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建築家 潤 の『独断と偏見』

「酔龍の独り言:その011」

 東京では緊急事態宣言を解除した途端に新型コロナウイルスの感染者100名越えが続いていますし、その他の地域でもこれまで感染者が暫く0人であったところも数名の感染者を見るようになって来ました。
その最中、またもや九州を豪雨が襲い熊本・大分地方に大きな災害をもたらしていて、今日には岐阜県や長野県まで被害が増加している。
報道によると原因は「線状降水帯」が発生し、長時間停滞したことによるのだそうだが、これの報道は的を射ていないし、本質のすり替えであると思う。
確かに豪雨の直接な原因は「線状降水帯」であるかも知れないが、土砂崩れ・堤防決壊などによって引き起こされる災害はある意味「人災」ではないだろうか。
また今回の災害を起こした原因は何十年に一度の「記録的な豪雨」によるものでもあると報道者達は言うけれど「線状降水帯」が引き起こした「記録的な豪雨」は自然が原因であることに疑いの余地はないけれども「記録的な豪雨」=「(自然)災害」にすれば一般的には解かり易く、それが原因であると誰もが思ってしまうが、これは本質的な部分で問題をすり替えていないだろうか。
前段の方程式が成り立つのなら、豪雨が生じた全ての河川で氾濫が起こらなければならないが、そうなっているわけではなく今回の豪雨で主たる被害を受けたのは熊本県では「球磨川」大分県では「筑後川」であり、岐阜県では「長良川」である。
この「球磨川」は急峻な川なので、元より川の流れは速く、上流の水が下流域に到達する時間が早くて、蛇行している上に川幅が急に狭くなっている場所が多くあり危険な部分を持っている河川であることは県の河川事務所も国交省も把握しているし、過去にも数度の氾濫を起こしているから、この部分を捉えれば「記録的な豪雨」ではあるけれども「人災」ではないかと思うのである。
つまり、予測不可能ではなく予測は出来ていたけれども「予算」が口癖のお役所仕事では、事前に手を打つ事はせずに、事件にならなければ対処しない悪習慣の踏襲を繰り返し来た結果と言っても良いと思う。
ちょっときつい言い方になってしまいましたが、消費税を10%に上げたにも拘らず、以前より住み良い暮らしになったと感じている人はいないと思うし、毎回話題に上がる霞ヶ関の天下先創りに加えて、政府(官僚かも)ご用達の企業への莫大な金額の垂れ流しを「どげんかせんといけん」と言われ続ける中でも一向に改めようともしない為政者達では徴収した税を先立って国民に還元する気は髪の毛の先ほども感じられない。
この宇宙は人・自然・星を含め全てが調和で成り立っていることの自覚も認識も無く、調和を乱している張本人が日本に於いて「官僚」「政治家」となっていては、如何ともし難い。
本来なら人が生きてゆく手本となるべき職業に就いている「人物」であるはずの者達が「欲」に負け「権力」に諂い「性根」まで卑しくなってしまった今となっては、もう救われる事は無く、自然による報いを受ける以外になかろうと思われるので、残念でならない。
その犠牲となるのが国民だから、口先ばかりで「神国・日本」を唱えている為政者達よ、恥ずかしくはないか。
 とは言っても、私達国民も平常時には化学や科学の力に頼って恩恵を受けているので、日常の生活の何もかもが「安全」で「安心」であると、つい錯覚を起こしてしまい、人の持つちっぽけな力を信じて神である自然に抗うことばかりに血道を上げてきた。
為政者も口癖のように「安全」で「安心」な社会を目指して・・・と「安全」と「安心」を安売りし、いとも簡単に手に入れられるような発言をするけれども、実際に手にした者はいない。
そうは言いながら、実際に今「安全」と「安心」を感じている人はいると思うが、それは錯覚であり、いつ現在は何とか保たれている均衡の調和が崩れて「安全」と「安心」が失われるかの保証はないのである。
現に、数十年以前から現在に至るまで「被災した人達」は「被災するまで」は「安全」と「安心」を感じていた人達ではないだろうか。
洪水や津波が怖いのであれば、高台に住む以外にはないけれど、高台である山裾の土砂崩れを心配するのであれば平地に住むより外にないのだから、ではどうすれば良いのかと言うことになると、本来人が住む安全な場所など地球上には存在しないとの自覚が必要だと言うことになろう。
このように考えれば「(自然)災害」の捉え方が二通りに別れ、化学と科学の力をとことん信じるのであれば全ての災害は「人災」として裁判所に提訴も可能となるが、自然と共に共存する立場を取るのなら災害は全て「定め」により受けた結果であるから、裁判所など何の役にも立たない。

