「酔龍の独り言:その045」
2023-12-04
[ 情報の発達による他人との距離感 ]
私たち一般人が情報を手にするようになった手段の移り変わりと、その量に加えて情報内容(対象)との距離感について考えてみた。
私が子供の頃を振り返えれば、目や耳に入ってくる情報はと言うと、新聞・ラジオ・周りにいる人物などから以外に情報が入って来ることは無かったし、自ら情報を得ようとしても、その情報はすでに過去のものであり、現時点の現在情報など知り得ようのない時代であった。
かっこいい!芸能人などの情報は雑誌や銀幕の中か映画館に掲げられているポスターを見る以外に手立てがないので、あこがれはとても強く、その距離感ははるかに遠い存在であったし、新聞などに目を落として三面記事を読むと凶悪犯罪者の顔写真と共に事件の内容が大まかに掲載されている程度であった。
つまり日常的に得られるこれらの情報は身近な事柄ではなくて、ある意味遠いところで起こっている事象だから、日常の生活とかけ離れているような捉え方であったと思う。
それから少し時代が進むとテレビと言う音と映像が同時に流れてくる情報を受けることが出来るようになりと、それはとても衝撃的であった。
それまでは映画館で映画が上映される前には必ずニュース映像が流されていたのですからねぇ、そのニュースは数か月前のものであってもnews(新しく起こった出来事)だったのですよ。
映画館に行かなければ音声と映像を同時に受けることができなかった状況から、自宅の居間でその日に起こった事件などの出来事を音声と映像で知ることができるようになったのですから、このことを境に日本人の意識が少しずつ変わって行くようになったのではないかと思います。
その意識とは報道内容の出来事や対象人物との距離感が遠くにあった存在から段々と身近に感じられようになり、近年では手を伸ばせば届きそうな位置にいるような錯覚すら起こしているのではと思えてなりません。
最近起こっている事件などから推察すれば、その原因の一つはまず乱れた言葉からです。
「援助交際」「パパ活」などは「売春」ですし「闇バイト」は「仕事内容が強盗・窃盗・詐欺で、状況次第では殺人に発展するような【犯罪】となる一時的な仕事」ですが、全て見ず知らずの相手にスマートホンと言う情報伝達手段を使って誘い、誘われています。
彼らにはお金に困っている・仕事がなく生活に困っているからが【犯罪】を犯している理由のようですが、彼らに「犯罪」の自覚は無く、軽いノリのような感覚なのでしょう。
ここで少し話を別な角度から考えてみますと昔から「言葉が乱れると国が乱れる」という格言がありますが、近年正にこれが日本に当てはまると思っています。
言葉には「力」があり「意味」があり「歴史」もありますが、これを日本では「言霊(ことだま)」と呼び言葉をとても大切に扱ってきました。
スマートホンの検索で「詐欺」「強盗」「窃盗」「殺人」要員を求むなどと掲示しても恐らく誰も応募する者などいないのでしょうが「闇バイト」募集となれば手を挙げるものが相当数いるということですから、もしかすると彼らは「闇バイト」を夜間の暗がりの中で土木作業をする仕事のように捉えているのではと思います(冗談です)。
彼らの中では「闇バイト」=「詐欺」「強盗」窃盗」「殺人」と同意語になっていないことが恐ろしいことで、結局言葉が乱れているからでしょう。
「闇バイト」の「本質」は「犯罪」ですが、「闇バイト」の言葉そのものを表面的な形態で捉えると「暗がりの中で作業する仕事のようなもの」ではないか・・・と勝手に思い込むのでしょうかねぇ。
やはり形態的に「パパ活」「闇バイト」などの言葉を巧みに創って「本質(犯罪)」を誤魔化し、他人だけではなく自分の心の中まで正当化しているのが現在の社会の側面にあります。
ごく最近の新聞記事です。
・テレビ局の局長が「善意の方々から頂いた寄付」を着服(鳥取県)。
・弁護士が犯罪(詐欺)に手を染め現在保釈中の身であるにも拘らず、別件で留置施設にいる人物との接見中に自分のスマートホンを使って別人と話をさせたという(広島県)。
・大手通信会社の元幹部による多額の詐欺(東京都)
・援助交際を逆手に取った現役警察官幹部の数件の性的暴行(広島県)。
社会的には尊敬されても良いはずの人物ばかりがこのような犯罪に手を染めていることも現実の一面ですが、まさか仕事がなくて・・・生活に困って・・・などの言い訳は通用しませんよね。
情報が氾濫して世界中での出来事(現在では真偽のほどは不明)がすぐに伝わり、かつて遠き存在であった芸能人や、行ったこともない場所の映像をも手軽で日常的に見ることが出来るようになると、人は錯覚を起こす。
丁度「闇バイト」は「犯罪」ではないような錯覚的感覚になるのと同じように、憧れの芸能人は近所や隣に住んでいるような身近な人となり、行ったこともない場所にはもう既に何度もそこへ行ったような気持ちになる。
その上に交通網の発達によって、距離的にも遠くであった所が身近になってしまい、錯覚的感覚に拍車をかけている。
霞が関に居る人たちと同じように「机上」で物事が解決できるような気分になるのではないかなぁ、そしてそれが自分の中では疑似的な実態化となってしまう恐れはないか・・・ の不安が残ります。
これまでは遠くにあったと思っていたものが、手を出せば届きそうな位置にあると思うようになると、人は錯覚を起こして「俺にもその位のことは出来る」「こうやるから捕まるので、このようにやれば捕まることは無い」の様な感覚となり、もう心は「映画や物語の中の主人公です」何でも許されるような気持になるのでしょう。
便利になることは有難いことですし、楽になることも有難いことですが、便利でなかったことや楽でなかったことは決して悪かったことではありません。
少しの不便と手間を要していただけです。たったそれだけのことなのですのに「もう元には戻れない」などとほざく者が多い日本の社会となりましたが「有難さ」と「感謝」の心を持ち続けられている間は大丈夫だと思っていますが、それすら感じられなくなる社会となったら、日本は終わります。
日本が終われば世界が滅びます。日本国が世界の要なのにその自覚の欠片すらない千代田町や霞が関ですから、日本丸の行く先は滅びの道標(みちしるべ)へ向かっているかも。
私たち一般人が情報を手にするようになった手段の移り変わりと、その量に加えて情報内容(対象)との距離感について考えてみた。
私が子供の頃を振り返えれば、目や耳に入ってくる情報はと言うと、新聞・ラジオ・周りにいる人物などから以外に情報が入って来ることは無かったし、自ら情報を得ようとしても、その情報はすでに過去のものであり、現時点の現在情報など知り得ようのない時代であった。
かっこいい!芸能人などの情報は雑誌や銀幕の中か映画館に掲げられているポスターを見る以外に手立てがないので、あこがれはとても強く、その距離感ははるかに遠い存在であったし、新聞などに目を落として三面記事を読むと凶悪犯罪者の顔写真と共に事件の内容が大まかに掲載されている程度であった。
つまり日常的に得られるこれらの情報は身近な事柄ではなくて、ある意味遠いところで起こっている事象だから、日常の生活とかけ離れているような捉え方であったと思う。
それから少し時代が進むとテレビと言う音と映像が同時に流れてくる情報を受けることが出来るようになりと、それはとても衝撃的であった。
それまでは映画館で映画が上映される前には必ずニュース映像が流されていたのですからねぇ、そのニュースは数か月前のものであってもnews(新しく起こった出来事)だったのですよ。
映画館に行かなければ音声と映像を同時に受けることができなかった状況から、自宅の居間でその日に起こった事件などの出来事を音声と映像で知ることができるようになったのですから、このことを境に日本人の意識が少しずつ変わって行くようになったのではないかと思います。
その意識とは報道内容の出来事や対象人物との距離感が遠くにあった存在から段々と身近に感じられようになり、近年では手を伸ばせば届きそうな位置にいるような錯覚すら起こしているのではと思えてなりません。
最近起こっている事件などから推察すれば、その原因の一つはまず乱れた言葉からです。
「援助交際」「パパ活」などは「売春」ですし「闇バイト」は「仕事内容が強盗・窃盗・詐欺で、状況次第では殺人に発展するような【犯罪】となる一時的な仕事」ですが、全て見ず知らずの相手にスマートホンと言う情報伝達手段を使って誘い、誘われています。
彼らにはお金に困っている・仕事がなく生活に困っているからが【犯罪】を犯している理由のようですが、彼らに「犯罪」の自覚は無く、軽いノリのような感覚なのでしょう。
ここで少し話を別な角度から考えてみますと昔から「言葉が乱れると国が乱れる」という格言がありますが、近年正にこれが日本に当てはまると思っています。
言葉には「力」があり「意味」があり「歴史」もありますが、これを日本では「言霊(ことだま)」と呼び言葉をとても大切に扱ってきました。
スマートホンの検索で「詐欺」「強盗」「窃盗」「殺人」要員を求むなどと掲示しても恐らく誰も応募する者などいないのでしょうが「闇バイト」募集となれば手を挙げるものが相当数いるということですから、もしかすると彼らは「闇バイト」を夜間の暗がりの中で土木作業をする仕事のように捉えているのではと思います(冗談です)。
彼らの中では「闇バイト」=「詐欺」「強盗」窃盗」「殺人」と同意語になっていないことが恐ろしいことで、結局言葉が乱れているからでしょう。
「闇バイト」の「本質」は「犯罪」ですが、「闇バイト」の言葉そのものを表面的な形態で捉えると「暗がりの中で作業する仕事のようなもの」ではないか・・・と勝手に思い込むのでしょうかねぇ。
やはり形態的に「パパ活」「闇バイト」などの言葉を巧みに創って「本質(犯罪)」を誤魔化し、他人だけではなく自分の心の中まで正当化しているのが現在の社会の側面にあります。
ごく最近の新聞記事です。
・テレビ局の局長が「善意の方々から頂いた寄付」を着服(鳥取県)。
・弁護士が犯罪(詐欺)に手を染め現在保釈中の身であるにも拘らず、別件で留置施設にいる人物との接見中に自分のスマートホンを使って別人と話をさせたという(広島県)。
・大手通信会社の元幹部による多額の詐欺(東京都)
・援助交際を逆手に取った現役警察官幹部の数件の性的暴行(広島県)。
社会的には尊敬されても良いはずの人物ばかりがこのような犯罪に手を染めていることも現実の一面ですが、まさか仕事がなくて・・・生活に困って・・・などの言い訳は通用しませんよね。
情報が氾濫して世界中での出来事(現在では真偽のほどは不明)がすぐに伝わり、かつて遠き存在であった芸能人や、行ったこともない場所の映像をも手軽で日常的に見ることが出来るようになると、人は錯覚を起こす。
丁度「闇バイト」は「犯罪」ではないような錯覚的感覚になるのと同じように、憧れの芸能人は近所や隣に住んでいるような身近な人となり、行ったこともない場所にはもう既に何度もそこへ行ったような気持ちになる。
その上に交通網の発達によって、距離的にも遠くであった所が身近になってしまい、錯覚的感覚に拍車をかけている。
霞が関に居る人たちと同じように「机上」で物事が解決できるような気分になるのではないかなぁ、そしてそれが自分の中では疑似的な実態化となってしまう恐れはないか・・・ の不安が残ります。
これまでは遠くにあったと思っていたものが、手を出せば届きそうな位置にあると思うようになると、人は錯覚を起こして「俺にもその位のことは出来る」「こうやるから捕まるので、このようにやれば捕まることは無い」の様な感覚となり、もう心は「映画や物語の中の主人公です」何でも許されるような気持になるのでしょう。
便利になることは有難いことですし、楽になることも有難いことですが、便利でなかったことや楽でなかったことは決して悪かったことではありません。
少しの不便と手間を要していただけです。たったそれだけのことなのですのに「もう元には戻れない」などとほざく者が多い日本の社会となりましたが「有難さ」と「感謝」の心を持ち続けられている間は大丈夫だと思っていますが、それすら感じられなくなる社会となったら、日本は終わります。
日本が終われば世界が滅びます。日本国が世界の要なのにその自覚の欠片すらない千代田町や霞が関ですから、日本丸の行く先は滅びの道標(みちしるべ)へ向かっているかも。
「酔龍の独り言:その044」
2023-10-31
[ 非人道的・差別とは一体何を指すのだろうか ]
夏が終わりかけた頃から仕事の依頼が重なって思うように時間が取れず、更新が遅くなってしまいましたが、ここ数年来の内で初めて資金繰りに苦労することなく会社の運営が出来ているので有難い限りです。
私事はさておいて、地球上ではロシア・ウクライナに加えて中東でもまた戦が再燃して「多くの罪のない子供たちが苦しんでいる」との報道をよく耳にするのだが、私はひねくれ者だからこの言葉にはいつも抵抗を感じている。
その前に戦の形態から考えると「ロシア・ウクライナ」は領土(なわばり)・思想(価値観・考え方の違い)・歴史的背景の複雑な経緯(ロシアの占領下にあったこともある)などが主な原因であろうと理解している。
一方中東の戦は原因が複雑すぎてよく理解が出来ていないのだけれど、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・石油の利権・人種問題などが複雑に絡み合った内容のようですが、出発点は同根の宗教と思われるも、長い間の内に人が宗教を扱うと解釈や考え方・作法の違いなどから発した人の都合による根深いものが生じて、親子喧嘩・兄弟喧嘩のような宗教戦争や民族間戦争ではあるまいかと思えてなりません。
しかし、いずれの宗教も経典なるものがあるはずで、そこには「憎し!と思われる相手は殺せ」と書いてあるのだろうか。いずれの経典も読んだことがないので判らないままですが、おそらくそのような下りは無いと思っている。
人も動物の一種であるから「なわばり」の意識は強く、外国相手では「国境」となり国内では「隣地境界線」となろうか・・・これに関わる争いごとは人類の長い歴史の中で幾度も繰り返されてきているけれど、その悲惨な結果から何も学んできていないことが最大の悲劇であろうし、本来の宗教が目的とする意味すら逸脱しているのではなかろうか。
その争いに政治的な思惑や国内の余剰武器を消費したい軍需産業の本音を「友好国への支援」と言う形にすり替えて戦争を煽ってきた大国の卑劣なやり方でどれだけの人達が亡くなったことだろうか。
話が逸れてしまいましたので戻します。
「多くの罪のない子供たちが苦しんでいる」という報道は裏を返せば「罪があれば殺して良い」とも取れる発言であるから「いたいけな子供たち」「力のない子供たち」というべきではなかろうか。
しかし多くの解釈がなされている「原罪説」から紐解けば、アダムとイブが犯した罪は遺伝的に受け継がれているとするなら人は生まれ落ちた時から罪を背負っているということになるから、報道の文言は誤りということにもなる。
人だから文字を含む言葉を使って様々なことを伝えて情報を伝達し交換し、垂れ流したりするものであるが、伝える側と受け取る側の意識や知的理解度・宗教的背景・性別の差などがあれば「話せば判る」は「話しても解からない」となってしまう。
これが日常の中で起これば、欲が絡み、意見の違いや感情の縺れから、幾ら親しい間柄であっても「諍い」となり「喧嘩」が始まることは多い。
まずは夫婦喧嘩・親子喧嘩・兄弟喧嘩・隣人や職場や学校で・・・と限がなき程日常的に起こっているのである。
この喧嘩が大きくなったものが多国間の「戦争」であるから、この世から「戦争」は決して無くなることはないと思っている。
