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建築家 潤 の『独断と偏見』

「双龍物語:第一章・戦地へ」

 逮捕留置されたにも拘らず、誠は己の心に照らし合わせて何ら恥じることなど無いとの信念があり、その後も仕事に励みながら熱心に布教活動も続けていたのだが、日本を取り巻く世界情勢は一段と厳しくなり、昭和十六年十二月八日真珠湾攻撃で口火を切って、日本はアメリカに宣戦布告を行い戦争に突入する。 
 開戦当時から暫くは日本軍の連戦連勝で国中が湧きかえっていたようであるが、数年が経って戦局が次第に危うくなりかけた頃、誠に三度目の召集令状が届いた。
と言うのも、誠はこれまでにも召集令状を二度受け取っているが、徴兵検査の段階でいずれも不合格となっていたのである。
想像の域を出ないが、誠の身長は一五五センチ程度しかない小男で体型は痩せ型の上、心臓が弱く子供の頃に肋膜炎を患っている経緯があってのことなどが原因で、これまでは徴兵を免れていたのではないかと思われる。
しかし戦況が徐々に逼迫し、悪化する状況となっては、何が何でも兵隊を集めなければ・・・と思い始めた日本軍は小男であろうが多少病弱であろうが、もうお構いなしの徴兵となっていたのであろう、今回の徴兵検査では見事に丙種合格となって戦地へ向かうことになったのである。

 誠にまで召集が掛ったと言うことで、家族・親族に加え「大本」の信者を巻き込んでの大騒ぎとなり、話が地域の信者全体に伝わって行くのにそう時間は掛らなかった。
その中に昔の日本ではよく見かけた世話好きな女性の信者さんで山脇さんという方が話しを聞きつけ、すぐに誠を訪ねて、こう話を切り出した「誠さん、あなたが戦地へ行くんなら、そりゃあ聖師さんに会うて、お陰を貰わんにゃあいけん。うちも一緒に行くけえ京都に行こうやぁ」突然の話ではあるが、巨大な組織となっていた当時の「大本」では、いくら古くからの信者といえども、そう簡単に「王仁三郎」に面会できるとは思えないので、恐らく世話好きなこの女性は「王仁三郎」に会える特別な人脈を持っていたのであろうと思われる。
誠の方も「聖師」さんに会えるのなら・・・と直ぐに申し出を受けて、京都に行く日時や手筈を山脇さんに委ね、その支度や準備を整えている内に出発当日がやって来た。
 京都に向かう汽車の中で、誠は二度も徴兵検査で不合格になったにも拘らず、今回戦地へ赴くことになったと言うことは、恐らく激戦地であろう・・・との不安が頭を過っていた反面「聖師さん」と直接会える期待に胸は高鳴り、複雑な心境であったが、お節介なご婦人のおしゃべりで気が紛れたことは救いであった。
約半日ほど掛けて汽車は京都駅に着き、二人は山陰線に乗り換えて亀岡を目指し、亀岡駅より十分程度歩いて「大本」本部へ到着した。
受付で山脇さんは「今日聖師さんにお会いする約束で山口県から来ました山脇です。日向(ひゅうが)さんをお願いします」と告げると、少し甲高いその声が届いたのであろう日向さんが奥の方から出てきて「やぁ山脇さん遠くからご苦労でしたねぇ待っていましたよ。さぁこっち、こっち」と手招きで二人を迎え入れ、他の人に何やら耳打ちをして使いに出したようだった。
事務所の奥に通されて、出されたお茶を戴きながら、道中でのことや、誠のことにことについて雑談交じりの話をしていたら、先ほど使いに出された方が戻ってきて「聖師さんがお待ちですこちらへ・・・」と事務所を出て「王仁三郎」の下へ案内をしてくれたのである。
誠達は案内されるままに従い、歩いて5分ほど離れた場所にある「王仁三郎」の執務室へ通された。
