「酔龍の独り言:その039」
2023-05-26
[ 少子化対策その四 ]
「少子化対策その四(窮屈になった日本の社会と核家族[政策]の失敗)」
また金融機関大手である都市銀行が振り込み手数料を値上げすると発表したとの報道があったが、前回の振り込み手数料値上げから僅か一年しか経っていない。
殆どの銀行は数十億円か千億円以上の利益を出しているにも拘らず、まだ不足だと言っているのですよね。対外的にはお客さんのため、利用者の為と言いながら、どのように考えてみても、やっていることは銀行が今以上の利益確保と手間の省略が目的であることは明白であろう(振り込み手数料を値上げすることが本当にお客さんのためや利用者の為になるのかねぇ。自問自答して欲しいものである)。
このような社会にしてしまったからこそ、庶民は将来的な不安を感じて希望が持てない気持ちになってしまうので、結婚して子供を産む意欲が湧いてこない(社会を取り巻いている環境が何時また値上げをするのだろうか・・・と)。
四月二十七日にこの発表を聞いたので、つい愚痴ってしまいましたが、本文に入ります。
世界中を見渡しても今の日本ほど綺麗な街並みを維持している国はなかろう・・・道路にゴミやタバコの吸殻など殆ど見かけないし、安心安全の謳い文句の下で手摺や柵などがあちらこちらに張り巡らされて、道路や歩道における高低差の解消までが進められている。
とても綺麗で安全な国ですよねぇ、でもこのような良い国で何故子供が増えないのか不思議で仕方がありません(綺麗で安全な国との表現は形態の話しです)。
では今の日本は本当に住みやすく、国に対して信頼がおけて将来にも希望が持てる様な国ですかと聞かれれば、殆どの人は「否」と答えが返ってくる様な気がしています(これが本質の話です)。
今の日本は外見上の見た目は良いけれど、中身はどうやら違っているようで、とても住み辛く窮屈で、先の見えない社会だと考えている人の方が圧倒的に多いように思えます。
まず、住み辛いと感じてしまう事について検証してみましょう。
現在の日本国に於いて法律(政令・省令・条例・告示・規則・細則などは行政側が作成するのでしょう)は国会が開かれるたびに新しく作られていますし、現在では時代にそぐわず不要になったと思われる様な法文も削除されず生き続けているのが現状です。
私達日本国民は膨大な法文の下で、これらの法に触れずに生活していると言うことになるわけですが、その全ての法文を理解した上で生活している訳でもありません。
法とはある意味で言えば、魚を捕る網のようなものだと思えば解かり易いもので、網の種類が多くなり、網目の大きさが小さくなるほど庶民にとっては窮屈になるということですから、業種を問わず年齢性別をも問わずに掛けられている網(法)は恐らく道路交通法でしょうから、自転車を例に取れば判り易いと思いますので少し触れてみれば、二人乗り禁止から始まり通行方法や通行場所まで決められ、ながら運転の禁止に防犯登録の義務や保険加入にヘルメットの着用まで口出しされるようになったのは、自転車の性能が格段に向上し、交通量の増加に加えて事故も増えている現状では、建前上で人命尊重・安心安全を謳い文句にしている我が国ですから、これらの法が決して悪いとは言えないけれど、高が自転車ですよ・・・そこまで規制するのか・・・何だか窮屈ですよねぇ、でもこのような規制は30年前には無かったと思うけど・・・。
しかし、このような規制を設けても、スマホを触りながらの運転や通行禁止の場所での運転などをよく見かけますので、法で縛ってみても効果は薄いものだとの証でしょう。
だからやはり自転車や車・スマホなどの道具を扱う側である「人の心の在り方や美しさ」
「惻隠の情」などが日本人の心から欠けた事によるところが大きいと思っています。
自転車の例などは、どれほどあるのか判らない法の中の一例でしかありませんから、砂浜の中にある砂の一粒と言ったところでしょうが、それぞれの業界に係る法を加えたら一体如何程の法文があるのやら、そして法文は国債の発行と一緒で増え続けているし、改正と謳いながら本質は国民虐めの改悪に近い内容と思われるものが多いと感じているのは私だけではあるまい。
話が少し脇道に逸れますが中国の史実に基づいた物語「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)」では、秦を滅ぼして漢帝国を築き上げた劉邦が最初に法を定めたのが「殺すな・盗むな・騙すな」の三つであったと記憶しているが、秦の時代では難しい法が多くあって国が纏まらなかったけれど、この三つの法にしたら民にとって判り易く、格段に治安が良くなったと言うことであったらしい。
昔から言われていることに「法は簡素なほど良い」と「法は運用されるべきで適用するべきではない」があるけれど、現在の法文は専門職の弁護士でも難解な法文も多く、法を適用していることも多くあるように感じているから、やはり窮屈ではないでしょうか。
法による規制に頼ることは、善良な人の心を痛めるだけで返って悪循環に陥りやすいのに、新しい法ばかりを作り国民の心を窮屈にするのでは「子供を産んで、育ててみよう」との気持ちは湧いてこないでしょう。
社会全体が自己中心的となって、他人を想い遣る気持ちが薄れ、助け合うことをしなくなった人の心が小子化を招いていることなのに何故それに気づかないのだろうか。
これに輪をかけて小子化の要因となったのは「核家族(政策)」である。
日本では戦後の高度成長・経済成長の下で官民一体となって個人住宅産業を育成してきた経緯があり、今日まで来る途中の40年ほど前までは建設される公団住宅や個人の家(建売住宅がほとんどである)が2DKや3DKでも、床面積は15坪(50㎡)以下で、とても小さく(狭く)て、諸外国からも「ウサギ小屋」と揶揄された時期もあったが、家の広さから考えると子供は2人までだったでしょう。
この頃から小子化と言われる兆候が顕著となってきたのではと思っています。
しかし、同じ日本国内でもまだ田舎の方では、古くから住み続けていた広く大きな家で夫婦の両親(中には夫婦どちらか数人の兄妹)と同居している中で子育てをしていた家庭が一般的だったので、長く子育てをしてきて蓄積された親の知恵を貰いながら、忙しい時は親や兄弟の手を借りることが出来たから、家の中でお互いが助け合いながらの生活が確かにそこにあった。
だから先行きのことなどに関しても今と同じように不安を感じていたと思われるが、現在とは違って心身共に余裕が持てる中で子育てが出来ていたと言うことではなかろうか。
それから次第に女が結婚する相手は「長男以外で、高学歴、高収入」でなければ嫌だと言う社会現象が生じた時期もあり、親との同居を嫌がる風潮が広まってしまった。
更に悪いことに学歴に偏執する社会となったため子供達の多くは都会の大学に行き、そのまま街で就職し結婚して家を持つようになった流れがごく普通の家庭の姿となったので、日常的に兄弟・親子で助け合って生活していた社会が世の中から消えてしまったのが現在である。
また都会に出て行かなければ希望する仕事にも就けず、十分な収入も得られない社会となっては一家の長男までが家を出てしまい、広くて大きな田舎の家は終に住み手を失い、買い手も借り手も見つからないでは、朽ち果てるのを待つ以外に残された道が無い現状は、まるで現在の我が身と重なるようにも思えるのは、これまで日本の行く先が誤った方向であることに気が付かずに歩んで来た団塊の世代である75歳前後の者達の共通した悩みなのに、追い討ちをかけるように田舎の空き家となった家をそのまま放置すれば「空き家税(新法です)」を課せられるようになるとは、年寄りに鞭打つ政策としか捉えようのない政策である。なにせ住む人が少なくなってしまった田舎の家や土地など借り手の需要など無く、売ろうにも買い手が付かずの現状ですからねぇ~一体どうしろと言うのでしょうか。地方自治体が引き取ってくれれば有難いのだけど、負となる土地や家は引き取らないそうですから困ったものです。
それなら家を壊せば良いではないかと思われるかもしれませんが、広い家を壊すのには少なくとも今直ぐ数百万円以上は必要やで、そんで持って家を壊したら今度は土地の評価額が上がるから土地の固定資産税が何倍かになりますわなぁ、どちらを取っても踏まれたり蹴ったりされるようで面白くありませんなぁ、やはり窮屈で仕方ありません。
先進国と言われている都市に人口が集中しているのは日本だけではなくて世界中で共通していることです。そして同じく共通しているのが「核家族」と「小子化」ですよ。