 地震・台風・竜巻に津波を含む水害に加えて土砂崩れなど自然災害と呼ばれるものの一つに「遭遇」するまでは、自分が住んでいる場所は「(ある程度)安全で安心」できる場所だと誰もが信じていたに違いない。
そして住んでいるその場所は、他の多くの選択肢があったはずなのに、その中から「ここが一番良い」と自らが選らんだ場所で、その理由とは次に掲げるものが該当すると思われる。
① :土地(建物を含んで)の価格など経済的な事情
② :仕事に係る利便性
③ :子供の教育に関する事情
④ :通風や日当たりの良さに加えて地域性などであろうと思われる。
その場所を選んだ主体を自分に置くならば、色々と考え迷った挙句にここ以外の選択肢はなかったからだと言うことであり、主体が別にあるとするならこの場所を「選ばされた」ということになるが、悪く言えば美味しそうなものがここにあるよと思わされ、食いついてしまったと言い換える方が解かり易いかも知れない。
結論から言えば、数十年後には「被災する」ことが決まっている場所を自らが選んで手にしてしまったと言うことです。
いずれにしろ、この場所を選んだ以上「時が来れば」もう避けられない「定め」であったことに疑いの余地はない。
 身も蓋もないような表現になってしまいましたが、残念ながら「本質」を捉えて時系列を重ね合わせた上で出来事を鑑みればこのような表現になってしまいます。

 洪水に関して私なりの見解を申し上げれば、人が便利さを追求してきた結果により引き起こされた二次的三時的な結末ではないかと思っています。
大東亜戦争後の復興期から日本人は次々と生活の豊かさを手に入れて行き、現在田舎においては一人一台の車を持つ生活を手にしてしまった。
私はこの「車」こそが洪水を引き起こし、過疎を産み、シャッター街を出現させた元凶であると考えています。
河川の中流域から下流域にかけて街や町が発展してきた歴史は「水利」故であるが「車」の社会が出現し始めると段々と「道路」は「アスファルト(油)」で表面を覆われて来て、現在日本における幹線道路で「舗装」されていない道路は皆無であろう。
そして車が増えてゆくに従い「空き地」は駐車場として活用され始め、街の発展の伴いビルや住宅が立ち並ぶようになって、その周辺は「雑草が生えてくることを嫌い」道路と同じ様に「舗装」されて地面は油で覆われてしまっているのが現状である。
それまでの道路と敷地(建物が建っていようがなかろうが)は土のままであった状態と比較すれば、降った雨が大地に浸み込んでくれていた量は激減し、その殆どが河川に放たれている。
また高度な文明と言う生活の下では、昔に比べると工場や家庭で使用する「水」の量は桁違いな増加を見せていて、使用された水は浄化され全て河川と海に流されている。
別な角度から見れば、経済発展の名目で核家族化を推奨し住宅政策を煽ってきたお陰で、田舎には高齢者ばかりが残されてしまい、それまで続けてきた「里山や山林」の手入れが出来なくなって「里山や山林」の持つ保水量が、これまた激減し、降った上流域の雨は河川へと流れ出る。
中流域や下流域の街から多くの雨水や排水が河川に流れ出ている中に、保水力を失った山間部から流れ出る雨水を受け容れるだけの容量を現在の河川は持ってはいない。
 元来河川は数千万年いや数億年以上かけて降雨が山間(谷間)を流れ、地表面を侵食しながら出来た自然の産物であり、河川の巾や深さは降雨の量と調和してできてきたものであるが、その調和を崩したのが前述した内容である。
急激に増えた流入量に比例して河川が成長してくれるのなら洪水が起こることなどなかろうが、都合の良い人間の勝手な思いを自然は受け容れてはくれない。
だから、便利さのみを追求し、愚かな人間が起こした自業自得の結果である洪水は、もはや止める事など不可能なのである。

それと、洪水を防いでいる河川の「土手」の構造をご存知でしょうか。
0メートル地域や天井川の「土手」の断面を切ると台形の形をしていて、垂直に近い側の表面(河川に面している側)は石積みやコンクリート又はコンクリートブロックで保護されているものが圧倒的に多く、上辺は道路に使用されアスらルトで覆われている状態のものが殆どであろうと思われます。
ではその他の部分は何かと言えば残りは全て「土」ですから、多量の「土」の重量で河川の水の圧力に耐えているとだと思われ、表面を覆う石積みなどが水による「土」の侵食を防いでいる役割をしているのでしょう。
しかし、この「土手」ですが現在使用されているものの殆どは数百年掛けて当時の為政達が改良に改良を積み重ねてきたものを使用しているに過ぎず、当時から多少なりとも進んだことは何かと言えば表面を覆う材料にコンンクリートを使用している程度だと思います。
まあ今になっても化学と科学の発達の恩恵は、こと治水に於いてはこの程度ではないでしょうか。
最もこの「土手の土」を全てコンクリートに置き換えれば洪水はなくなると思いますが、
日本の河川の全てを中流域から下流域までこれを行おうとすれば恐らく千年近い歳月・いやそれでも足らないかも・・・と天文学的な費用が必要になると思われるから現実的ではありませんね。
だからこそ小賢しい人間が自然に対抗できる術には限界があるということを為政者達こそ知らなければならないのではなかろうか。

