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建築家 潤 の『独断と偏見』

雑感その153 「窮屈になった日本:その42:覚悟の四」

        
 NHKの大河ドラマで「八重の桜」が人気を呼んでいるそうだが、その中でよく出てくる台詞に「ならぬものは なりませぬ(ならぬものです)」がある。
会津(福島)の小学校では今でもこの言葉を学校の授業で子供達に教えているという。
意味合いとしては「(人として)してはいけないことは(理由の如何を問わず)してはならない」ということで、前文の(人)を(男)(女)に置き換えればもっと身近な日常生活の所作に関わってくる内容となる。
そう言う意味では「男らしさ」「女らしさ」が死語になった日本にとって、躾や道徳再生の糸口になってくれれば嬉しい限りである。
 何度も言うようだが、戦後社会党系の似非人道主義者が「自由」「平等」を履き違えて、声高らかに叫び「何でも有り」の権利主張社会を先導し、不勉強のマスコミまでがその尻馬に乗って現在の混沌とした社会を作ってしまったことは言いようのない事実である。

 法には違反しないけれども、眉をひそめる出来事ばかりが目につく日常であるが、良識ある大人の誰もがそれを咎めず、注意をしなくなってしまった。
注意をしようものなら逆切れされて殺された例もあるので、口論となって余計な問題を生じさせたくないとの思いからであろう・・・誰もが心を痛めながらも無関心を装うようになってしまった。
   
例を挙げれば、乗り物の中で子供が靴を履いたまま座席の上ではしゃいでいる光景や乗物が込んでいるにも拘らず大きく足を広げ、又は向かいの座席に足を投げ出して座席を占領している輩、若者に関して言えば喰い歩きや路上に座り込んで飲食をしている姿をよく見かけるし、女の服装に関しては大きく胸をはだけ、パンツが見えそうなスカートを穿き、下着が透けて見えるのは良い方で、下着を見せるのがファッションであるかのように自慢げに街中を闊歩している状況である。

 これらの全ては法に触れることではないけれども、良識ある人は溜息をついていることであろうと想像する。
今時「男らしさ」「女らしさ」を求めれば「なにそれ!男女同権でどのような服を着ようが、何をしようが私の自由じゃない!」と言われるに違いないが、良識ある大人が注意をしなくなったせいで「何をしようが私の自由じゃない!」の自由の「境目」が段々と悪い方に崩れて行き、以前は少し持っていたのであろう良識の自覚を見失っている。
この「何をしようが私の自由」こそが戦後日本の社会に蔓延り、戦前に比べて良き世の中になったように思えども、実はこの世の中を窮屈にしている病巣であろうと思っている。
 「何をしようが私の自由」の「しよう」の語句を「報道」に置き換え「言おう」に置き換えればお判り頂けるのではないかと思う。
しかし、何より困ったことは「何をしようが私の自由」を口にする者が、他の人の「何をしようが私の自由」を容認せずに「自分の(自由の)権利のみを主張する」ことにある。
 以前お伝えした共産主義者の言い分「泥棒の世界では泥棒をしても罪にならない」を聞いた時に私は「その社会が実際にあればそうだろうが、その社会でも自分のものを盗られるのは嫌なんじゃない」と言い返したら返す言葉を失っていた話であるが、これと同じ内容に思えてならない。
このような屁理屈がまかり通り、単純な理屈というか道理を教えず、その屁理屈を追求せず、知らせもせずに「自由」を放置し、満喫させている社会はやはりおかしい。
 
「男らしさ」とは「強きを挫き弱きを助け」「道に背かず王道を行く」などがあり、「女らしさ」は「可憐でおしとやか」「素直で従順」を目指したものだったと思うが、これらの全ては人が社会生活を営む上での潤滑剤のようなもの、決して個々の人格を否定したり男女の差別をするものではない。
しかし、潤滑剤であったこれを否定してしまったのだから社会がぎくしゃくして円滑に進まなくなったと言うことだろう。
これらは二千年以上前の中国では孔子が説き、日本では武家社会が台頭してきた頃より日常生活の中で「躾」と共に子供の教育としてきたもので、その書物も沢山残っている。
 これを「悪」だと決めつけ、目の敵にしてきた者達(戦後の官僚・為政者特に女の議員や報道者達に社会主義・共産主義を始めとする日教組など)はどれほどの弊害を日本にもたらしたことか判ってはいまい。
 「躾」を含む「人の道」は理屈や学問では理解ができないもので、数千年に渡って人が円滑な社会を営む上で編み出した「叡智」であり、学者や屁理屈論者の出る幕ではない。

