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建築家 潤 の『独断と偏見』

「双龍物語:第五章・幼少期の五・可愛くなかった幼少の潤」

 寒くなり始め、日の落ちるのが早くなる季節であったと記憶している。
学校から帰ってランドセルを放り投げ、友人たちと夢中になって遊んでいたが暗くなってきて皆が口々に「もう帰ろうやぁ」と言い出したので、潤も仕方なく家路に着いた。
両親は共働きなので、この時間ではまだ家に帰っていないことが判っている潤は「やれやれ、家に帰ってから何したらええかのう・・・」と心の中でつぶやきながら「ただいま」と声を出して玄関の引き違い戸を引いて家に入ってみたが「お帰り」の声は無く、家の中は真っ暗である。
「そりやぁそうじゃろうて・・・」と思いながら掘り炬燵に足を突っ込んで少しの間一人茶の間で待っていたが炬燵の中は冷たくて暖が取れない。
自分で練炭に火を熾してみようと考えてはみたが、練炭火鉢は重く、まだ火の扱いが上手く出来ない潤は瞬時にこの考えは捨てた。
止むを得ず火の気の無い掘り炬燵に掛けてある布団から顔だけ出して両親が帰ってくるのを待っていたが、残業にでもなっているのであろうか中々両親は帰ってこない。
暫く辛抱すれども、やはり火の無い炬燵は寒い上に段々と腹も減ってきて「早く帰って来いや!」と叫んでもみたが、野良犬の遠吠えに等しく何らかの良き変化などが起こるはずも無く、ひもじさと寒さで少し涙が滲んできた。
小一時間も経っただろうか、相次いで両親が帰ってきて滋子は「お腹すいたろう・・・直ぐ支度するけえね」と言ってくれたが、その時の両親の苦労など解かるはずも無い潤の口は「いつまでこんな生活が続くんかねぇ」と口にしてしまった。
瞬時に滋子から「何を言うかこの子は!親が一所懸命に働いちょるいうのに!」ときつい口調で言葉が返ってきた。
恐らく親自身が潤と同じような感覚を持っていたのだろうと感じ、少しバツの悪い気持ちでいたところ、夕餉の支度をしながら両親が話をしている中で「○○さんのところがねぇ、・・・」と○○さんの家で起こった大きな不幸について話し始めた。
話を傍で聞いていた潤は思わず「そんなに可哀想じゃ言うんなら、助けて上げたらどうなんね」と口にした。
するとまたもや「何を言うかこの子は!私らぁに助けられるわけがないじゃろう」と又きついお言葉が返ってきたので「助けられんのなら可哀想々言うてもしょうがないじゃあ」とまた余計な口が滑った。
恐らく親にとっては痛いところを突かれた気持ちになったのではなかろうかと想像するが、この時に潤は「ふん、それならワシは大きくなったら助けられるようになってやるわい」とまるで根拠ない妄想を描いたが、その日の夕飯は喉を通り難くまずかった。
しかし、この時にはもう妹と弟が生まれていたはずなのだが、傍にいた記憶が無いから、この日は祖父の家で叔母達に面倒を見てもらっていたのかもしれない。

 夕飯を食べる時に誠はよく戦争の体験談(序章にある不思議な体験に加え、いかに優秀で勇猛な兵隊であったかの自慢話)と聖師「王仁三郎」に纏わる話をしていたが、性格は一概で意固地なところがあり、価値観や考え方の調和が取れず、どこかが欠けているように潤は感じていた。
と言うのも、ある時の夕食が大御馳走のすき焼きで、ワクワクしながら食べ始めた時、野菜籠の中には白菜や大根・葱などの他に春菊が入っていた。
春菊は苦味があるので子ども達は手をつけないでいたところ、誠が潤に「春菊は旨いんだから食べろ」と言いだした。
「これは苦いから食べれん」と言ったところ誠は「こんな旨い物が食べれんのんか」と上から目線(これは親だから仕方が無い)で春菊が食べられないことを卑下したように言ったものだから、そう言われた潤の口から思わず出た言葉「それじゃあ お父ちゃん、お父ちゃんが(「あんた」と言った様な記憶があるのだが)ワシと同じような子供の頃にこの春菊を食べて、これが本当に美味しいと思ったんかいね?」と反論したところ、子供の頃を思い出して美味しくなかったことの記憶が甦ったに違いなく黙ってしまって何も言わなくなった。
潤は「まだ子どもの口じやぁ美味しくないんよ。大人の口になったら美味しいと思うようになるんじゃないかねぇ」と付け加えた。
「あぁ旨かったよ」と言えないところは誠が正直者である証ではあるけれど、自分が良かれと思っていることは見境無く相手に無理やり押し付けるところがあったものだから、潤はこの後も少し苦労をさせられる羽目なるのだが、春菊については三十代辺りから食べて美味しいと思えるようになり、今では鍋物に春菊が無ければ物足らないように感じるまでになりました。

