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建築家 潤 の『独断と偏見』

「双龍物語:第五章・幼少期の二」

 当時における柳井町の銀天街というのは近郊の町村から買い物客が多く集まる天蓋を持つ商店街で、長さにして500m位はあっただろうか、4m程度の道路の両側に様々な専門店を含む商店が軒を連ねていて、それはとても賑やかな通りであったのに、三十年前頃からではなかったかと記憶しているが、大型量販店の進出などの影響で一軒また一軒と商店が店を閉め始め、長い期間のシャッター街を経て、現在では一軒の建物も無くなり、少し広めの道路と河川公園に姿を変えてしまいました。
自然の原野や草原に戻ったわけではないけれど、あれほど賑わっていた光景を思い起こす度に芭蕉が詠んだ「夏草や、兵どもが夢のあと」の心境と重なってしまう。

 ただ、柳井町に新しい住まいを構えることになったところまではよかったのだが、問題が一つ生じていた。
それは滋子の母親ムメの妹である隆子とその娘が、別れた主人に付きまとわれて困っている状況にあったため、誠は二間の内の四畳半をこの親子の為に住まいとして提供したのである。
誠一家は奥の六畳に親子四人で住み、叔母親子は四畳半に同居するという、狭い中ではあるけれど何ともにぎやかな共同生活が始まった。
この頃滋子は建物を購入した返済のためか生活のためかは定かではないけれど、次男を身籠っているにも拘らず小学校の教諭として再び教壇に立っていた。
潤と栄子の二人は叔母に面倒を見てもらいながら、潤は金座街の奥の少し先にある幼稚園へと通い、園から帰ると柳井川に下りて行って川に入り、ススリン(うなぎの稚魚)を捕ったり、網で鮠(はや)・ハゼを掬ったりしながら、商店街の子供達と一緒に毎日々子供らしく楽しい日々を過ごしていた。
やがて次男「崇」が誕生し、潤も柳井小学校へ通うようになっていた頃には行動範囲も広がって、少し遠くにある用水路ともドブ川ともつかぬような中に入り、足に蛭をいっぱい付けながら小鮒や田螺を捕っては家に持って帰り、小鮒を飼いたいから水槽を買ってくれと誠にせがんだ。
もともと誠はこのようなことが好きであったのだろう、小さいけれどもガラスの水槽を買ってきて潤に与え、潤が水槽に砂を入れ水草を植えて小鮒が泳ぐさまを楽しそうに眺めている姿に目を細めていた。
このように潤は水棲動物が大好きで、誠に釣に連れてゆけとせがみ、夜になると柳井川にいる鰻が穴から出てきて休んでいる姿が見えているので土手から見釣をしたり、夏には川の上流に遡って蛍を捕まえたりと、片腕で何をするにも不自由であったにも拘らず、よく潤の我が儘をきいてくれた。
 これは潤が大学生になった頃に滋子から聞かされた話なのだが、小学一年の時に学校で知能テストがあった。
この時のテストについては、はっきりと記憶に残っている内容があり、それは円の中に迷路が書いてあって、それを入り口から終点まで鉛筆で線を引いてゆくものがあった。
その問題は合計で三問か五問あったような気がしているが、最初の一問目は入り口から線を引きながら終点に向かって鉛筆を這わせていたところ二・三箇所行き止まりに出くわすので、又戻りながら線を引き終点まで辿り着いた時にふとこれは終点から逆に出発点に向かった方が行き止まりに出会うことなく線が引けるのではないかと思った。
次の問題からは、そのようにやってみたところ全く迷うことなく線が引けてゆくではないか。
そのようなことがあって、全部の知能テストを終えたのだが、その日の夜に担任の先生が突然家を訪ねてきて滋子にこう言ったという。
「お宅のお子さんの教育はどのようにされているのですか」と聞かれた滋子は何のことか、さっぱり判らず「それは一体どういうことでしょうか」と問い返したところ「いや、お宅のお子さんの知能テストの結果があまりにも高いので驚きまして、それでどのような教育をされていらっしゃるのかをお伺いしようと思って・・・」と言われたそうだが、滋子は「いえ、特別なことは何もしていません」と答えたという。
仕事から帰ってそのことを聞かされた誠はこの子は先ではどのような子になるのだろうか・・・と期待と不安が生じたと言っていたようだが、結果的には潤の知能の高さは学問には反映せず、別な方向へ向かっていったようである。

