「酔龍の独り言:その045」
2023-12-04
[ 情報の発達による他人との距離感 ]
私たち一般人が情報を手にするようになった手段の移り変わりと、その量に加えて情報内容(対象)との距離感について考えてみた。
私が子供の頃を振り返えれば、目や耳に入ってくる情報はと言うと、新聞・ラジオ・周りにいる人物などから以外に情報が入って来ることは無かったし、自ら情報を得ようとしても、その情報はすでに過去のものであり、現時点の現在情報など知り得ようのない時代であった。
かっこいい!芸能人などの情報は雑誌や銀幕の中か映画館に掲げられているポスターを見る以外に手立てがないので、あこがれはとても強く、その距離感ははるかに遠い存在であったし、新聞などに目を落として三面記事を読むと凶悪犯罪者の顔写真と共に事件の内容が大まかに掲載されている程度であった。
つまり日常的に得られるこれらの情報は身近な事柄ではなくて、ある意味遠いところで起こっている事象だから、日常の生活とかけ離れているような捉え方であったと思う。
それから少し時代が進むとテレビと言う音と映像が同時に流れてくる情報を受けることが出来るようになりと、それはとても衝撃的であった。
それまでは映画館で映画が上映される前には必ずニュース映像が流されていたのですからねぇ、そのニュースは数か月前のものであってもnews(新しく起こった出来事)だったのですよ。
映画館に行かなければ音声と映像を同時に受けることができなかった状況から、自宅の居間でその日に起こった事件などの出来事を音声と映像で知ることができるようになったのですから、このことを境に日本人の意識が少しずつ変わって行くようになったのではないかと思います。
その意識とは報道内容の出来事や対象人物との距離感が遠くにあった存在から段々と身近に感じられようになり、近年では手を伸ばせば届きそうな位置にいるような錯覚すら起こしているのではと思えてなりません。
最近起こっている事件などから推察すれば、その原因の一つはまず乱れた言葉からです。
「援助交際」「パパ活」などは「売春」ですし「闇バイト」は「仕事内容が強盗・窃盗・詐欺で、状況次第では殺人に発展するような【犯罪】となる一時的な仕事」ですが、全て見ず知らずの相手にスマートホンと言う情報伝達手段を使って誘い、誘われています。
彼らにはお金に困っている・仕事がなく生活に困っているからが【犯罪】を犯している理由のようですが、彼らに「犯罪」の自覚は無く、軽いノリのような感覚なのでしょう。
ここで少し話を別な角度から考えてみますと昔から「言葉が乱れると国が乱れる」という格言がありますが、近年正にこれが日本に当てはまると思っています。
言葉には「力」があり「意味」があり「歴史」もありますが、これを日本では「言霊(ことだま)」と呼び言葉をとても大切に扱ってきました。
スマートホンの検索で「詐欺」「強盗」「窃盗」「殺人」要員を求むなどと掲示しても恐らく誰も応募する者などいないのでしょうが「闇バイト」募集となれば手を挙げるものが相当数いるということですから、もしかすると彼らは「闇バイト」を夜間の暗がりの中で土木作業をする仕事のように捉えているのではと思います(冗談です)。
彼らの中では「闇バイト」=「詐欺」「強盗」窃盗」「殺人」と同意語になっていないことが恐ろしいことで、結局言葉が乱れているからでしょう。
「闇バイト」の「本質」は「犯罪」ですが、「闇バイト」の言葉そのものを表面的な形態で捉えると「暗がりの中で作業する仕事のようなもの」ではないか・・・と勝手に思い込むのでしょうかねぇ。
やはり形態的に「パパ活」「闇バイト」などの言葉を巧みに創って「本質(犯罪)」を誤魔化し、他人だけではなく自分の心の中まで正当化しているのが現在の社会の側面にあります。
ごく最近の新聞記事です。
・テレビ局の局長が「善意の方々から頂いた寄付」を着服(鳥取県)。
・弁護士が犯罪(詐欺)に手を染め現在保釈中の身であるにも拘らず、別件で留置施設にいる人物との接見中に自分のスマートホンを使って別人と話をさせたという(広島県)。
・大手通信会社の元幹部による多額の詐欺(東京都)
・援助交際を逆手に取った現役警察官幹部の数件の性的暴行(広島県)。
社会的には尊敬されても良いはずの人物ばかりがこのような犯罪に手を染めていることも現実の一面ですが、まさか仕事がなくて・・・生活に困って・・・などの言い訳は通用しませんよね。
情報が氾濫して世界中での出来事(現在では真偽のほどは不明)がすぐに伝わり、かつて遠き存在であった芸能人や、行ったこともない場所の映像をも手軽で日常的に見ることが出来るようになると、人は錯覚を起こす。
丁度「闇バイト」は「犯罪」ではないような錯覚的感覚になるのと同じように、憧れの芸能人は近所や隣に住んでいるような身近な人となり、行ったこともない場所にはもう既に何度もそこへ行ったような気持ちになる。
その上に交通網の発達によって、距離的にも遠くであった所が身近になってしまい、錯覚的感覚に拍車をかけている。
霞が関に居る人たちと同じように「机上」で物事が解決できるような気分になるのではないかなぁ、そしてそれが自分の中では疑似的な実態化となってしまう恐れはないか・・・ の不安が残ります。
これまでは遠くにあったと思っていたものが、手を出せば届きそうな位置にあると思うようになると、人は錯覚を起こして「俺にもその位のことは出来る」「こうやるから捕まるので、このようにやれば捕まることは無い」の様な感覚となり、もう心は「映画や物語の中の主人公です」何でも許されるような気持になるのでしょう。
便利になることは有難いことですし、楽になることも有難いことですが、便利でなかったことや楽でなかったことは決して悪かったことではありません。
少しの不便と手間を要していただけです。たったそれだけのことなのですのに「もう元には戻れない」などとほざく者が多い日本の社会となりましたが「有難さ」と「感謝」の心を持ち続けられている間は大丈夫だと思っていますが、それすら感じられなくなる社会となったら、日本は終わります。
日本が終われば世界が滅びます。日本国が世界の要なのにその自覚の欠片すらない千代田町や霞が関ですから、日本丸の行く先は滅びの道標(みちしるべ)へ向かっているかも。
私たち一般人が情報を手にするようになった手段の移り変わりと、その量に加えて情報内容(対象)との距離感について考えてみた。
私が子供の頃を振り返えれば、目や耳に入ってくる情報はと言うと、新聞・ラジオ・周りにいる人物などから以外に情報が入って来ることは無かったし、自ら情報を得ようとしても、その情報はすでに過去のものであり、現時点の現在情報など知り得ようのない時代であった。
