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建築家 潤 の『独断と偏見』

「復活 くたばれ建築基準法:追録の13」

数年ぶりの「復活くたばれ建築基準法」です。 
何故かと申しますと、近年の「建築確認申請」に於ける「審査内容」が余りにも酷くて、これは審査の域を超え、最早「粗探し・間違い探し」と化しているので、その実態をお伝えしようと思い立ちました。
折しも、元号が「令和」となり、何とも言えない違和感を持っての更新となりました。
この「令」と言う言葉は「令月・令夫人・令嬢」などに使用され、良いという意味だと政府は言っているようだが、現在の日常生活では余り馴染みの無い使い方である。
特に若い人など令夫人と言ってもその意味が判らない人のほうが多いのではないかと思う。
「令」を辞書で引いても、良いと言う意味は出てこず、命ずる・お達しなど全てと言って良いほど行政がらみの言葉であり、何だかお上が下す命「令」に従っていれば、平「和」な生活を保障してやるとの、まるで上から目線の押し付け元号のような気がしてならない。
まぁ別に元号が何と決められようが人の名前と同じだから、文句をつけたいわけではないのだが「名は体を現す」と言われるように、もう少し馴染みがあり心が穏やかに感じられるような元号にして欲しかったと思うばかりである。
 さて、昨年より鉄骨3階建ての共同住宅(賃貸マンション)を設計し、確認申請書を審査機関に提出して2ヶ月近くが経とうとしているが、まだ確認済証の交付を受けていない。
一ヶ月以上の期間を費やして、意匠関係(建築基準を含む他の法令関係)の審査は一応終えたけれど、現在は構造計算適合性判定という構造計算の審査を受けているところです。
姉歯建築士の事件以来、建築確認の厳格化が叫ばれ、審査が厳しくなったと皆さんもお聞きの事と思いますし「厳格化=厳しい審査」と聞けば、詳しく設計内容を審査しているとお思いでしょうが、これはある意味間違いではないけれど、審査内容が全く違った結果と化してしまって、建築主(俗に言う施主)・施工者・特に設計者には余り意味の無い過大な労力と時間に費用を掛けさせられている現状を少しお伝えします。

建築基準法第六条には「建築主は建築物を建築しようとする場合は、工事を着手する前に、建築基準関係規定に適合するものであることについて、確認の申請書を提出して建築主事の確認を受け、確認済証の交付を受けなければならない。(法文がとても長く括弧が沢山あって、一般の方にはとても判り難いので大部分割愛しています)」とあります。
読んでみても別段不思議なこともなく当たり前の法文で、違和感を覚えることなどありませんし、この法文の目的は「建築基準関係規定に適合するもの」であるか否かを審査する。
とありますから、適合しているか否かを審査していると思ったら大間違いなのです。

現実例として面白い話をしてみますと、木造平屋建て専用住宅の建築確認申請を提出した時のこと確認申請書の中に記載する欄に「4 建物等の用途」と言うところがあり、そこに「専用住宅(用途区分:08010)」と記載したら、確認申請の厳格化で「一戸建ての住宅(用途区分08010)」に訂正するように指導を受けた。
確認申請書提出時には、これ以外に「建築計画概要書」「建築工事届」と別な書類を作成して同時に提出するように決められている。
その内の「建築工事届」(第三面)の記載事項の欄には [ (1)専用住宅 ] と記載された項があり、民間が勝手に使用している文言ではないし、この項を見ると一体この様な表現があるのか?と思えるほどに難解な区分がしてあるのですが、文が長くなるので割愛します。
一体「一戸建ての住宅」と[ 専用住宅 ] とは何が違うのか?そして、この記載は何故法令違反となるのか?良く判らない。
確認申請は前にも述べたように「建築基準関係規定に適合するもの」であるか否かを審査する。であるのだから訂正させられると言うことは「法令違反」ということになります。
しかし、誰が考えてもこれが法令違反になるとは思えるはずもない事柄まで「言い掛かり」に等しい訂正が余りにも多く実は閉口している現状なのです。
この木造平屋建て住宅は「4号確認」と称され、確認申請を受理した後7日以内に確認申請済の交付を行わなくてはならないと法令で定められていますが、何か図面内容や記載事項に法令違反があると、その期間は延長される仕組みとなっていて、一度「確認できない旨」の通知を受けると審査期間は延長され、再度指摘を受ければまた審査期間を延長される。という一体何時になれば確認済証の交付が受けられるのか・・・。
と毎回のように時間の浪費と修正する紙の無駄使いには心が痛み面倒臭い手続きを強いられます。
この建物について言えば、まだ他に13項目の修正を要求されましたが、法令違反による訂正など一つもなくて、確認申請書の記載事項に係る事ばかりでした。
指摘事項が余りにも細かいので、その理由を聞いてみたところ、審査機関も行政の監査を受けるそうで、その指摘を回避するためだそうです。
だから最低でも8項目程度の修正を指示するように言われているとの話であった。
つまり、設計者が間違いをしないで設計図書を完成させているはずがない!との立場から考え、言っていることは明白である。
と言う事で、今や確認申請は法令に違反がなくとも、最低8項目の指導を受けることになってしまっています。これが確認申請の「厳格化」の実態ですから、建築主の経済活動を妨げ、設計者には余り意味を感じない指導・修正に多大な労力と時間に紙を浪費させていることが建築基準法第一条に掲げてある「国民の生命、健康、財産の保護を図り、もって公共の福祉疎増進に資する目的とする。」になっているとは到底思えないのですがねぇ。

