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建築家 潤 の『独断と偏見』

「酔龍の独り言:その023」

                 [ ロシア感 ]
 ロシアがウクライナに攻め込んで二週間以上が経ち世界中が大変な混乱に陥っている。
本当に筆舌につくし難い非道な行為である(と言いながら文にしています)が、思い起こせば大東亜戦争(第二次世界大戦)の折に日本の敗戦が濃厚となった時、日ソ中立(不可侵とも言われている)条約を締結していたにも拘らず、一方的に中立条約を破棄して日本の敗戦が決まると同時に日本に対して宣戦布告を行い、北方領土四島に攻め込み占領した。
 そしてそのまま北海道まで占領の触手を伸ばそうとしたようだが、米国の威嚇に負けて断念した経緯があると、ある歴史書で読んだ記憶がある。
 また日本が敗戦となった後には満州国にも攻め込み多くの日本人を虐殺した上、財産を略奪し婦女子への陵辱は日常的に行われていたと当時満州国から命からがら帰国した多くの引揚者が語っているし、更に逃げ遅れた日本軍将兵や男(その数は数十万人に及ぶ)はシベリア開発の為に抑留させ奴隷に近い扱いで強制労働に就かせ、女は慰安婦として連れ去られたと聞いている(その間に死亡した日本人は四万人を超えていると言われている)。
 この件に関して以前ロシア側は表向き謝罪をしたようであるが、強制的に連行した日本人は戦闘中の「捕虜」であり「抑留者」ではないなどと言葉を巧みにすり替えて正当化を図っている。

 このような過去の経緯から考えて、今回のウクライナ侵攻を見てみると、当時日本へ対して行った行為と殆ど同じように思えてならない。

 地図上で見るとロシアとウクライナの国境の長さは他の隣接国と比較しても長いように見える。
だからウクライナがNATOに加盟すると戦略的見て脅威と感じたのであろうし、自由主義圏の思想がロシア国民に浸透することを恐れたのではないかと思われる。
元々が兄弟に近い従兄弟関係のような間柄の国同士であるから、いつまでも良き緩衝地帯であって欲しいと思っていたはずだから、NATO加盟は裏切り行為のように受け取ったのではなかろうか。

しかし、そのようなことだからと言って自国の都合を押し付けての侵略行為は許されることではない。
今回も「一般市民は殺さない」「軍事施設しか攻撃しない」と公言しながら病院・学校・
住居などを攻撃して多くの市民を殺害しているし、使用禁止の兵器まで使用しているとの報道を見ている(この国との約束事は決して当てしてはならないと肝に銘ずるべきである)。
挙句の果てに原子力発電所を攻撃(一歩狂えば核兵器使用と同等の被害を生む可能性がある)して占拠し、国民の生活基盤である施設をも狙って破壊している。
国民の側からもうこれでは生活できないから「降参する」の声を出させようとしている魂胆は明白であるが、仮にウクライナを占領した後に瓦礫と化した街と国の復興をどのように考えているのだろうか?資金を何処から捻出するのか、まさかウクライナ国民を使って奴隷的強制労働させる気ではあるまいか。

 軍事力から見て子供と大人の差があるほどに圧倒的に有利なロシアがウクライナを攻めあぐねているのはウクライナ側が善戦している証であろうと思われる中、小型の核兵器使用を匂わせたりしながら降伏を催促しているけれど、国際連合軍でも参戦しない限り(参戦したら第三次世界大戦になる可能性大きいので、各国は支援をしても参戦ができないことをプーチンは見越しているのだろう)、何時まで持ち堪えられるかは不明である。
 プーチンもここまで抵抗できるとは思っていなかったのではなかろうか、直ぐに白旗を揚げるだろうと高を括っていたに違いなく思われるが、思いもかけず世界中から非難が集中して、もはや振り上げた拳の落としどころが見つからなくなっている。
この侵略行為を止めることが出来るのは軍部か市民による軍事的政権交代でも起きない限り難しいのかも知れません。