かっこいい!芸能人などの情報は雑誌や銀幕の中か映画館に掲げられているポスターを見る以外に手立てがないので、あこがれはとても強く、その距離感ははるかに遠い存在であったし、新聞などに目を落として三面記事を読むと凶悪犯罪者の顔写真と共に事件の内容が大まかに掲載されている程度であった。
つまり日常的に得られるこれらの情報は身近な事柄ではなくて、ある意味遠いところで起こっている事象だから、日常の生活とかけ離れているような捉え方であったと思う。
それから少し時代が進むとテレビと言う音と映像が同時に流れてくる情報を受けることが出来るようになりと、それはとても衝撃的であった。
それまでは映画館で映画が上映される前には必ずニュース映像が流されていたのですからねぇ、そのニュースは数か月前のものであってもnews(新しく起こった出来事)だったのですよ。
映画館に行かなければ音声と映像を同時に受けることができなかった状況から、自宅の居間でその日に起こった事件などの出来事を音声と映像で知ることができるようになったのですから、このことを境に日本人の意識が少しずつ変わって行くようになったのではないかと思います。
その意識とは報道内容の出来事や対象人物との距離感が遠くにあった存在から段々と身近に感じられようになり、近年では手を伸ばせば届きそうな位置にいるような錯覚すら起こしているのではと思えてなりません。
最近起こっている事件などから推察すれば、その原因の一つはまず乱れた言葉からです。
「援助交際」「パパ活」などは「売春」ですし「闇バイト」は「仕事内容が強盗・窃盗・詐欺で、状況次第では殺人に発展するような【犯罪】となる一時的な仕事」ですが、全て見ず知らずの相手にスマートホンと言う情報伝達手段を使って誘い、誘われています。
彼らにはお金に困っている・仕事がなく生活に困っているからが【犯罪】を犯している理由のようですが、彼らに「犯罪」の自覚は無く、軽いノリのような感覚なのでしょう。
ここで少し話を別な角度から考えてみますと昔から「言葉が乱れると国が乱れる」という格言がありますが、近年正にこれが日本に当てはまると思っています。
言葉には「力」があり「意味」があり「歴史」もありますが、これを日本では「言霊(ことだま)」と呼び言葉をとても大切に扱ってきました。
スマートホンの検索で「詐欺」「強盗」「窃盗」「殺人」要員を求むなどと掲示しても恐らく誰も応募する者などいないのでしょうが「闇バイト」募集となれば手を挙げるものが相当数いるということですから、もしかすると彼らは「闇バイト」を夜間の暗がりの中で土木作業をする仕事のように捉えているのではと思います(冗談です)。
彼らの中では「闇バイト」=「詐欺」「強盗」窃盗」「殺人」と同意語になっていないことが恐ろしいことで、結局言葉が乱れているからでしょう。
「闇バイト」の「本質」は「犯罪」ですが、「闇バイト」の言葉そのものを表面的な形態で捉えると「暗がりの中で作業する仕事のようなもの」ではないか・・・と勝手に思い込むのでしょうかねぇ。
やはり形態的に「パパ活」「闇バイト」などの言葉を巧みに創って「本質(犯罪)」を誤魔化し、他人だけではなく自分の心の中まで正当化しているのが現在の社会の側面にあります。
ごく最近の新聞記事です。
・テレビ局の局長が「善意の方々から頂いた寄付」を着服(鳥取県)。
・弁護士が犯罪(詐欺)に手を染め現在保釈中の身であるにも拘らず、別件で留置施設にいる人物との接見中に自分のスマートホンを使って別人と話をさせたという(広島県)。
・大手通信会社の元幹部による多額の詐欺(東京都)
・援助交際を逆手に取った現役警察官幹部の数件の性的暴行(広島県)。
社会的には尊敬されても良いはずの人物ばかりがこのような犯罪に手を染めていることも現実の一面ですが、まさか仕事がなくて・・・生活に困って・・・などの言い訳は通用しませんよね。
情報が氾濫して世界中での出来事(現在では真偽のほどは不明)がすぐに伝わり、かつて遠き存在であった芸能人や、行ったこともない場所の映像をも手軽で日常的に見ることが出来るようになると、人は錯覚を起こす。
丁度「闇バイト」は「犯罪」ではないような錯覚的感覚になるのと同じように、憧れの芸能人は近所や隣に住んでいるような身近な人となり、行ったこともない場所にはもう既に何度もそこへ行ったような気持ちになる。
その上に交通網の発達によって、距離的にも遠くであった所が身近になってしまい、錯覚的感覚に拍車をかけている。
霞が関に居る人たちと同じように「机上」で物事が解決できるような気分になるのではないかなぁ、そしてそれが自分の中では疑似的な実態化となってしまう恐れはないか・・・ の不安が残ります。
これまでは遠くにあったと思っていたものが、手を出せば届きそうな位置にあると思うようになると、人は錯覚を起こして「俺にもその位のことは出来る」「こうやるから捕まるので、このようにやれば捕まることは無い」の様な感覚となり、もう心は「映画や物語の中の主人公です」何でも許されるような気持になるのでしょう。
便利になることは有難いことですし、楽になることも有難いことですが、便利でなかったことや楽でなかったことは決して悪かったことではありません。
少しの不便と手間を要していただけです。たったそれだけのことなのですのに「もう元には戻れない」などとほざく者が多い日本の社会となりましたが「有難さ」と「感謝」の心を持ち続けられている間は大丈夫だと思っていますが、それすら感じられなくなる社会となったら、日本は終わります。
日本が終われば世界が滅びます。日本国が世界の要なのにその自覚の欠片すらない千代田町や霞が関ですから、日本丸の行く先は滅びの道標(みちしるべ)へ向かっているかも。
「酔龍の独り言:その044」
2023-10-31
[ 非人道的・差別とは一体何を指すのだろうか ]
夏が終わりかけた頃から仕事の依頼が重なって思うように時間が取れず、更新が遅くなってしまいましたが、ここ数年来の内で初めて資金繰りに苦労することなく会社の運営が出来ているので有難い限りです。
私事はさておいて、地球上ではロシア・ウクライナに加えて中東でもまた戦が再燃して「多くの罪のない子供たちが苦しんでいる」との報道をよく耳にするのだが、私はひねくれ者だからこの言葉にはいつも抵抗を感じている。
その前に戦の形態から考えると「ロシア・ウクライナ」は領土(なわばり)・思想(価値観・考え方の違い)・歴史的背景の複雑な経緯(ロシアの占領下にあったこともある)などが主な原因であろうと理解している。
一方中東の戦は原因が複雑すぎてよく理解が出来ていないのだけれど、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・石油の利権・人種問題などが複雑に絡み合った内容のようですが、出発点は同根の宗教と思われるも、長い間の内に人が宗教を扱うと解釈や考え方・作法の違いなどから発した人の都合による根深いものが生じて、親子喧嘩・兄弟喧嘩のような宗教戦争や民族間戦争ではあるまいかと思えてなりません。
