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建築家 潤 の『独断と偏見』

「酔龍の独り言:その017」

 依頼されている業務が終わらない内に次々と新しい依頼や相談事が重なってしまい、頭の中と老体が少し悲鳴を上げそうな状況下になって、思うように時間が取れないままでブログの更新が儘ならず、双龍物語の続編を書きたいのですが、如何ともし難く重ねてお詫び申し上げ、急ごしらえの更新です。

 令和3年4月25日・先週の日曜日のことです。
北海道・長野県・広島県で衆参議員の補欠選挙が行われましたが、いずれも過去最低に近い投票率で、自民党が惨敗した。
私が住んでいる広島市では選挙の結果を待たなくとも、恐らく自民党は当選しないであろう・・・との予測はついていたが、だからと言って、以前民主党に政権を委ねた時の比類無きお粗末さを忘れるわけにもゆかず、広島県の選挙民は苦悩したであろうと想像する。
勿論、河井案里と夫の克行(共に元議員)が選挙買収で日本中を騒がした事件も間違いなく大きな要素だと思われるけれども、既に選挙民の心の中では官僚の姿勢と政治に対して何とも言いようのない不満が溜まりに溜まって不透明感を拭えないまま今日まで来ていることの理解と自覚が政権与党に無いことこそ思い上がりと言わざるを得ない。
尤もこのような議員を選挙で選んだ選挙民に大きな責任があることは言うまでもないことではあるけれど、見た目の容姿の良し悪しや印象による好き嫌いで選んでみたり、人との付き合いの中で依頼を断れ切れず、また所属している党のしがらみ等によるものであったりするものだから、人物の質を見極めて投票しているわけではない結果であることに疑いの余地はない(質の悪い議員が多すぎて目に余る)。
候補者の学歴や経歴で選んでみても、このような事柄など全く選定の対象にならない事くらい人生の経験値から十分判断が付こうと言うものであるが、その人物と親交がなければ判断の材料すら持てないのが現状である。
候補者を推薦している各党は党利の為に推薦しているのであって、決して日本国や国民(選挙民)のことを慮って推薦しているわけではないことは明らかであり、官僚は国益など省みもせずに、省益最優先と公益法人とは名ばかりの省益法人作りに血道を上げて、定年退職後の安定を図ろうとし、税金は我が物だと錯覚して、使いたい放題で巨額の税金をドブに捨ててもその責任を取ろうともしない。
予算が不足すると言いながら財務省は消費税を上げ、厚労省は厚生年金・社会保険料などを値上げする為に法まで作る有様である。
法とは国民の安全・財産の保護・福利厚生を十分に得られようにと定められているはずだし、税は国民の為に使い道を定めるべきものなのに、法文はそのままで官僚の為にと巧みに本質が掏り替えられているから、これではまるで詐欺にあっているような気分である。
その上で、年金は毎年のように少しずつ減額され、取りはぐれの無い様にと介護保険料まで年金の支給額から徴収するのだから、これではまるで暴力装置である。
その暴挙を政治家が止められないのでは何のための国民の代表なのかと言いたい。
今の政治家は勉強不足の上に資質が悪くお粗末極まりないとの表現以外に何かあろうか?。

 このような時節の中、ある意味で気の毒に貧乏くじを引いてしまったのが菅総理だろう。
新型コロナの渦中にあり、打つ手が全て上手く作動せず、全てが裏目々に出てしまい、国民の信頼を失っている中で、選挙の惨敗だからねぇ。

前総理が国民に食べさせた「もり(森友)そば」に「かけ(加計・賭け)そば」に加えて「桜(見る会)餅」は不味くて不快感が残る味のまま心の隅でくすぶっているところへ新型コロナだから、菅総理が気の毒で仕方がないけれど、引き受けたからには英断して解決していただかなくてはならないが、解決する問題の本質が判っていないのだろうから期待など出来るはずもないか。
 しかし、新型コロナの発症があってから1年が経とうとしているが、一向に感染者は減少せず増加している状況下となっている。
これだけ化学や科学に医学が進歩している(愚かな人類がそう錯覚しているに過ぎない?)にも拘らず、この有様である。
本当にワクチンは効くのか?についても疑問が残るし、世界中がこのウイルスを持て余している状況を見ていると、原発事故と同じようにも思える。
便利優先・効率優先・経済最優先など目先のことばかりに心を奪われてきた結果の付けが回ってきたのだろう。
為政者が真にやらなければならないことは「将来を見据えた現在ではまだ目には見えない危機察知能力」と「総合的(偏らない)な洞察力」「学問以外で解決できる方策・施策」「学歴・経歴などに惑わされない人事」「前例の無い事象が起こったときに対処・解決できる能力」などであろうか、日本は単一民族で千年以上の歴史と高度な文化を有する世界一誇れる国であるから、何も質の低い欧米と比較して優劣を論じる必要など無いのである。
永田町にいる数百人の高給取りさん達にこの意味わかるかなぁ。



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「酔龍の独り言:その016」

 現在依頼されている業務の処理と仕事の依頼が重なっている中、次年度への準備に加え、年度末の決算処理(税務対策)に追われ、思うように時間が取れず更新が出来なかったことお詫び申し上げます。

 さて、日々の生活の中で私が読書に当てる時間は乗り物乗っているときです。
新幹線・電車・バスなどに乗車した時を唯一の読書帯にしていまして、時間にして十数分から一時間前後を毎日の習慣として当てています。
しかし最近の車内を見渡すと乗客の八割方は手にスマホを持って俯き、指で操作をしています。
読書をしている人を見るのは稀で、手に本を持って広げている人は私のような老人か資格取得の問題集に取り組んでいる人や受験生と思われる人達です。
問題集や受験生が開いている本を読書と言うのは少し抵抗を感じないでもないけれど、僅かな時間をも無駄にせず自分の知識を深め、能力を高める行為に繋がって行くのですから読書で良いのではないかと思います。
 手にスマホを持って何かを検索している人達の殆どは「遊び」に分類してもよい内容と思われるもので、これを毎日積み上げてゆくのですから、年を重ねる間には知識や能力に大きな差が開いてくることは歴然としている。
最近話題になっているSNSとかラインと言うアプリ(私は未だにこの横文字とカタカナを日本語に訳した意味が判っていません)を使っている人達の情報が閲覧できる状態になっていたとかで、これらを運営している日本法人の社長が陳謝している映像が流れていた。
以前からこれらのアプリは朝鮮(現在では韓国と言いますが、朝鮮の国名はかつて中国から門まで造営して拝礼を行い朝鮮という国名を授けてもらった歴史がありますので朝鮮でよいのではと思っていますし、北朝鮮はそのままその名を使っています。そして地理上ではあの半島は朝鮮半島と言っていますからねぇ何処か可笑しくないですか)に運営本社があり(現在は中国に売却されたのですかね?)自分を含め繋がっている人達全ての情報が漏れる危険があると言われてきたにも拘らず、スマホ保有者の殆どがこのアプリを使っているようです。
便利とか楽だとかの裏側に潜んでいる危険に蓋をしてまでしなければならないものではなかろうと思うので、今からでも遅くありませんから、よく考えてそのアプリ削除されたほうが良いと思います(きっと余計なお世話と言われるでしょうが、スマホが使えない年寄りの僻みではありませんよ)。

 話を変えます。
購入していた本を全て読み切ったので新しい本を買いに行きまして、少し悩んだ末に「佐藤 優」氏のマルクスの著書を基にした講演の記録で、いま生きる「資本論」と言う本を手に取り購入した。
少し悩んだ訳は、私の頭の中ではマルクス→社会主義→共産主義と言う概念しかなかったものですから、このような本を読んで意味があろうか・・・との悩みです。
しかし、氏の本は今までに何冊か読んでいて、書かれている内容に納得はすれども違和感などなかったので「まあいいか、一つ読んでみよう・・・今までこのような内容の本を読む機会もなかったし、何かしらの勉強にもなろうと言うもの、無駄にはなるまい・・・」と脳が購入の指令を出した。

