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建築家 潤 の『独断と偏見』

「双龍物語:第一章・戦地へ その4」

 亀岡で「聖師・王仁三郎」から「おかげ」を貰った誠は山脇さんと共に京都を後にし、山口県への帰途についた。
帰りの車中で誠はこれから向かおうとする戦地は一体何処になるのだろう・・・などの様々な想いや妄想にも近い想像が目まぐるしく頭の中を駆け巡り、不安と恐怖で逃げ出したい衝動に駆られたけれど「聖師・王仁三郎」の「命だけは助けてあげる」の言葉を思い出し腹巻に手を当てて、大丈夫だ「聖師さん」が約束してくれたのだから・・・と自らに言い聞かせて自分を納得させなければならない心情は赤紙を受け取り戦地へ向かおうとする本人以外には判らないであろう。
大畠に帰ってきた誠は早速出征の準備に取り掛かったものの、数日の間は出征祝いと称した地域での送別会や親族を交えた大本信者による激励会が催されて慌ただしい数日が続いた。
当の誠は不安を抱えながらも戦地へ行く準備を整え終えて、明日には今生の別れとなるかも知れない家族と、ごく親しい大本信者数名を交えた最後の晩餐を共にしたのだが、その場でうっすらと涙を浮かべながらも笑顔を絶やさなかった母トミの姿が痛々しく感じられ、不安でいっぱいな誠の胸を更に痛めたのであった。
翌日の朝いよいよ出立のため駅に向かうと、そこでは既に大勢の人が集まっていて、幟や旗が用意され盛大な見送りが準備されていた。
列車が到着するまでの間、皆から励ましの言葉や「立派に戦って死んでこい」などの手痛い言葉を受けながら皆に別れを告げ、御礼を述べていたところへ列車が到着し、世話人の方の発声による万歳三唱の声と汽笛を背に誠は汽車に乗り込み集合場所の駐屯地へと向かった。

 駐屯地に着いた誠は配属先の部隊に合流すると、上官から「川田君、君には帝国陸軍上等兵の位を授ける」と言われ、軍の経験など全く無い誠は恐らく二等兵であろうと想像していたにも拘らず「上等兵」と言われたので意外に思っていたけれども、後になって聞かされたのだが、どうやらその理由は中学を出ているからということのようであった。
それからの誠は駐屯地で少しの間、基礎的な軍事訓練を受けさせられた後に船でフィリピンに向かったようだが、既に制海権は危うい状態に差し掛かっていた状況下において、米国潜水艦の標的となって狙われ、撃沈されずに無事フィリピンへ到着できたことは幸いであった。
とは言うものの、制空権も同じく危うき状況となっていたのだから、とても順風満帆の航海であったとは思えないが、駐屯地からフィリピンへ到着するまでの口述された記憶や記録がなく、詳細な内容をお伝えすることが出来ないのが残念です。

 フィリピンに到着した誠は第十四方面軍の指揮下にあってルソン島に駐留していた連隊(所属の連隊や部隊名その設営場所なども聞かされていたのかも知れないけれど記憶に留めていません)の高射砲部隊に配属され、射手として戦闘に参加することになった。
今となっては当時フィリピンに配属されていた全部隊の兵数を詳しく知ることは出来ないが、5個師団を上回る兵数が配属されていた記録があるので、少なくとも5万人以上の兵数がいたはずであるから、米軍は圧倒的な物量を背景にこの大部隊の兵力を全滅させる目論見を持って攻撃目標としたためフィリピンは猛攻撃の標的とされたのではなかろうか。
その中で誠が所属した連隊は総勢6千名を擁し、直属の高射砲部隊は三百名ほどであったと聞かされている。
そして、この日を境に誠のフィリピンでの戦闘生活が始まったのである。



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「酔龍の独り言:その005」

 少し前にスウエーデン在住の10代の少女が地球温暖化による気候変動の危機を訴える防止活動を始めていて、国連で演説をした記事が大きく取り上げられていた。
この少女は日常の移動に伴う交通手段でも飛行機には乗らず、鉄道や船を利用していると言い、飛行機は大量のCO2を排出するので、講演先のアメリカに向かう手段としてヨットを使って大西洋を横断するということが報道陣達に受けたのであろう。
確かにヨットでは殆どCO2の排出は無かろう、しかし大西洋を横断するには15日も掛けなければならず、数名の乗組員やヨットの手配に加えて、それに掛る人件費を含めた費用をどのように考え捉えるかが論点から抜け落ちてはいまいか。
ヨットなど一般人が通常の移動手段として利用するには余りにも現実離れしているのに、この部分は蔑ろにされているし、飛行機が大量のCO2を排出するのは事実として、しかし所要時間は乗客2百名以上を乗せて、僅か1日足らずであろうと思われるのに、一般人にとってヨットは非現実的として、もし千名以上が乗船可能な客船で移動するとすれば一週間程度を見込まなければならいのではないかと考え、それに必要な動力が排出する乗客数一人当たりのCO2量との比較検証もしないで、この話題を取り上げる報道者達の軽薄さには呆れてしまう。
地球温暖化の犯人は人間が便利さを追求することによって生じるCO2の排出であろうと言われているが、これは消去法による結果であって、確証では無いとの説もあるようです。
結果CO2が地球温暖化の真犯人だとして、その大量輩出の元凶は間違いなく「車」であると私は考える。
車一台と飛行機1台が年間に排出するCO2の量はとても比較対象にならないだろうが、全世界のそれぞれの稼動の台数を掛け算すれば圧倒的に「車」のほうが多いように思われる。
この報道はある意味話題性があるだけで、未だ無知な子供が一面だけを見ての行動を必要以上に賞賛する報道者の姿勢はとてもいただけるものではありません。
(念のため申し添えますが、この少女の活動を否定しているわけではありませんからね)

最近「双龍物語」に力が入り「酔龍の独り言」が疎かになっていましたので、今日は一気に書き上げます。
 少し前にまた新しい「宝くじ」ハローウインの発売が開始された。
テレビの宣伝も盛んにやっていましたが、芸能人や落語家を起用し「買わないと言う選択肢は無いやろう」とまで言わせていましたが、因果関係から言えば確かに買わなければ当たらない「宝くじ」ですが、結果から言えば買っても当たらないのが「宝くじ」です。
それは皆さんも良くご理解しておられることと思いますが、金の無い一般国民の射幸心を煽り、今以上に金を集めようとする自治省のいやらしさは如何なものであろうか。
宣伝に出演している芸能人や落語家には2等か3等の当たりくじ程度?いやそれ以上の金額が支払われているかもしれないのに、それでも買いたくなるのを射幸心と言うのだそうですよ。
 