そして戦になれば「非人道的兵器」や「非人道的行為」などの言葉や文字が報道者達から流されるが「戦」そのものが命のやり取りだから「非人道的」であるはずなのに、その戦の中で使われている兵器の一部だけを「非人道的」というのは戦争を容認している言葉の裏返しであろうし、無抵抗な一般人を殺害することは「非人道的」だと言っても、銃や大砲の弾にミサイルは一般人と兵士の識別装置など付いてはいないだから巻き添えになることもあろうというものである。
報道者達が勢い込んで「非人道的な爆弾が投下され・・・」と言うけれど、通常の爆弾で殺害することは「非人道的」ではないのかと不自然な言葉使いに思えてならない。
何処か何かを上面な綺麗ごとの言葉で誤魔化しているように感じているのはひねくれ者の私だけなのだろうか。
そして又ハローインの騒ぎがやってくる季節になりましたが、昨年だったか隣国で多数の死亡者を出した他国発祥の祭りである。
多くの人達(圧倒的に若者が多いと感じています)が例年のように渋谷の交差点周辺に集まって酒を飲んで騒ぎを起こしているので、きっと今年もそうなるのでしょう。
しかし、なぜ渋谷の交差点なのか、何のために集まるのか、日本で長く受け継がれてきた伝統的な「秋祭り」の時期なのに、それには目もくれず、意味も解からずハローインの祭りに参加?するのは何故(主催者なしの集団だから、最早暴徒に近いのでは・・・)。
これはハローインに集まる全て人の心の中にある「不満」「自己顕著欲」などの発散場所と捉えるなら、何とも心が満たされていない日本人が多いことだろうと寂しくなります。
外国人が集まって騒ぐのは自国の祭りであるから、良かろうと思うけれど、日本の渋谷の交差点でする祭りなのか?祭りを行う場所が違っているよねと言いたくなる。
東洋の思想には「君子危うきに近寄らず」の言葉があるのだけれど、私などはハローイン当日の渋谷交差点は「危うい場所」と思えますが・・・。
夏が終わりかけた頃から仕事の依頼が重なって思うように時間が取れず、更新が遅くなってしまいましたが、ここ数年来の内で初めて資金繰りに苦労することなく会社の運営が出来ているので有難い限りです。
私事はさておいて、地球上ではロシア・ウクライナに加えて中東でもまた戦が再燃して「多くの罪のない子供たちが苦しんでいる」との報道をよく耳にするのだが、私はひねくれ者だからこの言葉にはいつも抵抗を感じている。
その前に戦の形態から考えると「ロシア・ウクライナ」は領土(なわばり)・思想(価値観・考え方の違い)・歴史的背景の複雑な経緯(ロシアの占領下にあったこともある)などが主な原因であろうと理解している。
一方中東の戦は原因が複雑すぎてよく理解が出来ていないのだけれど、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・石油の利権・人種問題などが複雑に絡み合った内容のようですが、出発点は同根の宗教と思われるも、長い間の内に人が宗教を扱うと解釈や考え方・作法の違いなどから発した人の都合による根深いものが生じて、親子喧嘩・兄弟喧嘩のような宗教戦争や民族間戦争ではあるまいかと思えてなりません。
しかし、いずれの宗教も経典なるものがあるはずで、そこには「憎し!と思われる相手は殺せ」と書いてあるのだろうか。いずれの経典も読んだことがないので判らないままですが、おそらくそのような下りは無いと思っている。
人も動物の一種であるから「なわばり」の意識は強く、外国相手では「国境」となり国内では「隣地境界線」となろうか・・・これに関わる争いごとは人類の長い歴史の中で幾度も繰り返されてきているけれど、その悲惨な結果から何も学んできていないことが最大の悲劇であろうし、本来の宗教が目的とする意味すら逸脱しているのではなかろうか。
その争いに政治的な思惑や国内の余剰武器を消費したい軍需産業の本音を「友好国への支援」と言う形にすり替えて戦争を煽ってきた大国の卑劣なやり方でどれだけの人達が亡くなったことだろうか。
話が逸れてしまいましたので戻します。
「多くの罪のない子供たちが苦しんでいる」という報道は裏を返せば「罪があれば殺して良い」とも取れる発言であるから「いたいけな子供たち」「力のない子供たち」というべきではなかろうか。
しかし多くの解釈がなされている「原罪説」から紐解けば、アダムとイブが犯した罪は遺伝的に受け継がれているとするなら人は生まれ落ちた時から罪を背負っているということになるから、報道の文言は誤りということにもなる。
人だから文字を含む言葉を使って様々なことを伝えて情報を伝達し交換し、垂れ流したりするものであるが、伝える側と受け取る側の意識や知的理解度・宗教的背景・性別の差などがあれば「話せば判る」は「話しても解からない」となってしまう。
これが日常の中で起これば、欲が絡み、意見の違いや感情の縺れから、幾ら親しい間柄であっても「諍い」となり「喧嘩」が始まることは多い。
まずは夫婦喧嘩・親子喧嘩・兄弟喧嘩・隣人や職場や学校で・・・と限がなき程日常的に起こっているのである。
この喧嘩が大きくなったものが多国間の「戦争」であるから、この世から「戦争」は決して無くなることはないと思っている。
そして戦になれば「非人道的兵器」や「非人道的行為」などの言葉や文字が報道者達から流されるが「戦」そのものが命のやり取りだから「非人道的」であるはずなのに、その戦の中で使われている兵器の一部だけを「非人道的」というのは戦争を容認している言葉の裏返しであろうし、無抵抗な一般人を殺害することは「非人道的」だと言っても、銃や大砲の弾にミサイルは一般人と兵士の識別装置など付いてはいないだから巻き添えになることもあろうというものである。
報道者達が勢い込んで「非人道的な爆弾が投下され・・・」と言うけれど、通常の爆弾で殺害することは「非人道的」ではないのかと不自然な言葉使いに思えてならない。
何処か何かを上面な綺麗ごとの言葉で誤魔化しているように感じているのはひねくれ者の私だけなのだろうか。
そして又ハローインの騒ぎがやってくる季節になりましたが、昨年だったか隣国で多数の死亡者を出した他国発祥の祭りである。
多くの人達(圧倒的に若者が多いと感じています)が例年のように渋谷の交差点周辺に集まって酒を飲んで騒ぎを起こしているので、きっと今年もそうなるのでしょう。
しかし、なぜ渋谷の交差点なのか、何のために集まるのか、日本で長く受け継がれてきた伝統的な「秋祭り」の時期なのに、それには目もくれず、意味も解からずハローインの祭りに参加?するのは何故(主催者なしの集団だから、最早暴徒に近いのでは・・・)。
これはハローインに集まる全て人の心の中にある「不満」「自己顕著欲」などの発散場所と捉えるなら、何とも心が満たされていない日本人が多いことだろうと寂しくなります。
外国人が集まって騒ぐのは自国の祭りであるから、良かろうと思うけれど、日本の渋谷の交差点でする祭りなのか?祭りを行う場所が違っているよねと言いたくなる。
東洋の思想には「君子危うきに近寄らず」の言葉があるのだけれど、私などはハローイン当日の渋谷交差点は「危うい場所」と思えますが・・・。
「酔龍の独り言:その043」
2023-09-28
[ 有名企業が社会の手本となる日は来るのか ]
「ビッグ モーター」と言う車の販売や修理を行っている会社が(保険の代理店も行っていた)、通常感覚では考えられないような修理の形態を取っていたことが発覚した。
更に店舗前の緑地帯に植えてある樹木や草花を枯らす目的で除草剤を撒いていたと言うのである(いま日本で売られているこの除草剤は、かつて米軍がベトナム戦争委で使った悪名高き枯葉剤と同じ成分ではないかと何かの本か記事で読んだことがあるが検証はできていない)。
聞いたところでは出自は山口県岩国市の企業で、創業者は一代で大きな企業に成長させたようであるが、その業務実態の中には、事故にあった車の修理を依頼されて持ち込まれた車体に更なる傷や凹みを修理工場内で付け加えて修理金額を上積みさせていたと言うのだから開いた口が塞がらないとはこのことである。
このような経緯に至ったのは、修理などは保険金で支払われるのだから修理費は膨らむほど企業利益が出るし、誰も困るわけでもないから・・・と言うのがこの企業が描いた筋書きだったのであろう。
そう考えれば良心が咎めても、なんとなくそこを乗り超えられたに違いない。
また除草剤を撒いたのは「生えてくる雑草を撤去するのが負担になっていたから・・・」
と言っている社員の映像を見たような記憶があるが、これは明らかに綺麗ごとな答弁であり実際はそうではあるまい。
多くの地域で同じように除草剤を撒いて樹木や草花を枯らしたのは会社の指示であり、目的は多くの人に見て欲しい車の展示場なのだが、車に乗っている人からの目線を遮る樹木がとても目障りで仕方がなかったのであろうと思っている。
一度に大量の除草剤を撒くと直ぐに樹木が枯れた原因を追究されそうだが、長期にわたってすこしずつやれば自然枯れに近いように見せ掛けられるとの思惑もあったのであろう。
であれば、双方ともに実に狡猾な手法だよねぇ~悪知恵が働くと言えばよいのだろうが、性根の厭らしさや意地汚さが滲み出ている。
しかし、企業がこのような状況下に陥ってしまったら車の修理が目的であるはずの企業理念は何処かへ行ってしまい、金を儲けることだけが目的となってしまって、もう企業の形態を保てなくなっているのに、そのこと知っていたにも拘らず目を背け、正そうとしなかった社員にも罪はあるでしょう。
新たに車に傷をつけることは犯罪であるから、いくら生活の懸かっていようと、上司の命令だったからなどの言い訳は通用しないはずであるが、密室で行われる作業だから、その認識も薄かったのだろうか。
でも結果的にはこのように白日の下に晒されたのだから、遅かれ早かれ、いずれ・・・の域を出ていない。
そう考えると、告発者は恐らく修理工場に勤める社員の一人ではないかと想像しているが、これは推測の域を出ていない。
当のこの会社は昨今会社の運転資金の資金繰りに奔走しているとの情報であるが、不当な利益で会社を大きくしても、結果的に社員を路頭に迷わせるような方向へ導いていった経営者の罪は大きいし、有名な企業でありながら社会に対する信頼を大きく損ねたことが最も許せないことであるが、同じく手に手を取って蜜月を過ごしていた被害者面をしている大手損保会社も同罪であろう。
多くの損保社員を車屋の方へ出向させていたというのだから一連の内容を知らなかったはずはなく、こちらも金のために心も魂も売ってしまっていたに違いない。
いずれも想像の域を出ないけれど状況証拠からの推察であるから違っているとも思えないのだがねえ。
特に車屋さんの方は一代で築き上げた立志伝中の人物であるから、人生の目標にしていた人もいるのではないかと思うが、中身は単に土器に金メッキを施していたにすぎないことが判明したということでしょうか。
しかし、この車屋に限らず「東京オリンピック」に関わる古参の古狸連中がやってきた意地汚い利権とそれに群がる企業や著名人達。
「新型コロナ」の検査・調査や統計に加えて補助金に関する不正申請(100億円を超えるものまであるとか)による件は不正であるとわかってやっていることですから、これらはもう詐欺事件ですよ。
先進国と言われている日本国にある有名企業や有名人たちがその名を連ねているのである。
情けない国になりましたねぇ~もう元には戻れないでしょうか・・・。
内容は変わりますが、先日の読売新聞朝刊一面にある「編集手帳」に次のような文が掲載されていた。
小学校には昔、畳の部屋があった。「作法室」と呼ばれ、正座やお辞儀の仕方を教えた◆東京市の臨時建築局長に招かれた建築学者・佐野利器(としかた)は作法室などいらないと、当時の教育関係者と対立した。関東大震災では100校以上の市立少が消失した。再建にあたり、佐野は耐震・防火にすぐれた鉄筋コンクリート造の設計図に水洗トイレや蒸気暖房を加えた◆大正期に建造を始めた「復興小学校」は今も銀座などに4校が残る。モダンな外観が行き交う人の目に留まるが、第一の目的は意匠ではない。暖房や水洗トイレは避難所としての活用を模索したものと伝わる◆今日で関東大震災から100年になる。防災の歩みも、
それだけの歳月を過ごしたといえる。佐野博士は東京帝大の教授時代、なじみ深い言葉も世に残している。建物が地震から被る力を「震度」と呼び、世界で初めて数値化した。
この論文の発表は震災の10年程前にさかのぼる◆慧眼というほかはない。いち早く都市の危険に気づき、住民の命を心配した人のようである。お人柄を知りたいところだが、生前の面影を映す資料はあまり残っていない。
良くできた文であり、いつも読むのを楽しみにしているのだが、今回は少し引っかかった。
それは「作法室」はいらないと言った下りである。当時の作法室は正座やお辞儀(礼儀の一環)を教え伝える役割のために設けられていたものだと理解している。
現在から考えると新しい家のほとんどに「和室」など設けられてないから「正座やお辞儀」など不要の社会状況下となっているけれど、「作法室」は正座やお辞儀を学ぶことを通じて、人と人が関わり合うこの世での「礼節」を身に付け「恥」を知り「分相応」を知るための入り口ではかなったのかと思うばかりである。
これらを失った現在において、清潔で耐震性の優れた建物は手に入れたようだが、中に住まう人間の方が「慇懃無礼」「恥知らず」「身の程知らず」となっている予想を佐野博士は震災の10年程前に予測はつかなかったのだろうね。
「ビッグ モーター」と言う車の販売や修理を行っている会社が(保険の代理店も行っていた)、通常感覚では考えられないような修理の形態を取っていたことが発覚した。
更に店舗前の緑地帯に植えてある樹木や草花を枯らす目的で除草剤を撒いていたと言うのである(いま日本で売られているこの除草剤は、かつて米軍がベトナム戦争委で使った悪名高き枯葉剤と同じ成分ではないかと何かの本か記事で読んだことがあるが検証はできていない)。
聞いたところでは出自は山口県岩国市の企業で、創業者は一代で大きな企業に成長させたようであるが、その業務実態の中には、事故にあった車の修理を依頼されて持ち込まれた車体に更なる傷や凹みを修理工場内で付け加えて修理金額を上積みさせていたと言うのだから開いた口が塞がらないとはこのことである。
このような経緯に至ったのは、修理などは保険金で支払われるのだから修理費は膨らむほど企業利益が出るし、誰も困るわけでもないから・・・と言うのがこの企業が描いた筋書きだったのであろう。
そう考えれば良心が咎めても、なんとなくそこを乗り超えられたに違いない。
また除草剤を撒いたのは「生えてくる雑草を撤去するのが負担になっていたから・・・」
と言っている社員の映像を見たような記憶があるが、これは明らかに綺麗ごとな答弁であり実際はそうではあるまい。
多くの地域で同じように除草剤を撒いて樹木や草花を枯らしたのは会社の指示であり、目的は多くの人に見て欲しい車の展示場なのだが、車に乗っている人からの目線を遮る樹木がとても目障りで仕方がなかったのであろうと思っている。
一度に大量の除草剤を撒くと直ぐに樹木が枯れた原因を追究されそうだが、長期にわたってすこしずつやれば自然枯れに近いように見せ掛けられるとの思惑もあったのであろう。
であれば、双方ともに実に狡猾な手法だよねぇ~悪知恵が働くと言えばよいのだろうが、性根の厭らしさや意地汚さが滲み出ている。
しかし、企業がこのような状況下に陥ってしまったら車の修理が目的であるはずの企業理念は何処かへ行ってしまい、金を儲けることだけが目的となってしまって、もう企業の形態を保てなくなっているのに、そのこと知っていたにも拘らず目を背け、正そうとしなかった社員にも罪はあるでしょう。
新たに車に傷をつけることは犯罪であるから、いくら生活の懸かっていようと、上司の命令だったからなどの言い訳は通用しないはずであるが、密室で行われる作業だから、その認識も薄かったのだろうか。
でも結果的にはこのように白日の下に晒されたのだから、遅かれ早かれ、いずれ・・・の域を出ていない。
そう考えると、告発者は恐らく修理工場に勤める社員の一人ではないかと想像しているが、これは推測の域を出ていない。