 この頃にはまだほんの僅かではあったけれども商店街の中には裕福な店もあって、早々とテレビを購入した家があった。
当時の放送はまだNHKだけだったのではないかと思っていますが、近所の人達も一緒になってテレビのある家に集まり面白い番組だけを見せてもらっていたものです。
その中で時に記憶に残っているのが連続番組で「恐怖のミイラ」というのがあって、面白いのですが、子供の潤にとってはとても怖いものでした。
テレビを見終えての帰り道、商店街の店は全て入り口を閉め、電気が消えた薄暗い中を僅か数十メートルの家路がとても長く感じ、怖かった思い出が残っている。
 柳井小学校での思い出は2年生の終わりまでで、何の理由なのか解からないけれど、誠は柳井の銀天街にある店舗付きの住まいを同居していた義叔母に無償で与えて再び大畠に居を移したのである。
大畠の住まいは祖父母が住んでいる家から百メートルばかり離れた山陽本線上り側の線路沿いにある十五坪ほどの木造平屋で、どうやら遠縁の方の家を借りたようであった。
そして、その隣には祖父・乙次郎が若い頃に製氷業をしていた時の氷倉がそのまま残っていて、それは階高が異常に高く、中から見ると屋根に近い位置に小さな明かり窓が一つだけ設けてある気持ちが悪いほど薄暗い平屋の建物があった。
 何とか病魔から逃れることが出来た潤のその後は、誠が闇市で購入してきた粉ミルクや練乳で母乳の不足を補いながら、すくすくと成長していった。
そして数年後、父親の誠は久賀営業所の所長から課長に昇進し、柳井支店勤務を命じられたので、
取り急ぎ両親と妹五人が住んでいる大畠の家に居を移して同居することにしたのである。
この頃にはもう三歳となっていた潤坊は、同じ村内にあって、お寺が経営している幼稚園(保育園だったかも)に通うことになった。
季節は夏を過ぎ秋になった頃、幼稚園では運動会が催されるが、今と違って当時の小中学校を含む運動会と言えば村内の一大行事で、弁当を作り朝早くから運動場を囲むように筵を敷いて、それぞれの家の陣を構え、爺ちゃん婆ちゃんを始め家族全員が参加するのが一般的で、もうまるで祭りのような騒ぎであった。
運動会が間近に迫った頃、誠は潤坊にと新しいズック(運動靴)を買ってきていた。
真っ白な新しい運動靴で運動会に出してやろうとの親心であるが、日曜日となった運動会当日の朝、新しい靴を出して履かせようとしたところ潤坊は「先生が新しいズックやら運動着を着てきちゃあいけん。いつもと同じものを着て来い言うて言いよったんじゃけぇ、こりゃあいらん」と言って靴を履こうとしなかったと言う。
それでも誠は嫌がる潤坊の足に無理やり新しいズックを履かせて幼稚園へと向かったのである。
半べそとなっていた潤坊は嫌々ながら皆と一緒に運動場に腰を下ろし座ったところ、左右に見える足の靴はいつも通り薄汚れたズックで、自分のズックが真っ白いのに違和感を覚え、心の中で「それみろ!」と自分の言う事を親が聞いてくれなかったことに対しての不満が募った。
運動会の式次が次々と進んで行き、お遊戯が済んで、いよいよ駆けっこの時がやってきた。
しかし、走る順番が来たにも拘らず潤坊は「新しいズックはいけん言うて、先生がそう言うたんじゃけえ走らん」と駄々をこねはじめた。
親と先生が潤坊をなだめるのだけれど頑として受け容れない。
先生は「私が余計な事を言ってしまいましたか・・・」と困惑している中、誠は思い立って自転車に飛び乗り家まで古いズックを取りに戻ったのである。
古いズックに履き替えた潤坊は顔に笑顔が戻り、それは一所懸命走ったそうな。
そのときの記憶はうっすらではあるが残っていて、親は真面目過ぎるのか頑固なのか、やれやれと思ったそうである。
大畠村の大半は漁業と細々とした農業で生計を立てている家庭であったため、先生は余分な出費に対する配慮をしたのだろうと思われるけれども、潤坊にとってはやさしい親の配慮が仇となってしまったようである。

 この頃の滋子は二歳年下で生まれていた次女・栄子と潤坊の世話に掛かり切りの中で、舅・姑・小姑五人との共同生活をする大所帯の中では随分と気を遣いながらの毎日であった為、気持ちの休まるときがないように感じていた。
いくら大きめの家であっても大人七人と学生二人に子供の潤と乳飲み子の栄子を入れて総勢十一人が住むには、やはり窮屈であったのだろう、誠と話し合い、思い切って誠の勤務先のある柳井町へ居を移そうとの結論に至った。
新しい住まいを探していたところ、ちょうど売りに出ていた柳井町の銀天街入り口付近にある店舗付きの住宅(平屋で間口が二間半、奥行きは六間半の面積十六坪余り)を運よく購入することが出来た。
この店舗付き住宅は表に衣料雑貨店が借りて営業しており、店舗の裏に四畳半と一間の土間を挟んでその奥に六畳の畳部屋を持つ建物で、六畳の間は柳井川(満潮時には海水が上がってくる川)に足(石柱)を立てて架けだしした造りとなっているもので、土間からは直接柳井川へ下りて行ける構造になっていた。
ただ便所はあったが風呂が無かったので、親子揃って毎日のように銭湯に通っていた記憶が甦る。
 ただ当時の記憶として鮮明に残っているのが昭和二十九年八月の台風5号(グレイス台風)による恐怖の出来事である。
大量に降った雨で柳井川が増水し、大潮で満潮時期と重なったのであろう家の土間にまで水が上がってきて、川に張り出して造られた六畳の間が今にも浮いて流されそうになったのである。
誠と滋子は子供たちを手前の四畳半の間に避難させて叔母に預け、自分達は膝まで水に浸かりながら六畳の間に置いてある家財道具を運び出そうと懸命に動き回っていた。
濁った水で溢れている土間を行き来する両親を見ながら子供達は家共々両親が川に流されるのではないかの不安と恐怖で「お母ちゃんそっちへ行っちゃあいけん。流されるけぇ!お父ちゃんもこっちへ来んさい!」と泣き叫んでいる内に何とか両親は大事な物だけは運び終えたようで、
全員が四畳半に身を寄せて暫くした頃に土間の水が引き始めたのを見て安心した思い出がある。