また前置きが長くなりましたが、わたしの「覚悟の二つめ」は次の様なものです。
十年近く勤めた後、何ら当てもなく事業を始めてみたはものの一年目は仕事に恵まれず、情けない思をしたけれども、数年後には社員が雇えるまでに忙しくなってゆきましたが、その間に様々な想いが頭の中を去来した中、いつの間にか心の中に自然と湧いてきた事の一つに、数多くある設計事務所の中から私を選らんで頂いた感謝の気持ちからきたことであろうか「まず第一はお客さん(建築主)のこと、それが済んだら次は社員のこと、それから自分(家族を含む)のこと」と決めた。
これもここまで貫き通してきているけれど、自分のことはいつも最後になるので気分的には「やれやれ」と思うことはあるが、嫌だと感じたり不愉快に思ったことは一度もない。
 私の日常的な行動が勝手気ままで自由奔放に見えていた社員達(能力以上の待遇を受けていた)には理解が出来なかったものであろう。。

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雑感その152 「窮屈になった日本:その41:覚悟の三」

           新年明けましておめでとうございます。

今年も出来る限りブログの更新に努めるよう心掛けますので、宜しくお願い致します。

 私が自分に自覚が芽生え「覚悟」なるものを最初に決めたのは大学卒業式の日でした。
その後、年を重ね人生経験を積んで行くごとに「覚悟」は少しずつ増えて行きましたが、それほど多く持っている訳ではありません。
それでは数少ない私の人生上の「覚悟」をお聞きください。

 今から40年以上も前のことになりますが、大学卒業式に両親が出席すると言い出した。
私は少し照れ臭いこともあり「もう子供じゃあないから来なくていいよ(本人の自覚が無いだけで中身は子供のまま)。」と言ったけれど、どうしても出席すると言い張り、特に父親がその意向を強く言うので諦めたが、じゃあその代わりにと思惑が働き、駄目もとで
以前から欲しかった空気銃を買ってくれるよう頼んでみたら、以外にも「いいよ」と父親が言ったので少し意外な気がした記憶がある。
 と言うのも、父親は学問に関連する出費を惜しんだ記憶はないけれども、それ以外については何だかんだと屁理屈にも似たようなことを言い出しては拒絶する性分であったからだ。

 そして、卒業式が終わった後、両親が私のところにきて父親が「潤坊(親が私を呼ぶ名)おめでとう。おめでとう。」と何とも言いようのない笑顔で嬉しそうに言うのである。
私は自分が望んで行った学部でもなく、ましてや三流大学であるから複雑な気持ちではあったが、戦争で利き腕を無くした父親は学歴が無いことで会社では苦い思いをしたのであろうとの想像はついたが、それほどに喜ぶ姿は異様に思えたほどだった。

そのような気持ちを持ちながら、父親に「空気銃を買いに行くからお金頂戴!」と言うと
片腕の無い父親は母親に向かって「おい!」と一言。
母親からお金を貰った私は友人と共に広島市内の銃砲店を訪ね、銃を物色しながら店主に購入の意向を伝えたら、店主は「講習は受けていますか?」と問いかけてきた。
以前は成年に達していれば購入出来ていたはずなのに法が改正されて、講習を受けた者でなければ販売できないということであった。
予想外の展開となり、取り敢えず今日のところは諦める以外にないので、落胆しながら帰途に就いたが、その帰りの電車の中で様々な思いが湧いてきた。