 最後に余計な一言を言わせてもらえれば、このような事故が起こるたびにでてきて解説をする偉い学者達だが、今回なら「低気圧が」「梅雨前線が」「多量の水蒸気が」「線上降水帯が」と原因を的確?に言い当てますが、これは全て「後出しじゃんけん」ですよ。
学者が解説をしてどうするのか?これら「  」中を化学と科学で封じ込める策を考えるのが学者の役割ではないのか・・・と素朴で単純な疑問だけが残る。

しかし「被災した方々」にとっては家が使えなくなり、金銭的な余裕も無いとなれば生きて行く希望も失われる悲惨な状況下に置かれるので、行政は「それダメです。これもダメですが、これなら出来ます・・・」という形通りの支援ではなく、これから先もこの日本で生きてみようと希望が持てるような支援策を考えて欲しいと願うばかりである。




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「双龍物語:第二章・帰還 その7」

 妹達と片付けを終えたヲトミは「誠今日はお前もえらかったろう(疲れただろう)布団を敷くけぇもう寝たらええ。今日はここで寝んさい」と誠のために宴会場となっていた八畳の部屋に床を整えてくれた。
寝床に入った誠は酒が入っていたせいでもあろう、もう何も考えられず少しぼんやりとしていたが、妹達が風呂に入る気配を感じながら、そのまま眠りに就いた。
 翌朝母ヲトミが朝餉の準備をしている物音で目が覚めた誠は障子を開けて板の間に向かい「母ちゃんお早う」と声を掛けると、ヲトミは「お~もう目が覚めたんか。もうちょっと寝ちょったらええのに」と言ってくれたが、台所から漂ってくる茶粥の匂いが懐かしく「母ちゃん、茶粥作りよるんかぁ懐かしいのう。早よう食べたいのう」と話しているところへ乙次郎と妹達が二階から下りて来て「お兄ちゃんお早う、もう起きたんね」と言いながら顔を洗って朝餉の準備をしているヲトミを手伝い始めた。
誠が顔を洗っている間に茶粥が炊き上がり、久し振りに家族全員揃っての朝餉を迎えることになった。
朝餉は茶粥と漬物に昨日の宴会の残り物であったが、誠が茶粥を食べる姿(茶粥が入った茶碗をちゃぶ台の上に置いたまま、腰をかがめて口を茶碗にあてがい、左手で持った箸で茶粥を啜りながら?き込むようにして食べるのだから、まるで犬や猫が食べているようにも見える)を見ていたヲトミは辛かったのであろう朝餉に箸がつけられず、とても寂しそうな顔をしていた。
三十年近く利き腕で生活をしてきていたのに、突然左利きで生活しろといわれても、そう簡単に出来るものではない。
米国所属の赤十字で療養してもらっている間の食事はナイフこそ使えなかったがスプーンとフォークだから然程に不自由を感じることはなかったのだが、いざ箸を使うとなれば上手くはゆかず、少し練習したからといっても、なかなか直ぐには使いこなせるようにはならなかったので、一番悔しい思いをしていたのは誠本人であったであろう。

 余談になるが、随分前のこと「箸」の文化について考えてみたことがあり、その切っ掛けは種子島に鉄砲が伝来された時、ポルトガル人の饗応を担当した当時の役人(武士)が書き残している文面に「食するに箸を用いず飲するに器を用いず、何と野蛮な人種である」というような内容が記されている歴史書を読んだことがある(この文面は現存し、資料館に展示されているとも記載があった)。
それまでにも三百年以上前の頃まではヨーロッパ人は食事をする際は手掴みで食べていて、飲料はラッパ飲みで、水道は無く便所すらなかった国々であったとの記述がある本を読んでいたこともあって、ふと「箸」について考えてみたのである。
 今の日本では幼児が自分で食事を食べ始めるころ最初に使う道具は「スプーンかフォーク」で、ナイフは危険を伴うので使わせることはないと思うが、単純な機能しか持たない道具である「スプーンとフォーク」は幼児でも直ぐに上手に使うようになる。
それから四・五歳前後からであろうか、次の段階になると「箸」を使う訓練に励むようになる。
「箸(弥生時代から使用されていたようです)」は細く削って作った竹二本で食事が可能なとても高度な道具で、スープや味噌汁などの汁物は扱えないけれど、刺す・掬う・摘む・掻き寄せる・別ける・包む(くるむ)など多くの機能を持ち合わせている反面、相当訓練を積まなければ使いこなせないものである。
このような経緯から考えると「箸」は大人が使う食事用の道具で「スプーンやフォーク」は幼児の使う道具であるから、大人になっても数多くの「スプーンやフォーク・ナイフ」を使って食事をしている欧米人の文化意識は日本人と比較すれば、やはり低いと捉えて良いのでないかと思う。
また金属製の「スプーンやフォーク」がいつ頃に日本で使われるようになったのかについては恐らく明治維新後ではないかと想像していますが、それまでの日本の幼児は木で作られた「匙」でも使っていたのだろうか?それとも親が箸を使って食べさせていたのだろうかの疑問が湧くけれど本題から逸れますので、今後の課題にします。
 