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「双龍物語:第六章・思春期の五」

 今年も年の瀬を迎え何かと慌ただしくされている事と思います。
十二月に竣工建物が五件重なり、思うようにブログの更新が出来ませんでした。
今年最後の更新になりますが、皆様良き年末年始をお迎え下さるようにお祈り申し上げます。  

               「双龍物語」思春期の五

 いよいよ明日は柳井高等学校の入学式の日を控えて、潤は親から預かったお金で通学用の定期券を求めに大畠駅に向かった。
これまでは小中学校の通学は徒歩であったが、明日からは汽車通学である。
何となく少し大人に近づいたような気もして気持ちが昂ぶったりしたものだが、その反面悪童の高校生もいるという話も聞いていたので何となくそのような連中と関わり合わなければよいが・・・と虐めにあった中学生生活を思い出しての不安が心を過っていた。
そして翌日いよいよ初登校の朝となり、駅の直ぐ近くにある我が家に中学校の同級生達が次々に一緒に行こうと誘いにやってきた。
みんなそれぞれ揃いの学生服と校帽を身に纏い布製の手提げ鞄を持って、いざ出陣である。
改札口に立つ駅員に定期券を見せて階段を上り、向かい側にある山陽本線下りのプラットホームに出ると柳井高校と柳井商業高校・柳井学園へ通う同級生達に加え、他の中学校からであろう見知らぬ顔の学生服とセーラー服の集団がそこで汽車を待っていた。
この三校ともそれぞれ制服が違っていたので見知らぬ顔でも何処の高校へ通っているかの判別は直ぐについた。
周囲を見渡すと人の顔とは面白いもので、男では人の良さそうな顔・なにやら病弱げな顔・真面目そうな顔・見るからに悪そうな顔・勉強ができそうな顔・気の弱そうな顔が判別でき、女では美人だと感じる顔・意地の悪そうな顔・何とも言えぬ色気を感じさせる顔・大人しそうな顔・余りにも気の毒だと感じるような顔が一目で判別できたので心に留めておいた。
(しかし、こうして人の顔ことばかりを書いている潤の顔は一体どのように見られていたのかについては、自分で自分の顔の判断は出来ないので、後になるときっとお伝えする機会が来ようというもの、そのときまでお待ち下さい)
通学は汽車に乗って僅か二駅目なので所要時間十数分であったが、車内は殆ど学生ばかりで通学列車とはこのようなものなのかと感じた思い出でがある。
 柳井駅に着いて列車から降り、改札口を抜け一路学校を目指して皆が黙々と歩いて行く集団の中に混じって、通学路を覚えなければ・・・との思いから周囲の町角や特徴のある建物を見渡しながら徒歩十分余りで学校に着いた。
校門では数名の先生と思われる人物が「祝い・入学式」と書かれた看板の傍に立って入学式場である体育館の方向へ誘導案内をしていた。
式場に入ると想像していたより生徒が多いのにびっくりして、一体何名いるのだろう・・と思ったものだが、式場の入り口ではクラス分けがしてある用紙を手渡されたので、自分の名前が書かれているクラスの番号表示の列に並び、同じ中学からの同級生が何名いるのか用紙の中にある名前を探しながら式の開始を待っていたのだが、次々に生徒が入ってくる中で誰に言われたわけでもなく自然と背の低い順に前の方から列が出来上がって行く光景には少し驚かされたが、考えてみれば背の高い人の後ろに立とうものなら前を見ても背の高い人の背中しか見えない羽目になるから自然とそうなるか・・・。(後になって判ったことだが、一クラスに四十数名いて合計十一クラス [ 家政科を含めて ] あったのだから一学年で五百名近くが入学していたことになる)。

