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建築家 潤 の『独断と偏見』

「酔龍の独り言:その007」

 昨年カード被害に遭った金額は先日郵貯銀行から直接貯金通帳に振込みがありまして、実質の被害は無かったことになりますが、このようなコソ泥のような輩の被害が防げない社会も困ったものだと思います。

 さて話は変わりまして、昨年のこと私は12月24日をもって古稀になりました。
ご存知のように自動車運転免許証は高齢者になると「高齢者講習」を受講するようにとの通知が来ます。
私にも漏れもなく誕生日の1ヶ月前までに通知が来まして、近隣の自動車学校にて「講習」を受けることになりましたが、案内の通知には講習内容についての記載はなく、講習を受けることができる曜日と時間帯に加え費用についてのみの記載だったと記憶しています。

交通安全協会からの通知なので、仕方なく講習の申し込みをして講習日を決め、2週間余り後の講習日当日に自動車学校に出向き、受付にて手続きを済ませて講習料の五千円程度(であったと記憶しています)を支払い「高齢者講習」なるものを受けることになった。
当日は私を含めて十数人の高齢者がこの講習を受ける予定のようで、案内された講習室では最初に簡単な「何故高齢者講習なのか」の説明がありまして、その後は二種類の機械を使った視力検査が行われたので(高齢者講習で視力検査・・・?)不思議な感覚を覚えました。
そして講師なる人物が言うことには「結果として目が悪いとか急激な明暗の変化に対して視覚の反射が遅いとかで免許の更新に支障があるわけではありません。ただご自身の視覚状況がどのような状態にあるかを認識しておいていただければ結構です」との話をしたものだから、余計にこの検査に重要な意味があるとは思えなかった。
目の検査が終了した後は免許の更新に至るまでのこの五年間で道路交通法に係る法令の改正などがあればその話があるのかと思っていたのだが、何と今度は自動車学校以内の施設である運転コースで実施運転をするのだというではないか。
それも教官を助手席に座らせてその指示通りに運転をするのだというのだから、まるで仮免試験のようなものである。
しかし、ここでも講師が言うには「普段通りで運転してもらって結構です。脱輪してもポールを倒しても別段構いませんし、それで更新に支障があるわけでもありません」なのだから、この「高齢者講習の目的」は一体何?の疑問が更に湧いてきた。
そして自分の順番が廻ってきたので、いよいよ運転する羽目になりました。
もう十年程前に車を手放してからは年に数度の運転を僅かな時間する位で日常の運転は殆どと言ってよいほど運転をしていないけれど、昔とった杵柄で難なくコース内の運転を終えました。
これで「高齢者講習」は終了となり不思議な思いをした数時間でした。
終了証明書を貰って帰途に着きましたが、帰りのバスの中でも「一体何の目的での講習内容だったのだろう・・・」の疑問が拭い去れず、ひねくれ者の私が想像した考えは次のようなことに至りました。
 近年の少子高齢化に加え、若い人の車離れで(理由は車の所持には費用負担が大きいし、所得も少ないから・・・のようである)、現在新たに運転免許取得に来る若者の数は団塊の世代の私達の時代と比較すれば激減している。
公認の自動車学校は、ある意味都道府県が管轄している免許センターに勤務していた定年退職者の受け皿になっている所でもあるから自動車学校には何とか収入を得て貰わなくては困るのであろう・・・人数が多い団塊の世代辺りに講習を受けさせれば十分な収入が見込めるので、これで何とか収入源を補えるではないか・・と目論んだのであろう推測した。
自分達の権益を何とか守ろうとして国民に負担を強いる役人の考えそうなことである。
間違っていたら大変申し訳ないことであるが「高齢者講習」の内容から推察してみてのことなので、恐らく外れてはいないと思います。

 そしてその後、仕事との兼ね合いを見計らって運転免許センターにて運転免許証の更新を行いました。
まず受付に始まり、目の視力検査(今回もこの為だけに眼鏡を新しく購入しました)を受け、免許証用の写真撮影が終わって暫く待っていると案内があり、長いこと待たされたけれどやっと優良運転者講習が始まるのか・・・と思って案内された所に行くと更新後の免許証が手渡され「これで終了ですからお帰り下さい」と言うではないか!?「講習はないのですか?」と尋ねたところ「高齢者講習を受けておられるのでありません」の返事が返ってきた。
「高齢者講習」は目の検査と実施のコース内運転だけだったので、道路交通法に係る法令の改正がその後あったのか無かったのかも解からずに帰途に着きました。
何なのでしょうか、この一連の流れは・・・高齢者は道交法の改正などについては自分で調べなさいと言うことなのですね。
さて、インターネットが上手に使える高齢者がどれほど居るのか判りませんが、何やっているのか理解出来なかった「高齢者の運転免許更新」でした。

最後に私事を・・・今年のお年玉付き年賀状の当選番号を調べてみたところ、2等の下4桁が当選していました(今年はありませんでしたが下3桁の当選は何度か経験があります)。
また、これまでに「暑中見舞い用のカモメール」で1等当選の経験が一度だけありますが年賀状では始めての下4桁当選です。
このようなことは宝くじと一緒で偶然のなせる業の結果ですから、当選したので素直に喜こんでいます。



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「双龍物語:第一章・戦地へ」

 逮捕留置されたにも拘らず、誠は己の心に照らし合わせて何ら恥じることなど無いとの信念があり、その後も仕事に励みながら熱心に布教活動も続けていたのだが、日本を取り巻く世界情勢は一段と厳しくなり、昭和十六年十二月八日真珠湾攻撃で口火を切って、日本はアメリカに宣戦布告を行い戦争に突入する。 
 開戦当時から暫くは日本軍の連戦連勝で国中が湧きかえっていたようであるが、数年が経って戦局が次第に危うくなりかけた頃、誠に三度目の召集令状が届いた。
と言うのも、誠はこれまでにも召集令状を二度受け取っているが、徴兵検査の段階でいずれも不合格となっていたのである。
想像の域を出ないが、誠の身長は一五五センチ程度しかない小男で体型は痩せ型の上、心臓が弱く子供の頃に肋膜炎を患っている経緯があってのことなどが原因で、これまでは徴兵を免れていたのではないかと思われる。
しかし戦況が徐々に逼迫し、悪化する状況となっては、何が何でも兵隊を集めなければ・・・と思い始めた日本軍は小男であろうが多少病弱であろうが、もうお構いなしの徴兵となっていたのであろう、今回の徴兵検査では見事に丙種合格となって戦地へ向かうことになったのである。