人口が増加している国「インド」では三世代が一つの住まいを共有しているのではないでしょうか、詳しく調べている訳ではありませんので自信はありませんが・・・。
ただ、戦後アメリカから押し付けられた多くの法によって良き日本の心と生活習慣や文化が駆逐されたことは否定できません。
過去の日本において鎌倉幕府が潰れてしまった最大の理由は現在と同じ平等相続にあったことを忘れてはいけません。「平等相続」は「核家族」と同じことです。
一見良さそうに見えるけれど、相続を繰り返すごとに資産は痩せ細り、幾ら生活に必要な物といえども本家に一つあれば全員で使いまわして済んでいたのに、相続したら子供の数の分だけ必要となるのですからねぇ、この上もなく無駄を増やしているのが今の日本でしょうか。
鎌倉時代と同じ道を歩んでいるのが昭和・平成・令和ですから、滅びの道を辿っているということでしょうか。
「少子化対策その四(窮屈になった日本の社会と核家族[政策]の失敗)」
また金融機関大手である都市銀行が振り込み手数料を値上げすると発表したとの報道があったが、前回の振り込み手数料値上げから僅か一年しか経っていない。
殆どの銀行は数十億円か千億円以上の利益を出しているにも拘らず、まだ不足だと言っているのですよね。対外的にはお客さんのため、利用者の為と言いながら、どのように考えてみても、やっていることは銀行が今以上の利益確保と手間の省略が目的であることは明白であろう(振り込み手数料を値上げすることが本当にお客さんのためや利用者の為になるのかねぇ。自問自答して欲しいものである)。
このような社会にしてしまったからこそ、庶民は将来的な不安を感じて希望が持てない気持ちになってしまうので、結婚して子供を産む意欲が湧いてこない(社会を取り巻いている環境が何時また値上げをするのだろうか・・・と)。
四月二十七日にこの発表を聞いたので、つい愚痴ってしまいましたが、本文に入ります。
世界中を見渡しても今の日本ほど綺麗な街並みを維持している国はなかろう・・・道路にゴミやタバコの吸殻など殆ど見かけないし、安心安全の謳い文句の下で手摺や柵などがあちらこちらに張り巡らされて、道路や歩道における高低差の解消までが進められている。
とても綺麗で安全な国ですよねぇ、でもこのような良い国で何故子供が増えないのか不思議で仕方がありません(綺麗で安全な国との表現は形態の話しです)。
では今の日本は本当に住みやすく、国に対して信頼がおけて将来にも希望が持てる様な国ですかと聞かれれば、殆どの人は「否」と答えが返ってくる様な気がしています(これが本質の話です)。
今の日本は外見上の見た目は良いけれど、中身はどうやら違っているようで、とても住み辛く窮屈で、先の見えない社会だと考えている人の方が圧倒的に多いように思えます。
まず、住み辛いと感じてしまう事について検証してみましょう。
現在の日本国に於いて法律(政令・省令・条例・告示・規則・細則などは行政側が作成するのでしょう)は国会が開かれるたびに新しく作られていますし、現在では時代にそぐわず不要になったと思われる様な法文も削除されず生き続けているのが現状です。
私達日本国民は膨大な法文の下で、これらの法に触れずに生活していると言うことになるわけですが、その全ての法文を理解した上で生活している訳でもありません。
法とはある意味で言えば、魚を捕る網のようなものだと思えば解かり易いもので、網の種類が多くなり、網目の大きさが小さくなるほど庶民にとっては窮屈になるということですから、業種を問わず年齢性別をも問わずに掛けられている網(法)は恐らく道路交通法でしょうから、自転車を例に取れば判り易いと思いますので少し触れてみれば、二人乗り禁止から始まり通行方法や通行場所まで決められ、ながら運転の禁止に防犯登録の義務や保険加入にヘルメットの着用まで口出しされるようになったのは、自転車の性能が格段に向上し、交通量の増加に加えて事故も増えている現状では、建前上で人命尊重・安心安全を謳い文句にしている我が国ですから、これらの法が決して悪いとは言えないけれど、高が自転車ですよ・・・そこまで規制するのか・・・何だか窮屈ですよねぇ、でもこのような規制は30年前には無かったと思うけど・・・。
しかし、このような規制を設けても、スマホを触りながらの運転や通行禁止の場所での運転などをよく見かけますので、法で縛ってみても効果は薄いものだとの証でしょう。
だからやはり自転車や車・スマホなどの道具を扱う側である「人の心の在り方や美しさ」
「惻隠の情」などが日本人の心から欠けた事によるところが大きいと思っています。
自転車の例などは、どれほどあるのか判らない法の中の一例でしかありませんから、砂浜の中にある砂の一粒と言ったところでしょうが、それぞれの業界に係る法を加えたら一体如何程の法文があるのやら、そして法文は国債の発行と一緒で増え続けているし、改正と謳いながら本質は国民虐めの改悪に近い内容と思われるものが多いと感じているのは私だけではあるまい。
話が少し脇道に逸れますが中国の史実に基づいた物語「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)」では、秦を滅ぼして漢帝国を築き上げた劉邦が最初に法を定めたのが「殺すな・盗むな・騙すな」の三つであったと記憶しているが、秦の時代では難しい法が多くあって国が纏まらなかったけれど、この三つの法にしたら民にとって判り易く、格段に治安が良くなったと言うことであったらしい。
昔から言われていることに「法は簡素なほど良い」と「法は運用されるべきで適用するべきではない」があるけれど、現在の法文は専門職の弁護士でも難解な法文も多く、法を適用していることも多くあるように感じているから、やはり窮屈ではないでしょうか。
法による規制に頼ることは、善良な人の心を痛めるだけで返って悪循環に陥りやすいのに、新しい法ばかりを作り国民の心を窮屈にするのでは「子供を産んで、育ててみよう」との気持ちは湧いてこないでしょう。
社会全体が自己中心的となって、他人を想い遣る気持ちが薄れ、助け合うことをしなくなった人の心が小子化を招いていることなのに何故それに気づかないのだろうか。
これに輪をかけて小子化の要因となったのは「核家族(政策)」である。
日本では戦後の高度成長・経済成長の下で官民一体となって個人住宅産業を育成してきた経緯があり、今日まで来る途中の40年ほど前までは建設される公団住宅や個人の家(建売住宅がほとんどである)が2DKや3DKでも、床面積は15坪(50㎡)以下で、とても小さく(狭く)て、諸外国からも「ウサギ小屋」と揶揄された時期もあったが、家の広さから考えると子供は2人までだったでしょう。
この頃から小子化と言われる兆候が顕著となってきたのではと思っています。
しかし、同じ日本国内でもまだ田舎の方では、古くから住み続けていた広く大きな家で夫婦の両親(中には夫婦どちらか数人の兄妹)と同居している中で子育てをしていた家庭が一般的だったので、長く子育てをしてきて蓄積された親の知恵を貰いながら、忙しい時は親や兄弟の手を借りることが出来たから、家の中でお互いが助け合いながらの生活が確かにそこにあった。
だから先行きのことなどに関しても今と同じように不安を感じていたと思われるが、現在とは違って心身共に余裕が持てる中で子育てが出来ていたと言うことではなかろうか。
それから次第に女が結婚する相手は「長男以外で、高学歴、高収入」でなければ嫌だと言う社会現象が生じた時期もあり、親との同居を嫌がる風潮が広まってしまった。
更に悪いことに学歴に偏執する社会となったため子供達の多くは都会の大学に行き、そのまま街で就職し結婚して家を持つようになった流れがごく普通の家庭の姿となったので、日常的に兄弟・親子で助け合って生活していた社会が世の中から消えてしまったのが現在である。
また都会に出て行かなければ希望する仕事にも就けず、十分な収入も得られない社会となっては一家の長男までが家を出てしまい、広くて大きな田舎の家は終に住み手を失い、買い手も借り手も見つからないでは、朽ち果てるのを待つ以外に残された道が無い現状は、まるで現在の我が身と重なるようにも思えるのは、これまで日本の行く先が誤った方向であることに気が付かずに歩んで来た団塊の世代である75歳前後の者達の共通した悩みなのに、追い討ちをかけるように田舎の空き家となった家をそのまま放置すれば「空き家税(新法です)」を課せられるようになるとは、年寄りに鞭打つ政策としか捉えようのない政策である。なにせ住む人が少なくなってしまった田舎の家や土地など借り手の需要など無く、売ろうにも買い手が付かずの現状ですからねぇ~一体どうしろと言うのでしょうか。地方自治体が引き取ってくれれば有難いのだけど、負となる土地や家は引き取らないそうですから困ったものです。