 余談になりますが、誠の珈琲好きは間違いなかったようで、休日の朝は必ずパーコレーターで入れた珈琲とパン食であった。
パーコレーターから漂ってくる珈琲の香は子供の潤にとってもそれは悩ましいほどの良い香がするのだが、いざ口にすると苦くてとても飲めたものではなかったので砂糖を沢山入れて飲んでいたように記憶している。



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「双龍物語:第五章・幼少期の四」

 このバイオリンを習う教室は同じ村内にあるお寺の一室を提供して行われていて、高齢と思われたバイオリンの先生は他の地域から週一回教えに来ていた。
そこの住職の嫁さんが母「滋子」と同じ小学校の教諭をしていたことからの縁で自分の子供達にも習わせようと思ったようで、嫌々ながら通っていたのだが、ある日のこと習いに行くと、家に入るとたまたま部屋にいた住職が急に呼び出されて部屋(教室ではない)から出て行った。
その部屋はいつも自分達の稽古の順番が来るまでの待機する部屋であつたのだが、たまたま住職が出て行った後の机の上に何やら不思議な道具が残っていた。
2本あるゴムのチューブの先端にはプラスチック製の突起が付いていて、その根元には同じく丸いゴム製の圧縮・吸い込みを行うようなものが付いていて、これは洟を吸い出すものではなかろうかと思った潤は好奇心に駆られて両先端を鼻にあてがい丸い部分を押してみた。
すると鼻の中に何か入ってきた瞬間、これはここの親父(住職)が使ったままが置いてあったんだ、これは何か少し危ないかも・・・と不安が過ったけれど、子供の頃である、大して深刻にも考えず、時が過ぎてゆくと案の定六年後には慢性副鼻腔炎と診断され、手術を受ける羽目になってしまった。
その後数十年の間で計3回副鼻腔炎の手術を行ったけれど、完治に至らず現在も不快な状態が続いているし、数年に一度くらいの割合で、鼻の横が腫上がり猛烈な痛みを生じることがある。。
 子供が大勢やってくる教室なのだから、好奇心でいっぱいの子供は何をしでかすか解かったものではない事くらい、人の道を説く坊さんでもある大人がその配慮すら出来なくてどうする・・・と言いたいが、既に手遅れである。

