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建築家 潤 の『独断と偏見』

「双龍物語:序章」

大東亜戦争(第二次世界大戦)終戦間際の頃、三田 誠上等兵(二十九歳)は歩兵銃を手に持ち、背嚢を身に付けフィリピンのジャングルを一人で彷徨っていた。
当ても無く歩き続けている中、少し先の木立の隙間から小石が敷き詰められた河原が見えたと感じたとき、突然背後から銃声が聞こえた。
瞬間右手首に焼け火箸を当てられたような感覚を覚え「撃たれた」と思ったので、思わず銃声がした方向を振り返ると、歩兵銃を持った日本兵らしき人物の姿が眼に入ってきたが、そのままジャングルの奥の方へ逃げていった。
恐らく背嚢に食料が入っていると思って撃ったに違いないと想像したものの、もう何日もまともな食べ物を口にしてはいない体は衰弱しきっていて、すでに歩けるような状態ではなかったが、何かに誘われるような感覚で出血する手を庇いながら河原の方へ歩いていった。
 やっとの思いで小石だらけの河原に辿り着いた時には体力も気力も失せてしまい、ばたりと河原に倒れこんでしまった。
まだかろうじて意識はあったが、銃声を聞いたのであろうか現地民が数名近寄ってきて、血だらけになった誠を見ながら「三田、何かして欲しい事は無いか」と声を掛けてきたので、見ると顔見知りのフィリピンの人達であった。
もう数年激戦地フィリピンで米軍と戦って来ていたが、原住民との交流では良い関係ができていたからであろう、正に死に絶えようとしている誠を見て、哀れみと、人としての良心がそうさせようとするのか、末期の水を取ろうとしてくれているのである。

 もう意識も覚束ないほどの状態になっていたが、誠は「それじゃあ、この背嚢の中にコーヒーが入っているので、コーヒーを飲ませてくれ」と伝えると、空き缶を探してきて川の水を汲みコーヒーを入れてくれている気配を感じながら、数分がたっただろうか、大好きなコーヒーの香りが漂ってきた。
これで最後か・・・と覚悟を決めかけようとしていた時のこと、薄れ行く意識の中で、何やら英語の話し声が聞こえたような気がしたのだが、そのまま意識を失ってしまった。
 
 どのくらいの時間が経ったのだろうか・・・意識を取り戻した誠の目に映ったものは建物の天井であったが、瞬時に我に返り、腹の周りに手を当てて、長い戦いの中で一時でも肌から離したことの無い、命より大事と思っていた「さらし」を探したが、その感触が無い。
我を忘れて「さらし」を探そうと周りを見渡せば、どうやら病室にいるようで、右手を動かそうと思えども手が出てこない。
利き腕を失った衝撃と見当たらない「さらし」に気が動転した誠は、大声を上げて騒ぎ始めたところ、悲痛な叫びに近い声を聞きつけた白人の看護婦が病室に入ってきた。
状況がまだよく飲み込めないままに、身振り手振りで腹の周りに手を当てて「さらし」の行方を看護婦に訴えると、寝かされているパイプベッドの頭の部分にかけてあるものだろう・・・と理解してくれ、そこを指差してくれた。
後ろを振り返ると、そこには洗ってきれいになった「さらし」が干すように掛けてあり、それを見た誠は安心したかのようにまた深い眠りに落ちた。
翌日の朝、比較的穏やかに目を醒ました誠は失った利き腕のことを思うと絶望的な気持ちになりながら、少しずつ戦地に赴くまでのことを思い返していた。