それなら家を壊せば良いではないかと思われるかもしれませんが、広い家を壊すのには少なくとも今直ぐ数百万円以上は必要やで、そんで持って家を壊したら今度は土地の評価額が上がるから土地の固定資産税が何倍かになりますわなぁ、どちらを取っても踏まれたり蹴ったりされるようで面白くありませんなぁ、やはり窮屈で仕方ありません。
先進国と言われている都市に人口が集中しているのは日本だけではなくて世界中で共通していることです。そして同じく共通しているのが「核家族」と「小子化」ですよ。
人口が増加している国「インド」では三世代が一つの住まいを共有しているのではないでしょうか、詳しく調べている訳ではありませんので自信はありませんが・・・。
ただ、戦後アメリカから押し付けられた多くの法によって良き日本の心と生活習慣や文化が駆逐されたことは否定できません。
過去の日本において鎌倉幕府が潰れてしまった最大の理由は現在と同じ平等相続にあったことを忘れてはいけません。「平等相続」は「核家族」と同じことです。
一見良さそうに見えるけれど、相続を繰り返すごとに資産は痩せ細り、幾ら生活に必要な物といえども本家に一つあれば全員で使いまわして済んでいたのに、相続したら子供の数の分だけ必要となるのですからねぇ、この上もなく無駄を増やしているのが今の日本でしょうか。
鎌倉時代と同じ道を歩んでいるのが昭和・平成・令和ですから、滅びの道を辿っているということでしょうか。
「酔龍の独り言:その038」
2023-04-24
[ 少子化対策その三 ]
今の日本において士業を含めて専門的職業についている人達の殆どは国家資格保持者である。
この国家資格を有するには、まず受験資格(国家資格の試験が受けられる最低の基準)と言うものがあって、その殆どが学歴と習得した学科となっています。
これまで国家資格の受験資格を全て調べてみたことはありませんが、恐らく高校卒業以上の学歴が必要とされているはずで、中には大学の特定されている学科を修了した者に限定されているものもあります。
と言うことは、中学校卒業以下では国家資格を得ることは出来ないと言うことになり、学歴が無くてもその職業には就けるかもしれないけれど、仮に本人の素質や能力がその道において、とても優れているものを有していたとしても、国家資格を有することは出来ないと言うことになるので、社会的な扱いが粗末にされることが多いと思われます(会社における地位や給与待遇など)。
尤も高校卒業と同等となる認定を受けられる機関もあるようですが、世の中には本質的といえばよいのか、心情的にと言う方がよいのか、明らかに学問的な能力が劣っている方や学問がとても苦手な方も多いのです。
ではそのような方々はどのような仕事に就けば社会的に信頼されて、少しでも尊敬が得られ、お客さんからも喜ばれて、ある程度安定した収入が得られるのかと言えば、職人になる道と家内工業である家業を継ぐことであったのはもう一昔の話で、今の日本に於いてはその道は残されていない。
今まで何度も同じことを書いてきましたが、政府と官僚が良き日本の社会構造を壊してしまったことが小子化の原因の一つにもなっていると思うのです。
学問など出来なくても十分に社会の中で活躍が出来きて、安定した収入が得られる社会こそ本来人が形成するべき社会形態であって、かつての日本では地域の方から喜んで貰えていた職人としての腕や、作る食品・料理の味、製造する製品の良さなどが尊敬とまでは行かなくとも、少なからず賞賛される職業として活躍できていた社会であったものを壊してしまったのである。
大手企業による製品の工業化を押し進めて、職人や家内工業の生きる道を狭めてしまい、大店法(だいてんほう)を施行させることで地域に深く根付いていた商店や店舗を壊滅させたつけが現在形になって顕われて、学問が出来ない若者は生活の糧を得る場を失ってしまった。
ほんの一例に過ぎないけれど、それによってこのような若者達は振り込み詐欺などの特殊詐欺と言われている悪事に手を染めるような事柄に巧みな手法で取り込まれてしまっているのではないかと思うのです。これらの事件で検挙された人は、氷山の一角であろうし、その予備軍は相当数いるはずなので、酷い格差社会の底辺に近い人達は生活の糧を得ることが出来ないから、不本意ながら悪事の道に引きずられてしまっていると言うことでしょうか、このような若者達が自分の将来像として描く「結婚・出産・子育て」など考えられるわけなどないでしょう。
人は自分の持つ能力を高めるために、長い間に渡って少しずつ周囲の人達との信頼関係を築き、仕事の腕を磨きながら積み上げてきた技術でもって働いてその対価を得る。その対価で「結婚・出産・子育て」を含む日常生活を営むからこそ充実感や満足感が得られるものであって「働くことは喜び」であるなどの意識が持てるようになれば、自ずと「心の充足度」は高まり、多少収入が低くても人は不平・不満など口にしないものである。
ただ、現在のような社会構成下では「仕事は金を得る」手段となってしまい「仕事をすることは喜びである」との意識を持っている人はとても少ないと思う。
このような意識の差が日本を駄目にした根本原因であって、欧米の悪しき習慣を取り入れて現在は正にアメリカ合衆国日本州と化してしまったようである(戦後マッカーサーがやったウオーギルド・インフォメーション・プログラムは大成功を収めたと言ってよいと思うけれど、当のご本人は後日アメリカに帰国して綴った回顧録の中で、あのプログラムを日本に押し付けたのは間違いであったと懺悔している内容の近代歴史書を読んだことがある)。
労使関係に於いてもかつての日本の創業者は社員を我が子以上に可愛がり慈しみ教育しながら「(人としての素地を)育てていた」けれど、欧米の経営者は社員を「金を稼ぐ道具」程度にしか考えていないから、人を育てることなど決してせず、業務マニュアルを押し付けているだけである。
現在の日本の大企業は正にアメリカのこの方策を模倣して企業運営を行っているから多くの若い社員を抱えながらも金儲けの為の教育はしているようだが「人を育ててはいない」ので殺伐とした会社となってしまっているのではなかろうかと想像していますし、経営陣達が先を争うように法令を含み同義的違反に手を染めていることからも推察できる。
かつての話が多くなってしまいますが、かつて戦争が起こることを前提として国は国民に対して戦闘員確保のために「産めや、増やせや」政策のようなものがあったと聞いていて、勿論子供のことなのだけれど、このことを奨励するわけではありませんが、ではその当時と大東亜戦争終結後に復員して帰ってきた時に生じたベビーブーム(団塊の世代と呼ばれた)人達の子育てと現在を比較してみればもう少し本質に迫ることが出来るのではないかと思います。
そこで終戦後に於ける当時の子育てを振り返ってみると子供の生活費や出産費用に加えて教育費などに対して国が補助金を支給していたのかと言えば「否」であるにも拘らず多くの子供達を産んで育てていた(子供の人数に応じての所得減税はあったと思うが、微々たるものであったと思っている)。
では当時子供の生活費や教育には金が掛からなかったのかといえば、そんなことはあろうはずもなく、やはりある程度の金は掛かっていたのだから、一体何が違うから子供を産まなくなったのかの答えがここにあろうと言うものである。
仮に我が子が学問など出来なくても「十分に生活できる環境が社会の中にあった」から親は安心して子育てができたのだと思っている(子供の出来不出来に係らず将来に対しての不安など感じなかったからではないだろうか)。
現在SDGs(エスディージーズ)と盛んに叫ばれている内容だけれど「多様性を認め」「誰も置き去りにしない」「貧困をなくす」」など全部で17項目あるようですが、日本の当時には近隣同士で助け合い、家族や親戚と協力し合って生活を成り立たせていた環境を構築していたので、真のSDGsを既に行っていたと言うことになるが、それをぶち壊しておいてから今になって何故SDGsなどと叫ぶのかと言いたい。
それは全て日本の良き文化と生活様式をアメリカに倣って捨ててしまったからに他ならない。自分にとって都合のよい権利の主張ばかりを振り回して他を攻撃し、真偽を確かめもせずに無責任に嘘の情報を垂れ流し、世間に向けた謳い文句はとても良いのだが、やっていることは自分の都合を消費者に押し付けているだけの大企業の姿などをみていては「このような社会の中で多くの子供を産んで育てる意欲」が湧くでしょうか。