 誠にまで召集が掛ったと言うことで、家族・親族に加え「大本」の信者を巻き込んでの大騒ぎとなり、話が地域の信者全体に伝わって行くのにそう時間は掛らなかった。
その中に昔の日本ではよく見かけた世話好きな女性の信者さんで山脇さんという方が話しを聞きつけ、すぐに誠を訪ねて、こう話を切り出した「誠さん、あなたが戦地へ行くんなら、そりゃあ聖師さんに会うて、お陰を貰わんにゃあいけん。うちも一緒に行くけえ京都に行こうやぁ」突然の話ではあるが、巨大な組織となっていた当時の「大本」では、いくら古くからの信者といえども、そう簡単に「王仁三郎」に面会できるとは思えないので、恐らく世話好きなこの女性は「王仁三郎」に会える特別な人脈を持っていたのであろうと思われる。
誠の方も「聖師」さんに会えるのなら・・・と直ぐに申し出を受けて、京都に行く日時や手筈を山脇さんに委ね、その支度や準備を整えている内に出発当日がやって来た。
 京都に向かう汽車の中で、誠は二度も徴兵検査で不合格になったにも拘らず、今回戦地へ赴くことになったと言うことは、恐らく激戦地であろう・・・との不安が頭を過っていた反面「聖師さん」と直接会える期待に胸は高鳴り、複雑な心境であったが、お節介なご婦人のおしゃべりで気が紛れたことは救いであった。
約半日ほど掛けて汽車は京都駅に着き、二人は山陰線に乗り換えて亀岡を目指し、亀岡駅より十分程度歩いて「大本」本部へ到着した。
受付で山脇さんは「今日聖師さんにお会いする約束で山口県から来ました山脇です。日向(ひゅうが)さんをお願いします」と告げると、少し甲高いその声が届いたのであろう日向さんが奥の方から出てきて「やぁ山脇さん遠くからご苦労でしたねぇ待っていましたよ。さぁこっち、こっち」と手招きで二人を迎え入れ、他の人に何やら耳打ちをして使いに出したようだった。
事務所の奥に通されて、出されたお茶を戴きながら、道中でのことや、誠のことにことについて雑談交じりの話をしていたら、先ほど使いに出された方が戻ってきて「聖師さんがお待ちですこちらへ・・・」と事務所を出て「王仁三郎」の下へ案内をしてくれたのである。
誠達は案内されるままに従い、歩いて5分ほど離れた場所にある「王仁三郎」の執務室へ通された。
部屋の入り口まで来た時には誠の緊張は極限にまで達していたが、入り口を開けてもらい、伏し目がちに部屋に足を踏み入れると同時に「王仁三郎」が「やぁ良くお見え下されました。待たれましたか?」と声を掛けてきた。
誠は顔を上げ「聖師・王仁三郎」の方へ目を向けると、穏やかな笑みを浮かべた「王仁三郎」の姿がそこにあり、やっと直に会えた・・・ただそれだけでこれまでの緊張は一気にほぐれて感激と幸福感で心が満たされてゆくのが判るほどであった。
一方「王仁三郎」の方は事前に誠が来ることは知らされており、出生地なども聞き及んでいたから「やれやれ、やっと来てくれたか、さてこの若者を死なすわけにはゆかないのだが、上手く助けられるかいなぁ・・・」と心で呟きながら誠を見つめて「三田さんでしたね。召集されたと伺いましたが・・・」と言いかけると、傍から山脇さんが「そうなんです。これまでに二度も召集令状が届いたんですが、徴兵検査で不合格となっていたのに今回は丙種合格になって・・・」と口を挟んできて「それで、聖師さまにお陰を戴きに参りました。何とか宜しくお願いします」と誠に代わって想いを伝えてくれる。
すると誠を見ながら「聖師・王仁三郎」は誠の行く末を瞬時に見通してのこと「そうですか・・・さて、三田さんあなたは大変なところに行くことになりますが、何とか命だけは助けてあげましょう・・・」と言いながら「何かさらしのような布は無いか」と付き人に声を掛けたが「金物・布類など全て軍部に供出して何もございませんが、紙なら少しは・・・」と返事が返ってきた。
「紙か、紙ではダメだ。白い布なら何でも良いのだが・・・」と「王仁三郎」が口にすると、山脇さんが突然着物を脱ぎ始め「白い布なら長襦袢でもいいでしょう。これを使って下さい」と長襦袢を脱いで裂き始めようとした。
それを見るなり、お付の人は「ちょっと待って下さい。それなら鋏を持ってまいりますので」と鋏を用意してくれ、山脇さんはその鋏で以って切る巾や長さを「王仁三郎」に聞きながら、大凡で裁断を始めた。
その間「王仁三郎」はおもむろに脇机に置いてある硯に手を伸ばし、硯の蓋を取って墨を磨り始めていた。
「こんなもんでいいですか」と裁断した長襦袢を「王仁三郎」に見せると、「王仁三郎」は「うん、いいんじゃないか」と手を伸ばして腹巻になりそうな巾で裁断された襦袢を受け取った。
墨を磨り終えた「王仁三郎」は床に襦袢を広げて筆を取り、おもむろに和歌を書き始めた。
誠は正面から「聖師・王仁三郎」の筆先を目で追いながら何が書かれるのか読み取ろうとしたけれど、良く判らない字もあり首を傾げながら書き終えるのを待った。
誠が読めなかったのには訳があり、当時の知識人なら通常に「変体仮名」を交えた和歌を詠っていたので、学問に疎い誠には過ぎたものであったかも知れないが、和歌の内容を現代文で記すと「大君の家のみ盾と えらまれて いくさのにわに立つこの若人」と詠んであり、その下には漢文で「忠勇義烈 皇軍萬歳」と記されてある。
また和歌の横には薄い文字で「月」と添えられた文字があるのだが、これについては推測の域を出ないが、もう少し後にその意味をお伝えしようと思う。
そして「聖師・王仁三郎」は襦袢を床に置き祝詞(のりと)を唱えながら、拇印を押し始めた。
・この長襦袢は今も現存しており、いずれ機会があればこの写真を掲載しようと思っています・真剣な顔つきで祝詞を唱えながら拇印を押す「王仁三郎」の姿を見て、誠はどうやら大変な激戦地に行かされるのだろうと、また絶望的な気持ちになったが「聖師・王仁三郎」の「命だけは助けてあげる」の言葉を信じ、かろうじて平静を保っていた。
 拇印を押し終えた「聖師・王仁三郎」は「これを肌身離さず身に付けて下さい」と襦袢を誠に手渡し、戦地へ赴く労いの言葉を掛け、最後に「命だけは大丈夫だからね」と念を押してくれた。
 