当のこの会社は昨今会社の運転資金の資金繰りに奔走しているとの情報であるが、不当な利益で会社を大きくしても、結果的に社員を路頭に迷わせるような方向へ導いていった経営者の罪は大きいし、有名な企業でありながら社会に対する信頼を大きく損ねたことが最も許せないことであるが、同じく手に手を取って蜜月を過ごしていた被害者面をしている大手損保会社も同罪であろう。
多くの損保社員を車屋の方へ出向させていたというのだから一連の内容を知らなかったはずはなく、こちらも金のために心も魂も売ってしまっていたに違いない。
いずれも想像の域を出ないけれど状況証拠からの推察であるから違っているとも思えないのだがねえ。
特に車屋さんの方は一代で築き上げた立志伝中の人物であるから、人生の目標にしていた人もいるのではないかと思うが、中身は単に土器に金メッキを施していたにすぎないことが判明したということでしょうか。
しかし、この車屋に限らず「東京オリンピック」に関わる古参の古狸連中がやってきた意地汚い利権とそれに群がる企業や著名人達。
「新型コロナ」の検査・調査や統計に加えて補助金に関する不正申請(100億円を超えるものまであるとか)による件は不正であるとわかってやっていることですから、これらはもう詐欺事件ですよ。
先進国と言われている日本国にある有名企業や有名人たちがその名を連ねているのである。
情けない国になりましたねぇ~もう元には戻れないでしょうか・・・。
内容は変わりますが、先日の読売新聞朝刊一面にある「編集手帳」に次のような文が掲載されていた。
小学校には昔、畳の部屋があった。「作法室」と呼ばれ、正座やお辞儀の仕方を教えた◆東京市の臨時建築局長に招かれた建築学者・佐野利器(としかた)は作法室などいらないと、当時の教育関係者と対立した。関東大震災では100校以上の市立少が消失した。再建にあたり、佐野は耐震・防火にすぐれた鉄筋コンクリート造の設計図に水洗トイレや蒸気暖房を加えた◆大正期に建造を始めた「復興小学校」は今も銀座などに4校が残る。モダンな外観が行き交う人の目に留まるが、第一の目的は意匠ではない。暖房や水洗トイレは避難所としての活用を模索したものと伝わる◆今日で関東大震災から100年になる。防災の歩みも、
それだけの歳月を過ごしたといえる。佐野博士は東京帝大の教授時代、なじみ深い言葉も世に残している。建物が地震から被る力を「震度」と呼び、世界で初めて数値化した。
この論文の発表は震災の10年程前にさかのぼる◆慧眼というほかはない。いち早く都市の危険に気づき、住民の命を心配した人のようである。お人柄を知りたいところだが、生前の面影を映す資料はあまり残っていない。
良くできた文であり、いつも読むのを楽しみにしているのだが、今回は少し引っかかった。
それは「作法室」はいらないと言った下りである。当時の作法室は正座やお辞儀(礼儀の一環)を教え伝える役割のために設けられていたものだと理解している。
現在から考えると新しい家のほとんどに「和室」など設けられてないから「正座やお辞儀」など不要の社会状況下となっているけれど、「作法室」は正座やお辞儀を学ぶことを通じて、人と人が関わり合うこの世での「礼節」を身に付け「恥」を知り「分相応」を知るための入り口ではかなったのかと思うばかりである。
これらを失った現在において、清潔で耐震性の優れた建物は手に入れたようだが、中に住まう人間の方が「慇懃無礼」「恥知らず」「身の程知らず」となっている予想を佐野博士は震災の10年程前に予測はつかなかったのだろうね。
「酔龍の独り言:その042」
2023-08-28
[ マイナンバーカード ]
書くには遅きに失した感がありますが、書かなければならないと思いますので書きます。
諸問題満載で未だに国民の理解が得られていないまま不鮮明と疑惑の総合商社化しているマイナンバーカードだが、政府は現在の健康保険証を廃止して令和六年には完全にマイナンバーカードへと移行させたいと言っている。
ここで内容が誠に持って不鮮明であり、国民が中々納得出来ていないうちの幾つかを列挙して考えて見ようと思う。
① :まず現在の健康保険証の制度下で、これまでに何らかの不都合が生じていたのかと言えば、全くそのようなことは無いのだから何故マイナンバーカードと一緒にしなければならないのかの疑問が湧いてくる。
② :次にマイナンバーカードに健康保険証を紐付けると、病院や診療所の手続きに新しく読み取り機械を設置しなければならないことになるので医療機関に設置費用の負担を押し付けることになるから結果的に保健料の値上げにも繋がるかも・・・。
③ :加えて年金の受け取り口座や銀行口座をも紐付けするのである。
④ :自動車運転免許証も紐付けする予定のようである。
大きいところではこの四つだろうと思うけれど①についてはどのような疑いの目と心をもってしても現行の健康保険証を廃止する意味が判らず理解が出来ないので、こうなると間違いなく隠された利権が絡んでいる以外に他無く、それは恐らく既存の天下り先に何らかの利権を紐付けたか、いや若しかしたら新しい天下り先を造ったに違いないと思われるので、結局意味もなく良く解からないことを法制化してまでやろうとすること自体が目眩ましであり官僚の天下り先製造の常套手段であると思っている(個人の感想ですけどね)。
②に至っては、現状で既存の健康保険証が正確に紐付けされておらずマイナンバーカードを読み取り機に掛けると他人の保険証が出てきたり、該当なしと表示されたりする事故が多発しているようであるし、急激な医療事務の変更に対応できていないこともあろう。
またデジタル方式なので健康保険証を家に忘れて来たのとは違って、これまでのように後日健康保険証を持参することも出来ず、自らが健康保険証の当事者であることを証明することができない上にデータを書き換えることも出来ないのだから、当日は診療費用の十割(全額)を支払い、いつ正確なマイナンバーカードが送られてくるものか、正確なデータ処理がいつ終わるのか、など判らないまま待つだけとなり、その間は診療費用七割分の立替払いを続けさせられることになります。
これを便利と言うのかそれとも、逆にとても不便になったのか判ったものではない。
③については明らかに国民の個人資産を丸裸にしようとしている魂胆であろうことは見え見えであり、新札発行時に絡めて国民が所有している現金の全てを把握しようとしていることは明白である(新札発行時には旧紙幣は全く使用不可能となることからもその魂胆が垣間見える・聖徳太子も福沢諭吉も樋口一葉も使用できない日本の経済社会となります)。
⑤ については何故だろうと少し疑問に思うのは、国家資格の全てを紐付けするのなら、有資格者の全てをも把握したいのか・・・とある程度の理解が出来るが、自動車運転免許証だけを紐付けするのは何故だろう(ただ単に数が多いからだけだとは思えないのだけれど)。
と言うのも日本の行政は縦割り行政だから、他省庁の内情の調査や把握がとても困難なので、一本化しようと言うのならまだ判るが、そうなると日本はマイナンバーカードを統轄している総務省だけあればよいと言うことになるが、絶対を付けて良いほどそうとはならない(他の省庁が利権を手放すことは無いからねぇ)。
そしてマイナンバーカード移行業務を請け負っているのが大企業の「富士通・日立製作所・NTTデータ・NEC・日本IBM」であるが、これらの中にはシステムの不備を起こしたり、データ移行業務を中国企業に一括下請けに出したところもあるようだから、未完成のソフトで業務を受注し、自社の金儲けの為なら国民の個人情報を外国に売り渡してもよいのかと言われるようなことを平気でやっていると言われても仕方があるまい。
それにしても、マイナンバーカード移行に一人2万円の給付をしてでも「やりたい」の本音はどこにあるのでしょうかねぇ~本当に不思議ですよねぇ~。
何らかの思惑でも無ければ国が国民に対して金をバラ撒くことなど決してすることは無いから・・・総額で2兆円ですよ。
私は最後の一人になってからマイナンバーカードに移行しようと思っているのですが・・・。
でもデジタル省の手続きの申請は相変わらず「紙」で行っているそうですよ。
書くには遅きに失した感がありますが、書かなければならないと思いますので書きます。
諸問題満載で未だに国民の理解が得られていないまま不鮮明と疑惑の総合商社化しているマイナンバーカードだが、政府は現在の健康保険証を廃止して令和六年には完全にマイナンバーカードへと移行させたいと言っている。
ここで内容が誠に持って不鮮明であり、国民が中々納得出来ていないうちの幾つかを列挙して考えて見ようと思う。
① :まず現在の健康保険証の制度下で、これまでに何らかの不都合が生じていたのかと言えば、全くそのようなことは無いのだから何故マイナンバーカードと一緒にしなければならないのかの疑問が湧いてくる。
② :次にマイナンバーカードに健康保険証を紐付けると、病院や診療所の手続きに新しく読み取り機械を設置しなければならないことになるので医療機関に設置費用の負担を押し付けることになるから結果的に保健料の値上げにも繋がるかも・・・。
③ :加えて年金の受け取り口座や銀行口座をも紐付けするのである。
④ :自動車運転免許証も紐付けする予定のようである。
大きいところではこの四つだろうと思うけれど①についてはどのような疑いの目と心をもってしても現行の健康保険証を廃止する意味が判らず理解が出来ないので、こうなると間違いなく隠された利権が絡んでいる以外に他無く、それは恐らく既存の天下り先に何らかの利権を紐付けたか、いや若しかしたら新しい天下り先を造ったに違いないと思われるので、結局意味もなく良く解からないことを法制化してまでやろうとすること自体が目眩ましであり官僚の天下り先製造の常套手段であると思っている(個人の感想ですけどね)。
②に至っては、現状で既存の健康保険証が正確に紐付けされておらずマイナンバーカードを読み取り機に掛けると他人の保険証が出てきたり、該当なしと表示されたりする事故が多発しているようであるし、急激な医療事務の変更に対応できていないこともあろう。
またデジタル方式なので健康保険証を家に忘れて来たのとは違って、これまでのように後日健康保険証を持参することも出来ず、自らが健康保険証の当事者であることを証明することができない上にデータを書き換えることも出来ないのだから、当日は診療費用の十割(全額)を支払い、いつ正確なマイナンバーカードが送られてくるものか、正確なデータ処理がいつ終わるのか、など判らないまま待つだけとなり、その間は診療費用七割分の立替払いを続けさせられることになります。
これを便利と言うのかそれとも、逆にとても不便になったのか判ったものではない。
③については明らかに国民の個人資産を丸裸にしようとしている魂胆であろうことは見え見えであり、新札発行時に絡めて国民が所有している現金の全てを把握しようとしていることは明白である(新札発行時には旧紙幣は全く使用不可能となることからもその魂胆が垣間見える・聖徳太子も福沢諭吉も樋口一葉も使用できない日本の経済社会となります)。
⑤ については何故だろうと少し疑問に思うのは、国家資格の全てを紐付けするのなら、有資格者の全てをも把握したいのか・・・とある程度の理解が出来るが、自動車運転免許証だけを紐付けするのは何故だろう(ただ単に数が多いからだけだとは思えないのだけれど)。
と言うのも日本の行政は縦割り行政だから、他省庁の内情の調査や把握がとても困難なので、一本化しようと言うのならまだ判るが、そうなると日本はマイナンバーカードを統轄している総務省だけあればよいと言うことになるが、絶対を付けて良いほどそうとはならない(他の省庁が利権を手放すことは無いからねぇ)。
そしてマイナンバーカード移行業務を請け負っているのが大企業の「富士通・日立製作所・NTTデータ・NEC・日本IBM」であるが、これらの中にはシステムの不備を起こしたり、データ移行業務を中国企業に一括下請けに出したところもあるようだから、未完成のソフトで業務を受注し、自社の金儲けの為なら国民の個人情報を外国に売り渡してもよいのかと言われるようなことを平気でやっていると言われても仕方があるまい。
それにしても、マイナンバーカード移行に一人2万円の給付をしてでも「やりたい」の本音はどこにあるのでしょうかねぇ~本当に不思議ですよねぇ~。
何らかの思惑でも無ければ国が国民に対して金をバラ撒くことなど決してすることは無いから・・・総額で2兆円ですよ。
私は最後の一人になってからマイナンバーカードに移行しようと思っているのですが・・・。
でもデジタル省の手続きの申請は相変わらず「紙」で行っているそうですよ。
「酔龍の独り言:その041」
2023-07-31
[ 少子化対策の追加と働き方改革 ]
「少子化対策の追加(女だって社会で活躍できれば面白い)」
仕事が忙しくてブログの更新の原稿を書く時間が思うように取れず遅くなりました。
近年欧米の真似をして、いや欧米に阿(おもね)いてか、女性の管理職を三割以上にすることを法制化しようとしているようである。
恐らく制定される法文には女性の管理職となるに相応しい能力を持ち合わせているか否かは記載されないはずである。
女性の管理職を3割以上にする内容は「形態」の話であり、その管理職に相応しい能力を有しているか否かは「質」の話しである。
日本の政治家も官僚もやはり「質」を扱うことが苦手なようで、能力を問わずして女性管理職を三割以上にしろと平気で謳い込もうとするのだから始末が悪い。
該当する能力を有する女性がいなくとも、法律で三割以上とされれば、能力不足の女性管理職を生むことにもなるから、その下で働く部下はその日から地獄の日々が始まるであろうし、社内で不要な軋轢を生むかもしれないことなど想像できないのだろうか。
管理職は性別を問わず経営管理能力を持ち合わせてさえいれば、何ら問題は無いのだけれど、一律に女性管理職を三割以上とされればねぇ。
女性蔑視ではありませんので、誤解無きようにして頂きたいのですが、男と女の特性について論じることなく無視して、一律に法制化は問題であろうと言うことです。
話が少し逸れ気味なのですが、男と女については理念や観念で捉えると「平等」になってしまいます。
しかし体が持つ特性や機能面の違いに加えて、感覚・感情面から捉えると「不平等」で全く別な生き物ですよ。
これを論じ始めると長~い文になってしまいますのでここでは割愛して、結論のみにしたいと思います。
女だって社会に進出して活躍できるようになれば今までに味わうことの無かった「面白さ」を知るようになります。
能力のある優秀な女ほど社会の中で活躍の場を広げて行き、信頼も信用も身に付けて高額な報酬も手にするようになるのは自然な姿です。
そうなると家にいて子供を産み育児をし日常の生活面を支える(これは女の本能)よりも、社会に出て活躍する方(これは男の本能)が面白くなるから子供を産もうとは思わなくなっても不思議ではない。
女の本能を無視して社会に進出しなければ生活ができない社会にしてしまい、その上社会進出を法律で煽るようなことをすれば益々小子化は加速するであろうことは間違いない。
日本に限らず人口が増加していた時代は女が社会で活躍していなかった時代であると確信している。恐らく現代でも変わらないのではないでしょうか。
尤もこれは観念が作り上げた社会「男も女も同じ能力を持っている」という現代人の脳が錯覚をしているだけだと思うので、昔の人の方が偉かったように感じます。
男と女の特性や能力・機能面の差と、この世に於ける役割の違いをちゃんと捉えて認識していたからこそ「男女7歳にして席を同じゅうせず」があったのだと考えていますので、「教育」も別が良い様な気がします。
続いて「働き方改革」について少し考えて見ましたが、よく解からないので、この言葉そのものの意味から考えてみると、今までの「働き方」に何らかの問題があったから「改革」すると言うことでしょうから、何の問題があったのかをはっきりささなければただの「空論」で終わってしまいそうですよね。