部屋の入り口まで来た時には誠の緊張は極限にまで達していたが、入り口を開けてもらい、伏し目がちに部屋に足を踏み入れると同時に「王仁三郎」が「やぁ良くお見え下されました。待たれましたか?」と声を掛けてきた。
誠は顔を上げ「聖師・王仁三郎」の方へ目を向けると、穏やかな笑みを浮かべた「王仁三郎」の姿がそこにあり、やっと直に会えた・・・ただそれだけでこれまでの緊張は一気にほぐれて感激と幸福感で心が満たされてゆくのが判るほどであった。
一方「王仁三郎」の方は事前に誠が来ることは知らされており、出生地なども聞き及んでいたから「やれやれ、やっと来てくれたか、さてこの若者を死なすわけにはゆかないのだが、上手く助けられるかいなぁ・・・」と心で呟きながら誠を見つめて「三田さんでしたね。召集されたと伺いましたが・・・」と言いかけると、傍から山脇さんが「そうなんです。これまでに二度も召集令状が届いたんですが、徴兵検査で不合格となっていたのに今回は丙種合格になって・・・」と口を挟んできて「それで、聖師さまにお陰を戴きに参りました。何とか宜しくお願いします」と誠に代わって想いを伝えてくれる。
すると誠を見ながら「聖師・王仁三郎」は誠の行く末を瞬時に見通してのこと「そうですか・・・さて、三田さんあなたは大変なところに行くことになりますが、何とか命だけは助けてあげましょう・・・」と言いながら「何かさらしのような布は無いか」と付き人に声を掛けたが「金物・布類など全て軍部に供出して何もございませんが、紙なら少しは・・・」と返事が返ってきた。
「紙か、紙ではダメだ。白い布なら何でも良いのだが・・・」と「王仁三郎」が口にすると、山脇さんが突然着物を脱ぎ始め「白い布なら長襦袢でもいいでしょう。これを使って下さい」と長襦袢を脱いで裂き始めようとした。
それを見るなり、お付の人は「ちょっと待って下さい。それなら鋏を持ってまいりますので」と鋏を用意してくれ、山脇さんはその鋏で以って切る巾や長さを「王仁三郎」に聞きながら、大凡で裁断を始めた。
その間「王仁三郎」はおもむろに脇机に置いてある硯に手を伸ばし、硯の蓋を取って墨を磨り始めていた。
「こんなもんでいいですか」と裁断した長襦袢を「王仁三郎」に見せると、「王仁三郎」は「うん、いいんじゃないか」と手を伸ばして腹巻になりそうな巾で裁断された襦袢を受け取った。
墨を磨り終えた「王仁三郎」は床に襦袢を広げて筆を取り、おもむろに和歌を書き始めた。
誠は正面から「聖師・王仁三郎」の筆先を目で追いながら何が書かれるのか読み取ろうとしたけれど、良く判らない字もあり首を傾げながら書き終えるのを待った。
誠が読めなかったのには訳があり、当時の知識人なら通常に「変体仮名」を交えた和歌を詠っていたので、学問に疎い誠には過ぎたものであったかも知れないが、和歌の内容を現代文で記すと「大君の家のみ盾と えらまれて いくさのにわに立つこの若人」と詠んであり、その下には漢文で「忠勇義烈 皇軍萬歳」と記されてある。
また和歌の横には薄い文字で「月」と添えられた文字があるのだが、これについては推測の域を出ないが、もう少し後にその意味をお伝えしようと思う。
そして「聖師・王仁三郎」は襦袢を床に置き祝詞(のりと)を唱えながら、拇印を押し始めた。
・この長襦袢は今も現存しており、いずれ機会があればこの写真を掲載しようと思っています・真剣な顔つきで祝詞を唱えながら拇印を押す「王仁三郎」の姿を見て、誠はどうやら大変な激戦地に行かされるのだろうと、また絶望的な気持ちになったが「聖師・王仁三郎」の「命だけは助けてあげる」の言葉を信じ、かろうじて平静を保っていた。