 丁度同じ頃だったと記憶しているが、潤は誠に犬を飼いたいとせがんでいたところ、二ヶ月程経って職場の部下から貰ってきたのだと、真っ黒い子犬が潤の手元にやって来た。
潤はもう嬉しくて、嬉しくて「クロ」と名前を付け、学校から帰ったら毎日一緒に遊んだ。
そんなある夏休みの日、潤はクロを連れて海を見ようと波止場に出かけていたところへ野良犬がやって来て、クロと喧嘩になった。
潤はクロを止めようと間に割って入り二匹を離そうと手を出した瞬間、野良犬が潤の手の平に横から噛み付いた。
その痛みと思いがけない反逆にあった潤は大声で泣き始めた刹那、傍で雑談をしていた漁師の一人が野良犬の足を捕まえて海に放り投げた。
野良犬は「キャイーン」と声を上げたが「ザブーン」の水音と共に一瞬海に沈み浮かんできた途端犬掻きを始めていたが、潮の流れが激しい海域である(大畠の瀬戸は鳴門に次ぐ潮流の速さで、渦の名所でもある)その後この犬が岸に到着したか潮に流され海の藻屑になったかについては定かでないが、手の甲を見ると犬に噛まれたところは唾液と犬の毛にまみれて穴が開き無残な状況を呈していた。
漁師達は潤の方を見て「ぼくは何処の子かいのぉ~、野良犬に噛まれたんじゃけぇ狂犬病を持っちょったら行けんけえのぉ家に帰ったら親に話して予防注射を打って貰いんさいよ」と言ってくれた。
泣きながら家に帰った潤は家にいた叔母に野良犬に噛まれた事を話すと、叔母は直ぐに近くにある外科の診療所に連れて行き、噛まれた傷の手当と狂犬病の予防注射を依頼した。
幸いこの事故のあとは手の甲に傷跡が残っただけで特別な異常は出なかったが完治まで1ヶ月近くを要したので、大好きな海で遊ぶことが出来ず夏休みが台無しになってしまった。
クロとは二年余り一緒に遊んだけれどもジステンバー(犬特有の風邪)に罹ってしまい、獣医の手当ての甲斐なく死んでしまった。
悲しんだ潤は墓を作ってクロの亡骸を埋めようと、その場所を色々と考えた。
人がよく通るところが良いと聞いた記憶があるから畑に行く途中の道に埋めるのが良いかなぁ・・・・でも道は地面が硬くて自分では掘れないなし、墓標が立てられないからダメか・・・いや待てよ!人がよく通るところが良いというのは確か猫のことだった。
ではどうする・・・と思いあぐねて出した結論は畑の端の方に墓を作ろう・・・であった。
そうすればクロは最後に土に還って行くだろうし、肥料にもなろうと考えて、板切れに「クロの墓」と書き、スコップとクロの亡骸を入れた紙袋を持って畑に行き埋葬したのである。
だが、この後三十二年が経ってから、このクロが何者であったのかを知らされる時が来るのだけれど、この時の潤にはそのようなことなど知る由も無く、ただ悲しい思いだけが暫く続いたのである。



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「双龍物語:第五章・幼少期の三」

 潤はこのような事情で三年生になる直前の春休みに大畠にある村立神西小学校へ転校した。
転校した時の記憶は曖昧なのだが、小学生の間は漁師町の子供達とも良く一緒に遊んだ。
学校からの帰りには潮が干ていれば海辺沿いの砂浜を歩きながら、大型魚に追われて砂浜に打ち上がっている鰯などを拾ったり、蛸を探したり、潮が満ちていて海岸沿いを帰り道に出来ない日は山道を通ってアケビや棗(なつめ)山桃に加え、食べられる木の実を探しながらの季節に沿った下校は兎に角楽しかった。
ある日のこと、悪ガキの一人が「三田!今日学校から帰ったら山桃を採(盗)りに行かんかぁ、すごいところを見つけたんじゃけぇ」と誘ってきたので二言返事で「おう!行こう。そりゃあ どの辺にあるんか?」と聞けば「口じゃあ説明できんけぇ、お前の家に誘いに行くけえそれでえかろう」「おう、それじゃあそうしよう」ということになって、家に帰ってから植物の茎で作られた買い物籠を探して準備をしていたところへ、数人が誘いに来た。
皆は口々に「そりゃあのう、兎に角凄いんじゃ。赤いのと大きな実の白いのがあってのぉ、採(盗)り切れんくらいあるけえのぉ」と言う。
潤の心もわくわくしてきて、皆に先導されて十数分ほど山道を登っただろうか、両側を松や杉に囲まれた薄暗い細い道を通っていると悪ガキの大将格が「三田!ここじゃけぇ、この木よ!見てみいや凄いじゃろう」と言う。
山道から少し下ったところに大きい山桃の木があり、見たところ確かに大きな白い山桃が溢れんばかりに実をつけていて、少し離れた方にある木には小粒だが真っ赤な山桃が沢山見える。
「お~こりゃあ凄いのぉ。早よ採(盗)ろうやぁ」と口にしながら山桃の木に群がり登り始めた。
早速取った山桃を口に入れてみると香と共に甘くて瑞々しい味覚が口いっぱいに広がり「こりゃあ本当に凄いのぉ、よう見つけたのう」と言いながら、これを家に持って帰れば妹や弟が喜んで食べるだろうし、親もびっくりするに違いないと思いながら皆と一緒に夢中で買い物籠に山桃を採(盗)っては放り込んだ。
それから十五分も経っただろうか、悪ガキ仲間の大将格がいち早く人の気配を察したようで、小声で皆に伝えてきた「誰か来る!じっとしとけ!」の声で皆は木にしがみついて気配を消した。
と思っていたはずなのだが、下から聞き慣れた声で「潤坊落ちるなよ」と言われたので、下を見ると誠と滋子の二人がこちらを見上げているではないか。
思わず「ここうちの山なん?」と聞くと誠が「お~そうじゃ。皆落ちんようにせえよ」と言いながら畑作業に向かって行った。
何と言う不覚であろうか、よりによって「自分のうちの山に山桃を盗みに入ったとは・・・」他の皆はこれで怒られる事はなくなったと安堵したようであったが、潤はあれだけ美味しいと思っていた山桃が急に美味しくなくなってしまい、買い物籠いっぱいに取った山桃を悪ガキどもに分け与え、皆と共に帰った。
終戦後の昭和三十三年頃のこと、甘くて美味しいものなど滅多に口に入ることは無く、山桃の甘味は格別で良い木を見つければ夢中になって取りに行ったものだが、潤はこれ以後この山桃を採りに行くことはなかったが、二十数年後に潤の長男が小学生になった頃、子供に食べさせてやろうと思ってこの山桃を採りに行き食べさせてみたが不評で、潤も食べてみたけれど美味しいとは思えなかった記憶だけが甦ってくる。