法文の内容を詳しく照査したわけではありませんが、どうやら労働者に対して「働く時間に残業を含めて制限を設けろ」「休みを取らせろ」などが主なところでしょうか。
数年前からNHK「チコちゃんに叱られる」の中で「働き方改革のコーナー」と名を打った場面が出てくるが「社員に大型連休を取らせるためにといいながら、チコと芸人の二人だけがその場面に出演して、照明も暗くしている」形態だけを見ていると、うっかり納得して騙されそうになるかも知れないが「本質」で捉えると「チコと芸人の二人だけで出来るのなら」今までの内容は余分であった(やらなくてよいことをやっていた)と言う事にならないか?またその一場面だけ照明係りなどの人を減らしても、照明さんは傍に控えているのだろうから、口先だけの改革で、それが大型連休を取れることに繋がることにはならないだろう。
郵政事業も同じことをやっていて、土日の郵便物の配達をやめてしまった。
そのお陰で郵便物が届くのが今までの三倍近い日数を要するようになったのは皆さんも実感しておられることと思います。
つまり働き方改革とは「消費者に不便を与えることで成り立ち」「消費者にとって余り意味のないことによって成り立ったっている」ということでしょうか。
しかしここまで来ると日本はもう「共産国」と同じだね。情けない国になってしまった。
「少子化対策の追加(女だって社会で活躍できれば面白い)」
仕事が忙しくてブログの更新の原稿を書く時間が思うように取れず遅くなりました。
近年欧米の真似をして、いや欧米に阿(おもね)いてか、女性の管理職を三割以上にすることを法制化しようとしているようである。
恐らく制定される法文には女性の管理職となるに相応しい能力を持ち合わせているか否かは記載されないはずである。
女性の管理職を3割以上にする内容は「形態」の話であり、その管理職に相応しい能力を有しているか否かは「質」の話しである。
日本の政治家も官僚もやはり「質」を扱うことが苦手なようで、能力を問わずして女性管理職を三割以上にしろと平気で謳い込もうとするのだから始末が悪い。
該当する能力を有する女性がいなくとも、法律で三割以上とされれば、能力不足の女性管理職を生むことにもなるから、その下で働く部下はその日から地獄の日々が始まるであろうし、社内で不要な軋轢を生むかもしれないことなど想像できないのだろうか。
管理職は性別を問わず経営管理能力を持ち合わせてさえいれば、何ら問題は無いのだけれど、一律に女性管理職を三割以上とされればねぇ。
女性蔑視ではありませんので、誤解無きようにして頂きたいのですが、男と女の特性について論じることなく無視して、一律に法制化は問題であろうと言うことです。
話が少し逸れ気味なのですが、男と女については理念や観念で捉えると「平等」になってしまいます。
しかし体が持つ特性や機能面の違いに加えて、感覚・感情面から捉えると「不平等」で全く別な生き物ですよ。
これを論じ始めると長~い文になってしまいますのでここでは割愛して、結論のみにしたいと思います。
女だって社会に進出して活躍できるようになれば今までに味わうことの無かった「面白さ」を知るようになります。
能力のある優秀な女ほど社会の中で活躍の場を広げて行き、信頼も信用も身に付けて高額な報酬も手にするようになるのは自然な姿です。
そうなると家にいて子供を産み育児をし日常の生活面を支える(これは女の本能)よりも、社会に出て活躍する方(これは男の本能)が面白くなるから子供を産もうとは思わなくなっても不思議ではない。
女の本能を無視して社会に進出しなければ生活ができない社会にしてしまい、その上社会進出を法律で煽るようなことをすれば益々小子化は加速するであろうことは間違いない。
日本に限らず人口が増加していた時代は女が社会で活躍していなかった時代であると確信している。恐らく現代でも変わらないのではないでしょうか。
尤もこれは観念が作り上げた社会「男も女も同じ能力を持っている」という現代人の脳が錯覚をしているだけだと思うので、昔の人の方が偉かったように感じます。
男と女の特性や能力・機能面の差と、この世に於ける役割の違いをちゃんと捉えて認識していたからこそ「男女7歳にして席を同じゅうせず」があったのだと考えていますので、「教育」も別が良い様な気がします。
続いて「働き方改革」について少し考えて見ましたが、よく解からないので、この言葉そのものの意味から考えてみると、今までの「働き方」に何らかの問題があったから「改革」すると言うことでしょうから、何の問題があったのかをはっきりささなければただの「空論」で終わってしまいそうですよね。
法文の内容を詳しく照査したわけではありませんが、どうやら労働者に対して「働く時間に残業を含めて制限を設けろ」「休みを取らせろ」などが主なところでしょうか。
数年前からNHK「チコちゃんに叱られる」の中で「働き方改革のコーナー」と名を打った場面が出てくるが「社員に大型連休を取らせるためにといいながら、チコと芸人の二人だけがその場面に出演して、照明も暗くしている」形態だけを見ていると、うっかり納得して騙されそうになるかも知れないが「本質」で捉えると「チコと芸人の二人だけで出来るのなら」今までの内容は余分であった(やらなくてよいことをやっていた)と言う事にならないか?またその一場面だけ照明係りなどの人を減らしても、照明さんは傍に控えているのだろうから、口先だけの改革で、それが大型連休を取れることに繋がることにはならないだろう。
郵政事業も同じことをやっていて、土日の郵便物の配達をやめてしまった。
そのお陰で郵便物が届くのが今までの三倍近い日数を要するようになったのは皆さんも実感しておられることと思います。
つまり働き方改革とは「消費者に不便を与えることで成り立ち」「消費者にとって余り意味のないことによって成り立ったっている」ということでしょうか。
しかしここまで来ると日本はもう「共産国」と同じだね。情けない国になってしまった。
「酔龍の独り言:その040」
2023-06-20
[ 少子化対策その五(最後) ]
「少子化対策その五(ローンと言う先取り経済を認めた政策の失敗)」
団塊の世代と言われている筆者と同じ七十五歳前後の老人達が子供の頃(六十五年ほど前の頃ですかね)には社会全体として次のような風潮があった。
「勤め人(サラリーマン)は借金をしてはいけない」が鉄則のようにあったし、銀行は企業や商売人には金を貸しても、勤め人に金を貸す仕組みは無かったのである。
では勤め人が高額な商品を求めたい場合はどのようにしていたのかと言えば「月賦(げっぷ)」と言われていた仕組みが当時にあったけれど現在では死語となってしまっているようです。
高額な商品を勤め人が手にするのは二通りの方法があり、その内の一つは「高額商品が買えるまで毎月少しずつ預貯金をしておく」か「月賦」で購入するかである。
「月賦」の購入方法は商品を売る「商店」に対して現金で一括購入できない商品の購入金額を12回払い・24回払いなどのように返済の回数と金額を決めて毎月「商店」に支払うもので、現在の「ローン」と言われているものと比較すると購入者が月々に支払う方法は同じようにみえますが、中身の仕組みが全く異なります。
「月賦」は安定経済・実体経済と言ってよいと思いますが「ローン」は架空経済・先取り経済と言うことになると思います(私は経済には本当に疎いのですが、この位の仕組みは判ります)。
「月賦」の仕組みを簡単に説明すれば消費者が120万円の商品を12回払いで購入すると、月々の支払いは10万円となり、毎月10万円が商店に支払われて、そのお金が社会(市場)に流れる仕組みですから商品代金120万円の全額が社会(市場)に流れるには12ヶ月の期間が必要になります。
しかし「ローン」は全くの別物で、同じように消費が120万円の商品を12回払いで「ローン」を組むと「銀行」から販売元の商店には数日後120万円が支払われます。
しかし、消費者がその「ローン」を完済するには「月賦」と同じ12ヶ月の期間が必要になるのだから、本来12ヶ月先でなければ社会(市場)には生じないはずの金が一気に社会の中に流れて行くのですから確かに経済は発展するでしょう、しかしこれは明らかに「架空の経済(本来12ヵ月後にならなければこの世に生じないはずの金が今日の時点で市中に流れるのですから)」ですよ。
同じように団塊の世代が子供の頃には「家」を新築するのは「三代」を要すると言われていましたから、山を所有している方は「杉・檜・桐」を植林したものです。
爺さんの代に家を新築した後に植林(家を建てる時に使う木材にするため)を行い、貯蓄を始め、息子の代も同じように貯蓄に勤しみ、孫か曾孫の代になってから家の建て替えができるようにと3代~4代に渡って金も貯めていたそうである(勤め人が家を建てるために借金をするなど考えられないことであったし、銀行が金を貸すこともなかった)。
また百年近く経つと植林した木材も十分に柱や梁に使える大きさになっているので、かつての日本では「家(住まいの家ではありません)」を中心としたものの考え方が普遍的で3代の家族が同じ方向を向いて力を合わせることが出来ていたと言うことでしょう(今では考えられないことですよね。戦争に負けて以来自分勝手ばかりが目につく世の中になってしまいました)。
時代が、時がゆっくりと流れていた明治・大正・昭和の時代だったのでしょう(当時の世界情勢は悪の枢軸である欧米が世界中を植民地化している時代のことですから、戦が避けられない慌ただしい世情であったにも拘らず、人の心はこの様にゆっくりと大らかであったと思われます)。
それに比べて今の日本では二十代(意識や能力は子供に近いが・・・世の中では大人と認められています)の若い夫婦が「ローン」を組んで、いとも簡単に四千万円近い土地付きの家やマンションを購入している現状をどのように捉えればよいのだろうか。
いや、若い人が家を建てていけないと言っているわけではないのです。
「ローン」と言う架空の経済を導入したものだから、若い人が簡単に家を手にすることができるようになったため急激に核家族化が進む要因となったことが問題だと思っているのです。
家族三代が同居しなくなったから、お互いが力を合わせ、助け合うこともなくなってしまったし、長年人間の世界で生活を続けてきて身に付けた技術や知恵に工夫を若い家族が学ぶ機会を失ってしまったことが大きな損失であることに気づいている方も少ないであろう。
このような表現は今の時代においては敵愾視されそうですが、釣ってきた魚が捌けない・衣類の繕いが出来ない・おせち料理が作れない等などを鑑みて「それで女か!」と言いたいのですが、本来男と女は平等ではありません「人権についてだけは平等」その他は「体の仕組み」や「ものの捕らえ方・考え方」生活面での「役割」など全てが「得て・不得手」があり平等の能力を持ってこの世に出されていないのに、それを「差別」だと言って同じにしようとする事柄自体が「本当の差別」であることに気づいている人も少ない。
極端な例を言えば「男に子供を産め」と「女に子供の種付けをしろ」であろうが、出来るわけが無い。そもそもこの世に人として出される時の役割が違うからであるが、これが最も大きな役割の違いであろう。
からこの件に関してのみ誰も平等を持ってこないし同権を叫ばないが、そのほかの何となりそうな部分は平等・同権と騒ぎ立てる。
何故騒ぎ立てるのか!そもそも男と女が同じ力と能力を持っていれば、誰かが騒がずとも自然に男であれ女であれ、それぞれの能力に相応しい役職や地位に就いているはずなのに、そうなっていないのは役割の能力に大きな差があるからであって、差別をしているからその重要な役職や役割に就けていないわけではない。
しかし我が国では法律で西暦何年までには女性の管理職を30%以上にするなど、本来人としての姿を歪めるようなことを行おうとする馬鹿政治家なのか官僚なのかは判らないけれど、もう少し歴史を学び様々な角度に立って視野を広げてから政策を行って欲しいと思うばかりである(外国は外国であり日本とは国の生い立ちと国民の質が違う。質の低い方へ流れる必要などないし、真似をする必要などあるまい)。
関連しているとは言え、話が少し逸れてしまいましたので、元に戻します。
母性というものは我が子には「自分が学んで身に付けた知恵や工夫に知識と技術」を伝えたいと思うものであるが、今の若い母親に我が子に対して伝えることができるほど身に付けた「知恵や工夫に知識と技術」があるのだろうかと疑問に思うばかりである。
女としての能力を身に付けるよりも、スマホを使い何でも金を支払うことで解決する方法を身に付けることは女としての「器量」を上げることにはなっていない。
核家族が進んだお陰で女としての器量は下がりっ放しとなり、生活面での知恵や工夫に技術は次の代へ受ける継がれることさえなくなってしまったのである。
今まで述べてきたような事柄全てが小子化と言われている要因を少しずつ担っているで、小子化はこれさえ失くせば解決するので、子供は増えると言うような単純な事柄ではない。
自分で小子化となる要因の一つである核家族化政策を推進しておいて、小子化となったから何とかしなければとは笑ってしまうし、金(補助金)を出しさえすれば子供を生むだろうなどの低次元の発想しか出て来ない政治家と官僚ではこの国将来は本当に危うい。
尤も一旦このような流れを国の中に造ってしまうと、そう簡単には元に戻れないし、新しい発想へ向かうことなど至難のわざとなろう。従って現状の発想以外出来ない政治家と官僚では少子化問題を解決することなど絶対に出来ないと明言しておく。
「少子化対策その五(ローンと言う先取り経済を認めた政策の失敗)」
団塊の世代と言われている筆者と同じ七十五歳前後の老人達が子供の頃(六十五年ほど前の頃ですかね)には社会全体として次のような風潮があった。
「勤め人(サラリーマン)は借金をしてはいけない」が鉄則のようにあったし、銀行は企業や商売人には金を貸しても、勤め人に金を貸す仕組みは無かったのである。
では勤め人が高額な商品を求めたい場合はどのようにしていたのかと言えば「月賦(げっぷ)」と言われていた仕組みが当時にあったけれど現在では死語となってしまっているようです。
高額な商品を勤め人が手にするのは二通りの方法があり、その内の一つは「高額商品が買えるまで毎月少しずつ預貯金をしておく」か「月賦」で購入するかである。
「月賦」の購入方法は商品を売る「商店」に対して現金で一括購入できない商品の購入金額を12回払い・24回払いなどのように返済の回数と金額を決めて毎月「商店」に支払うもので、現在の「ローン」と言われているものと比較すると購入者が月々に支払う方法は同じようにみえますが、中身の仕組みが全く異なります。
「月賦」は安定経済・実体経済と言ってよいと思いますが「ローン」は架空経済・先取り経済と言うことになると思います(私は経済には本当に疎いのですが、この位の仕組みは判ります)。
「月賦」の仕組みを簡単に説明すれば消費者が120万円の商品を12回払いで購入すると、月々の支払いは10万円となり、毎月10万円が商店に支払われて、そのお金が社会(市場)に流れる仕組みですから商品代金120万円の全額が社会(市場)に流れるには12ヶ月の期間が必要になります。
しかし「ローン」は全くの別物で、同じように消費が120万円の商品を12回払いで「ローン」を組むと「銀行」から販売元の商店には数日後120万円が支払われます。
しかし、消費者がその「ローン」を完済するには「月賦」と同じ12ヶ月の期間が必要になるのだから、本来12ヶ月先でなければ社会(市場)には生じないはずの金が一気に社会の中に流れて行くのですから確かに経済は発展するでしょう、しかしこれは明らかに「架空の経済(本来12ヵ月後にならなければこの世に生じないはずの金が今日の時点で市中に流れるのですから)」ですよ。