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「双龍物語:第五章・幼少期」

 何とか病魔から逃れることが出来た潤のその後は、誠が闇市で購入してきた粉ミルクや練乳で母乳の不足を補いながら、すくすくと成長していった。
そして数年後、父親の誠は久賀営業所の所長から課長に昇進し、柳井支店勤務を命じられたので、
取り急ぎ両親と妹五人が住んでいる大畠の家に居を移して同居することにしたのである。
この頃にはもう三歳となっていた潤坊は、同じ村内にあって、お寺が経営している幼稚園(保育園だったかも)に通うことになった。
季節は夏を過ぎ秋になった頃、幼稚園では運動会が催されるが、今と違って当時の小中学校を含む運動会と言えば村内の一大行事で、弁当を作り朝早くから運動場を囲むように筵を敷いて、それぞれの家の陣を構え、爺ちゃん婆ちゃんを始め家族全員が参加するのが一般的で、もうまるで祭りのような騒ぎであった。
運動会が間近に迫った頃、誠は潤坊にと新しいズック(運動靴)を買ってきていた。
真っ白な新しい運動靴で運動会に出してやろうとの親心であるが、日曜日となった運動会当日の朝、新しい靴を出して履かせようとしたところ潤坊は「先生が新しいズックやら運動着を着てきちゃあいけん。いつもと同じものを着て来い言うて言いよったんじゃけぇ、こりゃあいらん」と言って靴を履こうとしなかったと言う。
それでも誠は嫌がる潤坊の足に無理やり新しいズックを履かせて幼稚園へと向かったのである。
半べそとなっていた潤坊は嫌々ながら皆と一緒に運動場に腰を下ろし座ったところ、左右に見える足の靴はいつも通り薄汚れたズックで、自分のズックが真っ白いのに違和感を覚え、心の中で「それみろ!」と自分の言う事を親が聞いてくれなかったことに対しての不満が募った。
運動会の式次が次々と進んで行き、お遊戯が済んで、いよいよ駆けっこの時がやってきた。
しかし、走る順番が来たにも拘らず潤坊は「新しいズックはいけん言うて、先生がそう言うたんじゃけえ走らん」と駄々をこねはじめた。
親と先生が潤坊をなだめるのだけれど頑として受け容れない。
先生は「私が余計な事を言ってしまいましたか・・・」と困惑している中、誠は思い立って自転車に飛び乗り家まで古いズックを取りに戻ったのである。
古いズックに履き替えた潤坊は顔に笑顔が戻り、それは一所懸命走ったそうな。
そのときの記憶はうっすらではあるが残っていて、親は真面目過ぎるのか頑固なのか、やれやれと思ったそうである。
大畠村の大半は漁業と細々とした農業で生計を立てている家庭であったため、先生は余分な出費に対する配慮をしたのだろうと思われるけれども、潤坊にとってはやさしい親の配慮が仇となってしまったようである。

 この頃の滋子は二歳年下で生まれていた次女・栄子と潤坊の世話に掛かり切りの中で、舅・姑・小姑五人との共同生活をする大所帯の中では随分と気を遣いながらの毎日であった為、気持ちの休まるときがないように感じていた。
いくら大きめの家であっても大人七人と学生二人に子供の潤と乳飲み子の栄子を入れて総勢十一人が住むには、やはり窮屈であったのだろう、誠と話し合い、思い切って誠の勤務先のある柳井町へ居を移そうとの結論に至った。
新しい住まいを探していたところ、ちょうど売りに出ていた柳井町の銀天街入り口付近にある店舗付きの住宅(平屋で間口が二間半、奥行きは六間半の面積十六坪余り)を運よく購入することが出来た。
この店舗付き住宅は表に衣料雑貨店が借りて営業しており、店舗の裏に四畳半と一間の土間を挟んでその奥に六畳の畳部屋を持つ建物で、六畳の間は柳井川(満潮時には海水が上がってくる川)に足(石柱)を立てて架けだしした造りとなっているもので、土間からは直接柳井川へ下りて行ける構造になっていた。
ただ便所はあったが風呂が無かったので、親子揃って毎日のように銭湯に通っていた記憶が甦る。
 ただ当時の記憶として鮮明に残っているのが昭和二十九年八月の台風5号(グレイス台風)による恐怖の出来事である。
大量に降った雨で柳井川が増水し、大潮で満潮時期と重なったのであろう家の土間にまで水が上がってきて、川に張り出して造られた六畳の間が今にも浮いて流されそうになったのである。
誠と滋子は子供たちを手前の四畳半の間に避難させて叔母に預け、自分達は膝まで水に浸かりながら六畳の間に置いてある家財道具を運び出そうと懸命に動き回っていた。
濁った水で溢れている土間を行き来する両親を見ながら子供達は家共々両親が川に流されるのではないかの不安と恐怖で「お母ちゃんそっちへ行っちゃあいけん。流されるけぇ!お父ちゃんもこっちへ来んさい!」と泣き叫んでいる内に何とか両親は大事な物だけは運び終えたようで、
全員が四畳半に身を寄せて暫くした頃に土間の水が引き始めたのを見て安心した思い出がある。