何度も同じことを口にすることになるけれど、今回の関西電力経営陣のお粗末さと矜持のなさには呆れてしまい、言いようの無い寒々しい気持ちになってしまいました。
商売には「三方良し」の原則があると一昔の事業家は言っていまして、確か「客良し・店良し・自分良し」だったと思いますが、お客に喜んで頂き、店(看板や社員)に対しても恥ずかしくなく、それから最後に店主である自分も良い状態を維持することが商売の基本であると言う意味だそうです。
一人で商売(事業)を始め、仕事と金の苦労に人の苦労、役人の股の下を潜るような思いを強いられる状況を何十年にも渡って続けながら築いた信用と育ててきた社員が何ものにも変えられない財産であると自覚しているからこそ、自然と己の心の中に「矜持」のようなものが湧き出てくるものなのだが、苦労が全く無いとは言わないけれどもサラリーマン社長にはこれが無いし、してきた苦労の質が全く異なることの理解は到底できまい。
だから「越後屋お主も悪よのぉ~」が通常感覚を逸脱している事柄であるにも拘らず、単なる謝礼であり、風通しを良くする為に仕方なくしたのだとの方便が罷り通って居直れる。
重ねて言うが「特に大企業の経営者・役人」は世人の手本となるべき事業形態と人格を現わさねばならず、立身出世を果たした人物や権限を持って人の上に立つ立場にある者の「義務」であると思いますけどねぇ。

 安部総理の今回の台風19号の被災地・被災者に向けた発言をテレビで聞いたが、その内容は確か「省庁から150名を被災地に派遣して復興の支援を行うようにしていますし、復興には7億円の予算を組んで・・・・」であったと記憶している。
省庁の役人が被災地に行ってボランティア活動をするというのなら、総理の発言は有難いと思えるのだが、現実はそうではなくて、役人が被災地に行くと言うことは地方の自治体に行くことであり、被災地に足を運び被災状況を見て、直接被災者と会って現状の不便や困りごと、要望を聴いてその手助けをすることではないのだ。
被災を受けた自治体は中央省庁の役人が来れば接待をしなければならず、それに時間を取られてしまっては復興業務が疎かになることにも繋がるだろうから、返って迷惑なことと思っていることだろうと想像する。
組まれた復興予算7億円も何日居るのか判らないけれど、役人の出張旅費(日当として課税対象外)と旅費・宿泊費で幾ら消えてゆくのだろうと思うと情けなくなる。
片や日本中から集まっている支援のボランティアの方々は旅費・宿泊費を含め全てを手弁当で持って泥まみれになりながら活躍しているし、外国のラグビー選手は試合が延期になったからと言う事で、やはり泥まみれの顔をテレビに映していた。
これが日本の政治と役人の仕組みを見事に物語っていると言って良い現状ではなかろうか。
綺麗で美味しいところだけ役人はつまみ食いをし、汚くて重労働の部分は国民の善意に甘えている現状では、きっと恥ずかしいと言う意識など持ち合わせてはいないのだろう。
「越後屋お主も悪よのぉ~」を口にする悪代官を懲らしめるため「この印籠が目に入らぬか!」の決め台詞を言う黄門様は現在の千代田町にも桜田門の辺りにも居ないのだから世も末だということだ。

消費税が10%となって、複雑極まりない課税方式に商店も消費者も困惑している現状下であるが、ペイペイなどと言う訳が判らない支払い方式だと消費税の一部が還元されると言う政府の方針には何が目的なのか輪をかけて判らない。
カード会社への利益誘導なのかスマートホンの普及が目的なのかもあやふやで、これらを普段使用していない年寄りは戸惑っているけれど年寄りは、だからと言ってカードを購入(するものなのかしら)?したり俗に言うガラケーをスマートホンに替えたりはしない。
現金での支払いとカードやスマートホンを使っての支払いに何の差があると言うのだろうか?何故現金の支払いだと消費税の還元が受けられないのか、政府の真の目的とは一体何なんだろう。

 NHKのニュースでの話しですが、経済面で株価などを知らせる囲みがある。
外国の為替やアメリカでの株価は口頭で伝えるが、日本の株価は画面で表示されるだけである。
これは何故?だろう、私は株を扱うことが大嫌いなのでどうでもよいことではあるけれど、盲目の人が株価に興味を持っていたら不親切だと思うがねぇ。
副音声で知らせているのかもしれないが、日本の報道社が日本の株価を口頭で伝えず、アメリカの株価は口頭で伝えるのは何か深~い理由でもあるのだろうか。

 最後に女の教員が後輩(イケメン?)を同僚と一緒になって苛めていた件などは現在の日本の恥部を象徴しているような事象ではあるまいか。
真偽は定かでないけれど、中年女の欲情が発端で悋気によるものだろうとの記事を目にしているが、生徒の虐めが社会問題なっている中で同僚を巻き込んでのこの行為はとても看過できるものではないし、大人として恥ずかしい気持ちが生じないのだから呆れてしまう。
またその者を指導監督する立場にあるはずの教頭・校長が取っていた対応や処置も記事で読んだけれど、税金で生活を成り立たせている地方公務員の自覚も無い輩達と言われても仕方の無い有様で、これでは生徒による校内の虐めを無くす事など出来るはずもなかろう。
これが大人と言われる立場の人物が構成している今の日本である。
良き昔の日本は一体何処に行ってしまったのであろうか。
これに関連しているかどうかは判りませんが、NHK朝の連続テレビ小説は少なくとも過去数件共に高視聴率を維持しているようです。
そして、その時代背景は全て戦前から戦後に掛けての物語となっていたことに気付いておられるでしょうか?貧しくとも物が無くとも不便であったけれど生き生きとして人が人として生活していた良き時代であったから皆がその心を取り戻したい、あの時のような社会に戻れるものなら戻せたいと思っているからではないでしょうか。
余計なことを一言言わせてもらえれば、現在の連ドラの題名は「スカーレット」欧米人の女性の名前ですよね。陶芸家を目指す日本の女性が主人公なのに何故この題名なのだろう。



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「双龍物語:第一章・戦地へ その3」

 真剣な顔つきで祝詞を唱えながら拇印を押す「王仁三郎」の姿を見ながら、誠はどうやら大変な激戦地に行かされるのだろうと、また絶望的な気持ちになったが「聖師・王仁三郎」の「命だけは助けてあげる」の言葉を信じ、かろうじて平静を保っていた。
 拇印を押し終えた「聖師・王仁三郎」は「これを肌身離さず身に付けて下さい」と襦袢を誠に手渡し、戦地へ赴く労いの言葉を掛け、最後に「命だけは大丈夫だからね」と念を押してくれた。
 
