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建築家 潤 の『独断と偏見』

「酔龍の独り言:その012」

 安部総理が辞任して、三人の自民党総裁の候補者がいたけれど、選挙の結果、菅氏に決まり、新しい総理として今日(9月15日)にも菅氏が就任することのようである。
さて、では菅氏が総理になって何かが変わり、少しでも良き方向へ向かうのであれば大歓迎であるが、全く期待は出来ないだろうと思っている。
何より総裁選挙前には「消費税上げ」に言及して報道者達から突き上げられて直ぐに「言い訳」をした経緯があるからねぇ。
しかし、本音のところでは「消費税上げ」に関しては間違いなく腹の中にあると思われる。
そうでなければ新型コロナで景気が低迷しているこのような時世の中で「消費税上げ」など決して口にするはずがない。
しかし、もしそれを承知で口にしたのであれば、全く国民の想いや現在の重税に対しての意識がないという事の表われであろう。
こと日本の政府に関して言えば、これまで財政が窮屈になれば直ぐに「収入(税)を上げようとする」手法以外に採ってきた政策を聞いたことが無い。
もう一つの考え方である「経費の削減」を本気でやった総理を昭和以降今までに知らない。
官僚が省益のためにと、社会で何か事件や事柄が起こるたびに「法改正」を行って「天下り先(公益法人などと称しているが実体は省益法人である)」を作って出来の悪い我が身内や親族の就職先とし、上司や先輩方の定年後の安定収入の確保に奔走する組織に対して野放しで、国民の方へ税負担を押し付ける。
政府や国会議員は今の公益法人と称しているところが本当に公益だと思っているのだろうか・・・そうであれば全くの世間知らず無知であり、知っていて放置しているのなら全くの無能であろう。
口では「広く国民の意見を聞き、ご理解を得た上で・・・」などと言うけれど、70年生きてきた私は今まで意見を聞かれたことなど一度もないし、恐らく聞かれた国民は皆無であろう。
また理解を求められた国民も皆無であろうと思われるから、これは詭弁であり、騙しであるにも拘らず、一向にこういった表現を使いながら国民の首を絞めている政府(国会議員が構成している)に不満を持ちながらも、また同じ様な国会議員を選挙で当選させている私達にも大きな罪と責任があるのだけれど、如何ともし難い現実に腹が立つ。

ある女性曰く「菅さん石破さん岸田さんの中で一番顔が良いのは岸田さんでしょう。外国に行った時などを考えると岸田さんが良いんじゃないかなぁ」
ある男性曰く「だからいつも言っているように、女は好き嫌いと感情で物事を判断するから、ちっとも世の中が良くならないと言っているだろう」
このように本能が優先する自然的生き物に選挙権を与えたものだからどうにもならない社会が出来上がってしまった。尤もそれはGHQ(戦後の米国進駐軍)のマッカーサーが唱えたWGIP(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム:日本を如何にしてダメな国するか作戦)が功を奏し、当時の話によると「なに、日本の女に自由と平等と選挙権を与えたら30年も経てば日本はダメな国になる」とマッカーサーが言っていたというのだから、正しくその通りとなってしまい、取り返しがつかないほどに日本が堕落してしまったことは事実である。

と切り返したら「でも石破さんの目つき怖くない!普通の人の目つきじゃないよ」と言うので「確かに目つきは悪いし顔も良いとは言えないが、口にしていることは三人の中では一番まともで良い内容だと思えるがねぇ」
「でもやはり外国に行ってあまりにも顔が悪いと・・・」と言うのでこの話の先を続けても意味を成さなくなると判断したある人は話題を変えたようであるが、では米国のトランプと中国の習の顔は良いのか?と問われれば何と答えたのかなぁとの疑問が残ったのだが、そんなことどうでもよいことですから、敢て聞くほどのことでもあるまい。
顔の良し悪しで外交や内政の良し悪しが決まるわけではないし、国の代表とは世界の平和・国益・国民の安全・国民を良き方向へ導くこと等であり、顔の良し悪しで出来る内容ではない。
往々にして女性が錯覚して陥り易い部分であるが、当の本人にその自覚が無いのは残念なことである。
顔の良し悪しは「形態」であり、考えている内容は「質」であるから、いつも言っているように「形態に惑わされず、質を見極めて対処する」が出来なければ、良き国造りは出来ないだろう。
「形態」は「形態」の良し悪しで捉え「質」は「質」の良し悪しで捉えて、飽くまでも「質」を基本軸に置いて物事には対処すべきであろうと考えているけれど、これは女性が最も苦手とする分野であろう。

 さて、新型コロナに関して引き続き言わせてもらえれば、今まで飲食店の営業時間は大阪が20時で東京が22時までの要請をしていたけれど、今後は時間帯を緩める方針であると、十日ばかり前だっただろうか、そのような報道を聞いた。
これまでに夜間営業の時間を制限する方針を行政が出した時に不思議に思ったことがある。
それは、新型コロナウイルスは「夜行性」なのか?と言う疑問である。
夜間営業しているホストクラブやカラオケ店での感染が目立って多く発生したことによるせいだと考えることを否定するつもりはないけれど、ウイルスは生命体ではないから「昼行性」も「夜行性」もなく、24時間365日感染する危険性を持っているものだと認識すれば、夜の営業時間帯を制限すれば感染が治まるのかと言われれば否であろう。
少し感染拡大に減少傾向が見られるからと言って夜間の営業時間自粛を緩めることは明らかに医学会が最も嫌う「対処療法」と同じで根本的な対策にはなっていない。
新型コロナウイルスは自然界が産んだ産物(人為的な遺伝子操作が行われた形跡もあるようだと言われているが真偽のほどは定かではない)の内の一つであり、この他にも此の世には多くのウイルスが存在している。
ただこれまでに人間の英知でワクチンを作って克服してきたウイルスも多くあるけれど、この新型コロナウイルスは中々手強い相手だという以外に表現のしようが無い。
自然界で発生する台風や地震などと同じで小中規模程度のものでは科学と化学の力で克服できるようにはなったけれど、超大型台風や巨大地震に至っては人の英知は及ばず、ただただ過ぎ去るのを待つ以外に方法は無い。
ワクチンの開発が急がれているようであるが、各国共に手こずっていて“これだ"というものが中々出来てこないほど厄介な相手のようです。
尤もワクチン自体は人為的に作られるものだから人体にとっては異物である。
異物が人体に入り込めば体が拒否反応を示し、その病気に罹った方が良かったと言うほどの副作用に見舞われて辛い思いをする人がこれまでにも多く出ている現状をも見過ごしてはならないことを念頭に於いて、一人ひとりが自己の信念に基づいて、どのように対処するかを考える以外に方法は無かろうと思う。

そのために小中学校で最低ではあるが文字と自然科学を習得し、その知識で持ってこれ以上の知識と見識を積み重ね学んで行きながら自己能力を向上させて行くことが人生を歩むということでなくてはならないはずだと思っているのに、ある府知事がコロナ対策では、うがい薬が有効であるなどと口にすると店頭からうがい薬が消えてしまう。
コロナ対策ではマスクが有効であると言われればマスクを買い占める。
アルコールでの消毒が・・・と言うと何処の店頭にもアルコール消毒薬が設置され、手を消毒しなければ店内に入れないとまで強制しているところがある始末だし、店頭からアルコールタオルが姿を消しているのが今の日本である。
ウイルスの大きさは確か10万分の1mm単位の大きさだからマスクでは感染の予防に大して役に立たないこと位は誰でも判るはずだ。
新型コロナウイルス感染に対して全く防ぐ効果なしを0として完全に防げる効果を100とすればマスクの効果は恐らく5以下ではなかろうか。
アルコール消毒に関しては虚弱な大腸菌やカビ筋なら死滅させること出来るかも知れないが、新型コロナウイルス感染に対しての効果は恐らく1以下だろうと思う。
アルコールが新型コロナウイルスの外殻をある程度弱体化させるらしい?と言うことからアルコール消毒が広がったようであるが、効果が期待できることは殆どあるまい。
医師などはこれらの事を理解しているにもかかわらず、やらないよりはやったほうが・・・
程度の意識であると思えるが、別段反論などしない。
その理由の「本質」は何でしょうかねぇ?それとも本気で感染が予防できると思っている・・・?いやぁ幾らなんでもそれは無かろう。
一時期的ではあったがマスクが店頭から無くなり、アルコールタオルが店頭から消えて半年以上が経つし、よく考えもしないで店先のアルコールで手を消毒している姿を見ると何ともやりきれない気持ちになる。
はっきりとせず、大した根拠も無い事柄でも行政が言うと直ぐ飛びつく姿を見ていると、自分自身で基本的な知識の積み上げと組み立てが出来なくなっているから、結局著名人や行政に振り回されてしまう。
日本人ってこんなに節操が無く愚かだったのか・・・いや、なったのかと溜め息が出る。