しかし、いずれの宗教も経典なるものがあるはずで、そこには「憎し!と思われる相手は殺せ」と書いてあるのだろうか。いずれの経典も読んだことがないので判らないままですが、おそらくそのような下りは無いと思っている。
人も動物の一種であるから「なわばり」の意識は強く、外国相手では「国境」となり国内では「隣地境界線」となろうか・・・これに関わる争いごとは人類の長い歴史の中で幾度も繰り返されてきているけれど、その悲惨な結果から何も学んできていないことが最大の悲劇であろうし、本来の宗教が目的とする意味すら逸脱しているのではなかろうか。
その争いに政治的な思惑や国内の余剰武器を消費したい軍需産業の本音を「友好国への支援」と言う形にすり替えて戦争を煽ってきた大国の卑劣なやり方でどれだけの人達が亡くなったことだろうか。
話が逸れてしまいましたので戻します。
「多くの罪のない子供たちが苦しんでいる」という報道は裏を返せば「罪があれば殺して良い」とも取れる発言であるから「いたいけな子供たち」「力のない子供たち」というべきではなかろうか。
しかし多くの解釈がなされている「原罪説」から紐解けば、アダムとイブが犯した罪は遺伝的に受け継がれているとするなら人は生まれ落ちた時から罪を背負っているということになるから、報道の文言は誤りということにもなる。
人だから文字を含む言葉を使って様々なことを伝えて情報を伝達し交換し、垂れ流したりするものであるが、伝える側と受け取る側の意識や知的理解度・宗教的背景・性別の差などがあれば「話せば判る」は「話しても解からない」となってしまう。
これが日常の中で起これば、欲が絡み、意見の違いや感情の縺れから、幾ら親しい間柄であっても「諍い」となり「喧嘩」が始まることは多い。
まずは夫婦喧嘩・親子喧嘩・兄弟喧嘩・隣人や職場や学校で・・・と限がなき程日常的に起こっているのである。
この喧嘩が大きくなったものが多国間の「戦争」であるから、この世から「戦争」は決して無くなることはないと思っている。
そして戦になれば「非人道的兵器」や「非人道的行為」などの言葉や文字が報道者達から流されるが「戦」そのものが命のやり取りだから「非人道的」であるはずなのに、その戦の中で使われている兵器の一部だけを「非人道的」というのは戦争を容認している言葉の裏返しであろうし、無抵抗な一般人を殺害することは「非人道的」だと言っても、銃や大砲の弾にミサイルは一般人と兵士の識別装置など付いてはいないだから巻き添えになることもあろうというものである。
報道者達が勢い込んで「非人道的な爆弾が投下され・・・」と言うけれど、通常の爆弾で殺害することは「非人道的」ではないのかと不自然な言葉使いに思えてならない。
何処か何かを上面な綺麗ごとの言葉で誤魔化しているように感じているのはひねくれ者の私だけなのだろうか。
そして又ハローインの騒ぎがやってくる季節になりましたが、昨年だったか隣国で多数の死亡者を出した他国発祥の祭りである。
多くの人達(圧倒的に若者が多いと感じています)が例年のように渋谷の交差点周辺に集まって酒を飲んで騒ぎを起こしているので、きっと今年もそうなるのでしょう。
しかし、なぜ渋谷の交差点なのか、何のために集まるのか、日本で長く受け継がれてきた伝統的な「秋祭り」の時期なのに、それには目もくれず、意味も解からずハローインの祭りに参加?するのは何故(主催者なしの集団だから、最早暴徒に近いのでは・・・)。
これはハローインに集まる全て人の心の中にある「不満」「自己顕著欲」などの発散場所と捉えるなら、何とも心が満たされていない日本人が多いことだろうと寂しくなります。
外国人が集まって騒ぐのは自国の祭りであるから、良かろうと思うけれど、日本の渋谷の交差点でする祭りなのか?祭りを行う場所が違っているよねと言いたくなる。
東洋の思想には「君子危うきに近寄らず」の言葉があるのだけれど、私などはハローイン当日の渋谷交差点は「危うい場所」と思えますが・・・。
夏が終わりかけた頃から仕事の依頼が重なって思うように時間が取れず、更新が遅くなってしまいましたが、ここ数年来の内で初めて資金繰りに苦労することなく会社の運営が出来ているので有難い限りです。
私事はさておいて、地球上ではロシア・ウクライナに加えて中東でもまた戦が再燃して「多くの罪のない子供たちが苦しんでいる」との報道をよく耳にするのだが、私はひねくれ者だからこの言葉にはいつも抵抗を感じている。
その前に戦の形態から考えると「ロシア・ウクライナ」は領土(なわばり)・思想(価値観・考え方の違い)・歴史的背景の複雑な経緯(ロシアの占領下にあったこともある)などが主な原因であろうと理解している。
一方中東の戦は原因が複雑すぎてよく理解が出来ていないのだけれど、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・石油の利権・人種問題などが複雑に絡み合った内容のようですが、出発点は同根の宗教と思われるも、長い間の内に人が宗教を扱うと解釈や考え方・作法の違いなどから発した人の都合による根深いものが生じて、親子喧嘩・兄弟喧嘩のような宗教戦争や民族間戦争ではあるまいかと思えてなりません。
しかし、いずれの宗教も経典なるものがあるはずで、そこには「憎し!と思われる相手は殺せ」と書いてあるのだろうか。いずれの経典も読んだことがないので判らないままですが、おそらくそのような下りは無いと思っている。
人も動物の一種であるから「なわばり」の意識は強く、外国相手では「国境」となり国内では「隣地境界線」となろうか・・・これに関わる争いごとは人類の長い歴史の中で幾度も繰り返されてきているけれど、その悲惨な結果から何も学んできていないことが最大の悲劇であろうし、本来の宗教が目的とする意味すら逸脱しているのではなかろうか。
その争いに政治的な思惑や国内の余剰武器を消費したい軍需産業の本音を「友好国への支援」と言う形にすり替えて戦争を煽ってきた大国の卑劣なやり方でどれだけの人達が亡くなったことだろうか。
話が逸れてしまいましたので戻します。
「多くの罪のない子供たちが苦しんでいる」という報道は裏を返せば「罪があれば殺して良い」とも取れる発言であるから「いたいけな子供たち」「力のない子供たち」というべきではなかろうか。
しかし多くの解釈がなされている「原罪説」から紐解けば、アダムとイブが犯した罪は遺伝的に受け継がれているとするなら人は生まれ落ちた時から罪を背負っているということになるから、報道の文言は誤りということにもなる。