 誠が利き腕を失ったけれど帰還したことは、あっという間に小さな村中と近郊の大本信者に知れ渡り、話を聞きつけた多くの人達が誠を尋ねてきた。
誠から戦地での話を聞いた大本信者の方達は口々に「良かったねぇ、それなら直ぐにでも神前にお参りして聖師さんにお礼を言いに行かにゃあいけまぁ」と言い、誠も落ち着いたらそうしようと思っていたものだから、その気持ちに拍車がかかった。
数日が経つと尋ねて来る人も少なくなり、気持ちの落ち着きを取り戻した誠は京都行きを決意して、準備を始めた。
京都亀岡へは出征前に命の架け橋をして頂いた山脇さんを是非に誘ってと思っていたのだけれど、先日帰還の挨拶に伺った折に体調を崩しておられことが判ったので、誠一人で行くことにした。
山陽本線上りで京都駅を経由し、山陰線に乗り換えて亀岡に到着した誠は早速大本本部の事務所を尋ねて戦地に赴く前の経緯を話して、兎に角聖師さんにお目にかかり戦地から無事帰還できた御礼を申し上げたい旨を伝えたところ、聖師さん(出口王仁三郎)は体調を崩して誰にも会える状態ではないと告げられた。
誠が非常に残念がって少しうろたえ、もたもたしているところへ、誠が来ていることを聞きつけてきた「日向さん」がやってきて、王仁三郎の現在の状況を詳しく伝えてくれた。
そして誠が無事日本へ帰っていて、近い内に亀岡にやって来ることは既に聖師さんは判っておられ、自分も聖師さんからそのことを聞き及んでいたことなどを聞かされた誠は、そこまで判っておられたのかと納得しながらも、会えなかったことを悔やみながらも亀岡を後にし、そのまま総本山がある綾部へと向かい神前へ跪き祝詞・神言(かみごと・少し長い祝詞)を唱えて帰還の報告を行った後に山口県へと足を向けた。
 
 王仁三郎は自分の代では最早世界の平和は叶わず、その想いを次の世代に託す元となる誠が無事に日本に帰還できたこと確認した後、安堵したかのように穏やかにこの世を去っている。