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「双龍物語:第四章その2」

 そして「滋子」は「長男(潤)」が生まれる数日前から「養育禄」なるものを書き始めていた。

            序 潤ちゃんへ

 自分の生まれた時からの事を大きくなって知る事ができたらどんなに楽しくもあり有意義なことでせう。
本當につたない文で恥ずかしいのですけど此の世に尊い生を受けてからの事を真実そのままにあなたの為に書きしるしたいと思ふのです。
昭和廿四年の一二月二十四日の明け方六時 一番鳥の鳴く勇ましい声を聞きながらあなたは神様の御恵みによって安らかに此の世に の声をあげたのです。(空白部は原文のまま)
         出生地 山口縣大島郡久賀町伺津原
 お父様が日通にお勤めの為 久賀に借家住ひをしてゐました。それは前記の所なのですよ。
そして、あなたには明子(はるこ)といふ一つ年上のお姉ちゃんがありましたの、でも生まれて四日目にすぐ他界してしまいひました。お父さまもお母さまも明子姉ちゃんが亡くなったので早く代わりにあなたが生まれてくるのを待ってゐました。
生まれる時には柳井のお祖母ちゃまがお手傳ひに来て下さっていましたよ。それからすぐ大畠のお祖母ちゃまがお手傳ひなさって下さいました。
お父様はあなたの為に三代様からお名前をいたゞいて下さいました。
そのときのお名前が潤ちゃんなのですよ 若しか女でしたら榮子といたゞいてゐいたのですよ(短冊)。
三代様といふのはね、お父さま、お母さまが日頃信仰させていたゞいてゐる神様(大本愛善苑)のお道の方です。
この方については大きくなってあなたが信仰する様になったらよくわかってくることでせう。
別紙のお名前はあなたの名つけの日 廿八日にお父さまの書いて下さったものなのです。

              「養育禄」

昭和二四年一二月二十二日
 今日があなたの出生日の予定だったのです。お母さんは予定日の近づくにしたがって今日か々と心の中で言い知れない喜びとかすかな不安にて満たされてゐました。御手傳ひの人がないので二十日から柳井のお祖母ちゃんが来て下さってゐました。
予定日も何の兆もありませんでしたが、大部お母さんの体はきつくなって何れ近い内だと思ってゐました。動くほどお産がらくだと云われてゐましたので お母さんは体の調子がよい限り動きました。
今日は予定日でもあるし、あなたの安産を祈って氏神様にお詣りしてお祈りを捧げ お陰をいただいて来ました。

二十四日
 二十三日の夕方から腰のいたみが大部ひどい様でした。お父さんが会社から夕方七時頃おかへりになり お食事をすませた後会社が忙しいため又お出かけになりなり十二時過ぎにおかへりになりました。お祖母ちゃんと三人がつづいてお風ろに入りました お母さんはどうも今日は様子がおかしいと感じがしてゐました。神様の礼拝をすませて就寝しました。
 割合ひに暖かい日で晝間(昼間)の疲れにすぐぐっすり休みましたが 二時過ぎに目がさめてどうも様子がちがふので お祖母さんお父さんに起きていただいて用意をしていただきました。
外は雨が降ってゐましたが 産婆さん(鶴田キチ子)はお父さん達の後二分もたゝぬ間にかけつけて下さいました。お母さんはも一度神言を奏上させていただいて安産をおねがひしました。
その時・5時頃でしたが 何もかも調子よく六時には降っていた雨も上がり空もしらゞと明けて一番鳥の鳴く声と共に勢いよく、産声をあげたのです。
お母さんは只、ぶじかしらとそればかりお祈りしてゐました。やがて産婆さんが男の子であることを知らせて下さり ぶじである事を喜びました。
ちょうど満潮の始めです。お父さん始め皆はあなたの出生を大へんよろこび そのよろこびは言葉につくされず胸一ぱいでした。小ちゃな赤い顔のあなたはやがてお母さんの側にねかせられました 只々、すこやかに発育してくれる様にと願うのでした。
神様に御礼の礼拝をいたしました。
暮れの迫った日に生まれたのでお手傳ひの人がなか々ご苦勞でした。
それから毎日あなたは鶴田さんに産湯をつかはせていたゞいたのです。
大へんに丈夫ですよ、と喜んで下さいました。身長は普通寸より二寸も高いと御言いました。
目方はね、七八〇匁でした。
大へん可愛い顔だちだと云って皆ほめて下さったのよ。あなたの出生を知って数人の人がお見舞いに見えました。又澤山の産着をいただきましたよ。日に々とあなたは調子よく育ってゆきます。

二十九日
 年の暮れで皆忙しいので小沢ミドリ(愛善苑 信者)叔母さんが 柳井から手傳ひして下さったのですよ。又浜田先生(愛善苑 柳井主任)があなたの為にお取次ぎをなさって神様の御恵み多き事を祈られました。いよ々お正月も迫って来て あなたもお母さんもね正月ですよ。

二十八日
 前後しましたが二十八日はあなた名つけの日です。三代様からいたゞいたお短冊のお名前にある通り潤(じゅん)とつけていたゞきました。
神様からいたゞいたお名前です。どうかその御恵みに御礼申して下さい。鶴田さんの家でお祝いに よろ〝こんぶ〟をいたゞきましたよ。

一月一日
 お正月ですね 潤坊と母ちゃんは、ね正月でした。お手傳ひがなか々むつかしいのでね、お晝前(昼前)に柳井のお祖母ちゃまが又来て下さいました。

五日
 産婆さんに今日まで産湯をつかはせていたゞきましたのよ。
大へんに親切な頭のよい方でした。自分を取りあげて下さった産婆さんは あなたの出生に際して又大へんお世話になったんですね。

一月十日
 お父さんは会社が忙しい為殆ど家に居られませんでした。年末年始の御つき合ひも、しばらくしてひまとなりました。そしてゆっくりとあなたを見守って下さいました。お母さんも次第に日立ちがよく、今日頃から起きることにしました。寒い時でしたのでお手傳ひの人も大へんでした。お母さんはあなたの汚れたおむつを洗うのにも云いしれない嬉しさ、とほこりを覺えるのでした。何卆か健やかに成人して下さい。

一月十五日
 日に々太ってゆくあなたの様子にお父様もお母さんも只よろこんでをりました。お顔も生まれた時とは大へんに変わってきました。生まれた時はお母さんによく似てをった想です。今まで気づかない事でしたが あなたはお顔も大へんよく調ってよい子ですのに お耳が一寸両方がそろひませんでした。誰でも両方揃ってゐないのですが あまりひど過ぎるのです。お耳ですから気をつけて見なければわからない事ですが 一寸気になりました。
産婆さんも外入(とのにゅう・大島の南の方に位置する地名)の叔父、叔母(滋子の姉)さん達も大した事ではないですよ、心配は入りませんと御言って下さいました。お母さんはその時始めて、あなたの幸福を自分の体で代わることが出来るならどんなにでもしてあげたいと思ひました。早速にとりかえへられるものなら型のよいお母さんの耳ととりかへてやるのにと思ふのでした。別に気にして悩む程の事でもないのですが やはりお母さんは人の顔を見ると一番先に耳が目につくのでした。いろ々と見ましたが皆種々様々でずい分ちがった人もありました。あなたのは小さい気づかいでなければ別にわからないのです。
神様の教えにある様に現実は現実ですから それを悔いては発展がありません。大きくなるにしたがって少しでも型がよくなりますように神様お守り下さいませ。ついでにお揃いしてよかったらよいでしたのにやっぱりお母さんの心はいたみました。あなたにお乳を含ませる毎に神様の祝福あらん事をお祈りするのでした。
型が悪いからと云って気にしないで下さい。お母さんは只それがあなたへのおねがひであり、お詫びなのです。別に悪い事したわけでもありません。神惟のまゝに出来た事です。何卆か何物をも恨まず気にかけぬ子になって下さい。
人間は型ばかりで人格が決まるものではありませんからね。あなたのお父さんは日米戦争の為  
にフイリッピンで負傷され片腕を殆ど切断されました。片のつけねから十糎ばかりのこってゐるだけで役に立ちません 用を達せられるのに御不自由で本當に気の毒です。それでもよい心の人ですから毎日を楽しく有意義に過ごされます。あなたも大きくなったら神様の御恵みを享けられます様御信仰して下さい。

二月二日
 まだゝ寒いので床の中で安らかに眠ってゐます。
七日目に始めて涙を流して泣いていましたよ。

二月二十日
 どうやらお目めが見える様でした。鶴田さんがいらっしゃって あなたの成長をよろこんで下さりました。あなたはお目めが見えるのか笑ってあいそをしてゐました。可愛い顔でしたよ。

三月一日 初詣で
 日ざしも一日々と のどかになって参ります。今日は大畠のお祖母さんにおぶさって氏神様にお詣りして あなたの健やかに成長せられん様お願ひしました。これは本當を申しますと三十三日に氏神様にお詣りするのが本當なのですが あなたはちょうど寒い時生まれたので今日までのばしてゐたのですよ。
 お詣りの行きしも帰へりしも よくねんねしてゐました。

三月三日
 今日はあなたの初旅でした。
大畠へ帰へると、おぢいさんが大へん大きくなったのによろこばれました。あなたは笑って おあいそしてゐました。澤山のお姉ちゃん達にだっこしてもらって笑ってゐました。お母さんは初めておんぶするのであなたの鼻がつまりはしないかと心配でしたよ。
三日・四日・五日、と柳井の土井さんのお宅で愛善講話があったのをおききしに行きました。
柳井のおばあちゃんも小沢さんも大きくなったのにびっくりしていらっしゃいました。

三月八日
 久賀へ帰る。少し風邪を引いていた様です。
 夜中にあなたは一人が起きて大きな声を出して笑ってるものですからお父ちゃんがびっくりして起きられました。そして〝何だ 潤坊か 何かと思ったよ〟といって又やすまれました。
 あなたはほんとうに可愛い子ですよ。誰も居ないのにあなたが一人目をさまして あ・・・・・
 や・・・とひとり言を云っていると お母さんはうれしいやら お利口してゐかるのに かわいそうな程でした。此の頃はおめがよく見え、ひとり言がしゃべれて面白くなりましたよ。
 お父ちゃんが おもちゃを買って来て下さいました。
 がら々と廻る ねてみるおもちゃですね。あなたは鈴が鳴る音につれて一生けんめいに眺めていました。