 拇印を押し終えた「聖師・王仁三郎」は「これを肌身離さず身に付けて下さい」と襦袢を誠に手渡し、戦地へ赴く労いの言葉を掛け、最後に「命だけは大丈夫だからね」と念を押してくれた。
 
 「王仁三郎」が書いた和歌の意味は「天皇家を守る盾となる為に選ばれて、戦に赴くこの若者」であり、漢文(詩)の方は読んで字の如く、漢字の持つ意味そのままである。
また薄く書かれた「月」の意味は、どうやら誠に「つき(幸運)」があるようにとの意味であろうと想像ができる。
と言うのも「王仁三郎」はよくこの様な粋で洒落たことをやっていたというのだから、まず間違いはあるまい。
 そして、この様に他の誰の目にも触れることはなかろうと思われる腹巻に書かれた和歌から推測すれば「王仁三郎」の心情は天皇家と日本を守りたいとの信念を持っていたことを伺い知ることが出来るけれども、不敬罪などの罪を着せられ数度の大弾圧を受けているのだから、いつの時代も権力を振るう立場にある者は見識の低さに加え、心の貧しさが故に生じる猜疑心や恐怖心に怯えるのは人としての性であろうか。
誠はこれ以来この襦袢を腹巻として使用し、復員するまで肌身離さず身に付けることになるのだが、不思議なことは、誠が激戦地フィリピンから生還できたことと、詠まれている和歌の文字には、誠の命を助けるなどの文言はどこにも無く、ただ「つき(幸運)」の文字が添えてあっただけだから、真に誠の命を助けた「おかげ」の正体は「聖師・王仁三郎」が祝詞を唱えながら押した「拇印」ではないかと考えている。
この襦袢に押された「拇印」はこれまでに何度も洗濯をしている経緯もあり、薄れてしまって少し判別し難い状態になってはいるが、襦袢に書かれた文字と調和が取れるように二十箇所余りちりばめて押されていたように記憶している。 
 何故「王仁三郎」は山口県の片田舎から来たこの若者にそこまで肩入れしたのであろうか?
との疑問が湧いてきて不思議ではあるまいと思うが、その理由は高齢に差し掛かっていて、余命が短いことを自覚していた「王仁三郎」は次なる一手を模索していたのであろうと思われる。
「王仁三郎」は既にこの時には日本が戦争に負けることも、東京を始めとして日本全国が空襲の嵐に曝されること、広島・長崎に得体の知れない爆弾が落とされ、日本が米国に占領されることも知っていたのだから、「龍族(ここでは詳しい説明が出来ないので、話が進むに連れて少しずつ解かり易く説明を加えようと思っている)」の一員である「王仁三郎」は自分の代では、もはや世界の平和は叶わないことを悟り、次へ託す準備を考えていた。(尤も、東京の大空襲などは既に明治から大正時代に渡って書かれた「開祖・なお」の「お筆先」によって予言がされている。)
信者の数が百万人を超えるほどの巨大な宗教団体を組織し、人とは思えぬほどの霊能力を持ちながら、我が想い(役割)を達成できなかったのだから「龍族」としてこの世に出された役割を次へ託すことを真剣に考えていたと言うことであろう。
しかし、その役割が誠であったわけではなく、誠を使って次なる作戦の計画を立てようと企んだに違いなく、その企みとは次の世代に「龍族」の一人をこの世に顕わして「その役割を委ねことにした」との記述があるから、誠をここで死なすわけにはゆかなかったと言うことになる。
亀岡で「聖師・王仁三郎」から「おかげ」を貰った誠は山脇さんと共に京都を後にし、山口県への帰途についた。
帰りの車中で誠はこれから向かおうとする戦地は一体何処になるのだろう・・・などの様々な想いや妄想にも近い想像が目まぐるしく頭の中を駆け巡り、不安と恐怖で逃げ出したい衝動に駆られたけれど「聖師・王仁三郎」の「命だけは助けてあげる」の言葉を思い出し腹巻に手を当てて、大丈夫だ「聖師さん」が約束してくれたのだから・・・と自らに言い聞かせて自分を納得させなければならない心情は赤紙を受け取り戦地へ向かおうとする本人以外には判らないであろう。