 木造平屋建て住宅でこの様な実態ですから、階数が多く面積の大きい建物であれば、その審査期間の長さと言い掛かりに等しい訂正内容に想像を巡らせて頂ければと思います。
建築物の設計図書を完成させるには、数百種類の記号と種類別に分けて表現する線に加え、文字と部分的に色づけまでして判り易いように表現します。
文字数など数十万文字・線の合計長さは日本縦断できるほどありそうで、図面枚数も判の大きさにもよりますが木造住宅でもA2判(新聞の閉じた大きさ)30枚・少し大きい建物になると100枚以上は普通に書き上げます。
その図面に記載した文言に不備(今はパソコンで図面を描きますので、入力間違いなどが起こります)があれば、別段法令に違反しているような内容ではなくても訂正を強いられます。
だから、最早確認申請はもう「申請」ではなく「許可」に等しい実態と化してしまいました。
指先に目が付いていれば、この様な間違いは起こさないのでしょうが、手書きでは起こらないような不思議な変換や記載違いが時には生じています。
勿論見直しも行っていますが、なんせパソコンがやった仕事は印刷物(本などと一緒で間違いがないという先入観と錯覚が起こってしまいます)なので、自分で書いた図面中の間違い探しは困難を極めます。
などど、言い訳をしても始まらないのですが、なんだか人間的でない嫌な世の中になったと感じてしまいます。





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雑感その156 「窮屈になった日本:その45:覚悟の七」

     
 仕事で忙殺され、早く更新を・・・と思いながらも時間が取れず、気が滅入ることも起こったりで、気も乗らなかったのですが、鉄筋コンクリート住宅の設計が一段落しましたので、やっと書く意欲が出ました。

最近街中で目にするようになったのが「古い建物の解体」です。
長く続いている不景気で、街中の事務所ビルは空室が目立ち、店舗の閉鎖も良く目にしていたのですが、この状況から推測すれば一転して建設需要が起きそうかも(若しかしたら、金に困った方の土地処分かもしれませんが、何れにしてもです)。
この状況は、恐らく消費税率上げの関係なのだろうと思っていますが、不思議なことに今建設業界ではある変な現象が起きていて、ここ数年で鉄筋コンクリート造の建物価格が異常に値上がりしているのである。
業者のなかには「震災復興の影響で鉄筋工や型枠大工がいない」と言うのだが、報道を見ても聞いても、一向に復興しない東北の状況だけで、建設が湧きおこっているなど耳にしたこともない。
また、長く続いた不況のせいで職人たちが仕事を離れてしまい、職人の数そのものが減ってしまった結果だと言う者もいるが、こちらの方に現実味がある。
数年前までは賃貸マンション建設の目安として坪単価が55万円程度であったのに、今はと言えば75万円でも出来ないかもしれないという状況なのだ。
では社会に如何ほどの建設需要があるのかと言えば、首都圏以外に建設ブームなど知らない地方では、ここ数年に於いて、それほどに職人の需要があるとも思えないから理解が出来ない状況が出現しているのだ。
消費税の関連で、多少建設の需要が上向いてくるであろうと予想されてはいるものの、この建設価格では建築主は堪ったものではなかろう。
いずれ、分譲マンションの価格も跳ね上がろうが、今までは分譲マンションを請負った建設業者の価格は坪単価で40万円台が大半であったことを付け加えておきましょうかね。
この価格の差をどのように捉えられるかは皆さんの能力次第と言うところでしょうか。
このような状況なので、計画していた7階建の賃貸マンションの予算(収支)が合わず中止になったことは悔しかったが、建築主も「ワシに運が無かったか!」と悔やんでおられた。