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「双龍物語:第二章・帰還 その6」

 瀞子と二人きりになった誠は戦地へ行っている間に家で起こった出来事などを聞いていたが思い出したように「そう言やぁ田畑を買うように手紙と金を送ったが、それはどうなった?」と聞くと、米を研ぎ終えた瀞子は竈に向かつてご飯を炊く支度を始めながら「ここからちょっと上のほうに田んぼと畑を買うちょるんよ。それでお父ちゃんが毎日畑の世話をしよる」と言うので、誠はそれなら何とか食べることに困ることはなかろうと少し安心して「それはどの辺にあるんかいのう」と聞けば「瀬戸に焼き場(露天の火葬場)があるじゃろう、そこから少し西の方で、西村医院のそばの川を上へ上った辺よぉ」と言われて、何となく田畑がある辺りの見当がついた。
それから暫くは親戚の話や親しい人に加えて大本の信者の人達の様子を聞いていたところへ、ヲトミと修子が両手に持った買い物籠から溢れそうなほどの買い足しを済ませて帰ってきた。
帰るなりヲトミは「修子あんたは野菜を洗いんさい。瀞子は人がようけ来るんじゃけぇ膳の支度をしんさい」と言うやいなや直ぐに夕餉の準備に取り掛かり、あたふたと動き始めた。
暫くすると近所の手伝いに出かけていた文子(ふみこ・次女)と幸江(さちえ・三女)も帰ってきて、誠の帰還と失った利き腕のことで、もう大騒ぎとなってしまったが、それを見ていたヲトミは「うるさい!口は動かさんでええけぇ手ぇ動かせ!」と一喝して「幸江おまえは酒を買てこい。三升はいるじゃろうけぇ文子おまえも一緒に行けぇ、それから(金が無いので)附けにしてくれと言え」と指示をだす。
 ヲトミと妹達は祝いの夕餉に向けて漁協から求めた新鮮な瀬戸内の刺身に煮付け、すき焼き・散らし寿司を用意して皆が来るのを待った。
日が落ちかけた頃になると声掛けをした親戚や大本信者・近所の親しい人達がそれぞれ祝いの酒や品物を手にして三々五々集まってきて、ヲトミに「良かったねぇ、よく生きて帰れたもんじゃねぇ、フィリピンじゃったんじゃろう。兎に角長男が無事じゃったんじゃけぇ何よりじゃ何よりじゃ」とこれまでの苦労に対する労いの言葉を掛けてくれた。
最後の招待客は徒歩三十分以上もかかる遠戚の主人で、迎えに言った乙次郎と一緒に帰ってきて、皆が揃い席に着いた。
誠は戦地に赴く前に使っていた背広を着て上座に座り、皆が揃うのを待っていたが、誰も誠の右腕が無いことに気付かず、無事の帰還に対する労いと祝いの言葉を掛けてくれていたところへ、乙次郎が下座に座り「え~本日は突然ではありましたが、お忙しいところ長男誠の帰還の祝いにお集まり頂き有難うございます。粗酒粗肴ではありますが、誠の帰還の祝いをして頂ければあり難いと思います。誠何か言え」と乙次郎が開宴の口火を切る。
 誠は「皆様お忙しいところ私のためにお集まり頂き有難うございます。大変な戦地へ行きましたが、何とか帰って来ることが出来ました。これも皆さんのお陰と感謝しています」と懐かしい顔ぶれを見ながら話し始めたところ感激の余り少し涙声になってしまったのだが、皆が「よぉ帰ってきた。良かったのう」と口々に声を掛けてくれたので、心が楽になったのか戦地での話を少し語ったところで「何とか親不孝をせずに済みました」と締めくくった。
 誠の話が終わったところで乙次郎は寺の住職を名指しして「それじゃあ上川さん、乾杯の音頭をお願いできるかのう」と振ったところ、上川さんは待ち構えていたかのように「え~それでは僭越ではございますが、え~三田家の長男である誠君が戦地より無事に帰還されました。え~先ほどの話では戦地でのご苦労は大変なものであったようですが、こうしてまた誠君の顔が見れたことを何より嬉しく思います。それでは皆さん乾杯しますので、ご唱和お願いします。乾杯!」の声に引き連れられて一斉に「乾杯」「誠ちゃんおめでとう」「「誠さん良かったね」「誠さん何よりじゃ、何よりじゃ」の声で祝いの宴が始まった。

 宴が始まるや否や皆が次々に誠の前に来て酒を勧めるので、余り酒の強くない誠は少し困りながらも酒を注がれる度に一口ほど口に含んでは応対していたのだが、左手で猪口を差し出す誠を見ても誰一人未だ利き腕を失っていることに気付いていないようであった。
やがて、皆が料理を口にし、宴も盛り上がり始めた頃、料理に箸をつけない誠を見ていた乙次郎が誠の前に来て「誠おまえも食え、今日はおまえの祝いじゃ」と料理を勧めに来た。
誠は「う~ん」と言いながら左手で箸を持ちぎこちなく料理を摘もうとした時、誠の背広の右腕がだらりとしたままで袖口から手が出ていないのを見て「誠!お前右腕はどうしたんか。無くしたんか!」と乙次郎が声を荒げた。
その声を聞いた皆は一斉に誠の方を見て、今まで気付かなかったが背広の袖口の先から手が出ていないことに気付き、場は騒然となったが、誠は「黙っていようと思っていた訳じゃあないんじゃが、ちょっと話し辛うてねぇ・・・つい言いそびれちょったんじゃ」と伝えて、利き腕を失った経緯を皆に話し始めた。
話を聞いた皆は「日本兵に撃たれて米軍に助けられたんかぁ~そりゃぁ不思議なことじゃったのぉ~、そんで正夢まで見るようになったとはのぉ~」と言い、大本信者は「そりゃぁ絶対に聖師さんのお陰じゃぁ、利き腕はのうなった(無くした)が、生きて帰れたんじゃけぇ、えかった(良かった)と思わんにゃぁいけんじゃろう」と、それぞれが想いを口にする。
暫くすると騒ぎも落ち着き、利き腕をなくしたことは残念ではあったが、生きて帰れたのだからと皆も喜んでくれた。
誠は「身体髪膚父母よりこれを受く、あえて毀傷せざるは孝の始まりなり」を思うと利き腕を失ったことの後ろめたさは消えなかったけれど、これも定めだと言い聞かせ、死んでいればもっと親不孝であったのだから・・・と心で折り合いをつけて、誠は母ヲトミが作ってくれた懐かしい料理の味を喜び噛み締めながら感謝と共に体に収めていった。
やがて祝いの席はお開きとなり、皆を見送りした後にヲトミと姉妹達が後片付けを始めた姿を見ていた乙次郎は誠の傍にやってきて「誠や、おまえこれからどうするんか?何か考えちょることはあるんか?」と聞いてきたが、誠は「う~ん・・・今は何をしたらええんかがようわからん。取り敢えず落ち着いたら聖師さんのところへ行ってお礼を言おうと思うちょるくらいかのう」と言葉を返すと、乙次郎は「そりゃぁそうじゃのう、まぁこれからのことはまたゆっくり考えようや。今日はもう寝たらええ。あ~それからのう、田んぼと畑はもう買うちょるけぇ心配せんでええけぇ」と誠の行く末を心配しながらぽつりと言い「ほんじゃぁわしはもう寝るけぇの」と二階の寝床へ向かって行った。