 「王仁三郎」が書いた和歌の意味は「天皇家を守る盾となる為に選ばれて、戦に赴くこの若者」であり、漢文の方は読んで字の如く、漢字の持つそのままの意味である。
また薄く書かれた「月」の意味は、どうやら誠に「つき(幸運)」があるようにとの意味であろうと想像ができる。
と言うのも「王仁三郎」はよくこの様な粋で洒落たことをやっていたというのだから、まず間違いはあるまい。
 そして、この様に誰の目にも触れることはなかろうと思われる腹巻に書かれた和歌から推測すれば「王仁三郎」の心情は天皇家と日本を守りたいとの信念を持っていたことを伺い知ることが出来るけれども、不敬罪などの罪を着せられ数度の大弾圧を受けているのだから、いつの時代も権力を振るう立場にある者は見識の低さに加え、心の貧しさが故に生じる猜疑心や恐怖心に怯えるのは人としての性であろうか。
誠はこれ以来この襦袢を腹巻として使用し、復員するまで肌身離さず身に付けることになるのだが、不思議なことは、誠が激戦地フィリピンから生還できたことと、詠まれている和歌の意味には、誠の命を助けるなどの文言はどこにも無くただ「つき」が添えてあっただけだから、真に誠の命を助けた「おかげ」の正体は「聖師・王仁三郎」が祝詞を唱えながら押した「拇印」ではないかと考えている。
この襦袢に押された「拇印」はこれまでに何度も洗濯をしている経緯もあり、薄れてしまって判別し難い状態ではあるが、襦袢に書かれた文字と調和が取れるように二十箇所余りちりばめて押されていたように記憶している。 
 何故「王仁三郎」は山口県の片田舎から来たこの若者にそこまで肩入れしたのであろうか?
との疑問が湧いてきて不思議ではあるまいと思うが、その理由は高齢に差し掛かっていて、余命が短いことを自覚していた「王仁三郎」は次なる一手を模索していたのであろうと思われる。
「王仁三郎」は既にこの時日本が戦争に負けることも、東京を始めとして日本全国が空襲の嵐に曝されること、広島・長崎に得体の知れない爆弾が落とされ、日本が米国に占領されることも知っていたのだから、「龍族(ここでは詳しい説明が出来ないので、話が進むに連れて少しずつ解かり易く説明を加えようと思っている)」の一員である「王仁三郎」は自分の代では、もはや世界の平和は叶わないことを悟り、次へ託す準備を考えていた。(尤も、東京の大空襲などは既に明治から大正時代に渡って書かれた「開祖・なお」の「お筆先」によって予言がされている。)
信者数百万人を超えるほどの巨大な宗教団体を組織し、人とは思えぬほどの霊能力を持ちながら、我が想い(役割)を達成できなかったのだから「龍族」としてこの世に出された役割を次へ渡すことを真剣に考えていたと言うことになろう。
しかし、その役割が誠であったわけではなく、誠を使って次なる作戦を立てようと企んだのであって、その企みとは次の世代に「龍族」の一人をこの世に下ろして役割を委ねることであるから、誠をここで死なすわけにはゆかなったと言うことになる。



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「双龍物語:第一章・戦地へ その2」

 誠達は案内されるままに従い、歩いて5分ほど離れた場所にある「王仁三郎」の執務室へ通された。
部屋の入り口まで来た時には誠の緊張は極限にまで達していたが、入り口を開けてもらい、伏し目がちに部屋に足を踏み入れると同時に「王仁三郎」が「やぁ良くお見え下されました。待たれましたか?」と声を掛けてきた。
誠は顔を上げ「聖師・王仁三郎」の方へ目を向けると、穏やかな笑みを浮かべた「王仁三郎」の姿がそこにあり、やっと直に会えた・・・ただそれだけでこれまでの緊張は一気にほぐれて感激と幸福感で心が満たされてゆくのが判るほどであった。
一方「王仁三郎」の方は事前に誠が来ることは知らされており、出生地なども聞き及んでいたから「やれやれ、やっと来てくれたか、さてこの若者を死なすわけにはゆかないのだが、上手く助けられるかいなぁ・・・」と心で呟きながら誠を見つめて「三田さんでしたね。召集されたと伺いましたが・・・」と言いかけると、傍から山脇さんが「そうなんです。これまでに二度も召集令状が届いたんですが、徴兵検査で不合格となっていたのに今回は丙種合格になって・・・」と口を挟んできて「それで、聖師さまにお陰を戴きに参りました。何とか宜しくお願いします」と誠に代わって想いを伝えてくれる。
すると誠を見ながら「聖師・王仁三郎」は誠の行く末を瞬時に見通してのこと「そうですか・・・さて、三田さんあなたは大変なところに行くことになりますが、何とか命だけは助けてあげましょう・・・」と言いながら「何かさらしのような布は無いか」と付き人に声を掛けたが「金物・布類など全て軍部に供出して何もございませんが、紙なら少しは・・・」と返事が返ってきた。
「紙か、紙ではダメだ。白い布なら何でも良いのだが・・・」と「王仁三郎」が口にすると、山脇さんが突然着物を脱ぎ始め「白い布なら長襦袢でもいいでしょう。これを使って下さい」と長襦袢を脱いで裂き始めた。
それを見るなり、お付の人は「ちょっと待って下さい。それなら鋏を持ってまいりますので」と鋏を用意してくれ、山脇さんはその鋏で以って切る巾や長さを「王仁三郎」に聞きながら、大凡で裁断を始めた。
その間「王仁三郎」はおもむろに脇机に置いてある硯に手を伸ばし、硯の蓋を取って墨を磨り始めた。
「こんなもんでいいですか」と裁断した長襦袢を「王仁三郎」に見せると、「王仁三郎」は「うん、いいんじゃないか」と手を伸ばして襦袢の切れ端を受け取った。
墨を磨り終えた「王仁三郎」は床に長襦袢の切れ端を広げて筆を取り和歌を書き始めた。
誠は正面から「聖師・王仁三郎」の筆先を目で追いながら何が書かれるのか読み取ろうとしたけれど、良く判らない字もあり首を傾げながら書き終えるのを待った。
誠が読めなかったのには訳があり、当時の知識人なら通常に「変体仮名」を交えた和歌を詠っていたので、学問に疎い誠には過ぎたものであったかも知れないが、和歌の内容を記すと「大君の家のみ盾と えらまれて いくさのにわに立つこの若人」と詠んであり、その下には漢文で「忠勇義烈 皇軍萬歳」と記されてある。
また和歌の横には薄い文字で「月」と添えられた文字があるのだが、これについては推測の域を出ないが、もう少し後にその意味をお伝えしようと思う。
そして「聖師・王仁三郎」は襦袢を床に置き祝詞を唱えながら、拇印を押し始めた。
・この長襦袢は今も現存しており、いずれ機会があればこの写真を掲載しようと思っています・



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「双龍物語:第一章・戦地へ その1」

 逮捕留置されたにも拘らず、誠は己の心に照らし合わせて何ら恥じることなど無いとの信念があり、その後も仕事に励みながら熱心に布教活動も続けていたのだが、日本を取り巻く世界情勢は一段と厳しくなり、昭和十六年十二月八日真珠湾攻撃で口火を切って、日本はアメリカに宣戦布告を行い戦争に突入する。 
 開戦当時から暫くは日本軍の連戦連勝で国中が湧きかえっていたようであるが、数年が経って戦局が次第に危うくなりかけた頃、誠に三度目の召集令状が届いた。
と言うのも、誠はこれまでにも召集令状を二度受け取っているが、徴兵検査の段階でいずれも不合格となっていたのである。
想像の域を出ないが、誠の身長は一五五センチ程度しかない小男で体型は痩せ型の上、心臓が弱く子供の頃に肋膜炎を患っている経緯があってのことなどが原因で、これまでは徴兵を免れていたのではないかと思われる。
しかし戦況が徐々に逼迫し、悪化する状況となっては、何が何でも兵隊を集めなければ・・・と思い始めた日本軍は小男であろうが多少病弱であろうが、もうお構いなしの徴兵となっていたのであろう、今回の徴兵検査では見事に丙種合格となって戦地へ向かうことになったのである。