先に誠の生い立ちについて話せば、明治生まれの父「乙次郎(おとじろう)」と母「トミ」との間でこの世に生を受け、長女「スガ子」を頭に七人兄弟の二番目に生まれ、長男として誕生したこの夫婦唯一の男子であった(後に次男が誕生するも生後直ぐに他界している)。
父の乙次郎は若くして事業に目覚め、製氷業を営むようになってからは比較的裕福な生活環境を持っていて、山口県の瀬戸内海に面した小さな村内ではあったけれども、当時選挙権を持っていた三人の内の一人であったというから田舎の名士の内に入っていたのであろう(他の二人は村長と造り酒屋の主)。
しかし、この乙次郎は背が高く体は屈強な上、随分とやんちゃな性分で、酒は飲むし無類の博打好きとして通っており、広島県の三原市にまで博打を打ちに出かけていたというのだから、当時既に山陽本線が開通(明治三十四年)していたとは言え、相当の好き者であったということだ。
 ある時、三原の博打場でのこと、負けが込んだ遊び人の博打打ちの一人が負け金を払えなくなり、乙次郎にこう話しかけてきたという。
「金の都合がつかんので、わしの妹を差し出すけえ、これで堪えてくれんかのう」面倒臭いことになったと思いながら、乙次郎は仕方なくその妹を連れて帰ったものの、扱いに困り、近所にある「うどん屋」で暫く働かせていたが、後に嫁にしたということなので、何とも・・・といったところか。
 このような夫婦の下で生まれた誠は病弱体質で、心臓が悪い上に肋膜炎を患ったりしたものだから、近所の雀連中からは「まだ生きちょるかねぇ~」と言われるほどであったと言うのだから、よほどの虚弱だったということになろうが、その後戦争で片腕を失いながら八十九歳の天寿を全うしたのだから、人の生き死にだけは神のみぞ知ると言うことになろうか。
そんな誠は女ばかりの姉妹の中で甘く大切に育てられつつ、病弱ながらも海に遊び山野を駆け巡って尋常小学校を卒業・中学校[ 柳井商業学校(現山口県立柳井商工高等学校)]へと進んだ。
中学生[ 現高校生 ]となった誠は学友達と柳井市街をうろついていた時のこと、果物屋の前を通りかかった時に何ともいえない良い香りが漂ってきたので足を止めて香り先を探し始めた。
するとその香りは、どうやら巨大な「松かさ」の形をした物から出ているようで、店主に聞くと、これはパイナップル(パイン・アップル・松りんご)と言い、南洋産の珍しい果物で、とても甘くて美味しいものだと聞かされた誠は思わず衝動買いをしてしまった(当時のことだからかなり高価ではなかったかと想像できるので、やはり裕福であったのだろう)。
悪ガキ一同は早速このパイナップルと言うものを食べてみようと近くの海辺まで行ったものの、どのようにして食べるのか聞くのを忘れていたので、皆で思案を巡らせたけれど判るわけがない。松かさの形をしているので、ウロコ(鱗片)とウロコの間に「松かさ」には種があるから、そこを食べるのだろうということになって、小刀を出してウロコを剥がし、その根元の部分を食べてみたが不味くて食べられない。
皆口々に「あの親父に騙された。今度文句を言ってやる」と不平を口にしながら不満たらたらの中、腹立ただしく思った短気な誠は手にしていたパイナップルを海に放り投げた。
であれば猿の方がまだ知恵があろうというもの・・・ただこのことだけで誠の知能はこの程度であったものか、なかったものかを推し測ることは出来ないが、青春の一齣であった。
柳井商業学校を卒業した誠は大阪にある汽車製造株式会社(現・川崎重工業株式会社)に入社し、社会人となったが、それ以降は大した病気にも罹らず比較的平静な日常生活を送っていた。
休日のある日、誠は大阪の繁華街へ遊びに出かけていた時のこと、通りを歩いていて、ふと街頭易者と目が合ってしまい、何気なく前に置いてある蜜柑箱に座った。
別に何かを占って欲しかったわけではないのだけれども、易者の言うままに生年月日と名前を紙に書いたところ、当たり障りの無いことを話し始めたので、誠は「それはそうと、わしは将来大恋愛をして結婚したいと思うちょるんじゃが・・・」と言うと、少し間を置いて易者は「う~ん、そりゃあダメだね、あんたは嫁になる相手が決まっているから、あんたの思い通りにはならん」と言われた途端に短気の虫が頭を擡げ、何だ!この野郎・・・と急に面白くなくなり憤慨した誠は金を払ってその場を立ち去った。
このように左程怒る事にも思えないことでも、癇に障ると直ぐに怒りを表すほどに短気な性分ではあったけれども、何とか無難に会社勤めを続けることが出来たのは幸いであった。
その一方、誠は性格的というか心情的といえばよいのか判らないけれど、身内に対する情合は異常とも思えるほど深かったので、岡山に嫁いだ姉の家や東京の親戚を度々尋ね、故郷の山口県大畠村へも何かにつけて帰省していたようだが、誠の情合は少し偏狭的であった。
 勤めて数年が経った盆休みに誠が帰省したある日のこと、子供の頃より短気な性分に手を焼いていた母トミは誠にこう話し始めた「誠や、おまえの短気には本当に困ったもので、中々直りゃあせん、それでなぁ柳井に立派な人がおるそうだからその人のところへ行って話を聞いてみたらどうかいねぇ」。
そのように自分の欠点を指摘されて、はいそうですかと素直に従うような誠ではないので、ぐずぐずと屁理屈をこね回し、生半可な返事で持って何とかその場を誤魔化そうとしていたのだが、誠の将来に不安を感じていたトミはしつこく誠に食い下がって引こうとはしなかった。
結局根負けしたのは誠の方で、嫌々ながら渋々その人物に会いに行ったのだが、この人物との出会いが後の人生を大きく左右し、戦時中に不思議な体験をする切っ掛けになろうとは夢にも思っていなかった。