この山と田畑は誠が戦時中に祖父に依頼して購入していたもので、田で米を畑で野菜と穀物を作っていたけれど、大所帯の胃袋を満たすほどの収穫は無かったようではあるが、一家の糊口を何とか凌ぐ足しにはなっていたようである。
また果樹や花を育てることが好きであった誠は畑の隅の方で枇杷・柿・無花果・檸檬・葉蜜柑・さくらんぼ・フェイジョアなど当時では珍しい果実も栽培していたし、住まいの直ぐ裏手は鉄道のプラットホームに隣接していて、その端子の方には小さな花壇が設けてあったのだが、手入れがされていなかったようなので、ちゃっかりとそこにダリア・カンナ・向日葵などの花を植えて楽しんでいた。
しかし、花壇の無断使用について何ら国鉄の駅員からの苦情は無く、ある意味汽車の乗客にとっては目の保養と季節の移り変わりを感じる花壇となっていたかもしれません。

 大畠で借家住まいとなった両親は夜になると両親と誠の姉妹が住む家に風呂を使わせて貰いに毎日通っていた頃の話である。
冬の寒い中、風呂で温まった体で家に向かっている途中のこと、家の玄関に近づいた時に足を止め、耳を澄ますと家の中から何かガタガタと音が聞こえてくるので「今家の中で音がしよる!あれは絶対おもちゃがおもちゃ箱に帰って行った音じゃ」と白い吐く息で親に伝えると、誠は「お~そうじゃろうて、潤坊が帰ってきたから遊んじょったおもちゃが急いで隠れたんじゃろう・・・」と話を合わせてくれていたが、聞かされている童話の中の話をそのまま今の自分に重ね合わせるような子供であった。
しかし音の正体は恐らく鼠で、人が近づく気配を感じ取って隠れた時の音であろうと想像する。

これは大学生になった頃に聞かされた話で、誠が言うには「お前が何をしたんかもう忘れたが、お前を氷倉の倉庫の大黒柱に縛り付けたんじゃ、そしたらお前は「出せ~バカたれ!」と泣き叫ぶんで「悪かったと謝れば許してやる!」と何度も言うのに絶対に謝らなかったから、こっちが根負けして氷倉から出したんじゃが、本当にお前は強情な子じゃと思った」と言っていたが、その時のことは記憶に残っていて「あ~それはわしも覚えちょる。じゃがのう、親父も何をしたかを忘れた言うんなら大したことじゃあなかったんじゃろうし、わしも謝らなかったというんだから、自分では悪いこととは思っていないことじゃったんよ」と切り返したら「まあよう解からんが、強情な子じゃと思うたよ」と言っていた。