 誠にまで召集が掛ったと言うことで、家族・親族に加え「大本」の信者を巻き込んでの大騒ぎとなり、話が地域の信者全体に伝わって行くのにそう時間は掛らなかった。
その中に昔の日本ではよく見かけた世話好きな女性の信者さんで山脇さんという方が話しを聞きつけ、すぐに誠を訪ねて、こう話を切り出した「誠さん、あなたが戦地へ行くんなら、そりゃあ聖師さんに会うて、お陰を貰わんにゃあいけん。うちも一緒に行くけえ京都に行こうやぁ」
突然の話ではあるが、巨大な組織となっていた当時の「大本」では、いくら古くからの信者といえども、そう簡単に「王仁三郎」に面会できるとは思えないので、恐らく世話好きなこの女性は「王仁三郎」に会える特別な人脈を持っていたのであろうと思われる。
誠の方も「聖師」さんに会えるのなら・・・と直ぐに申し出を受けて、京都に行く日時や手筈を山脇さんに委ねた。
 京都に向かう汽車の中で、誠は二度も徴兵検査で不合格になったにも拘らず、今回戦地へ赴くことになったと言うことは、恐らく激戦地であろう・・・との不安が頭を過っていた反面「聖師さん」と直接会える期待に胸は高鳴り、複雑な心境であったが、お節介なご婦人のおしゃべりで気が紛れたことは救いであった。
約半日ほど掛けて汽車は京都駅に着き、二人は山陰線に乗り換えて亀岡を目指し、亀岡駅より十分程度歩いて「大本」本部へ到着した。
受付で山脇さんは「今日聖師さんにお会いする約束で山口県から来ました山脇です。日向さんをお願いします」と告げると、少し甲高いその声が届いたのであろう日向さんが奥の方から出てきて「やぁ山脇さん遠くからご苦労でしたねぇ待っていましたよ。さぁこっち、こっち」と手招きで二人を迎え入れ、他の人に何やら耳打ちをして使いに出したようだった。
事務所の奥に通されて、出されたお茶を戴きながら、道中でのことや、誠のことにことについて雑談交じりの話をしていたら、先ほど使いに出された方が戻ってきて「聖師さんがお待ちですこちらへ・・・」と事務所を出て「王仁三郎」の下へ案内をしてくれたのである。



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「双龍物語:序章」

大東亜戦争(第二次世界大戦)終戦間際の頃、三田 誠上等兵(二十九歳)は歩兵銃を手に持ち、背嚢を身に付けフィリピンのジャングルを一人で彷徨っていた。
当ても無く歩き続けている中、少し先の木立の隙間から小石が敷き詰められた河原が見えたと感じたとき、突然背後から銃声が聞こえた。
瞬間右手首に焼け火箸を当てられたような感覚を覚え「撃たれた」と思ったので、思わず銃声がした方向を振り返ると、歩兵銃を持った日本兵らしき人物の姿が眼に入ってきたが、そのままジャングルの奥の方へ逃げていった。
恐らく背嚢に食料が入っていると思って撃ったに違いないと想像したものの、もう何日もまともな食べ物を口にしてはいない体は衰弱しきっていて、すでに歩けるような状態ではなかったが、何かに誘われるような感覚で出血する手を庇いながら河原の方へ歩いていった。
 やっとの思いで小石だらけの河原に辿り着いた時には体力も気力も失せてしまい、ばたりと河原に倒れこんでしまった。
まだかろうじて意識はあったが、銃声を聞いたのであろうか現地民が数名近寄ってきて、血だらけになった誠を見ながら「三田、何かして欲しい事は無いか」と声を掛けてきたので、見ると顔見知りのフィリピンの人達であった。
もう数年激戦地フィリピンで米軍と戦って来ていたが、原住民との交流では良い関係ができていたからであろう、正に死に絶えようとしている誠を見て、哀れみと、人としての良心がそうさせようとするのか、末期の水を取ろうとしてくれているのである。

 もう意識も覚束ないほどの状態になっていたが、誠は「それじゃあ、この背嚢の中にコーヒーが入っているので、コーヒーを飲ませてくれ」と伝えると、空き缶を探してきて川の水を汲みコーヒーを入れてくれている気配を感じながら、数分がたっただろうか、大好きなコーヒーの香りが漂ってきた。
これで最後か・・・と覚悟を決めかけようとしていた時のこと、薄れ行く意識の中で、何やら英語の話し声が聞こえたような気がしたのだが、そのまま意識を失ってしまった。
 
 どのくらいの時間が経ったのだろうか・・・意識を取り戻した誠の目に映ったものは建物の天井であったが、瞬時に我に返り、腹の周りに手を当てて、長い戦いの中で一時でも肌から離したことの無い、命より大事と思っていた「さらし」を探したが、その感触が無い。
我を忘れて「さらし」を探そうと周りを見渡せば、どうやら病室にいるようで、右手を動かそうと思えども手が出てこない。
利き腕を失った衝撃と見当たらない「さらし」に気が動転した誠は、大声を上げて騒ぎ始めたところ、悲痛な叫びに近い声を聞きつけた白人の看護婦が病室に入ってきた。
状況がまだよく飲み込めないままに、身振り手振りで腹の周りに手を当てて「さらし」の行方を看護婦に訴えると、寝かされているパイプベッドの頭の部分にかけてあるものだろう・・・と理解してくれ、そこを指差してくれた。
後ろを振り返ると、そこには洗ってきれいになった「さらし」が干すように掛けてあり、それを見た誠は安心したかのようにまた深い眠りに落ちた。
翌日の朝、比較的穏やかに目を醒ました誠は失った利き腕のことを思うと絶望的な気持ちになりながら、少しずつ戦地に赴くまでのことを思い返していた。