 やがて入学式が始まり、式次第に則り来賓の方々や校長・教頭の退屈な祝辞と学年主任からの注意事項が終わり、新入学生徒の中から選ばれた代表が「宣誓」を読み終えて式は終了した。
そして、割り当てられた教室への移動となったが、祝辞はきっと名言に近いものであったであろうと想像するけれども、来賓を含めた方々の話の内容を全くと言っていいほど覚えていない。
話をする方は幾ら慣れているとは言え、それなりに考え抜いた末の内容であろうに・・・何と失礼なことであったと少し反省しているが、考えてみれば高校生に生りたての脳ミソの中は児童のものとそれほど変わるものではない。
と言うのも、日常生活では親に守られ保護されている上に、国語の授業では受験用の学問を教わるばかりで、日本人でありながら、ちゃんとした日本語が話せず、まともな文も作れないのだから、ある程度の人生経験を積んできた大人の言葉など理解が出来るはずもない(決して居直たり、自分の無能さを擁護する訳ではありませんが、残念ながら話の内容を理解できる水準に達していなかったと言うことだと思っています)。
でも、若しかすると本当につまらない内容であったが為に記憶に無いのでは・・・の想いも捨てきれない自分の心があります(何せ、俺は地方の名士であり、この肩書きは凄いだろう・・・と言いたい方々の話ですからねぇ)。

そして、担任の先生に引率されて割り当てられた教室へ向かって皆が移動を始めたので、長い渡り廊下を歩きながら後を付いて行った。
当時、柳井高等学校の校舎は鉄筋コンクリート造三階建ての新しいものと、木造二階建ての古めかしい校舎が百メートルはあったかも知れないほど離れて配置してあり、その双方を渡り廊下が繫でいて、どうやら古い校舎の方へ向かっているようであった。
また渡り廊下の両側には木造平屋の職員室・音楽教室・柔道場・体操教室などが配置されていたが、いずれも戦前からあったと思われるような雰囲気を持った由緒ある?施設であった。
古い校舎に引率されて、担任から「ここが皆さんの教室です」と案内され、教室入り口の上部を見るとそこには室名札が出ていて「1‐9」とあったので、自分は一年生の九組だと理解した。