人だから文字を含む言葉を使って様々なことを伝えて情報を伝達し交換し、垂れ流したりするものであるが、伝える側と受け取る側の意識や知的理解度・宗教的背景・性別の差などがあれば「話せば判る」は「話しても解からない」となってしまう。
これが日常の中で起これば、欲が絡み、意見の違いや感情の縺れから、幾ら親しい間柄であっても「諍い」となり「喧嘩」が始まることは多い。
まずは夫婦喧嘩・親子喧嘩・兄弟喧嘩・隣人や職場や学校で・・・と限がなき程日常的に起こっているのである。
この喧嘩が大きくなったものが多国間の「戦争」であるから、この世から「戦争」は決して無くなることはないと思っている。
そして戦になれば「非人道的兵器」や「非人道的行為」などの言葉や文字が報道者達から流されるが「戦」そのものが命のやり取りだから「非人道的」であるはずなのに、その戦の中で使われている兵器の一部だけを「非人道的」というのは戦争を容認している言葉の裏返しであろうし、無抵抗な一般人を殺害することは「非人道的」だと言っても、銃や大砲の弾にミサイルは一般人と兵士の識別装置など付いてはいないだから巻き添えになることもあろうというものである。
報道者達が勢い込んで「非人道的な爆弾が投下され・・・」と言うけれど、通常の爆弾で殺害することは「非人道的」ではないのかと不自然な言葉使いに思えてならない。
何処か何かを上面な綺麗ごとの言葉で誤魔化しているように感じているのはひねくれ者の私だけなのだろうか。
そして又ハローインの騒ぎがやってくる季節になりましたが、昨年だったか隣国で多数の死亡者を出した他国発祥の祭りである。
多くの人達(圧倒的に若者が多いと感じています)が例年のように渋谷の交差点周辺に集まって酒を飲んで騒ぎを起こしているので、きっと今年もそうなるのでしょう。
しかし、なぜ渋谷の交差点なのか、何のために集まるのか、日本で長く受け継がれてきた伝統的な「秋祭り」の時期なのに、それには目もくれず、意味も解からずハローインの祭りに参加?するのは何故(主催者なしの集団だから、最早暴徒に近いのでは・・・)。
これはハローインに集まる全て人の心の中にある「不満」「自己顕著欲」などの発散場所と捉えるなら、何とも心が満たされていない日本人が多いことだろうと寂しくなります。
外国人が集まって騒ぐのは自国の祭りであるから、良かろうと思うけれど、日本の渋谷の交差点でする祭りなのか?祭りを行う場所が違っているよねと言いたくなる。
東洋の思想には「君子危うきに近寄らず」の言葉があるのだけれど、私などはハローイン当日の渋谷交差点は「危うい場所」と思えますが・・・。
「酔龍の独り言:その043」
2023-09-28
[ 有名企業が社会の手本となる日は来るのか ]
「ビッグ モーター」と言う車の販売や修理を行っている会社が(保険の代理店も行っていた)、通常感覚では考えられないような修理の形態を取っていたことが発覚した。
更に店舗前の緑地帯に植えてある樹木や草花を枯らす目的で除草剤を撒いていたと言うのである(いま日本で売られているこの除草剤は、かつて米軍がベトナム戦争委で使った悪名高き枯葉剤と同じ成分ではないかと何かの本か記事で読んだことがあるが検証はできていない)。
聞いたところでは出自は山口県岩国市の企業で、創業者は一代で大きな企業に成長させたようであるが、その業務実態の中には、事故にあった車の修理を依頼されて持ち込まれた車体に更なる傷や凹みを修理工場内で付け加えて修理金額を上積みさせていたと言うのだから開いた口が塞がらないとはこのことである。
このような経緯に至ったのは、修理などは保険金で支払われるのだから修理費は膨らむほど企業利益が出るし、誰も困るわけでもないから・・・と言うのがこの企業が描いた筋書きだったのであろう。
そう考えれば良心が咎めても、なんとなくそこを乗り超えられたに違いない。
また除草剤を撒いたのは「生えてくる雑草を撤去するのが負担になっていたから・・・」
と言っている社員の映像を見たような記憶があるが、これは明らかに綺麗ごとな答弁であり実際はそうではあるまい。
多くの地域で同じように除草剤を撒いて樹木や草花を枯らしたのは会社の指示であり、目的は多くの人に見て欲しい車の展示場なのだが、車に乗っている人からの目線を遮る樹木がとても目障りで仕方がなかったのであろうと思っている。
一度に大量の除草剤を撒くと直ぐに樹木が枯れた原因を追究されそうだが、長期にわたってすこしずつやれば自然枯れに近いように見せ掛けられるとの思惑もあったのであろう。
であれば、双方ともに実に狡猾な手法だよねぇ~悪知恵が働くと言えばよいのだろうが、性根の厭らしさや意地汚さが滲み出ている。
しかし、企業がこのような状況下に陥ってしまったら車の修理が目的であるはずの企業理念は何処かへ行ってしまい、金を儲けることだけが目的となってしまって、もう企業の形態を保てなくなっているのに、そのこと知っていたにも拘らず目を背け、正そうとしなかった社員にも罪はあるでしょう。
新たに車に傷をつけることは犯罪であるから、いくら生活の懸かっていようと、上司の命令だったからなどの言い訳は通用しないはずであるが、密室で行われる作業だから、その認識も薄かったのだろうか。
でも結果的にはこのように白日の下に晒されたのだから、遅かれ早かれ、いずれ・・・の域を出ていない。
そう考えると、告発者は恐らく修理工場に勤める社員の一人ではないかと想像しているが、これは推測の域を出ていない。
当のこの会社は昨今会社の運転資金の資金繰りに奔走しているとの情報であるが、不当な利益で会社を大きくしても、結果的に社員を路頭に迷わせるような方向へ導いていった経営者の罪は大きいし、有名な企業でありながら社会に対する信頼を大きく損ねたことが最も許せないことであるが、同じく手に手を取って蜜月を過ごしていた被害者面をしている大手損保会社も同罪であろう。
多くの損保社員を車屋の方へ出向させていたというのだから一連の内容を知らなかったはずはなく、こちらも金のために心も魂も売ってしまっていたに違いない。
いずれも想像の域を出ないけれど状況証拠からの推察であるから違っているとも思えないのだがねえ。
特に車屋さんの方は一代で築き上げた立志伝中の人物であるから、人生の目標にしていた人もいるのではないかと思うが、中身は単に土器に金メッキを施していたにすぎないことが判明したということでしょうか。
しかし、この車屋に限らず「東京オリンピック」に関わる古参の古狸連中がやってきた意地汚い利権とそれに群がる企業や著名人達。
「新型コロナ」の検査・調査や統計に加えて補助金に関する不正申請(100億円を超えるものまであるとか)による件は不正であるとわかってやっていることですから、これらはもう詐欺事件ですよ。