先に誠の生い立ちについて話せば、明治生まれの父「乙次郎(おとじろう)」と母「トミ」との間でこの世に生を受け、長女「スガ子」を頭に七人兄弟の二番目に生まれ、長男として誕生したこの夫婦唯一の男子であった(後に次男が誕生するも生後直ぐに他界している)。
父の乙次郎は若くして事業に目覚め、製氷業を営むようになってからは比較的裕福な生活環境を持っていて、山口県の瀬戸内海に面した小さな村内ではあったけれども、当時選挙権を持っていた三人の内の一人であったというから田舎の名士の内に入っていたのであろう(他の二人は村長と造り酒屋の主)。
しかし、この乙次郎は背が高く体は屈強な上、随分とやんちゃな性分で、酒は飲むし無類の博打好きとして通っており、広島県の三原市にまで博打を打ちに出かけていたというのだから、当時既に山陽本線が開通(明治三十四年)していたとは言え、相当の好き者であったということだ。
 ある時、三原の博打場でのこと、負けが込んだ遊び人の博打打ちの一人が負け金を払えなくなり、乙次郎にこう話しかけてきたという。
「金の都合がつかんので、わしの妹を差し出すけえ、これで堪えてくれんかのう」面倒臭いことになったと思いながら、乙次郎は仕方なくその妹を連れて帰ったものの、扱いに困り、近所にある「うどん屋」で暫く働かせていたが、後に嫁にしたということなので、何とも・・・といったところか。
 このような夫婦の下で生まれた誠は病弱体質で、心臓が悪い上に肋膜炎を患ったりしたものだから、近所の雀連中からは「まだ生きちょるかねぇ~」と言われるほどであったと言うのだから、よほどの虚弱だったということになろうが、その後戦争で片腕を失いながら八十九歳の天寿を全うしたのだから、人の生き死にだけは神のみぞ知ると言うことになろうか。
そんな誠は女ばかりの姉妹の中で甘く大切に育てられつつ、病弱ながらも海に遊び山野を駆け巡って尋常小学校を卒業・中学校[ 柳井商業学校(現山口県立柳井商工高等学校)]へと進んだ。
中学生[ 現高校生 ]となった誠は学友達と柳井市街をうろついていた時のこと、果物屋の前を通りかかった時に何ともいえない良い香りが漂ってきたので足を止めて香り先を探し始めた。
するとその香りは、どうやら巨大な「松かさ」の形をした物から出ているようで、店主に聞くと、これはパイナップル(パイン・アップル・松りんご)と言い、南洋産の珍しい果物で、とても甘くて美味しいものだと聞かされた誠は思わず衝動買いをしてしまった(当時のことだからかなり高価ではなかったかと想像できるので、やはり裕福であったのだろう)。
悪ガキ一同は早速このパイナップルと言うものを食べてみようと近くの海辺まで行ったものの、どのようにして食べるのか聞くのを忘れていたので、皆で思案を巡らせたけれど判るわけがない。松かさの形をしているので、ウロコ(鱗片)とウロコの間に「松かさ」には種があるから、そこを食べるのだろうということになって、小刀を出してウロコを剥がし、その根元の部分を食べてみたが不味くて食べられない。
皆口々に「あの親父に騙された。今度文句を言ってやる」と不平を口にしながら不満たらたらの中、腹立ただしく思った短気な誠は手にしていたパイナップルを海に放り投げた。
であれば猿の方がまだ知恵があろうというもの・・・ただこのことだけで誠の知能はこの程度であったものか、なかったものかを推し測ることは出来ないが、青春の一齣であった。
柳井商業学校を卒業した誠は大阪にある汽車製造株式会社(現・川崎重工業株式会社)に入社し、社会人となったが、それ以降は大した病気にも罹らず比較的平静な日常生活を送っていた。
休日のある日、誠は大阪の繁華街へ遊びに出かけていた時のこと、通りを歩いていて、ふと街頭易者と目が合ってしまい、何気なく前に置いてある蜜柑箱に座った。
別に何かを占って欲しかったわけではないのだけれども、易者の言うままに生年月日と名前を紙に書いたところ、当たり障りの無いことを話し始めたので、誠は「それはそうと、わしは将来大恋愛をして結婚したいと思うちょるんじゃが・・・」と言うと、少し間を置いて易者は「う~ん、そりゃあダメだね、あんたは嫁になる相手が決まっているから、あんたの思い通りにはならん」と言われた途端に短気の虫が頭を擡げ、何だ!この野郎・・・と急に面白くなくなり憤慨した誠は金を払ってその場を立ち去った。
このように左程怒る事にも思えないことでも、癇に障ると直ぐに怒りを表すほどに短気な性分ではあったけれども、何とか無難に会社勤めを続けることが出来たのは幸いであった。
その一方、誠は性格的というか心情的といえばよいのか判らないけれど、身内に対する情合は異常とも思えるほど深かったので、岡山に嫁いだ姉の家や東京の親戚を度々尋ね、故郷の山口県大畠村へも何かにつけて帰省していたようだが、誠の情合は少し偏狭的であった。
 勤めて数年が経った盆休みに誠が帰省したある日のこと、子供の頃より短気な性分に手を焼いていた母トミは誠にこう話し始めた「誠や、おまえの短気には本当に困ったもので、中々直りゃあせん、それでなぁ柳井に立派な人がおるそうだからその人のところへ行って話を聞いてみたらどうかいねぇ」。
そのように自分の欠点を指摘されて、はいそうですかと素直に従うような誠ではないので、ぐずぐずと屁理屈をこね回し、生半可な返事で持って何とかその場を誤魔化そうとしていたのだが、誠の将来に不安を感じていたトミはしつこく誠に食い下がって引こうとはしなかった。
結局根負けしたのは誠の方で、嫌々ながら渋々その人物に会いに行ったのだが、この人物との出会いが後の人生を大きく左右し、戦時中に不思議な体験をする切っ掛けになろうとは夢にも思っていなかった。

 その人物とは広島県神石郡神石町出身の知団(ちだん)さんと言い、年齢は誠より十歳ほど年上で、九州博多管区の国鉄職員として連結士(列車同士を繋ぎ合わせる業務)をしていたが、勤務中に右足関節より下を事故で失い、業務復帰が叶わなくなったところを国鉄側の計らいで誠の実家がある国鉄山陽本線大畠駅の売店業務を任されていた方であった。
また知る人であれば、彼のことを悪く言う人など一人もいないほどに評判の良い人物でもあったようで、渋々だった誠が柳井市中塚にある知団さんの住まいを尋ねたところ、知団さん夫婦は初対面の誠をとても優しく迎えくれたことや、招かれた家の中が綺麗に整理整頓されている状況を見て、誠は評判通りの良き人物であることに疑いを持つわけにはゆかなかったし、初対面にも拘らず少し話を聞いているうちに直ぐに地団さんと打ち解け、心が穏やかになってゆくのが判るほどであった。
と言うのも、知団さんの話はとても理にかなっていて、誠に通じ、正に迷える子羊にとっては天空から救いの蜘蛛の糸が降りてきたかのように感じられたのかもしれない。
知団さんに魅入られた誠はこの後、知団さんご夫婦に勧められたこともあって「大本(教)」に入信し、信者となって活動するようになり「大本(教)聖師・出口 王仁三郎」と出会う切っ掛けとなる。
知団さんは本業の傍ら「大本(教)の柳井支部」に属し「宣伝使(キリスト教の宣教師のような役割)」をされていて、熱心に布教活動を行っていた。

ここで大本(教)について、概略の説明をすれば、明治二十五年、後に大本(教)教祖となる「出口なお」は、くず拾い(であったと聞いている)で何とか生計を立てていた極めて貧しい文盲の女性であったが、突如神懸りとなり「お筆先(神が語る言葉)」なる文字を「なお」の意思とは無関係に手が勝手に書き始めたことに端を発し、狂人扱いされるも、その内容はこの後日本が辿ることになる姿を現した予言書であった。
またこの頃、同じくして神の啓示を受けた「上田 喜三郎」は導かれるように「なお」と出会い、暫くして娘婿に迎えられて「出口王仁三郎(でぐち おにざぶろう)」と改名し、「なお」が開祖、「王仁三郎」は聖師と称して明治三十一年に大本(教)の組織を作る。
昭和に入った頃には信者を百万人以上擁するほどの組織となり、信者の中には多くの知識人や大臣級の政治家・陸海軍の将校に加えて皇族なども名を連ねていたが、国家による数度の大弾圧を受け「なお・王仁三郎」共に投獄されるなど不遇の時期を乗り越えながら、日本が大東亜戦争に負けないようにと中国に渡ってまで活動していたが終戦後の昭和二十三年一月「仁三郎」はこの世を去っている。
余談になるが、過去には弘法大師も相当の霊能力者であったようだが、出口王仁三郎ほどの霊能力者は後にも先にも人として現れることはなかろうと思えるほどであったと言う。
二十年以上も前の曖昧な記憶だが「巨人 出口王仁三郎」という本が出版されていて、この本を読めば、かなり詳しく彼のことが書かれているので、興味のある方は是非一読をお勧めする。
また現在日本にある新興宗教の開祖は当時「出口王仁三郎」の弟子であった者が多いことも事実である。
※(インターネットで「大本(教)」を検索すれば客観的事実と比較的詳しい内容が掲載されていますが、記述者の主観による説明が多く、的を射ているかは疑わしいのだが興味のある方は調べてみて下さい。)
 大本(教)に入信し、信者となった誠は知団さんの勧めるままに大本(教)の本を読み、先達の方々の話を聞きながら勉強し、知識を深めていった。