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「双龍物語:第六章・思春期の四」

 この頃には中学三年生になっていた潤は志望校を県立柳井高等学校普通科に的を絞り高校受験を控えていたから、それなりに気ぜわしい日々を送っていた。
勉強(学問)が好きでなかった潤の成績は同学年生徒百八十名中十五番前後であったように記憶しているが(定かではない)、担任の先生は親に「今のままでは柳高(りゅうこう・柳井高等学校の略称)の合格は難しいと思われるので、もう少し頑張ってもらわないと・・・」と話をしていたようなので、親からはもっと勉強しろとハッパを掛けられるのだが、この中学校における過去の記録では大体三十名程度が柳井高校に合格しているようなので合格が難しいと言うことはなかろうと高を括りながらも不安を払拭できるほどの自信もなかった。
それなりに勉強をしながら、いよいよ受験の時期が迫って来た頃になると親が「潤坊どこか滑り止めを受けちょかんでええんか?」と聞いてきたので「どうしようかのぉ~(柳井高校が)通らんとは思うちょらんのじゃが、一応高水(南岩国にある私立・高水高等学校のこと)を受けちょこうか・・・」と返事をして、そこを受験したように思うのだが、はっきりした記憶は無い。
 柳井・岩国地区では進学校として県立柳井高等学校と岩国高等学校が肩を並べていて、県立の商業高等学校や工業高等学校を除けば、その次が高水高等学校と続き、他は柳井学園高等学校と徳山地区にある桜ヶ丘高等学校があった(共に私学である)。
潤自身は学校に優劣をつけていることに少し抵抗があったけれども、世間の共通認識として浸透していたようで、確かに眉をひそめるような生徒が多くいたことも事実であった(今は偏差値と言う尺度で優劣を判断しているようですが、私は未だに偏差値の意味が良く判っていません)。
 そのようなことがありながら、潤は柳井高等学校を受験して合格した。
親や親戚・近所の人達も喜んでくれたので、取り敢えず一安心と思っていたところへ誠が「潤坊お前蓄膿症(慢性副鼻腔炎)の手術をしとけ。蓄膿症だと勉強の集中力を欠くと言うからのう。
春休みの間に手術をしといたらええんじゃないか、岩国にええ医者がおる言うて聞いちょるけぇそこで手術せえ」と言い出した。
子供に選択肢は与えられていないのだから、仕方なく納得したところ数日後には岩国市にある耳鼻咽喉科の診療所に連れて行かれて診察を受け、その日に手術の日取りまで決められてしまった。
診察を受けた時に医師が「膿の色が白いので通常より悪性と思われるから、悪いところの骨を一部削り取るような手術になりますが、局所麻酔をかけるのでそれほど痛くはないでしょう」と言うのだが、骨を削ると言うのだから痛くないことはなかろう・・・と思ったけれど今更どうしようもない。
手術前日の夕刻から入院させられ診療所二階にある病室で術前術後の注意事項など一通りの説明を受けたが、まだ中学三年生の潤にはよくわからなかった。
その日は不安ながらも良く眠れたように記憶しているけれど、翌朝早くに若い看護婦見習いが病室にやって来て「今から手術を行いますので一階に下りて下さい」と呼びに来た。
時間を考えると一般診察の前に手術を行う予定を組んでいたようで、もうまな板の上の鯉状態である。
手術室に案内され、手術台に寝かされて鼻と口の部分に穴が開いている白い布を顔に掛けられてから手術開始となった。
医師からは「麻酔を打つからそのうち眠くなるよ」と言われ、看護婦から「口を開けて下さい。今から麻酔しますね」と言われたので、口を大きく開けると上顎から鼻の方へ向けてかなり太い注射針を差し込まれたので、それは相当に痛かったけれど上顎の骨を突き抜けるほどの注射針を何箇所も差し込まれる内に麻酔が効いてきたのだろう、段々と痛みを感じなくなった頃に上唇と歯茎の間を切開し、上唇を引っ張るようにして大きい手術用の開口部を作ったようであった。