同じように団塊の世代が子供の頃には「家」を新築するのは「三代」を要すると言われていましたから、山を所有している方は「杉・檜・桐」を植林したものです。
爺さんの代に家を新築した後に植林(家を建てる時に使う木材にするため)を行い、貯蓄を始め、息子の代も同じように貯蓄に勤しみ、孫か曾孫の代になってから家の建て替えができるようにと3代~4代に渡って金も貯めていたそうである(勤め人が家を建てるために借金をするなど考えられないことであったし、銀行が金を貸すこともなかった)。
また百年近く経つと植林した木材も十分に柱や梁に使える大きさになっているので、かつての日本では「家(住まいの家ではありません)」を中心としたものの考え方が普遍的で3代の家族が同じ方向を向いて力を合わせることが出来ていたと言うことでしょう(今では考えられないことですよね。戦争に負けて以来自分勝手ばかりが目につく世の中になってしまいました)。
時代が、時がゆっくりと流れていた明治・大正・昭和の時代だったのでしょう(当時の世界情勢は悪の枢軸である欧米が世界中を植民地化している時代のことですから、戦が避けられない慌ただしい世情であったにも拘らず、人の心はこの様にゆっくりと大らかであったと思われます)。
それに比べて今の日本では二十代(意識や能力は子供に近いが・・・世の中では大人と認められています)の若い夫婦が「ローン」を組んで、いとも簡単に四千万円近い土地付きの家やマンションを購入している現状をどのように捉えればよいのだろうか。
いや、若い人が家を建てていけないと言っているわけではないのです。
「ローン」と言う架空の経済を導入したものだから、若い人が簡単に家を手にすることができるようになったため急激に核家族化が進む要因となったことが問題だと思っているのです。
家族三代が同居しなくなったから、お互いが力を合わせ、助け合うこともなくなってしまったし、長年人間の世界で生活を続けてきて身に付けた技術や知恵に工夫を若い家族が学ぶ機会を失ってしまったことが大きな損失であることに気づいている方も少ないであろう。
このような表現は今の時代においては敵愾視されそうですが、釣ってきた魚が捌けない・衣類の繕いが出来ない・おせち料理が作れない等などを鑑みて「それで女か!」と言いたいのですが、本来男と女は平等ではありません「人権についてだけは平等」その他は「体の仕組み」や「ものの捕らえ方・考え方」生活面での「役割」など全てが「得て・不得手」があり平等の能力を持ってこの世に出されていないのに、それを「差別」だと言って同じにしようとする事柄自体が「本当の差別」であることに気づいている人も少ない。
極端な例を言えば「男に子供を産め」と「女に子供の種付けをしろ」であろうが、出来るわけが無い。そもそもこの世に人として出される時の役割が違うからであるが、これが最も大きな役割の違いであろう。
からこの件に関してのみ誰も平等を持ってこないし同権を叫ばないが、そのほかの何となりそうな部分は平等・同権と騒ぎ立てる。
何故騒ぎ立てるのか!そもそも男と女が同じ力と能力を持っていれば、誰かが騒がずとも自然に男であれ女であれ、それぞれの能力に相応しい役職や地位に就いているはずなのに、そうなっていないのは役割の能力に大きな差があるからであって、差別をしているからその重要な役職や役割に就けていないわけではない。
しかし我が国では法律で西暦何年までには女性の管理職を30%以上にするなど、本来人としての姿を歪めるようなことを行おうとする馬鹿政治家なのか官僚なのかは判らないけれど、もう少し歴史を学び様々な角度に立って視野を広げてから政策を行って欲しいと思うばかりである(外国は外国であり日本とは国の生い立ちと国民の質が違う。質の低い方へ流れる必要などないし、真似をする必要などあるまい)。
関連しているとは言え、話が少し逸れてしまいましたので、元に戻します。
母性というものは我が子には「自分が学んで身に付けた知恵や工夫に知識と技術」を伝えたいと思うものであるが、今の若い母親に我が子に対して伝えることができるほど身に付けた「知恵や工夫に知識と技術」があるのだろうかと疑問に思うばかりである。
女としての能力を身に付けるよりも、スマホを使い何でも金を支払うことで解決する方法を身に付けることは女としての「器量」を上げることにはなっていない。
核家族が進んだお陰で女としての器量は下がりっ放しとなり、生活面での知恵や工夫に技術は次の代へ受ける継がれることさえなくなってしまったのである。
今まで述べてきたような事柄全てが小子化と言われている要因を少しずつ担っているで、小子化はこれさえ失くせば解決するので、子供は増えると言うような単純な事柄ではない。
自分で小子化となる要因の一つである核家族化政策を推進しておいて、小子化となったから何とかしなければとは笑ってしまうし、金(補助金)を出しさえすれば子供を生むだろうなどの低次元の発想しか出て来ない政治家と官僚ではこの国将来は本当に危うい。
尤も一旦このような流れを国の中に造ってしまうと、そう簡単には元に戻れないし、新しい発想へ向かうことなど至難のわざとなろう。従って現状の発想以外出来ない政治家と官僚では少子化問題を解決することなど絶対に出来ないと明言しておく。
「酔龍の独り言:その039」
2023-05-26
[ 少子化対策その四 ]
「少子化対策その四(窮屈になった日本の社会と核家族[政策]の失敗)」
また金融機関大手である都市銀行が振り込み手数料を値上げすると発表したとの報道があったが、前回の振り込み手数料値上げから僅か一年しか経っていない。
殆どの銀行は数十億円か千億円以上の利益を出しているにも拘らず、まだ不足だと言っているのですよね。対外的にはお客さんのため、利用者の為と言いながら、どのように考えてみても、やっていることは銀行が今以上の利益確保と手間の省略が目的であることは明白であろう(振り込み手数料を値上げすることが本当にお客さんのためや利用者の為になるのかねぇ。自問自答して欲しいものである)。
このような社会にしてしまったからこそ、庶民は将来的な不安を感じて希望が持てない気持ちになってしまうので、結婚して子供を産む意欲が湧いてこない(社会を取り巻いている環境が何時また値上げをするのだろうか・・・と)。
四月二十七日にこの発表を聞いたので、つい愚痴ってしまいましたが、本文に入ります。
世界中を見渡しても今の日本ほど綺麗な街並みを維持している国はなかろう・・・道路にゴミやタバコの吸殻など殆ど見かけないし、安心安全の謳い文句の下で手摺や柵などがあちらこちらに張り巡らされて、道路や歩道における高低差の解消までが進められている。
とても綺麗で安全な国ですよねぇ、でもこのような良い国で何故子供が増えないのか不思議で仕方がありません(綺麗で安全な国との表現は形態の話しです)。
では今の日本は本当に住みやすく、国に対して信頼がおけて将来にも希望が持てる様な国ですかと聞かれれば、殆どの人は「否」と答えが返ってくる様な気がしています(これが本質の話です)。
今の日本は外見上の見た目は良いけれど、中身はどうやら違っているようで、とても住み辛く窮屈で、先の見えない社会だと考えている人の方が圧倒的に多いように思えます。
まず、住み辛いと感じてしまう事について検証してみましょう。
現在の日本国に於いて法律(政令・省令・条例・告示・規則・細則などは行政側が作成するのでしょう)は国会が開かれるたびに新しく作られていますし、現在では時代にそぐわず不要になったと思われる様な法文も削除されず生き続けているのが現状です。
私達日本国民は膨大な法文の下で、これらの法に触れずに生活していると言うことになるわけですが、その全ての法文を理解した上で生活している訳でもありません。
法とはある意味で言えば、魚を捕る網のようなものだと思えば解かり易いもので、網の種類が多くなり、網目の大きさが小さくなるほど庶民にとっては窮屈になるということですから、業種を問わず年齢性別をも問わずに掛けられている網(法)は恐らく道路交通法でしょうから、自転車を例に取れば判り易いと思いますので少し触れてみれば、二人乗り禁止から始まり通行方法や通行場所まで決められ、ながら運転の禁止に防犯登録の義務や保険加入にヘルメットの着用まで口出しされるようになったのは、自転車の性能が格段に向上し、交通量の増加に加えて事故も増えている現状では、建前上で人命尊重・安心安全を謳い文句にしている我が国ですから、これらの法が決して悪いとは言えないけれど、高が自転車ですよ・・・そこまで規制するのか・・・何だか窮屈ですよねぇ、でもこのような規制は30年前には無かったと思うけど・・・。
しかし、このような規制を設けても、スマホを触りながらの運転や通行禁止の場所での運転などをよく見かけますので、法で縛ってみても効果は薄いものだとの証でしょう。
だからやはり自転車や車・スマホなどの道具を扱う側である「人の心の在り方や美しさ」
「惻隠の情」などが日本人の心から欠けた事によるところが大きいと思っています。
自転車の例などは、どれほどあるのか判らない法の中の一例でしかありませんから、砂浜の中にある砂の一粒と言ったところでしょうが、それぞれの業界に係る法を加えたら一体如何程の法文があるのやら、そして法文は国債の発行と一緒で増え続けているし、改正と謳いながら本質は国民虐めの改悪に近い内容と思われるものが多いと感じているのは私だけではあるまい。
話が少し脇道に逸れますが中国の史実に基づいた物語「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)」では、秦を滅ぼして漢帝国を築き上げた劉邦が最初に法を定めたのが「殺すな・盗むな・騙すな」の三つであったと記憶しているが、秦の時代では難しい法が多くあって国が纏まらなかったけれど、この三つの法にしたら民にとって判り易く、格段に治安が良くなったと言うことであったらしい。
昔から言われていることに「法は簡素なほど良い」と「法は運用されるべきで適用するべきではない」があるけれど、現在の法文は専門職の弁護士でも難解な法文も多く、法を適用していることも多くあるように感じているから、やはり窮屈ではないでしょうか。
法による規制に頼ることは、善良な人の心を痛めるだけで返って悪循環に陥りやすいのに、新しい法ばかりを作り国民の心を窮屈にするのでは「子供を産んで、育ててみよう」との気持ちは湧いてこないでしょう。
社会全体が自己中心的となって、他人を想い遣る気持ちが薄れ、助け合うことをしなくなった人の心が小子化を招いていることなのに何故それに気づかないのだろうか。
これに輪をかけて小子化の要因となったのは「核家族(政策)」である。
日本では戦後の高度成長・経済成長の下で官民一体となって個人住宅産業を育成してきた経緯があり、今日まで来る途中の40年ほど前までは建設される公団住宅や個人の家(建売住宅がほとんどである)が2DKや3DKでも、床面積は15坪(50㎡)以下で、とても小さく(狭く)て、諸外国からも「ウサギ小屋」と揶揄された時期もあったが、家の広さから考えると子供は2人までだったでしょう。
この頃から小子化と言われる兆候が顕著となってきたのではと思っています。
しかし、同じ日本国内でもまだ田舎の方では、古くから住み続けていた広く大きな家で夫婦の両親(中には夫婦どちらか数人の兄妹)と同居している中で子育てをしていた家庭が一般的だったので、長く子育てをしてきて蓄積された親の知恵を貰いながら、忙しい時は親や兄弟の手を借りることが出来たから、家の中でお互いが助け合いながらの生活が確かにそこにあった。
だから先行きのことなどに関しても今と同じように不安を感じていたと思われるが、現在とは違って心身共に余裕が持てる中で子育てが出来ていたと言うことではなかろうか。
それから次第に女が結婚する相手は「長男以外で、高学歴、高収入」でなければ嫌だと言う社会現象が生じた時期もあり、親との同居を嫌がる風潮が広まってしまった。
更に悪いことに学歴に偏執する社会となったため子供達の多くは都会の大学に行き、そのまま街で就職し結婚して家を持つようになった流れがごく普通の家庭の姿となったので、日常的に兄弟・親子で助け合って生活していた社会が世の中から消えてしまったのが現在である。
また都会に出て行かなければ希望する仕事にも就けず、十分な収入も得られない社会となっては一家の長男までが家を出てしまい、広くて大きな田舎の家は終に住み手を失い、買い手も借り手も見つからないでは、朽ち果てるのを待つ以外に残された道が無い現状は、まるで現在の我が身と重なるようにも思えるのは、これまで日本の行く先が誤った方向であることに気が付かずに歩んで来た団塊の世代である75歳前後の者達の共通した悩みなのに、追い討ちをかけるように田舎の空き家となった家をそのまま放置すれば「空き家税(新法です)」を課せられるようになるとは、年寄りに鞭打つ政策としか捉えようのない政策である。なにせ住む人が少なくなってしまった田舎の家や土地など借り手の需要など無く、売ろうにも買い手が付かずの現状ですからねぇ~一体どうしろと言うのでしょうか。地方自治体が引き取ってくれれば有難いのだけど、負となる土地や家は引き取らないそうですから困ったものです。
それなら家を壊せば良いではないかと思われるかもしれませんが、広い家を壊すのには少なくとも今直ぐ数百万円以上は必要やで、そんで持って家を壊したら今度は土地の評価額が上がるから土地の固定資産税が何倍かになりますわなぁ、どちらを取っても踏まれたり蹴ったりされるようで面白くありませんなぁ、やはり窮屈で仕方ありません。
先進国と言われている都市に人口が集中しているのは日本だけではなくて世界中で共通していることです。そして同じく共通しているのが「核家族」と「小子化」ですよ。
人口が増加している国「インド」では三世代が一つの住まいを共有しているのではないでしょうか、詳しく調べている訳ではありませんので自信はありませんが・・・。
ただ、戦後アメリカから押し付けられた多くの法によって良き日本の心と生活習慣や文化が駆逐されたことは否定できません。
過去の日本において鎌倉幕府が潰れてしまった最大の理由は現在と同じ平等相続にあったことを忘れてはいけません。「平等相続」は「核家族」と同じことです。
一見良さそうに見えるけれど、相続を繰り返すごとに資産は痩せ細り、幾ら生活に必要な物といえども本家に一つあれば全員で使いまわして済んでいたのに、相続したら子供の数の分だけ必要となるのですからねぇ、この上もなく無駄を増やしているのが今の日本でしょうか。
鎌倉時代と同じ道を歩んでいるのが昭和・平成・令和ですから、滅びの道を辿っているということでしょうか。
「少子化対策その四(窮屈になった日本の社会と核家族[政策]の失敗)」
また金融機関大手である都市銀行が振り込み手数料を値上げすると発表したとの報道があったが、前回の振り込み手数料値上げから僅か一年しか経っていない。
殆どの銀行は数十億円か千億円以上の利益を出しているにも拘らず、まだ不足だと言っているのですよね。対外的にはお客さんのため、利用者の為と言いながら、どのように考えてみても、やっていることは銀行が今以上の利益確保と手間の省略が目的であることは明白であろう(振り込み手数料を値上げすることが本当にお客さんのためや利用者の為になるのかねぇ。自問自答して欲しいものである)。
このような社会にしてしまったからこそ、庶民は将来的な不安を感じて希望が持てない気持ちになってしまうので、結婚して子供を産む意欲が湧いてこない(社会を取り巻いている環境が何時また値上げをするのだろうか・・・と)。
四月二十七日にこの発表を聞いたので、つい愚痴ってしまいましたが、本文に入ります。
世界中を見渡しても今の日本ほど綺麗な街並みを維持している国はなかろう・・・道路にゴミやタバコの吸殻など殆ど見かけないし、安心安全の謳い文句の下で手摺や柵などがあちらこちらに張り巡らされて、道路や歩道における高低差の解消までが進められている。