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「双龍物語:第二章・帰還 その5」

 誠を見るなりヲトミは嬉しさの余り「あっ~」と声を上げ裸足で土間に駆け下りて誠の体を抱きしめたが途端、一瞬の間を置いて悲痛な叫び声を上げた「誠の手が無い!誠!手はどうした!」と言いながら、誠の肩を両手で掴んで揺すり始め、小さな両拳で誠の胸を叩いていたが、膝から泣き崩れ落ちてしまった。 
 利き手を失った誠はそのことを告げないまま帰宅した負い目からか「只今帰りました」の言葉も出せず玄関先に立ったことを後悔したが、ヲトミは狂ったように泣き叫ぶばかりで、妹達も誠の姿を見て泣き始めていたのだが、気を取り直して玄関先に行きヲトミの体を抱きかかえて座敷へと連れて上がった。
 ヲトミの心をなだめ、落ち着かせるのには暫くの時間が必要だったが、やがて落ち着きを取り戻して、誠の無事の帰還を喜び「今日は誠が帰ってきたお祝いをせにゃあならん。修子(しゅうこ四女)・瀞子(きよこ・五女)一緒に来い」と妹達を連れて食材を求めに出かけていった。
残された綾子(あやこ・六女・末娘)は「兄ちゃん、疲れただろうから、風呂に入りんさい。疲れが取れるよ」と誠のために風呂を沸かし始め、戦地ではどのような状況であったのか、どうして手を失ったのかを聞いてきたが、誠は「皆が揃った時に話すから、それまで待ってくれ。ただな、それは一口で言えるようなことじゃなくてなぁ、・・・本当に大変だったんだ」とだけ伝え、久し振りの我が家(とは言っても借家である)に帰れた安心感から、仰向けに寝そべり目を閉じて、これまでのことを思い返しているうちに、うとうとと眠ってしまった。
「兄ちゃん、お兄ちゃん!風呂が沸いたけぇ入りんさい。浴衣は出してあるけぇ」と綾子の声で目を醒ました誠は「お~そうか有難とうさん。じゃぁ風呂を貰おうか」と下駄を履いて台所と隣り合わせにある風呂場へと向かった。
綾子が沸かしてくれた五右衛門風呂に身をゆだねながら、誠はとてもフィリピンから生きて帰れるとは思っていなかったが、こうして家に帰れたし家族にも会えたのだと思うと自然と涙が出てきて止まらなくなったけれど、これもあれも全て「聖師さん」のお陰だと改めて思い返し、声を出して天津祝詞(あまつのりと・仏教で言えば経のようなもの)を唱え始めた。
天津祝詞を唱えている途中で何やら外から話声が聞こえてきたので、そちらの方へ少し聞き耳を立てると、どうやら父乙次郎が帰ってきた様子である。
突然風呂場の扉が開いて「誠!おまえ無事だったんか!よお帰ってきてくれた。てっきり死んだと思うちょったんじゃが、そりゃぁ良かった!良かったのう」と懐かしい父の声を聞き、顔が見えた途端、誠は湯船に浸かったままで突然溢れてきた涙と共に「お父ちゃん只今戻りました」と声にならないような声で帰宅の挨拶をした。
乙次郎は直ぐに扉を閉めて「さあ~て、こりやぁ今夜は祝いじゃ!祝いをせにゃぁいけん。ヲトミは何処へ行った。ヲトミは何処か?」と綾子に話しかけると「おかあちゃんはお姉ちゃん達と買い物に行った。兄ちゃんの祝いをするんじゃ言うて」それを聞くなり乙次郎は「そうかそうか、もう買い物に行ったか・・・」と呟きながら座敷に上がり八畳の部屋を熊のようにくるくると回りながら思案を巡らせ「そうか、それじゃあ親類にも言わにゃあいけんのぉ。え~と、それから、あそこと、あすこにも・・・いや、あそこはええか・・・」と言いながら土間に下りて下駄をつっかけ、そそくさと出かけていった。
 誠は体を洗って風呂から出てきたが、肩まで湯船に浸かっていたせいで、乙次郎は誠が利き腕を失っていることにまだ気付いていないし、綾子もそのことを伝える余裕もなかったようだから、祝いの席を思うと憂鬱な気分になったが、今更どのように願っても手が生えてくるわけでもなく、どうにもならないと腹を括って夕餉の時を待つことにした。
 暫くしてヲトミと妹達が買い物から帰ってきて「ただいま、お兄ちゃん、今日は大ご馳走よ!お母ちゃんがねぇ、お兄ちゃんが帰ってきた祝いじゃけぇ奮発するんじゃ言うて、特別に牛と鳥と卵とねぇ・・・」と嬉しそうに伝えてくれる。
 綾子は「お母ちゃんが出た後でお父ちゃんが帰ってきて、お兄ちゃんが帰ってきた祝いをするんじゃ言うて、親戚の家とかを呼びに行ったよ」とヲトミに言うと、ヲトミは「それじゃあ足らんわぁ、こりゃあもうちょっと、ようけ(もっと沢山)買い物して来にゃあいけん、修子、もう一回行こう、瀞子あんたはご飯の支度をしよりんさい」と言いながら、あたふたと買い足しに出かけていった。




