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建築家 潤 の『独断と偏見』

日本文化の素晴らしさ その17 ~差別用語 その2~

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 前回お伝えしたように、「差別用語」と言われている「言葉」を仮に他の言葉に置き換えてみたところで、本質が変わるわけでもない。言葉を換え、表現を少し上品(?)にしたところで、反ってそのものを判りづらくしたり、誤解を生じることもあろうかと思う。

「盲」や「聾」などは、一文字で人の身体の異常を相手に伝える文字(言葉)で、これは日本の文化である。

そのことを伝えられた人は、その人の身体の異常を的確に把握できたわけだから、以後その人に会う機会が生じた時には、いたわりや配慮をもって接することが出来る。それを「視力障害者」や「聴力障害者」と伝えたのでは、異常の程度がさっぱり掴めない。

 ここで今、私が「異常」と書いたのは訳がある。「差別」とは同じものを異なったものとして扱えば「差別」であり、異なったものを同じものだとすれば、これも「差別」だと前回書いた。

私はこれを人の世の原則であると思っている。そのことをよく考えずに物事を捉えれば、この世のものは全て平等になってしまい、何でもありの(但し表向きだけ)悪しき欧米社会の外来種文化を踏襲することになる。
いや、既にしてしまったから、このような「差別用語」などという「言葉」が産まれてしまったと考えている。
ただ、何をもって「異常」とするかについては「差別用語」などより、もっと大変なことなのだが、
一般的に人の身体能力においては、日常の生活の中で、見、聞き、味わい、嗅ぎ、触れる(掴み、歩く、走る)という、いわゆる五感が正常に働かなければ、程度の差はあれ「異常」となってしまう。

その「異常」の程度の段階を的確に表現した言葉が「盲」「聾」などであり、軽蔑したり、蔑んだ言葉であろうはずがない日本文化の「言葉」であると私は確信している。

 日本の漢字には「音読み」と「訓読み」の二つがあるけれども、「盲」の(もう)は残して(めくら)を残さない、「聾」の(ろう)は残して(つんぼ)を残さないのであれば、日本の「ことば」の文化、歴史への冒涜であるさえ言いたい。
日常会話の中で「あの人は完全視力喪失人ですから・・・」と言うのがよいのか、「あの人は盲ですから・・・」と言うのが良いのか、さてどちらなのでしょうかね?。

今の若い人は知らない言葉であろうが、その他にも身体的な異常(異状)の特徴を表す言葉に「めかっち」(片目が不自由で見えないことを言う)、「ちんば」(片足が不自由なことを言う)、「いざり」(両足が不自由で歩けないことを言う)
などがあるが、私は今までこの言葉を蔑んだり、軽蔑した言葉の意味だと捉えたことは一度もない。逆に日常生活がどれほど不自由であろうか・・・と感じ、接する機会があればいたわりを持って・・・、失礼の無いように・・・と思った記憶しかない。なぜなら、それは今「差別用語」と言われている言葉の一言で、その人の状況や異状が理解できたからであり、不確かな情報ではなかったからだ。

 皆さんは、ご自分の記憶には無いかもしれないが、四~五才(幼稚園児)の頃になると、やっと言葉が少し話せるようになり毎日が楽しくて仕方なく、自分の想いを相手に伝えようと、一生懸命つたない言葉を尽くして話をする。そして、その時期、誰もが言う言葉の中に「うんこ」「しっこ」があり、子供達はこう言うのである。「おまえはうんこだ」「おまえはしっこだ」と。

これこそが「差別用語」なのだと私は思っている。なぜなら話している相手が「うんこ」や「しっこ」であるはずがないことは子供達も知っていて、敢えて使っている言葉だからだ。
「しっこ」については自分が漏らしてみると、少し気持ちが悪いことに気づき、親から寝小便については恥ずかしいことだと言われ、「うんこ」は嫌な臭いであることがやっと理解できるようになる年頃の中で、気を引くために相手を少し小馬鹿にしたくて思わず出てくる言葉であろうと思っている。
しかし大人になって行くにつれて、「人はうんこやしっこではないよ」と誰かから窘められたわけではないのに、自然とこの言葉を人に対して使わなくなる。
それは「違う」と言うことが理解できるようになるからである。人は「違う」ことについては誰に教わるわけでもなく、自然と社会生活を営んでゆくうちに、理解し体得してゆく生き物であるということだ。

「違う」とは「異なる」ことであり「異常」「異状」と同じであろう。悪しき平等主義者が言う「差別用語」は、「差別用語」とは考えられない言葉を「差別用語」にするなど、幼稚園児の言う「うんこ」や「しっこ」に等しい感覚なのでは・・・と疑いたくなる。

未だ脳の中が幼稚園児並みかと思わざるを得ない。それは次のようなことからも想像がつく。
日本では昔、職業の分類において「公家」「武士」「百姓」「鍛冶屋」「商人」(あきんど)「漁師」「猟師」(またぎ)などがあったけれども、この中の「百姓」と言う言葉だけが何故「差別用語」になるのか、私は未だに理解が出来ないままでいる。

本当の「差別用語」とは昔の職業分類の中にあったはずで、「猟師」などは、ある意味、昔で言う「非人」の類(殺生をして、血で汚れる職業に就いている者達)だったであろうが、これを「差別用語」としない訳も判らないし、「漁師」だって基本的には殺生をしている職業である。

「百姓」とは昔から誇り高き農業全般に従事する者達の総称である。それを「差別用語」にするとは言語道断、無知としか言いようがないと思っている。
もっと言えば、今は人間国宝までいる「歌舞伎役者」など、その昔は「川原乞食」と呼ばれ、住む家もなく名字すら無いときもあった(確か当時は非人扱いであったと記録にある)ことはどう捉えればよいと言うのか。人道主義者(悪しき平等主義者)は何故「歌舞伎」や「漁師」「猟師」を「差別用語」に入れないのか。

同じものを異なるとしたら「差別」であるし、異なるものを同じとしても「差別」だ。歴史を振り返ってみて本当の「差別」とは何か、何であったかを理解した上で「差別用語」を決めて欲しいものである。

今回の「差別用語 その2」を書いていると、パソコンで変換不能の文字がもう一つ出てきた。それは「非人」である。「非人」とは人に対して「人に非ず」と表現しているから、当然これは「差別用語」だ。しかし、日本の歴史を学び、理解する上では必要な言葉の一つである。パソコンの変換から消してしまうのは全くもってけしからんことだと考える。

欧米から輸入した外来種言葉「(悪しき)平等」こそが、今の変な「差別用語」を生んだ原点であり、今の日本をダメにした根源であると私は思っている。次回はここに焦点を絞りお伝えする。

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