その後暫くは炎症を起こしている副鼻腔内の膿を取り除き、消毒している様子が伺われたけれど、突然ノミを叩くような音と共に激痛が鼻の奥に走った(炎症を起こしている部分の骨にノミを当てハンマーで叩きながら削っている)。
最初は我慢が出来たが繰り返し々削られると、もう我慢の限界を超えて思わず「痛~い!」と削られる度に何度も悲鳴を上げた。
余りにも潤が喚くので医者が「少し静かにせぇ、手術にならん」と小言を言ったが「痛いもんは痛いんじゃ!」と潤が叫ぶと「もう一寸じゃけぇ我慢せぇ」と相手にもしてもらえず手術は潤の叫び声と共に続行され「よし、これで終わりだ」の声で切開した口の中を縫合して一時間程の手術は終了した。
看護婦に体を支えられながら二階の病室に戻りベッドで横になったが顔の中がズキズキと痛んで中々寝付けなかった(それはそうだろう、朝起きて直ぐの出来事である眠れるわけはない)。
それでも痛みを我慢しながら夜には眠ってしまったが、朝起きて洗面所で鏡を見ると顔全体が倍近くに腫上がっていて、とても自分の顔とは思えないほどになっていた。
病室へ戻ったところへ看護婦が朝食を持ってきてくれ「口の中を切っているから二,三日は流動食ですよ」と言いながら重湯に近いおかゆを机の上に置き「ゆっくり食べて下さいね」と言いながら病室を出る間際に「昨日は痛かったんじゃぁ、大分喚いていたからね」と言うので「痛いなんてもんじゃなかった。本当に痛かった」と不自由な口でモゴモゴ言うと「まあ骨を削るんじゃけぇ痛かったんじゃろうねぇ~、でも直ぐに治るから」と言って病室の扉を閉めた。
術後の診察では経過は良好だと言われ、痛みは三日ほどで治まって食事も普通食となったけれど、今度は退屈の虫が騒ぎ始めて、本を読んだりしながら時間をつぶしていたのだが、外出を禁止されているので、やはり時間を持て余していた(折角鼻の中がきれいになったのだから、外に出て汚れた空気の埃などで菌を貰うと又再発しかねないと外出禁止の釘を刺されていた)。
診療所の傍にはドブ川よりは少しきれいで小鮒が泳いでいる水路があったから、退屈しのぎにこの辺りを散策すれば気も紛れるのに・・・と思えたが断念せざるを得なかった。
時間を持て余しながらの入院生活もあと数日となった頃に看護学校に通っている看護婦見習いと看護婦さんが「潤ちゃん(この頃には名前で呼んでもらえるほど親しくなっていた)今度の土曜日の午後岩国城へ行ったことがないんなら一緒に行く?」と誘ってくれたから二言返事で「うん行く行く連れてって」と言ったのだが誘ってくれた看護婦の方が「先生から外出はダメだと言われているからどうかなぁ~」と言いながらも「もう退院が真近だから大丈夫か・・・じゃぁ行こう」となって、土曜日の午後診療所の玄関扉を閉めた後に初めて岩国城への細い登山道を歩いて登った(ロープウエーもあるのだが、出来るだけ人との接触を避けようと徒歩登山となったのである)。
そこからは瀬戸内海と岩国市内が一望でき、米軍岩国基地の中までも手に取るように見える見晴らしの良い場所だったから、歩いて登ってきた甲斐があったというものである。
そして城の中に入って展示してある刀剣や火縄銃と歴史的な遺物を見ながら初めての岩国城見学を終え、帰り道も登山道を歩いて下り、平場にある吉川公園を散策して帰途に着いた。
翌日は日曜日だから診察はないし、何もすることが無いので退屈であるが、月曜日は退院の日なので待ち遠しいばかりの一日となった。
待ちに待った月曜日になって朝一番の診察を受け、いよいよ退院となったが、支払いについては何も言われなかったので、手術代と入院・診療費用は誠が会社の帰りに支払う予定になっていたのであろうと思われる。
看護婦さん達にお礼を言った後、診療所を後にして岩国駅まで徒歩で向かい、国鉄山陽本線下り線に乗り大畠に向けての家路に着いた。
と言う事で、中学校の卒業式には出席できなかったけれど、家に帰ると同級生が卒業証書と記念品を家に届けてくれていた。