 佐藤 優氏についてはご存知の方も多かろうと思いますが、同志社大学を卒業して外務省の職員となるも、背任と偽計業務妨害の有罪判決(執行猶予)を受けた方です。
私は仕事柄、経済・資本論などとは無縁の生活を送ってきたものだから、読み始めてからマルクスが書いている文の難しさに閉口した。
このような文字の羅列が理解できる人の脳の構造は一体どのようなものなのであろうかと己の無学さ勉強不足を置いといて唖然としてしまった。 
この本は講演をした記録を纏めたもので、文中に「宇野 弘蔵(今まで知らなかった名前)」などマルクス以外にも多くの日本人学者?の名前が出てきて、彼らの言葉や記録を文にしていたけれど、いずれの文も主語・述語が無い訳ではないけれど、一つの文がとても長く、
悪いことに文の途中で抽象的な装飾語?が余りにも多く挿入されているものだから、何が言いたいのかさっぱり解からない。
この本を読みながら主だった所はマーカーで印を付けておいたので、読み終えて付けておいた印の周りを再度読み返してみたが、やはり良く解からない。
このような文章が脳の中で処理できて理解が出来る人は素晴らしいと感じ、文の読解力においても人はこの世に生まれで出でた時、既に備わっているのであろうと思わざるを得なかった。
しかしだ、私のような読解力が劣った人間の為に、もう少し解かり易い文にてもらえればどれほど嬉しいか・・・そういう意味では学者さんは独りよがりである。
自分が解かっていることは人も解かっているはずだ・・・という思い込みから物事を始めるので、勉強不足の者にとっては、磨かざる宝石の原石を貰ったようなものなので残念であるが、仕事を持っている身では今更の勉強が追いつかない。
生まれつき大した努力などせずとも字の上手な人と同じようなもので、ある程度の努力をすれば下手くそ字も何とか上手くはなるようであるが、やはりどうにもならない域はある。



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「双龍物語:第五章・幼少期の五・可愛くなかった幼少の潤」

 寒くなり始め、日の落ちるのが早くなる季節であったと記憶している。
学校から帰ってランドセルを放り投げ、友人たちと夢中になって遊んでいたが暗くなってきて皆が口々に「もう帰ろうやぁ」と言い出したので、潤も仕方なく家路に着いた。
両親は共働きなので、この時間ではまだ家に帰っていないことが判っている潤は「やれやれ、家に帰ってから何したらええかのう・・・」と心の中でつぶやきながら「ただいま」と声を出して玄関の引き違い戸を引いて家に入ってみたが「お帰り」の声は無く、家の中は真っ暗である。
「そりやぁそうじゃろうて・・・」と思いながら掘り炬燵に足を突っ込んで少しの間一人茶の間で待っていたが炬燵の中は冷たくて暖が取れない。
自分で練炭に火を熾してみようと考えてはみたが、練炭火鉢は重く、まだ火の扱いが上手く出来ない潤は瞬時にこの考えは捨てた。
止むを得ず火の気の無い掘り炬燵に掛けてある布団から顔だけ出して両親が帰ってくるのを待っていたが、残業にでもなっているのであろうか中々両親は帰ってこない。
暫く辛抱すれども、やはり火の無い炬燵は寒い上に段々と腹も減ってきて「早く帰って来いや!」と叫んでもみたが、野良犬の遠吠えに等しく何らかの良き変化などが起こるはずも無く、ひもじさと寒さで少し涙が滲んできた。
小一時間も経っただろうか、相次いで両親が帰ってきて滋子は「お腹すいたろう・・・直ぐ支度するけえね」と言ってくれたが、その時の両親の苦労など解かるはずも無い潤の口は「いつまでこんな生活が続くんかねぇ」と口にしてしまった。
瞬時に滋子から「何を言うかこの子は!親が一所懸命に働いちょるいうのに!」ときつい口調で言葉が返ってきた。
恐らく親自身が潤と同じような感覚を持っていたのだろうと感じ、少しバツの悪い気持ちでいたところ、夕餉の支度をしながら両親が話をしている中で「○○さんのところがねぇ、・・・」と○○さんの家で起こった大きな不幸について話し始めた。
話を傍で聞いていた潤は思わず「そんなに可哀想じゃ言うんなら、助けて上げたらどうなんね」と口にした。
するとまたもや「何を言うかこの子は!私らぁに助けられるわけがないじゃろう」と又きついお言葉が返ってきたので「助けられんのなら可哀想々言うてもしょうがないじゃあ」とまた余計な口が滑った。
恐らく親にとっては痛いところを突かれた気持ちになったのではなかろうかと想像するが、この時に潤は「ふん、それならワシは大きくなったら助けられるようになってやるわい」とまるで根拠ない妄想を描いたが、その日の夕飯は喉を通り難くまずかった。
しかし、この時にはもう妹と弟が生まれていたはずなのだが、傍にいた記憶が無いから、この日は祖父の家で叔母達に面倒を見てもらっていたのかもしれない。

 夕飯を食べる時に誠はよく戦争の体験談(序章にある不思議な体験に加え、いかに優秀で勇猛な兵隊であったかの自慢話)と聖師「王仁三郎」に纏わる話をしていたが、性格は一概で意固地なところがあり、価値観や考え方の調和が取れず、どこかが欠けているように潤は感じていた。
と言うのも、ある時の夕食が大御馳走のすき焼きで、ワクワクしながら食べ始めた時、野菜籠の中には白菜や大根・葱などの他に春菊が入っていた。
春菊は苦味があるので子ども達は手をつけないでいたところ、誠が潤に「春菊は旨いんだから食べろ」と言いだした。
「これは苦いから食べれん」と言ったところ誠は「こんな旨い物が食べれんのんか」と上から目線(これは親だから仕方が無い)で春菊が食べられないことを卑下したように言ったものだから、そう言われた潤の口から思わず出た言葉「それじゃあ お父ちゃん、お父ちゃんが(「あんた」と言った様な記憶があるのだが)ワシと同じような子供の頃にこの春菊を食べて、これが本当に美味しいと思ったんかいね?」と反論したところ、子供の頃を思い出して美味しくなかったことの記憶が甦ったに違いなく黙ってしまって何も言わなくなった。
潤は「まだ子どもの口じやぁ美味しくないんよ。大人の口になったら美味しいと思うようになるんじゃないかねぇ」と付け加えた。
「あぁ旨かったよ」と言えないところは誠が正直者である証ではあるけれど、自分が良かれと思っていることは見境無く相手に無理やり押し付けるところがあったものだから、潤はこの後も少し苦労をさせられる羽目なるのだが、春菊については三十代辺りから食べて美味しいと思えるようになり、今では鍋物に春菊が無ければ物足らないように感じるまでになりました。

 余談になりますが、誠の珈琲好きは間違いなかったようで、休日の朝は必ずパーコレーターで入れた珈琲とパン食であった。
パーコレーターから漂ってくる珈琲の香は子供の潤にとってもそれは悩ましいほどの良い香がするのだが、いざ口にすると苦くてとても飲めたものではなかったので砂糖を沢山入れて飲んでいたように記憶している。



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「酔龍の独り言:その015」

 新型コロナウイルスの感染は中々治まる気配を見せません。
政府は相も変わらず飲食店に対して、酒類の提供は夜7:00までとし、店の営業は夜8:00までにして欲しいと要請をしている(やはり政府はコロナが夜行性と断定している?)。
飲食店に入ると、テーブルの隣席間には高さが50㎝程度のアクリル板が立てられ、カウンター席においても一人一人となるように、その間にアクリル板が立てられている。
これは明かに異様な姿を呈していると私は感じています。
確かに飲食をしながらの会話における飛沫感染防止には効果があろうことは理解が出来るし、事務系の職場に於いても同じ様にアクリル板を各机間に立てている映像をこれまでに何度も見た(飛沫感染に加え空気中に漂うウイルスによる感染予防ということらしい)が、しかし、外部然り室内に於いても空気は温度差や圧力差に加え、人などの動きに連動して循環していることは誰もが知っている事実でありながら、これに関しては何ら対策が講じられていないのが現状である。
これはどういうことなのかといえば、結局根本的な感染防止対策は出来ないからである。
人は何かの対策を講じる場合は限界がある事を知っているから、敢えて触れない、語らずで、適当な措置をもって誤魔化していると言うことであろうか。
つまり、気休め程度の予防にしかなっていないと言うことの証でもある。
以前から言っているようにアルコール・次亜塩素酸消毒などウイルスの不活化に少なからず効果はあるように聞いているが、マスクの着用と同様やはり気休め程度であろう・・・。

