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建築家 潤 の『独断と偏見』

日本文化の素晴らしさ その16 ~差別用語 その1~

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 「差別用語」という言葉を耳にするようになったのはいつの頃からであろうか。記憶する限りでは、私が社会人になった頃はまだ耳にしたことはないので、ここ二十数年程前からではないかと感じていて、ちょうどその頃「同和」に関することがよく新聞紙面を賑わしていたような気がしている。

前回のWEB日記40「外来種」の中で私は「百姓」という文字を使ったのだが、私のWEB日記観察者のある方から「今“百姓”は差別用語になっている」とのご指摘を受けた。
当然私も差別用語として扱われていることを知っていて敢えて使ったことであり、次のWEB日記の題材に・・・との思いがあってのことだとお伝えしたら、「どのように書くのか楽しみにしている」と言われたのだが、ご希望に添えるかどうか・・・。

 「差別用語」は名詞として辞書には載っていないから、差別と用語をくっつけて誰かが言い出したに違いないし、その誰かとは、恐らく己が“社会的に人は皆平等であるべき”の信念を持った“人道主義者か正義の味方”と思っている人物に相違あるまい。

私は以前お伝えしたように「私の常識は世間の非常識、世間の常識は私の非常識」の観点から書いているので、今回の「差別用語」は皆様より非難囂々となることは覚悟していますが、もう一度世間(主にマスコミ)が言う「差別用語」とは何か?を考えてみたいと思います。

テレビやラジオを含む報道関係の会社(NHKを含めて)には放送禁止用語があって、その中に「差別用語」が含まれています。基本的に「差別用語」と言われているものは、無いに等しいと考えている私から見れば、報道者に対して、彼らが使用した何らかの「言葉」に噛みついて苦情を言ってくる前述の輩を相手にすることが面倒臭く、“さわらぬ神に祟りなし"の精神でもって処理した結果だと想像している。

仮に視聴者から何らかの「差別用語」に属することで苦情があれば、マスコミたる者は、その言葉の語源や歴史を説明して、それを退ける勇気がなければならないし、そうすることこそ文字や言葉を用い文化を主導する立場にある者の姿だと思っている。

報道者達が言う「差別用語」に属する言葉はある意味とてもそのものを的確に表現していて、伝えたい相手に錯覚や誤解を生じさせない、日本の文化なのだと、どうして考えられないのだろうか?。

中国から漢字が伝わった後、千年以上に渡る生活習慣や歴史の中で生まれた言葉で、言語と言葉の豊富な日本だからこそ出来たものだ。歴史的に見ると「差別用語」の中にはそれなりの意味を持つものもあり、これまでの日本では通常会話の中で相手の職業や身分(身分制度のあった頃)、身体的特徴を語る場合は、相手にそのことを的確に伝えることが出来たはずなので、私はこれを言葉の文化だと考えて良いと思う。

身分制度が良いとか悪いとかの話しになると視点が異なるので、今回は触れないことにして進めたいが、「差別用語」と言われているものは、単一民族である日本の長い歴史の上に成り立っている言葉であることは間違いない事実だ。
私の考え方としては「差別用語」の言葉一つ一つを取り上げて議論してみたところで、何の解決にもならないと思っているので、次のような思考で捉えてみては如何だろうか。

まず「差別」とは一体何を意味するのか?と言うことと「差別」と「区別」の違いは何か?ここから考えなければ解決しないのではないかと思っている。

「差別」とは“本来は同じはずのものが別な扱いを受ける”ことであるから、これは「えこ贔屓」と同じだと思う。私は「えこ贔屓」に対しては、人間のやることだからある程度仕方がないと思うことはあるが、感情的には許せないものを感じている。
また異なるものは「区別」して表現しなければ、必ずどこかで誤解や勘違いが生じるはずだが、それでもそれを同じだと言うのなら、やはりこれも一種の「えこ贔屓」と同じだと言わざるを得ない。

人道主義者のいう「差別用語」とは相手を卑下したことになるもの、相手の感情を害する恐れのあるものについての言葉全てを言っているようだが、では次のことはどのように捉えればよいと言うのか。
例えば仮に「貧乏人」という言葉を「差別用語」にしたとしよう。「金持ち」と「貧乏人」を考えてみると、金持ちが貧乏人に対して「おまえは貧乏人だ」と言えば、言われた方は、気持ちが良いとは思えないが、貧乏していれば貧乏人であることを否定することは出来ない。