とても綺麗で安全な国ですよねぇ、でもこのような良い国で何故子供が増えないのか不思議で仕方がありません(綺麗で安全な国との表現は形態の話しです)。
では今の日本は本当に住みやすく、国に対して信頼がおけて将来にも希望が持てる様な国ですかと聞かれれば、殆どの人は「否」と答えが返ってくる様な気がしています(これが本質の話です)。
今の日本は外見上の見た目は良いけれど、中身はどうやら違っているようで、とても住み辛く窮屈で、先の見えない社会だと考えている人の方が圧倒的に多いように思えます。
まず、住み辛いと感じてしまう事について検証してみましょう。
現在の日本国に於いて法律(政令・省令・条例・告示・規則・細則などは行政側が作成するのでしょう)は国会が開かれるたびに新しく作られていますし、現在では時代にそぐわず不要になったと思われる様な法文も削除されず生き続けているのが現状です。
私達日本国民は膨大な法文の下で、これらの法に触れずに生活していると言うことになるわけですが、その全ての法文を理解した上で生活している訳でもありません。
法とはある意味で言えば、魚を捕る網のようなものだと思えば解かり易いもので、網の種類が多くなり、網目の大きさが小さくなるほど庶民にとっては窮屈になるということですから、業種を問わず年齢性別をも問わずに掛けられている網(法)は恐らく道路交通法でしょうから、自転車を例に取れば判り易いと思いますので少し触れてみれば、二人乗り禁止から始まり通行方法や通行場所まで決められ、ながら運転の禁止に防犯登録の義務や保険加入にヘルメットの着用まで口出しされるようになったのは、自転車の性能が格段に向上し、交通量の増加に加えて事故も増えている現状では、建前上で人命尊重・安心安全を謳い文句にしている我が国ですから、これらの法が決して悪いとは言えないけれど、高が自転車ですよ・・・そこまで規制するのか・・・何だか窮屈ですよねぇ、でもこのような規制は30年前には無かったと思うけど・・・。
しかし、このような規制を設けても、スマホを触りながらの運転や通行禁止の場所での運転などをよく見かけますので、法で縛ってみても効果は薄いものだとの証でしょう。
だからやはり自転車や車・スマホなどの道具を扱う側である「人の心の在り方や美しさ」
「惻隠の情」などが日本人の心から欠けた事によるところが大きいと思っています。
自転車の例などは、どれほどあるのか判らない法の中の一例でしかありませんから、砂浜の中にある砂の一粒と言ったところでしょうが、それぞれの業界に係る法を加えたら一体如何程の法文があるのやら、そして法文は国債の発行と一緒で増え続けているし、改正と謳いながら本質は国民虐めの改悪に近い内容と思われるものが多いと感じているのは私だけではあるまい。
話が少し脇道に逸れますが中国の史実に基づいた物語「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)」では、秦を滅ぼして漢帝国を築き上げた劉邦が最初に法を定めたのが「殺すな・盗むな・騙すな」の三つであったと記憶しているが、秦の時代では難しい法が多くあって国が纏まらなかったけれど、この三つの法にしたら民にとって判り易く、格段に治安が良くなったと言うことであったらしい。
昔から言われていることに「法は簡素なほど良い」と「法は運用されるべきで適用するべきではない」があるけれど、現在の法文は専門職の弁護士でも難解な法文も多く、法を適用していることも多くあるように感じているから、やはり窮屈ではないでしょうか。
法による規制に頼ることは、善良な人の心を痛めるだけで返って悪循環に陥りやすいのに、新しい法ばかりを作り国民の心を窮屈にするのでは「子供を産んで、育ててみよう」との気持ちは湧いてこないでしょう。
社会全体が自己中心的となって、他人を想い遣る気持ちが薄れ、助け合うことをしなくなった人の心が小子化を招いていることなのに何故それに気づかないのだろうか。
これに輪をかけて小子化の要因となったのは「核家族(政策)」である。
日本では戦後の高度成長・経済成長の下で官民一体となって個人住宅産業を育成してきた経緯があり、今日まで来る途中の40年ほど前までは建設される公団住宅や個人の家(建売住宅がほとんどである)が2DKや3DKでも、床面積は15坪(50㎡)以下で、とても小さく(狭く)て、諸外国からも「ウサギ小屋」と揶揄された時期もあったが、家の広さから考えると子供は2人までだったでしょう。
この頃から小子化と言われる兆候が顕著となってきたのではと思っています。
しかし、同じ日本国内でもまだ田舎の方では、古くから住み続けていた広く大きな家で夫婦の両親(中には夫婦どちらか数人の兄妹)と同居している中で子育てをしていた家庭が一般的だったので、長く子育てをしてきて蓄積された親の知恵を貰いながら、忙しい時は親や兄弟の手を借りることが出来たから、家の中でお互いが助け合いながらの生活が確かにそこにあった。
だから先行きのことなどに関しても今と同じように不安を感じていたと思われるが、現在とは違って心身共に余裕が持てる中で子育てが出来ていたと言うことではなかろうか。
それから次第に女が結婚する相手は「長男以外で、高学歴、高収入」でなければ嫌だと言う社会現象が生じた時期もあり、親との同居を嫌がる風潮が広まってしまった。
更に悪いことに学歴に偏執する社会となったため子供達の多くは都会の大学に行き、そのまま街で就職し結婚して家を持つようになった流れがごく普通の家庭の姿となったので、日常的に兄弟・親子で助け合って生活していた社会が世の中から消えてしまったのが現在である。
また都会に出て行かなければ希望する仕事にも就けず、十分な収入も得られない社会となっては一家の長男までが家を出てしまい、広くて大きな田舎の家は終に住み手を失い、買い手も借り手も見つからないでは、朽ち果てるのを待つ以外に残された道が無い現状は、まるで現在の我が身と重なるようにも思えるのは、これまで日本の行く先が誤った方向であることに気が付かずに歩んで来た団塊の世代である75歳前後の者達の共通した悩みなのに、追い討ちをかけるように田舎の空き家となった家をそのまま放置すれば「空き家税(新法です)」を課せられるようになるとは、年寄りに鞭打つ政策としか捉えようのない政策である。なにせ住む人が少なくなってしまった田舎の家や土地など借り手の需要など無く、売ろうにも買い手が付かずの現状ですからねぇ~一体どうしろと言うのでしょうか。地方自治体が引き取ってくれれば有難いのだけど、負となる土地や家は引き取らないそうですから困ったものです。
それなら家を壊せば良いではないかと思われるかもしれませんが、広い家を壊すのには少なくとも今直ぐ数百万円以上は必要やで、そんで持って家を壊したら今度は土地の評価額が上がるから土地の固定資産税が何倍かになりますわなぁ、どちらを取っても踏まれたり蹴ったりされるようで面白くありませんなぁ、やはり窮屈で仕方ありません。
先進国と言われている都市に人口が集中しているのは日本だけではなくて世界中で共通していることです。そして同じく共通しているのが「核家族」と「小子化」ですよ。
人口が増加している国「インド」では三世代が一つの住まいを共有しているのではないでしょうか、詳しく調べている訳ではありませんので自信はありませんが・・・。
ただ、戦後アメリカから押し付けられた多くの法によって良き日本の心と生活習慣や文化が駆逐されたことは否定できません。
過去の日本において鎌倉幕府が潰れてしまった最大の理由は現在と同じ平等相続にあったことを忘れてはいけません。「平等相続」は「核家族」と同じことです。
一見良さそうに見えるけれど、相続を繰り返すごとに資産は痩せ細り、幾ら生活に必要な物といえども本家に一つあれば全員で使いまわして済んでいたのに、相続したら子供の数の分だけ必要となるのですからねぇ、この上もなく無駄を増やしているのが今の日本でしょうか。
鎌倉時代と同じ道を歩んでいるのが昭和・平成・令和ですから、滅びの道を辿っているということでしょうか。
「酔龍の独り言:その038」
2023-04-24
[ 少子化対策その三 ]
今の日本において士業を含めて専門的職業についている人達の殆どは国家資格保持者である。
この国家資格を有するには、まず受験資格(国家資格の試験が受けられる最低の基準)と言うものがあって、その殆どが学歴と習得した学科となっています。
これまで国家資格の受験資格を全て調べてみたことはありませんが、恐らく高校卒業以上の学歴が必要とされているはずで、中には大学の特定されている学科を修了した者に限定されているものもあります。
と言うことは、中学校卒業以下では国家資格を得ることは出来ないと言うことになり、学歴が無くてもその職業には就けるかもしれないけれど、仮に本人の素質や能力がその道において、とても優れているものを有していたとしても、国家資格を有することは出来ないと言うことになるので、社会的な扱いが粗末にされることが多いと思われます(会社における地位や給与待遇など)。
尤も高校卒業と同等となる認定を受けられる機関もあるようですが、世の中には本質的といえばよいのか、心情的にと言う方がよいのか、明らかに学問的な能力が劣っている方や学問がとても苦手な方も多いのです。
ではそのような方々はどのような仕事に就けば社会的に信頼されて、少しでも尊敬が得られ、お客さんからも喜ばれて、ある程度安定した収入が得られるのかと言えば、職人になる道と家内工業である家業を継ぐことであったのはもう一昔の話で、今の日本に於いてはその道は残されていない。
今まで何度も同じことを書いてきましたが、政府と官僚が良き日本の社会構造を壊してしまったことが小子化の原因の一つにもなっていると思うのです。
学問など出来なくても十分に社会の中で活躍が出来きて、安定した収入が得られる社会こそ本来人が形成するべき社会形態であって、かつての日本では地域の方から喜んで貰えていた職人としての腕や、作る食品・料理の味、製造する製品の良さなどが尊敬とまでは行かなくとも、少なからず賞賛される職業として活躍できていた社会であったものを壊してしまったのである。
大手企業による製品の工業化を押し進めて、職人や家内工業の生きる道を狭めてしまい、大店法(だいてんほう)を施行させることで地域に深く根付いていた商店や店舗を壊滅させたつけが現在形になって顕われて、学問が出来ない若者は生活の糧を得る場を失ってしまった。
ほんの一例に過ぎないけれど、それによってこのような若者達は振り込み詐欺などの特殊詐欺と言われている悪事に手を染めるような事柄に巧みな手法で取り込まれてしまっているのではないかと思うのです。これらの事件で検挙された人は、氷山の一角であろうし、その予備軍は相当数いるはずなので、酷い格差社会の底辺に近い人達は生活の糧を得ることが出来ないから、不本意ながら悪事の道に引きずられてしまっていると言うことでしょうか、このような若者達が自分の将来像として描く「結婚・出産・子育て」など考えられるわけなどないでしょう。
人は自分の持つ能力を高めるために、長い間に渡って少しずつ周囲の人達との信頼関係を築き、仕事の腕を磨きながら積み上げてきた技術でもって働いてその対価を得る。その対価で「結婚・出産・子育て」を含む日常生活を営むからこそ充実感や満足感が得られるものであって「働くことは喜び」であるなどの意識が持てるようになれば、自ずと「心の充足度」は高まり、多少収入が低くても人は不平・不満など口にしないものである。
ただ、現在のような社会構成下では「仕事は金を得る」手段となってしまい「仕事をすることは喜びである」との意識を持っている人はとても少ないと思う。
このような意識の差が日本を駄目にした根本原因であって、欧米の悪しき習慣を取り入れて現在は正にアメリカ合衆国日本州と化してしまったようである(戦後マッカーサーがやったウオーギルド・インフォメーション・プログラムは大成功を収めたと言ってよいと思うけれど、当のご本人は後日アメリカに帰国して綴った回顧録の中で、あのプログラムを日本に押し付けたのは間違いであったと懺悔している内容の近代歴史書を読んだことがある)。
労使関係に於いてもかつての日本の創業者は社員を我が子以上に可愛がり慈しみ教育しながら「(人としての素地を)育てていた」けれど、欧米の経営者は社員を「金を稼ぐ道具」程度にしか考えていないから、人を育てることなど決してせず、業務マニュアルを押し付けているだけである。
現在の日本の大企業は正にアメリカのこの方策を模倣して企業運営を行っているから多くの若い社員を抱えながらも金儲けの為の教育はしているようだが「人を育ててはいない」ので殺伐とした会社となってしまっているのではなかろうかと想像していますし、経営陣達が先を争うように法令を含み同義的違反に手を染めていることからも推察できる。
かつての話が多くなってしまいますが、かつて戦争が起こることを前提として国は国民に対して戦闘員確保のために「産めや、増やせや」政策のようなものがあったと聞いていて、勿論子供のことなのだけれど、このことを奨励するわけではありませんが、ではその当時と大東亜戦争終結後に復員して帰ってきた時に生じたベビーブーム(団塊の世代と呼ばれた)人達の子育てと現在を比較してみればもう少し本質に迫ることが出来るのではないかと思います。
そこで終戦後に於ける当時の子育てを振り返ってみると子供の生活費や出産費用に加えて教育費などに対して国が補助金を支給していたのかと言えば「否」であるにも拘らず多くの子供達を産んで育てていた(子供の人数に応じての所得減税はあったと思うが、微々たるものであったと思っている)。
では当時子供の生活費や教育には金が掛からなかったのかといえば、そんなことはあろうはずもなく、やはりある程度の金は掛かっていたのだから、一体何が違うから子供を産まなくなったのかの答えがここにあろうと言うものである。
仮に我が子が学問など出来なくても「十分に生活できる環境が社会の中にあった」から親は安心して子育てができたのだと思っている(子供の出来不出来に係らず将来に対しての不安など感じなかったからではないだろうか)。
現在SDGs(エスディージーズ)と盛んに叫ばれている内容だけれど「多様性を認め」「誰も置き去りにしない」「貧困をなくす」」など全部で17項目あるようですが、日本の当時には近隣同士で助け合い、家族や親戚と協力し合って生活を成り立たせていた環境を構築していたので、真のSDGsを既に行っていたと言うことになるが、それをぶち壊しておいてから今になって何故SDGsなどと叫ぶのかと言いたい。
それは全て日本の良き文化と生活様式をアメリカに倣って捨ててしまったからに他ならない。自分にとって都合のよい権利の主張ばかりを振り回して他を攻撃し、真偽を確かめもせずに無責任に嘘の情報を垂れ流し、世間に向けた謳い文句はとても良いのだが、やっていることは自分の都合を消費者に押し付けているだけの大企業の姿などをみていては「このような社会の中で多くの子供を産んで育てる意欲」が湧くでしょうか。
小子化については高額な出産費用に加え、子供を育てる為に必要な生活費や教育費が不足すること以外にもっと大きな要因があることに政治家も官僚も気付いていないから的外れな議論と政策ばかりが出てくるのだろうと思っています。
又文章が長くなってしまいましたので [ 少子化対策その四(窮屈になった日本の社会と核家族政策の失敗) ] は次回に持ち越します。
今の日本において士業を含めて専門的職業についている人達の殆どは国家資格保持者である。
この国家資格を有するには、まず受験資格(国家資格の試験が受けられる最低の基準)と言うものがあって、その殆どが学歴と習得した学科となっています。
これまで国家資格の受験資格を全て調べてみたことはありませんが、恐らく高校卒業以上の学歴が必要とされているはずで、中には大学の特定されている学科を修了した者に限定されているものもあります。