先進国と言われている日本国にある有名企業や有名人たちがその名を連ねているのである。
情けない国になりましたねぇ~もう元には戻れないでしょうか・・・。
内容は変わりますが、先日の読売新聞朝刊一面にある「編集手帳」に次のような文が掲載されていた。
小学校には昔、畳の部屋があった。「作法室」と呼ばれ、正座やお辞儀の仕方を教えた◆東京市の臨時建築局長に招かれた建築学者・佐野利器(としかた)は作法室などいらないと、当時の教育関係者と対立した。関東大震災では100校以上の市立少が消失した。再建にあたり、佐野は耐震・防火にすぐれた鉄筋コンクリート造の設計図に水洗トイレや蒸気暖房を加えた◆大正期に建造を始めた「復興小学校」は今も銀座などに4校が残る。モダンな外観が行き交う人の目に留まるが、第一の目的は意匠ではない。暖房や水洗トイレは避難所としての活用を模索したものと伝わる◆今日で関東大震災から100年になる。防災の歩みも、
それだけの歳月を過ごしたといえる。佐野博士は東京帝大の教授時代、なじみ深い言葉も世に残している。建物が地震から被る力を「震度」と呼び、世界で初めて数値化した。
この論文の発表は震災の10年程前にさかのぼる◆慧眼というほかはない。いち早く都市の危険に気づき、住民の命を心配した人のようである。お人柄を知りたいところだが、生前の面影を映す資料はあまり残っていない。
良くできた文であり、いつも読むのを楽しみにしているのだが、今回は少し引っかかった。
それは「作法室」はいらないと言った下りである。当時の作法室は正座やお辞儀(礼儀の一環)を教え伝える役割のために設けられていたものだと理解している。
現在から考えると新しい家のほとんどに「和室」など設けられてないから「正座やお辞儀」など不要の社会状況下となっているけれど、「作法室」は正座やお辞儀を学ぶことを通じて、人と人が関わり合うこの世での「礼節」を身に付け「恥」を知り「分相応」を知るための入り口ではかなったのかと思うばかりである。
これらを失った現在において、清潔で耐震性の優れた建物は手に入れたようだが、中に住まう人間の方が「慇懃無礼」「恥知らず」「身の程知らず」となっている予想を佐野博士は震災の10年程前に予測はつかなかったのだろうね。
「ビッグ モーター」と言う車の販売や修理を行っている会社が(保険の代理店も行っていた)、通常感覚では考えられないような修理の形態を取っていたことが発覚した。
更に店舗前の緑地帯に植えてある樹木や草花を枯らす目的で除草剤を撒いていたと言うのである(いま日本で売られているこの除草剤は、かつて米軍がベトナム戦争委で使った悪名高き枯葉剤と同じ成分ではないかと何かの本か記事で読んだことがあるが検証はできていない)。
聞いたところでは出自は山口県岩国市の企業で、創業者は一代で大きな企業に成長させたようであるが、その業務実態の中には、事故にあった車の修理を依頼されて持ち込まれた車体に更なる傷や凹みを修理工場内で付け加えて修理金額を上積みさせていたと言うのだから開いた口が塞がらないとはこのことである。
このような経緯に至ったのは、修理などは保険金で支払われるのだから修理費は膨らむほど企業利益が出るし、誰も困るわけでもないから・・・と言うのがこの企業が描いた筋書きだったのであろう。
そう考えれば良心が咎めても、なんとなくそこを乗り超えられたに違いない。
また除草剤を撒いたのは「生えてくる雑草を撤去するのが負担になっていたから・・・」
と言っている社員の映像を見たような記憶があるが、これは明らかに綺麗ごとな答弁であり実際はそうではあるまい。
多くの地域で同じように除草剤を撒いて樹木や草花を枯らしたのは会社の指示であり、目的は多くの人に見て欲しい車の展示場なのだが、車に乗っている人からの目線を遮る樹木がとても目障りで仕方がなかったのであろうと思っている。
一度に大量の除草剤を撒くと直ぐに樹木が枯れた原因を追究されそうだが、長期にわたってすこしずつやれば自然枯れに近いように見せ掛けられるとの思惑もあったのであろう。
であれば、双方ともに実に狡猾な手法だよねぇ~悪知恵が働くと言えばよいのだろうが、性根の厭らしさや意地汚さが滲み出ている。
しかし、企業がこのような状況下に陥ってしまったら車の修理が目的であるはずの企業理念は何処かへ行ってしまい、金を儲けることだけが目的となってしまって、もう企業の形態を保てなくなっているのに、そのこと知っていたにも拘らず目を背け、正そうとしなかった社員にも罪はあるでしょう。
新たに車に傷をつけることは犯罪であるから、いくら生活の懸かっていようと、上司の命令だったからなどの言い訳は通用しないはずであるが、密室で行われる作業だから、その認識も薄かったのだろうか。
でも結果的にはこのように白日の下に晒されたのだから、遅かれ早かれ、いずれ・・・の域を出ていない。
そう考えると、告発者は恐らく修理工場に勤める社員の一人ではないかと想像しているが、これは推測の域を出ていない。
当のこの会社は昨今会社の運転資金の資金繰りに奔走しているとの情報であるが、不当な利益で会社を大きくしても、結果的に社員を路頭に迷わせるような方向へ導いていった経営者の罪は大きいし、有名な企業でありながら社会に対する信頼を大きく損ねたことが最も許せないことであるが、同じく手に手を取って蜜月を過ごしていた被害者面をしている大手損保会社も同罪であろう。
多くの損保社員を車屋の方へ出向させていたというのだから一連の内容を知らなかったはずはなく、こちらも金のために心も魂も売ってしまっていたに違いない。
いずれも想像の域を出ないけれど状況証拠からの推察であるから違っているとも思えないのだがねえ。
特に車屋さんの方は一代で築き上げた立志伝中の人物であるから、人生の目標にしていた人もいるのではないかと思うが、中身は単に土器に金メッキを施していたにすぎないことが判明したということでしょうか。
しかし、この車屋に限らず「東京オリンピック」に関わる古参の古狸連中がやってきた意地汚い利権とそれに群がる企業や著名人達。
「新型コロナ」の検査・調査や統計に加えて補助金に関する不正申請(100億円を超えるものまであるとか)による件は不正であるとわかってやっていることですから、これらはもう詐欺事件ですよ。
先進国と言われている日本国にある有名企業や有名人たちがその名を連ねているのである。
情けない国になりましたねぇ~もう元には戻れないでしょうか・・・。
内容は変わりますが、先日の読売新聞朝刊一面にある「編集手帳」に次のような文が掲載されていた。