 退院をしてから早々に柳井市にある学校の指定店に行き、制服と校章のついた制帽を買って貰ったのが何だか嬉しくて、まだ正式には高校生ではないのだけれど外出する時には制帽を被って出かけたものである(少し誇らしい気持ちがそうさせたのであろう・・・可愛いものである)。
高校の入学式までにはまだ少し日にちがあったので、やっと志望校に合格できた嬉しさと何とも言えないような安堵感を感じながら、これから始まる高校生活の不安と希望が入り混じった複雑な心境の中、仲の良かった同級生達とよく集まっては下らない話をしていた。



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「双龍物語:第六章・思春期の三」

「中学二年生で起きた災難」
 
 僅か一年で再び地元へ戻され、大畠中学校へ通うことになった潤は、懐かしい顔を見るに連れ嬉しく感じていたのだが、中学生になったせいなのか小学生の時に良く一緒に遊んでいた悪ガキ仲間達の雰囲気が少し変わっているなと感じ、漁師町に住む十数人は近寄りがたく以前と違って何となく大人びているようにも感じたけれど、それなりに仲良く学校生活を送っていた。
そうしている内のこと、ある時ホームルームの時間に担任の先生が「机の前後ろで相手のことについて何でもいいから何か書くように」と言われて用紙を渡された。
潤の席の前に座っている同級生は漁師町の子で、まだ小学生気分が抜けないのか毎日学校へおもちゃを持ってきて遊んでいた。
日頃それを見ていた潤は「やれやれ、中学生になってもまだおもちゃから離れられないのか・・・」と思っていたこともあり、渡された紙に「もう中学生なんだから学校へおもちゃを持ってこない方がいいよ」と他愛なく書いた。
これが災難の切っ掛けになろうとは思ってもなかったのだけれど、数日経ってからその子が「三田、お前のせいでわしは先生から怒られた」と言ってきたのだが、潤には何のことかさっぱり判らないので「わしが何かしたか?」と聞いてみると「お前が学校へおもちゃを持ってこない方がええと書いたけぇ先生に呼び出されて怒られたんじゃ」と言うのだ。
潤は「何だそんなことか、別に告げ口のつもりで言うたんじゃないんで、気にせんでもええじゃないか」と言ったのだが、相手の気持ちは治まらなかったようで、それからが壮絶な虐めが始まったのである。
休み時間に廊下に連れ出されて殴られ、時には便所に連れ込まれて殴られる日々が始まった。
一対一の喧嘩なら負ける気などしなかったけれど、いつも五、六人の仲間と一緒にやってくるのだから始末が悪い。
その他の者はただ黙って見ているだけで、手を出してくるようなことは無かったが、こちらが手を出せば、黙ってはいないだろうと我慢をする以外なかった。
恐らく日常生活で感じる不満のはけ口にされたのだろうと想像をしていたが、毎日のように続くので、気が滅入ってしまい死にたい気分にもなったことも何度かある。
学校の先生達は漁師町の子供の背景にいる者達を恐れて萎縮し、手や足はおろか口も出せない気持ちになっていたようである。
と言うのも、その後一年近く経った頃に朝礼で校長が「警察とも相談し、もう私達は恐れません。今後ちゃんとした指導と教育を行いますから」ときつい口調で挨拶をした時に、そうだったのか、あいつ達を恐れていたのか・・・と感じたのがその理由である。
それほどまでに学校内は乱れ荒れていたことの証で、漁師町の生徒は授業中でも教室後ろにある作り付け収納棚の上に寝そべって漫画を読んでいたり、勝手気ままに教室を出入りし、数人が寄って雑談をしている姿が日常的な光景であったにも拘らず、その生徒達に注意をすることなど無かったのだから、そう言うことだったのであろう。
殴られる潤にしてみれば別段痛くは無かったのだが、痛いようなフリをしておかなければ、気が収まらないのだろうと思って「ウッ」と小さい声でうめき声を上げておいたのだが、潤の心の中は屈辱的で耐えられなかった。
 ある時に思い余って誠にこの状況を伝えたところ何と言ったか・・・信じられない返事が返ってきて、それは「お前ら、腕力でなくて勉強で来い!と言うたらええ」である。
もう目眩がするような気分になり「この親はダメだ何も判っていない」と心で呟き第一回目の親を見捨てたような気持ちが生じたと思う(この後も形を変えて何度も同じようなことが起こります)。
子が曲がりなりにも困っているからと相談をしたというのに解決方法を深く考え模索するわけでもなく、対処方法が環境の悪い漁師町で育ち、心の中は恐らく己の境遇に不満だらけで勉強など全くする気もない相手に「勉強で来い!」とは的外れも限度があろうというものである。
結局潤はこのような状況に対してどのように心の中で折り合いを付けたのかと言うと「なに、このような状況は何十年も続くわけではないのだから、もう少しの間辛抱していれば何てことはないわ」である。
この考え方の転換が功を奏したのか、もう別段気にすることもなく、学校に通っていたところ、ある日この悪ガキ共が一目置いていた比較的体格が良く悪ガキで名が通っていた一年年下の朝鮮人(当時は社会がそう呼んでいたのでそのように表記します)を何かの弾みで顔を殴って怪我(前歯を折った)をさせてしまった。
殴った相手とは好意的な間柄で別段仲が悪かったわけではなかったから、今から思えば何が原因だったかはっきりしないのだけれど、恐らく何かをからかわれたのではなかったかと思う。
しかしどうあれ、相手に怪我をさせてしまったのだから親御さんにお詫びをしなければと思い夕刻になるのを待ってから家を訪ね、母親に「今日息子さんを殴って怪我をさせてしまいました。ごめんなさい」と話したところ「どうせ家の息子がまた悪さでもしたんじゃろう。潤ちゃん気にせんでもええよ」と言って貰ったのだが「でも前歯を折ってしまって・・・」と治療費のことあろうと思い神妙な顔つきで言葉を返すも「でも潤ちゃん気にせずにこれからも仲良くしてやってよね」と言われて「わかりました。申し訳なかったです」と言葉にして家を出たのだが、帰りの道すがら、大した原因ではなかったと思われるのに思わず手が出てしまったのは、自分にも何らかの鬱憤が溜まっていたのではなかろうかとも感じた。
しかし、怪我をしたのは相手だけではなく潤も握りこぶしに傷を負い、歯による雑菌で化膿して腫上がり二週間ほど包帯の世話になってしまった(今でもその時に付いた傷の痕跡は微かに残っている)。
その事があったせいか、潤を虐めていた悪ガキ達の見る目が少し変わったように思えたけれど、虐めが止んだわけではなかった。
当時一世を風靡した舟木一夫が唄う「高校三年生」や三田明の「美しい十代」の歌謡曲が日本中に流れていた一年後で丁度東京オリンピックが開催されていた時のことである。