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「酔龍の独り言:その010」

 新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が4月7日に発令されて一月半が経とうとしているところへ、感染者数が減少傾向にある県への緊急事態宣言がやっと解除された。
街中を歩けば・・・電車・バスに乗れば乗客の全てがマスク姿で、マスクを着用していなければ、まるで犯罪者のような目線で見られる異様な社会が出現している。
前回の「酔龍の独り言:その009」でマスクの効果や有効性について述べましたが、今日の日本に於いて毎日約1億人がマスク姿を呈している情況は常軌を逸している様に思えてならない。
 そもそも何故マスクなのかを考えてみると、新型コロナウイルスにうつらない・うつさないと言うことなのだろうが、相手は自然の産物?なので避けようとしても、これには限界がある。
解かり易く言えば、台風・津波・火山の噴火・大地震も自然であり、これらは数百億年前から地球上で繰り返されて来ていることは皆様もご存知のことと思いますし、各種のウイルスも同じ様に地上に棲息している人間を含む動物に寄生して進化を繰り返しながら存在してきたようだと言われています。
顕微鏡のお陰で病原細菌が発見されて百六十年余、電子顕微鏡が出来てやっとはっきりとしたウイルスの存在と病気の因果関係が発見されてから高々百年に満たない数十年程度であろうかと思われる。
 これまでに、他のウイルスであるオタフク風邪や風疹・麻疹など大人へ成長するためへの関所としてほぼ全員が罹患し、長く人類と共存してきた歴史があるが、致死率はゼロではなかったけれどかなり低かったとのではないかと思っています。
では今回の新型ウイルスの致死率(死者数710人)はと言えば、昨年12月から今年の5月までの感染者数5054名(1年換算すれば11,020名)から割り出すと14%程度のようであるから、感染者の致死率は決して低いとは言えないと思うが、一方日本における昨年度の自殺者数は過去最低となっていても2万人いて、コロナ感染死亡者数を1年換算してみると1,550名となるので、なんと13倍近い人が死んでいることになるし、交通事故の死者数は3,215人で、これもコロナ死者数の倍以上となっている。
交通事故に遭い負傷した人の数は46万715名でコロナに感染した人数の何と42倍近い割合である。
自殺者は自らが死を選んでいるため比較対象にはならないかもしれないが、交通事故は自らが望んで遭っている訳ではなく、注意を払いながらも遭遇してしまっているのだから、コロナ感染と同じであるとも言える。
感染するウイルスと交通事故を同じ土俵に上げて論じるなと言われそうだが、これを自然界が人を間引く手法の一つだと捉えれば本質的には変わりはないと思えるのですねぇ。
何故この様なことを言うのかといえば、自殺者・交通事故死者の数の方が遙か多いのにも拘らず、こちらは余り問題にせず、何故新型コロナばかりを騒ぐのかと言うことにある。
騒ぎ過ぎる余り緊急事態宣言などを発したものだから、外出自粛で子供は親から「外に出てはいけないのだからTVゲームでもしていなさい」と言う。
この間までは「TVゲームなど止めて勉強しなさい」と言われていたのに、大人の身勝手さは一体何なのだと思ったことだろうし、景気対策で金を使え、金を使えと言っていた政府が外に出るな、飲食するな(金を使うな)と言い始めたのだから、さて良く似た話ではないでしょうか。
しかしここまで日常生活や経済を冷やすどころか冷凍にしてしまっては、もう直ぐに元のような状態には戻れまい。
小さな商店や飲食店などは廃業に追い込まれ、やがてコロナ倒産やコロナ自殺者が増えてきて、感染死亡者の数を上回るようなことになったら、本末転倒な政策であったと笑われそうであるが、そうなりそうな気配が既に漂ってきている。
日本の税法は税先取りの酷税となっていて、事業者に金銭的な余様を持たさないから、この様な事態に遭遇すれば事業者はひとたまりもない。
僅かばかりの金額を支給して貰っても大火のコップ水で、どれほどの役に立とうかと思うばかりであるし、これは国民の借金となるのだから何と言えばよいのかねぇ。
天下り先に垂れ流す莫大な金額と無駄とも思える部分がある高額な議員報酬・大企業並みに優遇されていても市民の為には働かない公務員の待遇に加え特定の業者にのみに工事などを発注する仕組みこそコロナ以上に国民を苦しめていることを当然の権利としている間は「国民の為・市民のために働いている」とは言うな!と言いたいし、この金を国民に還元していればこの様な事態が起こっても何とか持ちこたえる事も出来たであろうに。
しかし、私にとって良いこともありまして、それは新聞の折り込み広告が毎回1・2枚になったので処分が楽になったことでしょうか。