 「王仁三郎」が書いた和歌の意味は「天皇家を守る盾となる為に選ばれて、戦に赴くこの若者」であり、漢文(詩)の方は読んで字の如く、漢字の持つ意味そのままである。
また薄く書かれた「月」の意味は、どうやら誠に「つき(幸運)」があるようにとの意味であろうと想像ができる。
と言うのも「王仁三郎」はよくこの様な粋で洒落たことをやっていたというのだから、まず間違いはあるまい。
 そして、この様に他の誰の目にも触れることはなかろうと思われる腹巻に書かれた和歌から推測すれば「王仁三郎」の心情は天皇家と日本を守りたいとの信念を持っていたことを伺い知ることが出来るけれども、不敬罪などの罪を着せられ数度の大弾圧を受けているのだから、いつの時代も権力を振るう立場にある者は見識の低さに加え、心の貧しさが故に生じる猜疑心や恐怖心に怯えるのは人としての性であろうか。
誠はこれ以来この襦袢を腹巻として使用し、復員するまで肌身離さず身に付けることになるのだが、不思議なことは、誠が激戦地フィリピンから生還できたことと、詠まれている和歌の文字には、誠の命を助けるなどの文言はどこにも無く、ただ「つき(幸運)」の文字が添えてあっただけだから、真に誠の命を助けた「おかげ」の正体は「聖師・王仁三郎」が祝詞を唱えながら押した「拇印」ではないかと考えている。
この襦袢に押された「拇印」はこれまでに何度も洗濯をしている経緯もあり、薄れてしまって少し判別し難い状態になってはいるが、襦袢に書かれた文字と調和が取れるように二十箇所余りちりばめて押されていたように記憶している。 
 何故「王仁三郎」は山口県の片田舎から来たこの若者にそこまで肩入れしたのであろうか?
との疑問が湧いてきて不思議ではあるまいと思うが、その理由は高齢に差し掛かっていて、余命が短いことを自覚していた「王仁三郎」は次なる一手を模索していたのであろうと思われる。
「王仁三郎」は既にこの時には日本が戦争に負けることも、東京を始めとして日本全国が空襲の嵐に曝されること、広島・長崎に得体の知れない爆弾が落とされ、日本が米国に占領されることも知っていたのだから、「龍族(ここでは詳しい説明が出来ないので、話が進むに連れて少しずつ解かり易く説明を加えようと思っている)」の一員である「王仁三郎」は自分の代では、もはや世界の平和は叶わないことを悟り、次へ託す準備を考えていた。(尤も、東京の大空襲などは既に明治から大正時代に渡って書かれた「開祖・なお」の「お筆先」によって予言がされている。)
信者の数が百万人を超えるほどの巨大な宗教団体を組織し、人とは思えぬほどの霊能力を持ちながら、我が想い(役割)を達成できなかったのだから「龍族」としてこの世に出された役割を次へ託すことを真剣に考えていたと言うことであろう。
しかし、その役割が誠であったわけではなく、誠を使って次なる作戦の計画を立てようと企んだに違いなく、その企みとは次の世代に「龍族」の一人をこの世に顕わして「その役割を委ねことにした」との記述があるから、誠をここで死なすわけにはゆかなかったと言うことになる。
亀岡で「聖師・王仁三郎」から「おかげ」を貰った誠は山脇さんと共に京都を後にし、山口県への帰途についた。
帰りの車中で誠はこれから向かおうとする戦地は一体何処になるのだろう・・・などの様々な想いや妄想にも近い想像が目まぐるしく頭の中を駆け巡り、不安と恐怖で逃げ出したい衝動に駆られたけれど「聖師・王仁三郎」の「命だけは助けてあげる」の言葉を思い出し腹巻に手を当てて、大丈夫だ「聖師さん」が約束してくれたのだから・・・と自らに言い聞かせて自分を納得させなければならない心情は赤紙を受け取り戦地へ向かおうとする本人以外には判らないであろう。
大畠に帰ってきた誠は早速出征の準備に取り掛かったものの、数日の間は出征祝いと称した地域での送別会や親族を交えた大本信者による激励会が催されて慌ただしい数日が続いた。
当の誠は不安を抱えながらも戦地へ行く準備を整え終えて、明日には今生の別れとなるかも知れない家族と、ごく親しい大本信者数名を交えた最後の晩餐を共にしたのだが、その場でうっすらと涙を浮かべながらも微笑みを絶やさなかった母ヲトミの姿が痛々しく感じられ、不安でいっぱいとなっている誠の胸を更に痛めたのであった。
翌日の朝いよいよ出立のため駅に向かうと、そこでは既に大勢の人が集まっていて、幟や旗が用意され盛大な見送りが準備されていた。
列車が到着するまでの間、皆から励ましの言葉や「立派に戦って死んでこい」などの手痛い言葉を受けながら皆に別れを告げ、御礼を述べていたところへ列車が到着し、世話人の方の発声による万歳三唱の声と汽笛を背に誠は汽車に乗り込み集合場所の駐屯地へと向かった。

駐屯地に着いた誠は配属先の部隊に合流すると、上官から「三田君、君には帝国陸軍上等兵の位を授ける」と言われ、軍の経験など全く無い誠は恐らく二等兵であろうと想像していたにも拘らず「上等兵」と言われたので意外に思っていたけれども、後になって聞かされたのだが、どうやらその理由は中学を出ているからということのようであった。
それからの誠は駐屯地で少しの間、基礎的な軍事訓練を受けさせられた後に船でフィリピンに向かったようだが、既に制海権は危うい状態に差し掛かっていた状況下において、米国潜水艦の標的となって狙われ、撃沈されずに無事フィリピンへ到着できたことは幸いであった。
とは言うものの、制空権も同じく危うき状況となっていたのだから、とても順風満帆の航海であったとは思えないが、駐屯地からフィリピンへ到着するまでの口述された記憶や記録がなく、詳細な内容をお伝えすることが出来ないのが残念です。

 フィリピンに到着した誠は第十四方面軍の指揮下にあってルソン島に駐留していた連隊(所属の連隊や部隊名その設営場所なども聞かされていたのかも知れないけれど記憶に留めていません)の高射砲部隊に配属され、射手として戦闘に参加することになった。
今となっては当時フィリピンに配属されていた全部隊の兵数を詳しく知ることは出来ないが、5個師団を上回る兵数が配属されていた記録があるので、少なくとも5万人以上の兵数がいたと思われ、米軍は圧倒的な物量を背景にこの大部隊の兵力を全滅させる目論見を持って攻撃目標としたためフィリピンは猛攻撃の標的とされたのではなかろうかと思われる。
その中で誠が所属した連隊は総勢6千名を擁し、直属の高射砲部隊は三百名ほどであったと聞かされている。
そして、この日を境に誠のフィリピンでの戦闘生活が始まったのである。