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「双龍物語:第四章その3」

            四ヵ月
 
 げんのしょうこ 飲んだのが大へんよくきいた様で、お母さんの気のつけ方が悪かった為に腸をこわしてしまってすみませんでしたね。三月二十九日に大畠のお祖母ちゃんが可愛いゝ夜着や、袖なしを縫って持って来て下さいましたよ。

四月四日
 腸がすっかり直って大へんよいお便所でした これですっかり安心しました どうぞ順調に育って行って下さいね。此の頃大へん気元がよくて大きな声でお話をします。三日の日にお父ちゃんがおもちゃを買って帰って下さいました。あなたはしっかり握ってうれしさうにふってゐましたが、すぐお口へ持って行くのですよ。お母さんが今この日記を書いてゐる傍らで あなたは何やら分からぬ言葉でおしゃべりをしてゐました。・・・おとなしくなったのでそっとのぞいてみますと 気持ちよさそうにねんねしてゐます。可愛いこと。
 あなたが始めての子供であるため、お母さんはいろゝとあなたについて研究をしてゆかねばなりませんでした 何分 合ったことがないので 心配が大へん強いのです。(空白は原文のまま)
 暖かくなってのみがいるのに可愛さうです。早く寝台にねんね出来るようにして上げます。

四月八日
 柳井で例祭がある為に帰へりました。あなたの大きくなったのに皆びっくりされました。
どうか順調に育って下さい。もう笑ふときにもこえが出ますし、おじらがいへる様になりましたのよ。

四月廿十七日
 今日は久賀町の回向といふお祭りでしたので、柳井のお祖母ちゃんが来て下さいました。
 又會社のお父ちゃんのお友達がいらっしゃって、潤ちゃんにワンヽとかざぐるまを買って下さいましたよ。

五月五日
 今日は端午のお節句ですよ。あなたの初端午なのよ。
皆よろこんで下さって 金太郎のお人形を二つ立派なのを祝って下さいましたよ。
一つは末沢さんのお家から、も一つは会社の人々からですよ。
又、藤井さんといふ方からね、内のぼりの立派なのを祝って下さいましたよ。
柳井のおぢいちゃんはかぶとのかけぢくをもって来て下さいました。
又ね、大畠のおぢいちゃんはね、澤山に祝って下さって、ちまきや、おこわのご飯をつくって大祝いして下さいました。
空には他家からいただいた大きな〝まごひ〟や〝ひ〟こいがたくさん五月の風を腹一ぱいすいこんで勇ましく泳いでゐます。どうか立派な元気な子供になって下さい。

              五ヵ月
                    初節句親の喜ぶ鯉のぼり
 潤ちゃんの発育は大へん順調です。

五月七日
 御夕飯の時でした お父ちゃんとお母さんはお食事をしてゐました。潤ちゃんはお乳を澤山のんで一人で遊んでいましたが その様子が大へんうれしさうで大きな声を立てゝよろこんでゐました。お食事がすんでお母さんが どうしてゐるかとのぞいてみたら あなたはねかさせられたフトンからとび出て疊の上に出て手足をばたゝさせてよろこんでいるのにびっくりしました。お母さんはお父さんがそんな風にねせられたものと思っていましたが さうではなかったのよ。貴方は大へんな活動性を発揮できる様になったのです。お母さんは大へんうれしく思ひましたね。  
 
五月十日
 運動がはげしくなった為か お乳が不足らしい様に見えましたので練乳を補足してあげました。
 一日、一・二合位、混合榮養児になったのですね。お乳はよく体にふさう様でした よい便でしたよ。

五月十三日
 お父さんが柳井へ出張なさいました。

五月十七日
 大畠の森一家が東京へ行かれるのでお別れに大畠へかへりました。
えどは大きくなって会ふのですから しっかり見おぼえてもらはねばね~。
お祖母ちゃんがおもちゃを買って下さいました。少し風邪気味です。

五月二十日
 少し風邪がひどいので心配しましたが 漸く治り大事に至りませんでよかったね。

五月三十日
 とうとう五月もすんで 潤ちゃんも 丸五ヶ月が迎へられました。順調な発育で結構ですね。

             六ヶ月

六月
 月日の来るのは早いもの、あなたもすくゝと延びて健康です 少しお乳が不足なので哺乳しています。でもよく肥えています。
夕方の赤いお空を見て貴方は手足をばたゝさせてよろこんでゐました たくさんの男の子が遊びつかれてそれぞれ夕餉の家に帰ってゆきます。
でも皆元気いっぱいですよ、はやくあんなになったらね
オシッコもさゝげればよくする様になりましたよ。どうか神様潤坊の上に幸多くお恵みを下さいませ。
◎夕やけを 背にあびながら 帰り行く 子等の顔に 明るき笑顔あり。
◎産褥を はなれて むつきを洗ふ せわしき中に 喜びの深めり。