このような不思議な社会現象が起きているにも拘らず、この事はそっちのけで、このところ報道者の姿勢は一体どうした?と思えるほどに政府に媚びている姿は何なのだろう。

新聞やTVでは毎日のように株価が上昇している結果から、景気が上向いていると国民に向かって「洗脳・刷り込み」を始めて1ヶ月余りが経ち、日銀も追い打ちをかけるように大幅な国債の引き受け策を発表するなど、これでどうだと言わんばかりに手の込んだ景気刺激策を使っている。
消費税率上げについては景気の判断を見定めてから・・・と但し書きが付いているから、税率を上げたい財務省官僚と政府は何としてでも景気が上向いているとの証拠固めが必要で、賢ぶっている割には情けなくその片棒を担いでいるのが報道者達なのだろう。

 あるコンビニ会社は社員の給与を上げる発表をしたり、自動車業界が夏の一時金を満額回答したりで、何ともはや政府のご機嫌取りに躍起である。
まあ、自動車業界など政府から「減税」をして貰って売り上げを伸ばしてきた経緯があるから、仕方が無いかとは思うけれど、しかし、何故「車」のみ「減税」なのだろう?「建設」や「他の産業」には何故「減税」が無いのだろう?。
信頼できない官僚や政府のやることだから・・・ある程度諦めてはいるし、人の世だから多少の不公平は仕方が無いと思えども、減税策を施して以来これは不公平が酷過ぎると感じていたし、結局のところ「減税」は国の財源を減らしているのだから本末転倒の話で、減った財源は何時か何処かで辻褄を合わさねばならない状況は必ず来る。
きっと消費税を上げるのだから「車の減税」など直ぐに元が取れる・・・との思いであろうか・・・そうであれば、税とその使用用途の公平さから見ると、車を持たない者にそのツケを回されるのだから何ともやりきれない気持ちだけが残る。

 しかし、消費税率上げの為に少しのインフレを起こしたい政府の思惑に反して外食産業では生き残りと再生を懸けてまだ価格を下げて来ている。
それに、如何に株価が上がれども、実体経済は不況のままで推移しているのは国民の皆が感じているところなのに、報道者達を引き連れての景気抑揚感を煽る国の姿は滑稽でもある。
何度も言うようだが、株の利益は不労所得である。
不労所得を持ちあげる政策を掲げる国など本来の国の姿ではないし、やるべきことではない。困った国にしてくれたものだ。
結果は見えているが、さてこの先どのような状況が出現するかが見ものである。

 最後になりましたが、私の人生における覚悟は残された最後の一つでが、それは
「如何に綺麗に稼いだ金であれ、状況次第では執着せずに捨てること」です。
あまり自慢にはならないけれど今まで捨てた金の総額は2億円を超える額になろうか。
あの世には持って行けないものだし、残してみたところで、この世に生かして使う能力があるのか無いのか判らない相続権者に残すよりは、さっぱりして気持ちが良いと思っているから、惜しい気持ちもない。

 次回からは別な主題を探して書いてみます

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雑感その155 「窮屈になった日本:その44:覚悟の六」

       
 現在、鉄筋コンクリートの住宅の実施設計中で幼稚園の建て替え計画図の作成は一段落しはものの、まだ診療所の開設の準備を抱えていて、とても忙しく・・・更新を早く・・・と思いながら・・・気が付けば広告を貼られていましたので、取り急ぎ更新します。