三月二十日
 お母さんが虫下し飲んで腸をこはしてしまった為 あなたに牛乳を飲んでもらひましたが その後がどうもよいお便所でないのですよ。
 奇応丸といふお薬をお父さんが買ってきて下さったので ずっと飲んでいますよ。腸はなか々よくならないですね。

三月二十七日
 発育が目立たぬ様になったと思いますよ 時期ですか、腸が調子悪いためですか、早く良くなるようにお薬をあげてゐます。
 明日は げんのしょうこ を少し飲んでみませう。

四月二日
 今日は貴方の百日でした。神様にお礼の礼拝をし、あなたの幸福をおねがひ致しました。
 腸が悪かって一寸 太り目が見えませんでしたが 大部よくなって参りましたよ。



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「双龍物語:第四章その1」

  「第四章・長男の誕生」

 
日本通運 株式会社 周防大島久賀営業所の所長に抜擢された「誠」は「滋子」と共に住まいを周防大島久賀町に移して新しい生活を始めることになった。
この久賀町は南に小高い山と北に面した瀬戸内海に鋏まれた風光明媚なところで田舎にしてはとても活気があり、町内の方の人柄も良く、とても住みやすく感じた二人は直ぐに近所の方達と親しくなって暫くは平穏な日々が続いた。
「誠」の仕事は順調で「滋子」はこの時点で既に二人目を懐妊していたから二人は幸せを噛み締めていた時期であろうと想像できるが、季節が秋に差し掛かった頃、不運にも「滋子」は高熱を伴う風邪の症状に見舞われたのである。
最初は風邪だと思っていたようだが、一向に熱が下がらず症状の改善が見られないことから医師はインフルエンザと判定し「今の状況は母子共に危険な状態であり、このままの病状がこれから先も続くようであれば、覚悟はしておいた方がよい」と告げられた「誠」には、なす術がなく、ひたすら神棚の前に座り祝詞を唱えながら「滋子」の回復を祈り続けた。

「滋子」の腹の中にいる子は「聖師・王仁三郎」が特別に仕組んだ曰く因縁のある子供で、この子がこの世に出てきては都合が悪いと考えている敵対勢力である闇の世界が仕掛けた第一回目の命の危機が訪れたのである。

尤も「聖師・王仁三郎」が仕組んだ内容がはっきりと判るのは、この後四十三年も後のことで、
それまで「誠」「滋子」「腹の中の子供」共にそのようなことなど知る由もなく、ごく平凡な中流(の中か下)の家庭人として人生を歩んでゆくこととなる。

 しかし、この後「誠」の祈りが通じたのか「滋子」の体力が勝ったのか「聖師・王仁三郎」の導きがあったのかは定かではないけれども、ワクチンが無い時代であるにも拘らず、医師が驚くほどの奇跡的な回復を見せた「滋子」はインフルエンザを克服して母子共に危機を脱したので、父親となる「誠」がとても喜んだ事は言うまでも無く、臨月を迎えた十二月には母「ムメ」が大島にやってきて「滋子」と共に陣痛が始まるのを待っていた。
このような中「誠」は嬉しくて「大本」の教団本部に生まれてくる子供の名前を付けて欲しいと数ヶ月前に手紙を出していた。
長女「明子」の時は何故そうしなかったのかについては不明であるが、自分が付けた名前だから早死にしたのでは・・・との思いがあったのかもしれない。

予定日を十日も過ぎた頃「ムメ」は「こりゃあ、この様子じゃぁ何時になるか判かりゃあせん。もう年末が近こうなるんで、そろそろ正月の準備をせにゃあならんけぇ、私しゃあ明日は柳井へ帰るけぇね」と言って床に就いた。
その翌明け方近くになって「滋子」の陣痛が始まり昭和二十四年十二月二十四日午前四時過ぎに訳ありの子である長男が産声を上げた。
「誠」の喜びようは例えの言葉が見つからないほどであった言うが、一方祖母となる「ムメ」は「このクソ忙しい年末に生まれてくるとは何と親不孝な子じゃ」と自分の都合をぶちまけていたというが、そのようなことを言いながらも「ムメ」は甲斐甲斐しく娘と孫の世話を続け、もう直ぐ年が明けようとしていた頃となっていた。 

一方「誠」から命名依頼の手紙を受け取っていた「大本」では予てより死期が近かった「聖師・王仁三郎」より遺言の如く聞き及んでいた「いずれ、山口県の三田誠より子供の名前を付けて欲しいと必ず連絡が来るので、その時には男が生まれたら「潤」と女が生まれたら「栄子」と名付けるようにしてあるから、これを渡してくれ」との言いつけ通り「誠」に「聖師・王仁三郎」が半紙に書き残しておいた命名書を送ったのである。
この二枚の命名書にはそれぞれ「潤」と「栄子」とだけ書いてあり、命名の文字以外は「王仁三郎」の花押も落款も無いものであった。
命名書を受け取っていた「誠」は「潤」が生まれた三日後の昭和二十四年十二月二十七日に久賀町役場に出向き出生届を提出している。




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「双龍物語:第三章」

  「第三章・決められていた嫁」

 「聖師・王仁三郎」に直接お会いして戦地で体験した不思議な出来事を伝え、命を助けて頂いた御礼を述べようと思って亀岡まで出かけたけれども、願いは叶わず失意のまま大畠村に帰ってきた誠であったが、誠の将来を気に掛け、心配をしていた両親や親戚・大本信者の方々の中では就職先と嫁取りの話が持ち上がっていた。
 当の誠にしても戦争で利き腕を落として片腕となっているのだから、新しい働き口を見つけるのは並大抵のことではなかろうとの想いが頭から離れず、またこのような体となっていても来てくれる嫁はいるのだろうか・・・も心配の種であったが、そのような中で先に進んでいった話しは見合いの方であった。

柳井町に住む大本信者で顔見知りの女性の方から「誠さん一度話し方々遊びにいらっしゃいよ」と言われていたので、予め約束の日を取り付けてから出かけて行ったのだが、後から考えてみると、これはどうやらこの女性が仕組んだ見合いの場になっていたようなので、さて好意で仕組んだものやら仲人仕事にしたくて仕組んだものやら、真意は不明であるが、これがきっかけとなって話が先へと進展して行ったのである。
その相手とは柳井町に住んでいて、山口県女子師範学校(現山口大学の前身)を卒業し、小学校の先生をしている背が高く近所でも評判の美人女性で、誠より八歳年下であった。
この女性にも誠と同じく以前から「信者さん同志の集まりがあるので、そのときには家に来てみたらどうかね」と誘っていたのである。
 そして後に「誠」の嫁となるその相手とは、父「江堀 治作」と母「ムメ」の次女としてこの世に生を受けた大正十三年生まれの才女で名を「滋子(しげこ)」と言い、山口県立柳井女子高等学校(現・山口県立柳井高等学校)を主席に近い成績で卒業し、山口県女子師範学校には特待生(授業料・寮費共に免除)として推薦入学の厚遇を受けた本当に学問の優秀な女性であった。
 ここで、父「江堀 治作」と母「ムメ」のことについて触れれば、母「ムメ」の先祖は「後醍醐天皇」に使えた「児島 高徳」(こじま たかのり)『太平記』にその記述があるそうです)の子孫で(山口県)周防大島(すおう おおしま)の「郡代」を勤めていた家系である(家系図があり、現存していると聞いているが「ムメ」の父親「森脇 利助(もりわき りすけ)」の弟の家方が所有していると聞かされている)。
江戸時代には柳井の庄屋を勤めていたということのようだから「ムメ」の出自は歴とした家柄であった。
一方 父「治作」の出自は定かではないが、両親は子供二人(兄がいた)を日本に残したままで何故かハワイに移住してしまった。
子供二人を親戚に預け、一旗上げようとハワイに向かい、成功した暁にはハワイへ呼ぼうとしていたのではないかと思われるが、通常の日本人の感覚からすれば、ちょっと考えられない行動だと思えるけれども、やはり無理な思考の末には良い結果が伴わないもので、思惑通りに事は運ばずハワイの自宅で火災に遭い両親共に焼死してしまったのである。
それをよいことに、二人の子供を預かっていた親戚はその財産を私物化し、子供二人を洋服屋へ
丁稚奉公に出した。
兄の方はこの洋服屋で長い間辛抱を重ね、服作りを教わり、腕を磨き、後には山口県一とまで言われるほどの洋服屋を持つようになっているが、弟の「治作」は丁稚奉公が耐え切れず暫くして洋服屋を逃げ出し、その後大人になるまでの経緯は判らないままである。
辛抱が出来ず、手に職を付けようともしなかった「治作」が何故「ムメ」と結婚できたかについても解からないままであるが、男女の縁とは本当に不可解で不思議なものである。
だからこの「治作」は定職を持たず働くこともしない風来坊のような気質のままで親になっているから長女「瑛子(てるこ・大正七年生まれ)」が働きに出ていた勤め先に出向いて「瑛子」に無断で給与を先取りするようなことまでしていたというのだから、よほど出来の悪い男であったということだろう。
家がこのような状態であるから「治作」の家計は全くの無収入が続く中、主人の行状を見て堪り兼ねていた「ムメ」は国鉄山陽本線柳井駅前で「うどん屋」を経営していた知人が店を止めるので後を引き継がないかとの話しがあったとき、すぐさまその話に乗り、うどん屋を始めて「瑛子」と共に朝早くから夜遅くまで働いて家計を支え、後に中古ではあるが大きな家屋敷まで購入したと言うのだから大した生活の才女であった。
うどん屋を引き継ぐに必要な資金を持たない「ムメ」は父親である「森脇利助(腕の良い表具師)」に頼み込んで出資してもらったのではないかと想像している。