時間にして僅か1時間半足らずであるが、空気銃所時の講習をいつ受けようか・・・・と思って思案している中、ふと別な意識が湧いてきた。
銃を手にしたら野鳥を撃つことになるが、撃った鳥を食べるつもりなのか?と・・・。
小学生の頃に近所の大人が空気銃で野鳥を打ち、その鳥(ツグミ・ヒヨ鳥など)を貰って何度か食べたが決して美味しいものではなかった記憶が甦ってきた。
よく考えると、別に美味しくも無い野鳥を食べたい訳ではない。
じゃあ、何故空気銃が欲しいと思ったのだろう?と疑問がわいてきた。
台座の美しい木目と黒光りする銃身に対するあこがれの様なものと「猟」の面白さが私をそうさせたのだろう・・・と思うと、突然食べたくもない鳥を撃つのはただの「殺生」ではなか!と何だかとてもかわいそうになり、銃保持の講習を受ける意欲が失せてしまった。
そして、今まで親に嘘(本を買うといっては遊興費に消えた)ばかりをついて金をせしめていた自分がとても情けなく思えた。
その時「そうだ!今まで裕福でも無い親を騙し迷惑をかけてきたので、今からもう二度とこのようなことはしない!。」と決意した。
その決意は「決して親に金をねだらない」こととなり、それと同時に親には余計な心配をかけまいと思う心から「心配をさせるような相談もしない」と自然にこの様な感情が湧いてきた。
それ以来この年まで親に無心をしたことはないし、相談をしたことも無いが、人の世とは上手く行かないもので、何も相談せず、何事も自分で勝手に決め、やってしまう息子は「可愛くない」のだそうで、やれやれである。
まあこれが私と私が交わした最初の「覚悟」で、纏めれば「親に無心をしない・心配をかけない」である。

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雑感その151 「窮屈になった日本:その40:覚悟の二」

 本当に月が経つのは早いもので、今年も残り半月になってしまいました。
前回のブログ「覚悟の一」は少しわかりにくい内容になりましたので、今回から改めます。

 でも前回の続きを少し言わせて下さい。
山中教授がノーベル賞を受賞した時の話の中で「・・洗濯機が故障していて、その修理を・・」
と言った後に、大学の許認可で物議を醸し出した大臣が「受賞のお祝いに洗濯機を贈っては如何だろうか・・・」と報道陣にも話を漏らしたらしい。
この人はノーベル賞の賞金の額を知らないのではなかろうかと耳を疑った。
賞金額は最高級の洗濯機が35台以上買える額だし、いかに研究費が乏しいとは言え、洗濯機の買い替えが出来ないほど彼が生活に困窮しているとも思えないのに、この低次元の発想は何なのだろう?。
困っている様子(本人は実際に困っている訳ではなく、話の序でに出ただけと思われる)の話を聞きつけて「では!」と物を与える発想の原点は、物や金をやれば国民は喜ぶと思い込んでいる官僚や低次元政治家がやっている「補助金政策」と何ら変わりはない。
それに比べ、山中教授が授賞式で話した言葉は「この金メダルは二度と見ないようにして原点に立ち返り、今後も研究を続ける」と言う内容であったことを思うと、雲泥の差を感じる発言内容である。

今回の選挙では当の本人は落選し、父親から引き継いだ大きな選挙地盤から拒否されたことは当然と言えば当然かもしれない。
しかし、自民党がここまで圧勝したことには少々驚いた。
もう一度野に下らせたままで十分な反省期間を与えるべきだと考えていたのに、日本の国民はそう考えなかったと言うことだから、少し甘くないか?と感じた。
また元の利権政治が復活せねば良いが・・・圧倒多数の国民の信を得たと勘違いして思い上がらなければ良いが・・・官僚支配を変えて貰えるのであれば嬉しいが・・・と不安ばかりが頭を過ぎる。

さて本題に入ります。
若い人達には馴染みが薄く、欧米文化の目晦ましに遭ってしまい、そのまま大人になった私達団塊の世代が無くしてしまったものの一つに「覚悟」と言う言葉があると思っています。