配属された部隊の基地は比較的海岸線に近い密林を切り開いたところに設営されていて、施設の状況は粗末ではあったけれども司令棟に兵舎・厨房・食堂施設・小さな病棟など一通りを備えた前線基地であった。
またこれらの施設に面してちょうど学校の運動場のような広場をも持っていたが、流石に弾薬庫だけは密林の一部を旨く偽装して隠していたということであった。
配属されて暫くの間は戦闘もなく広場で体操や教練を行っていたものだから、本当にここは戦地なのだろうかと思えるくらいに平穏な日々が続いて少し気も緩みかけていた中、ある日突然グラマン(当時の米軍戦闘機名)が数機飛来して基地内に機銃掃射を浴びせながら突入してきたものだから、けたたましくサイレンが鳴らされ「戦闘配置!」の号令とともに全員が戦闘態勢に入ったけれども反復攻撃はなくそのまま飛び去っていったので、皆は戦闘にもならず拍子抜けしたと言っていたが反復攻撃が無くてその後も何度か同じ様なことが起こったことから想像すると、恐らくフィリピン全土における日本軍の戦闘能力を目視で調査・写真撮影するために偵察部隊の一部が来ていたのであろうと考えられる。
効率よく攻撃するためには他からの情報のみに頼らず、直接に偵察を行い見聞きした情報を収集し全体の作戦を組み立てて、その上で局地的な戦闘に関する作戦を練っていたと考えられるので、これでは軍備に加え燃料・食料が不足気味であった日本軍が勝てるわけがない。
余談になるが、この当時からアメリカ軍は、こと戦争に関しては中国の古書「孫子の兵法」や「六韜(りくとう)」などまで研究していたというのだから脱帽ものである。
それに対して日本軍の戦争に対する姿勢は精神性を重視したお粗末極まりないものといっても良かろうと思えるけれど、ミサイル攻撃が主体となっている現在でもペンタゴンはいまだにその研究を続けているというのだから流石に他国の軍隊では真似のできない探求心だと感心する。
当時の戦争の作戦を立てた日本の官僚は、作戦を立案すると作戦の期間を定め、兵数・武器・弾薬・食料まで緻密に計算して、その通り実行させようとしたというのだから、作戦の一部が予定通りに進まなければ、これらの内のいずれかが当然不足してくることになるけれども、それは全く考えなかったということだからねぇ、これでは国を離れ異国の地の最前線で戦っている兵士を見殺しにするに等しい行為と思えるが、過去も今も日本の官僚の考え方とはこの姿勢なのだろうから、頭脳があまりにも明晰すぎて何事に関しても旨く行かずに失敗するかもしれないという「失敗」の文字など彼らの頭脳の中の辞書には無いのであろう。
 さて話を誠に戻すと、その後の二ヶ月余りはグラマンの飛来も無く平穏な日々が続き、教練の合間には皆で相撲を取ったり騎馬戦に興じたり、それぞれの故郷の話をするなどして戦地へ赴任し、戦争に来た感など全く感じられなかった様子であったという。
そして誠はといえばこの数ヶ月間で何度も施設周囲の偵察を命じられて出かけていたのだが、誠のお人好しの人柄もあってのことか、いつの間にか現地の人達と顔見知りになり、次第に打ち解けてことばまで交わすようになっていた。
そういうこともあってのことか現地の人が前線基地にも度々遊びに来るようになっていたというのだが、しかし穏やかな日々はそう長くは続かなかったのである。
良く晴れたある日の朝のこと、突然と爆撃機や戦闘機の編隊が部隊の遙か上空を飛来して来たものだから、すぐさま臨戦態勢が敷かれ、高射砲部隊の射手である誠は密林の中に配置されている高射砲に飛び乗って上空へ向け何発もの砲弾を打ち放ったが、この日は一機も撃墜することは出来なくて悔しい思いをしたと酒を飲みながら話していた。
だがその日を境に毎日のように同じ方向に向けて護衛戦闘機を伴った爆撃機の編隊が飛来するようになり、いくら高射砲を撃とうが全く応戦をしてこないので、誰もが不思議に感じていたようだが、恐らく米軍は十分な偵察を行った上で作戦を立てた結果、まず最高司令部を叩くことから始めたと考えられ、前線の小部隊など眼中にも無かったという事であろう。

その後何度か戦闘機が飛来してきたことがあったけれども、ただ基地の少し上空を通過するだけで機銃掃射を浴びせるわけでも無く爆弾を落とすことも無かったが、次第に戦況の雲行きが怪しい状況となって行く中で不運にも誠はマラリアに感染して高熱で苦しみ医療施設のベッドに寝かされていた。
元々病弱体質の誠にとってフィリピンの高温多湿の気候風土は肌に合わなかったことにも拠るのかもしれないが、マラリアに対する十分な抵抗力を持ち合わせていなかったということだろう。
また当時のことだから特効薬など無い時代なので治りは遅く、意識も覚束ないほどの高熱が何日も続いていたところへ突然サイレンがけたたましく鳴り響いた。
廻りから「敵機来襲!敵機来襲!」の叫び声が聞こえてくるも、身動きが取れない状態なので、きっと医療班の誰かが来てベッドで寝ている誠を連れ出して一緒に避難させてくれるだろうと思い、少しの間待っていたけれども、誰も病室まで来て助けてくれる気配は感じられない。
誠はこのままここで寝ていたらこの建物が機銃掃射を受けるか爆弾を落とされるかもしれないとの不安が過ったけれども体が思うように動かない。
数分間の慌ただしい騒動が治まると周囲は静寂に包まれたかのような静けさとなったので、どうやら医療班の連中は我先にといち早く防空壕や密林の奥へと避難してしまい、部隊の全員も避難を終えたようで、誠は病棟に一人置き去りにされ絶体絶命の窮地に陥ってしまった。
そして妙に静かになった中、遠くの方から数十機と思われる戦闘機の爆音だけが耳に入ってくるだけ、そして段々とその音が大きくなってくるのである。
意識も覚束ない状態でありながらも恐怖に駆られた誠は意を決してベッドから這うようにして床に落ちて起き上がり、何か杖になりそうなものはないかと周囲を見渡すと、何に使う目的なのか判らないけれど壁際に立てかけてある背丈より少し長めの竹竿のようなものが目に入った。
 「これこそ天の助け!」と思いながら竹竿の所まで這って行き、それを手にして渾身の力を込めて立ち上がり「早く防空壕まで行かなければ・・・」と棒に体を預けながら一歩を踏み出した。
戦闘機の爆音は大分近くまで来ているように感じられたが、そんなことよりも早く建物から離れなければ・・・の思いが誠の体を動かし、何とか広場の真ん中の辺りまでは辿りついたのだが、そのまま意識を失い白衣を着たままうつ伏せに倒れこんでしまった。
 どのくらいの時間が経ったのだろうか、誠が意識を取り戻した時には既に爆音は消え去り、少し離れた辺りから叫び声にも近い怒号が耳に入ってくるだけであった。
今の状況はどうなっているのかを確かめたくて誠は仰向けになり空を見上げると空は青さでいっぱいの美しさが広がっていて「ワシは助かったのか・・・」と安堵の思いと同時に体に別段痛みを感じないから機銃掃射も受けなかったのだろうとほっと胸をなでおろし、ただただ「良かった」の思いだけが心と体の中に満ち溢れていた。
暫くすると避難していた者達が誠を見つけて「三田上等兵殿大丈夫だったんですね。良かったです。」と近寄ってきたが病人を置き去りにして自分達は逃げておきながら「大丈夫だったんですね」は無かろうと思ったけれども、今更そのようなことを言ってみたところで始まらない。
傍に来た二人が誠の両脇を抱えるようにして立ち上がらせくれたので周囲を見渡せば病棟の建物は爆撃を受けなかったようで無事に建っていて、密林の少し入った辺りから三本の黒煙が上がっているのが目に入り、そちらの方から大勢の声が聞こえてくるので「あれは何で騒いでいるのか」と聞くと防空壕の一つに爆弾が直撃して中に逃げていた者全員が死んだのだと聞かされ、もしマラリアに感染していなければワシは防空壕に逃げ込んでいただろうから、そこで死んでいたかもしれないと背筋が寒くなる思いがした誠であった。