大畠に帰ってきた誠は早速出征の準備に取り掛かったものの、数日の間は出征祝いと称した地域での送別会や親族を交えた大本信者による激励会が催されて慌ただしい数日が続いた。
当の誠は不安を抱えながらも戦地へ行く準備を整え終えて、明日には今生の別れとなるかも知れない家族と、ごく親しい大本信者数名を交えた最後の晩餐を共にしたのだが、その場でうっすらと涙を浮かべながらも微笑みを絶やさなかった母ヲトミの姿が痛々しく感じられ、不安でいっぱいとなっている誠の胸を更に痛めたのであった。
翌日の朝いよいよ出立のため駅に向かうと、そこでは既に大勢の人が集まっていて、幟や旗が用意され盛大な見送りが準備されていた。
列車が到着するまでの間、皆から励ましの言葉や「立派に戦って死んでこい」などの手痛い言葉を受けながら皆に別れを告げ、御礼を述べていたところへ列車が到着し、世話人の方の発声による万歳三唱の声と汽笛を背に誠は汽車に乗り込み集合場所の駐屯地へと向かった。

駐屯地に着いた誠は配属先の部隊に合流すると、上官から「三田君、君には帝国陸軍上等兵の位を授ける」と言われ、軍の経験など全く無い誠は恐らく二等兵であろうと想像していたにも拘らず「上等兵」と言われたので意外に思っていたけれども、後になって聞かされたのだが、どうやらその理由は中学を出ているからということのようであった。
それからの誠は駐屯地で少しの間、基礎的な軍事訓練を受けさせられた後に船でフィリピンに向かったようだが、既に制海権は危うい状態に差し掛かっていた状況下において、米国潜水艦の標的となって狙われ、撃沈されずに無事フィリピンへ到着できたことは幸いであった。
とは言うものの、制空権も同じく危うき状況となっていたのだから、とても順風満帆の航海であったとは思えないが、駐屯地からフィリピンへ到着するまでの口述された記憶や記録がなく、詳細な内容をお伝えすることが出来ないのが残念です。

 フィリピンに到着した誠は第十四方面軍の指揮下にあってルソン島に駐留していた連隊(所属の連隊や部隊名その設営場所なども聞かされていたのかも知れないけれど記憶に留めていません)の高射砲部隊に配属され、射手として戦闘に参加することになった。
今となっては当時フィリピンに配属されていた全部隊の兵数を詳しく知ることは出来ないが、5個師団を上回る兵数が配属されていた記録があるので、少なくとも5万人以上の兵数がいたと思われ、米軍は圧倒的な物量を背景にこの大部隊の兵力を全滅させる目論見を持って攻撃目標としたためフィリピンは猛攻撃の標的とされたのではなかろうかと思われる。
その中で誠が所属した連隊は総勢6千名を擁し、直属の高射砲部隊は三百名ほどであったと聞かされている。
そして、この日を境に誠のフィリピンでの戦闘生活が始まったのである。

配属された部隊の基地は比較的海岸線に近い密林を切り開いたところに設営されていて、施設の状況は粗末ではあったけれども司令棟に兵舎・厨房・食堂施設・小さな病棟など一通りを備えた前線基地であった。
またこれらの施設に面してちょうど学校の運動場のような広場をも持っていたが、流石に弾薬庫だけは密林の一部を旨く偽装して隠していたということであった。