 生命体でないウイルスに対しては、まだ人間の浅薄な知識では対処できない相手であるという以外に表現のしようが無い。
熱湯消毒では効果がなく、薬品で持っても細菌と違って殺せないのだから始末が悪い。
では数千度の高熱で焼却すればどうなるのか調べてみたが、高熱焼却についてのはっきりとした解答は出ていなかったけれど、地球上における高温多湿の地域環境下では活性化(流行)し難いとの調査結果はあるようだった。
そうであれば熱湯消毒(正に高温・多湿環境下である)で何故死滅しないのか?が解からないし、何故このような事を言うのかと言えば、新型コロナウルスに感染して亡くなられた方の遺体を焼却すれば体内に残っていたウイルスが死滅するのか否かの疑問が生じているからです。
若し死滅しないのであれば、焼却の煙に混じって大気に放出されることとなるから、それによる感染もあり得る?のではないだろうかとの疑問です。
 まあいずれにせよ、何か得体の知れない未知の何かがいることは100年間前に判っていたようですが、ウイルス自体が電子顕微鏡によって発見されて僅か60年程度ということですから、まだまだ人の手に負えない存在であることに違いはない。
調べてみて解かった事ですが、種類によってはウイルスの発見よりもワクチンの開発の方が早かったのだと言うのですから、人間の英知もあながち捨てたものではありませんねぇ。
天然痘のワクチンが最初のようで、200年も前に開発されていますが、病気の感染者と非感染者の観察による推察からイギリスの医師が見つけ出したと書かれていました。

しかし問題なのは政府の対応である。
新型コロナウイルスに感染したのはある意味不意に交通事故や自然災害に遭遇したような出来事で、自らが十分な注意をしていても、目には見えない、マスクの布を通過する、手指の消毒も完璧ではないのだから、このいう表現以外ないと思いますが、政府は感染者に対して、入院勧告などに従わない場合は刑事罰を課す法律を作ろうとしています。
新型コロナに感染して入院を拒否する者が本当にいるのだろうか?現在でも検査すら受けられず、入院など出来ない状況下でこの法律を作ろうとしている本音の部分は一体何なのかは疑がってかかるべきで、本質を検証しなければならない内容である。
 罪を犯したわけでも無い自国民(自分達の生計の原資を生み出している人達ですよ)に罰を課すとは・・・これでは新型コロナに感染することが罪であるに等しいではないか。
このような事を平気でやろうとする上級国民?に国を任していては日本国が危うい。

 病気と言うことに関しては、井沢元彦氏の逆説の日本史で得た知識ですが、かつて日本国では江戸時代(武士階級に多く将軍までも罹患していたと記載がありました)から「脚気(かっけ)」と言う病が大流行していました(庶民は麦飯を食っていたから病にならず)。
そうです、足を宙ぶらりんにして膝関節の間を小さい木槌のような物で軽く叩くと反応して瞬時に膝が伸びる検査方法がある病です。
現在ではビタミンB1などによる不足が原因で起こる病と判明していますが、当時(明治から大正時代)の陸軍では細菌説にこだわり麦を食せば脚気は治る事実を知りながら、頑として受け入れなかったため、日清戦争・日露戦争における陸軍では戦死者の数より脚気で亡くなった数の方が圧倒的に多かった(その数十万人だったと記載されていたと思います)そうです。
海軍は麦飯を食して脚気を克服したとありましたが、この差は一体何でしょうか?当時の陸軍軍医最高責任者であった森林太郎(森鴎外)の東大閥による権威を守らんが為と記されていたが本当のようで、今から僅か100年前の出来事である。
 今回の新型コロナウイルスによる感染拡大も、もしかすると乳製品を多く食する国と日本でも乳製品を多く食する年代に偏っていることは、事実だと思います。
意外に食生活により、もたらされる体質が感染を引き起こす要因ではないかとの疑問が払拭できませんと言う、かなりしつこい性質を持つ私の異学説を再々度唱えておきます。 
業務が重なり昨年の12月から昨日まで正月を返上して設計を行っていまして更新が遅くなりました。お詫び申し上げます。



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「双龍物語:第五章・幼少期の四」

 このバイオリンを習う教室は同じ村内にあるお寺の一室を提供して行われていて、高齢と思われたバイオリンの先生は他の地域から週一回教えに来ていた。
そこの住職の嫁さんが母「滋子」と同じ小学校の教諭をしていたことからの縁で自分の子供達にも習わせようと思ったようで、嫌々ながら通っていたのだが、ある日のこと習いに行くと、家に入るとたまたま部屋にいた住職が急に呼び出されて部屋(教室ではない)から出て行った。
その部屋はいつも自分達の稽古の順番が来るまでの待機する部屋であつたのだが、たまたま住職が出て行った後の机の上に何やら不思議な道具が残っていた。
2本あるゴムのチューブの先端にはプラスチック製の突起が付いていて、その根元には同じく丸いゴム製の圧縮・吸い込みを行うようなものが付いていて、これは洟を吸い出すものではなかろうかと思った潤は好奇心に駆られて両先端を鼻にあてがい丸い部分を押してみた。
すると鼻の中に何か入ってきた瞬間、これはここの親父(住職)が使ったままが置いてあったんだ、これは何か少し危ないかも・・・と不安が過ったけれど、子供の頃である、大して深刻にも考えず、時が過ぎてゆくと案の定六年後には慢性副鼻腔炎と診断され、手術を受ける羽目になってしまった。
その後数十年の間で計3回副鼻腔炎の手術を行ったけれど、完治に至らず現在も不快な状態が続いているし、数年に一度くらいの割合で、鼻の横が腫上がり猛烈な痛みを生じることがある。。
 子供が大勢やってくる教室なのだから、好奇心でいっぱいの子供は何をしでかすか解かったものではない事くらい、人の道を説く坊さんでもある大人がその配慮すら出来なくてどうする・・・と言いたいが、既に手遅れである。

 丁度同じ頃だったと記憶しているが、潤は誠に犬を飼いたいとせがんでいたところ、二ヶ月程経って職場の部下から貰ってきたのだと、真っ黒い子犬が潤の手元にやって来た。
潤はもう嬉しくて、嬉しくて「クロ」と名前を付け、学校から帰ったら毎日一緒に遊んだ。
そんなある夏休みの日、潤はクロを連れて海を見ようと波止場に出かけていたところへ野良犬がやって来て、クロと喧嘩になった。
潤はクロを止めようと間に割って入り二匹を離そうと手を出した瞬間、野良犬が潤の手の平に横から噛み付いた。
その痛みと思いがけない反逆にあった潤は大声で泣き始めた刹那、傍で雑談をしていた漁師の一人が野良犬の足を捕まえて海に放り投げた。
野良犬は「キャイーン」と声を上げたが「ザブーン」の水音と共に一瞬海に沈み浮かんできた途端犬掻きを始めていたが、潮の流れが激しい海域である(大畠の瀬戸は鳴門に次ぐ潮流の速さで、渦の名所でもある)その後この犬が岸に到着したか潮に流され海の藻屑になったかについては定かでないが、手の甲を見ると犬に噛まれたところは唾液と犬の毛にまみれて穴が開き無残な状況を呈していた。
漁師達は潤の方を見て「ぼくは何処の子かいのぉ~、野良犬に噛まれたんじゃけぇ狂犬病を持っちょったら行けんけえのぉ家に帰ったら親に話して予防注射を打って貰いんさいよ」と言ってくれた。
泣きながら家に帰った潤は家にいた叔母に野良犬に噛まれた事を話すと、叔母は直ぐに近くにある外科の診療所に連れて行き、噛まれた傷の手当と狂犬病の予防注射を依頼した。
幸いこの事故のあとは手の甲に傷跡が残っただけで特別な異常は出なかったが完治まで1ヶ月近くを要したので、大好きな海で遊ぶことが出来ず夏休みが台無しになってしまった。
クロとは二年余り一緒に遊んだけれどもジステンバー(犬特有の風邪)に罹ってしまい、獣医の手当ての甲斐なく死んでしまった。
悲しんだ潤は墓を作ってクロの亡骸を埋めようと、その場所を色々と考えた。
人がよく通るところが良いと聞いた記憶があるから畑に行く途中の道に埋めるのが良いかなぁ・・・・でも道は地面が硬くて自分では掘れないなし、墓標が立てられないからダメか・・・いや待てよ!人がよく通るところが良いというのは確か猫のことだった。
ではどうする・・・と思いあぐねて出した結論は畑の端の方に墓を作ろう・・・であった。
そうすればクロは最後に土に還って行くだろうし、肥料にもなろうと考えて、板切れに「クロの墓」と書き、スコップとクロの亡骸を入れた紙袋を持って畑に行き埋葬したのである。
だが、この後三十二年が経ってから、このクロが何者であったのかを知らされる時が来るのだけれど、この時の潤にはそのようなことなど知る由も無く、ただ悲しい思いだけが暫く続いたのである。



