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建築家 潤 の『独断と偏見』

「酔龍の独り言:その002」

 高齢者の自動車事故が多発している。
その原因の殆どは運転操作の間違いや、標識などの確認不足にあるようですが、年を重ねるごとに人は記憶力・体力・判断力・瞬発力が衰えてくるのが自然であり、人によって大きく個人差が生じる分野ではあろうが、これを止める事は出来ない。

 報道各社も何かしら「高齢運転者の事故報道」を多くしているような気がして、気になっていたのですが、つい先日のこと有名芸能人が75歳の運転免許証更新前に返納した映像つき報道があった。
つまり、高齢者は運転免許証を返納しろと煽っていることに他ならない(恐らく政府や警察関連の要請があってのことと想像している)。
誰でも年を取ってまで危険が付きまとう車の運転などしたいと思うはずも無いと想像していますが、車が無くては日常生活が出来ないような社会にしてしまったのは一体誰だ!。

 戦後に日本が国を挙げて目指してきた「便利さ・快適・豊かさ」の追求だが、これに「経済効率」が加わるようになってから、ちょうど日本の東京に官民(経済界)問わず全ての中枢機構が集中する一極集中型都市機能が出現した。
東京に行けば、そこにはすべての機能が集約されているので何でも出来る・・・便利で効率が良い・・・と益々この型は勢いを強めて現在に至り、その流れは今も変わっていない(これまでに何度か地方に省庁分散の動きがあったけれど実現はしていない)。
これを成功だと錯覚した官と経済界は同じことを地方において企てるようになる。
それが、郊外(公害)型の大型スーパーマーケットである。
大店法(大規模小売店舗法:昭和48年に制定・翌年施行)という法がかつてあったけれども、26年後の2000年(平成12年)に廃止されている。
廃止されたこの大店法では「地元の中小小売店を保護する目的」も含まれていたが、アメリカからの圧力もあり、現在は大規模小売店舗立地法に取って代わられている。
大規模小売店舗法に代わって制定された大規模小売店舗立地法だが「立地」が付け加えられただけの法名で、何だか良く判らないけれどもこの法には「地元の中小小売店を保護する目的」は謳われていないので「シャッター街促進法」の方が良かったのでは・・・。
制定時までに至る経緯では「中心市街地の体力が強化されるのを待ってから」と但し書きがあったようですが、その僅か2年後には法を制定させている。
と言うことは僅か2年で地方中心市街地の小売店舗の体力が強化したという事になるが、税法も変えず・補助金の支給も皆無では、出来るわけも無いのに、絵空事を平気で言葉巧みに並べてその場をやり過ごし、国民の意識が薄れた頃を見計らって、ちゃっかりと思い通りの法を成立させる狡猾さは世界中を探してみても皆無に近いと思えるほどの詐欺集団である。

「おれおれ詐欺」は犯罪者の行為で、やっている本人の意識も犯罪であることは承知しているはずだが、これより性質が悪いと思う。
東大出の官僚達が考えるのだから、頭の悪い「おれおれ詐欺」集団では勝負にならず、言葉の巧みさでは到底適うはずも無いのだけれども、犯罪者の意識が無いことが大問題ではないでしょうか(人間の質を比べたら・・・どうだろう?)。

大型店舗は確かに「便利さ・快適さ」においては申し分ない機能と品揃えがしてあるので、誰もがその魅力の虜になり、その陰に隠された悲惨な結果を想像もしないうちに日本全国津々浦々に出店が繰り返され、現在に至っては古くから親しまれてきた人情味溢れる商店街の店舗にはシャッターが下ろされ無人の商店街が出現した(現在地方の小中都市の町中では人が歩いている姿を見ない)。
町に商店と商品が無くなってしまえば、人は品物を求めて町中を歩くことを止めるのも自然な流れである。
このかたちは車社会の先駆者であるアメリカでは早くから顕在化し、地方の個人商店が壊滅的打撃を受けた結果を、まさか外務省まで持っている頭の良い官僚や大型連休には必ず海外へ視察旅行する政治屋達が知らなかったことはあるまい(と言うことは、やはり観光旅行だったのだろうか)。
若し知らなかったと言うのなら、不勉強極まりないし、税金で禄を食んでいる資格があるとは到底思えないと考えるが、如何であろうか。
公害型スーパーマーケットが齎した害は地域の「人情の決如」「学歴型社会」「無人の町並み」に加え「食品添加物」「遺伝子組み換え食品」などであろうか・・・。
便利さと快適さに加え豊かさの感覚は人の心に齎す「快感」ではあるが、これは「形態の快感であり」同時に「質の快感」にはなっていないことの方が多い。
 例えば「銃・車」などがその典型的な道具であろう。
アメリカでは銃による乱射事件が後を絶たず、日本では(一般人は銃が入手できないので)刃物による殺傷事件が同じ様に起こっているし、車による悲惨な事故?を招いていることも元を糺せば同じ質の部分の欠如が垣間見える。
 鋭い牙も爪も持たず、柔らかい皮膚で覆われた体しか持てない人間が、猛獣を相手に大型の獣と戦うことなど出来ようはずも無いことではあるが、知恵と工夫で「槍」を持ち「弓矢」を持つようになり、現在は「銃」を持つまでになった。
「銃」を持つようになった時点で人は恐ろしいほどの力を得たと錯覚し、やがて傲慢の芽が心の中に生じ、やがて見事な傲慢花を咲かせてしまった・・・現代人の心の中身。
「便利さ」が進んだ究極が「銃」になり「快感」を得るようになったわけだが、「銃を持つ」「銃を撃つ」ことは「形態」であり「何故銃を持つ」のか「何ゆえに銃を持たなければならないのか」「何故に銃を撃つ」のかが「質」の問題である。
刃物も車も人の身体能力を遥かに超えた道具なのに、これを手にして簡単に使うことが出来るようになってくると、あたかも自分の身体と同化し、我が体に強大な力が備わったような錯覚に陥るので、自己中心的な考え方になり、排他的になり、攻撃的になる。
「形態」だけで物事を判断し行動すると「気違いに刃物」に等しい行いを人が取るのは一種の性かもしれませんが「質」を同時に持ち合わせることがその抑止力になるのに、欧米人ならいざ知らず、日本でも「効率」や「経済性」を最優先して「質」を疎かにしているから、何をやっても物事が旨く作動しなくなってきている。
 銀行や携帯電話販売会社の窓口では「当の本人」より「必要な書類の提示」の方が大事では、本末転倒な社会が出現しているのに誰も異を唱えず辛抱していること自体が異常な社会だと何故気付かないのだろうか。
これら窓口で「当の本人」が持参した預金通帳と印鑑より「運転免許証や健康保険証」の方が信頼に値するとされる事自体が「形態」と「質」の取り違えなのに、これが罷り通る日本は既に病んでいるとしか言えまい。

子供の教育も然りで、子供に「本質」を学ばせることや「量(形態)」と「質」の区別を解からせ、自分でものを考え、文を作り、価値観を構築することよりも、文科省の教育方針に従った薄っぺらな受験対策の表面的な教育を与えることのみに専念させ、問題を生じさせず事故なきことの書類を作成すること方を大事とするのでは将来の日本を背負って起つ子供達が良き日本人として育つことは無かろう。

戦後七十余年「便利で快適で安全で豊かな」生活を手に入れたようだけれども、失ったものの方が遥かに大きいと思うが、当の大人が目くらましに遭い、そのことに気付かないでは、日本の将来は暗い。
今回より「縦のものを横にした」不思議な物語「双龍物語」も次頁に掲載しています。




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