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「酔龍の独り言:その006」

 明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。
私事ですが昨年12月に同月10日付けのクレジットカード利用代金請求書が届いた。
このカードは郵貯銀行とマスターカードが連携して発行しているカードでキャッシュカードとクレジットカードが一体になっているものなのだが、私は一度もこのカードを使用して物を買ったり、融資を受けたことがない。
しかし、明細書を見てみると11月13日に2件・同14日に一件の利用がされたことになっているではないか!そしてその3件の合計金額は¥11,976-でカードが使用された場所はロンドンとなっている。
一体誰が私のカード情報を盗んだのか?キャッシュカード以外に使用した事がないのに何故何処から情報が漏れたのか不思議で仕方がなかったが、これ以上犯罪者を増長させないためにも引き落としを阻止して被害を食い止めようと思い、日曜日ではあったが年中無休と書かれていたので利用代金請求書に記載されている会社に電話を入れ被害にあっていることを伝えて、引き落としを止めるよう依頼し、また同じ事が起きるかもしれないのでクレジットカードの廃止を申し込んだ。
翌日の月曜日には郵便局に行き同じく被害の状況を伝えて、カードの廃止と新しいキャッシュカードを申し込んだ。
これで、不正利用された代金の引き落としは無くなると言うことだったので安心していたのだが年末の31日ATMで貯金通帳の記載をしてみると、不正利用されていた金額が引き落とされているではないか!被害金額は大した額ではないけれど結果的に犯罪者を擁護してしまったことに対しての憤りが湧いてきた。
何のためにクレジット会社に連絡を入れたのか全く意味がなくなってしまったのである。
年が変わり6日の月曜日に郵便局に行ってこの状況を伝えたところ、郵貯銀行ではクレジットの引き落としを止めることは出来ないので、クレジット会社の方へ申し込まなければダメだという。
だから、その件に関しては被害が判った時点で直ぐに引き落とし中止をクレジット会社に申し込んだにも拘らずこのようなことになっているし、郵便局窓口でも「これで、引き落としはされないんですね」と念を押したところ「はい大丈夫です」との返事であったことを言ってみたが郵貯銀行ではクレジットの引き落としを止めることは出来ないと言うのである。
まあ何と無責任な発言であろうか・・・と思うが、局長も出てきて「被害の保障もあるようなので・・・」と言いながら心配をしてくれ、クレジット会社の対応に協力してくれた。
その結果クレジット会社の対応者が「後ほど被害の係りから連絡を入れさせますので・・」とのことで現在連絡を待っているところである。
 しかし、一度も使用したことのないカードの情報が一体何処から漏れたのかが一番の関心事項で、なんとも恐ろしい世の中であることを実感した。
この様な事故が起こることを承知の上で政府はキャッシュレスを推進しているのは何故なのか?それもポイント還元などの誘いまで仕掛けてやっているのだから、きっと何らかの企みがあるに違いないと思うが、本当の思惑とは一体何なのだろうか?誰か教えて下さい。
 この用な目に遭ったので、他のクレジットカード(最近ではデパートや量販店などでもクレジットカード付きの専用カードを勧めてくるので数枚持っている)の融資金額と使用限度金額を引き下げることが出来る話を聞いたので、直ぐに各会社に申し込んで使用限度金額を下げる手続きをしておきましたが、どうか皆様も気を付けて下さい。
明日は我が身かも知れませんし、一端このようなことに係りあうと手続きがとても面倒でその対応にも腹が立つし、生産性のないことに時間を奪われ良い事など何一つありません。

 
話は変わりますが、昨年のことニュースで知ったのですが、中村哲さん(医師)がアフガニスタンで銃撃を受けて亡くなったと言う悲しい報道を聞いた。
この報道を聞くまで情けないことに彼が長きに渡り、官の支援を受けずにアフガニスタンで現地の方々の支援をしていることを知らなかった。
傲慢で金儲けのことばかりに血道を上げている医者が多い日本の中で、海外にまで出向き真の支援をし続けていたことに頭が下がる。
その海外が何故アフガニスタンであったのかについて詳しくは知らないけれど、きっと何かの縁があったのであろうと想像する。
彼が支援していた内容を報道で知りましたが、これに比べると政府のやっている海外支援など彼の功績に比べると質の低さが目立つように思うのは私だけであろうか。
彼のような人物にこそ国民栄誉賞や勲章を授けるべきであり、スポーツ選手や長きに渡り官の仕事をしていた人に与えるべきものではあるまいと思う。
スポーツ選手は己の欲と名誉のためにやってきた功績であり、官の仕事は自らが手を挙げて国の為国民(市民)の為にとやってきたことである。
国民栄誉賞や勲章に値するとは思えないのだがねぇ。
ひねくれ者の私だからこのように考え捉えるのかも知れないけれど、本質を見ればどちらが正論か解かりそうなものだと思いますけど・・・。
と言う事で、今年も宜しくお願い致します。

余談になりますが、本稿を書いている時に新年の挨拶回りで仕事仲間が訪ねて来ました。
カード被害に遭った話をすると「実は私も現在覚えのない請求が来ている」と言うのです。
カードの会社は航空系だと言っていましたが、被害額は¥8,000-程度でメールでの通知が先に来たので請求書が来てから対応すると言っていましたが、このように身近な出来事になっていますので、本当に気をつけて下さいと言ってみたところで防ぎようが無いのだから困ったものである。そうしている内に郵貯銀行から電話が掛かってきて「被害額は直接銀行口座に振り込みます」との知らせであった。
小額ではあるけれど、金銭的な被害としては無くなりましたが、この様な社会が本当に便利で快適な社会と言えるのでしょうか?何処かで行く道を間違ったしか思えません。



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「酔龍の独り言:その005」

 少し前にスウエーデン在住の10代の少女が地球温暖化による気候変動の危機を訴える防止活動を始めていて、国連で演説をした記事が大きく取り上げられていた。
この少女は日常の移動に伴う交通手段でも飛行機には乗らず、鉄道や船を利用していると言い、飛行機は大量のCO2を排出するので、講演先のアメリカに向かう手段としてヨットを使って大西洋を横断するということが報道陣達に受けたのであろう。
確かにヨットでは殆どCO2の排出は無かろう、しかし大西洋を横断するには15日も掛けなければならず、数名の乗組員やヨットの手配に加えて、それに掛る人件費を含めた費用をどのように考え捉えるかが論点から抜け落ちてはいまいか。
ヨットなど一般人が通常の移動手段として利用するには余りにも現実離れしているのに、この部分は蔑ろにされているし、飛行機が大量のCO2を排出するのは事実として、しかし所要時間は乗客2百名以上を乗せて、僅か1日足らずであろうと思われるのに、一般人にとってヨットは非現実的として、もし千名以上が乗船可能な客船で移動するとすれば一週間程度を見込まなければならいのではないかと考え、それに必要な動力が排出する乗客数一人当たりのCO2量との比較検証もしないで、この話題を取り上げる報道者達の軽薄さには呆れてしまう。
地球温暖化の犯人は人間が便利さを追求することによって生じるCO2の排出であろうと言われているが、これは消去法による結果であって、確証では無いとの説もあるようです。
結果CO2が地球温暖化の真犯人だとして、その大量輩出の元凶は間違いなく「車」であると私は考える。
車一台と飛行機1台が年間に排出するCO2の量はとても比較対象にならないだろうが、全世界のそれぞれの稼動の台数を掛け算すれば圧倒的に「車」のほうが多いように思われる。
この報道はある意味話題性があるだけで、未だ無知な子供が一面だけを見ての行動を必要以上に賞賛する報道者の姿勢はとてもいただけるものではありません。
(念のため申し添えますが、この少女の活動を否定しているわけではありませんからね)

最近「双龍物語」に力が入り「酔龍の独り言」が疎かになっていましたので、今日は一気に書き上げます。
 少し前にまた新しい「宝くじ」ハローウインの発売が開始された。
テレビの宣伝も盛んにやっていましたが、芸能人や落語家を起用し「買わないと言う選択肢は無いやろう」とまで言わせていましたが、因果関係から言えば確かに買わなければ当たらない「宝くじ」ですが、結果から言えば買っても当たらないのが「宝くじ」です。
それは皆さんも良くご理解しておられることと思いますが、金の無い一般国民の射幸心を煽り、今以上に金を集めようとする自治省のいやらしさは如何なものであろうか。
宣伝に出演している芸能人や落語家には2等か3等の当たりくじ程度?いやそれ以上の金額が支払われているかもしれないのに、それでも買いたくなるのを射幸心と言うのだそうですよ。
 