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「酔龍の独り言:その014」

社会保険と厚生年金の続きの話です。
社会保険労務士に変更の手続きを依頼して二ヶ月余りが経った11月の中旬に全国健康保険協会(恐らく省益法人に類する組織と思われる)から、書類と一緒に私と社員(家族を含む)の健康保険証が封書で届きまして、見ると保険証の日付は11月1日となっていた。
 保険証が届いたら、国民健康保険証を持って役所に出向き変更の手続きを行うように言われていたので、区役所の年金保険課で変更の手続きを行いました。
手続きそのものは変更届の用紙に住所と名前に生年月日を書く程度の簡単なものであったが、11月分の国民健康保険料は支払ってもらいますと言うので、それはおかしい社会保険料が今月11月から支払いが生じるので二重払いになるのではないかと聞いたところ、保険料は数期に別けて支払ってもらっているもので、その月での支払いが生じているわけではないから、二重払いではありませんと言う。
しかし、11月分の健康保険料は国民健康保険と社会保険と両方に支払いが生じるわけだから、支払う側に於いては同じ月に国民健康保険料と社会保険料を支払うことになるから明らかに二重払いだとおもうがねぇ、行政は何が何でも国民から少しで多く金を徴収したい意図が見え見えである。
そして帰り際に私は窓口の役人に対して「社会保険庁は国民年金と国民保険を破綻さそうと思っているのかね?」と言ってみたら、苦虫をつぶしたような表情を見せたが返事は無かった。
ただ良かったと思えることは、厚生年金に加入したことで、社員の嫁に対しても厚生年金が自動的に掛けられることである。
尤も今まで支払っていた国民年金と比較すれば3.2倍の年金額を支払わなくてはならなくなりましたから、何と言えばよいのか・・・。

 さて、今年も残すところ一週間になりました。
欧米のみならず日本中に新型コロナウイルスが蔓延して、日本国民は大変窮屈な生活を強いられています。
政府や行政の方針を聞いていると、コロナウイルスは午後8時以降に活躍する「夜行性」で、4人までの会食では感染しないが「5人目から感染するんだね」など意味不明のことばかりを垂れ流して国民を混乱させている。
小さい飲食店の経営者は「店を開けているより、休んだら補助金が貰えるんだから、この方がよっぽどええわ」と嘯いている。
この補助金は国会議員や官僚・役人の給与・賞与を減らして支払われている訳ではなくて、全部国債(国民が負担する借金)で賄われている訳だから、いずれ消費税の税率を上げたり、別な名目の税金を作って国民に対して課税してくることは火を見るより明らかである。
当面が大変なことは飲食店に限らず誰も同じだが、手放しで喜んでいる場合ではなかろう。
国からタダで金を貰おうなど・・・そんな甘いことに浸っている場合ではなく、国や省庁はそんな甘いことが通用する組織ではないことを忘れてしまったのかと言いたい。
まあ飲食店の店主の言い分も判らなくも無いけれど、そもそも店が成り立って来たのは、お客さんあってのことで、店を開けたら補助金が少ないから・・・夜8時まででは大した売り上げにならないから・・・と言うようでは、自分の金儲けの為に店を開いている本性が丸見えである、お客さんに喜んで頂き、その笑顔を見て喜べないようでは事業をやる素質が無いと言いたいし、対価はお客さんの笑顔と共に支払われるもので、自分の方から手を出して、ふんだくるものではない事を肝に銘じよ!。

そもそも、新型コロナウイルスは他のウイルスと同じで自然界に存在しているものである。
そういう意味では、大地震や大型台風と何ら変わりは無い自然の脅威の一つなのだ。
地震も台風もそのものの姿は目に見えず、匂いもしないし、その力も見えないが、結果として被害が見えるから恐ろしい自然の脅威を感じているだけである。
近代になってから殆どの病原菌(細菌)による脅威を克服して来たものだから、人は錯覚しているだけなのである。
ウイルスは細菌の類では無いから殺すことが出来ない代物で、人智を超えたところで存在する自然の一部であるから、大地震や大型台風と何ら変わりは無いと言っているのです。
ウイルスの一部は上手くワクチンの開発がなされて事なきを得たものもありますが、全てと言うわけには行かないのでしょう。
自然の脅威とはそういうもので、人間驕ることなかれですよ。
鳥インフルエンザが一羽でも発生すれば、直ちに数十万羽を殺処分する人間だが、人には感染しないし、食しても別に害は無いと言うのなら、これは恐るべき大量殺戮である。
鳥も生き物人間も生き物(者)であり、人間だけが特別な存在ではなかろうと思うが・・・今の時代にこのような事を言う方が可笑しいかも・・・しかし事実である。
天の声「じゃぁ人間も同じ様にして見るか・・・」が今日の新型コロナウイルスかも知れません。
本来、牛の乳は子牛を育てるためにあるものなのに、根こそぎ人間が奪い「牛乳」「バター」「チーズ」「ヨーグルト」などにして食し、食肉牛や和牛は此の世に生まれ出でた時から殺されて人間に食される定めである。
丑年が来る前に牛に代わって擁護をしておきたく思いますし、以前も言いましたように、どのように考えても新型コロナウイルス感染者の多い年代・国・地域を見れば、チーズ・バター・ヨーグルトを日常的に食している人達が感染しやすい体質なのではなかろうかと思えてならないし、人間の傲慢さに自然が報復しているのではないだろうか。

それにしても、新型コロナのお陰で飲食店・交通・宿泊旅行関連業界は大打撃で、倒産した店や企業も多いと聞く中で株価だけが上がり続けているこの不可解さと不思議さは一体何なのでしょうか?ここも狂っているとしか思えません。
不思議で不可解であっても金が欲しいか・・・やはり人は愚かである。

 取り留めの無い話になってしまいましたが、今年は本当に窮屈さを強いられる年でした。
来年の丑年は長年に渡る牛の恨みを買わないで済むような一年になって欲しいものです。
「双龍物語」の続編も更新しますので、休みの間に目を通して頂けると嬉しく思います。
皆様よきお年をお迎え下さい。  