大阪に戻った誠は、持ち前の気の良さに加えて多少お節介なところがあり、その性分もあってか誠自身も大本(教)の宣伝使となり布教活動を始めたようで、布教活動をしていると意外なことに会社にも大本(教)の信者が数名いることが判り、その方達と共に勉強会を開いて更なる知識を深め、時には大本(教)本部から講師を招いての講話会まで行っていたようだから相当の入れ込みようで、京都の亀岡・綾部にある大本(教)本部にもよく参拝していたようである。
そのせいでもあろう、自分が良いと思ったことは強引に他の人にも押し付けるようなところがあった誠は姉妹六人を全て大本(教)に入信させている。

そのような中、大本(教)が数度の大弾圧を受けた際には、大本(教)の幹部に加え日本全国にいる信者達にまでも官憲の手が及び、誠も二度逮捕され留置所に拘束されているが、その時はさして厳しい取調べもなく、ただ布教活動の内容や他の信者の名前などを聞かれた程度で、一週間から十日程留置されていただけであったという。
と言うことは上意下達を受けた官憲が事件の良し悪しや罪状の十分な吟味も行わず、大本(教)の信者で布教活動をしているというだけで逮捕しているのだから、時代が移り代われども公務員とは人としての判断を持って行う仕事が許されない気の毒な職業であろうか。
また本星である大本(教)に対しては特別な罪状がないものだから、言い掛かりにも等しい無理やりな罪状を作り上げ、必ず何かがあるはずだの信念の下に大本(教)の幹部を根こそぎ逮捕して取調べをしているところを見ると、大本(教)が余りにも巨大な組織になってしまったことを恐れた国が国策捜査の一環として厳しく取締りを行った結果であろうことは容易に想像できるが、いつの時代も国家権力のやることは後に嘲笑されるようなことをやるものである。

話を元に戻し、歴史を遡れば、既に明治時代の頃には英国を始めとする欧州の各国は東南アジアを殆ど植民地にして、多大な資源をほしいままにしていたが、その矛先は次なる清国(中国)へと侵略の魔手を伸ばし始めていたところまできていた。
清国(中国)と朝鮮が植民地となれば、次はわが国が標的となるのは火を見るより明らかなことだから、欧米による植民地化を恐れた日本は大東亜共栄圏なる構想を打ち立てて、昭和十二年七月七日支那事変(日中戦争)に突入し、欧米に対抗しようとするも、朱子学に毒された清国・朝鮮共に共存同盟・工業国化への提案を受け容れようとはせず、中には敵対勢力も生じて、いよいよ日本が米国との開戦へと、きな臭さが漂ってきた頃となっていた。

補足説明・文中「大本(教)」と表現してあるのは、宗教組織としての正式名称は「大本」なのだが、宗教の(教)を補足しなければ判り辛いと思い(教)を敢えて加えてきましたが、以降「大本」と表現します。



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「酔龍の独り言:その004」

 今年の広島は結局のところ梅雨が無くて、台風による雨が降った後に突然夏が来たという感じで、これまで規則的な周期を繰り返していた気候が近年少し変になっているのではないかと思えることが多くなりました。
地球規模で天変地異が起こる前触れで無ければ良いのですか・・・。

 久し振りに書店で本を探していたところ「養老猛」氏の本(題名は「遺言」)を見付けて手に取り、頁をめくりながら中を拾い読みしたところ興味深そうな内容に思えたので購入した。
しかし内容はとても遺言とは思えないようなもので、氏にとっては最後の著書という意味合いなのかも知れないと感じましたが、氏の伝えたいと思われる遺言の内容は哲学書だと感じられるようなもので、読み終えたらもう一度読み直したいと思えるほどの記述でした。
このような本を上梓し無知な私に啓蒙を与えてくれる養老猛氏に感謝の意を表します。

 さて、私の愛煙は十六歳の時より始まって、今年でもう五十三年の付き合いになってしまいました(今の時代では自慢にならない話ですけど1日40本程度は体が要求します)。
これまでは事務所の中で喫煙をしていたのですが、諸事情を鑑み数年前からは事務所の中では吸わず1階の駐車場に下りてタバコを飲んでいましたが、今年に夏は余りにも暑くて、外でタバコを吸っている間が苦痛に感じられるようになり、3階にある事務所の窓から顔を出してタバコを吸っていた時のことです。
三十代前後と思われる女性(母親であろうと思われる)に手を引かれて歩いた女の子の上向き加減に笑っている顔が見えたのです。
明らかにダウン症の子供だと思ったけれど、その仕草と笑みに例えようのない美しさを感じた。
もうすぐとても楽しいことが待っているのだろうか、少しはしゃぎ加減で歩く姿とその笑みは穢れ無き微笑みと表現しても言葉が不足しそうなほどに心を震わされてしまいました。
今思い出しても、目頭が熱くなり心が締め付けられるような感情が湧いてくる。
この親子に幸多からんことを祈る以外になす術がないのだけれど、自然は時折人に対しても惨い仕打ちをするものだと改めて考えさせられた日になりました。

 先日の朝のこと、バスでの通勤時につり革を持って立っていたところ、三十五才頃と思われる男性に席を譲りかけられました。
見た目で頭は薄くて、残った髪は真っ白では仕方がないかと・・・思えども、本人にとっては衝撃的な出来事で、何だか人生が終わりに近づいたような気持ちにさせられました。
でも思い遣りのあるこの男性に感謝します。




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「酔龍の独り言:その003」

 広島は入梅宣言から2週間が経とうとしているのに、雨は降らずに晴天が続き、ダム貯水量は二割を下回る状況下となり、今後渇水が起こりそうな気配の中、数日前から夏が来たかと錯覚した蝉まで鳴き始めました。
七十年近く人生を歩んできましたが、今まで経験の無い初めての気候を体験しています。
 