 その人物とは広島県神石郡神石町出身の知団(ちだん)さんと言い、年齢は誠より十歳ほど年上で、九州博多管区の国鉄職員として連結士(列車同士を繋ぎ合わせる業務)をしていたが、勤務中に右足関節より下を事故で失い、業務復帰が叶わなくなったところを国鉄側の計らいで誠の実家がある国鉄山陽本線大畠駅の売店業務を任されていた方であった。
また知る人であれば、彼のことを悪く言う人など一人もいないほどに評判の良い人物でもあったようで、渋々だった誠が柳井市中塚にある知団さんの住まいを尋ねたところ、知団さん夫婦は初対面の誠をとても優しく迎えくれたことや、招かれた家の中が綺麗に整理整頓されている状況を見て、誠は評判通りの良き人物であることに疑いを持つわけにはゆかなかったし、初対面にも拘らず少し話を聞いているうちに直ぐに地団さんと打ち解け、心が穏やかになってゆくのが判るほどであった。
と言うのも、知団さんの話はとても理にかなっていて、誠に通じ、正に迷える子羊にとっては天空から救いの蜘蛛の糸が降りてきたかのように感じられたのかもしれない。
知団さんに魅入られた誠はこの後、知団さんご夫婦に勧められたこともあって「大本(教)」に入信し、信者となって活動するようになり「大本(教)聖師・出口 王仁三郎」と出会う切っ掛けとなる。
知団さんは本業の傍ら「大本(教)の柳井支部」に属し「宣伝使(キリスト教の宣教師のような役割)」をされていて、熱心に布教活動を行っていた。