小子化については高額な出産費用に加え、子供を育てる為に必要な生活費や教育費が不足すること以外にもっと大きな要因があることに政治家も官僚も気付いていないから的外れな議論と政策ばかりが出てくるのだろうと思っています。
又文章が長くなってしまいましたので [ 少子化対策その四(窮屈になった日本の社会と核家族政策の失敗) ] は次回に持ち越します。
今の日本において士業を含めて専門的職業についている人達の殆どは国家資格保持者である。
この国家資格を有するには、まず受験資格(国家資格の試験が受けられる最低の基準)と言うものがあって、その殆どが学歴と習得した学科となっています。
これまで国家資格の受験資格を全て調べてみたことはありませんが、恐らく高校卒業以上の学歴が必要とされているはずで、中には大学の特定されている学科を修了した者に限定されているものもあります。
と言うことは、中学校卒業以下では国家資格を得ることは出来ないと言うことになり、学歴が無くてもその職業には就けるかもしれないけれど、仮に本人の素質や能力がその道において、とても優れているものを有していたとしても、国家資格を有することは出来ないと言うことになるので、社会的な扱いが粗末にされることが多いと思われます(会社における地位や給与待遇など)。
尤も高校卒業と同等となる認定を受けられる機関もあるようですが、世の中には本質的といえばよいのか、心情的にと言う方がよいのか、明らかに学問的な能力が劣っている方や学問がとても苦手な方も多いのです。
ではそのような方々はどのような仕事に就けば社会的に信頼されて、少しでも尊敬が得られ、お客さんからも喜ばれて、ある程度安定した収入が得られるのかと言えば、職人になる道と家内工業である家業を継ぐことであったのはもう一昔の話で、今の日本に於いてはその道は残されていない。
今まで何度も同じことを書いてきましたが、政府と官僚が良き日本の社会構造を壊してしまったことが小子化の原因の一つにもなっていると思うのです。
学問など出来なくても十分に社会の中で活躍が出来きて、安定した収入が得られる社会こそ本来人が形成するべき社会形態であって、かつての日本では地域の方から喜んで貰えていた職人としての腕や、作る食品・料理の味、製造する製品の良さなどが尊敬とまでは行かなくとも、少なからず賞賛される職業として活躍できていた社会であったものを壊してしまったのである。
大手企業による製品の工業化を押し進めて、職人や家内工業の生きる道を狭めてしまい、大店法(だいてんほう)を施行させることで地域に深く根付いていた商店や店舗を壊滅させたつけが現在形になって顕われて、学問が出来ない若者は生活の糧を得る場を失ってしまった。
ほんの一例に過ぎないけれど、それによってこのような若者達は振り込み詐欺などの特殊詐欺と言われている悪事に手を染めるような事柄に巧みな手法で取り込まれてしまっているのではないかと思うのです。これらの事件で検挙された人は、氷山の一角であろうし、その予備軍は相当数いるはずなので、酷い格差社会の底辺に近い人達は生活の糧を得ることが出来ないから、不本意ながら悪事の道に引きずられてしまっていると言うことでしょうか、このような若者達が自分の将来像として描く「結婚・出産・子育て」など考えられるわけなどないでしょう。
人は自分の持つ能力を高めるために、長い間に渡って少しずつ周囲の人達との信頼関係を築き、仕事の腕を磨きながら積み上げてきた技術でもって働いてその対価を得る。その対価で「結婚・出産・子育て」を含む日常生活を営むからこそ充実感や満足感が得られるものであって「働くことは喜び」であるなどの意識が持てるようになれば、自ずと「心の充足度」は高まり、多少収入が低くても人は不平・不満など口にしないものである。
ただ、現在のような社会構成下では「仕事は金を得る」手段となってしまい「仕事をすることは喜びである」との意識を持っている人はとても少ないと思う。
このような意識の差が日本を駄目にした根本原因であって、欧米の悪しき習慣を取り入れて現在は正にアメリカ合衆国日本州と化してしまったようである(戦後マッカーサーがやったウオーギルド・インフォメーション・プログラムは大成功を収めたと言ってよいと思うけれど、当のご本人は後日アメリカに帰国して綴った回顧録の中で、あのプログラムを日本に押し付けたのは間違いであったと懺悔している内容の近代歴史書を読んだことがある)。
労使関係に於いてもかつての日本の創業者は社員を我が子以上に可愛がり慈しみ教育しながら「(人としての素地を)育てていた」けれど、欧米の経営者は社員を「金を稼ぐ道具」程度にしか考えていないから、人を育てることなど決してせず、業務マニュアルを押し付けているだけである。
現在の日本の大企業は正にアメリカのこの方策を模倣して企業運営を行っているから多くの若い社員を抱えながらも金儲けの為の教育はしているようだが「人を育ててはいない」ので殺伐とした会社となってしまっているのではなかろうかと想像していますし、経営陣達が先を争うように法令を含み同義的違反に手を染めていることからも推察できる。
かつての話が多くなってしまいますが、かつて戦争が起こることを前提として国は国民に対して戦闘員確保のために「産めや、増やせや」政策のようなものがあったと聞いていて、勿論子供のことなのだけれど、このことを奨励するわけではありませんが、ではその当時と大東亜戦争終結後に復員して帰ってきた時に生じたベビーブーム(団塊の世代と呼ばれた)人達の子育てと現在を比較してみればもう少し本質に迫ることが出来るのではないかと思います。
そこで終戦後に於ける当時の子育てを振り返ってみると子供の生活費や出産費用に加えて教育費などに対して国が補助金を支給していたのかと言えば「否」であるにも拘らず多くの子供達を産んで育てていた(子供の人数に応じての所得減税はあったと思うが、微々たるものであったと思っている)。
では当時子供の生活費や教育には金が掛からなかったのかといえば、そんなことはあろうはずもなく、やはりある程度の金は掛かっていたのだから、一体何が違うから子供を産まなくなったのかの答えがここにあろうと言うものである。
仮に我が子が学問など出来なくても「十分に生活できる環境が社会の中にあった」から親は安心して子育てができたのだと思っている(子供の出来不出来に係らず将来に対しての不安など感じなかったからではないだろうか)。
現在SDGs(エスディージーズ)と盛んに叫ばれている内容だけれど「多様性を認め」「誰も置き去りにしない」「貧困をなくす」」など全部で17項目あるようですが、日本の当時には近隣同士で助け合い、家族や親戚と協力し合って生活を成り立たせていた環境を構築していたので、真のSDGsを既に行っていたと言うことになるが、それをぶち壊しておいてから今になって何故SDGsなどと叫ぶのかと言いたい。
それは全て日本の良き文化と生活様式をアメリカに倣って捨ててしまったからに他ならない。自分にとって都合のよい権利の主張ばかりを振り回して他を攻撃し、真偽を確かめもせずに無責任に嘘の情報を垂れ流し、世間に向けた謳い文句はとても良いのだが、やっていることは自分の都合を消費者に押し付けているだけの大企業の姿などをみていては「このような社会の中で多くの子供を産んで育てる意欲」が湧くでしょうか。
小子化については高額な出産費用に加え、子供を育てる為に必要な生活費や教育費が不足すること以外にもっと大きな要因があることに政治家も官僚も気付いていないから的外れな議論と政策ばかりが出てくるのだろうと思っています。
又文章が長くなってしまいましたので [ 少子化対策その四(窮屈になった日本の社会と核家族政策の失敗) ] は次回に持ち越します。
「酔龍の独り言:その037」
2023-03-27
[ 少子化対策その二 ]
本文に入る前に少しお伝えしたいことがあります。
今、藤原正彦氏の「日本人の真価」と言う本を読んでいるのですが、その中に面白い一節がありましたのでご紹介してみます。
2020年5月中旬に米外交誌『フォーリン・ポリシー』が、「日本の新型コロナ対策はことごとく見当違いに見えるが、結果的には世界で最も死亡率を低く抑えた国のひとつである。奇妙な成功」と評しました。
オーストラリアのABC放送は「日本は、満員電車、高い高齢化率、罰則なしの緊急事態宣言、低い検査率など、イタリアやニューヨークの二の舞になる全てを揃えていた。封じ込め成功はミステリー」と報じました。英紙ガーティアンは「衛生観念の高さと、ウイルスに対する国民の静かな決意が賞賛される」と書きました(と本の中の記述にあります)。