二十二日
 昨日ころねがへりしそうになってはようせずにもがいていました。
 もう少しよ、ホラと思ふ様になっていましたら、たった一日で今日から、一人でくるっとかへる様になりましたよ。ほんとに不思想なような気が致します 今日からもうかへれるようになりました。一度かへれる様になったら不思議ですね 何回でもかへれる様になるのです。頭をもたげてゐるのがつらくなったのでせう、たゝみにおでこをコツンとぶっつけて休んでゐます。
 お父ちゃんがねがへりが出来る様になって大へんよろこんでいられます。
はやくはへればよいですがね。

三十日
 面白いやうにくる々かへれるようになりましたよ。
座敷中をごろゞころげ廻ってゐるのでちつとも油断出来ませんのよ。今そこにいたかと思って  
ももうあちらの方へ その早いこと、少しも油断のならない様になってしまったので お母さん 
はおんぶしてお仕事をしてゐます。
暑さも加わって来るのできついでせう。あなたに可愛い夏服を縫ってあげました。可愛いです
よ。

           七ヶ月

何時の間にかもう7月よ、いよゝ夏になって暑いね。
潤ちゃんも夏衣にかへりましたよ。

二十三日
 七月の始め頃から少し咳をしてゐましたが どうもきつい様子になりましたので周東病院へ 行きましたが、どうも咳がひどくなり百日咳が流行してゐるので気になって 今度は小野病院へ参りましたら 百日咳と云うことでした。家に遊びに来る子供のがうつったのですね。お母さんの注意が不足だったのです。何卆か許して下さい これからはよく気をつけます。咳をする時はほんとうに可愛い想です。病院へ毎日通って注射をしてもらってゐます。
 二十二日急に熱が出て大騒ぎしました 三八度二分 先生 百日咳の熱と仰言いました。解熱薬や注射を致しました。
 一週間後には平熱となり 又三八度九分になりました。又先生がいらっしゃって下さいました。
  大畠のお祖母さんは歯の生える為ではないかと仰言っています。
◎今日からあなたはいよ々はふ格好が出来て前方の物をつかまふとしてゐます。両手でかいて両足でたゝみをけり面白いようです。
 早くどんゞはへるとよいがね。

二十四日
 夕方から少し熱がありましたが 夜中一時に三九度一分もありお父さん、お母さんびっくりしましたよ。そしてひやしたりすかしたりしてやうやく落着いて休みました。どうも歯の熱でせうか。
 お醫者さんは百日咳の熱と仰言いますが。

二十七日
 朝方から少し熱はありましたが おひるから下つてゐましたが 夕方五時頃から又三九度、七時に四十度と高い熱でした。早速雨の中をお醫者様が見えました。解熱と咳と両方の注射をなさいました。
咳をする時はほんとうにひどいです 傳染性の病気ですがお母さんの注意の足りなかったことを心からおわび致します。
夜中、一時、二時半、三時半、五時に起きましたが だんゞ熱は下がるやうでした。朝八時、六度八分です。

二十九日
 大畠のお祖母さんが心配して見えたが もう今日は平熱でした。
 百日咳で熱の出るのはよくない様です。お祖母様はお不動様の信者ですので、朝早くと夜中と二回〝水ごり〟を取って潤ちゃんの病気のよくなる様にお祈りになりましたよ。
 大体あなたは気嫌のよい子で熱が高くてもあまりむづがりませんでしたが、あまり高い熱の時はやっぱり心配でした。
 お不動様のお陰をいたゞいて大へん輕くなりました。又〝相知百日咳の薬〟と云ふのがよかったのでせう大へんかるくなって ホッと致しました。
でも油断は大敵なので毎日お醫者さまに通っています。

八月十二日
 白石さん

八月十四日
 大畠へ どんゞはふ。

と「滋子の育児禄」は八ヶ月で終わっているので、粗方気が済んだのか、忙しさにかまけて書く時間が取れなくなったのではなかろうかと想像する。
しかしこと、百日咳に関して、当の「滋子」から聞かされた話では「潤」が生まれて数ヶ月が経った頃、近所に住む子供を連れた母親が「お子さんを見せて欲しい」と尋ねて来たようで、応対した「誠」は「滋子」のところへ行き「潤坊を見たいと言って近所の人が尋ねて来ちょるんじゃが、ええじゃろう」と言ったところ「滋子」は「子供が変な咳をしているのが聞こえるから帰ってもらって欲しい」言ったにも拘らず「誠」はもう嬉しさのあまり、「滋子」の言うことなど聞きもしないで、背中に子供を背負い両手に子供の手を引いている女を「潤坊」のところへ案内したのである。
どうやらこれが百日咳に感染した原因のようで、兎にも角にも病気が治るまで三ヶ月(約百日)かかったと言うから本当に百日咳だと思ったと言っていた。
また高熱が三ヶ月も続くので、この子は死んでしまうだろうと思っていたと話していたが、どうやらこの時も二回目の闇に世界からの危機を逃れることが出来たようである。
 
 この育児禄は潤が嫁を貰う時のこと、嫁の家族と同居するため広島に転居することになり、荷物の整理をしていたとき偶然見つけて「へぇ~こんなものを書いていたのかと」と思いながら頁をめくった。
読みながら母が子を想う慈愛の深さと言うか優しさに触れて涙が留めなく溢れてきた。
嫁になる相手にも読ませたがやはり涙した。
そして、この物語に育児禄を書き写している時にも何度となく目頭が潤ってくるのである。
滋子と潤の親子間の個人的愛情というより、男親には解かりようがない母親という性の役割の中にある「母性」とはこいうものなのだろうという事に心が反応し、震えたのである。