 NHK朝の連続ドラマ「純と愛」は既に佳境を過ぎて、皆が望んでいるであろう 幸せな結末へと向かっているように思っていますが、このドラマの佳境は一体どの辺りだったのだろう・・・勤め先のホテルが火事に遭遇した辺りか?それとも「愛」の家族が一つになりそうな今の状態なのだろうか?と余計なことを感じている私なのです。

 まあそれはそれとして、職業柄でしょうか・・・一般の視聴者の方が考えてもみない様なことを、更に考えてしまいました。
それは何かと言いますと、主人公の二人が沖縄に開設準備中のホテルについてです。
話の流れでは知り合いになった服装デザイナーが所有している別荘を借り受け、その別荘をホテル[魔法の国]に改築して営業を開始する方向で進んでいる。

 建築基準法では「別荘」は「(個人)住宅」と同じ扱いで「ホテル」は「旅館」の部類に入ります。
同法では「用途を変更(住宅からホテル)」する場合、安全性などを考慮してのことだろうと思っていますが、用途変更の手続き(確認申請)が必要になりますし、消防署長の同意も必要で、更に旅館業法による営業許可もいるのです。
別荘の構造(木造・鉄骨造・鉄筋コンクリート造)や延べ面積によっては開設できないことも想像されるのだが、この様なとても煩わしいことには一切触れないで、いとも簡単にホテルが開業できるような扱をし、不足している開業資金も「もやい」で解決したことになっていて、とてもその程度の金額(渡された封筒の厚みから判断)で改装出来るものではなかろう・・・と魔法の国ならず魔法でも使わなければ出来そうにない現実離れした話の進め方にガッカリしてしまいました。
ドラマだから許されると言うことなのであろうが、いくらドラマとは言え、時代劇や空想科学の世界ではなく時代背景に現代を使っているので問題ありと感じました。

 尤も原作者や脚本家自身が建築基準法やその他の法を知らないのだろうからこのような話の進め方をしているのであろうと想像するが、何事も「簡単に出来る」と思わせるような錯覚を起こさせる現在の風潮は有り難くない。 
 この世で「何かを成す」為には、膨大な知識の集積を持ち、長年に渡る経験を積んだ多くの人達による目に見えない苦労や努力無くしては成らないものです。
現在はその様な人を育てる環境を捨て、薄っぺらな社会を持て囃す傾向が顕著に見られると感じているのは私だけであろうか。
経済効率を優先するあまり、あらゆる技と技能を持つ職人を否定し、工業化へ突き進めた結果が今ここに欧米と同じ軽薄な社会を出現させている。

 機械のラインについている人の仕事内容は数日で覚えられる程度のものと想像しているが、職人はそうは行かない。
一つの仕事で十年以上の「辛抱」をし「努力」を続けながら「経験」を積まなくてはならない世界で、朝早くから夜遅くまでの修行が始まり、失敗を繰り返しながらその間「怒鳴られ」「怒られ」「蹴つり飛ばされたり」は当たり前である。
それを通じて人は自分自身と向き合って「反省し」「考え」「学び」「不足を補い」成長する。

「学問に王道なし」と同じであるが、今の社会は時間をかけて人を育てる環境を奪い、軽薄な社会で良しと政官が先導し、大企業が追随している上、報道者達の無知と品性の不足から世界に誇った日本の文化は後進して行く一歩通行の有様となっている。

 大企業は資金力と知名度に胡坐をかき、実務の殆どを協力業者である中小零細企業に委託しているのが現状である。
だから、大企業には実務が出来る者が殆どいないくせに(悪く言えば自分達だけでは仕事にならない)、手柄や利益は自分達のもので、失敗?は全て協力業者のせいにする。
その上、大企業の勤め人は役人と同じで、あらゆる過保護法で守られているから能力人格共に育たないし、教育は自己防衛の為のマニュアル一辺倒だから、人を育てる環境をも無くしてしまっている。
厳しさを知らないままでは、自己都合の独りよがりを主張するのみで、人が人として社会で関わり合いながらの生活は送れない。

 日本社会の中身はこのような有様なのに、表向きは立派に見せているのだから、あらゆる場所に歪みが出て来て当たり前である。
これを窮屈と言わずして何と言えば良いのか・・・と常々言っているのです。