それから一年後に
子供の頃育った大畠村は海と山に挟まれた細長い地形の村で、大きな川こそ無かったが、潤は魚釣りや虫取りが大好きだった。
大学生になった頃に、何気ない話の中で滋子から「あんたは小学生の頃、学校に行く前に竿を持って波止場で釣をしてから学校に行っていた」と聞かされ、そう言われればそうだったかも・・・と思うのだが、潮が干ていれば、貝を探して掘ったり、蟹(モズクガニ)やウナギを捕ったり、浅瀬の海に潜りサザエや蛸を取り、毎日々夢中になって海で遊んだ。
虫取りも大好きだったから夏場には蝉・トンボ・カブトムシ・クワガタを朝に夜に追い掛け回し、秋になると閻魔コオロギ・キリギリス・すずむし・クツワムシ・ウマオイを探して野畑を這いずリ回していた。
そのような中、とても教育熱心であった誠は子供達に科学図鑑(生物・動物・宇宙・科学など分野別に数冊)と少年少女世界文学全集(全二十巻以上あったと思う)を購入して与えた。
少年少女世界文学全集は就寝前に滋子が子供三人に読み聞かせながら寝かしつけるのが日課となっていたが、今でも記憶に残っているのが「ゼ・ミゼララブル(ああ無情)」で主人公のジャンバルジャンが教会に置いてある銀の燭台を盗み捕まるけれども牧師は盗まれたものでは無く彼に与えたのだ・・・の下りは今も忘れていない。

そして、小学四年生になる少し前の頃だったと思うが、潤にはバイオリンを習わせ、妹の栄子にはピアノを習わせる(絵画の先生について絵も習っていた)など、後から考えると裕福とは言えない中で情操教育にも十分なお金をかけて貰った事に感謝の想いと、とても有難いことであったとの想いが自然に生じてきて愛憎が複雑に交錯した記憶がある。
しかし、当時は遊びたい盛りだから稽古の日が近づくと窮屈な想いと不満ばかりが募っていた思い出でがある(四歳年下である弟の崇にも小学三年生頃から同じ様にバイオリンを習わせていた)。



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「双龍物語:第五章・幼少期の二」

 当時における柳井町の銀天街というのは近郊の町村から買い物客が多く集まる天蓋を持つ商店街で、長さにして500m位はあっただろうか、4m程度の道路の両側に様々な専門店を含む商店が軒を連ねていて、それはとても賑やかな通りであったのに、三十年前頃からではなかったかと記憶しているが、大型量販店の進出などの影響で一軒また一軒と商店が店を閉め始め、長い期間のシャッター街を経て、現在では一軒の建物も無くなり、少し広めの道路と河川公園に姿を変えてしまいました。
自然の原野や草原に戻ったわけではないけれど、あれほど賑わっていた光景を思い起こす度に芭蕉が詠んだ「夏草や、兵どもが夢のあと」の心境と重なってしまう。

 ただ、柳井町に新しい住まいを構えることになったところまではよかったのだが、問題が一つ生じていた。
それは滋子の母親ムメの妹である隆子とその娘が、別れた主人に付きまとわれて困っている状況にあったため、誠は二間の内の四畳半をこの親子の為に住まいとして提供したのである。
誠一家は奥の六畳に親子四人で住み、叔母親子は四畳半に同居するという、狭い中ではあるけれど何ともにぎやかな共同生活が始まった。
この頃滋子は建物を購入した返済のためか生活のためかは定かではないけれど、次男を身籠っているにも拘らず小学校の教諭として再び教壇に立っていた。
潤と栄子の二人は叔母に面倒を見てもらいながら、潤は金座街の奥の少し先にある幼稚園へと通い、園から帰ると柳井川に下りて行って川に入り、ススリン(うなぎの稚魚)を捕ったり、網で鮠(はや)・ハゼを掬ったりしながら、商店街の子供達と一緒に毎日々子供らしく楽しい日々を過ごしていた。
やがて次男「崇」が誕生し、潤も柳井小学校へ通うようになっていた頃には行動範囲も広がって、少し遠くにある用水路ともドブ川ともつかぬような中に入り、足に蛭をいっぱい付けながら小鮒や田螺を捕っては家に持って帰り、小鮒を飼いたいから水槽を買ってくれと誠にせがんだ。
もともと誠はこのようなことが好きであったのだろう、小さいけれどもガラスの水槽を買ってきて潤に与え、潤が水槽に砂を入れ水草を植えて小鮒が泳ぐさまを楽しそうに眺めている姿に目を細めていた。
このように潤は水棲動物が大好きで、誠に釣に連れてゆけとせがみ、夜になると柳井川にいる鰻が穴から出てきて休んでいる姿が見えているので土手から見釣をしたり、夏には川の上流に遡って蛍を捕まえたりと、片腕で何をするにも不自由であったにも拘らず、よく潤の我が儘をきいてくれた。
 これは潤が大学生になった頃に滋子から聞かされた話なのだが、小学一年の時に学校で知能テストがあった。
この時のテストについては、はっきりと記憶に残っている内容があり、それは円の中に迷路が書いてあって、それを入り口から終点まで鉛筆で線を引いてゆくものがあった。
その問題は合計で三問か五問あったような気がしているが、最初の一問目は入り口から線を引きながら終点に向かって鉛筆を這わせていたところ二・三箇所行き止まりに出くわすので、又戻りながら線を引き終点まで辿り着いた時にふとこれは終点から逆に出発点に向かった方が行き止まりに出会うことなく線が引けるのではないかと思った。
次の問題からは、そのようにやってみたところ全く迷うことなく線が引けてゆくではないか。
そのようなことがあって、全部の知能テストを終えたのだが、その日の夜に担任の先生が突然家を訪ねてきて滋子にこう言ったという。
「お宅のお子さんの教育はどのようにされているのですか」と聞かれた滋子は何のことか、さっぱり判らず「それは一体どういうことでしょうか」と問い返したところ「いや、お宅のお子さんの知能テストの結果があまりにも高いので驚きまして、それでどのような教育をされていらっしゃるのかをお伺いしようと思って・・・」と言われたそうだが、滋子は「いえ、特別なことは何もしていません」と答えたという。
仕事から帰ってそのことを聞かされた誠はこの子は先ではどのような子になるのだろうか・・・と期待と不安が生じたと言っていたようだが、結果的には潤の知能の高さは学問には反映せず、別な方向へ向かっていったようである。