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「双龍物語:第四章その2」

 そして「滋子」は「長男(潤)」が生まれる数日前から「養育禄」なるものを書き始めていた。

            序 潤ちゃんへ

 自分の生まれた時からの事を大きくなって知る事ができたらどんなに楽しくもあり有意義なことでせう。
本當につたない文で恥ずかしいのですけど此の世に尊い生を受けてからの事を真実そのままにあなたの為に書きしるしたいと思ふのです。
昭和廿四年の一二月二十四日の明け方六時 一番鳥の鳴く勇ましい声を聞きながらあなたは神様の御恵みによって安らかに此の世に の声をあげたのです。(空白部は原文のまま)
         出生地 山口縣大島郡久賀町伺津原
 お父様が日通にお勤めの為 久賀に借家住ひをしてゐました。それは前記の所なのですよ。
そして、あなたには明子(はるこ)といふ一つ年上のお姉ちゃんがありましたの、でも生まれて四日目にすぐ他界してしまいひました。お父さまもお母さまも明子姉ちゃんが亡くなったので早く代わりにあなたが生まれてくるのを待ってゐました。
生まれる時には柳井のお祖母ちゃまがお手傳ひに来て下さっていましたよ。それからすぐ大畠のお祖母ちゃまがお手傳ひなさって下さいました。
お父様はあなたの為に三代様からお名前をいたゞいて下さいました。
そのときのお名前が潤ちゃんなのですよ 若しか女でしたら榮子といたゞいてゐいたのですよ(短冊)。
三代様といふのはね、お父さま、お母さまが日頃信仰させていたゞいてゐる神様(大本愛善苑)のお道の方です。
この方については大きくなってあなたが信仰する様になったらよくわかってくることでせう。
別紙のお名前はあなたの名つけの日 廿八日にお父さまの書いて下さったものなのです。

              「養育禄」

昭和二四年一二月二十二日
 今日があなたの出生日の予定だったのです。お母さんは予定日の近づくにしたがって今日か々と心の中で言い知れない喜びとかすかな不安にて満たされてゐました。御手傳ひの人がないので二十日から柳井のお祖母ちゃんが来て下さってゐました。
予定日も何の兆もありませんでしたが、大部お母さんの体はきつくなって何れ近い内だと思ってゐました。動くほどお産がらくだと云われてゐましたので お母さんは体の調子がよい限り動きました。
今日は予定日でもあるし、あなたの安産を祈って氏神様にお詣りしてお祈りを捧げ お陰をいただいて来ました。

二十四日
 二十三日の夕方から腰のいたみが大部ひどい様でした。お父さんが会社から夕方七時頃おかへりになり お食事をすませた後会社が忙しいため又お出かけになりなり十二時過ぎにおかへりになりました。お祖母ちゃんと三人がつづいてお風ろに入りました お母さんはどうも今日は様子がおかしいと感じがしてゐました。神様の礼拝をすませて就寝しました。
 割合ひに暖かい日で晝間(昼間)の疲れにすぐぐっすり休みましたが 二時過ぎに目がさめてどうも様子がちがふので お祖母さんお父さんに起きていただいて用意をしていただきました。
外は雨が降ってゐましたが 産婆さん(鶴田キチ子)はお父さん達の後二分もたゝぬ間にかけつけて下さいました。お母さんはも一度神言を奏上させていただいて安産をおねがひしました。
その時・5時頃でしたが 何もかも調子よく六時には降っていた雨も上がり空もしらゞと明けて一番鳥の鳴く声と共に勢いよく、産声をあげたのです。
お母さんは只、ぶじかしらとそればかりお祈りしてゐました。やがて産婆さんが男の子であることを知らせて下さり ぶじである事を喜びました。
ちょうど満潮の始めです。お父さん始め皆はあなたの出生を大へんよろこび そのよろこびは言葉につくされず胸一ぱいでした。小ちゃな赤い顔のあなたはやがてお母さんの側にねかせられました 只々、すこやかに発育してくれる様にと願うのでした。
神様に御礼の礼拝をいたしました。
暮れの迫った日に生まれたのでお手傳ひの人がなか々ご苦勞でした。
それから毎日あなたは鶴田さんに産湯をつかはせていたゞいたのです。
大へんに丈夫ですよ、と喜んで下さいました。身長は普通寸より二寸も高いと御言いました。
目方はね、七八〇匁でした。
大へん可愛い顔だちだと云って皆ほめて下さったのよ。あなたの出生を知って数人の人がお見舞いに見えました。又澤山の産着をいただきましたよ。日に々とあなたは調子よく育ってゆきます。

二十九日
 年の暮れで皆忙しいので小沢ミドリ(愛善苑 信者)叔母さんが 柳井から手傳ひして下さったのですよ。又浜田先生(愛善苑 柳井主任)があなたの為にお取次ぎをなさって神様の御恵み多き事を祈られました。いよ々お正月も迫って来て あなたもお母さんもね正月ですよ。