話を元に戻しますと、過去のことを言えばコレラなどの病原細菌の致死率の方が遙かに高かったけれども、現在では病原細菌による病は科学と化学の発達により殆ど克服してしまい、月に行って帰れるほどの技術力を持つ様になったものだから、人間が思い上がってしまい、何でも出来るし世の中全てが安全で安心なのだと錯覚しているだけである。
確かに化学や科学の力である程度の自然を克服することは出来たが、如何に化学や科学が発達しても自然に逆らうことは出来ないことへの自覚を失くした悲劇であろう。
その証は津波・洪水・ガケ崩れ・大地震よる建物崩壊などで多くの死傷者を出したのは記憶に新しい、つい最近のことですよ。
そしていつも言われることが「想定外でした」であるが、想定外の事を起こすのが自然であることを忘れているのである。
75年前に終結した大東亜戦争で死亡した数は300万人を超えるが、それでも日本は滅びなかったではないか。
決して人命を軽視しているわけではなくて、人が自然と共に共存して行く中では今回のようなことが起こること事態が自然なのだから、過度に騒いだり過剰な反応をしてはいけないと思うだけである。
どのように注意しても気を配っていても人は病に罹るときは罹るし、死ぬ時には死ぬ。
病になりたいと願ってみてもなれない、死にたいと望んでみても死ねないのが人であり、地上の生きとし生けるもの全ての定めである。
それは命そのものが自然であるからに他ならないのだから、人は覚悟と自覚を持って生かされている間の生を全うする以外に道は無いということである。
取り留めの無い文になってしまいましたが、十億単位の金銭を使ったと言われているアベノマスクの2枚が未だ届きませんし、たった2枚で何日持たすのだろうか・・・。
そう言う私はマスク1枚を1週間使い回していますが、何ら不自由も異変も感じません。
 もう一つおまけに異学説を唱えてみます。
欧米での感染者はアジアに比べると圧倒的に多いようであるから、その差は何によるものだろうと考えてみた。
日本でも人口が集中している大都市に感染者が多いのも事実で、比率から捉えればある意味当然と思われるが、北海道を除く山陰側に感染者が少ない(人口も少ない)のと、岩手県は感染者が一人もいないのは何故だろう・・・と素朴な疑問が湧いた。
世界的に見ても性別・血液型による感染者の比率を調査し発表しているところはないようだから、関連性は薄いのかもしれないが、そこで、異学説です。
感染者が多い欧米や日本の大都市では「乳製品の発酵食品を食する人が多い」方や山陰地方などでは「野菜・魚貝類の発酵食品を食する人が多い」この食習慣による体質と関連しているということは無いのだろうか?チーズやバターなどを日常的に食している人の体質は新型コロナウイルスに好まれ、漬物や味噌・醤油などを好んで食している人の体質は新型コロナウイルスに嫌われるのではなかろうかと思いましたが、何の根拠もありません。

反社会的思考に近い酔った龍の戯言になってしまったかも・・・お気に触ればお許しあれ。




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