 この頃にはまだほんの僅かではあったけれども商店街の中には裕福な店もあって、早々とテレビを購入した家があった。
当時の放送はまだNHKだけだったのではないかと思っていますが、近所の人達も一緒になってテレビのある家に集まり面白い番組だけを見せてもらっていたものです。
その中で時に記憶に残っているのが連続番組で「恐怖のミイラ」というのがあって、面白いのですが、子供の潤にとってはとても怖いものでした。
テレビを見終えての帰り道、商店街の店は全て入り口を閉め、電気が消えた薄暗い中を僅か数十メートルの家路がとても長く感じ、怖かった思い出が残っている。
 柳井小学校での思い出は2年生の終わりまでで、何の理由なのか解からないけれど、誠は柳井の銀天街にある店舗付きの住まいを同居していた義叔母に無償で与えて再び大畠に居を移したのである。
大畠の住まいは祖父母が住んでいる家から百メートルばかり離れた山陽本線上り側の線路沿いにある十五坪ほどの木造平屋で、どうやら遠縁の方の家を借りたようであった。
そして、その隣には祖父・乙次郎が若い頃に製氷業をしていた時の氷倉がそのまま残っていて、それは階高が異常に高く、中から見ると屋根に近い位置に小さな明かり窓が一つだけ設けてある気持ちが悪いほど薄暗い平屋の建物があった。
 何とか病魔から逃れることが出来た潤のその後は、誠が闇市で購入してきた粉ミルクや練乳で母乳の不足を補いながら、すくすくと成長していった。
そして数年後、父親の誠は久賀営業所の所長から課長に昇進し、柳井支店勤務を命じられたので、
取り急ぎ両親と妹五人が住んでいる大畠の家に居を移して同居することにしたのである。
この頃にはもう三歳となっていた潤坊は、同じ村内にあって、お寺が経営している幼稚園(保育園だったかも)に通うことになった。
季節は夏を過ぎ秋になった頃、幼稚園では運動会が催されるが、今と違って当時の小中学校を含む運動会と言えば村内の一大行事で、弁当を作り朝早くから運動場を囲むように筵を敷いて、それぞれの家の陣を構え、爺ちゃん婆ちゃんを始め家族全員が参加するのが一般的で、もうまるで祭りのような騒ぎであった。
運動会が間近に迫った頃、誠は潤坊にと新しいズック(運動靴)を買ってきていた。
真っ白な新しい運動靴で運動会に出してやろうとの親心であるが、日曜日となった運動会当日の朝、新しい靴を出して履かせようとしたところ潤坊は「先生が新しいズックやら運動着を着てきちゃあいけん。いつもと同じものを着て来い言うて言いよったんじゃけぇ、こりゃあいらん」と言って靴を履こうとしなかったと言う。
それでも誠は嫌がる潤坊の足に無理やり新しいズックを履かせて幼稚園へと向かったのである。
半べそとなっていた潤坊は嫌々ながら皆と一緒に運動場に腰を下ろし座ったところ、左右に見える足の靴はいつも通り薄汚れたズックで、自分のズックが真っ白いのに違和感を覚え、心の中で「それみろ!」と自分の言う事を親が聞いてくれなかったことに対しての不満が募った。
運動会の式次が次々と進んで行き、お遊戯が済んで、いよいよ駆けっこの時がやってきた。
しかし、走る順番が来たにも拘らず潤坊は「新しいズックはいけん言うて、先生がそう言うたんじゃけえ走らん」と駄々をこねはじめた。
親と先生が潤坊をなだめるのだけれど頑として受け容れない。
先生は「私が余計な事を言ってしまいましたか・・・」と困惑している中、誠は思い立って自転車に飛び乗り家まで古いズックを取りに戻ったのである。
古いズックに履き替えた潤坊は顔に笑顔が戻り、それは一所懸命走ったそうな。
そのときの記憶はうっすらではあるが残っていて、親は真面目過ぎるのか頑固なのか、やれやれと思ったそうである。
大畠村の大半は漁業と細々とした農業で生計を立てている家庭であったため、先生は余分な出費に対する配慮をしたのだろうと思われるけれども、潤坊にとってはやさしい親の配慮が仇となってしまったようである。