そこで、じゃあ「覚悟」とは一体何ぞや?と言うことになりますが、意味合いとしては「予想される(突発的に生じたことも含めて)悪い事態を避けては通れないこととして受け入れること」です。
そしてもう一つ日本語には「潔さ」と言う言葉がありまして、私はこの「覚悟」と「潔さ」と言う言葉を同意語として捉えています。
何故なら「潔さ」とは「未練がましくないこと・思い切りが良いこと・道に叛かないこと」
なので「避けて通れない」事態が起こった時に「潔さ」を持ち合わせていなければ「覚悟」を貫き通すことが出来ません。
それ故にこの二つの言葉が同意語に思えてしまうのです。
仮にある時「覚悟」を決めていたとしても「潔さ」を持ち合わせていなければ「逃げる」か「繕う(誤魔化す)」以外に道はありません。

また「覚悟」とは「約束事」の一つで、誰と誰がする約束かと言えば、自分に対して自分がする約束ですから「覚悟」を口外しない限り誰からも責められことはないものです。

しかし、自分が自分に対して結んだ約束事を守れなかったことについては、自分の人生において最大の恥ずべき汚点になるのだが、このことを「恥ずかしい」と感じなくても良い風潮が今の日本に蔓延していると思っている。

その一番の原因は人が生きて行く上での「誇り」を無くしてしまったからに他ならない。
日本人の心から「誇り」を無くさせたのは戦後米国の「日本人無能化作戦」が成功した結果であろう。
十分な報酬が得られなくとも仕事を通じて己の技術を極め続け、社会補償など無くとも意に介せず、権利の主張などせずに最大限己に課した義務を果たし、後進を育てることに情熱を燃やしていたかつての良き日本人が姿を消しつつある。

労働を「喜び」と「誇り」とは捉えられず、金に換えることであると言う意識を浸透させて、義務は最低の最低を守ってさえいれば良く、権利は最大限の主張をしろ!が戦後欧米から学び、行政が後押しまでして日本人が錯覚して受け入れてしまった価値観である。
今の日本には物が溢れ、安全で、生活は豊かになり、これ以上は必要ないと思われるほどに便利になって、何不自由しない様な状況下において尚「不安」を感じ「窮屈さ」が取れないのは「心の在り方」と言うか「心の据え場所」が違っているからである。

日本人の一人一人が「覚悟(それなりものでも良い)」を持ち「損することなどクソ喰らえだ!」「自分のしでかした責任は自分が取る!」の精神があればこの様な変な社会は出現しないので、戦後の教育方針を大きく間違った結果が今顕著に表れていると言うことだろう。

今年のブログ更新はこれが最後になりそうですが、一年間有難うございました。
来年は私が生業としてきた仕事を通じて全うした「覚悟」を赤裸々に綴ります。
      
皆様健康に気を配られて良いお年をお迎え下さい。

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雑感その150 「窮屈になった日本:その39:覚悟の一」

 1ヶ月経つのが早いこと早いこと、今回も広告を貼り付けられての更新になりました。
その間の主な出来事と言えば、以前このブログで書いた通り、小沢氏は二審判決も無罪となり、橋下氏は朝日新聞系列で中傷されたけれども、朝日新聞が謝罪すると言う今までに例の無い形で一応ケリがついたようだが、何とも言えない虚脱感が残る。

 しかし、この国の官僚や政治家を始めとしてマスコミの輩はまるで「杭打会社」か!
と思えるほど出る杭を打つのが好きである。
権力の中枢にいる官僚や政治家は己の既得権を守りたい愚かな小人達、マスコミは正義漢を装った滑稽な太鼓持ちのように見えてしまうのは私だけであろうか。

 そうしている内に突如野田総理が衆議院を解散すると言い出し、来月には総選挙と世情が慌ただしくなってきた様子だが、さて今回の選挙はどのような結果になるのでしょうかねぇ~。
私の予想としては、あれだけの体たらくを見せた民主党は惨敗するであろう・・・だからと言って自民党は野に下っていた間に反省と悪しき体質を改善したのかと言えば、これも総裁が安倍氏に変わっただけで旧態依然のままであるから、第1党に返り咲くことは出来ないであろう。では・・・どうなるのかと言うことになるけれども、国民の生活が第一党も議席を減らすであろうし、社会党や共産党が伸びてくるとは考えられないから、恐らく石原氏が合流した維新の会の躍進とみんなの党が議席を増やことになろうかと思うが、大きな期待が出来るほどにはなるまい。
戦国時代と同じような群雄割拠の状態を呈すのではなかろうかと想像している。
しかし、公務員制度改革・議員定数削減を謳っている維新会とみんなの党が大躍進してくれることを祈るばかりである。