この文の中で「日本の新型コロナ対策がことごとく見当違い・・・」の下りには思わず笑ってしまいました(政治家と官僚の無知に医師会の狡猾さが揶揄されていますよね)。
さて、それでは前回の続きを書きます。
前回お伝えしたように、かつて日本が持っていた良き社会構造を崩壊させてしまった今、日本の若い夫婦に子沢山への道が残されているのだろうか・・・と考えてみても、現状の政策では否以外の言葉が出てこない。
子供を沢山産んで育てられないと言うことの裏には、多くの理由があると思っていますが、前回に続き今回はその内の二つについて書いて見ました。
一つは「子育てに金が掛かりすぎる」二つ目は「子供が成長した時に、学歴が無い者には職業の選択肢が極めて少ない資格試験制度にある」と考えています。
ただ、現在の日本における社会構造は一見すると、便利で安全で快適に見えていますが、その裏面に隠されている本質の部分にその原因があり、それが複雑に絡み合っているから、これとこれでだから、これさえ直せば小子化の問題は解決しますと言うことが本当に難しいので、それぞれを繋ぎ合わせて推測していただければと思います。
親が子供を産んでも、現状で破綻寸前となっている年金制度や、上がるばかりの税制に加え、負担が増え続けている医療保険などを鑑みると、親としては子供の教育、子供の将来に対して不安ばかりが覆い被さり、心を痛めるようになってしまうので、一人か二人を育てるのが限界であろうと思うことの方が自然の流れではないでしょうか。
もし将来に希望が持てるような社会構造になるとすれば、親は子供を多く産んで育てる意欲も持てるだろうが、今のところその兆しすら見えてこない。
かつて国民である勤労者が積み立てていた厚生年金基金の莫大な金を使って、官僚が天下り先として多くの施設を造った後に、経営が破綻寸前(民間からは持ち上げられ、国民を見下している輩に事業など出来るわけが無いのに)になったと言いう理由で他企業に土地と建物を二束三文で売却した経緯があるけれど、官僚達は一切の責任を取らずにお構い無しとなっている。このようにして官僚達が国民から金を吸い上げて、都合の良い大義名分をかざして余剰金が生じると使いたい放題使っておきながら大金をドブに捨てた件(これは明らかに事件ですけどね)はこれに限らず今までに数多くあります(厚労省は何十年も前から日本の将来は小子化となり年金制度が破綻することを知っていたのだから、それなら今のうちに使ってしまえ・・・と思ったに違いない)。
このようなことが許される国の制度下では国民に希望が持てる社会であり、信頼できる国であるとは到底思えるはずも無いから、将来が悲観的になっても仕方があるまい。
何故官僚達が国民の金を好き勝手自由に使った上に失敗しても「お咎め」を受けないのかについては「行政のやった仕事の結果に対して上手く行かなかった時に責任を取らせたら、役人が萎縮して十分な仕事が出来なくなるから」だそうです(何かの本で読んだ知識ですが・・・民間企業ではありえないことですけどね)。
しかし、これはなんと恐ろしいことでしょうか、日本一頭脳が優秀だと言われている霞ヶ関の集団が失敗を前提にして仕事をしてよいとの免罪符を与えられているのですからねぇ気楽なことこの上なかろうし、我田引水・牽強(けんきょう)付会(ふかい)・唯我独尊などの言葉は与えられた権利だと腹の中で主張し、朝令暮改などを行っては官僚にとって都合のよい法律ばかりを作り、言葉巧みに法の改正と謳いながら、本質は改悪を平気でやるのだからねぇ、国民が黙して辛抱していることを良いことに、やりたい放題であるが、これを正す機関が日本に無いことが淋しいし、諸悪の根源となっているように思う。
ただ唯一あるとすれば、国会だが政治家達は皆勉強不足で、もし官僚にそっぽを向かれると国会運営が上手く行かないからねぇ、ここには手を付けない、いや付けられないのが本音だろうか(しかし、官僚の人事権は官邸が握るようになったのではなかったかなぁ~)。
このような流れでは、上に立つ者が国や国民のための政治や行政を行っているとは、とても思えなく、逆に国民からは官僚の為に税の搾取をされているような感覚になる。この辺りが是正されれば国民の心に中には役得や不公平感が無くなり本当の意味での安心・安堵感が生まれてきて、将来に対する希望が持てるようになるはずだから自然と子供を多く産んで育てたくもなるように思う(政治家や官僚が信頼に値するようになればの話です)。
『公務員は刑事事件を犯さなくても、国や国民に対して背任行為に近いことを行えば、必ず責任を取らせる』制度を設けなければ日本の国は良き方向に向かうことは無い。
このことは多くの国民が心の中で思っていることだろうと思うので、文にしてみました。
子育てするのには金が掛かるだろうから、金をやれば子供を産むだろうと政府は子育て支援金などと言うものを出そうと企んでいるが、所得制限無しに一律に支給するとか、制限を設けるべきだとかで言い争っているようでは、やはり的が外れたことばかりに目が向いていて本質が見えていない証拠であろう。
国から金を貰うと言うことの意味が判っていないのである。政府は国民全員が乞食だと思っているのではないかと思えるほどで、金を配ることができるのなら最初から各種の税を含めた負担を少なくすれば良いことであって、一旦強制的に召し上げておいてから後になって「恵んでやるから有りがたく思え」では国民の心の中は燻りしこりが残る。
国民の殆どは自分の力で子を産み育てたいのであって、補助金を貰わなければ子供が産めず育てられない社会だというのは、どこか軸が狂っているとしか思えない。
文が長くなってしまいましたので「子供が成長した時に、学歴が無い者には職業の選択肢が極めて少ない資格試験制度にある」は次回にさせてください。
本文に入る前に少しお伝えしたいことがあります。
今、藤原正彦氏の「日本人の真価」と言う本を読んでいるのですが、その中に面白い一節がありましたのでご紹介してみます。
2020年5月中旬に米外交誌『フォーリン・ポリシー』が、「日本の新型コロナ対策はことごとく見当違いに見えるが、結果的には世界で最も死亡率を低く抑えた国のひとつである。奇妙な成功」と評しました。
オーストラリアのABC放送は「日本は、満員電車、高い高齢化率、罰則なしの緊急事態宣言、低い検査率など、イタリアやニューヨークの二の舞になる全てを揃えていた。封じ込め成功はミステリー」と報じました。英紙ガーティアンは「衛生観念の高さと、ウイルスに対する国民の静かな決意が賞賛される」と書きました(と本の中の記述にあります)。
この文の中で「日本の新型コロナ対策がことごとく見当違い・・・」の下りには思わず笑ってしまいました(政治家と官僚の無知に医師会の狡猾さが揶揄されていますよね)。
さて、それでは前回の続きを書きます。
前回お伝えしたように、かつて日本が持っていた良き社会構造を崩壊させてしまった今、日本の若い夫婦に子沢山への道が残されているのだろうか・・・と考えてみても、現状の政策では否以外の言葉が出てこない。
子供を沢山産んで育てられないと言うことの裏には、多くの理由があると思っていますが、前回に続き今回はその内の二つについて書いて見ました。
一つは「子育てに金が掛かりすぎる」二つ目は「子供が成長した時に、学歴が無い者には職業の選択肢が極めて少ない資格試験制度にある」と考えています。
ただ、現在の日本における社会構造は一見すると、便利で安全で快適に見えていますが、その裏面に隠されている本質の部分にその原因があり、それが複雑に絡み合っているから、これとこれでだから、これさえ直せば小子化の問題は解決しますと言うことが本当に難しいので、それぞれを繋ぎ合わせて推測していただければと思います。
親が子供を産んでも、現状で破綻寸前となっている年金制度や、上がるばかりの税制に加え、負担が増え続けている医療保険などを鑑みると、親としては子供の教育、子供の将来に対して不安ばかりが覆い被さり、心を痛めるようになってしまうので、一人か二人を育てるのが限界であろうと思うことの方が自然の流れではないでしょうか。
もし将来に希望が持てるような社会構造になるとすれば、親は子供を多く産んで育てる意欲も持てるだろうが、今のところその兆しすら見えてこない。
かつて国民である勤労者が積み立てていた厚生年金基金の莫大な金を使って、官僚が天下り先として多くの施設を造った後に、経営が破綻寸前(民間からは持ち上げられ、国民を見下している輩に事業など出来るわけが無いのに)になったと言いう理由で他企業に土地と建物を二束三文で売却した経緯があるけれど、官僚達は一切の責任を取らずにお構い無しとなっている。このようにして官僚達が国民から金を吸い上げて、都合の良い大義名分をかざして余剰金が生じると使いたい放題使っておきながら大金をドブに捨てた件(これは明らかに事件ですけどね)はこれに限らず今までに数多くあります(厚労省は何十年も前から日本の将来は小子化となり年金制度が破綻することを知っていたのだから、それなら今のうちに使ってしまえ・・・と思ったに違いない)。