二十八日
 前後しましたが二十八日はあなた名つけの日です。三代様からいたゞいたお短冊のお名前にある通り潤(じゅん)とつけていたゞきました。
神様からいたゞいたお名前です。どうかその御恵みに御礼申して下さい。鶴田さんの家でお祝いに よろ〝こんぶ〟をいたゞきましたよ。

一月一日
 お正月ですね 潤坊と母ちゃんは、ね正月でした。お手傳ひがなか々むつかしいのでね、お晝前(昼前)に柳井のお祖母ちゃまが又来て下さいました。

五日
 産婆さんに今日まで産湯をつかはせていたゞきましたのよ。
大へんに親切な頭のよい方でした。自分を取りあげて下さった産婆さんは あなたの出生に際して又大へんお世話になったんですね。

一月十日
 お父さんは会社が忙しい為殆ど家に居られませんでした。年末年始の御つき合ひも、しばらくしてひまとなりました。そしてゆっくりとあなたを見守って下さいました。お母さんも次第に日立ちがよく、今日頃から起きることにしました。寒い時でしたのでお手傳ひの人も大へんでした。お母さんはあなたの汚れたおむつを洗うのにも云いしれない嬉しさ、とほこりを覺えるのでした。何卆か健やかに成人して下さい。

一月十五日
 日に々太ってゆくあなたの様子にお父様もお母さんも只よろこんでをりました。お顔も生まれた時とは大へんに変わってきました。生まれた時はお母さんによく似てをった想です。今まで気づかない事でしたが あなたはお顔も大へんよく調ってよい子ですのに お耳が一寸両方がそろひませんでした。誰でも両方揃ってゐないのですが あまりひど過ぎるのです。お耳ですから気をつけて見なければわからない事ですが 一寸気になりました。
産婆さんも外入(とのにゅう・大島の南の方に位置する地名)の叔父、叔母(滋子の姉)さん達も大した事ではないですよ、心配は入りませんと御言って下さいました。お母さんはその時始めて、あなたの幸福を自分の体で代わることが出来るならどんなにでもしてあげたいと思ひました。早速にとりかえへられるものなら型のよいお母さんの耳ととりかへてやるのにと思ふのでした。別に気にして悩む程の事でもないのですが やはりお母さんは人の顔を見ると一番先に耳が目につくのでした。いろ々と見ましたが皆種々様々でずい分ちがった人もありました。あなたのは小さい気づかいでなければ別にわからないのです。
神様の教えにある様に現実は現実ですから それを悔いては発展がありません。大きくなるにしたがって少しでも型がよくなりますように神様お守り下さいませ。ついでにお揃いしてよかったらよいでしたのにやっぱりお母さんの心はいたみました。あなたにお乳を含ませる毎に神様の祝福あらん事をお祈りするのでした。
型が悪いからと云って気にしないで下さい。お母さんは只それがあなたへのおねがひであり、お詫びなのです。別に悪い事したわけでもありません。神惟のまゝに出来た事です。何卆か何物をも恨まず気にかけぬ子になって下さい。
人間は型ばかりで人格が決まるものではありませんからね。あなたのお父さんは日米戦争の為  
にフイリッピンで負傷され片腕を殆ど切断されました。片のつけねから十糎ばかりのこってゐるだけで役に立ちません 用を達せられるのに御不自由で本當に気の毒です。それでもよい心の人ですから毎日を楽しく有意義に過ごされます。あなたも大きくなったら神様の御恵みを享けられます様御信仰して下さい。

二月二日
 まだゝ寒いので床の中で安らかに眠ってゐます。
七日目に始めて涙を流して泣いていましたよ。

二月二十日
 どうやらお目めが見える様でした。鶴田さんがいらっしゃって あなたの成長をよろこんで下さりました。あなたはお目めが見えるのか笑ってあいそをしてゐました。可愛い顔でしたよ。

三月一日 初詣で
 日ざしも一日々と のどかになって参ります。今日は大畠のお祖母さんにおぶさって氏神様にお詣りして あなたの健やかに成長せられん様お願ひしました。これは本當を申しますと三十三日に氏神様にお詣りするのが本當なのですが あなたはちょうど寒い時生まれたので今日までのばしてゐたのですよ。
 お詣りの行きしも帰へりしも よくねんねしてゐました。

三月三日
 今日はあなたの初旅でした。
大畠へ帰へると、おぢいさんが大へん大きくなったのによろこばれました。あなたは笑って おあいそしてゐました。澤山のお姉ちゃん達にだっこしてもらって笑ってゐました。お母さんは初めておんぶするのであなたの鼻がつまりはしないかと心配でしたよ。
三日・四日・五日、と柳井の土井さんのお宅で愛善講話があったのをおききしに行きました。
柳井のおばあちゃんも小沢さんも大きくなったのにびっくりしていらっしゃいました。

三月八日
 久賀へ帰る。少し風邪を引いていた様です。
 夜中にあなたは一人が起きて大きな声を出して笑ってるものですからお父ちゃんがびっくりして起きられました。そして〝何だ 潤坊か 何かと思ったよ〟といって又やすまれました。
 あなたはほんとうに可愛い子ですよ。誰も居ないのにあなたが一人目をさまして あ・・・・・
 や・・・とひとり言を云っていると お母さんはうれしいやら お利口してゐかるのに かわいそうな程でした。此の頃はおめがよく見え、ひとり言がしゃべれて面白くなりましたよ。
 お父ちゃんが おもちゃを買って来て下さいました。
 がら々と廻る ねてみるおもちゃですね。あなたは鈴が鳴る音につれて一生けんめいに眺めていました。