更に「ムメ」の子供の頃について少し触れれば、「ムメ」は母親を早くに亡くしたこともあってか、父「利助」に尋常学校に通っていた途中で退学させられ、家業を手伝いながら家事一切をやらされていたことが、うどん屋を切り盛りする下地となったのではないかと考えられるので、人生途中の苦労は決して無駄にはならぬと言うことになろうか。
また「ムメ」には一回りも年が違う妹がいて名を「隆子(たかこ)」と言い、父「利助」の「隆子」への扱いは「ムメ」とは違って学校に通わせ、稽古事では琵琶を習わせて、先では名取にまでなったと言うのだから、まるでお嬢様のような扱いで「ムメ」にとってみれば差別されていたような感じを受けていたのではないかと思われるが「ムメ」の献身的な助力があってのことでもあろう、家業である表具屋の仕事が次第に大きく評価されてゆき、金銭的な余裕が生じてきたことに拠るのではないかと思われるが「利助」にとっては嫁が次女「隆子」を産んで数ヵ月後に亡くなったことから、次女を不憫に思い溺愛したのではなかろうかとも考えられる。

このような恵まれない家庭環境に生まれ育った「滋子」ではあったが、幼き頃より学業がとても優秀なので「治作」にとっては自慢の娘となるのだけれども、収入の無かった「治作」は「滋子」の学費が捻出できないので「ムメ」の父親である「利助」のもとへ孫である「滋子」を使って「お爺ちゃん、学校へ払うお金が無いから出して下さい」と学費の無心をさせてまで柳井女子高等学校(通称・柳女 [ りゅうじょ ] と言う)へ通わせたという事のようである。
一方「滋子」の祖父である「利助」も優秀な「滋子」をとても可愛がり、滋子の学費に使うのなら・・・と無心などしなくとも自ら進んで学費くらいは出してやりたいと思っていた節があったように聞いている。
このように嫌な思いをしながらも柳女を卒業・特待生の待遇を受けた師範学校を卒業して教師となった「滋子」は、このような家庭環境下で育ってきたこともあり、いくら諌めても父「治作」の行状が改まらず、揉め事が絶えない家庭環境に悩み続けて心が晴れないままに生活を送っていたところに偶然「大本」の宣伝使と出会う機会があり、その宣伝使より「大本」の教えである、人としての生きる道標を聞かされた時に「あっこれだ!これこそ私が求めていた、人が生きる基本姿勢であり方向である」と感じ、心に掛かっていた雲が払われたように思えたその刹那「滋子」も「大本」に入信し信者となっていたのである。
また「滋子」の気性を窺い知る逸話としては、広島に原爆が落とされ、街が一瞬の内に無くなった話を聞いた「滋子」は広島の原爆が落ちた跡がどのようになっているのかを見てみたい衝動に駆られ、母「ムメ」の反対を押し切り、握り飯をこさえて風呂敷に包み、背中越しに掛けて線路伝いに歩いて一人広島まで出かけているのである。
距離にして片道約80㎞あるから恐らく二日半は掛かったと思われるので、往復五日の旅となったのではないかと想像する。
持参した握り飯はよく持って一日半だろうから、残りは飲まず食わずであったに違いない。
恐れを知らぬこの気の強さは並みの気性ではないので、後に「誠」の苦労が始まるであろう予測が見えるようである(と言うことは「滋子」も被爆していると言うことかも知れない)。
 
 この縁談を仕組んだ「大本」信者の女性は裁縫教室を主宰している年の頃四十代半の人物で、近所では名うてのやり手女だといわれながらも、お節介な世話好きであったようである。
「誠」と「滋子」はまんまと上手くこの女性の手練手管に籠絡されて見合いをすることになったのだが「誠」「滋子」の双方には見合いであることを一切伏せておいて会わせているのである。
考えてみれば仕組んだ方からすると、これは至極当たり前の話であって「滋子」は背が高く美人で学歴もあり小学校の教員をして収入も安定しているのだから、その気になれば引く手数多の縁談話があっても何ら不思議ではない女性である。
方や「誠」の方といえば、当時いかに尋常小学校卒で社会に出ていた者が多かった時代であるとは言え、学歴は中学校卒(現・高等学校)で、戦地から身一つで帰還したばかりの職も持たない片腕となっている身体障害者である。
身長は二度も徴兵検査で不合格となっている小男の上、家は借家で水飲み百姓ときていては、見合いだと言おうものなら当然「滋子」と家族は一も二もなく断ったと思われるが「滋子」はこの世話人の上手い口車に乗せられ、大本信者同士の集まりの会を時々開いているので一度出席してみたらどうかねと言うようなかたちで「誠」と引き合わしている。
「滋子」には前もって会に出席する「誠」のことについて「熱心な大本の信者さんであり、とても立派な方で、そしてそれは素敵な人である」と心に刷り込んでいたようであるが、実際に会ってみれば、そう話が上手く行くはずも無かろうと思えるのに、これが豈図らんや「誠」と会った「滋子」はまだ大本信者になったばかりで、この宗教こそ私の生きる道であると、ある意味盲のようになっていたからであろうか「大本」について知識を蓄えている「誠」の言葉にすっかりと魅入られてしまい、小男であろうが職がなかろうが片腕であろうがすっかり気に入ってしまったのである。
余計な話になるが「誠」は小男ではあったが随分と美形の二枚目であったから「滋子」はそこにも少しは気を引かれたのかもしれません。

 そして、二人は昭和二十三年九月十日には「滋子」の実家である柳井町の住所にて婚姻届を提出しているのだから、仕組まれた見合いから僅か半年後のことで、よほどお互いが惹かれあったということなのだろう。
結婚式には両家族や親族に加えて「大本」の信者の方々も多く集まって盛大に行われたようであるが、その裏で父「治作」にとっては自慢の娘の「滋子」であるから、自分のことは棚に挙げて、職も無い片腕の男になどにやりたくはないと大反対をし、家族全員も相当に反対をしていたようだが、当の「滋子」が嫁に行くというのだから如何ともし難く皆が渋々折れたようである。
また当時の結婚式の写真を見ると神道である「大本」の信者同士の結婚では当然神前結婚となるから、神棚を背にして「誠は」羽織袴姿で扇子を持って立ち「滋子」は花嫁衣裳の着物を着て椅子に座った姿で写っているところを見ると、写真屋の配慮もあってのことであろう、見栄えが悪い「蚤の夫婦」の写真として残したくなかったということであろうか。
その後、昭和二十四年一月十三日には長女「明子(あきこ)」を出産しているのだから、十月十日を逆算すると、婚前交渉でできた子であったと思われる。 
当時の社会風潮が如何なるものであったかについては知る由もないが、教員をしている才女がねぇ~である。
ただ残念なことに「明子」は生まれて僅か三日で死んでいるので、何とも悲しい初産であった。

 結婚後暫くは柳井町の「滋子」の実家に居候を決め込んでいた職のない「誠」であったが「大本」の信者さんの計らいで、程なくして願ってもない就職先が見つかったことは、この上もない幸運であった。
柳井商業学校を卒業していることもあってのことか、いや大東亜戦争で多くの若い男子が戦死し、働き盛りの若者が不足していたからであろうか、日本通運 株式会社の柳井支店に採用されたのである。
頭脳明晰であるとは言い難い「誠」だが、お人好しの人柄と仕事に取り組む真面目さが買われたのであろう、採用された数ヵ月後には周防大島久賀営業所の所長に抜擢されている。
この転勤に伴って「誠」と「滋子」は住まいを周防大島久賀町の港近くにある借家を借りて新しい生活を始めることになったのである。
 このような一連の流れを鑑みるとこの結婚は「誠」にとって願ったり叶ったりで申し分なかろうが「滋子」の側からすれば「学なし・金なし・家なし・背なし・片腕なし」の何一つ良き条件などない「誠」であるから、誰から見ても不釣合いと思われる者同士の結婚が成立したのだから「誠」が若い時分に大阪の街頭易者から言われた「あんたの嫁は決まっている」の言葉通りとなったと言うことになろうか。
またその縁を取り持ったものが「大本」に関連していることは揺るぎも無い事実であるけれども、随分と後になって当の「滋子」が娘「次女・栄子(えいこ)」によく語っていたことで「私は騙された」と後悔話をしていたようであるが、では「滋子」は一体誰に騙されたと言うのだろうか。
「誠」か、それとも見合いを企んだ「大本の女性信者」なのか、いやこれからずっと先まで一連のことを仕組んでいる「聖師・王仁三郎」なのかと言うことになろうが、この結婚は「滋子」が「誠」と会い、自分の目で「誠」を見て如何なる人物であるかを確かめた後に結婚しているのだから他に責を着せるより「滋子」自身の人を見る選別眼と「迷い」が起こした結果であろう。
学歴もなく財産も無く無職で、その上片腕が無い小柄な男であることは判り切っていたのだから、どこの部分を指して「騙された」と言えるのか・・・如何に戦後の復興期とは言え、一般的な常識から考えてみて、このような男のところへ嫁に行く物好きはまず居ないだろうと思われるので、所詮人は定めには逆らえないことの証である。