朝の連ドラについてはもう一つ可笑しな表現をしていますので、ついでに話せば、
愛には「人の本性のようなものが見える」と会話の中で出てくるのですが、これは大きな誤りで状況から言えば「人の本音が見える(聞こえる)」が正しい。
当人の今考えていることが読み取れるのだからこう言わなければおかしいのです。
人の本性は「(絶滅種を含めた)動植物や虫」など人間以外の全ての生き物ですが、見えない方には説明が出来ませんので、詳細の説明は省きます。

 最後に私の六番目の覚悟をお伝えします。

  座右の銘と言った方が良いかも知れませんが「驕らず謙らず」を守っています。
誤解の無きよう「謙らず」は「諂う」の意味です。

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雑感その154 「窮屈になった日本:その43:覚悟の五」

      
 さてさて、窮屈な話題ばかりが耳に入ってきて、憤りを感じる毎日だが、先日のこと
サラリーマン作家で高校の先輩でもある御仁が「お~い 潤 元気か!?」の声と共に事務所のドアを開け訪ねてきた。
 彼はいつものように、まず暫く会っていなかった間に起った自分の出来事から話し始めたのだが、この時はまず真直に迫った定年退職後の再就職先のことや、健康診断の際に起きた事象を面白おかしく話した後のこと「実はなぁ~潤よ!先日エライ目に遭ってなあ~」と話を続けた。
 聞けば「犬も歩けば棒に当たる」の諺の如く、「いい年こいてフラフラするからだよ!」「それはエライい災難だったね」「気の毒だけれども、どうしようもないなぁ~」の言葉がぴったりの出来事に遭遇していた。
 ある日のこと(いい年こいて姉ちゃん目当てで)キャバクラに行った深夜の帰り道に尿意を催したので、広島市内の繁華街にあって若者がよく集まるちょっとおしゃれな雰囲気がある公園の公衆便所で用を足していたら突然壁を隔てた真向かいから「きゃ-助けて!」と悲鳴が聞こえたので、一体何事かと便所の窓を開けると男の顔が見えたので、悲鳴が聞こえた状況から、思わず「何しとるんやお前!」と用を足しながら一喝したところ、突然窓越しに顔を殴られたと言うのだ。
怒りを覚えた彼は用足しもそこそこに外に出てみると女は下着を脱がされ男は下半身をむき出しにして今にも強姦寸前の状態だったと言う。
元々血の気の多い彼は「お前なにやっとんや!」と叫ぶと同時に男に殴りかかった。
そこから殴り合いの喧嘩が始まったと言うのだが、この騒ぎを聞きつけて近くの交番から警察官が駆けつけ取り敢えず喧嘩は治まったが、男の方は鼻の骨が折れ顔面血だらけの状態であったのを見た警察官は友人の方を逮捕しようとしたらしいが、最初に突然殴られて、強姦寸前の女を助けようとして喧嘩になった経緯を話し、襲われた女の方からも同じ話を聞かされて警察官も納得し、強姦未遂の男の方を逮捕したそうだが、この後が彼にとっては災難と言うか、気の毒と言うか、慰めようのないことになってしまったのだ。
 そのまま警察に連れて行かれて事情聴取を受け、その日は何とかそのまま帰宅が出来たはものの、複雑でややこしい警察での話や検察官との遣り取りの記述は省いて結果だけを伝えれば、後日検察庁から呼び出しを受け、過剰防衛による略式手続?で罰金四万円を言い渡されたそうだ。
これを知った嫁からは「殺されでもしたらどうするの!」と怒られ、納付金に対する援助は無く、仕方が無いので少ない小遣いの内から捻出してやっと支払ったのだと悔しそうに話す彼が気の毒に思えた。
その上、当日は興奮して気付かなかったが、2~3日して歯に違和感を覚えたので調べて貰えば上下の奥歯が欠けたり折れたりで、余計な治療費まで支払う羽目になったそうだが、この治療費は相手から支払って貰ったと話してくれた。
 作家の話すことだから話の内容には多少の脚色はあるかもしれないけれども、犯されそうな女を助けて、過剰防衛の罰金刑を科せられるとは何とも情けないし頂けない。
私の感覚からすれば、警視総監賞や英雄扱いにしても良い事象に思えるのだが、人を助けて逆に刑罰を受けるとは・・・確かに程度の問題はあろうけれども、これでは有事の際に人助けなど出来ようはずもない酷い日本の司法判断である。
「触らぬ神に祟りなし」「見て見ぬ振りをする」のが一番の処世術だと司法が指導しているようなものである。
前回のブログで書いた願いとは真逆の方向を「お上」が誘導していては日本の社会が良くなる方向に行くはずもなかろうて・・・。やれやれ、窮屈なこと窮屈なこと。