と言うことは、中学校卒業以下では国家資格を得ることは出来ないと言うことになり、学歴が無くてもその職業には就けるかもしれないけれど、仮に本人の素質や能力がその道において、とても優れているものを有していたとしても、国家資格を有することは出来ないと言うことになるので、社会的な扱いが粗末にされることが多いと思われます(会社における地位や給与待遇など)。
尤も高校卒業と同等となる認定を受けられる機関もあるようですが、世の中には本質的といえばよいのか、心情的にと言う方がよいのか、明らかに学問的な能力が劣っている方や学問がとても苦手な方も多いのです。
ではそのような方々はどのような仕事に就けば社会的に信頼されて、少しでも尊敬が得られ、お客さんからも喜ばれて、ある程度安定した収入が得られるのかと言えば、職人になる道と家内工業である家業を継ぐことであったのはもう一昔の話で、今の日本に於いてはその道は残されていない。
今まで何度も同じことを書いてきましたが、政府と官僚が良き日本の社会構造を壊してしまったことが小子化の原因の一つにもなっていると思うのです。
学問など出来なくても十分に社会の中で活躍が出来きて、安定した収入が得られる社会こそ本来人が形成するべき社会形態であって、かつての日本では地域の方から喜んで貰えていた職人としての腕や、作る食品・料理の味、製造する製品の良さなどが尊敬とまでは行かなくとも、少なからず賞賛される職業として活躍できていた社会であったものを壊してしまったのである。
大手企業による製品の工業化を押し進めて、職人や家内工業の生きる道を狭めてしまい、大店法(だいてんほう)を施行させることで地域に深く根付いていた商店や店舗を壊滅させたつけが現在形になって顕われて、学問が出来ない若者は生活の糧を得る場を失ってしまった。
ほんの一例に過ぎないけれど、それによってこのような若者達は振り込み詐欺などの特殊詐欺と言われている悪事に手を染めるような事柄に巧みな手法で取り込まれてしまっているのではないかと思うのです。これらの事件で検挙された人は、氷山の一角であろうし、その予備軍は相当数いるはずなので、酷い格差社会の底辺に近い人達は生活の糧を得ることが出来ないから、不本意ながら悪事の道に引きずられてしまっていると言うことでしょうか、このような若者達が自分の将来像として描く「結婚・出産・子育て」など考えられるわけなどないでしょう。
人は自分の持つ能力を高めるために、長い間に渡って少しずつ周囲の人達との信頼関係を築き、仕事の腕を磨きながら積み上げてきた技術でもって働いてその対価を得る。その対価で「結婚・出産・子育て」を含む日常生活を営むからこそ充実感や満足感が得られるものであって「働くことは喜び」であるなどの意識が持てるようになれば、自ずと「心の充足度」は高まり、多少収入が低くても人は不平・不満など口にしないものである。
ただ、現在のような社会構成下では「仕事は金を得る」手段となってしまい「仕事をすることは喜びである」との意識を持っている人はとても少ないと思う。
このような意識の差が日本を駄目にした根本原因であって、欧米の悪しき習慣を取り入れて現在は正にアメリカ合衆国日本州と化してしまったようである(戦後マッカーサーがやったウオーギルド・インフォメーション・プログラムは大成功を収めたと言ってよいと思うけれど、当のご本人は後日アメリカに帰国して綴った回顧録の中で、あのプログラムを日本に押し付けたのは間違いであったと懺悔している内容の近代歴史書を読んだことがある)。
労使関係に於いてもかつての日本の創業者は社員を我が子以上に可愛がり慈しみ教育しながら「(人としての素地を)育てていた」けれど、欧米の経営者は社員を「金を稼ぐ道具」程度にしか考えていないから、人を育てることなど決してせず、業務マニュアルを押し付けているだけである。
現在の日本の大企業は正にアメリカのこの方策を模倣して企業運営を行っているから多くの若い社員を抱えながらも金儲けの為の教育はしているようだが「人を育ててはいない」ので殺伐とした会社となってしまっているのではなかろうかと想像していますし、経営陣達が先を争うように法令を含み同義的違反に手を染めていることからも推察できる。
かつての話が多くなってしまいますが、かつて戦争が起こることを前提として国は国民に対して戦闘員確保のために「産めや、増やせや」政策のようなものがあったと聞いていて、勿論子供のことなのだけれど、このことを奨励するわけではありませんが、ではその当時と大東亜戦争終結後に復員して帰ってきた時に生じたベビーブーム(団塊の世代と呼ばれた)人達の子育てと現在を比較してみればもう少し本質に迫ることが出来るのではないかと思います。
そこで終戦後に於ける当時の子育てを振り返ってみると子供の生活費や出産費用に加えて教育費などに対して国が補助金を支給していたのかと言えば「否」であるにも拘らず多くの子供達を産んで育てていた(子供の人数に応じての所得減税はあったと思うが、微々たるものであったと思っている)。
では当時子供の生活費や教育には金が掛からなかったのかといえば、そんなことはあろうはずもなく、やはりある程度の金は掛かっていたのだから、一体何が違うから子供を産まなくなったのかの答えがここにあろうと言うものである。
仮に我が子が学問など出来なくても「十分に生活できる環境が社会の中にあった」から親は安心して子育てができたのだと思っている(子供の出来不出来に係らず将来に対しての不安など感じなかったからではないだろうか)。
現在SDGs(エスディージーズ)と盛んに叫ばれている内容だけれど「多様性を認め」「誰も置き去りにしない」「貧困をなくす」」など全部で17項目あるようですが、日本の当時には近隣同士で助け合い、家族や親戚と協力し合って生活を成り立たせていた環境を構築していたので、真のSDGsを既に行っていたと言うことになるが、それをぶち壊しておいてから今になって何故SDGsなどと叫ぶのかと言いたい。
それは全て日本の良き文化と生活様式をアメリカに倣って捨ててしまったからに他ならない。自分にとって都合のよい権利の主張ばかりを振り回して他を攻撃し、真偽を確かめもせずに無責任に嘘の情報を垂れ流し、世間に向けた謳い文句はとても良いのだが、やっていることは自分の都合を消費者に押し付けているだけの大企業の姿などをみていては「このような社会の中で多くの子供を産んで育てる意欲」が湧くでしょうか。
小子化については高額な出産費用に加え、子供を育てる為に必要な生活費や教育費が不足すること以外にもっと大きな要因があることに政治家も官僚も気付いていないから的外れな議論と政策ばかりが出てくるのだろうと思っています。
又文章が長くなってしまいましたので [ 少子化対策その四(窮屈になった日本の社会と核家族政策の失敗) ] は次回に持ち越します。
「酔龍の独り言:その037」
2023-03-27
[ 少子化対策その二 ]
本文に入る前に少しお伝えしたいことがあります。
今、藤原正彦氏の「日本人の真価」と言う本を読んでいるのですが、その中に面白い一節がありましたのでご紹介してみます。
2020年5月中旬に米外交誌『フォーリン・ポリシー』が、「日本の新型コロナ対策はことごとく見当違いに見えるが、結果的には世界で最も死亡率を低く抑えた国のひとつである。奇妙な成功」と評しました。
オーストラリアのABC放送は「日本は、満員電車、高い高齢化率、罰則なしの緊急事態宣言、低い検査率など、イタリアやニューヨークの二の舞になる全てを揃えていた。封じ込め成功はミステリー」と報じました。英紙ガーティアンは「衛生観念の高さと、ウイルスに対する国民の静かな決意が賞賛される」と書きました(と本の中の記述にあります)。
この文の中で「日本の新型コロナ対策がことごとく見当違い・・・」の下りには思わず笑ってしまいました(政治家と官僚の無知に医師会の狡猾さが揶揄されていますよね)。
さて、それでは前回の続きを書きます。
前回お伝えしたように、かつて日本が持っていた良き社会構造を崩壊させてしまった今、日本の若い夫婦に子沢山への道が残されているのだろうか・・・と考えてみても、現状の政策では否以外の言葉が出てこない。
子供を沢山産んで育てられないと言うことの裏には、多くの理由があると思っていますが、前回に続き今回はその内の二つについて書いて見ました。
一つは「子育てに金が掛かりすぎる」二つ目は「子供が成長した時に、学歴が無い者には職業の選択肢が極めて少ない資格試験制度にある」と考えています。
ただ、現在の日本における社会構造は一見すると、便利で安全で快適に見えていますが、その裏面に隠されている本質の部分にその原因があり、それが複雑に絡み合っているから、これとこれでだから、これさえ直せば小子化の問題は解決しますと言うことが本当に難しいので、それぞれを繋ぎ合わせて推測していただければと思います。
親が子供を産んでも、現状で破綻寸前となっている年金制度や、上がるばかりの税制に加え、負担が増え続けている医療保険などを鑑みると、親としては子供の教育、子供の将来に対して不安ばかりが覆い被さり、心を痛めるようになってしまうので、一人か二人を育てるのが限界であろうと思うことの方が自然の流れではないでしょうか。
もし将来に希望が持てるような社会構造になるとすれば、親は子供を多く産んで育てる意欲も持てるだろうが、今のところその兆しすら見えてこない。
かつて国民である勤労者が積み立てていた厚生年金基金の莫大な金を使って、官僚が天下り先として多くの施設を造った後に、経営が破綻寸前(民間からは持ち上げられ、国民を見下している輩に事業など出来るわけが無いのに)になったと言いう理由で他企業に土地と建物を二束三文で売却した経緯があるけれど、官僚達は一切の責任を取らずにお構い無しとなっている。このようにして官僚達が国民から金を吸い上げて、都合の良い大義名分をかざして余剰金が生じると使いたい放題使っておきながら大金をドブに捨てた件(これは明らかに事件ですけどね)はこれに限らず今までに数多くあります(厚労省は何十年も前から日本の将来は小子化となり年金制度が破綻することを知っていたのだから、それなら今のうちに使ってしまえ・・・と思ったに違いない)。
このようなことが許される国の制度下では国民に希望が持てる社会であり、信頼できる国であるとは到底思えるはずも無いから、将来が悲観的になっても仕方があるまい。
何故官僚達が国民の金を好き勝手自由に使った上に失敗しても「お咎め」を受けないのかについては「行政のやった仕事の結果に対して上手く行かなかった時に責任を取らせたら、役人が萎縮して十分な仕事が出来なくなるから」だそうです(何かの本で読んだ知識ですが・・・民間企業ではありえないことですけどね)。
しかし、これはなんと恐ろしいことでしょうか、日本一頭脳が優秀だと言われている霞ヶ関の集団が失敗を前提にして仕事をしてよいとの免罪符を与えられているのですからねぇ気楽なことこの上なかろうし、我田引水・牽強(けんきょう)付会(ふかい)・唯我独尊などの言葉は与えられた権利だと腹の中で主張し、朝令暮改などを行っては官僚にとって都合のよい法律ばかりを作り、言葉巧みに法の改正と謳いながら、本質は改悪を平気でやるのだからねぇ、国民が黙して辛抱していることを良いことに、やりたい放題であるが、これを正す機関が日本に無いことが淋しいし、諸悪の根源となっているように思う。
ただ唯一あるとすれば、国会だが政治家達は皆勉強不足で、もし官僚にそっぽを向かれると国会運営が上手く行かないからねぇ、ここには手を付けない、いや付けられないのが本音だろうか(しかし、官僚の人事権は官邸が握るようになったのではなかったかなぁ~)。
このような流れでは、上に立つ者が国や国民のための政治や行政を行っているとは、とても思えなく、逆に国民からは官僚の為に税の搾取をされているような感覚になる。この辺りが是正されれば国民の心に中には役得や不公平感が無くなり本当の意味での安心・安堵感が生まれてきて、将来に対する希望が持てるようになるはずだから自然と子供を多く産んで育てたくもなるように思う(政治家や官僚が信頼に値するようになればの話です)。
『公務員は刑事事件を犯さなくても、国や国民に対して背任行為に近いことを行えば、必ず責任を取らせる』制度を設けなければ日本の国は良き方向に向かうことは無い。
このことは多くの国民が心の中で思っていることだろうと思うので、文にしてみました。
子育てするのには金が掛かるだろうから、金をやれば子供を産むだろうと政府は子育て支援金などと言うものを出そうと企んでいるが、所得制限無しに一律に支給するとか、制限を設けるべきだとかで言い争っているようでは、やはり的が外れたことばかりに目が向いていて本質が見えていない証拠であろう。
国から金を貰うと言うことの意味が判っていないのである。政府は国民全員が乞食だと思っているのではないかと思えるほどで、金を配ることができるのなら最初から各種の税を含めた負担を少なくすれば良いことであって、一旦強制的に召し上げておいてから後になって「恵んでやるから有りがたく思え」では国民の心の中は燻りしこりが残る。
国民の殆どは自分の力で子を産み育てたいのであって、補助金を貰わなければ子供が産めず育てられない社会だというのは、どこか軸が狂っているとしか思えない。
文が長くなってしまいましたので「子供が成長した時に、学歴が無い者には職業の選択肢が極めて少ない資格試験制度にある」は次回にさせてください。
本文に入る前に少しお伝えしたいことがあります。
今、藤原正彦氏の「日本人の真価」と言う本を読んでいるのですが、その中に面白い一節がありましたのでご紹介してみます。
2020年5月中旬に米外交誌『フォーリン・ポリシー』が、「日本の新型コロナ対策はことごとく見当違いに見えるが、結果的には世界で最も死亡率を低く抑えた国のひとつである。奇妙な成功」と評しました。
オーストラリアのABC放送は「日本は、満員電車、高い高齢化率、罰則なしの緊急事態宣言、低い検査率など、イタリアやニューヨークの二の舞になる全てを揃えていた。封じ込め成功はミステリー」と報じました。英紙ガーティアンは「衛生観念の高さと、ウイルスに対する国民の静かな決意が賞賛される」と書きました(と本の中の記述にあります)。
この文の中で「日本の新型コロナ対策がことごとく見当違い・・・」の下りには思わず笑ってしまいました(政治家と官僚の無知に医師会の狡猾さが揶揄されていますよね)。
さて、それでは前回の続きを書きます。
前回お伝えしたように、かつて日本が持っていた良き社会構造を崩壊させてしまった今、日本の若い夫婦に子沢山への道が残されているのだろうか・・・と考えてみても、現状の政策では否以外の言葉が出てこない。
子供を沢山産んで育てられないと言うことの裏には、多くの理由があると思っていますが、前回に続き今回はその内の二つについて書いて見ました。
一つは「子育てに金が掛かりすぎる」二つ目は「子供が成長した時に、学歴が無い者には職業の選択肢が極めて少ない資格試験制度にある」と考えています。
ただ、現在の日本における社会構造は一見すると、便利で安全で快適に見えていますが、その裏面に隠されている本質の部分にその原因があり、それが複雑に絡み合っているから、これとこれでだから、これさえ直せば小子化の問題は解決しますと言うことが本当に難しいので、それぞれを繋ぎ合わせて推測していただければと思います。
親が子供を産んでも、現状で破綻寸前となっている年金制度や、上がるばかりの税制に加え、負担が増え続けている医療保険などを鑑みると、親としては子供の教育、子供の将来に対して不安ばかりが覆い被さり、心を痛めるようになってしまうので、一人か二人を育てるのが限界であろうと思うことの方が自然の流れではないでしょうか。
もし将来に希望が持てるような社会構造になるとすれば、親は子供を多く産んで育てる意欲も持てるだろうが、今のところその兆しすら見えてこない。