三月二十日
 お母さんが虫下し飲んで腸をこはしてしまった為 あなたに牛乳を飲んでもらひましたが その後がどうもよいお便所でないのですよ。
 奇応丸といふお薬をお父さんが買ってきて下さったので ずっと飲んでいますよ。腸はなか々よくならないですね。

三月二十七日
 発育が目立たぬ様になったと思いますよ 時期ですか、腸が調子悪いためですか、早く良くなるようにお薬をあげてゐます。
 明日は げんのしょうこ を少し飲んでみませう。

四月二日
 今日は貴方の百日でした。神様にお礼の礼拝をし、あなたの幸福をおねがひ致しました。
 腸が悪かって一寸 太り目が見えませんでしたが 大部よくなって参りましたよ。



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「双龍物語:第四章その1」

  「第四章・長男の誕生」

 
日本通運 株式会社 周防大島久賀営業所の所長に抜擢された「誠」は「滋子」と共に住まいを周防大島久賀町に移して新しい生活を始めることになった。
この久賀町は南に小高い山と北に面した瀬戸内海に鋏まれた風光明媚なところで田舎にしてはとても活気があり、町内の方の人柄も良く、とても住みやすく感じた二人は直ぐに近所の方達と親しくなって暫くは平穏な日々が続いた。
「誠」の仕事は順調で「滋子」はこの時点で既に二人目を懐妊していたから二人は幸せを噛み締めていた時期であろうと想像できるが、季節が秋に差し掛かった頃、不運にも「滋子」は高熱を伴う風邪の症状に見舞われたのである。
最初は風邪だと思っていたようだが、一向に熱が下がらず症状の改善が見られないことから医師はインフルエンザと判定し「今の状況は母子共に危険な状態であり、このままの病状がこれから先も続くようであれば、覚悟はしておいた方がよい」と告げられた「誠」には、なす術がなく、ひたすら神棚の前に座り祝詞を唱えながら「滋子」の回復を祈り続けた。

「滋子」の腹の中にいる子は「聖師・王仁三郎」が特別に仕組んだ曰く因縁のある子供で、この子がこの世に出てきては都合が悪いと考えている敵対勢力である闇の世界が仕掛けた第一回目の命の危機が訪れたのである。

尤も「聖師・王仁三郎」が仕組んだ内容がはっきりと判るのは、この後四十三年も後のことで、
それまで「誠」「滋子」「腹の中の子供」共にそのようなことなど知る由もなく、ごく平凡な中流(の中か下)の家庭人として人生を歩んでゆくこととなる。

 しかし、この後「誠」の祈りが通じたのか「滋子」の体力が勝ったのか「聖師・王仁三郎」の導きがあったのかは定かではないけれども、ワクチンが無い時代であるにも拘らず、医師が驚くほどの奇跡的な回復を見せた「滋子」はインフルエンザを克服して母子共に危機を脱したので、父親となる「誠」がとても喜んだ事は言うまでも無く、臨月を迎えた十二月には母「ムメ」が大島にやってきて「滋子」と共に陣痛が始まるのを待っていた。
このような中「誠」は嬉しくて「大本」の教団本部に生まれてくる子供の名前を付けて欲しいと数ヶ月前に手紙を出していた。
長女「明子」の時は何故そうしなかったのかについては不明であるが、自分が付けた名前だから早死にしたのでは・・・との思いがあったのかもしれない。

予定日を十日も過ぎた頃「ムメ」は「こりゃあ、この様子じゃぁ何時になるか判かりゃあせん。もう年末が近こうなるんで、そろそろ正月の準備をせにゃあならんけぇ、私しゃあ明日は柳井へ帰るけぇね」と言って床に就いた。
その翌明け方近くになって「滋子」の陣痛が始まり昭和二十四年十二月二十四日午前四時過ぎに訳ありの子である長男が産声を上げた。
「誠」の喜びようは例えの言葉が見つからないほどであった言うが、一方祖母となる「ムメ」は「このクソ忙しい年末に生まれてくるとは何と親不孝な子じゃ」と自分の都合をぶちまけていたというが、そのようなことを言いながらも「ムメ」は甲斐甲斐しく娘と孫の世話を続け、もう直ぐ年が明けようとしていた頃となっていた。 

一方「誠」から命名依頼の手紙を受け取っていた「大本」では予てより死期が近かった「聖師・王仁三郎」より遺言の如く聞き及んでいた「いずれ、山口県の三田誠より子供の名前を付けて欲しいと必ず連絡が来るので、その時には男が生まれたら「潤」と女が生まれたら「栄子」と名付けるようにしてあるから、これを渡してくれ」との言いつけ通り「誠」に「聖師・王仁三郎」が半紙に書き残しておいた命名書を送ったのである。
この二枚の命名書にはそれぞれ「潤」と「栄子」とだけ書いてあり、命名の文字以外は「王仁三郎」の花押も落款も無いものであった。
命名書を受け取っていた「誠」は「潤」が生まれた三日後の昭和二十四年十二月二十七日に久賀町役場に出向き出生届を提出している。




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