何度も同じことを口にすることになるけれど、今回の関西電力経営陣のお粗末さと矜持のなさには呆れてしまい、言いようの無い寒々しい気持ちになってしまいました。
商売には「三方良し」の原則があると一昔の事業家は言っていまして、確か「客良し・店良し・自分良し」だったと思いますが、お客に喜んで頂き、店(看板や社員)に対しても恥ずかしくなく、それから最後に店主である自分も良い状態を維持することが商売の基本であると言う意味だそうです。
一人で商売(事業)を始め、仕事と金の苦労に人の苦労、役人の股の下を潜るような思いを強いられる状況を何十年にも渡って続けながら築いた信用と育ててきた社員が何ものにも変えられない財産であると自覚しているからこそ、自然と己の心の中に「矜持」のようなものが湧き出てくるものなのだが、苦労が全く無いとは言わないけれどもサラリーマン社長にはこれが無いし、してきた苦労の質が全く異なることの理解は到底できまい。
だから「越後屋お主も悪よのぉ~」が通常感覚を逸脱している事柄であるにも拘らず、単なる謝礼であり、風通しを良くする為に仕方なくしたのだとの方便が罷り通って居直れる。
重ねて言うが「特に大企業の経営者・役人」は世人の手本となるべき事業形態と人格を現わさねばならず、立身出世を果たした人物や権限を持って人の上に立つ立場にある者の「義務」であると思いますけどねぇ。

 安部総理の今回の台風19号の被災地・被災者に向けた発言をテレビで聞いたが、その内容は確か「省庁から150名を被災地に派遣して復興の支援を行うようにしていますし、復興には7億円の予算を組んで・・・・」であったと記憶している。
省庁の役人が被災地に行ってボランティア活動をするというのなら、総理の発言は有難いと思えるのだが、現実はそうではなくて、役人が被災地に行くと言うことは地方の自治体に行くことであり、被災地に足を運び被災状況を見て、直接被災者と会って現状の不便や困りごと、要望を聴いてその手助けをすることではないのだ。
被災を受けた自治体は中央省庁の役人が来れば接待をしなければならず、それに時間を取られてしまっては復興業務が疎かになることにも繋がるだろうから、返って迷惑なことと思っていることだろうと想像する。
組まれた復興予算7億円も何日居るのか判らないけれど、役人の出張旅費(日当として課税対象外)と旅費・宿泊費で幾ら消えてゆくのだろうと思うと情けなくなる。
片や日本中から集まっている支援のボランティアの方々は旅費・宿泊費を含め全てを手弁当で持って泥まみれになりながら活躍しているし、外国のラグビー選手は試合が延期になったからと言う事で、やはり泥まみれの顔をテレビに映していた。
これが日本の政治と役人の仕組みを見事に物語っていると言って良い現状ではなかろうか。
綺麗で美味しいところだけ役人はつまみ食いをし、汚くて重労働の部分は国民の善意に甘えている現状では、きっと恥ずかしいと言う意識など持ち合わせてはいないのだろう。
「越後屋お主も悪よのぉ~」を口にする悪代官を懲らしめるため「この印籠が目に入らぬか!」の決め台詞を言う黄門様は現在の千代田町にも桜田門の辺りにも居ないのだから世も末だということだ。

消費税が10%となって、複雑極まりない課税方式に商店も消費者も困惑している現状下であるが、ペイペイなどと言う訳が判らない支払い方式だと消費税の一部が還元されると言う政府の方針には何が目的なのか輪をかけて判らない。
カード会社への利益誘導なのかスマートホンの普及が目的なのかもあやふやで、これらを普段使用していない年寄りは戸惑っているけれど年寄りは、だからと言ってカードを購入(するものなのかしら)?したり俗に言うガラケーをスマートホンに替えたりはしない。
現金での支払いとカードやスマートホンを使っての支払いに何の差があると言うのだろうか?何故現金の支払いだと消費税の還元が受けられないのか、政府の真の目的とは一体何なんだろう。

 NHKのニュースでの話しですが、経済面で株価などを知らせる囲みがある。
外国の為替やアメリカでの株価は口頭で伝えるが、日本の株価は画面で表示されるだけである。
これは何故?だろう、私は株を扱うことが大嫌いなのでどうでもよいことではあるけれど、盲目の人が株価に興味を持っていたら不親切だと思うがねぇ。
副音声で知らせているのかもしれないが、日本の報道社が日本の株価を口頭で伝えず、アメリカの株価は口頭で伝えるのは何か深~い理由でもあるのだろうか。

 最後に女の教員が後輩(イケメン?)を同僚と一緒になって苛めていた件などは現在の日本の恥部を象徴しているような事象ではあるまいか。
真偽は定かでないけれど、中年女の欲情が発端で悋気によるものだろうとの記事を目にしているが、生徒の虐めが社会問題なっている中で同僚を巻き込んでのこの行為はとても看過できるものではないし、大人として恥ずかしい気持ちが生じないのだから呆れてしまう。
またその者を指導監督する立場にあるはずの教頭・校長が取っていた対応や処置も記事で読んだけれど、税金で生活を成り立たせている地方公務員の自覚も無い輩達と言われても仕方の無い有様で、これでは生徒による校内の虐めを無くす事など出来るはずもなかろう。
これが大人と言われる立場の人物が構成している今の日本である。
良き昔の日本は一体何処に行ってしまったのであろうか。
これに関連しているかどうかは判りませんが、NHK朝の連続テレビ小説は少なくとも過去数件共に高視聴率を維持しているようです。
そして、その時代背景は全て戦前から戦後に掛けての物語となっていたことに気付いておられるでしょうか?貧しくとも物が無くとも不便であったけれど生き生きとして人が人として生活していた良き時代であったから皆がその心を取り戻したい、あの時のような社会に戻れるものなら戻せたいと思っているからではないでしょうか。
余計なことを一言言わせてもらえれば、現在の連ドラの題名は「スカーレット」欧米人の女性の名前ですよね。陶芸家を目指す日本の女性が主人公なのに何故この題名なのだろう。



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「双龍物語:序章」

大東亜戦争(第二次世界大戦)終戦間際の頃、三田 誠上等兵(二十九歳)は歩兵銃を手に持ち、背嚢を身に付けフィリピンのジャングルを一人で彷徨っていた。
当ても無く歩き続けている中、少し先の木立の隙間から小石が敷き詰められた河原が見えたと感じたとき、突然背後から銃声が聞こえた。
瞬間右手首に焼け火箸を当てられたような感覚を覚え「撃たれた」と思ったので、思わず銃声がした方向を振り返ると、歩兵銃を持った日本兵らしき人物の姿が眼に入ってきたが、そのままジャングルの奥の方へ逃げていった。
恐らく背嚢に食料が入っていると思って撃ったに違いないと想像したものの、もう何日もまともな食べ物を口にしてはいない体は衰弱しきっていて、すでに歩けるような状態ではなかったが、何かに誘われるような感覚で出血する手を庇いながら河原の方へ歩いていった。
 やっとの思いで小石だらけの河原に辿り着いた時には体力も気力も失せてしまい、ばたりと河原に倒れこんでしまった。
まだかろうじて意識はあったが、銃声を聞いたのであろうか現地民が数名近寄ってきて、血だらけになった誠を見ながら「三田、何かして欲しい事は無いか」と声を掛けてきたので、見ると顔見知りのフィリピンの人達であった。
もう数年激戦地フィリピンで米軍と戦って来ていたが、原住民との交流では良い関係ができていたからであろう、正に死に絶えようとしている誠を見て、哀れみと、人としての良心がそうさせようとするのか、末期の水を取ろうとしてくれているのである。