この際だから、ついでに言わせてもらえれば、マスコミや国の指導者とおぼしめす輩の品性の欠如と言おうか、人に対する鑑定眼の無さと言えば良いのか、人の能力を判定する評価基準がこれほどお粗末なのかと思わされることが多く、私から言わせてもらえば三流週刊誌に載っている芸能人のゴシップ記事内容と同じ位置に見えてしまう。
何故かについてこれから記述します。
先だってノーベル賞を受賞した山中教授を引き合いに使わせて貰えれば、彼がノーベル賞を受賞した途端にNHKを始めとする民放テレビ局の全てと日本中の新聞社並びに週刊誌などがこぞって彼の受賞を称賛する報道を行い、紙面を記事で埋めつくし、号外まで出す新聞社もあった。
この事については日本人である彼が日本に栄誉ある賞もたらしたことに対する喜びと誉れであり、幾ら称賛してもしすぎるということはなかろうと感じるので、ここまでは何ら問題にはならないと思うのだが、一連の報道や記事を見て感じることは「(賞を貰った)彼」を称賛しているのである。
その「彼」とは外見上(容姿・社会的な地位・現住所・家族構成など)の彼を指していて、
私が指す「彼」は中身(人生観・価値観・歴史観・能力など)であるから称賛の対象部分が報道者達とは大きく違う。
ここで仮説を一つ、もし今まで通り「(まだ賞が貰えていない)彼」であったならばどの様な扱いがされるかと言えば、当然のことながら報道もされず、持て囃されることも無く、記事にもならず、恐らく彼の名前すら知らないままであったろう。
しかし、彼が持つ本来の能力や長年積み上げてきた実績や経験はノーベル賞受賞の如何にか拘わらず彼が保有し続けているものであり、ノーベル賞を受賞した後に突然能力や実績が上がった訳ではない。

 まだ未受賞ではあるが、彼のように能力もあり研究の実績を積んでいる人物は世界中にまだまだ沢山いるはずであるにも係らず、賞を受賞するまでは誰も見向きもしないのである。
しかし突如として賞を貰った途端に報道者達は「彼」の全てを称賛し始めるのだから、どちらかと言えば称賛の対象は「(能力を待っていた)彼」ではなくて「(賞を受賞した)彼」を称賛していることになる。

 なぁんだ同じことではないか、なにを訳が判らないことを言っているのだ!と思えるかもしれませんが、実は私の目からはこれが大きく違って見えてしまうのです。
 何故そうなるかと言うと、そもそもこの賞は何に対して贈られたものかと言えば「彼の発見した事柄や研究の成果」に対してであり、その発見や成果は彼の能力が生み出した産物なのだから、賞は本来「彼の能力と成果」に対して贈られたものであるにも拘らず、報道者達が称賛するのは「(外見上の)彼」に加えて「(恐らく未知のまま)の人格や日常生活習慣」までを含めてなのである。
一般的な意見として、能力は彼が所有しているのだから同じことだとお考えの方が多いと思われるけれども、以前にこのブログでも書きました「本質と形態」を思い出して頂ければ良いと思います。