さて、もう報道者達は過去のことのように報道をしなくなりましたが、忘れかけた頃に、何かを言いたくなるのが、本ブログの特徴なので、今日はこの話題から。
香港の「逃亡犯条例」の改正(悪?)に対して市民が引き起こした大規模なデモです。
恐らく容疑者の段階から「身柄の引渡し」を中国政府にまで対象国を拡大したことによる恐怖と不安が起こした結果であることは明らかであるが、何故そうなる?と問われれば、中国政府は正当な裁判を行わないからに決まっている。
中国共産党による裁判は、理不尽で惨い判決結果を出していることを世界中の人が知っているし、その判決内容は良識に基づいたものではないことも知っているからに他ならない。
小さな国でこれほどの大規模なデモは史上初と言ってもよいのではないかと思えるほどだが、日本で国会議事堂に相当する建物に乱入して肖像画や壁にスプレーでイタズラをしている映像を見たが、この程度で治まっているのは、やはりアジア民族が持つ特性であろうと想像する。
欧米ならこれに混じって起こるのが略奪行為だが、これは一件も報道されなかったように記憶する。
これで判るように市民全体が良識的であり、ただ単に政府の方針に対しての怒りが爆発した、少し行きすぎた部分のあった結果であろうと推測できる。
しかし、その結果、行政長官はこの行為を「暴力的な行為であり、非難する」の声明を出したけれど、そこだけを捉えれば確かに暴力的行為に該当するが、立場を変えてみれば、政府が行おうとしていた「逃亡犯条例」は市民に対して明らかな「暴力的行為」ではないのかと言ってもおかしくはあるまい。
権力と力を持たない一般市民が政府の横暴に対して訴える手段としてのデモを行っていた中で、群集心理に捕らわれ多少興奮した一部の人によって起こった突発的軽微な破壊活動と思われる行為をみて、これほどまでに反感を買っているのかと反省もせず「暴力的な行為であり、非難する」は市民を市民と捉えていない証拠でもあろう(何処の国の為政者も同じ資質か・・・と寂しくなる)。
略奪行為も無く死傷者を出していることも無いようですから、真に「法改悪」を止めたかっただけであることは容易に想像がつくけれども、強大な軍事力を持つ中国政府から押し付けられた台湾政府にとっては断ることも出来ず、対抗する術も無かったのであろうと思えば気の毒でも有るが、若しこのデモを中国政府の圧力に対抗する手段として台湾政府が裏で糸を引いていたとしたら、見事!と言わざるを得ないが、実際のところどうなのでしょうかねぇ。

日本では参議院の選挙活動が始まり、早朝より雑音が街中に鳴り響き、暑い上に鬱陶しいことこの上ない季節となってしまいましたが、どうやら争点は消費税と年金のようです。
与党を代表して総理は「年金に具体的な案を示さず、野党は国民に対して不安ばかりを煽っている」と言い、その解決手段は「強い経済を作れば年金の財源も守ってゆけるし、年金も増やせる」と言っていた。
優等生的な内容ではあるが、これも詭弁に近く総理だって「具体的な案」は出していない。
案として言葉に出した「強い経済」とは具体的な案ではなく、抽象的な表現であって、どのようにすれば「強い経済」に出来るかを言葉にするのが具体案である。
このように言葉巧みに国民を煙に巻く手法は見事の一言に尽きるが、なに!年金問題などの解決は簡単なことですよ。
過去に官僚が無駄使いで無くした年金10兆円を官僚の給与と退職金で補填させることに加え、無駄使いの温床となっている天下り先を全廃すれば一気に片付くことです。
勿論のこと責任は大きく国会議員にもある訳だから同じ様に議員定数削減に加え与野党を問わず歳費を減らして、国民に対して責任の一端を明確にすること以外にないではないか。
口でもって言葉巧みに国民の意識を逸らして、都合よく誘導し、ちゃっかり議員年金を復活させようとしているようでは、その性根に賎しさに反吐が出そうである。

 野党などはもっと滑稽で、「蓄えが2000万円無くとも安心して暮らしてゆける社会に一歩も二歩も進めて行ける・・を目指して選挙を戦っている」とはこれ如何に・・でしょう。
お粗末極まりない内容で、党首の発言とは思えないほどに酷く、概念論にもなっていない空論に近いものである。

最後にもう一つ、とても良い話を最近ある方から聞きましたのでお伝えします。
ロシアで学校の先生をしている非常に日本語が堪能な方(ロシア人ですよ)と食事をした時のこと、その人が「日本の学校教育は一体どうなってしまったのですか?」と聞いてきたそうです。
ロシアでは以前の日本の教育を見習い「黒板の横には、先生とご両親を敬いましょう」「年下の生徒や弟妹を労わりましょう」などの文章が箇条書きで掲示されていて、毎朝生徒全員で斉唱していると言うのです。
そして、先生が教室に入ってきた途端、生徒全員が起立し、挨拶をした後、先生の「着席」の声が出てから座るそうです。
私達団塊の世代がかつて学んでいた小学校の教室を思い出しました。
今の日本は本当に良い方向に向かっているのでしょうか・・・疑問だらけの日本国を大きく舵を切り直す指導者を待たなければ、最早この国の未来など無かろうと暗澹とした気持ちになりました。




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「酔龍の独り言:その002」

 高齢者の自動車事故が多発している。
その原因の殆どは運転操作の間違いや、標識などの確認不足にあるようですが、年を重ねるごとに人は記憶力・体力・判断力・瞬発力が衰えてくるのが自然であり、人によって大きく個人差が生じる分野ではあろうが、これを止める事は出来ない。

 報道各社も何かしら「高齢運転者の事故報道」を多くしているような気がして、気になっていたのですが、つい先日のこと有名芸能人が75歳の運転免許証更新前に返納した映像つき報道があった。
つまり、高齢者は運転免許証を返納しろと煽っていることに他ならない(恐らく政府や警察関連の要請があってのことと想像している)。
誰でも年を取ってまで危険が付きまとう車の運転などしたいと思うはずも無いと想像していますが、車が無くては日常生活が出来ないような社会にしてしまったのは一体誰だ!。

 戦後に日本が国を挙げて目指してきた「便利さ・快適・豊かさ」の追求だが、これに「経済効率」が加わるようになってから、ちょうど日本の東京に官民(経済界)問わず全ての中枢機構が集中する一極集中型都市機能が出現した。
東京に行けば、そこにはすべての機能が集約されているので何でも出来る・・・便利で効率が良い・・・と益々この型は勢いを強めて現在に至り、その流れは今も変わっていない(これまでに何度か地方に省庁分散の動きがあったけれど実現はしていない)。
これを成功だと錯覚した官と経済界は同じことを地方において企てるようになる。
それが、郊外(公害)型の大型スーパーマーケットである。
大店法(大規模小売店舗法:昭和48年に制定・翌年施行)という法がかつてあったけれども、26年後の2000年(平成12年)に廃止されている。
廃止されたこの大店法では「地元の中小小売店を保護する目的」も含まれていたが、アメリカからの圧力もあり、現在は大規模小売店舗立地法に取って代わられている。
大規模小売店舗法に代わって制定された大規模小売店舗立地法だが「立地」が付け加えられただけの法名で、何だか良く判らないけれどもこの法には「地元の中小小売店を保護する目的」は謳われていないので「シャッター街促進法」の方が良かったのでは・・・。
制定時までに至る経緯では「中心市街地の体力が強化されるのを待ってから」と但し書きがあったようですが、その僅か2年後には法を制定させている。
と言うことは僅か2年で地方中心市街地の小売店舗の体力が強化したという事になるが、税法も変えず・補助金の支給も皆無では、出来るわけも無いのに、絵空事を平気で言葉巧みに並べてその場をやり過ごし、国民の意識が薄れた頃を見計らって、ちゃっかりと思い通りの法を成立させる狡猾さは世界中を探してみても皆無に近いと思えるほどの詐欺集団である。