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「双龍物語:第五章・幼少期の三」

 潤はこのような事情で三年生になる直前の春休みに大畠にある村立神西小学校へ転校した。
転校した時の記憶は曖昧なのだが、小学生の間は漁師町の子供達とも良く一緒に遊んだ。
学校からの帰りには潮が干ていれば海辺沿いの砂浜を歩きながら、大型魚に追われて砂浜に打ち上がっている鰯などを拾ったり、蛸を探したり、潮が満ちていて海岸沿いを帰り道に出来ない日は山道を通ってアケビや棗(なつめ)山桃に加え、食べられる木の実を探しながらの季節に沿った下校は兎に角楽しかった。
ある日のこと、悪ガキの一人が「三田!今日学校から帰ったら山桃を採(盗)りに行かんかぁ、すごいところを見つけたんじゃけぇ」と誘ってきたので二言返事で「おう!行こう。そりゃあ どの辺にあるんか?」と聞けば「口じゃあ説明できんけぇ、お前の家に誘いに行くけえそれでえかろう」「おう、それじゃあそうしよう」ということになって、家に帰ってから植物の茎で作られた買い物籠を探して準備をしていたところへ、数人が誘いに来た。
皆は口々に「そりゃあのう、兎に角凄いんじゃ。赤いのと大きな実の白いのがあってのぉ、採(盗)り切れんくらいあるけえのぉ」と言う。
潤の心もわくわくしてきて、皆に先導されて十数分ほど山道を登っただろうか、両側を松や杉に囲まれた薄暗い細い道を通っていると悪ガキの大将格が「三田!ここじゃけぇ、この木よ!見てみいや凄いじゃろう」と言う。
山道から少し下ったところに大きい山桃の木があり、見たところ確かに大きな白い山桃が溢れんばかりに実をつけていて、少し離れた方にある木には小粒だが真っ赤な山桃が沢山見える。
「お~こりゃあ凄いのぉ。早よ採(盗)ろうやぁ」と口にしながら山桃の木に群がり登り始めた。
早速取った山桃を口に入れてみると香と共に甘くて瑞々しい味覚が口いっぱいに広がり「こりゃあ本当に凄いのぉ、よう見つけたのう」と言いながら、これを家に持って帰れば妹や弟が喜んで食べるだろうし、親もびっくりするに違いないと思いながら皆と一緒に夢中で買い物籠に山桃を採(盗)っては放り込んだ。
それから十五分も経っただろうか、悪ガキ仲間の大将格がいち早く人の気配を察したようで、小声で皆に伝えてきた「誰か来る!じっとしとけ!」の声で皆は木にしがみついて気配を消した。
と思っていたはずなのだが、下から聞き慣れた声で「潤坊落ちるなよ」と言われたので、下を見ると誠と滋子の二人がこちらを見上げているではないか。
思わず「ここうちの山なん?」と聞くと誠が「お~そうじゃ。皆落ちんようにせえよ」と言いながら畑作業に向かって行った。
何と言う不覚であろうか、よりによって「自分のうちの山に山桃を盗みに入ったとは・・・」他の皆はこれで怒られる事はなくなったと安堵したようであったが、潤はあれだけ美味しいと思っていた山桃が急に美味しくなくなってしまい、買い物籠いっぱいに取った山桃を悪ガキどもに分け与え、皆と共に帰った。
終戦後の昭和三十三年頃のこと、甘くて美味しいものなど滅多に口に入ることは無く、山桃の甘味は格別で良い木を見つければ夢中になって取りに行ったものだが、潤はこれ以後この山桃を採りに行くことはなかったが、二十数年後に潤の長男が小学生になった頃、子供に食べさせてやろうと思ってこの山桃を採りに行き食べさせてみたが不評で、潤も食べてみたけれど美味しいとは思えなかった記憶だけが甦ってくる。

この山と田畑は誠が戦時中に祖父に依頼して購入していたもので、田で米を畑で野菜と穀物を作っていたけれど、大所帯の胃袋を満たすほどの収穫は無かったようではあるが、一家の糊口を何とか凌ぐ足しにはなっていたようである。
また果樹や花を育てることが好きであった誠は畑の隅の方で枇杷・柿・無花果・檸檬・葉蜜柑・さくらんぼ・フェイジョアなど当時では珍しい果実も栽培していたし、住まいの直ぐ裏手は鉄道のプラットホームに隣接していて、その端子の方には小さな花壇が設けてあったのだが、手入れがされていなかったようなので、ちゃっかりとそこにダリア・カンナ・向日葵などの花を植えて楽しんでいた。
しかし、花壇の無断使用について何ら国鉄の駅員からの苦情は無く、ある意味汽車の乗客にとっては目の保養と季節の移り変わりを感じる花壇となっていたかもしれません。

 大畠で借家住まいとなった両親は夜になると両親と誠の姉妹が住む家に風呂を使わせて貰いに毎日通っていた頃の話である。
冬の寒い中、風呂で温まった体で家に向かっている途中のこと、家の玄関に近づいた時に足を止め、耳を澄ますと家の中から何かガタガタと音が聞こえてくるので「今家の中で音がしよる!あれは絶対おもちゃがおもちゃ箱に帰って行った音じゃ」と白い吐く息で親に伝えると、誠は「お~そうじゃろうて、潤坊が帰ってきたから遊んじょったおもちゃが急いで隠れたんじゃろう・・・」と話を合わせてくれていたが、聞かされている童話の中の話をそのまま今の自分に重ね合わせるような子供であった。
しかし音の正体は恐らく鼠で、人が近づく気配を感じ取って隠れた時の音であろうと想像する。

これは大学生になった頃に聞かされた話で、誠が言うには「お前が何をしたんかもう忘れたが、お前を氷倉の倉庫の大黒柱に縛り付けたんじゃ、そしたらお前は「出せ~バカたれ!」と泣き叫ぶんで「悪かったと謝れば許してやる!」と何度も言うのに絶対に謝らなかったから、こっちが根負けして氷倉から出したんじゃが、本当にお前は強情な子じゃと思った」と言っていたが、その時のことは記憶に残っていて「あ~それはわしも覚えちょる。じゃがのう、親父も何をしたかを忘れた言うんなら大したことじゃあなかったんじゃろうし、わしも謝らなかったというんだから、自分では悪いこととは思っていないことじゃったんよ」と切り返したら「まあよう解からんが、強情な子じゃと思うたよ」と言っていた。


それから一年後に
子供の頃育った大畠村は海と山に挟まれた細長い地形の村で、大きな川こそ無かったが、潤は魚釣りや虫取りが大好きだった。
大学生になった頃に、何気ない話の中で滋子から「あんたは小学生の頃、学校に行く前に竿を持って波止場で釣をしてから学校に行っていた」と聞かされ、そう言われればそうだったかも・・・と思うのだが、潮が干ていれば、貝を探して掘ったり、蟹(モズクガニ)やウナギを捕ったり、浅瀬の海に潜りサザエや蛸を取り、毎日々夢中になって海で遊んだ。
虫取りも大好きだったから夏場には蝉・トンボ・カブトムシ・クワガタを朝に夜に追い掛け回し、秋になると閻魔コオロギ・キリギリス・すずむし・クツワムシ・ウマオイを探して野畑を這いずリ回していた。
そのような中、とても教育熱心であった誠は子供達に科学図鑑(生物・動物・宇宙・科学など分野別に数冊)と少年少女世界文学全集(全二十巻以上あったと思う)を購入して与えた。
少年少女世界文学全集は就寝前に滋子が子供三人に読み聞かせながら寝かしつけるのが日課となっていたが、今でも記憶に残っているのが「ゼ・ミゼララブル(ああ無情)」で主人公のジャンバルジャンが教会に置いてある銀の燭台を盗み捕まるけれども牧師は盗まれたものでは無く彼に与えたのだ・・・の下りは今も忘れていない。

そして、小学四年生になる少し前の頃だったと思うが、潤にはバイオリンを習わせ、妹の栄子にはピアノを習わせる(絵画の先生について絵も習っていた)など、後から考えると裕福とは言えない中で情操教育にも十分なお金をかけて貰った事に感謝の想いと、とても有難いことであったとの想いが自然に生じてきて愛憎が複雑に交錯した記憶がある。
しかし、当時は遊びたい盛りだから稽古の日が近づくと窮屈な想いと不満ばかりが募っていた思い出でがある(四歳年下である弟の崇にも小学三年生頃から同じ様にバイオリンを習わせていた)。



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「双龍物語:第五章・幼少期の二」

 当時における柳井町の銀天街というのは近郊の町村から買い物客が多く集まる天蓋を持つ商店街で、長さにして500m位はあっただろうか、4m程度の道路の両側に様々な専門店を含む商店が軒を連ねていて、それはとても賑やかな通りであったのに、三十年前頃からではなかったかと記憶しているが、大型量販店の進出などの影響で一軒また一軒と商店が店を閉め始め、長い期間のシャッター街を経て、現在では一軒の建物も無くなり、少し広めの道路と河川公園に姿を変えてしまいました。
自然の原野や草原に戻ったわけではないけれど、あれほど賑わっていた光景を思い起こす度に芭蕉が詠んだ「夏草や、兵どもが夢のあと」の心境と重なってしまう。