小学校には昔、畳の部屋があった。「作法室」と呼ばれ、正座やお辞儀の仕方を教えた◆東京市の臨時建築局長に招かれた建築学者・佐野利器(としかた)は作法室などいらないと、当時の教育関係者と対立した。関東大震災では100校以上の市立少が消失した。再建にあたり、佐野は耐震・防火にすぐれた鉄筋コンクリート造の設計図に水洗トイレや蒸気暖房を加えた◆大正期に建造を始めた「復興小学校」は今も銀座などに4校が残る。モダンな外観が行き交う人の目に留まるが、第一の目的は意匠ではない。暖房や水洗トイレは避難所としての活用を模索したものと伝わる◆今日で関東大震災から100年になる。防災の歩みも、
それだけの歳月を過ごしたといえる。佐野博士は東京帝大の教授時代、なじみ深い言葉も世に残している。建物が地震から被る力を「震度」と呼び、世界で初めて数値化した。
この論文の発表は震災の10年程前にさかのぼる◆慧眼というほかはない。いち早く都市の危険に気づき、住民の命を心配した人のようである。お人柄を知りたいところだが、生前の面影を映す資料はあまり残っていない。
良くできた文であり、いつも読むのを楽しみにしているのだが、今回は少し引っかかった。
それは「作法室」はいらないと言った下りである。当時の作法室は正座やお辞儀(礼儀の一環)を教え伝える役割のために設けられていたものだと理解している。
現在から考えると新しい家のほとんどに「和室」など設けられてないから「正座やお辞儀」など不要の社会状況下となっているけれど、「作法室」は正座やお辞儀を学ぶことを通じて、人と人が関わり合うこの世での「礼節」を身に付け「恥」を知り「分相応」を知るための入り口ではかなったのかと思うばかりである。
これらを失った現在において、清潔で耐震性の優れた建物は手に入れたようだが、中に住まう人間の方が「慇懃無礼」「恥知らず」「身の程知らず」となっている予想を佐野博士は震災の10年程前に予測はつかなかったのだろうね。
「酔龍の独り言:その042」
2023-08-28
[ マイナンバーカード ]
書くには遅きに失した感がありますが、書かなければならないと思いますので書きます。
諸問題満載で未だに国民の理解が得られていないまま不鮮明と疑惑の総合商社化しているマイナンバーカードだが、政府は現在の健康保険証を廃止して令和六年には完全にマイナンバーカードへと移行させたいと言っている。
ここで内容が誠に持って不鮮明であり、国民が中々納得出来ていないうちの幾つかを列挙して考えて見ようと思う。
① :まず現在の健康保険証の制度下で、これまでに何らかの不都合が生じていたのかと言えば、全くそのようなことは無いのだから何故マイナンバーカードと一緒にしなければならないのかの疑問が湧いてくる。
② :次にマイナンバーカードに健康保険証を紐付けると、病院や診療所の手続きに新しく読み取り機械を設置しなければならないことになるので医療機関に設置費用の負担を押し付けることになるから結果的に保健料の値上げにも繋がるかも・・・。
③ :加えて年金の受け取り口座や銀行口座をも紐付けするのである。
④ :自動車運転免許証も紐付けする予定のようである。
大きいところではこの四つだろうと思うけれど①についてはどのような疑いの目と心をもってしても現行の健康保険証を廃止する意味が判らず理解が出来ないので、こうなると間違いなく隠された利権が絡んでいる以外に他無く、それは恐らく既存の天下り先に何らかの利権を紐付けたか、いや若しかしたら新しい天下り先を造ったに違いないと思われるので、結局意味もなく良く解からないことを法制化してまでやろうとすること自体が目眩ましであり官僚の天下り先製造の常套手段であると思っている(個人の感想ですけどね)。
②に至っては、現状で既存の健康保険証が正確に紐付けされておらずマイナンバーカードを読み取り機に掛けると他人の保険証が出てきたり、該当なしと表示されたりする事故が多発しているようであるし、急激な医療事務の変更に対応できていないこともあろう。
またデジタル方式なので健康保険証を家に忘れて来たのとは違って、これまでのように後日健康保険証を持参することも出来ず、自らが健康保険証の当事者であることを証明することができない上にデータを書き換えることも出来ないのだから、当日は診療費用の十割(全額)を支払い、いつ正確なマイナンバーカードが送られてくるものか、正確なデータ処理がいつ終わるのか、など判らないまま待つだけとなり、その間は診療費用七割分の立替払いを続けさせられることになります。
これを便利と言うのかそれとも、逆にとても不便になったのか判ったものではない。
③については明らかに国民の個人資産を丸裸にしようとしている魂胆であろうことは見え見えであり、新札発行時に絡めて国民が所有している現金の全てを把握しようとしていることは明白である(新札発行時には旧紙幣は全く使用不可能となることからもその魂胆が垣間見える・聖徳太子も福沢諭吉も樋口一葉も使用できない日本の経済社会となります)。
⑤ については何故だろうと少し疑問に思うのは、国家資格の全てを紐付けするのなら、有資格者の全てをも把握したいのか・・・とある程度の理解が出来るが、自動車運転免許証だけを紐付けするのは何故だろう(ただ単に数が多いからだけだとは思えないのだけれど)。
と言うのも日本の行政は縦割り行政だから、他省庁の内情の調査や把握がとても困難なので、一本化しようと言うのならまだ判るが、そうなると日本はマイナンバーカードを統轄している総務省だけあればよいと言うことになるが、絶対を付けて良いほどそうとはならない(他の省庁が利権を手放すことは無いからねぇ)。
そしてマイナンバーカード移行業務を請け負っているのが大企業の「富士通・日立製作所・NTTデータ・NEC・日本IBM」であるが、これらの中にはシステムの不備を起こしたり、データ移行業務を中国企業に一括下請けに出したところもあるようだから、未完成のソフトで業務を受注し、自社の金儲けの為なら国民の個人情報を外国に売り渡してもよいのかと言われるようなことを平気でやっていると言われても仕方があるまい。
それにしても、マイナンバーカード移行に一人2万円の給付をしてでも「やりたい」の本音はどこにあるのでしょうかねぇ~本当に不思議ですよねぇ~。
何らかの思惑でも無ければ国が国民に対して金をバラ撒くことなど決してすることは無いから・・・総額で2兆円ですよ。
私は最後の一人になってからマイナンバーカードに移行しようと思っているのですが・・・。
でもデジタル省の手続きの申請は相変わらず「紙」で行っているそうですよ。
書くには遅きに失した感がありますが、書かなければならないと思いますので書きます。
諸問題満載で未だに国民の理解が得られていないまま不鮮明と疑惑の総合商社化しているマイナンバーカードだが、政府は現在の健康保険証を廃止して令和六年には完全にマイナンバーカードへと移行させたいと言っている。