このようなことが許される国の制度下では国民に希望が持てる社会であり、信頼できる国であるとは到底思えるはずも無いから、将来が悲観的になっても仕方があるまい。
何故官僚達が国民の金を好き勝手自由に使った上に失敗しても「お咎め」を受けないのかについては「行政のやった仕事の結果に対して上手く行かなかった時に責任を取らせたら、役人が萎縮して十分な仕事が出来なくなるから」だそうです(何かの本で読んだ知識ですが・・・民間企業ではありえないことですけどね)。
しかし、これはなんと恐ろしいことでしょうか、日本一頭脳が優秀だと言われている霞ヶ関の集団が失敗を前提にして仕事をしてよいとの免罪符を与えられているのですからねぇ気楽なことこの上なかろうし、我田引水・牽強(けんきょう)付会(ふかい)・唯我独尊などの言葉は与えられた権利だと腹の中で主張し、朝令暮改などを行っては官僚にとって都合のよい法律ばかりを作り、言葉巧みに法の改正と謳いながら、本質は改悪を平気でやるのだからねぇ、国民が黙して辛抱していることを良いことに、やりたい放題であるが、これを正す機関が日本に無いことが淋しいし、諸悪の根源となっているように思う。
ただ唯一あるとすれば、国会だが政治家達は皆勉強不足で、もし官僚にそっぽを向かれると国会運営が上手く行かないからねぇ、ここには手を付けない、いや付けられないのが本音だろうか(しかし、官僚の人事権は官邸が握るようになったのではなかったかなぁ~)。
このような流れでは、上に立つ者が国や国民のための政治や行政を行っているとは、とても思えなく、逆に国民からは官僚の為に税の搾取をされているような感覚になる。この辺りが是正されれば国民の心に中には役得や不公平感が無くなり本当の意味での安心・安堵感が生まれてきて、将来に対する希望が持てるようになるはずだから自然と子供を多く産んで育てたくもなるように思う(政治家や官僚が信頼に値するようになればの話です)。
『公務員は刑事事件を犯さなくても、国や国民に対して背任行為に近いことを行えば、必ず責任を取らせる』制度を設けなければ日本の国は良き方向に向かうことは無い。
このことは多くの国民が心の中で思っていることだろうと思うので、文にしてみました。
子育てするのには金が掛かるだろうから、金をやれば子供を産むだろうと政府は子育て支援金などと言うものを出そうと企んでいるが、所得制限無しに一律に支給するとか、制限を設けるべきだとかで言い争っているようでは、やはり的が外れたことばかりに目が向いていて本質が見えていない証拠であろう。
国から金を貰うと言うことの意味が判っていないのである。政府は国民全員が乞食だと思っているのではないかと思えるほどで、金を配ることができるのなら最初から各種の税を含めた負担を少なくすれば良いことであって、一旦強制的に召し上げておいてから後になって「恵んでやるから有りがたく思え」では国民の心の中は燻りしこりが残る。
国民の殆どは自分の力で子を産み育てたいのであって、補助金を貰わなければ子供が産めず育てられない社会だというのは、どこか軸が狂っているとしか思えない。
文が長くなってしまいましたので「子供が成長した時に、学歴が無い者には職業の選択肢が極めて少ない資格試験制度にある」は次回にさせてください。
「酔龍の独り言:その036」
2023-02-28
[ 少子化対策その一 ]
新型コロナの扱いが正式に「5類」に引き下げられると発表された途端に感染者が激減し始めたのには驚いているし、もしコロナウイルスに意思があるとすれば「これから先はもうコロナ・コロナと大騒ぎして貰えないのなら、これ以上感染者を増やしても面白くないので感染の拡大もう止~ぁめた」とでも言っていそうな感じがするけれど、感染者に対する統計の扱いが変わっていることも感染者減少の大きな要素なのかも知れません。
さて政府は長年の課題である出生率低下による「少子化問題」に関して、またもや税金を投入しての一律金額支給支援を目論んで国会が紛糾しているようだが、このような政策では全く効果などは出ないと申し上げておく。
どうして政治家と官僚は物事の「本質」が見えないのだろうかと情けなくなってしまう。
戦後直ぐに生まれた俗に言う「団塊の世代」の子供は沢山いた。丁度私がその最後の世代であるが、振り返ってみて当時は本当に日本国民の殆どが貧しかったように記憶している。
しかし、人の世であるから中には金持ちもいたけれど、皆一様に金持ちを妬み羨むわけでも無く「他所の家とうちは違う」の一言で片付けて淡々と生活をしていた。
着る物や履物は粗末であったし、食べる物も粗末な物が多かったけれど望んでみても美味しい物など貧しくて手に入らなかったのだから同じように「仕方が無い」で片付けていたように思う。
それでも親は多くの子供を育てていたのに、今なぜ当時と同じようにそれが出来ないのか?の中に少子化問題解決の「本質」が潜んでいると考えているのだけれど「本質」の要素が一つではなく、またそれらが複雑に絡まりあっているので一言では片付けられない。
まず第1番目に挙げてよいのは「共働きをしなければ子供が育てられない」ことである。
昔は主人の稼ぎだけで一家を養っていたけれど、充分な収入が無くとも、ただただ贅沢をせずに何事につけても「もったいない」の精神を持って、知恵を絞り工夫をしながら生活を営んでいた一言に尽きる。
ちょうど現在生活保護を受けて生活している方の暮らし振りと同じような感じではなかったかという気がします(生活保護を受けている方の生活振りは報道で見ただけなので、それからの推測に過ぎませんが・・・)。
今や一家に一台の車を持ち(交通の便が悪い地域では一人一台持っています)、大型のテレビを備え、食べ切れないほどの美味しい食品を手にし、各室にエアコンを備え便利な家電製品に囲まれた生活が日本に於ける一般的な普通の家庭でしょうか。
更に昔は一家に一台の固定電話があれば十分に家庭の中で役割を果たしていたのに、今や一人に一台の高価なスマホを持っていて、それぞれが電話料金を支払っている。
加えて一匹数万円から数十万円もする愛玩用小動物(犬・猫など)まで養っているのに、子供が産めないと言うのはどこか不思議ではないだろうか。
確かに生活の便利さや状況は向上したけれど、良く考えてみれば最低限生活に必要な物以外に対する出費が多過ぎるのではないかと思われ、本来日本人が長く受け継ぎ営んできた生活における本質を低下させているのではないかと考えられます。
と言うことは、自らが望んで余裕の無い生活へと向かっているように思えてなりません。
恐らく心情としては「皆が持っているから」「皆が飼っているから」「不便だから」などの理由であろうと思っていますが、これらから思考や意識が出発すると、もうそこには生活面での「工夫」は考えず「知恵」も生まれてはこない生活を送るようになり「人は人、自分とは違う」「他所とうちとは違う」との自己を規律する意識すらなくなってしまって「足るを知る」や「分相応」の言葉が脳裏から消え失せてしまうのではないかと考えます。
そもそも人の世では「自分の能力や人柄に加えて、その人物が持つ(不思議な)魅力に対して金も物も人も自らが望まなくとも自然と付いてくる」ものなのだけれど、自分の能力や人柄と魅力を削除しておいて「金」「物」「人」が欲しいと望んだところで手に入るわけなど無いのだが、錯覚するのでしょうかねぇ。
それに拍車をかけているのが消費者金融やローンと言う仕組みで、金がなくとも瞬時に現金を手にし、物を買うことが出来る「打ち出の小槌(現在はカードと言います)」を国民が手にしたことだと考えています。
欲望の趣くままに生活必需品以外の物を多く購入して家の中の居住空間を狭くし、挙句の果てには使わなくなって部屋の片隅に追いやられてゴミ扱いとなっている(結果としては借金までしてゴミを買ってしまったという事になりますよね)。
しかし、購入した物の代金は支払いが終わるまで続いてゆくのだから、収入が増えない限り何かを犠牲にしなければ今まで通りの生活は成り立たない。
その犠牲となっているものの一つが「結婚」や「出産」ではないかと思っています。
また犠牲に出来ることの限界が来て、収入も増える見込みがない状況に陥ればスマホなどからから来る誘いに乗って、軽い気持ちで犯罪に手を染め一生を台無しにしている者が増えていることはその証ではないでしょうか。