 ただ、柳井町に新しい住まいを構えることになったところまではよかったのだが、問題が一つ生じていた。
それは滋子の母親ムメの妹である隆子とその娘が、別れた主人に付きまとわれて困っている状況にあったため、誠は二間の内の四畳半をこの親子の為に住まいとして提供したのである。
誠一家は奥の六畳に親子四人で住み、叔母親子は四畳半に同居するという、狭い中ではあるけれど何ともにぎやかな共同生活が始まった。
この頃滋子は建物を購入した返済のためか生活のためかは定かではないけれど、次男を身籠っているにも拘らず小学校の教諭として再び教壇に立っていた。
潤と栄子の二人は叔母に面倒を見てもらいながら、潤は金座街の奥の少し先にある幼稚園へと通い、園から帰ると柳井川に下りて行って川に入り、ススリン(うなぎの稚魚)を捕ったり、網で鮠(はや)・ハゼを掬ったりしながら、商店街の子供達と一緒に毎日々子供らしく楽しい日々を過ごしていた。
やがて次男「崇」が誕生し、潤も柳井小学校へ通うようになっていた頃には行動範囲も広がって、少し遠くにある用水路ともドブ川ともつかぬような中に入り、足に蛭をいっぱい付けながら小鮒や田螺を捕っては家に持って帰り、小鮒を飼いたいから水槽を買ってくれと誠にせがんだ。
もともと誠はこのようなことが好きであったのだろう、小さいけれどもガラスの水槽を買ってきて潤に与え、潤が水槽に砂を入れ水草を植えて小鮒が泳ぐさまを楽しそうに眺めている姿に目を細めていた。
このように潤は水棲動物が大好きで、誠に釣に連れてゆけとせがみ、夜になると柳井川にいる鰻が穴から出てきて休んでいる姿が見えているので土手から見釣をしたり、夏には川の上流に遡って蛍を捕まえたりと、片腕で何をするにも不自由であったにも拘らず、よく潤の我が儘をきいてくれた。
 これは潤が大学生になった頃に滋子から聞かされた話なのだが、小学一年の時に学校で知能テストがあった。
この時のテストについては、はっきりと記憶に残っている内容があり、それは円の中に迷路が書いてあって、それを入り口から終点まで鉛筆で線を引いてゆくものがあった。
その問題は合計で三問か五問あったような気がしているが、最初の一問目は入り口から線を引きながら終点に向かって鉛筆を這わせていたところ二・三箇所行き止まりに出くわすので、又戻りながら線を引き終点まで辿り着いた時にふとこれは終点から逆に出発点に向かった方が行き止まりに出会うことなく線が引けるのではないかと思った。
次の問題からは、そのようにやってみたところ全く迷うことなく線が引けてゆくではないか。
そのようなことがあって、全部の知能テストを終えたのだが、その日の夜に担任の先生が突然家を訪ねてきて滋子にこう言ったという。
「お宅のお子さんの教育はどのようにされているのですか」と聞かれた滋子は何のことか、さっぱり判らず「それは一体どういうことでしょうか」と問い返したところ「いや、お宅のお子さんの知能テストの結果があまりにも高いので驚きまして、それでどのような教育をされていらっしゃるのかをお伺いしようと思って・・・」と言われたそうだが、滋子は「いえ、特別なことは何もしていません」と答えたという。
仕事から帰ってそのことを聞かされた誠はこの子は先ではどのような子になるのだろうか・・・と期待と不安が生じたと言っていたようだが、結果的には潤の知能の高さは学問には反映せず、別な方向へ向かっていったようである。

 この頃にはまだほんの僅かではあったけれども商店街の中には裕福な店もあって、早々とテレビを購入した家があった。
当時の放送はまだNHKだけだったのではないかと思っていますが、近所の人達も一緒になってテレビのある家に集まり面白い番組だけを見せてもらっていたものです。
その中で時に記憶に残っているのが連続番組で「恐怖のミイラ」というのがあって、面白いのですが、子供の潤にとってはとても怖いものでした。
テレビを見終えての帰り道、商店街の店は全て入り口を閉め、電気が消えた薄暗い中を僅か数十メートルの家路がとても長く感じ、怖かった思い出が残っている。
 柳井小学校での思い出は2年生の終わりまでで、何の理由なのか解からないけれど、誠は柳井の銀天街にある店舗付きの住まいを同居していた義叔母に無償で与えて再び大畠に居を移したのである。
大畠の住まいは祖父母が住んでいる家から百メートルばかり離れた山陽本線上り側の線路沿いにある十五坪ほどの木造平屋で、どうやら遠縁の方の家を借りたようであった。
そして、その隣には祖父・乙次郎が若い頃に製氷業をしていた時の氷倉がそのまま残っていて、それは階高が異常に高く、中から見ると屋根に近い位置に小さな明かり窓が一つだけ設けてある気持ちが悪いほど薄暗い平屋の建物があった。
 何とか病魔から逃れることが出来た潤のその後は、誠が闇市で購入してきた粉ミルクや練乳で母乳の不足を補いながら、すくすくと成長していった。
そして数年後、父親の誠は久賀営業所の所長から課長に昇進し、柳井支店勤務を命じられたので、
取り急ぎ両親と妹五人が住んでいる大畠の家に居を移して同居することにしたのである。
この頃にはもう三歳となっていた潤坊は、同じ村内にあって、お寺が経営している幼稚園(保育園だったかも)に通うことになった。
季節は夏を過ぎ秋になった頃、幼稚園では運動会が催されるが、今と違って当時の小中学校を含む運動会と言えば村内の一大行事で、弁当を作り朝早くから運動場を囲むように筵を敷いて、それぞれの家の陣を構え、爺ちゃん婆ちゃんを始め家族全員が参加するのが一般的で、もうまるで祭りのような騒ぎであった。
運動会が間近に迫った頃、誠は潤坊にと新しいズック(運動靴)を買ってきていた。
真っ白な新しい運動靴で運動会に出してやろうとの親心であるが、日曜日となった運動会当日の朝、新しい靴を出して履かせようとしたところ潤坊は「先生が新しいズックやら運動着を着てきちゃあいけん。いつもと同じものを着て来い言うて言いよったんじゃけぇ、こりゃあいらん」と言って靴を履こうとしなかったと言う。
それでも誠は嫌がる潤坊の足に無理やり新しいズックを履かせて幼稚園へと向かったのである。
半べそとなっていた潤坊は嫌々ながら皆と一緒に運動場に腰を下ろし座ったところ、左右に見える足の靴はいつも通り薄汚れたズックで、自分のズックが真っ白いのに違和感を覚え、心の中で「それみろ!」と自分の言う事を親が聞いてくれなかったことに対しての不満が募った。
運動会の式次が次々と進んで行き、お遊戯が済んで、いよいよ駆けっこの時がやってきた。
しかし、走る順番が来たにも拘らず潤坊は「新しいズックはいけん言うて、先生がそう言うたんじゃけえ走らん」と駄々をこねはじめた。
親と先生が潤坊をなだめるのだけれど頑として受け容れない。
先生は「私が余計な事を言ってしまいましたか・・・」と困惑している中、誠は思い立って自転車に飛び乗り家まで古いズックを取りに戻ったのである。
古いズックに履き替えた潤坊は顔に笑顔が戻り、それは一所懸命走ったそうな。
そのときの記憶はうっすらではあるが残っていて、親は真面目過ぎるのか頑固なのか、やれやれと思ったそうである。
大畠村の大半は漁業と細々とした農業で生計を立てている家庭であったため、先生は余分な出費に対する配慮をしたのだろうと思われるけれども、潤坊にとってはやさしい親の配慮が仇となってしまったようである。