ここで内容が誠に持って不鮮明であり、国民が中々納得出来ていないうちの幾つかを列挙して考えて見ようと思う。
① :まず現在の健康保険証の制度下で、これまでに何らかの不都合が生じていたのかと言えば、全くそのようなことは無いのだから何故マイナンバーカードと一緒にしなければならないのかの疑問が湧いてくる。
② :次にマイナンバーカードに健康保険証を紐付けると、病院や診療所の手続きに新しく読み取り機械を設置しなければならないことになるので医療機関に設置費用の負担を押し付けることになるから結果的に保健料の値上げにも繋がるかも・・・。
③ :加えて年金の受け取り口座や銀行口座をも紐付けするのである。
④ :自動車運転免許証も紐付けする予定のようである。
大きいところではこの四つだろうと思うけれど①についてはどのような疑いの目と心をもってしても現行の健康保険証を廃止する意味が判らず理解が出来ないので、こうなると間違いなく隠された利権が絡んでいる以外に他無く、それは恐らく既存の天下り先に何らかの利権を紐付けたか、いや若しかしたら新しい天下り先を造ったに違いないと思われるので、結局意味もなく良く解からないことを法制化してまでやろうとすること自体が目眩ましであり官僚の天下り先製造の常套手段であると思っている(個人の感想ですけどね)。
②に至っては、現状で既存の健康保険証が正確に紐付けされておらずマイナンバーカードを読み取り機に掛けると他人の保険証が出てきたり、該当なしと表示されたりする事故が多発しているようであるし、急激な医療事務の変更に対応できていないこともあろう。
またデジタル方式なので健康保険証を家に忘れて来たのとは違って、これまでのように後日健康保険証を持参することも出来ず、自らが健康保険証の当事者であることを証明することができない上にデータを書き換えることも出来ないのだから、当日は診療費用の十割(全額)を支払い、いつ正確なマイナンバーカードが送られてくるものか、正確なデータ処理がいつ終わるのか、など判らないまま待つだけとなり、その間は診療費用七割分の立替払いを続けさせられることになります。
これを便利と言うのかそれとも、逆にとても不便になったのか判ったものではない。
③については明らかに国民の個人資産を丸裸にしようとしている魂胆であろうことは見え見えであり、新札発行時に絡めて国民が所有している現金の全てを把握しようとしていることは明白である(新札発行時には旧紙幣は全く使用不可能となることからもその魂胆が垣間見える・聖徳太子も福沢諭吉も樋口一葉も使用できない日本の経済社会となります)。
⑤ については何故だろうと少し疑問に思うのは、国家資格の全てを紐付けするのなら、有資格者の全てをも把握したいのか・・・とある程度の理解が出来るが、自動車運転免許証だけを紐付けするのは何故だろう(ただ単に数が多いからだけだとは思えないのだけれど)。
と言うのも日本の行政は縦割り行政だから、他省庁の内情の調査や把握がとても困難なので、一本化しようと言うのならまだ判るが、そうなると日本はマイナンバーカードを統轄している総務省だけあればよいと言うことになるが、絶対を付けて良いほどそうとはならない(他の省庁が利権を手放すことは無いからねぇ)。
そしてマイナンバーカード移行業務を請け負っているのが大企業の「富士通・日立製作所・NTTデータ・NEC・日本IBM」であるが、これらの中にはシステムの不備を起こしたり、データ移行業務を中国企業に一括下請けに出したところもあるようだから、未完成のソフトで業務を受注し、自社の金儲けの為なら国民の個人情報を外国に売り渡してもよいのかと言われるようなことを平気でやっていると言われても仕方があるまい。
それにしても、マイナンバーカード移行に一人2万円の給付をしてでも「やりたい」の本音はどこにあるのでしょうかねぇ~本当に不思議ですよねぇ~。
何らかの思惑でも無ければ国が国民に対して金をバラ撒くことなど決してすることは無いから・・・総額で2兆円ですよ。
私は最後の一人になってからマイナンバーカードに移行しようと思っているのですが・・・。
でもデジタル省の手続きの申請は相変わらず「紙」で行っているそうですよ。
「酔龍の独り言:その041」
2023-07-31
[ 少子化対策の追加と働き方改革 ]
「少子化対策の追加(女だって社会で活躍できれば面白い)」
仕事が忙しくてブログの更新の原稿を書く時間が思うように取れず遅くなりました。
近年欧米の真似をして、いや欧米に阿(おもね)いてか、女性の管理職を三割以上にすることを法制化しようとしているようである。
恐らく制定される法文には女性の管理職となるに相応しい能力を持ち合わせているか否かは記載されないはずである。
女性の管理職を3割以上にする内容は「形態」の話であり、その管理職に相応しい能力を有しているか否かは「質」の話しである。
日本の政治家も官僚もやはり「質」を扱うことが苦手なようで、能力を問わずして女性管理職を三割以上にしろと平気で謳い込もうとするのだから始末が悪い。
該当する能力を有する女性がいなくとも、法律で三割以上とされれば、能力不足の女性管理職を生むことにもなるから、その下で働く部下はその日から地獄の日々が始まるであろうし、社内で不要な軋轢を生むかもしれないことなど想像できないのだろうか。
管理職は性別を問わず経営管理能力を持ち合わせてさえいれば、何ら問題は無いのだけれど、一律に女性管理職を三割以上とされればねぇ。
女性蔑視ではありませんので、誤解無きようにして頂きたいのですが、男と女の特性について論じることなく無視して、一律に法制化は問題であろうと言うことです。
話が少し逸れ気味なのですが、男と女については理念や観念で捉えると「平等」になってしまいます。
しかし体が持つ特性や機能面の違いに加えて、感覚・感情面から捉えると「不平等」で全く別な生き物ですよ。
これを論じ始めると長~い文になってしまいますのでここでは割愛して、結論のみにしたいと思います。
女だって社会に進出して活躍できるようになれば今までに味わうことの無かった「面白さ」を知るようになります。
能力のある優秀な女ほど社会の中で活躍の場を広げて行き、信頼も信用も身に付けて高額な報酬も手にするようになるのは自然な姿です。
そうなると家にいて子供を産み育児をし日常の生活面を支える(これは女の本能)よりも、社会に出て活躍する方(これは男の本能)が面白くなるから子供を産もうとは思わなくなっても不思議ではない。
女の本能を無視して社会に進出しなければ生活ができない社会にしてしまい、その上社会進出を法律で煽るようなことをすれば益々小子化は加速するであろうことは間違いない。
日本に限らず人口が増加していた時代は女が社会で活躍していなかった時代であると確信している。恐らく現代でも変わらないのではないでしょうか。