では言葉を換えて「おまえは低所得者」だと言えば許されるか・・・と言うことになるが、言葉を換えたからと言って言われた側の受ける感情は大して変わるまい。

人と人との会話や報道においては「差別用語」とした「貧乏人」という言葉が問題になるのではなく、相手の人格を経済力のみで推し量ろうとする、人としての品位の問題に帰する事柄であり「貧乏人」と言う言葉自体が差別用語となるのは不思議と考える。

離婚する時に全財産を元嫁に渡した私などしょっちゅう使っている「今貧乏しているので・・・」「私、貧乏人ですから・・・」など自分で言いながら、誇らしい気持ちにはなれないけれども、自分の今の経済状態を相手に的確に伝えるのはもってこいの言葉と思っているし、ある意味謙譲語の一種に入れても可笑しくあるまい。

少し上品に言い換えれば「今、余裕がないので・・・」となるのだろうが、余裕と言う言葉では「経済的なのか時間的なのか身体的能力を言うのか」相手には的確に伝わらないので、必ず「余裕がない」と言う言葉の前に時間的か経済的か身体的能力か、何れかの言葉を付け加えなければならなくなる。
しかし、そんなことを一蹴してしまい端的に経済的余裕が無いことを「貧乏」の言葉で表現できる日本の文化は、やはり素晴らしいと考えるべきだろう。

そもそも「貧乏人」と「低所得者」は意味が違う。低所得者より年収が多くても無駄遣いが多く、消費者金融などで収入や資産を上回る多額の借金があればこれは「貧乏人」であり、「低所得者」でも所得の範囲内で生活し、貯蓄をしている者は「貧乏人」とは言えない。
 話は少し異なる方向になるけれども、映画で「座頭市」というのがあるが、その中で主人公の座頭市は、しょちゅう「あっしは盲でござんすから…」と言う・・・聞いた相手は初対面でも座頭市という人物は全く目が見えないのだと直ぐに理解ができる。

でも、「盲(めくら)」は「差別用語」だから「あっしは身体障害者でござんす」「あっしは視力障害者でござんす」「あっしは視覚障害者でござんす」と言い換えなければならないのなら、視力障害や視覚障害では全盲なのか弱視なのか近視か遠視か色盲なのか色弱なのか全く判らない。
その上、座頭市は(仕込み)杖を持っているので、足でも悪いのか・・・とにも受け取れる。

「盲」と言う字はパソコンで変換できないのは「差別用語」に含まれているからなのだろうが、盲人、盲導犬、全盲などは出てくること自体、何かしら少し変な気がしている。「盲」がいけなくて全盲や盲人が良い訳の理由が理解できない。「盲」がいけないというのなら、盲人や全盲は「完全視力喪失人」とし、盲導犬は「完全視力喪失人誘導犬」としなければならないのではないかと考える。

同じく聾唖は出ても「唖(おし)」は出ないし、「聾(つんぼ)」も出ない。「聾」については龍の耳と書いてあるのだが、実際の龍の姿は掛け軸や寺院の天井などによく描かれているあの姿をしている。

但し本物の龍の指は人間と同じ五本あり、虫が化けた龍の指は三本である。体色も金色・白色・褐色から黒色まで様々な色をしているものがいるのだが、龍の姿を見たら判るように、あの巨体に比べて耳の小さいこと。

当然あの耳では僅かな音しか拾えないから、耳はあっても音が聞こえないに等しい。そういったことから「聾」と言う文字が生まれているので、なにも「聾」と言う字が耳の聞こえない人を卑下したり人格を貶めているとは言えない。
それ故に鳳凰が龍の頭に乗り聴覚の不足を鳳凰の視覚で補って、虫「主に牝の蜈蚣」との戦に備えているのです。数千年前の中国で当時「龍」が見えていた能力者達の願いは、皇帝の玉座の象徴を「龍」とし、皇后のものを「鳳凰」とした訳はここにあるのだ。

その後人間が便利な道具を開発してゆくにつれて本来の人の能力は衰退を続け、今となっては龍や虫の見える人間は精神病院の入院患者程度であろうか・・・。

話が変な方向に行ってしまい文が長くなってしまったので、続きは後日にしたいと思いますが、文字の持つ本来の意味合いを理解もせず、表っ面だけ取り上げてすぐ「差別だ!」と騒ぐ輩の貧相な思考は賛同できない。

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