 この頃の滋子は二歳年下で生まれていた次女・栄子と潤坊の世話に掛かり切りの中で、舅・姑・小姑五人との共同生活をする大所帯の中では随分と気を遣いながらの毎日であった為、気持ちの休まるときがないように感じていた。
いくら大きめの家であっても大人七人と学生二人に子供の潤と乳飲み子の栄子を入れて総勢十一人が住むには、やはり窮屈であったのだろう、誠と話し合い、思い切って誠の勤務先のある柳井町へ居を移そうとの結論に至った。
新しい住まいを探していたところ、ちょうど売りに出ていた柳井町の銀天街入り口付近にある店舗付きの住宅(平屋で間口が二間半、奥行きは六間半の面積十六坪余り)を運よく購入することが出来た。
この店舗付き住宅は表に衣料雑貨店が借りて営業しており、店舗の裏に四畳半と一間の土間を挟んでその奥に六畳の畳部屋を持つ建物で、六畳の間は柳井川(満潮時には海水が上がってくる川)に足(石柱)を立てて架けだしした造りとなっているもので、土間からは直接柳井川へ下りて行ける構造になっていた。
ただ便所はあったが風呂が無かったので、親子揃って毎日のように銭湯に通っていた記憶が甦る。
 ただ当時の記憶として鮮明に残っているのが昭和二十九年八月の台風5号(グレイス台風)による恐怖の出来事である。
大量に降った雨で柳井川が増水し、大潮で満潮時期と重なったのであろう家の土間にまで水が上がってきて、川に張り出して造られた六畳の間が今にも浮いて流されそうになったのである。
誠と滋子は子供たちを手前の四畳半の間に避難させて叔母に預け、自分達は膝まで水に浸かりながら六畳の間に置いてある家財道具を運び出そうと懸命に動き回っていた。
濁った水で溢れている土間を行き来する両親を見ながら子供達は家共々両親が川に流されるのではないかの不安と恐怖で「お母ちゃんそっちへ行っちゃあいけん。流されるけぇ!お父ちゃんもこっちへ来んさい!」と泣き叫んでいる内に何とか両親は大事な物だけは運び終えたようで、
全員が四畳半に身を寄せて暫くした頃に土間の水が引き始めたのを見て安心した思い出がある。



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「双龍物語:第五章・幼少期」

 何とか病魔から逃れることが出来た潤のその後は、誠が闇市で購入してきた粉ミルクや練乳で母乳の不足を補いながら、すくすくと成長していった。
そして数年後、父親の誠は久賀営業所の所長から課長に昇進し、柳井支店勤務を命じられたので、
取り急ぎ両親と妹五人が住んでいる大畠の家に居を移して同居することにしたのである。
この頃にはもう三歳となっていた潤坊は、同じ村内にあって、お寺が経営している幼稚園(保育園だったかも)に通うことになった。
季節は夏を過ぎ秋になった頃、幼稚園では運動会が催されるが、今と違って当時の小中学校を含む運動会と言えば村内の一大行事で、弁当を作り朝早くから運動場を囲むように筵を敷いて、それぞれの家の陣を構え、爺ちゃん婆ちゃんを始め家族全員が参加するのが一般的で、もうまるで祭りのような騒ぎであった。
運動会が間近に迫った頃、誠は潤坊にと新しいズック(運動靴)を買ってきていた。
真っ白な新しい運動靴で運動会に出してやろうとの親心であるが、日曜日となった運動会当日の朝、新しい靴を出して履かせようとしたところ潤坊は「先生が新しいズックやら運動着を着てきちゃあいけん。いつもと同じものを着て来い言うて言いよったんじゃけぇ、こりゃあいらん」と言って靴を履こうとしなかったと言う。
それでも誠は嫌がる潤坊の足に無理やり新しいズックを履かせて幼稚園へと向かったのである。
半べそとなっていた潤坊は嫌々ながら皆と一緒に運動場に腰を下ろし座ったところ、左右に見える足の靴はいつも通り薄汚れたズックで、自分のズックが真っ白いのに違和感を覚え、心の中で「それみろ!」と自分の言う事を親が聞いてくれなかったことに対しての不満が募った。
運動会の式次が次々と進んで行き、お遊戯が済んで、いよいよ駆けっこの時がやってきた。
しかし、走る順番が来たにも拘らず潤坊は「新しいズックはいけん言うて、先生がそう言うたんじゃけえ走らん」と駄々をこねはじめた。
親と先生が潤坊をなだめるのだけれど頑として受け容れない。
先生は「私が余計な事を言ってしまいましたか・・・」と困惑している中、誠は思い立って自転車に飛び乗り家まで古いズックを取りに戻ったのである。
古いズックに履き替えた潤坊は顔に笑顔が戻り、それは一所懸命走ったそうな。
そのときの記憶はうっすらではあるが残っていて、親は真面目過ぎるのか頑固なのか、やれやれと思ったそうである。
大畠村の大半は漁業と細々とした農業で生計を立てている家庭であったため、先生は余分な出費に対する配慮をしたのだろうと思われるけれども、潤坊にとってはやさしい親の配慮が仇となってしまったようである。

 この頃の滋子は二歳年下で生まれていた次女・栄子と潤坊の世話に掛かり切りの中で、舅・姑・小姑五人との共同生活をする大所帯の中では随分と気を遣いながらの毎日であった為、気持ちの休まるときがないように感じていた。
いくら大きめの家であっても大人七人と学生二人に子供の潤と乳飲み子の栄子を入れて総勢十一人が住むには、やはり窮屈であったのだろう、誠と話し合い、思い切って誠の勤務先のある柳井町へ居を移そうとの結論に至った。
新しい住まいを探していたところ、ちょうど売りに出ていた柳井町の銀天街入り口付近にある店舗付きの住宅(平屋で間口が二間半、奥行きは六間半の面積十六坪余り)を運よく購入することが出来た。
この店舗付き住宅は表に衣料雑貨店が借りて営業しており、店舗の裏に四畳半と一間の土間を挟んでその奥に六畳の畳部屋を持つ建物で、六畳の間は柳井川(満潮時には海水が上がってくる川)に足(石柱)を立てて架けだしした造りとなっているもので、土間からは直接柳井川へ下りて行ける構造になっていた。
ただ便所はあったが風呂が無かったので、親子揃って毎日のように銭湯に通っていた記憶が甦る。
 ただ当時の記憶として鮮明に残っているのが昭和二十九年八月の台風5号(グレイス台風)による恐怖の出来事である。
大量に降った雨で柳井川が増水し、大潮で満潮時期と重なったのであろう家の土間にまで水が上がってきて、川に張り出して造られた六畳の間が今にも浮いて流されそうになったのである。
誠と滋子は子供たちを手前の四畳半の間に避難させて叔母に預け、自分達は膝まで水に浸かりながら六畳の間に置いてある家財道具を運び出そうと懸命に動き回っていた。
濁った水で溢れている土間を行き来する両親を見ながら子供達は家共々両親が川に流されるのではないかの不安と恐怖で「お母ちゃんそっちへ行っちゃあいけん。流されるけぇ!お父ちゃんもこっちへ来んさい!」と泣き叫んでいる内に何とか両親は大事な物だけは運び終えたようで、
全員が四畳半に身を寄せて暫くした頃に土間の水が引き始めたのを見て安心した思い出がある。




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「酔龍の独り言:その013」

 今回は社会保険と厚生年金の話をします。
私は31歳の時に当てもなく勝算もないまま無鉄砲にも建築設計事務所を開業してしまい、一筋縄では行かぬ多くの経験を積み重ねながら今年で創業40年を迎えました。
開業当時は一人ですから、これまで勤務先で掛けて貰っていた社会保険を国民保険と国民年金に切り替えました。
開業して数年が経った頃には業績も段々と上向いてきて、社員が一人増え又一人増え、経営的に安定してきた頃に税理士からの勧めがあって開業四年目で法人化に踏み切りました。
ここから先は勤め人(サラリーマン・役人)などの方には全く判らない内容になると思われますが、このような話を聞くのも勉強の内と思って読んでみて下さい。