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「双龍物語:第六章・思春期のニ」

 式が終わり、振り分けられた教室に入ると席にはそれぞれの苗字が書かれた紙が机の上に貼ってあったので、その席に着いて周りを見渡と、別々な小学校から来ている生徒達であろうと思われる数人のかたまりがいくつか出来上がっていて、ワイワイガヤガヤと話している声が聞こえていた。
その光景を眺めているところへ担任の先生が教室に入ってきたので、皆が席に着き先生の挨拶の後の話に耳を傾けた。
数校の小学校から来ている生徒がいるので、まずお互いを知るための自己紹介から始まり、次は学級委員の選定となったのだが、まだ生徒同士のことがよく分からないだろうという事で先生の推薦の通りにそれぞれの委員が決まったように記憶している。
そして、教科書と時間割が配られた後に学校生活の諸注意を言い渡されて始業式の全ては終わり、朝家を出る時に従兄弟と話しを合わせて、帰りは一緒に帰ろうと約束をしていた場所に向かい家路についた。

 こうして潤は遠く故郷を離れた中学一年生の生活が始まったのである。
日常の生活はと言えば、朝一番にすることは顔を洗ってから鶏小屋に行き卵を採取して、鶏に餌をやり、朝食を済ませて学校へ通う毎日であった(鶏は白色レグホンと茶色い色をした鶏が混ざり合っていたが五十羽以上いたようである)。

大隅家での事を少し触れれば、誠に感化された「スガ子」も大本信者となっていたが、神棚は祭っていなかったから誠のように朝夕の礼拝は行っていなかったように思うが、時折夕食に出されるカレーに牛肉は用いず、代わりに鶏肉が入っていた(しかしカレーは牛肉の方が美味しい)。
「大本」の教えの中には「牛・豚」は食べないというのがあるそうで、神棚は無くとも教えを忠実に守っていたということであろうか・・・。
しかし一方の「三田家」ではカレーに牛肉を入れていたけれども、朝夕の礼拝は欠かさず行い、月に一度の「月次祭」も欠かさず行っていたから、形態重視と本質重視の差が現れていたような現象が起こっていた。