 もう一つ内容は異なるが、とても窮屈だと感じた事例をご紹介します。
既に聞き及びかとは思いますが、39歳のサラリーマンが競馬で得た所得に対して国税局から追徴課税された上、脱税容疑で告発され、確か懲役1年を求刑されている話である。
新聞や週刊誌などでも報道され、特に週刊誌では克明にその詳細が記載されていたが、この国税局の対応にも憤りを感じている。
 早い話が競馬の当たり馬券について研究した結果を試そうと、インターネットを介して百万円を元手に三年間の間で数千円~数万円の馬券を繰り返し々購入し、勝ち負けの結果として馬券総購入金額が28億7000万円となり、配当金額は30億1000万円であったそうだ。
 差し引きの収入金額は1億4000万円であるが、国税局は当たり馬券の購入金額だけを経費と認め29億円の所得があったとして6億9000万円の追徴課税をして告発したという経緯である。

一般的な会社経営で言えば、1年間の総売上げ額がその年の競馬の総配当金額に等しく、その年に購入した馬券の総購入額が様々な経費に該当するもので、その差し引きの金額が所得として課税されるものだと考えられるのだが、国税当局はその様には考えず、拷問か!と思えるような仕打ちをしてきている状況であると言っても過言にはなるまい。
 競馬の配当金そのものには既に10%の所得課税がされており、これでは二重課税も甚だしいが、実質所得を数倍上回る課税を平気で科してくる役人の感覚とは一体どのような構造をしているのだろう・・・と理解に苦しむ。
 しかし、それにしても幾ら研究したとは言え、畜生が走る競馬で利益が出せるとは・・・博打ではビルが立つくらい負けを続けている私から見れば、何とも凄いの一言に尽きる。
もしこれがインターネットを介した馬券購入ではなく、馬券売り場で直接馬券を購入していたら国税局には知られずに済んだであろうに・・・と思うと少し気の毒になる。

今回のこの2つの事例をどのように思われますか?。
私しには、憤りを感じ、行政側の横暴としか考えられないのですが・・・。
最後に覚悟の続きです。
 これも仕事を通じて決めていることですが「建築主さんの懐に手は突っ込まない」です。
判り易く言えば、見えないようにちゃっかりと余分な金銭を得ないと言うこと。

昨年とは打って変わって今年は仕事の依頼が急増し、もうすぐ臨戦状態に陥入りそうです。
出来るだけブログの更新を続けて行くつもりではいますが、思いが叶わない時はお許しください。

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雑感その153 「窮屈になった日本:その42:覚悟の四」

        
 NHKの大河ドラマで「八重の桜」が人気を呼んでいるそうだが、その中でよく出てくる台詞に「ならぬものは なりませぬ(ならぬものです)」がある。
会津(福島)の小学校では今でもこの言葉を学校の授業で子供達に教えているという。
意味合いとしては「(人として)してはいけないことは(理由の如何を問わず)してはならない」ということで、前文の(人)を(男)(女)に置き換えればもっと身近な日常生活の所作に関わってくる内容となる。
そう言う意味では「男らしさ」「女らしさ」が死語になった日本にとって、躾や道徳再生の糸口になってくれれば嬉しい限りである。
 何度も言うようだが、戦後社会党系の似非人道主義者が「自由」「平等」を履き違えて、声高らかに叫び「何でも有り」の権利主張社会を先導し、不勉強のマスコミまでがその尻馬に乗って現在の混沌とした社会を作ってしまったことは言いようのない事実である。

 法には違反しないけれども、眉をひそめる出来事ばかりが目につく日常であるが、良識ある大人の誰もがそれを咎めず、注意をしなくなってしまった。
注意をしようものなら逆切れされて殺された例もあるので、口論となって余計な問題を生じさせたくないとの思いからであろう・・・誰もが心を痛めながらも無関心を装うようになってしまった。
   