 法人化にしたのは税理士による勧めであって、私の方から望んで行った訳ではありません(法人には株式会社・有限会社・合資会社・など他にも多くの法人格があります)。
当時税理士から「この位の売り上高になると法人にした方が良い」と言われ、大学を卒業して十年間勤め人をしてきた私にとって税法など詳しい内容など判るわけもないものだから、(無知な事を自慢しても仕方の無いことですが、税理士の善意による勧めだと思って)勧められるまま事業を法人化(株式会社)しました。
後に法人化したのが良かったのか悪かったのか・・・については諸刃の剣と同じで良い面と悪い面が表面化してきて、法人にするとこういうことになるのか・・・と言うことが徐々に解かってきました。
法人化するとごく簡単ではありますが絶対条件となるようなものを以下に記します。
1:確定申告の内容が余りにも煩雑なので、税理士又は公認会計士に依頼しなければ決算申告が難しい(税務署に23年勤めれば税理士試験が免除され自動的に税理士資格が取得できて税理士事務所を開設できるから、天下りが出来ない税務署員の退職後の救済が目的?)。
2:利益の如何に拘らず、法人市民税・県民税を支払わなければならない。
  資本金の額によって納税額は変るけれども、つまり会社が赤字であっても支払わなければならない税の負担が生じる。
3:これまで個人事業として購入していた什器備品・電話債券(現在はありませんが)など贈与税なしで法人へ贈与できる(買い取らせることも出来るが、個人所得になる)。
4:社員が一人もいなくても社会保険の加入が義務付けられている(現行法)。
  社長一人の会社でも社会保険に加入させられるのである。
個人事業主との違いを下記に記します。
1:個人事業主は確定申告を青色・白色申告で行える(比較的申告内容が簡単であるから個人で申告が可能)。
2:交際費額の枠が無い(無制限とは言えないにしても制限を受けない)。
  法人であれば年間400万円を超えた分については経費と認められず、課税される。
3:雇用者の人数が5名を超えなければ社会保険の加入の義務付けは無い。
4:法人ではないから法人市県民税を課せられることは無い。

以上簡単に個人事業主と法人との比較を記述して見ましたが、ここで問題になるのが社会保険に関しての事柄です。

 私が事業を法人化した頃のことから始めます。
当時の健康保険は国民保険による診療費の負担は3割で、社会保険の負担は1割であった。
個人事業では社会保険の加入が認められておらず、法人にしたので社員の医療費負担を軽減したいとの思いから社会保険の加入を申し出てみたが、社員が5名以上いなければ加入が認められないとのことで断念した経緯がある。
その後社員が5名以上になったのを機に社会保険に切り替えて十数年間続けていた。
その辺りの事を詳しく述べようとすると膨大な文となるので、別掲載「双龍物語」を読み続けていただければこの辺りの事がいずれ解かって頂けると思いますが、今回はそのような事柄ではなくて、社会保険に関してなので、先に続けます。
 
 そうしているうちに社会保険庁は国民が積み立てていた年金保険料を流用して全国各地に十数か所のグリーンピア(社会保険加入者のため?との謳い文句の福利厚生宿泊施設)を建設して、その結果、加入者が積み立てていた2千億円もの年金を消滅させた。
これに加え公的年金流用の不祥事も起こした経緯があるけれども、これらを主導した官僚を含め政治家全員の内、ただの一人も消滅させた2千億円の補償補填などしてはいない。
法律で決めてやったことだから自分達に非はない、仕方のなかったことの一点張りで頬被りを決め込んだ(感謝の気持ちや相手に喜んで貰う意識がない者達が事業を行っても上手く行くわけなど無かろうと思うが、上級国民と言われる者達の思い上がりが招いた結果で、当然の結果と言えばそれまでですけどね)。
国民は法で決められているからと、義務を果たして年金を支払い続けてきたにも拘らず、当時の官僚はその責任も取らず、高額な退職金を手にして省益法人へと天下り高額給与を貪り、退職後は特別な厚遇処置が施されている役人専用年金を受け取りながら暮らしていることだろう。
このように自分達にとって都合の良い法律を作っては何かを行おうとするのだけれど、必ず失敗してそのツケを国民に負担させる手法を取ることばかりが続いている日本の社会に対して、いつかは是正させなければならないと感じていることの一つである。
 私は不平不満を言っているのではなく、国民の福利厚生を目的として働き活動しているはずの官僚が、やって良いことと悪いことの区別すらつかないのでは日本の将来は真っ暗であるし、このようなことの良し悪しは子供でも判りそうな事柄であるにも拘らずやるのだから、官僚の性根の賎しさには辟易するが、性根の賎しさを治す薬も治療法も無いのだから、もう官僚=新型コロナウイルス役人と呼び名を変えては如何だろうか。

 話が少し横道に逸れましたので元に戻します。
その後、ある事情で社員には辞めてもらうことになったのだけれど、その時に社会保険庁は社員が5名以下となったので社会保険の加入を止めるようにと言ってきた。
それで、私は又国民保険と国民年金に切り替えて事業を継続して今日まで二十数年が経っているところへ年金事務所の委託先だと言うところから電話が掛かってきた。
電話の内容は社会保険に加入しろ!である。
そして「加入しなければ5年間遡って保険料を徴収する」と脅してきたので、私のことだから「やれるものならやってみろ!好きなようにやってみたら良かろう」と言って電話を切ってやった。
まあ、数年前に税理士事務所から「社会保険加入要請の電話が他の会社に掛かってきているけれどまだありませんか」の問い合わせを聞いていたので、その内容も把握していた。
税理士が言うには皆さん「5年間遡って保険料を徴収する」の脅し文句に負けて、嫌々ながらしぶしぶ加入しているのが実情ですと聞いていたので、やっと掛かってきたかの感ではあったが、少々腹の虫が治まらず、当社の社会保険労務士に電話をかけて聞いてみた。

社会保険庁が今までやってきた不始末や消えた年金のこと・都合よく法律を変えて結果的には国民に負担の多くを押し付けている現状を話して「裁判して勝つ見込みはありますか?多少の額なら社会性があるのでやってみたい」と言えば「いやぁ法律で決まっていることですからねぇ法律の論争になるので時間と費用が莫大となり、とても個人で出来るような範疇ではありません」と答えが帰ってきた。
「でも日本全国には同じ様な想いをしている中小零細企業の社長が多くいるのではないかと思うので、週刊誌を巻き込み記事にしてもらっても争えないかなぁ」と言っても空しい返事だけが返ってきたので諦めました。
そこで、こいつらに言われて社会保険に加入するのは何とも癪に障るから、社会保険労務士に依頼して変更の手続きを準備してもらうことにした。

話が前後するけれど、これまでは共に仕事の協力をしてくれている社員には国民保険と国民年金に加入してもらって、社員が支払う支払額の半分は会社の負担として年金と健康保険を支払いながら経営をしてきていたのである。
ところが、調べたわけではないので想像だが十年前位だろうか、法律が変更されて法人は現在社員が一人もいなくても社会保険の加入が義務付けられていているそうである。
社会保険労務士には次のようにも聞いてみた。
1・現在医療費の負担は国民保険も社会保険も同じ3割負担となっているから、保険料の負担多くなる分社員の生活を圧迫するようになるので社員も喜ばないし、伴って会社の負担分も多くなるから経営的にも余分な経費が必要となる。
  喜ぶのは厚労省の年金課だけで、福祉の相手先であるはずの国民は困るだけをどのように考えるか。
  「これに対する回答は:法律で決められているから」であった。
  しかし昔と違って医療費の負担額が同じになったのなら保険料は安いほうが良いのは当たり前である。
2・個人事業主は5人以上の雇用者がいれば社会保険加入の義務付けがあるが、それ以下だと強制力が働かないのは何故か?
  「これに対する回答は:法人は資本金があるからだと言っている」であった。
  資本金と言っても今では資本金が1円の株式会社も認められており、この額で資本金があるから???頭が可笑しくなりそうである。
  と言うことは会社設立時に関する流れも仕組みも理解できてないようなので、数千億円の資本金がある会社と1円の資本金の会社を同列で扱ってしまうほどの世間知らずなのかと言いたいが、いやそれよりこれはもう官僚と役人は無知に近い。
  社員数人の法人と同じ規模の個人事業との差が「資本金があるから」ではこじつけも甚だしいし、何が何でも金をむしり取れ!の姿勢だけはハッキリと見て取れる。
  しかし、実はこれらの事を知っていた上でやっているとしたら明らかな「国民虐め」である。
  学校での子供の「虐め」は許さないが、大人となった国民は「虐めても」許されるのかぁ。
  子供も学生も大人も同じ日本国民ですけど・・・。

厚生年金・医療保険については、まだまだ言いたいことが多くありますが、紙面数が多く
なりますから今回はこれでおきます。
最後に付け加えますが、当社も社員には大企業と同じく「労働災害保険・失業保険」を掛
けています(社長は失業保険には加入できませんけどね)。




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