 もう意識も覚束ないほどの状態になっていたが、誠は「それじゃあ、この背嚢の中にコーヒーが入っているので、コーヒーを飲ませてくれ」と伝えると、空き缶を探してきて川の水を汲みコーヒーを入れてくれている気配を感じながら、数分がたっただろうか、大好きなコーヒーの香りが漂ってきた。
これで最後か・・・と覚悟を決めかけようとしていた時のこと、薄れ行く意識の中で、何やら英語の話し声が聞こえたような気がしたのだが、そのまま意識を失ってしまった。
 
 どのくらいの時間が経ったのだろうか・・・意識を取り戻した誠の目に映ったものは建物の天井であったが、瞬時に我に返り、腹の周りに手を当てて、長い戦いの中で一時でも肌から離したことの無い、命より大事と思っていた「さらし」を探したが、その感触が無い。
我を忘れて「さらし」を探そうと周りを見渡せば、どうやら病室にいるようで、右手を動かそうと思えども手が出てこない。
利き腕を失った衝撃と見当たらない「さらし」に気が動転した誠は、大声を上げて騒ぎ始めたところ、悲痛な叫びに近い声を聞きつけた白人の看護婦が病室に入ってきた。
状況がまだよく飲み込めないままに、身振り手振りで腹の周りに手を当てて「さらし」の行方を看護婦に訴えると、寝かされているパイプベッドの頭の部分にかけてあるものだろう・・・と理解してくれ、そこを指差してくれた。
後ろを振り返ると、そこには洗ってきれいになった「さらし」が干すように掛けてあり、それを見た誠は安心したかのようにまた深い眠りに落ちた。
翌日の朝、比較的穏やかに目を醒ました誠は失った利き腕のことを思うと絶望的な気持ちになりながら、少しずつ戦地に赴くまでのことを思い返していた。

先に誠の生い立ちについて話せば、明治生まれの父「乙次郎(おとじろう)」と母「トミ」との間でこの世に生を受け、長女「スガ子」を頭に七人兄弟の二番目に生まれ、長男として誕生したこの夫婦唯一の男子であった(後に次男が誕生するも生後直ぐに他界している)。
父の乙次郎は若くして事業に目覚め、製氷業を営むようになってからは比較的裕福な生活環境を持っていて、山口県の瀬戸内海に面した小さな村内ではあったけれども、当時選挙権を持っていた三人の内の一人であったというから田舎の名士の内に入っていたのであろう(他の二人は村長と造り酒屋の主)。
しかし、この乙次郎は背が高く体は屈強な上、随分とやんちゃな性分で、酒は飲むし無類の博打好きとして通っており、広島県の三原市にまで博打を打ちに出かけていたというのだから、当時既に山陽本線が開通(明治三十四年)していたとは言え、相当の好き者であったということだ。
 ある時、三原の博打場でのこと、負けが込んだ遊び人の博打打ちの一人が負け金を払えなくなり、乙次郎にこう話しかけてきたという。
「金の都合がつかんので、わしの妹を差し出すけえ、これで堪えてくれんかのう」面倒臭いことになったと思いながら、乙次郎は仕方なくその妹を連れて帰ったものの、扱いに困り、近所にある「うどん屋」で暫く働かせていたが、後に嫁にしたということなので、何とも・・・といったところか。
 このような夫婦の下で生まれた誠は病弱体質で、心臓が悪い上に肋膜炎を患ったりしたものだから、近所の雀連中からは「まだ生きちょるかねぇ~」と言われるほどであったと言うのだから、よほどの虚弱だったということになろうが、その後戦争で片腕を失いながら八十九歳の天寿を全うしたのだから、人の生き死にだけは神のみぞ知ると言うことになろうか。
そんな誠は女ばかりの姉妹の中で甘く大切に育てられつつ、病弱ながらも海に遊び山野を駆け巡って尋常小学校を卒業・中学校[ 柳井商業学校(現山口県立柳井商工高等学校)]へと進んだ。
中学生[ 現高校生 ]となった誠は学友達と柳井市街をうろついていた時のこと、果物屋の前を通りかかった時に何ともいえない良い香りが漂ってきたので足を止めて香り先を探し始めた。
するとその香りは、どうやら巨大な「松かさ」の形をした物から出ているようで、店主に聞くと、これはパイナップル(パイン・アップル・松りんご)と言い、南洋産の珍しい果物で、とても甘くて美味しいものだと聞かされた誠は思わず衝動買いをしてしまった(当時のことだからかなり高価ではなかったかと想像できるので、やはり裕福であったのだろう)。
悪ガキ一同は早速このパイナップルと言うものを食べてみようと近くの海辺まで行ったものの、どのようにして食べるのか聞くのを忘れていたので、皆で思案を巡らせたけれど判るわけがない。松かさの形をしているので、ウロコ(鱗片)とウロコの間に「松かさ」には種があるから、そこを食べるのだろうということになって、小刀を出してウロコを剥がし、その根元の部分を食べてみたが不味くて食べられない。
皆口々に「あの親父に騙された。今度文句を言ってやる」と不平を口にしながら不満たらたらの中、腹立ただしく思った短気な誠は手にしていたパイナップルを海に放り投げた。
であれば猿の方がまだ知恵があろうというもの・・・ただこのことだけで誠の知能はこの程度であったものか、なかったものかを推し測ることは出来ないが、青春の一齣であった。
柳井商業学校を卒業した誠は大阪にある汽車製造株式会社(現・川崎重工業株式会社)に入社し、社会人となったが、それ以降は大した病気にも罹らず比較的平静な日常生活を送っていた。
休日のある日、誠は大阪の繁華街へ遊びに出かけていた時のこと、通りを歩いていて、ふと街頭易者と目が合ってしまい、何気なく前に置いてある蜜柑箱に座った。
別に何かを占って欲しかったわけではないのだけれども、易者の言うままに生年月日と名前を紙に書いたところ、当たり障りの無いことを話し始めたので、誠は「それはそうと、わしは将来大恋愛をして結婚したいと思うちょるんじゃが・・・」と言うと、少し間を置いて易者は「う~ん、そりゃあダメだね、あんたは嫁になる相手が決まっているから、あんたの思い通りにはならん」と言われた途端に短気の虫が頭を擡げ、何だ!この野郎・・・と急に面白くなくなり憤慨した誠は金を払ってその場を立ち去った。
このように左程怒る事にも思えないことでも、癇に障ると直ぐに怒りを表すほどに短気な性分ではあったけれども、何とか無難に会社勤めを続けることが出来たのは幸いであった。
その一方、誠は性格的というか心情的といえばよいのか判らないけれど、身内に対する情合は異常とも思えるほど深かったので、岡山に嫁いだ姉の家や東京の親戚を度々尋ね、故郷の山口県大畠村へも何かにつけて帰省していたようだが、誠の情合は少し偏狭的であった。
 勤めて数年が経った盆休みに誠が帰省したある日のこと、子供の頃より短気な性分に手を焼いていた母トミは誠にこう話し始めた「誠や、おまえの短気には本当に困ったもので、中々直りゃあせん、それでなぁ柳井に立派な人がおるそうだからその人のところへ行って話を聞いてみたらどうかいねぇ」。
そのように自分の欠点を指摘されて、はいそうですかと素直に従うような誠ではないので、ぐずぐずと屁理屈をこね回し、生半可な返事で持って何とかその場を誤魔化そうとしていたのだが、誠の将来に不安を感じていたトミはしつこく誠に食い下がって引こうとはしなかった。
結局根負けしたのは誠の方で、嫌々ながら渋々その人物に会いに行ったのだが、この人物との出会いが後の人生を大きく左右し、戦時中に不思議な体験をする切っ掛けになろうとは夢にも思っていなかった。