人が長い人生を歩んで行く間には年代によって様々な欲求が生じてくるものですが、「自分の能力や分を超えた欲求」など叶うわけが無いことの理解が出来ていないように感じています。人が生きるという事は「醜い欲求を生じさせる己の心との戦いである」と思っていますが、核家族を推奨してきた政府のお陰でこの様な事を子供の頃から教え導く同居する大人がいなくなり、教育を含めて心の充足度を成長させる場を失ってしまった結果、よき社会を構成していた日本の文化が崩壊寸前となっていることが、大きな要素であると私は確信している。
ではどうすれば良いのかという事になりますが、現在の官僚や政治家が一番苦手とする「心の在り方」を論じることになるから期待すら持てそうにない。
「時節には神も適わん」と言われているようだから、行き着くところまで行かねばならないのだろう。その結果を受け止めなければならないのは我々であるが、今の状況では悲惨な結果とならないように祈る以外なす術が無い。
続きは後日更新します
新型コロナの扱いが正式に「5類」に引き下げられると発表された途端に感染者が激減し始めたのには驚いているし、もしコロナウイルスに意思があるとすれば「これから先はもうコロナ・コロナと大騒ぎして貰えないのなら、これ以上感染者を増やしても面白くないので感染の拡大もう止~ぁめた」とでも言っていそうな感じがするけれど、感染者に対する統計の扱いが変わっていることも感染者減少の大きな要素なのかも知れません。
さて政府は長年の課題である出生率低下による「少子化問題」に関して、またもや税金を投入しての一律金額支給支援を目論んで国会が紛糾しているようだが、このような政策では全く効果などは出ないと申し上げておく。
どうして政治家と官僚は物事の「本質」が見えないのだろうかと情けなくなってしまう。
戦後直ぐに生まれた俗に言う「団塊の世代」の子供は沢山いた。丁度私がその最後の世代であるが、振り返ってみて当時は本当に日本国民の殆どが貧しかったように記憶している。
しかし、人の世であるから中には金持ちもいたけれど、皆一様に金持ちを妬み羨むわけでも無く「他所の家とうちは違う」の一言で片付けて淡々と生活をしていた。
着る物や履物は粗末であったし、食べる物も粗末な物が多かったけれど望んでみても美味しい物など貧しくて手に入らなかったのだから同じように「仕方が無い」で片付けていたように思う。
それでも親は多くの子供を育てていたのに、今なぜ当時と同じようにそれが出来ないのか?の中に少子化問題解決の「本質」が潜んでいると考えているのだけれど「本質」の要素が一つではなく、またそれらが複雑に絡まりあっているので一言では片付けられない。
まず第1番目に挙げてよいのは「共働きをしなければ子供が育てられない」ことである。
昔は主人の稼ぎだけで一家を養っていたけれど、充分な収入が無くとも、ただただ贅沢をせずに何事につけても「もったいない」の精神を持って、知恵を絞り工夫をしながら生活を営んでいた一言に尽きる。
ちょうど現在生活保護を受けて生活している方の暮らし振りと同じような感じではなかったかという気がします(生活保護を受けている方の生活振りは報道で見ただけなので、それからの推測に過ぎませんが・・・)。
今や一家に一台の車を持ち(交通の便が悪い地域では一人一台持っています)、大型のテレビを備え、食べ切れないほどの美味しい食品を手にし、各室にエアコンを備え便利な家電製品に囲まれた生活が日本に於ける一般的な普通の家庭でしょうか。
更に昔は一家に一台の固定電話があれば十分に家庭の中で役割を果たしていたのに、今や一人に一台の高価なスマホを持っていて、それぞれが電話料金を支払っている。
加えて一匹数万円から数十万円もする愛玩用小動物(犬・猫など)まで養っているのに、子供が産めないと言うのはどこか不思議ではないだろうか。
確かに生活の便利さや状況は向上したけれど、良く考えてみれば最低限生活に必要な物以外に対する出費が多過ぎるのではないかと思われ、本来日本人が長く受け継ぎ営んできた生活における本質を低下させているのではないかと考えられます。
と言うことは、自らが望んで余裕の無い生活へと向かっているように思えてなりません。
恐らく心情としては「皆が持っているから」「皆が飼っているから」「不便だから」などの理由であろうと思っていますが、これらから思考や意識が出発すると、もうそこには生活面での「工夫」は考えず「知恵」も生まれてはこない生活を送るようになり「人は人、自分とは違う」「他所とうちとは違う」との自己を規律する意識すらなくなってしまって「足るを知る」や「分相応」の言葉が脳裏から消え失せてしまうのではないかと考えます。
そもそも人の世では「自分の能力や人柄に加えて、その人物が持つ(不思議な)魅力に対して金も物も人も自らが望まなくとも自然と付いてくる」ものなのだけれど、自分の能力や人柄と魅力を削除しておいて「金」「物」「人」が欲しいと望んだところで手に入るわけなど無いのだが、錯覚するのでしょうかねぇ。
それに拍車をかけているのが消費者金融やローンと言う仕組みで、金がなくとも瞬時に現金を手にし、物を買うことが出来る「打ち出の小槌(現在はカードと言います)」を国民が手にしたことだと考えています。
欲望の趣くままに生活必需品以外の物を多く購入して家の中の居住空間を狭くし、挙句の果てには使わなくなって部屋の片隅に追いやられてゴミ扱いとなっている(結果としては借金までしてゴミを買ってしまったという事になりますよね)。
しかし、購入した物の代金は支払いが終わるまで続いてゆくのだから、収入が増えない限り何かを犠牲にしなければ今まで通りの生活は成り立たない。
その犠牲となっているものの一つが「結婚」や「出産」ではないかと思っています。
また犠牲に出来ることの限界が来て、収入も増える見込みがない状況に陥ればスマホなどからから来る誘いに乗って、軽い気持ちで犯罪に手を染め一生を台無しにしている者が増えていることはその証ではないでしょうか。
人が長い人生を歩んで行く間には年代によって様々な欲求が生じてくるものですが、「自分の能力や分を超えた欲求」など叶うわけが無いことの理解が出来ていないように感じています。人が生きるという事は「醜い欲求を生じさせる己の心との戦いである」と思っていますが、核家族を推奨してきた政府のお陰でこの様な事を子供の頃から教え導く同居する大人がいなくなり、教育を含めて心の充足度を成長させる場を失ってしまった結果、よき社会を構成していた日本の文化が崩壊寸前となっていることが、大きな要素であると私は確信している。
ではどうすれば良いのかという事になりますが、現在の官僚や政治家が一番苦手とする「心の在り方」を論じることになるから期待すら持てそうにない。
「時節には神も適わん」と言われているようだから、行き着くところまで行かねばならないのだろう。その結果を受け止めなければならないのは我々であるが、今の状況では悲惨な結果とならないように祈る以外なす術が無い。
続きは後日更新します
「酔龍の独り言:その035」
2023-01-30
[ やはり、考えていた通りとなりそうなコロナ感染対策 ]
今年の5月から新型コロナ感染の扱いが「2類」から「5類」に引き下げられことになるようです。
ただ2類から5類に引き下げると言われても、一般の我々には医療関係の法律用語は馴染みが薄く、2類が何を示し5類が何を意味するのかについても調べてみれば判るのでしょうが、日常生活に於いて、さして必要な知識とも思えないので調べる気は起こりません。しかし「引き下げる」と言う言葉から新型コロナに対する扱いが緩くなる事くらいの想像はつきますので、やっとコロナウイルス感染対策が本筋に戻ったかと思うばかりで、報道によると季節性インフルエンザと同じような扱いとなるのが5類のようです。
日本で始めて新型コロナウイルスの感染者が報道されてから、もう3年が経ちます。
その間「マスク着用」に「手指のアルコール消毒」「うがい推奨」「密を避ける」「不要不急の外出制限」などの対策を政府と医師会が一緒になって煽ってきた。
これらの中で本当に感染防止となるものは「密を避ける」「不要不急の外出制限」くらいのことです(人を介して感染するので、人との接触を避けることの意味は大きい)。
以前から何度も本ブログを通じて「マスク着用」と「手指のアルコール消毒」には大した感染予防効果はないと言い続けてきましたけれど、医師会が煽るものだから無知な議員連中と政府も乗せられてしまい今日まで来ています(十万分の一ミリの大きさではマスクを通過するのでウイルスの感染は防げず、アルコール消毒など細菌の扱いと混同している)。