 この頃の滋子は二歳年下で生まれていた次女・栄子と潤坊の世話に掛かり切りの中で、舅・姑・小姑五人との共同生活をする大所帯の中では随分と気を遣いながらの毎日であった為、気持ちの休まるときがないように感じていた。
いくら大きめの家であっても大人七人と学生二人に子供の潤と乳飲み子の栄子を入れて総勢十一人が住むには、やはり窮屈であったのだろう、誠と話し合い、思い切って誠の勤務先のある柳井町へ居を移そうとの結論に至った。
新しい住まいを探していたところ、ちょうど売りに出ていた柳井町の銀天街入り口付近にある店舗付きの住宅(平屋で間口が二間半、奥行きは六間半の面積十六坪余り)を運よく購入することが出来た。
この店舗付き住宅は表に衣料雑貨店が借りて営業しており、店舗の裏に四畳半と一間の土間を挟んでその奥に六畳の畳部屋を持つ建物で、六畳の間は柳井川(満潮時には海水が上がってくる川)に足(石柱)を立てて架けだしした造りとなっているもので、土間からは直接柳井川へ下りて行ける構造になっていた。
ただ便所はあったが風呂が無かったので、親子揃って毎日のように銭湯に通っていた記憶が甦る。
 ただ当時の記憶として鮮明に残っているのが昭和二十九年八月の台風5号(グレイス台風)による恐怖の出来事である。
大量に降った雨で柳井川が増水し、大潮で満潮時期と重なったのであろう家の土間にまで水が上がってきて、川に張り出して造られた六畳の間が今にも浮いて流されそうになったのである。
誠と滋子は子供たちを手前の四畳半の間に避難させて叔母に預け、自分達は膝まで水に浸かりながら六畳の間に置いてある家財道具を運び出そうと懸命に動き回っていた。
濁った水で溢れている土間を行き来する両親を見ながら子供達は家共々両親が川に流されるのではないかの不安と恐怖で「お母ちゃんそっちへ行っちゃあいけん。流されるけぇ!お父ちゃんもこっちへ来んさい!」と泣き叫んでいる内に何とか両親は大事な物だけは運び終えたようで、
全員が四畳半に身を寄せて暫くした頃に土間の水が引き始めたのを見て安心した思い出がある。



