路と言った方が的確な表現であったろう。
昼間は煙で居場所を特定される恐れがあるからと、夜間に飯盒で飯を炊いて皆に配分しながら当座は飢えを何とか凌いでいたが、十日もすれば米を食い尽して、唯一残っている乾パンを分けて食料は終わりとなった。
 食料が尽き、当ての無い逃避が続く中で飢えと暑さで体力を奪われた兵隊が一人又一人と倒れてゆく中で、可哀想だと思いながらも背に腹はかえられないと部隊長は愛馬を食べる苦渋の決断をしてくれたが、数十人の胃袋を支えるには馬一頭では十分でなく、その後も倒れる者あり、いつの間にか部隊に見切りをつけ逃亡して居なくなる者ありと部隊の人数は三十数名となってしまった頃から誠は不思議な夢を見始めるのである・・・それは本当に不思議な夢であった。
ある日を境に見始めた夢の最初は山田一等兵と村上二等兵が連れ立って部隊から逃亡する夢であった。
目が覚めた誠は変な夢を見たものだと思いながらも朝の点呼の時この二名がいなくなっていることが判り、一瞬正夢か?と思ったけれども、今まで随分の兵が逃亡しているので、さほど気にも留めなかった。
しかし、数日後に見た夢は井上伍長が翌朝には冷たくなって死んでいる夢であった。
井上伍長は何かの病に冒されていたわけでもなく、特別に衰弱しているようにも見えなかったので、そんなことがあるはずも無かろうと目が覚めた誠は思ったのだけれども、この夢は正夢となり、その朝には井上伍長は死んでいたのである。
眠っている間に見る夢が翌日にその通りとなって現実となるのは少し不思議なことだと思い始めた誠であったが、まさかとは思いながらも、やはり馬鹿馬鹿しいと、夢のことを他の者に話すようなことはしなかったけれども、その翌日に見た夢は正に生々しく映画でも見たかのような場面を見せられて目が覚めたものだから、思い余って部隊長に今まで見た夢のことを交えて昨日に見た夢の内容を話してみた。
その夢とは残った部隊の面々が一列となってジャングルを歩いているうちに巾一メートルに満たないほどの浅く水が流れている場所に出くわし、次々にその場所を飛び越えながら渡っている時のこと、突然左側より機関銃を浴びせ掛けられ、ちょうどそのとき水辺を飛び越えていた鵜飼二等兵を始めとする三名がその場で撃たれて倒れる様子であったことを伝えた。
部隊長は「そうなのか、それは不思議なことが続くものだが、まあ余り気にしても仕方がないので取り敢えず先へ進もう」と深く気に留める様子も無く残された兵隊を率いて先へ進め、誠の方も部隊長の数名後について歩きながら、頭の中には様々な想いが浮かんでくるけれども、いやそんなことはないと打ち消し、昼近くになるまで歩いていたのだが、突然目に飛び込んできた光景は昨日見た夢と同じ水辺の場所であった。
「部隊長!この場所です。きにょう・山口県では昨日(きのう)のことをこのように言う・見た夢の場所がここです。早く行って下さい」と声を荒げて伝えると、不思議そうな顔をして誠の方を振り返った部隊長は誠の恐怖に駆られた青ざめた顔を見て、その気配を感じたのか慌てて駆け出したその十秒も経たぬ内に機関銃の音がジャングルの中に響き渡った。
脇目も振らず後ろを振り返ることも無く息が切れるかと思われるほどに道なきジャングルを駆け抜けようと誠以下川辺を渡り終えた数名が後に続いていた。
撃たれて死んだ三名以外は水辺から一旦引き返して様子を伺いながら隠れていたのだが、夜陰に紛れて部隊長が進んだと思われる方へ再び歩みを進め、幸いなことに翌日には何とか部隊に合流してきたけれども、ここまできての生存者は僅か十数名になってしまっていた。
誠は否定しつつも何となく気にかかってはいたが、やはりあれは正夢だったのだ。もしかするとこれも「聖師(王仁三郎)さん」のお陰であろうと考え、心の中で祝詞を唱えながらそっと腹に手を当てていると、訳も無く涙が溢れて止まらなかった。
部隊長は誠から聞いていた夢の内容が寸分たがわぬ現実のこととなったことに少し畏怖の念を抱いた様子であったが、その後も敗残兵はジャングルの中を彷徨ように歩き続けるなか、一人倒れ一人離脱し又一人倒れるで、とうとう残った兵は十名以下となっていた頃に部隊長は「三田!昨日は夢をみなかったか。どんな夢だったか」と聞いてくるようになっていたのだが、流石に部隊長が毒蛇に噛まれて命を落とすことを告げるには忍びなかった。
そして部隊長が亡くなった後は、もうこれ以上皆で一緒にいても仕方がないと、それぞれが分かれ別れとなって再びジャングルの中を彷徨いはじめたのである。
 一人でジャングルを彷徨っているうちに朽ち果てた大木の辺りから松茸のような香がしてきたので思わず「ここには松茸がある!」と探し始め、見つけたキノコは松茸とは形が少し違っていたので毒キノコではあるまいか・・・と思いながらも「いや、子供の頃に匂いの良いキノコは食べられると聞いていたからきっと大丈夫だ」と己に言い聞かせて火を熾して焼いて食べたところ味は殆ど無く食感は松茸とは縁遠かったけれど、久し振りに食料にありついた誠は毒気を心配しながらも、他にはもう生えていないかと探してみたがこれ一本だけであった。

あれから何処くらいの日が過ぎたのであろうか・・・誠は一人ジャングルの中を歩いている内に木立の切れ間から小石を敷き詰めたような河原が見えたと思った瞬間に背後から一発の銃声が鳴り響いた。




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