 余談になるが、この言葉「私は騙された」について検証してみると「誠」のことを富豪の息子であるとか、帝国大学卒で、多額の収入があるなどと偽って紹介しているわけではないし、仮に片腕であることを隠していたとしても会えば一目で判る事だから隠しようもなく、学歴も家の貧しさも同じ様に隠しようのない事柄だから、大本信者を通じてこの事実を「滋子」は知らなかったはずはない。
そもそも「騙された」と言うことについて掘り下げれば内容に「嘘」があれば当然相手が騙したことになるけれども、視点を変えてみると「期待していたことが叶わなかった」結果も恐らく「騙された」という感覚になるのではないかと思う。
しかし、自分の勝手な思い込みで何かを期待したのか、それとも相手が何か期待させるような発言をしたのかが問題になるところではあるが、後者の場合は人生を歩んでゆく中でそれを見抜く目を養っておかなければ、いつかは必ず「期待が叶わない結果」を受けることになる。

「滋子」の場合について考えて見ると、何一つ良い所があるとは思えない相手であることを承知の上で結婚しているのに、何故後になって「滋子」は「騙された」と感じたのであろうかということになるが、それは恐らく人物評価についての「迷い」が生じたのではないかと想像できる。
富豪の息子であるとか学歴・収入などは「形態」として表に表れることなので、子供でも直ぐに判るものであるが「人柄・能力」などについては「質」であるから、質を見抜く能力を持ち合わせていなければ、自らが進んで錯覚を起こしてしまって騙された気持ちになるものではないだろうか。
その「錯覚」を起こさせる要素と言えば間違いなく「欲と迷い」である。
この「欲と迷い」には多くの種類があり、得をしたいと言う「金銭な事柄」や、手放したくないと言う「所有に関する事柄」・幸せになれるはずだと想う「漠然とした抽象的な事柄」・起こしてしまった不都合な事柄を「なかったことにしたい」と言う自分勝手な都合に加えて「生存に係る」事柄等があるものだが、これらは全て「欲や迷い」から生じた「心の隙間」に自らが飛び込んで行く自殺行為であることに気付く人は少ない。
結婚詐欺・振込め詐欺・オレオレ詐欺に加えてネズミ講・投資話などで被害を受けたと言う人は、全て己の欲から生じた結果であることを自覚しなければ、同じことを何度も繰り返す羽目になる。
騙す奴が悪いのは当然であるが、欲に絡まれて迷った挙句、騙されに行く側に「心の隙」があろうと言うことである。

と言う事になると「滋子」はどの辺りで騙されたと錯覚したのであろうかと考えれば、恐らく「漠然とした抽象的な事柄」か「所有に関する事柄」ではないかと思われるが、二十代で大本に入信し齢九十二歳の人生を送った「滋子」が「聖師・王仁三郎」に心酔し、生涯を通じて「大本」の教えを守って生活をしてきたと言っていたにも拘らず「私は騙された」と言うようでは「全く持って修行が足らぬ!」。
学問については優秀であったようではあるが、人の生き方としては未成熟のままこの世を去った「滋子」である。




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「双龍物語:序章・第一章・第二章」

 「双龍物語:序章」

 大東亜戦争(太平洋戦争)終戦間際の頃、三田 誠上等兵(二十九歳)は歩兵銃を手に持ち、背嚢を身に付けフィリピンのジャングルを一人で彷徨っていた。
当ても無く歩き続けている中、少し先の木立の隙間から小石が敷き詰められた河原が見えたその時、突然背後から銃声が聞こえた。
瞬間右手首に焼け火箸を当てられたような感覚を覚え「撃たれた」と思ったので、思わず銃声がした方向を振り返ると、歩兵銃を持った日本兵らしき人物の姿が眼に入ってきたが、そのままジャングルの奥の方へと逃げていった。
恐らく背嚢に食料が入っていると思って撃ったに違いないと想像したものの、もう何日もまともな食べ物を口にしてはいない体は衰弱しきっていて、すでに歩けるような状態ではなかったが、何かに誘われるような感覚で出血する手を庇いながら河原の方へ歩いていった。
 やっとの思いで小石だらけの河原に辿り着いた時には体力も気力も失せてしまい、ばたりと河原に倒れこんでしまった。
まだかろうじて意識はあったが、銃声を聞いたのであろうか現地民が数名近寄ってきて、血だらけになった誠を見ながら「三田、何かして欲しい事は無いか」と声を掛けてきたので、見ると顔見知りのフィリピンの人達であった。
ここ数年激戦地フィリピンで米軍と戦って来ていたが、原住民との交流では良い関係ができていたからであろう、正に死に絶えようとしている誠を見て、哀れみと、人としての良心がそうさせようとするのか、末期の水を取ろうとしてくれているのである。

 もう意識も覚束ないほどの状態になっていたが、誠は「それじゃあ、この背嚢の中にコーヒーが入っているので、コーヒーを飲ませてくれ」と伝えると、空き缶を探してきて川の水を汲みコーヒーを入れてくれている気配を感じながら、数分がたっただろうか、大好きなコーヒーの香りが漂ってきた。
これで最後か・・・と覚悟を決めかけようとしていた時のこと、薄れ行く意識の中で、何やら英語の話し声が聞こえたような気がしたのだが、そのまま意識を失ってしまった。
 
 どのくらいの時間が経ったのだろうか・・・意識を取り戻した誠の目に映ったものは建物の白い天井であったが、瞬時に我に返り、腹の周りに手を当てて、長い戦いの中で一時でも肌から離したことの無い、命より大事と思っていた「さらし」を探したが、その感触が無い。
我を忘れて「さらし」を探そうと周りを見渡せば、どうやら病室にいるようで、右手を動かそうと思えども手が出てこない。
瞬時に撃たれた記憶が甦り、利き腕を失った衝撃と見当たらない「さらし」に気が動転した誠は、大声を上げて騒ぎ始めたところ、悲痛な叫びに近い声を聞きつけた白人の看護婦が病室に入ってきた。
状況がまだよく飲み込めないままに、身振り手振りで腹の周りに手を当てて「さらし」の行方を看護婦に訴えると、寝かされているパイプベッドの頭の部分にかけてあるものだろう・・・と理解してくれ、そこを指差してくれた。
後ろを振り返ると、そこには洗ってきれいになった「さらし」が干すように掛けてあり、それを見た誠は安心したかのようにまた深い眠りに落ちた。
翌日の朝、比較的穏やかに目を醒ました誠は失った利き腕のことを思うと絶望的な気持ちになりながら、少しずつ戦地に赴くまでのことを思い返していた。

先に誠の生い立ちについて話せば、明治生まれの父「乙次郎(おとじろう)」と母「ヲトミ」との間でこの世に生を受け、長女「スガ子」を頭に七人兄弟の二番目に生まれ、長男として誕生したこの夫婦唯一の男子であった(後に次男が誕生するも生後直ぐに他界している)。
父の乙次郎は若くして事業に目覚め、製氷業を営むようになってからは比較的裕福な生活環境を持っていたようで、山口県の瀬戸内海に面した小さな村内ではあったけれども、当時選挙権を持っていた三人の内の一人であったというから田舎の名士の内に入っていたのであろう(他の二人は村長と造り酒屋の主であった)。
しかし、この乙次郎は背が高く体は屈強な上、随分とやんちゃな性分で、酒は飲むし無類の博打好きとして通っており、広島県の三原市にまで博打を打ちに出かけていたというのだから、当時既に山陽本線が開通(明治三十四年)していたとは言え、相当の好き者であったということだ。
 ある時、三原の博打場でのこと、負けが込んだ遊び人の博打打ちの一人が負け金を払えなくなり、乙次郎にこう話しかけてきたという。
「金の都合がつかんので、わしの妹を差し出すけえ、これで堪えてくれんかのう」面倒臭いことになったと思いながら、乙次郎は仕方なくその妹を連れて帰ったものの、扱いに困り、近所にある「うどん屋」で暫く働かせていたが、後に嫁にしたということなので、何とも・・・といったところか。
 このような夫婦の下で生まれた誠は病弱体質で、心臓が悪い上に肋膜炎を患ったりしたものだから、近所の雀連中からは「まだ生きちょるかいねぇ~」と言われるほどであったと言うのだから、よほどの虚弱だったということになろうが、その後戦争で片腕を失いながら八十九歳の天寿を全うしたのだから、人の生き死にだけは神のみぞ知ると言うことになろうか。
そんな誠は女ばかりの姉妹の中で甘く大切に育てられつつ、病弱ながらも海に遊び山野を駆け巡って尋常小学校を卒業・中学校[ 柳井商業学校(現山口県立柳井商工高等学校)]へと進んだ。
中学生[ 現高校生 ]となった誠は学友達と柳井市街をうろついていた時のこと、果物屋の前を通りかかった時に何ともいえない良い香りが漂ってきたので足を止めて香り先を探し始めた。
するとその香りは、どうやら巨大な「松かさ」の形をした物から出ているようで、店主に聞くと、これはパイナップルと言い、南洋産の珍しい果物で、とても甘くて美味しいものだと聞かされた誠は思わず衝動買いをしてしまった(当時のことだからかなり高価ではなかったかと想像できるので、やはり裕福であったのだろう)。
悪ガキ一同は早速このパイナップルと言うものを食べてみようと近くの海辺まで行ったものの、どのようにして食べるのか聞くのを忘れていたので、皆で思案を巡らせたけれど判るわけがない。
松かさの形をしているので、ウロコ(鱗片)とウロコの間に「松かさ」には種があるから、そこを食べるのだろうということになって、小刀を出してウロコを剥がし、その根元の部分を食べてみたが不味くて食べられない。
皆口々に「あの親父に騙された。今度文句を言ってやる」と不平を口にしながら不満たらたらの中、腹立ただしく思った短気な誠は手にしていたパイナップルを海に放り投げた。
であれば猿の方がまだ知恵があろうというもの・・・ただこのことだけで誠の知能はこの程度であったものか、なかったものかを推し測ることは出来ないが、青春の一齣であった。
柳井商業学校を卒業した誠は大阪にある汽車製造株式会社(現・川崎重工業株式会社)に入社し、社会人となったが、それ以降は大した病気にも罹らず比較的平静な日常生活を送っていた。
休日のある日、誠は大阪の繁華街へ遊びに出かけていた時のこと、通りを歩いていて、ふと街頭易者と目が合ってしまい、何気なく前に置いてある蜜柑箱に座った。
別に何かを占って欲しかったわけではないのだけれども、易者の言うままに生年月日と名前を紙に書いたところ、当たり障りの無いことを話し始めたので、誠は「それはそうと、わしは将来大恋愛をして結婚したいと思うちょるんじゃが・・・」と言うと、少し間を置いて易者は「う~ん、そりゃあダメだね、あんたには嫁になる相手が決まっているから、あんたの思い通りにはならん」と言われた途端に短気の虫が頭を擡げ、何だ!この野郎・・・と急に面白くなくなり憤慨した誠は金を払ってその場を立ち去った。
このように左程怒る事とも思えないようなことでも、癇に障ると直ぐに怒りを表すほどに短気な性分ではあったけれども、何とか無難に会社勤めを続けることが出来たのは幸いであった。
その一方、誠は性格的というか心情的といえばよいのか判らないけれど、身内に対する情合は異常とも思えるほど深かったので、岡山に嫁いだ姉の家や東京の親戚を度々尋ね、故郷の山口県大畠村へも何かにつけて帰省していたようだが、誠の情合は少し偏狭的であった。
 勤めて数年が経った盆休みに誠が帰省したある日のこと、子供の頃より短気な性分に手を焼いていた母ヲトミは誠にこう話し始めた「誠や、おまえの短気には本当に困ったもので、中々直りゃあせん、それでなぁ柳井に立派な人がおるそうだからその人のところへ行って話を聞いてみたらどうかいねぇ」。
そのように自分の欠点を指摘されて、はいそうですかと素直に従うような誠ではないので、ぐずぐずと屁理屈をこね回し、生半可な返事で持って何とかその場を誤魔化そうとしていたのだが、誠の将来に不安を感じていたヲトミはしつこく誠に食い下がって引こうとはしなかった。
結局根負けしたのは誠の方で、嫌々ながら渋々その人物に会いに行ったのだが、この人物との出会いが後の人生を大きく左右し、戦時中に不思議な体験をする切っ掛けになろうとは夢にも思っていなかった。