配属されて暫くの間は戦闘もなく広場で体操や教練を行っていたものだから、本当にここは戦地なのだろうかと思えるくらいに平穏な日々が続いて少し気も緩みかけていた中、ある日突然グラマン(当時の米軍戦闘機名)が数機飛来して基地内に機銃掃射を浴びせながら突入してきたものだから、けたたましくサイレンが鳴らされ「戦闘配置!」の号令とともに全員が戦闘態勢に入ったけれども反復攻撃はなくそのまま飛び去っていったので、皆は戦闘にもならず拍子抜けしたと言っていたが反復攻撃が無くてその後も何度か同じ様なことが起こったことから想像すると、恐らくフィリピン全土における日本軍の戦闘能力を目視で調査・写真撮影するために偵察部隊の一部が来ていたのであろうと考えられる。
効率よく攻撃するためには他からの情報のみに頼らず、直接に偵察を行い見聞きした情報を収集し全体の作戦を組み立てて、その上で局地的な戦闘に関する作戦を練っていたと考えられるので、これでは軍備に加え燃料・食料が不足気味であった日本軍が勝てるわけがない。
余談になるが、この当時からアメリカ軍は、こと戦争に関しては中国の古書「孫子の兵法」や「六韜(りくとう)」などまで研究していたというのだから脱帽ものである。
それに対して日本軍の戦争に対する姿勢は精神性を重視したお粗末極まりないものといっても良かろうと思えるけれど、ミサイル攻撃が主体となっている現在でもペンタゴンはいまだにその研究を続けているというのだから流石に他国の軍隊では真似のできない探求心だと感心する。
当時の戦争の作戦を立てた日本の官僚は、作戦を立案すると作戦の期間を定め、兵数・武器・弾薬・食料まで緻密に計算して、その通り実行させようとしたというのだから、作戦の一部が予定通りに進まなければ、これらの内のいずれかが当然不足してくることになるけれども、それは全く考えなかったということだからねぇ、これでは国を離れ異国の地の最前線で戦っている兵士を見殺しにするに等しい行為と思えるが、過去も今も日本の官僚の考え方とはこの姿勢なのだろうから、頭脳があまりにも明晰すぎて何事に関しても旨く行かずに失敗するかもしれないという「失敗」の文字など彼らの頭脳の中の辞書には無いのであろう。
 さて話を誠に戻すと、その後の二ヶ月余りはグラマンの飛来も無く平穏な日々が続き、教練の合間には皆で相撲を取ったり騎馬戦に興じたり、それぞれの故郷の話をするなどして戦地へ赴任し、戦争に来た感など全く感じられなかった様子であったという。
そして誠はといえばこの数ヶ月間で何度も施設周囲の偵察を命じられて出かけていたのだが、誠のお人好しの人柄もあってのことか、いつの間にか現地の人達と顔見知りになり、次第に打ち解けてことばまで交わすようになっていた。
そういうこともあってのことか現地の人が前線基地にも度々遊びに来るようになっていたというのだが、しかし穏やかな日々はそう長くは続かなかったのである。
良く晴れたある日の朝のこと、突然と爆撃機や戦闘機の編隊が部隊の遙か上空を飛来して来たものだから、すぐさま臨戦態勢が敷かれ、高射砲部隊の射手である誠は密林の中に配置されている高射砲に飛び乗って上空へ向け何発もの砲弾を打ち放ったが、この日は一機も撃墜することは出来なくて悔しい思いをしたと酒を飲みながら話していた。
だがその日を境に毎日のように同じ方向に向けて護衛戦闘機を伴った爆撃機の編隊が飛来するようになり、いくら高射砲を撃とうが全く応戦をしてこないので、誰もが不思議に感じていたようだが、恐らく米軍は十分な偵察を行った上で作戦を立てた結果、まず最高司令部を叩くことから始めたと考えられ、前線の小部隊など眼中にも無かったという事であろう。

その後何度か戦闘機が飛来してきたことがあったけれども、ただ基地の少し上空を通過するだけで機銃掃射を浴びせるわけでも無く爆弾を落とすことも無かったが、次第に戦況の雲行きが怪しい状況となって行く中で不運にも誠はマラリアに感染して高熱で苦しみ医療施設のベッドに寝かされていた。