 その人物とは広島県神石郡神石町出身の知団(ちだん)さんと言い、年齢は誠より十歳ほど年上で、九州博多管区の国鉄職員として連結士(列車同士を繋ぎ合わせる業務)をしていたが、勤務中に右足関節より下を事故で失い、業務復帰が叶わなくなったところを国鉄側の計らいで誠の実家がある国鉄山陽本線大畠駅の売店業務を任されていた方であった。
また知る人であれば、彼のことを悪く言う人など一人もいないほどに評判の良い人物でもあったようで、渋々だった誠が柳井市中塚にある知団さんの住まいを尋ねたところ、知団さん夫婦は初対面の誠をとても優しく迎えくれたことや、招かれた家の中が綺麗に整理整頓されている状況を見て、誠は評判通りの良き人物であることに疑いを持つわけにはゆかなかったし、初対面にも拘らず少し話を聞いているうちに直ぐに地団さんと打ち解け、心が穏やかになってゆくのが判るほどであった。
と言うのも、知団さんの話はとても理にかなっていて、誠に通じ、正に迷える子羊にとっては天空から救いの蜘蛛の糸が降りてきたかのように感じられたのかもしれない。
知団さんに魅入られた誠はこの後、知団さんご夫婦に勧められたこともあって「大本(教)」に入信し、信者となって活動するようになり「大本(教)聖師・出口 王仁三郎」と出会う切っ掛けとなる。
知団さんは本業の傍ら「大本(教)の柳井支部」に属し「宣伝使(キリスト教の宣教師のような役割)」をされていて、熱心に布教活動を行っていた。

ここで大本(教)について、概略の説明をすれば、明治二十五年、後に大本(教)教祖となる「出口なお」は、くず拾い(であったと聞いている)で何とか生計を立てていた極めて貧しい文盲の女性であったが、突如神懸りとなり「お筆先(神が語る言葉)」なる文字を「なお」の意思とは無関係に手が勝手に書き始めたことに端を発し、狂人扱いされるも、その内容はこの後日本が辿ることになる姿を現した予言書であった。
またこの頃、同じくして神の啓示を受けた「上田 喜三郎」は導かれるように「なお」と出会い、暫くして娘婿に迎えられて「出口王仁三郎(でぐち おにざぶろう)」と改名し、「なお」が開祖、「王仁三郎」は聖師と称して明治三十一年に大本(教)の組織を作る。
昭和に入った頃には信者を百万人以上擁するほどの組織となり、信者の中には多くの知識人や大臣級の政治家・陸海軍の将校に加えて皇族なども名を連ねていたが、国家による数度の大弾圧を受け「なお・王仁三郎」共に投獄されるなど不遇の時期を乗り越えながら、日本が大東亜戦争に負けないようにと中国に渡ってまで活動していたが終戦後の昭和二十三年一月「仁三郎」はこの世を去っている。
余談になるが、過去には弘法大師も相当の霊能力者であったようだが、出口王仁三郎ほどの霊能力者は後にも先にも人として現れることはなかろうと思えるほどであったと言う。
二十年以上も前の曖昧な記憶だが「巨人 出口王仁三郎」という本が出版されていて、この本を読めば、かなり詳しく彼のことが書かれているので、興味のある方は是非一読をお勧めする。
また現在日本にある新興宗教の開祖は当時「出口王仁三郎」の弟子であった者が多いことも事実である。
※(インターネットで「大本(教)」を検索すれば客観的事実と比較的詳しい内容が掲載されていますが、記述者の主観による説明が多く、的を射ているかは疑わしいのだが興味のある方は調べてみて下さい。)
 大本(教)に入信し、信者となった誠は知団さんの勧めるままに大本(教)の本を読み、先達の方々の話を聞きながら勉強し、知識を深めていった。

大阪に戻った誠は、持ち前の気の良さに加えて多少お節介なところがあり、その性分もあってか誠自身も大本(教)の宣伝使となり布教活動を始めたようで、布教活動をしていると意外なことに会社にも大本(教)の信者が数名いることが判り、その方達と共に勉強会を開いて更なる知識を深め、時には大本(教)本部から講師を招いての講話会まで行っていたようだから相当の入れ込みようで、京都の亀岡・綾部にある大本(教)本部にもよく参拝していたようである。
そのせいでもあろう、自分が良いと思ったことは強引に他の人にも押し付けるようなところがあった誠は姉妹六人を全て大本(教)に入信させている。

そのような中、大本(教)が数度の大弾圧を受けた際には、大本(教)の幹部に加え日本全国にいる信者達にまでも官憲の手が及び、誠も二度逮捕され留置所に拘束されているが、その時はさして厳しい取調べもなく、ただ布教活動の内容や他の信者の名前などを聞かれた程度で、一週間から十日程留置されていただけであったという。
と言うことは上意下達を受けた官憲が事件の良し悪しや罪状の十分な吟味も行わず、大本(教)の信者で布教活動をしているというだけで逮捕しているのだから、時代が移り代われども公務員とは人としての判断を持って行う仕事が許されない気の毒な職業であろうか。
また本星である大本(教)に対しては特別な罪状がないものだから、言い掛かりにも等しい無理やりな罪状を作り上げ、必ず何かがあるはずだの信念の下に大本(教)の幹部を根こそぎ逮捕して取調べをしているところを見ると、大本(教)が余りにも巨大な組織になってしまったことを恐れた国が国策捜査の一環として厳しく取締りを行った結果であろうことは容易に想像できるが、いつの時代も国家権力のやることは後に嘲笑されるようなことをやるものである。

話を元に戻し、歴史を遡れば、既に明治時代の頃には英国を始めとする欧州の各国は東南アジアを殆ど植民地にして、多大な資源をほしいままにしていたが、その矛先は次なる清国(中国)へと侵略の魔手を伸ばし始めていたところまできていた。
清国(中国)と朝鮮が植民地となれば、次はわが国が標的となるのは火を見るより明らかなことだから、欧米による植民地化を恐れた日本は大東亜共栄圏なる構想を打ち立てて、昭和十二年七月七日支那事変(日中戦争)に突入し、欧米に対抗しようとするも、朱子学に毒された清国・朝鮮共に共存同盟・工業国化への提案を受け容れようとはせず、中には敵対勢力も生じて、いよいよ日本が米国との開戦へと、きな臭さが漂ってきた頃となっていた。

補足説明・文中「大本(教)」と表現してあるのは、宗教組織としての正式名称は「大本」なのだが、宗教の(教)を補足しなければ判り辛いと思い(教)を敢えて加えてきましたが、以降「大本」と表現します。



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