 その人物とは広島県神石郡神石町出身の知団(ちだん)さんと言い、年齢は誠より十歳ほど年上で、九州博多管区の国鉄職員として連結士(列車同士を繋ぎ合わせる業務)をしていたが、勤務中に右足関節より下を事故で失い、業務復帰が叶わなくなったところを国鉄側の計らいで誠の実家がある国鉄山陽本線大畠駅の売店業務を任されていた方であった。
また知る人であれば、彼のことを悪く言う人など一人もいないほどに評判の良い人物でもあったようで、渋々だった誠が柳井市中塚にある知団さんの住まいを尋ねたところ、知団さん夫婦は初対面の誠をとても優しく迎えてくれたことや、招かれた家の中が綺麗に整理整頓されている状況を見て、誠は評判通りの良き人物であることに疑いを持つわけにはゆかなかったし、初対面にも拘らず少し話を聞いているうちに直ぐに地団さんと打ち解け、心が穏やかになってゆくのが判るほどであった。
と言うのも、知団さんの話はとても理にかなっていて、誠に通じ、正に迷える子羊にとっては天空から救いの蜘蛛の糸が降りてきたかのように感じられたのかもしれない。
知団さんに魅入られた誠はこの後、知団さんご夫婦に勧められたこともあって「大本(教)」に入信し、信者となって活動するようになり「大本(教)聖師・出口 王仁三郎」と出会う切っ掛けとなる。
知団さんは本業の傍ら「大本(教)の柳井支部」に属し「宣伝使(キリスト教の宣教師のような役割)」をされていて、熱心に布教活動を行っていた。

ここで大本(教)について、概略の説明をすれば、明治二十五年、後に大本(教)教祖となる「出口なお」は、くず拾い(であったと聞いている)で何とか生計を立てていた極めて貧しい文盲の女性であったが、突如神懸りとなり「お筆先(神が語る言葉)」なる文字を「なお」の意思とは無関係に手が勝手に書き始めたことに端を発し、狂人扱いされるも、その内容はこの後日本が辿ることになる姿を現した予言書であった。
またこの頃、同じくして神の啓示を受けた「上田 喜三郎」は導かれるように「なお」と出会い、暫くして娘婿に迎えられて「出口王仁三郎(でぐち おにざぶろう)」と改名し、「なお」が開祖、「王仁三郎」は聖師と称して明治三十一年に大本(教)の組織を作る。
昭和に入った頃には信者を百万人以上擁するほどの組織となり、信者の中には多くの知識人や大臣級の政治家・陸海軍の将校に加えて皇族なども名を連ねていたが、国家による数度の大弾圧を受け「なお・王仁三郎」共に投獄されるなど不遇の時期を乗り越えながら、日本が大東亜戦争に負けないようにと中国に渡ってまで活動していたけれども終戦後の昭和二十三年一月「王仁三郎」はこの世を去っている。
余談になるが、過去には弘法大師も相当の霊能力者であったようだが、出口王仁三郎ほどの霊能力者は後にも先にも人として現れることはなかろうと思えるほどであったと言う。
三十年以上も前の曖昧な記憶だが「巨人 出口王仁三郎」という本が出版されていて、この本を読めば、かなり詳しく彼のことが書かれているので、興味のある方は是非御一読をお勧めする。
また現在日本にある新興宗教の開祖は当時「出口王仁三郎」の弟子であった者が多いことも事実である。
※(インターネットで「大本(教)」を検索すれば客観的事実と比較的詳しい内容が掲載されていますが、記述者の主観による説明が多く、的を射ているかは疑わしいのだが興味のある方は調べてみて下さい。)
 大本(教)に入信し、信者となった誠は知団さんの勧めるままに大本(教)の本を読み、先達の方々の話を聞きながら勉強し、知識を深めていった。

大阪に戻った誠は、持ち前の気の良さに加えて多少お節介なところがあり、その性分もあってか誠自身も大本(教)の宣伝使となり布教活動を始めたようで、布教活動をしていると意外なことに会社にも大本(教)の信者が数名いることが判り、その方達と共に勉強会を開いて更なる知識を深め、時には大本(教)本部から講師を招いての講話会まで行っていたようだから相当の入れ込みようで、京都の亀岡・綾部にある大本(教)本部にもよく参拝していたようである。
そのせいでもあろう、自分が良いと思ったことは強引に他の人にも押し付けるようなところがあった誠は姉妹六人を全て大本(教)に入信させている。

そのような中、大本(教)が数度の大弾圧を受けた際には、大本(教)の幹部に加え日本全国にいる信者達にまでも官憲の手が及び、誠も二度逮捕され留置所に拘束されているが、その時はさして厳しい取調べもなく、ただ布教活動の内容や他の信者の名前などを聞かれた程度で、一週間から十日程留置されていただけであったという。
と言うことは上意下達を受けた官憲が事件の良し悪しや罪状の十分な吟味も行わず、大本(教)の信者で布教活動をしているというだけで逮捕しているのだから、時代が移り代われども公務員とは人としての判断を持って行う仕事が許されない気の毒な職業であろうか。
また本星である大本(教)に対しては特別な罪状がないものだから、言い掛かりにも等しい無理やりな罪状を作り上げ、必ず何かがあるはずだの信念の下に大本(教)の幹部を根こそぎ逮捕して取調べをしているところを見ると、大本(教)が余りにも巨大な組織になってしまったことを恐れた国が国策捜査の一環として厳しく取締りを行った結果であろうことは容易に想像できるが、いつの時代も国家権力のやることは後に嘲笑されるようなことをやるものである。

話を元に戻し、歴史を遡れば、既に明治時代の頃には英国を始めとする欧州の各国は東南アジアを殆ど植民地にして、多大な資源をほしいままにしていたが、その矛先は次なる清国(中国)へと侵略の魔手を伸ばし始めていたところまできていた。
清国(中国)と朝鮮が植民地となれば、次はわが国が標的となるのは火を見るより明らかなことだから、欧米による植民地化を恐れた日本は大東亜共栄圏なる構想を打ち立てて、昭和十二年七月七日支那事変(日中戦争)に突入し、欧米に対抗しようとするも、朱子学に毒された清国・朝鮮共に共存同盟・工業国化への提案を受け容れようとはせず、中には敵対勢力も生じて、いよいよ日本が米国との開戦へと、きな臭さが漂ってきた頃となっていた。

補足説明・文中「大本(教)」と表現してあるのは、宗教組織としての正式名称は「大本」なのだが、宗教の(教)を補足しなければ判り辛いと思い(教)を敢えて加えてきましたが、以降「大本」と表現します。