元々病弱体質の誠にとってフィリピンの高温多湿の気候風土は肌に合わなかったことにも拠るのかもしれないが、マラリアに対する十分な抵抗力を持ち合わせていなかったということだろう。
また当時のことだから特効薬など無い時代なので治りは遅く、意識も覚束ないほどの高熱が何日も続いていたところへ突然サイレンがけたたましく鳴り響いた。
廻りから「敵機来襲!敵機来襲!」の叫び声が聞こえてくるも、身動きが取れない状態なので、きっと医療班の誰かが来てベッドで寝ている誠を連れ出して一緒に避難させてくれるだろうと思い、少しの間待っていたけれども、誰も病室まで来て助けてくれる気配は感じられない。
誠はこのままここで寝ていたらこの建物が機銃掃射を受けるか爆弾を落とされるかもしれないとの不安が過ったけれども体が思うように動かない。
数分間の慌ただしい騒動が治まると周囲は静寂に包まれたかのような静けさとなったので、どうやら医療班の連中は我先にといち早く防空壕や密林の奥へと避難してしまい、部隊の全員も避難を終えたようで、誠は病棟に一人置き去りにされ絶体絶命の窮地に陥ってしまった。
そして妙に静かになった中、遠くの方から数十機と思われる戦闘機の爆音だけが耳に入ってくるだけ、そして段々とその音が大きくなってくるのである。
意識も覚束ない状態でありながらも恐怖に駆られた誠は意を決してベッドから這うようにして床に落ちて起き上がり、何か杖になりそうなものはないかと周囲を見渡すと、何に使う目的なのか判らないけれど壁際に立てかけてある背丈より少し長めの竹竿のようなものが目に入った。
 「これこそ天の助け!」と思いながら竹竿の所まで這って行き、それを手にして渾身の力を込めて立ち上がり「早く防空壕まで行かなければ・・・」と棒に体を預けながら一歩を踏み出した。
戦闘機の爆音は大分近くまで来ているように感じられたが、そんなことよりも早く建物から離れなければ・・・の思いが誠の体を動かし、何とか広場の真ん中の辺りまでは辿りついたのだが、そのまま意識を失い白衣を着たままうつ伏せに倒れこんでしまった。
 どのくらいの時間が経ったのだろうか、誠が意識を取り戻した時には既に爆音は消え去り、少し離れた辺りから叫び声にも近い怒号が耳に入ってくるだけであった。
今の状況はどうなっているのかを確かめたくて誠は仰向けになり空を見上げると空は青さでいっぱいの美しさが広がっていて「ワシは助かったのか・・・」と安堵の思いと同時に体に別段痛みを感じないから機銃掃射も受けなかったのだろうとほっと胸をなでおろし、ただただ「良かった」の思いだけが心と体の中に満ち溢れていた。
暫くすると避難していた者達が誠を見つけて「三田上等兵殿大丈夫だったんですね。良かったです。」と近寄ってきたが病人を置き去りにして自分達は逃げておきながら「大丈夫だったんですね」は無かろうと思ったけれども、今更そのようなことを言ってみたところで始まらない。
傍に来た二人が誠の両脇を抱えるようにして立ち上がらせくれたので周囲を見渡せば病棟の建物は爆撃を受けなかったようで無事に建っていて、密林の少し入った辺りから三本の黒煙が上がっているのが目に入り、そちらの方から大勢の声が聞こえてくるので「あれは何で騒いでいるのか」と聞くと防空壕の一つに爆弾が直撃して中に逃げていた者全員が死んだのだと聞かされ、もしマラリアに感染していなければワシは防空壕に逃げ込んでいただろうから、そこで死んでいたかもしれないと背筋が寒くなる思いがした誠であった。




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