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「双龍物語:第五章・幼少期」

 何とか病魔から逃れることが出来た潤のその後は、誠が闇市で購入してきた粉ミルクや練乳で母乳の不足を補いながら、すくすくと成長していった。
そして数年後、父親の誠は久賀営業所の所長から課長に昇進し、柳井支店勤務を命じられたので、
取り急ぎ両親と妹五人が住んでいる大畠の家に居を移して同居することにしたのである。
この頃にはもう三歳となっていた潤坊は、同じ村内にあって、お寺が経営している幼稚園(保育園だったかも)に通うことになった。
季節は夏を過ぎ秋になった頃、幼稚園では運動会が催されるが、今と違って当時の小中学校を含む運動会と言えば村内の一大行事で、弁当を作り朝早くから運動場を囲むように筵を敷いて、それぞれの家の陣を構え、爺ちゃん婆ちゃんを始め家族全員が参加するのが一般的で、もうまるで祭りのような騒ぎであった。
運動会が間近に迫った頃、誠は潤坊にと新しいズック(運動靴)を買ってきていた。
真っ白な新しい運動靴で運動会に出してやろうとの親心であるが、日曜日となった運動会当日の朝、新しい靴を出して履かせようとしたところ潤坊は「先生が新しいズックやら運動着を着てきちゃあいけん。いつもと同じものを着て来い言うて言いよったんじゃけぇ、こりゃあいらん」と言って靴を履こうとしなかったと言う。
それでも誠は嫌がる潤坊の足に無理やり新しいズックを履かせて幼稚園へと向かったのである。
半べそとなっていた潤坊は嫌々ながら皆と一緒に運動場に腰を下ろし座ったところ、左右に見える足の靴はいつも通り薄汚れたズックで、自分のズックが真っ白いのに違和感を覚え、心の中で「それみろ!」と自分の言う事を親が聞いてくれなかったことに対しての不満が募った。
運動会の式次が次々と進んで行き、お遊戯が済んで、いよいよ駆けっこの時がやってきた。
しかし、走る順番が来たにも拘らず潤坊は「新しいズックはいけん言うて、先生がそう言うたんじゃけえ走らん」と駄々をこねはじめた。
親と先生が潤坊をなだめるのだけれど頑として受け容れない。
先生は「私が余計な事を言ってしまいましたか・・・」と困惑している中、誠は思い立って自転車に飛び乗り家まで古いズックを取りに戻ったのである。
古いズックに履き替えた潤坊は顔に笑顔が戻り、それは一所懸命走ったそうな。
そのときの記憶はうっすらではあるが残っていて、親は真面目過ぎるのか頑固なのか、やれやれと思ったそうである。
大畠村の大半は漁業と細々とした農業で生計を立てている家庭であったため、先生は余分な出費に対する配慮をしたのだろうと思われるけれども、潤坊にとってはやさしい親の配慮が仇となってしまったようである。

 この頃の滋子は二歳年下で生まれていた次女・栄子と潤坊の世話に掛かり切りの中で、舅・姑・小姑五人との共同生活をする大所帯の中では随分と気を遣いながらの毎日であった為、気持ちの休まるときがないように感じていた。
いくら大きめの家であっても大人七人と学生二人に子供の潤と乳飲み子の栄子を入れて総勢十一人が住むには、やはり窮屈であったのだろう、誠と話し合い、思い切って誠の勤務先のある柳井町へ居を移そうとの結論に至った。
新しい住まいを探していたところ、ちょうど売りに出ていた柳井町の銀天街入り口付近にある店舗付きの住宅(平屋で間口が二間半、奥行きは六間半の面積十六坪余り)を運よく購入することが出来た。
この店舗付き住宅は表に衣料雑貨店が借りて営業しており、店舗の裏に四畳半と一間の土間を挟んでその奥に六畳の畳部屋を持つ建物で、六畳の間は柳井川(満潮時には海水が上がってくる川)に足(石柱)を立てて架けだしした造りとなっているもので、土間からは直接柳井川へ下りて行ける構造になっていた。
ただ便所はあったが風呂が無かったので、親子揃って毎日のように銭湯に通っていた記憶が甦る。
 ただ当時の記憶として鮮明に残っているのが昭和二十九年八月の台風5号(グレイス台風)による恐怖の出来事である。
大量に降った雨で柳井川が増水し、大潮で満潮時期と重なったのであろう家の土間にまで水が上がってきて、川に張り出して造られた六畳の間が今にも浮いて流されそうになったのである。
誠と滋子は子供たちを手前の四畳半の間に避難させて叔母に預け、自分達は膝まで水に浸かりながら六畳の間に置いてある家財道具を運び出そうと懸命に動き回っていた。
濁った水で溢れている土間を行き来する両親を見ながら子供達は家共々両親が川に流されるのではないかの不安と恐怖で「お母ちゃんそっちへ行っちゃあいけん。流されるけぇ!お父ちゃんもこっちへ来んさい!」と泣き叫んでいる内に何とか両親は大事な物だけは運び終えたようで、
全員が四畳半に身を寄せて暫くした頃に土間の水が引き始めたのを見て安心した思い出がある。




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