アルコール消毒などはごく弱い「細菌(大腸菌のような雑菌)」を殺菌する効果はあるかもしれませんが、ウイルスは「菌」のような生命体とは異なり「殺菌」することが出来ないので全く「無意味な対策」であったことを再度お伝えしておきます。
少しくどくなりますが、再度改めて「菌」についてお伝えすると、「菌」と名がつくものは細胞を持った「生命体」ですから「殺菌」することが可能ですが、ウイルスは細胞を持たない「不思議な存在」で、どうしてこのようなものが地球上に存在しているのかよく解からないにも拘らず、人や動物の体内に入り込むと活動(増殖)?を始め、更に厄介なことには変異を続けながら地球上の生命体を脅かすのだから始末が悪い。
全く理解が出来ないこの「不思議な存在」は、ある意味で地球も「生命体」であると言うことと同じなのですが、通常人が持つ既成概念では中々そのことの理解は出来ません。
しかし、地球(自転しながら公転している)は動いているし、誰かが熱を加えている訳でも無いのに温度(マグマと言う高熱を百億年近く地球内部に保持し続けている)があり、水分(海に川に雨)を持っているから地球上の生命体と同じ仕組みだと捉えてよいと思いますが、ただ動植物の細胞に値するものが何なのかは判りません(土なのかマントルなのか、それとも何か別なものなのか・・・)。
ただはっきりしていることは地球内部で「地殻変動」が生じていることはご存知だと思いますので、ご理解いただけると思いますが、誰も力を加えていないのに巨大なフィリピンプレートなどが地球内部で動き続けているのですから、これをどのように捉えますか。
死んでいるものは自ら動くことは出来ませんからね。
新型コロナの対策が如何に無意味であったのかをお伝えするつもりでしたのに脱線してしまいましたが、政府が推奨して無料で接種させたワクチンも然りで、そもそもワクチンを接種したなら「感染しない」とならなければ意味が無いのに、数度のワクチン接種を終えた後の人達が次々と感染していった現状をどのように捉えればよいのかねぇ。
その上ワクチンの副反応では多くの方が苦しんでいるし、亡くなったりしている現状もひた隠して公にしていない。
医師会は「重症化を防ぐ役割がある」と嘯いていたけれども、ではワクチンを接種していない人の殆どが重症化したのかといえば、そうではないから実情はややこしくなる。
結局効果の無い、いや無かったワクチンを莫大な税金を投入してアメリカから購入し、それに乗っかって稼ぎ捲った医師の為の政策であったように思うのは私だけだろうか・・・。
そして次の方針としては「当面」コロナ関連の医療費は国費で賄うと言っているけれど、「当面」と言っているので、やがて健康保険の対象にはなるだろうがワクチン接種は自費となり、重症化となって入院しても自費となりそうな気配である(インフルエンザと同じ扱いとなるのですからね)。
更に悪いことは今まで自宅療養でも民間医療保険会社から支給対象となっていた入院給付保険金は今後支給されなくなるそうである。
恐らく今後ワクチン接種が健康保険対象となり一部が自費負担になれば誰も打たなくなると思います。そしてそのまま新型コロナ感染が終息に向かうようであれば私の言ってきたことがもっと顕著になると思います(しかしその時になると医師会や政府はここにきてやっとワクチンの接種効果が顕われたと言いそうですけどね)。
ここまで来ると、これまでの新型コロナ感染に関する扱いは一体なにだったのでしょうかねぇ?やはり感染防止対策と同じで誤った方向を向いていたと言うことでしょうか。
今年の5月から新型コロナ感染の扱いが「2類」から「5類」に引き下げられことになるようです。
ただ2類から5類に引き下げると言われても、一般の我々には医療関係の法律用語は馴染みが薄く、2類が何を示し5類が何を意味するのかについても調べてみれば判るのでしょうが、日常生活に於いて、さして必要な知識とも思えないので調べる気は起こりません。しかし「引き下げる」と言う言葉から新型コロナに対する扱いが緩くなる事くらいの想像はつきますので、やっとコロナウイルス感染対策が本筋に戻ったかと思うばかりで、報道によると季節性インフルエンザと同じような扱いとなるのが5類のようです。
日本で始めて新型コロナウイルスの感染者が報道されてから、もう3年が経ちます。
その間「マスク着用」に「手指のアルコール消毒」「うがい推奨」「密を避ける」「不要不急の外出制限」などの対策を政府と医師会が一緒になって煽ってきた。
これらの中で本当に感染防止となるものは「密を避ける」「不要不急の外出制限」くらいのことです(人を介して感染するので、人との接触を避けることの意味は大きい)。
以前から何度も本ブログを通じて「マスク着用」と「手指のアルコール消毒」には大した感染予防効果はないと言い続けてきましたけれど、医師会が煽るものだから無知な議員連中と政府も乗せられてしまい今日まで来ています(十万分の一ミリの大きさではマスクを通過するのでウイルスの感染は防げず、アルコール消毒など細菌の扱いと混同している)。
アルコール消毒などはごく弱い「細菌(大腸菌のような雑菌)」を殺菌する効果はあるかもしれませんが、ウイルスは「菌」のような生命体とは異なり「殺菌」することが出来ないので全く「無意味な対策」であったことを再度お伝えしておきます。
少しくどくなりますが、再度改めて「菌」についてお伝えすると、「菌」と名がつくものは細胞を持った「生命体」ですから「殺菌」することが可能ですが、ウイルスは細胞を持たない「不思議な存在」で、どうしてこのようなものが地球上に存在しているのかよく解からないにも拘らず、人や動物の体内に入り込むと活動(増殖)?を始め、更に厄介なことには変異を続けながら地球上の生命体を脅かすのだから始末が悪い。
全く理解が出来ないこの「不思議な存在」は、ある意味で地球も「生命体」であると言うことと同じなのですが、通常人が持つ既成概念では中々そのことの理解は出来ません。
しかし、地球(自転しながら公転している)は動いているし、誰かが熱を加えている訳でも無いのに温度(マグマと言う高熱を百億年近く地球内部に保持し続けている)があり、水分(海に川に雨)を持っているから地球上の生命体と同じ仕組みだと捉えてよいと思いますが、ただ動植物の細胞に値するものが何なのかは判りません(土なのかマントルなのか、それとも何か別なものなのか・・・)。
ただはっきりしていることは地球内部で「地殻変動」が生じていることはご存知だと思いますので、ご理解いただけると思いますが、誰も力を加えていないのに巨大なフィリピンプレートなどが地球内部で動き続けているのですから、これをどのように捉えますか。
死んでいるものは自ら動くことは出来ませんからね。
新型コロナの対策が如何に無意味であったのかをお伝えするつもりでしたのに脱線してしまいましたが、政府が推奨して無料で接種させたワクチンも然りで、そもそもワクチンを接種したなら「感染しない」とならなければ意味が無いのに、数度のワクチン接種を終えた後の人達が次々と感染していった現状をどのように捉えればよいのかねぇ。
その上ワクチンの副反応では多くの方が苦しんでいるし、亡くなったりしている現状もひた隠して公にしていない。
医師会は「重症化を防ぐ役割がある」と嘯いていたけれども、ではワクチンを接種していない人の殆どが重症化したのかといえば、そうではないから実情はややこしくなる。
結局効果の無い、いや無かったワクチンを莫大な税金を投入してアメリカから購入し、それに乗っかって稼ぎ捲った医師の為の政策であったように思うのは私だけだろうか・・・。
そして次の方針としては「当面」コロナ関連の医療費は国費で賄うと言っているけれど、「当面」と言っているので、やがて健康保険の対象にはなるだろうがワクチン接種は自費となり、重症化となって入院しても自費となりそうな気配である(インフルエンザと同じ扱いとなるのですからね)。
更に悪いことは今まで自宅療養でも民間医療保険会社から支給対象となっていた入院給付保険金は今後支給されなくなるそうである。
恐らく今後ワクチン接種が健康保険対象となり一部が自費負担になれば誰も打たなくなると思います。そしてそのまま新型コロナ感染が終息に向かうようであれば私の言ってきたことがもっと顕著になると思います(しかしその時になると医師会や政府はここにきてやっとワクチンの接種効果が顕われたと言いそうですけどね)。
ここまで来ると、これまでの新型コロナ感染に関する扱いは一体なにだったのでしょうかねぇ?やはり感染防止対策と同じで誤った方向を向いていたと言うことでしょうか。