かつて国民である勤労者が積み立てていた厚生年金基金の莫大な金を使って、官僚が天下り先として多くの施設を造った後に、経営が破綻寸前(民間からは持ち上げられ、国民を見下している輩に事業など出来るわけが無いのに)になったと言いう理由で他企業に土地と建物を二束三文で売却した経緯があるけれど、官僚達は一切の責任を取らずにお構い無しとなっている。このようにして官僚達が国民から金を吸い上げて、都合の良い大義名分をかざして余剰金が生じると使いたい放題使っておきながら大金をドブに捨てた件(これは明らかに事件ですけどね)はこれに限らず今までに数多くあります(厚労省は何十年も前から日本の将来は小子化となり年金制度が破綻することを知っていたのだから、それなら今のうちに使ってしまえ・・・と思ったに違いない)。
このようなことが許される国の制度下では国民に希望が持てる社会であり、信頼できる国であるとは到底思えるはずも無いから、将来が悲観的になっても仕方があるまい。
何故官僚達が国民の金を好き勝手自由に使った上に失敗しても「お咎め」を受けないのかについては「行政のやった仕事の結果に対して上手く行かなかった時に責任を取らせたら、役人が萎縮して十分な仕事が出来なくなるから」だそうです(何かの本で読んだ知識ですが・・・民間企業ではありえないことですけどね)。
しかし、これはなんと恐ろしいことでしょうか、日本一頭脳が優秀だと言われている霞ヶ関の集団が失敗を前提にして仕事をしてよいとの免罪符を与えられているのですからねぇ気楽なことこの上なかろうし、我田引水・牽強(けんきょう)付会(ふかい)・唯我独尊などの言葉は与えられた権利だと腹の中で主張し、朝令暮改などを行っては官僚にとって都合のよい法律ばかりを作り、言葉巧みに法の改正と謳いながら、本質は改悪を平気でやるのだからねぇ、国民が黙して辛抱していることを良いことに、やりたい放題であるが、これを正す機関が日本に無いことが淋しいし、諸悪の根源となっているように思う。
ただ唯一あるとすれば、国会だが政治家達は皆勉強不足で、もし官僚にそっぽを向かれると国会運営が上手く行かないからねぇ、ここには手を付けない、いや付けられないのが本音だろうか(しかし、官僚の人事権は官邸が握るようになったのではなかったかなぁ~)。
このような流れでは、上に立つ者が国や国民のための政治や行政を行っているとは、とても思えなく、逆に国民からは官僚の為に税の搾取をされているような感覚になる。この辺りが是正されれば国民の心に中には役得や不公平感が無くなり本当の意味での安心・安堵感が生まれてきて、将来に対する希望が持てるようになるはずだから自然と子供を多く産んで育てたくもなるように思う(政治家や官僚が信頼に値するようになればの話です)。
『公務員は刑事事件を犯さなくても、国や国民に対して背任行為に近いことを行えば、必ず責任を取らせる』制度を設けなければ日本の国は良き方向に向かうことは無い。
このことは多くの国民が心の中で思っていることだろうと思うので、文にしてみました。
子育てするのには金が掛かるだろうから、金をやれば子供を産むだろうと政府は子育て支援金などと言うものを出そうと企んでいるが、所得制限無しに一律に支給するとか、制限を設けるべきだとかで言い争っているようでは、やはり的が外れたことばかりに目が向いていて本質が見えていない証拠であろう。
国から金を貰うと言うことの意味が判っていないのである。政府は国民全員が乞食だと思っているのではないかと思えるほどで、金を配ることができるのなら最初から各種の税を含めた負担を少なくすれば良いことであって、一旦強制的に召し上げておいてから後になって「恵んでやるから有りがたく思え」では国民の心の中は燻りしこりが残る。
国民の殆どは自分の力で子を産み育てたいのであって、補助金を貰わなければ子供が産めず育てられない社会だというのは、どこか軸が狂っているとしか思えない。
文が長くなってしまいましたので「子供が成長した時に、学歴が無い者には職業の選択肢が極めて少ない資格試験制度にある」は次回にさせてください。
「酔龍の独り言:その036」
2023-02-28
[ 少子化対策その一 ]
新型コロナの扱いが正式に「5類」に引き下げられると発表された途端に感染者が激減し始めたのには驚いているし、もしコロナウイルスに意思があるとすれば「これから先はもうコロナ・コロナと大騒ぎして貰えないのなら、これ以上感染者を増やしても面白くないので感染の拡大もう止~ぁめた」とでも言っていそうな感じがするけれど、感染者に対する統計の扱いが変わっていることも感染者減少の大きな要素なのかも知れません。
さて政府は長年の課題である出生率低下による「少子化問題」に関して、またもや税金を投入しての一律金額支給支援を目論んで国会が紛糾しているようだが、このような政策では全く効果などは出ないと申し上げておく。
どうして政治家と官僚は物事の「本質」が見えないのだろうかと情けなくなってしまう。
戦後直ぐに生まれた俗に言う「団塊の世代」の子供は沢山いた。丁度私がその最後の世代であるが、振り返ってみて当時は本当に日本国民の殆どが貧しかったように記憶している。
しかし、人の世であるから中には金持ちもいたけれど、皆一様に金持ちを妬み羨むわけでも無く「他所の家とうちは違う」の一言で片付けて淡々と生活をしていた。
着る物や履物は粗末であったし、食べる物も粗末な物が多かったけれど望んでみても美味しい物など貧しくて手に入らなかったのだから同じように「仕方が無い」で片付けていたように思う。
それでも親は多くの子供を育てていたのに、今なぜ当時と同じようにそれが出来ないのか?の中に少子化問題解決の「本質」が潜んでいると考えているのだけれど「本質」の要素が一つではなく、またそれらが複雑に絡まりあっているので一言では片付けられない。
まず第1番目に挙げてよいのは「共働きをしなければ子供が育てられない」ことである。
昔は主人の稼ぎだけで一家を養っていたけれど、充分な収入が無くとも、ただただ贅沢をせずに何事につけても「もったいない」の精神を持って、知恵を絞り工夫をしながら生活を営んでいた一言に尽きる。
ちょうど現在生活保護を受けて生活している方の暮らし振りと同じような感じではなかったかという気がします(生活保護を受けている方の生活振りは報道で見ただけなので、それからの推測に過ぎませんが・・・)。
今や一家に一台の車を持ち(交通の便が悪い地域では一人一台持っています)、大型のテレビを備え、食べ切れないほどの美味しい食品を手にし、各室にエアコンを備え便利な家電製品に囲まれた生活が日本に於ける一般的な普通の家庭でしょうか。
更に昔は一家に一台の固定電話があれば十分に家庭の中で役割を果たしていたのに、今や一人に一台の高価なスマホを持っていて、それぞれが電話料金を支払っている。
加えて一匹数万円から数十万円もする愛玩用小動物(犬・猫など)まで養っているのに、子供が産めないと言うのはどこか不思議ではないだろうか。
確かに生活の便利さや状況は向上したけれど、良く考えてみれば最低限生活に必要な物以外に対する出費が多過ぎるのではないかと思われ、本来日本人が長く受け継ぎ営んできた生活における本質を低下させているのではないかと考えられます。
と言うことは、自らが望んで余裕の無い生活へと向かっているように思えてなりません。
恐らく心情としては「皆が持っているから」「皆が飼っているから」「不便だから」などの理由であろうと思っていますが、これらから思考や意識が出発すると、もうそこには生活面での「工夫」は考えず「知恵」も生まれてはこない生活を送るようになり「人は人、自分とは違う」「他所とうちとは違う」との自己を規律する意識すらなくなってしまって「足るを知る」や「分相応」の言葉が脳裏から消え失せてしまうのではないかと考えます。
そもそも人の世では「自分の能力や人柄に加えて、その人物が持つ(不思議な)魅力に対して金も物も人も自らが望まなくとも自然と付いてくる」ものなのだけれど、自分の能力や人柄と魅力を削除しておいて「金」「物」「人」が欲しいと望んだところで手に入るわけなど無いのだが、錯覚するのでしょうかねぇ。
それに拍車をかけているのが消費者金融やローンと言う仕組みで、金がなくとも瞬時に現金を手にし、物を買うことが出来る「打ち出の小槌(現在はカードと言います)」を国民が手にしたことだと考えています。
欲望の趣くままに生活必需品以外の物を多く購入して家の中の居住空間を狭くし、挙句の果てには使わなくなって部屋の片隅に追いやられてゴミ扱いとなっている(結果としては借金までしてゴミを買ってしまったという事になりますよね)。
しかし、購入した物の代金は支払いが終わるまで続いてゆくのだから、収入が増えない限り何かを犠牲にしなければ今まで通りの生活は成り立たない。
その犠牲となっているものの一つが「結婚」や「出産」ではないかと思っています。
また犠牲に出来ることの限界が来て、収入も増える見込みがない状況に陥ればスマホなどからから来る誘いに乗って、軽い気持ちで犯罪に手を染め一生を台無しにしている者が増えていることはその証ではないでしょうか。
人が長い人生を歩んで行く間には年代によって様々な欲求が生じてくるものですが、「自分の能力や分を超えた欲求」など叶うわけが無いことの理解が出来ていないように感じています。人が生きるという事は「醜い欲求を生じさせる己の心との戦いである」と思っていますが、核家族を推奨してきた政府のお陰でこの様な事を子供の頃から教え導く同居する大人がいなくなり、教育を含めて心の充足度を成長させる場を失ってしまった結果、よき社会を構成していた日本の文化が崩壊寸前となっていることが、大きな要素であると私は確信している。
ではどうすれば良いのかという事になりますが、現在の官僚や政治家が一番苦手とする「心の在り方」を論じることになるから期待すら持てそうにない。
「時節には神も適わん」と言われているようだから、行き着くところまで行かねばならないのだろう。その結果を受け止めなければならないのは我々であるが、今の状況では悲惨な結果とならないように祈る以外なす術が無い。
続きは後日更新します
新型コロナの扱いが正式に「5類」に引き下げられると発表された途端に感染者が激減し始めたのには驚いているし、もしコロナウイルスに意思があるとすれば「これから先はもうコロナ・コロナと大騒ぎして貰えないのなら、これ以上感染者を増やしても面白くないので感染の拡大もう止~ぁめた」とでも言っていそうな感じがするけれど、感染者に対する統計の扱いが変わっていることも感染者減少の大きな要素なのかも知れません。
さて政府は長年の課題である出生率低下による「少子化問題」に関して、またもや税金を投入しての一律金額支給支援を目論んで国会が紛糾しているようだが、このような政策では全く効果などは出ないと申し上げておく。
どうして政治家と官僚は物事の「本質」が見えないのだろうかと情けなくなってしまう。
戦後直ぐに生まれた俗に言う「団塊の世代」の子供は沢山いた。丁度私がその最後の世代であるが、振り返ってみて当時は本当に日本国民の殆どが貧しかったように記憶している。
しかし、人の世であるから中には金持ちもいたけれど、皆一様に金持ちを妬み羨むわけでも無く「他所の家とうちは違う」の一言で片付けて淡々と生活をしていた。
着る物や履物は粗末であったし、食べる物も粗末な物が多かったけれど望んでみても美味しい物など貧しくて手に入らなかったのだから同じように「仕方が無い」で片付けていたように思う。
それでも親は多くの子供を育てていたのに、今なぜ当時と同じようにそれが出来ないのか?の中に少子化問題解決の「本質」が潜んでいると考えているのだけれど「本質」の要素が一つではなく、またそれらが複雑に絡まりあっているので一言では片付けられない。
まず第1番目に挙げてよいのは「共働きをしなければ子供が育てられない」ことである。
昔は主人の稼ぎだけで一家を養っていたけれど、充分な収入が無くとも、ただただ贅沢をせずに何事につけても「もったいない」の精神を持って、知恵を絞り工夫をしながら生活を営んでいた一言に尽きる。
ちょうど現在生活保護を受けて生活している方の暮らし振りと同じような感じではなかったかという気がします(生活保護を受けている方の生活振りは報道で見ただけなので、それからの推測に過ぎませんが・・・)。
今や一家に一台の車を持ち(交通の便が悪い地域では一人一台持っています)、大型のテレビを備え、食べ切れないほどの美味しい食品を手にし、各室にエアコンを備え便利な家電製品に囲まれた生活が日本に於ける一般的な普通の家庭でしょうか。
更に昔は一家に一台の固定電話があれば十分に家庭の中で役割を果たしていたのに、今や一人に一台の高価なスマホを持っていて、それぞれが電話料金を支払っている。
加えて一匹数万円から数十万円もする愛玩用小動物(犬・猫など)まで養っているのに、子供が産めないと言うのはどこか不思議ではないだろうか。
確かに生活の便利さや状況は向上したけれど、良く考えてみれば最低限生活に必要な物以外に対する出費が多過ぎるのではないかと思われ、本来日本人が長く受け継ぎ営んできた生活における本質を低下させているのではないかと考えられます。
と言うことは、自らが望んで余裕の無い生活へと向かっているように思えてなりません。
恐らく心情としては「皆が持っているから」「皆が飼っているから」「不便だから」などの理由であろうと思っていますが、これらから思考や意識が出発すると、もうそこには生活面での「工夫」は考えず「知恵」も生まれてはこない生活を送るようになり「人は人、自分とは違う」「他所とうちとは違う」との自己を規律する意識すらなくなってしまって「足るを知る」や「分相応」の言葉が脳裏から消え失せてしまうのではないかと考えます。
そもそも人の世では「自分の能力や人柄に加えて、その人物が持つ(不思議な)魅力に対して金も物も人も自らが望まなくとも自然と付いてくる」ものなのだけれど、自分の能力や人柄と魅力を削除しておいて「金」「物」「人」が欲しいと望んだところで手に入るわけなど無いのだが、錯覚するのでしょうかねぇ。
それに拍車をかけているのが消費者金融やローンと言う仕組みで、金がなくとも瞬時に現金を手にし、物を買うことが出来る「打ち出の小槌(現在はカードと言います)」を国民が手にしたことだと考えています。
欲望の趣くままに生活必需品以外の物を多く購入して家の中の居住空間を狭くし、挙句の果てには使わなくなって部屋の片隅に追いやられてゴミ扱いとなっている(結果としては借金までしてゴミを買ってしまったという事になりますよね)。
しかし、購入した物の代金は支払いが終わるまで続いてゆくのだから、収入が増えない限り何かを犠牲にしなければ今まで通りの生活は成り立たない。
その犠牲となっているものの一つが「結婚」や「出産」ではないかと思っています。
また犠牲に出来ることの限界が来て、収入も増える見込みがない状況に陥ればスマホなどからから来る誘いに乗って、軽い気持ちで犯罪に手を染め一生を台無しにしている者が増えていることはその証ではないでしょうか。
人が長い人生を歩んで行く間には年代によって様々な欲求が生じてくるものですが、「自分の能力や分を超えた欲求」など叶うわけが無いことの理解が出来ていないように感じています。人が生きるという事は「醜い欲求を生じさせる己の心との戦いである」と思っていますが、核家族を推奨してきた政府のお陰でこの様な事を子供の頃から教え導く同居する大人がいなくなり、教育を含めて心の充足度を成長させる場を失ってしまった結果、よき社会を構成していた日本の文化が崩壊寸前となっていることが、大きな要素であると私は確信している。
ではどうすれば良いのかという事になりますが、現在の官僚や政治家が一番苦手とする「心の在り方」を論じることになるから期待すら持てそうにない。
「時節には神も適わん」と言われているようだから、行き着くところまで行かねばならないのだろう。その結果を受け止めなければならないのは我々であるが、今の状況では悲惨な結果とならないように祈る以外なす術が無い。
続きは後日更新します