ここで大本(教)について、概略の説明をすれば、明治二十五年、後に大本(教)教祖となる「出口なお」は、くず拾い(であったと聞いている)で何とか生計を立てていた極めて貧しい文盲の女性であったが、突如神懸りとなり「お筆先(神が語る言葉)」なる文字を「なお」の意思とは無関係に手が勝手に書き始めたことに端を発し、狂人扱いされるも、その内容はこの後日本が辿ることになる姿を現した予言書であった。
またこの頃、同じくして神の啓示を受けた「上田 喜三郎」は導かれるように「なお」と出会い、暫くして娘婿に迎えられて「出口王仁三郎(でぐち おにざぶろう)」と改名し、「なお」が開祖、「王仁三郎」は聖師と称して明治三十一年に大本(教)の組織を作る。
昭和に入った頃には信者を百万人以上擁するほどの組織となり、信者の中には多くの知識人や大臣級の政治家・陸海軍の将校に加えて皇族なども名を連ねていたが、国家による数度の大弾圧を受け「なお・王仁三郎」共に投獄されるなど不遇の時期を乗り越えながら、日本が大東亜戦争に負けないようにと中国に渡ってまで活動していたが終戦後の昭和二十三年一月「仁三郎」はこの世を去っている。
余談になるが、過去には弘法大師も相当の霊能力者であったようだが、出口王仁三郎ほどの霊能力者は後にも先にも人として現れることはなかろうと思えるほどであったと言う。
二十年以上も前の曖昧な記憶だが「巨人 出口王仁三郎」という本が出版されていて、この本を読めば、かなり詳しく彼のことが書かれているので、興味のある方は是非一読をお勧めする。
また現在日本にある新興宗教の開祖は当時「出口王仁三郎」の弟子であった者が多いことも事実である。
※(インターネットで「大本(教)」を検索すれば客観的事実と比較的詳しい内容が掲載されていますが、記述者の主観による説明が多く、的を射ているかは疑わしいのだが興味のある方は調べてみて下さい。)
 大本(教)に入信し、信者となった誠は知団さんの勧めるままに大本(教)の本を読み、先達の方々の話を聞きながら勉強し、知識を深めていった。

大阪に戻った誠は、持ち前の気の良さに加えて多少お節介なところがあり、その性分もあってか誠自身も大本(教)の宣伝使となり布教活動を始めたようで、布教活動をしていると意外なことに会社にも大本(教)の信者が数名いることが判り、その方達と共に勉強会を開いて更なる知識を深め、時には大本(教)本部から講師を招いての講話会まで行っていたようだから相当の入れ込みようで、京都の亀岡・綾部にある大本(教)本部にもよく参拝していたようである。
そのせいでもあろう、自分が良いと思ったことは強引に他の人にも押し付けるようなところがあった誠は姉妹六人を全て大本(教)に入信させている。

そのような中、大本(教)が数度の大弾圧を受けた際には、大本(教)の幹部に加え日本全国にいる信者達にまでも官憲の手が及び、誠も二度逮捕され留置所に拘束されているが、その時はさして厳しい取調べもなく、ただ布教活動の内容や他の信者の名前などを聞かれた程度で、一週間から十日程留置されていただけであったという。
と言うことは上意下達を受けた官憲が事件の良し悪しや罪状の十分な吟味も行わず、大本(教)の信者で布教活動をしているというだけで逮捕しているのだから、時代が移り代われども公務員とは人としての判断を持って行う仕事が許されない気の毒な職業であろうか。
また本星である大本(教)に対しては特別な罪状がないものだから、言い掛かりにも等しい無理やりな罪状を作り上げ、必ず何かがあるはずだの信念の下に大本(教)の幹部を根こそぎ逮捕して取調べをしているところを見ると、大本(教)が余りにも巨大な組織になってしまったことを恐れた国が国策捜査の一環として厳しく取締りを行った結果であろうことは容易に想像できるが、いつの時代も国家権力のやることは後に嘲笑されるようなことをやるものである。

話を元に戻し、歴史を遡れば、既に明治時代の頃には英国を始めとする欧州の各国は東南アジアを殆ど植民地にして、多大な資源をほしいままにしていたが、その矛先は次なる清国(中国)へと侵略の魔手を伸ばし始めていたところまできていた。
清国(中国)と朝鮮が植民地となれば、次はわが国が標的となるのは火を見るより明らかなことだから、欧米による植民地化を恐れた日本は大東亜共栄圏なる構想を打ち立てて、昭和十二年七月七日支那事変(日中戦争)に突入し、欧米に対抗しようとするも、朱子学に毒された清国・朝鮮共に共存同盟・工業国化への提案を受け容れようとはせず、中には敵対勢力も生じて、いよいよ日本が米国との開戦へと、きな臭さが漂ってきた頃となっていた。

補足説明・文中「大本(教)」と表現してあるのは、宗教組織としての正式名称は「大本」なのだが、宗教の(教)を補足しなければ判り辛いと思い(教)を敢えて加えてきましたが、以降「大本」と表現します。



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