「第一章・戦地へ」

 逮捕留置されたにも拘らず、誠は己の心に照らし合わせて何ら恥じることなど無いとの信念があり、その後も仕事に励みながら熱心に布教活動も続けていたのだが、日本を取り巻く世界情勢は一段と厳しくなり、昭和十六年十二月八日真珠湾攻撃で口火を切って、日本はアメリカに宣戦布告を行い大東亜戦争に突入する。 
 開戦当時から暫くは日本軍の連戦連勝で国中が湧きかえっていたようであるが、数年が経って戦局が次第に危うくなりかけた頃、誠に三度目の召集令状が届いた。
と言うのも、誠はこれまでにも召集令状を二度受け取っているが、徴兵検査の段階でいずれも不合格となっていたのである。
想像の域を出ないが、誠の身長は一五五センチ程度しかない小男で体型は痩せ型の上、心臓が弱く子供の頃に肋膜炎を患っている経緯があってのことなどが原因で、これまでは徴兵を免れていたのではないかと思われる。
しかし戦線を拡大して行く方針を採った日本軍の戦況は徐々に逼迫し、悪化の傾向となっては、何が何でも兵隊を集めなければならないとの思いからであろう、軍は小男であろうが多少病弱であろうが、もうお構いなしの徴兵を行ったので、今回の徴兵検査では見事に丙種合格となって戦地へ向かうことになった。
 誠にまで召集が掛ったと言うことで、家族・親族に加え「大本」の信者を巻き込んでの大騒ぎとなり、話が地域の大本信者全体に伝わって行くのにそう時間は掛らなかった。
その中に昔の日本ではよく見かけた世話好きな女性の信者さんで山脇さんという方が話しを聞きつけ、すぐに誠を訪ねて、こう話を切り出した「誠さん、あなたが戦地へ行くんなら、そりゃあ聖師さんに会うて、お陰を貰わんにゃあいけん。うちも一緒に行くけえ京都に行こうやぁ」
突然の話ではあるが、巨大な組織となっていた当時の「大本」では、いくら古くからの信者といえども、そう簡単に「聖師 王仁三郎」に面会できるとは思えないので、恐らく世話好きなこの女性は「王仁三郎」に会える特別な人脈を持っていたのであろうと思われる。
誠の方も「聖師さん」に会えるのなら・・・と直ぐに申し出を受けて、京都に行く日時や手筈を山脇さんに委ね、その支度や準備を整えている内に出発当日がやって来た。
 京都に向かう汽車の中で、誠は二度も徴兵検査で不合格になったにも拘らず、今回戦地へ赴くことになったと言うことは、恐らく激戦地であろう・・・との不安が頭を過っていた反面「聖師さん」と直接会える期待に胸は高鳴り、複雑な心境であったが、お節介なご婦人のおしゃべりで気が紛れたことは救いであった。
約半日ほど掛けて汽車は京都駅に着き、二人は山陰線に乗り換えて亀岡を目指し、亀岡駅より十分程度歩いて「大本」本部へ到着した。
受付で山脇さんは「今日聖師さんにお会いする約束で山口県から来ました山脇です。日向(ひゅうが)さんをお願いします」と告げると、少し甲高いその声が届いたのであろう日向さんが奥の方から出てきて「やぁ山脇さん遠くからご苦労でしたねぇ待っていましたよ。さぁこっち、こっち」と手招きで二人を迎え入れ、他の人に何やら耳打ちをして使いに出したようだった。
事務所の奥に通されて、出されたお茶を戴きながら、道中でのことや、誠のことにことについて雑談交じりの話をしていたら、先ほど使いに出された方が戻ってきて「聖師さんがお待ちですこちらへ・・・」と事務所を出て「王仁三郎」の下へ案内をしてくれたのである。
誠達は案内されるままに従い、歩いて5分ほど離れた場所にある「王仁三郎」の執務室へ通された。
部屋の入り口まで来た時には誠の緊張は極限にまで達していたが、入り口を開けてもらい、伏し目がちで部屋に足を踏み入れたと同時に「王仁三郎」が「やぁ良くお見え下されました。待たれましたか?」と声を掛けてきた。
誠は顔を上げ「聖師・王仁三郎」の方へ目を向けると、穏やかな笑みを浮かべた「王仁三郎」の姿がそこにあり、やっと直に会えた・・・ただそれだけでこれまでの緊張は一気にほぐれて感激と幸福感で心が満たされてゆくのが判るほどであった。
一方「王仁三郎」の方は事前に誠が来ることは知らされており、出生地なども聞き及んでいたから「やれやれ、やっと来てくれたか、さてこの若者を死なすわけにはゆかないのだが、上手く助けられるかいなぁ・・・」と心で呟きながら誠を見つめて「三田さんでしたね。召集されたと伺いましたが・・・」と言いかけると、傍から山脇さんが「そうなんです。これまでに二度も召集令状が届いたんですが、徴兵検査で不合格となっていたのに今回は丙種合格になって・・・」と口を挟んできて「それで、聖師さまにお陰を戴きに参りました。何とか宜しくお願いします」と誠に代わって想いを伝えてくれる。
すると誠を見ながら「聖師・王仁三郎」は誠の行く末を瞬時に見通してのこと「そうですか・・・さて、三田さんあなたは大変なところに行くことになりますが、何とか命だけは助けてあげましょう・・・」と言いながら「何かさらしのような布は無いか」と付き人に声を掛けたが「金物・布類など全て軍部に供出して何もございませんが、紙なら少しは・・・」と返事が返ってきた。
「紙か、紙ではダメだ。白い布なら何でも良いのだが・・・」と「王仁三郎」が口にすると、山脇さんが突然着物を脱ぎ始め「白い布なら長襦袢でもいいでしょう。これを使って下さい」と長襦袢を脱いで裂き始めようとした。
それを見るなり、お付の人は「ちょっと待って下さい。それなら鋏を持ってまいりますので」と鋏を用意してくれ、山脇さんはその鋏で以って切る巾や長さを「王仁三郎」に聞きながら、大凡で裁断を始めた。
その間「王仁三郎」はおもむろに脇机に置いてある硯に手を伸ばし、硯の蓋を取って墨を磨り始めていた。
「こんなもんでいいですか」と裁断した長襦袢を「王仁三郎」に見せると、「王仁三郎」は「うん、いいんじゃないか」と手を伸ばして腹巻になりそうな巾に裁断された襦袢を受け取った。
墨を磨り終えた「王仁三郎」は床に襦袢を広げて筆を取り、おもむろに和歌を書き始めた。
誠は正面から「聖師・王仁三郎」の筆先を目で追いながら何が書かれるのか読み取ろうとしたけれど、良く判らない字もあり首を傾げながら書き終えるのを待った。
誠が読めなかったのには訳があり、当時の知識人なら通常に「変体仮名」を交えた和歌を詠っていたので、学問に疎い誠には過ぎたものであったかも知れないが、和歌の内容を現代文で記すと「大君の家の み盾と えらまれて いくさのにわに立つこの若人」と詠んであり、その下には漢文で「忠勇義烈 皇軍萬歳」と記されてある。
また和歌の横には薄い文字で「月」と添えられた文字があるのだが、これについては推測の域を出ないが、もう少し後にその意味をお伝えしようと思う。
そして「聖師・王仁三郎」は襦袢を床に置き祝詞(のりと)を唱えながら、拇印を押し始めた。
・この長襦袢は今も現存しており、いずれ機会があればその写真を掲載しようと思っています・真剣な顔つきで祝詞を唱えながら拇印を押す「王仁三郎」の姿を見て、誠はどうやら大変な激戦地に行かされるのだろうと、また絶望的な気持ちになったが「聖師・王仁三郎」の「命だけは助けてあげる」の言葉を信じ、かろうじて平静を保っていた。
 拇印を押し終えた「聖師・王仁三郎」は「これを肌身離さず身に付けて下さい」と襦袢を誠に手渡し、戦地へ赴く労いの言葉を掛け、最後に「命だけは大丈夫だからね」と念を押してくれた。
 