内気な性分を持ちながらも屈託がなく比較的明るい性格の潤は、近所に住んでいた一学年上の先輩と気が合って直ぐに仲良くなると、お互い釣りが大好きであることがわかり、釣に連れて行ってもらう約束をした。
釣竿や釣り糸・釣針は予備があるから道具は買わなくていいと言ってくれたので安心して釣に行く日を楽しみに待った。
いよいよ釣に行く日がやって来て、連れて行かれた先は海ではなく山の方へ向かうから「何を釣るん?」と聞くと「行けば判る」と言いながら、途中で餌のミミズを掘るというから、どうやら鯉か鮒だと確信した。
着いた先は小高い山の裾より少し高いところにある池で、どうやら灌漑用水の溜め池と思われ、いかにも鯉や鮒が居そうな感じがするのである。
ワクワクしながら釣り支度を整え水深を測って底を決め、針にミミズを付けて糸を垂れてみるが暫く経っても浮きが沈まないので「ここには魚がいないんじゃないの」と言うと「直ぐには釣れんよ。餌の匂いを辿って寄ってこなければ釣れるもんじゃない」と言われて、それはそうかと納得していたところに浮きがすぅ~と沈んだ。
間髪容れずに竿をしゃくると、ぐぐっと来る手応えがあり竿がしなる。
水面より覗いている倒木の方へ逃げられないように慎重に魚との攻防戦を行った後に釣り上げたのは15センチほどの鮒であった。
それからは頻繁にあたりがあり、鮒を釣り上げたり餌を取られたりを繰り返している内に段々と周囲が薄暗くなってきたので先輩が「もう帰ろうか」というので「うん分かった」と返事をしてニ十数匹の鮒を釣り上げていたけれど、持って帰っても入れるところが無いのでバケツに入れておいた鮒を池に放して帰途に着いた。
その帰り道で周囲を見渡すとあちらこちらに灌漑用水池が目に入るから「この辺りは池が多いんだなぁ余り雨が降らないのだろうか・・・」と感じたものだが、水辺が大好きな潤にはとても良い所だと思えた。
 その後も何度か鮒釣に出かけたけれど、灌漑用水池では鮒しか釣れないので、少し不満だった潤は海釣に挑戦したが、ここは本当に釣れそうだな・・・と思うところを捜しては糸を垂らしてみたけれど釣れないのである。
釣に親しんだ故郷の海辺とは勝手が違ったように感じたけれど、何度も挑戦してみたが、余りにも釣れないので釣り大好き潤も牛窓での釣を諦めてしまった。
 
 学校生活では次第に気の合いそうな友達も増えてきて親しくなり、お互いの家に遊びと勉強で行き来するようになっていたが、潤は勉強が楽しいとは思えず、また好きにもなれなかったけれど、何とか普通に付いて行けていたようで、成績は中の上程度であったように記憶する。
また時折ではあったけれど、大畠の両親が手紙を添えた小包を送ってくれた。
中を開けるとお菓子などが沢山入っていて、手紙を読みながらその菓子を口に入れると有難い想いの感情なのか、子を想う親の気持ちが伝わってきたのか自然と涙がこぼれ落ちてきた。
 それなりに楽しく牛窓の学校生活を送っていたのだが、好奇心旺盛で、とても悪戯好きな性分を持っていたために、少しやんちゃと悪戯が過ぎたのであろう、一年目で大畠に還されることになってしまったのである。
しかしこれがその後大変な目に遭う序章になるとは夢にも思っていなかった潤であった。

 余談を少し話せば、それから数十年後、仕事で岡山に行くことが多くなり、久し振りに訪れる岡山で感じたことは、やはり本当に灌漑用水池が多くて、現在市街化となっている地域にまで用水路がいたるところに張り巡らされているのを見ると、中学生の時に感じた記憶が再現してきた思い出がある。



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