例を挙げれば、乗り物の中で子供が靴を履いたまま座席の上ではしゃいでいる光景や乗物が込んでいるにも拘らず大きく足を広げ、又は向かいの座席に足を投げ出して座席を占領している輩、若者に関して言えば喰い歩きや路上に座り込んで飲食をしている姿をよく見かけるし、女の服装に関しては大きく胸をはだけ、パンツが見えそうなスカートを穿き、下着が透けて見えるのは良い方で、下着を見せるのがファッションであるかのように自慢げに街中を闊歩している状況である。

 これらの全ては法に触れることではないけれども、良識ある人は溜息をついていることであろうと想像する。
今時「男らしさ」「女らしさ」を求めれば「なにそれ!男女同権でどのような服を着ようが、何をしようが私の自由じゃない!」と言われるに違いないが、良識ある大人が注意をしなくなったせいで「何をしようが私の自由じゃない!」の自由の「境目」が段々と悪い方に崩れて行き、以前は少し持っていたのであろう良識の自覚を見失っている。
この「何をしようが私の自由」こそが戦後日本の社会に蔓延り、戦前に比べて良き世の中になったように思えども、実はこの世の中を窮屈にしている病巣であろうと思っている。
 「何をしようが私の自由」の「しよう」の語句を「報道」に置き換え「言おう」に置き換えればお判り頂けるのではないかと思う。
しかし、何より困ったことは「何をしようが私の自由」を口にする者が、他の人の「何をしようが私の自由」を容認せずに「自分の(自由の)権利のみを主張する」ことにある。
 以前お伝えした共産主義者の言い分「泥棒の世界では泥棒をしても罪にならない」を聞いた時に私は「その社会が実際にあればそうだろうが、その社会でも自分のものを盗られるのは嫌なんじゃない」と言い返したら返す言葉を失っていた話であるが、これと同じ内容に思えてならない。
このような屁理屈がまかり通り、単純な理屈というか道理を教えず、その屁理屈を追求せず、知らせもせずに「自由」を放置し、満喫させている社会はやはりおかしい。
 
「男らしさ」とは「強きを挫き弱きを助け」「道に背かず王道を行く」などがあり、「女らしさ」は「可憐でおしとやか」「素直で従順」を目指したものだったと思うが、これらの全ては人が社会生活を営む上での潤滑剤のようなもの、決して個々の人格を否定したり男女の差別をするものではない。
しかし、潤滑剤であったこれを否定してしまったのだから社会がぎくしゃくして円滑に進まなくなったと言うことだろう。
これらは二千年以上前の中国では孔子が説き、日本では武家社会が台頭してきた頃より日常生活の中で「躾」と共に子供の教育としてきたもので、その書物も沢山残っている。
 これを「悪」だと決めつけ、目の敵にしてきた者達(戦後の官僚・為政者特に女の議員や報道者達に社会主義・共産主義を始めとする日教組など)はどれほどの弊害を日本にもたらしたことか判ってはいまい。
 「躾」を含む「人の道」は理屈や学問では理解ができないもので、数千年に渡って人が円滑な社会を営む上で編み出した「叡智」であり、学者や屁理屈論者の出る幕ではない。

また前置きが長くなりましたが、わたしの「覚悟の二つめ」は次の様なものです。
十年近く勤めた後、何ら当てもなく事業を始めてみたはものの一年目は仕事に恵まれず、情けない思をしたけれども、数年後には社員が雇えるまでに忙しくなってゆきましたが、その間に様々な想いが頭の中を去来した中、いつの間にか心の中に自然と湧いてきた事の一つに、数多くある設計事務所の中から私を選らんで頂いた感謝の気持ちからきたことであろうか「まず第一はお客さん(建築主)のこと、それが済んだら次は社員のこと、それから自分(家族を含む)のこと」と決めた。
これもここまで貫き通してきているけれど、自分のことはいつも最後になるので気分的には「やれやれ」と思うことはあるが、嫌だと感じたり不愉快に思ったことは一度もない。
 私の日常的な行動が勝手気ままで自由奔放に見えていた社員達(能力以上の待遇を受けていた)には理解が出来なかったものであろう。。

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