「おれおれ詐欺」は犯罪者の行為で、やっている本人の意識も犯罪であることは承知しているはずだが、これより性質が悪いと思う。
東大出の官僚達が考えるのだから、頭の悪い「おれおれ詐欺」集団では勝負にならず、言葉の巧みさでは到底適うはずも無いのだけれども、犯罪者の意識が無いことが大問題ではないでしょうか(人間の質を比べたら・・・どうだろう?)。

大型店舗は確かに「便利さ・快適さ」においては申し分ない機能と品揃えがしてあるので、誰もがその魅力の虜になり、その陰に隠された悲惨な結果を想像もしないうちに日本全国津々浦々に出店が繰り返され、現在に至っては古くから親しまれてきた人情味溢れる商店街の店舗にはシャッターが下ろされ無人の商店街が出現した(現在地方の小中都市の町中では人が歩いている姿を見ない)。
町に商店と商品が無くなってしまえば、人は品物を求めて町中を歩くことを止めるのも自然な流れである。
このかたちは車社会の先駆者であるアメリカでは早くから顕在化し、地方の個人商店が壊滅的打撃を受けた結果を、まさか外務省まで持っている頭の良い官僚や大型連休には必ず海外へ視察旅行する政治屋達が知らなかったことはあるまい(と言うことは、やはり観光旅行だったのだろうか)。
若し知らなかったと言うのなら、不勉強極まりないし、税金で禄を食んでいる資格があるとは到底思えないと考えるが、如何であろうか。
公害型スーパーマーケットが齎した害は地域の「人情の決如」「学歴型社会」「無人の町並み」に加え「食品添加物」「遺伝子組み換え食品」などであろうか・・・。
便利さと快適さに加え豊かさの感覚は人の心に齎す「快感」ではあるが、これは「形態の快感であり」同時に「質の快感」にはなっていないことの方が多い。
 例えば「銃・車」などがその典型的な道具であろう。
アメリカでは銃による乱射事件が後を絶たず、日本では(一般人は銃が入手できないので)刃物による殺傷事件が同じ様に起こっているし、車による悲惨な事故?を招いていることも元を糺せば同じ質の部分の欠如が垣間見える。
 鋭い牙も爪も持たず、柔らかい皮膚で覆われた体しか持てない人間が、猛獣を相手に大型の獣と戦うことなど出来ようはずも無いことではあるが、知恵と工夫で「槍」を持ち「弓矢」を持つようになり、現在は「銃」を持つまでになった。
「銃」を持つようになった時点で人は恐ろしいほどの力を得たと錯覚し、やがて傲慢の芽が心の中に生じ、やがて見事な傲慢花を咲かせてしまった・・・現代人の心の中身。
「便利さ」が進んだ究極が「銃」になり「快感」を得るようになったわけだが、「銃を持つ」「銃を撃つ」ことは「形態」であり「何故銃を持つ」のか「何ゆえに銃を持たなければならないのか」「何故に銃を撃つ」のかが「質」の問題である。
刃物も車も人の身体能力を遥かに超えた道具なのに、これを手にして簡単に使うことが出来るようになってくると、あたかも自分の身体と同化し、我が体に強大な力が備わったような錯覚に陥るので、自己中心的な考え方になり、排他的になり、攻撃的になる。
「形態」だけで物事を判断し行動すると「気違いに刃物」に等しい行いを人が取るのは一種の性かもしれませんが「質」を同時に持ち合わせることがその抑止力になるのに、欧米人ならいざ知らず、日本でも「効率」や「経済性」を最優先して「質」を疎かにしているから、何をやっても物事が旨く作動しなくなってきている。
 銀行や携帯電話販売会社の窓口では「当の本人」より「必要な書類の提示」の方が大事では、本末転倒な社会が出現しているのに誰も異を唱えず辛抱していること自体が異常な社会だと何故気付かないのだろうか。
これら窓口で「当の本人」が持参した預金通帳と印鑑より「運転免許証や健康保険証」の方が信頼に値するとされる事自体が「形態」と「質」の取り違えなのに、これが罷り通る日本は既に病んでいるとしか言えまい。

子供の教育も然りで、子供に「本質」を学ばせることや「量(形態)」と「質」の区別を解からせ、自分でものを考え、文を作り、価値観を構築することよりも、文科省の教育方針に従った薄っぺらな受験対策の表面的な教育を与えることのみに専念させ、問題を生じさせず事故なきことの書類を作成すること方を大事とするのでは将来の日本を背負って起つ子供達が良き日本人として育つことは無かろう。

戦後七十余年「便利で快適で安全で豊かな」生活を手に入れたようだけれども、失ったものの方が遥かに大きいと思うが、当の大人が目くらましに遭い、そのことに気付かないでは、日本の将来は暗い。
今回より「縦のものを横にした」不思議な物語「双龍物語」も次頁に掲載しています。




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「酔龍の独り言:その001:序段の1」

 令和最初のブログ更新になりました。
更新期日が迫ってくるので、早く更新を・・・と思っていたのに、このところの朝夕の寒暖差に注意をしてはいたのですが、風邪を引いてしまい発熱→寝込みました。
仕事も依頼が重なってしまって忙しくしていたところなので、気が急くばかりで、更新がギリギリとなりました。

 世間を騒がせる元凶はいつまで経っても、やはり政治屋と官僚達では心が荒んできます。
昨日の新聞に報道されて知ったのだが「公証人役場の公証人の斡旋を、事務次官になれなかった人物を主体に行っていた」とあった。
公証人の年俸は二千万円を上回る高給(官僚の報酬と同等以上)だそうである。
担当省は、公証人については広く一般から公募をしていると嘯いているようだが、実態は新聞記事の通りで間違いなかろう。
しかし、どうして官僚達は自分の身の保全と退職後の安泰を謀ろうと考えるのだろう。
自らが手を挙げて国のため・国民のためと気負って就いた仕事ではなかったのか・・・巧妙に数え切れないほどの天下り先を作り、税金で我が身を養うことばかりを考える輩達の資質を疑いたくなる話ばかりである。

 政治屋の発言で北方4島返還については喧々諤々の様を呈しているが、大東亜戦争の終戦のドサクサに紛れてロシアが占領したいわくつきの島々であり、話し合いで返還できるものなら、とっくに返還されているはずだが、返す気など毛頭ないという事であろう。
ならば戦争でも・・・の気持ちが湧いてきた当たり前なのだが、今の日本では「戦争」と「タバコ」は口にしただけで「犯罪者」扱いですからねぇ。
何処か狂っているとしか思えません。
略奪者に言って聞かせれば改心するなどが通用する甘い世界構造でもあるまい。
ロシアや北朝鮮・アメリカにそう言えば改心するか?する訳が無いことは明らかである。
さて、このような社会情勢で日本が取るべき道は・・・と想うのだが、政治屋と官僚がこの有様ですからねぇ。

さて、急拵えの更新になりましたが、アメリカと中国の核戦争の危機が迫ってきています。最初に核を打つのはアメリカですが、次回からこの辺りのことを小説まがいにしてブログに乗せてみたいと思っていますので、宜しくお願いいたします。 




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