 つまり「前者が本質」で「後者が形態」と言うことになります。
彼の成果を否定するわけではありませんが、受賞はたまたまで、偶然に近い産物と捉えて良いと思います。なぜなら賞を貰おうが貰えまいが彼の能力とジャマナカと呼ばれながらも努力・研究を積み重ねることが出来る姿勢はノーベル賞の受賞とは何ら関係の無いところにあるからです。
研究の途中ではきっと「たまたまの偶然」や「単なる思いつき」「ひらめき」「仮定」などが沢山あり、それが上手く結びついた結果であろう。
オリンピック競技における金メダルの受賞とよく似ているかも・・・と思います。
生まれ持って素質や才能を持ち合わせている選手全員が練習や努力を積み重ねて競うのです。人の能力や体質・体格はある程度高い位置にあればそれほど大きく差があるものではありません。
だから、金メダルもある意味偶然の結果と言って良いと思います(幸運かな)。
しかし、幸運にも金メダルを手にできたからといって、その人物の人格や生活習慣に至るまで金メダルに相当する価値なのか言えばこれはまた別の次元である。

 そう言えば、柔道の金メダリストが教え子に対する強姦罪で世間を賑わかしましたよね。
彼の「本性が本質」で「金メダルの受賞は形態」と言えばお判り頂けるでしょうか。
しかし、かつて金メダリストの彼を散々持て囃した報道者達はこのような結果をただ「残念である」と片付けることで済ませて良いものだろうか。
隠された性癖などはなかなか表に出ないから、難しいと事とは思うけれど、受賞者の全てが素晴らしいと思わせるような過大評価な報道をしていると思って貰えないものだろうか。

 私などはこのような受賞者を含め社会的地位や名声を得ている者も大金を稼いでいる者に対しても、たまたまこの世の役割でそうなっているだけだから、いかに社会で持て囃されていようが評価が高かろうが、その人物の人格と品性を自分の目で確かめ、価値観や人生観を見極めるまで絶対に評価を下さないことにしている。
 だからこのような人物と知り合い、縁が出来ても、礼を失することはしないが、持ち上げもせず、諂わずを貫き通してきた。
世間的に見れば「損をする」性分になるのだろうが、それで仮に損をしたとしても、損得で人生は歩まないと「覚悟」を決めているので、全く意にも介さないでいる。
前段にしてはちょっと理解し難い「覚悟」になってしまいましたが、次回からは判り易い覚悟の話にします。

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雑感その149 「窮屈になった日本:その38」

 前回のブログから、たった半月しか経っていないのに、世間では重大なニュースで沸き返っている。
その一つはips細胞を作り出し、ノーベル賞を受賞した山中伸弥氏に関するものである。
この細胞は夢の様な機能を持ったもので、難病で苦しんでいる人達にとっては神からの贈り物のように感じられたことだろう。
私も難病(幼児期の頃に尾骶骨の一つを疲労骨折していて、治療方法はなく、爆弾を抱えているようなものだと医師から言われている)を抱えているので、もしかしたらこのips細胞で治るかも・・・と思ったりもした。
がしかし、人がこの世に出される時には「与えられた条件(容姿・体格・能力)の下で修業をして来い!・・・様々な艱難辛苦を乗り越えよ!これがこの世に出された時の約束事である」と理解している私などは複雑な気持ちになった。

 もう齢62歳を過ぎて、この先、尾骶骨が抱えている爆弾が爆発して歩行不能になり、そしてips細胞で治すことが出来たとしても、その時はもう若い人達と同じように思い通りの活躍は出来ないし、社会の役に立てそうにもないので、これもこの世で与えられた能力の内の一つとして受け止めて治す必要もないのでは・・・と思うのです。

 ただ、痛みさえ出なければ辛抱も出来ようが、かなりの痛みを伴うようであれば、どのように対処するかの「覚悟」を決めておかなければ先が思い遣られるし、廻りの人達に迷惑をかけることになるだろう。
そこで、今の私の覚悟をお伝えすれば3つ・・・                  
①歩行不能になっても痛みが無ければ車椅子を使用しての生活を覚悟し天寿を全うする。但し日常生活では相当に不自由を強いられそうなので、面白くない日々を続けられるか否かについては余り自信が無い。
②歩行不能になって、尚且つ痛みを伴うようであれば、何ら未練はないのでこの世を去る。③歩行不能では生活に不自由するし、痛みを伴うような状態まで加わると、とても耐え続     
けることは出来ないだろうから、治療可能であればips細胞の治療を受けてみる。 
と、今までは①と②のいずれかを選ばなければならないと思っていたのに、新たに③の選択肢が加わりました。