尤もこれは観念が作り上げた社会「男も女も同じ能力を持っている」という現代人の脳が錯覚をしているだけだと思うので、昔の人の方が偉かったように感じます。
男と女の特性や能力・機能面の差と、この世に於ける役割の違いをちゃんと捉えて認識していたからこそ「男女7歳にして席を同じゅうせず」があったのだと考えていますので、「教育」も別が良い様な気がします。
続いて「働き方改革」について少し考えて見ましたが、よく解からないので、この言葉そのものの意味から考えてみると、今までの「働き方」に何らかの問題があったから「改革」すると言うことでしょうから、何の問題があったのかをはっきりささなければただの「空論」で終わってしまいそうですよね。
法文の内容を詳しく照査したわけではありませんが、どうやら労働者に対して「働く時間に残業を含めて制限を設けろ」「休みを取らせろ」などが主なところでしょうか。
数年前からNHK「チコちゃんに叱られる」の中で「働き方改革のコーナー」と名を打った場面が出てくるが「社員に大型連休を取らせるためにといいながら、チコと芸人の二人だけがその場面に出演して、照明も暗くしている」形態だけを見ていると、うっかり納得して騙されそうになるかも知れないが「本質」で捉えると「チコと芸人の二人だけで出来るのなら」今までの内容は余分であった(やらなくてよいことをやっていた)と言う事にならないか?またその一場面だけ照明係りなどの人を減らしても、照明さんは傍に控えているのだろうから、口先だけの改革で、それが大型連休を取れることに繋がることにはならないだろう。
郵政事業も同じことをやっていて、土日の郵便物の配達をやめてしまった。
そのお陰で郵便物が届くのが今までの三倍近い日数を要するようになったのは皆さんも実感しておられることと思います。
つまり働き方改革とは「消費者に不便を与えることで成り立ち」「消費者にとって余り意味のないことによって成り立ったっている」ということでしょうか。
しかしここまで来ると日本はもう「共産国」と同じだね。情けない国になってしまった。
「少子化対策の追加(女だって社会で活躍できれば面白い)」
仕事が忙しくてブログの更新の原稿を書く時間が思うように取れず遅くなりました。
近年欧米の真似をして、いや欧米に阿(おもね)いてか、女性の管理職を三割以上にすることを法制化しようとしているようである。
恐らく制定される法文には女性の管理職となるに相応しい能力を持ち合わせているか否かは記載されないはずである。
女性の管理職を3割以上にする内容は「形態」の話であり、その管理職に相応しい能力を有しているか否かは「質」の話しである。
日本の政治家も官僚もやはり「質」を扱うことが苦手なようで、能力を問わずして女性管理職を三割以上にしろと平気で謳い込もうとするのだから始末が悪い。
該当する能力を有する女性がいなくとも、法律で三割以上とされれば、能力不足の女性管理職を生むことにもなるから、その下で働く部下はその日から地獄の日々が始まるであろうし、社内で不要な軋轢を生むかもしれないことなど想像できないのだろうか。
管理職は性別を問わず経営管理能力を持ち合わせてさえいれば、何ら問題は無いのだけれど、一律に女性管理職を三割以上とされればねぇ。
女性蔑視ではありませんので、誤解無きようにして頂きたいのですが、男と女の特性について論じることなく無視して、一律に法制化は問題であろうと言うことです。
話が少し逸れ気味なのですが、男と女については理念や観念で捉えると「平等」になってしまいます。
しかし体が持つ特性や機能面の違いに加えて、感覚・感情面から捉えると「不平等」で全く別な生き物ですよ。
これを論じ始めると長~い文になってしまいますのでここでは割愛して、結論のみにしたいと思います。
女だって社会に進出して活躍できるようになれば今までに味わうことの無かった「面白さ」を知るようになります。
能力のある優秀な女ほど社会の中で活躍の場を広げて行き、信頼も信用も身に付けて高額な報酬も手にするようになるのは自然な姿です。
そうなると家にいて子供を産み育児をし日常の生活面を支える(これは女の本能)よりも、社会に出て活躍する方(これは男の本能)が面白くなるから子供を産もうとは思わなくなっても不思議ではない。
女の本能を無視して社会に進出しなければ生活ができない社会にしてしまい、その上社会進出を法律で煽るようなことをすれば益々小子化は加速するであろうことは間違いない。
日本に限らず人口が増加していた時代は女が社会で活躍していなかった時代であると確信している。恐らく現代でも変わらないのではないでしょうか。
尤もこれは観念が作り上げた社会「男も女も同じ能力を持っている」という現代人の脳が錯覚をしているだけだと思うので、昔の人の方が偉かったように感じます。
男と女の特性や能力・機能面の差と、この世に於ける役割の違いをちゃんと捉えて認識していたからこそ「男女7歳にして席を同じゅうせず」があったのだと考えていますので、「教育」も別が良い様な気がします。
続いて「働き方改革」について少し考えて見ましたが、よく解からないので、この言葉そのものの意味から考えてみると、今までの「働き方」に何らかの問題があったから「改革」すると言うことでしょうから、何の問題があったのかをはっきりささなければただの「空論」で終わってしまいそうですよね。
法文の内容を詳しく照査したわけではありませんが、どうやら労働者に対して「働く時間に残業を含めて制限を設けろ」「休みを取らせろ」などが主なところでしょうか。
数年前からNHK「チコちゃんに叱られる」の中で「働き方改革のコーナー」と名を打った場面が出てくるが「社員に大型連休を取らせるためにといいながら、チコと芸人の二人だけがその場面に出演して、照明も暗くしている」形態だけを見ていると、うっかり納得して騙されそうになるかも知れないが「本質」で捉えると「チコと芸人の二人だけで出来るのなら」今までの内容は余分であった(やらなくてよいことをやっていた)と言う事にならないか?またその一場面だけ照明係りなどの人を減らしても、照明さんは傍に控えているのだろうから、口先だけの改革で、それが大型連休を取れることに繋がることにはならないだろう。
郵政事業も同じことをやっていて、土日の郵便物の配達をやめてしまった。
そのお陰で郵便物が届くのが今までの三倍近い日数を要するようになったのは皆さんも実感しておられることと思います。
つまり働き方改革とは「消費者に不便を与えることで成り立ち」「消費者にとって余り意味のないことによって成り立ったっている」ということでしょうか。
しかしここまで来ると日本はもう「共産国」と同じだね。情けない国になってしまった。