もう一つは何とも恐るべきだと言うか、私などにはよく判らないインターネットを使った
「なりすましメール送信」である。
パソコンやメールの仕組みそのものが判っていないのだから、説明のしようが無いのだけれども、例えれば我が家の鍵を他人が勝手巧みに複製して自由に我が家に出入りが出来る
といったようなことなのだろう。

 これに近い話は今までにも聞いたことがあるので、ファイル交換ソフトといった類の物をパソコンに取り込んだり、送信先が不明なメールについては開かず削除するよう心掛けている。
いくら便利な機械とは言え、恐ろしい機能をも持っているパソコンで仕事をしている人達の方が多い現在、この先どのような新手の「なりすます」以上のものが出現してくるとも限らない。
だから私はパソコンを使用するに当たり「ある覚悟」を決めている。
それは、銀行口座など決して金銭のやり取りはパソコンを使って行わないことである。
指がキーボードを押す作業なので、数字(金額)の押し間違いを自ら起こして相手先に迷惑を掛けたりすることもあろう(実際に今まで数度ATMを使った振り込みで誤送金してしまった経験がある)。
今回の事件から推察すれば勝手に送金なども可能に思われるので、起こった後では何を言っても元に戻すことが出来ず、多くに人に迷惑をかけるようになる。
犯罪に遭ったのだからと言い訳しても約束している支払いが免除されるわけではないのだから、兎に角関わらないことが一番と心得ていると言うことでしょうか。
ある程度の便利で楽になることは良い事だとは思うが、余りにも便利すぎると人の能力向上を阻害するし、弊害の方が大きくなると私は確信している。

 この例は賛同を得られないかもしれないけれど、戦後多くの家電製品が開発されて、
一般家庭に普及して行った。
電気掃除機・食器洗い乾燥機・洗濯機・電子レンジ・エアコン・アイロンなどがその機械の類であるが、当時の女性達はこれで家事がとても楽になったと喜んでいた。
がしかし、便利な機械を使い楽になったその結果はと言えば、結局女性としての器量が低下しただけのように思う。
生活の中で「工夫」し「知恵」を出さなくとも機械が代わってやってくれようになったのだから致し方ないと言えばそうなのかもしれないが、生まれた時からこれらの機械に囲まれて育った今の若い人達はこの先どうなるのだろう。
生活の中で「工夫」や「知恵」を学ぶ機会と場所を失ったのだから、人として未熟のまま
一生を終えることにならないのだろうか・・・色々と「工夫」を施したり「知恵」を出し上手く事柄が運んだ時の「喜び」を知らないままで終わる人生は不幸である。

 それにしても、文章を作成するに当っては「手書」で行い、ちょっと高級な指向者は
「タイプライター」を使用していた時代、そして図面を描くには製図板に向かって鉛筆でコツコツと書いていた「便利」ではなく「楽」でもなかった時代は「窮屈さ」を感じることは殆どなかったが、これほど便利で楽になった今は何故にこうも「窮屈」なのだろう。

 そして、まだ一般家庭に自家用車が普及していない頃の話です。
皆は穏やかな顔をしてバスを待ち汽車(電車ではありません)を待っていて、時が今よりもずっと緩やかだった。

 車を手にした途端に皆は渋滞しているからと言って「舌打ち」をし、駐車場に入るのに車が沢山並んでいると言って「不平」を言い、前の車が遅いと言って「憎み」割り込みをされたと「腹を立て」後ろの車に警笛を鳴らされたと言って「喧嘩」を始め・・・皆さん思い当たる節はありませんか。
まだ車を手にしていなかった時、バスや汽車の中で同じような感情が湧いていましたか。
便利な機械(車)を手にした途端に日本人から穏やかな顔が消えてしまいました。

 楽になり便利になって失ったもの(測れないもの)の大きさは如何ほどでしょう。
私くらいですかね「自家用車全廃」「パソコン全廃」社会が良いと本気で思っている者は。次回は「覚悟」についてお話してみたいと思います。
その伏線で今回すこし「覚悟」の文字を使用しておきました。

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