 「王仁三郎」が書いた和歌の意味は「天皇家を守る盾となる為に選ばれて、戦に赴くこの若者」であり、漢文(詩)の方は読んで字の如く、漢字の持つ意味そのままである。
また薄く書かれた「月」の意味は、どうやら誠に「つき(幸運)」があるようにとの意味であろうと想像ができる。
と言うのも「王仁三郎」はよくこの様な粋で洒落たことをやっていたというのだから、まず間違いはあるまい。
 そして、この様に他の誰の目にも触れることはなかろうと思われる腹巻に書かれた和歌から推測すれば「王仁三郎」の心情は天皇家と日本を守りたいとの信念を持っていたことを伺い知ることが出来るけれども、不敬罪などの罪を着せられ数度の大弾圧を受けているのだから、いつの時代も権力を振るう立場にある者は見識の低さに加え、心の貧しさが故に生じる猜疑心や恐怖心に怯えるのは人としての性であろうか。
誠はこれ以来この襦袢を腹巻として使用し、復員するまで肌身離さず身に付けることになるのだが、不思議なことは、誠が激戦地フィリピンから生還できたことと、詠まれている和歌の文字には、誠の命を助けるなどの文言はどこにも無く、ただ「つき(幸運)」の文字が添えてあっただけだから、真に誠の命を助けた「おかげ」の正体は「聖師・王仁三郎」が祝詞を唱えながら押した「拇印」ではないかと考えている。
この襦袢に押された「拇印」はこれまでに何度も洗濯をしている経緯もあり、薄れてしまって少し判別し難い状態になってはいるが、襦袢に書かれた文字と調和が取れるように二十箇所余りちりばめて押されていたように記憶している。 
 何故「王仁三郎」は山口県の片田舎から来たこの若者にそこまで肩入れしたのであろうか?
との疑問が湧いてきても不思議ではなかろうと思うが、その理由は高齢に差し掛かっていて、余命が短いことを自覚していた「王仁三郎」は次なる一手を模索していたのであろうと思われる。
「王仁三郎」は既にこの時には日本が戦争に負けることも、東京を始めとして日本全国が空襲の嵐に曝されること、広島・長崎に得体の知れない爆弾が落とされ、日本が米国に占領されることも知っていたのだから、「龍族(ここでは詳しい説明が出来ないので、話が進むに連れて少しずつ解かり易く説明を加えようと思っている)」の一員である「王仁三郎」は自分の代では、もはや世界の平和は叶わないことを悟り、次へ託す準備を考えていた。(尤も、東京の大空襲などは既に明治から大正時代に渡って書かれた「開祖・なお」の「お筆先」によって予言がされている。)
信者の数が百万人を超えるほどの巨大な宗教団体を組織し、人とは思えぬほどの霊能力を持ちながら、我が想い(役割)を達成できなかったのだから「龍族」としてこの世に出された役割を次へ託すことを真剣に考えていたと言うことであろう。
しかし、その役割が誠であったわけではなく、誠を使って次なる作戦の計画を立てようと企んだに違いなく、その企みとは次の世代に「龍族」の一人をこの世に顕わして「その役割を委ねことにした」との記述があるから、誠をここで死なすわけにはゆかなかったと言うことになる。
亀岡で「聖師・王仁三郎」から「おかげ」を貰った誠は山脇さんと共に京都を後にし、山口県への帰途についた。
帰りの車中で誠はこれから向かおうとする戦地は一体何処になるのだろう・・・などの様々な想いや妄想にも近い想像が目まぐるしく頭の中を駆け巡り、不安と恐怖で逃げ出したい衝動に駆られたけれど「聖師・王仁三郎」の「命だけは助けてあげる」の言葉を思い出し腹巻に手を当てて、大丈夫だ「聖師さん」が約束してくれたのだから・・・と自らに言い聞かせて自分を納得させなければならない心情は赤紙を受け取り戦地へ向かおうとする本人以外には判らないであろう。
大畠村に帰ってきた誠は早速出征の準備に取り掛かったものの、数日の間は出征祝いと称した地域での送別会や親族を交えた大本信者による激励会が催されて慌ただしい数日が続いた。
当の誠は不安を抱えながらも戦地へ行く準備を整え終えて、明日には今生の別れとなるかも知れない家族と、ごく親しい大本信者数名を交えた最後の晩餐を共にしたのだが、その場でうっすらと涙を浮かべながらも微笑みを絶やさなかった母ヲトミの姿が痛々しく感じられ、不安でいっぱいとなっている誠の胸を更に痛めたのであった。
翌日の朝いよいよ出立のため駅に向かうと、そこでは既に大勢の人が集まっていて、幟や旗が用意され盛大な見送りが準備されていた。
列車が到着するまでの間、皆から励ましの言葉や「立派に戦って死んでこい」などの手痛い言葉を受けながら皆に別れを告げ、御礼を述べていたところへ列車が到着し、世話人の方の発声による万歳三唱の声と汽笛を背に誠は汽車に乗り込み集合場所の駐屯地へと向かった。

駐屯地に着いた誠は配属先の部隊に合流すると、上官から「三田君、君には帝国陸軍上等兵の位を授ける」と言われ、軍の経験など全く無い誠は恐らく二等兵であろうと想像していたにも拘らず「上等兵」と言われたので意外に思っていたけれども、後になって聞かされたのだが、どうやらその理由は中学を出ているからということのようであった。
それからの誠は駐屯地で少しの間、基礎的な軍事訓練を受けさせられた後に船でフィリピンに向かったようだが、既に制海権は少し危うい状態に差し掛かっていた状況下において、米国潜水艦の標的となって狙われ、撃沈されずに無事フィリピンへ到着できたことは幸いであった。
とは言うものの、制空権も同じく危うき状況となっていたのだから、とても順風満帆の航海であったとは思えないが、駐屯地からフィリピンへ到着するまでの口述された記憶や記録がなく、詳細な内容をお伝えすることが出来ないのが残念です。

 フィリピンに到着した誠は第十四方面軍の指揮下にあってルソン島に駐留していた連隊(所属の連隊や部隊名その設営場所なども聞かされていたのかも知れないけれど記憶に留めていません)の高射砲部隊に配属され、射手として戦闘に参加することになった。
今となっては当時フィリピンに配属されていた全部隊の兵数を詳しく知ることは出来ないが、5個師団を上回る兵数が配属されていた記録があるので、少なくとも5万人以上の兵数がいたと思われ、米軍は圧倒的な武力と物量を背景にこの大部隊の兵力を全滅させる目論見を持って攻撃目標としたためフィリピンは猛攻撃の標的とされたのではなかろうかと思われる。
その中で誠が所属した連隊は総勢6千名を擁し、直属の高射砲部隊は三百名ほどであったと聞かされている。
そして、この日を境に誠のフィリピンでの戦闘生活が始まったのである。

配属された部隊の基地は比較的海岸線に近い密林を切り開いたところに設営されていて、施設の状況は粗末ではあったけれども司令棟に兵舎・厨房・食堂施設・小さな病棟など一通りを備えた前線基地であった。
またこれらの施設に面してちょうど学校の運動場のような広場をも持っていたが、流石に弾薬庫だけは密林の一部を旨く偽装して隠していたということであった。
配属されて半年以上の間は戦闘もなく広場で体操や教練を行っていたものだから、本当にここは戦地なのだろうかと思えるくらいに平穏な日々が続いて少し気も緩みかけていた中、ある日突然グラマン(当時の米軍戦闘機名)が数機飛来して基地内に機銃掃射を浴びせながら突入してきたものだから、けたたましくサイレンが鳴らされ「戦闘配置!」の号令とともに全員が戦闘態勢に入ったけれども反復攻撃はなくそのまま飛び去っていったので、皆は戦闘にもならず拍子抜けしたと言っていたが反復攻撃が無くてその後も何度か同じ様なことが起こったことから想像すると、恐らくフィリピン全土における日本軍の戦闘能力を目視で調査・写真撮影するために偵察部隊の一部が来ていたのであろうと考えられる。
効率よく攻撃するためには他からの情報のみに頼らず、直接に偵察を行い見聞きした情報を収集し全体の作戦を組み立てて、その上で局地的な戦闘の作戦を練っていたと考えられるので、これでは軍備に加え燃料・食料が不足気味であった日本軍が勝てるわけがない。
余談になるが、この当時からアメリカ軍は、こと戦争に関しては中国の古書「孫子の兵法」や「六韜(りくとう)」に至るまでの文献を真剣に研究していたというのだから脱帽ものである。
それに対して日本軍の戦争に対する姿勢は精神性を重視したお粗末極まりないものといっても良かろうと思えるけれど、ミサイル攻撃が主体となっている現在でもペンタゴンはいまだにその研究を続けているというのだから流石に他国の軍隊では真似のできない探求心だと感心する。
当時の戦争の作戦を立てた日本の官僚は、作戦を立案すると作戦の期間を定め、兵数・武器・弾薬・食料まで緻密に計算して、その通り実行させようとしたというのだから、作戦の一部が予定通りに進まなければ、これらの内のいずれかが当然不足してくることになるけれども、それは全く考えなかったということのようだからねぇ、これでは国を離れ異国の地の最前線で戦っている兵士を見殺しにするに等しい行為と思えるが、過去も今も日本の官僚の考え方とはこの姿勢なのだろうから、頭脳があまりにも明晰すぎて何事に関しても旨く行かずに失敗するかもしれないという「失敗」の文字など彼らの頭脳の中の辞書には無いのであろう。
 さて話を誠に戻すと、その後三ヶ月余りはグラマンの飛来も無く平穏な日々が続き、教練の合間には皆で相撲を取ったり騎馬戦に興じたり、それぞれの故郷の話をするなどして戦地へ赴任し、戦争に来た感など全く感じられなかった様子であったという。
そして誠はといえばこの数ヶ月間で何度も施設周囲の偵察を命じられて出かけていたのだが、誠のお人好しの人柄もあってのことか、いつの間にか現地の人達と顔見知りになり、次第に打ち解けてことばまで交わすような間柄になっていた。
そうしている内には現地の人達が果物などを持って前線基地にも度々遊びに来るようになっていたというのだから良き交友関係が出来ていたようだが、穏やかな日々はそう長くは続かなかったのである。
良く晴れたある日の朝のこと、突然と爆撃機や戦闘機の編隊が部隊の遙か上空を飛来して来たものだから、すぐさま臨戦態勢が敷かれ、高射砲部隊の射手である誠は密林の中に配置されている高射砲に飛び乗って上空へ向け何発もの砲弾を打ち放ったが、この日は一機も撃墜することは出来なくて悔しい思いをしたと酒を飲みながら話していた。
だがその日を境に同じ方向に向けて護衛戦闘機を伴った爆撃機の編隊が度々飛来するようになり、いくら高射砲を撃とうが全く応戦をしてこないので、誰もが不思議に感じていたようだが、恐らく米軍は十分な偵察を行った上で作戦を立てた結果、まず最高司令部を叩くことから始めたと考えられ、前線の小部隊など眼中にも無かったという事であろう。

 誠はこのような状況から考えてみると、現在の我が軍には食料の補給も十分でなく、武器弾薬の補充もない・・・フィリピンに赴任する以前から内地では金属を始めとしてあらゆる生活用品を軍に供出していたのだから物不足はここ以上に深刻になっているのではないかと思うようになり、以前に受け取った父 乙次郎からの手紙には「企業統制令」で経営していた製氷会社は閉鎖され、少し生活に困るようになっているとの知らせを受けていたものだから、誠はいずれ日本国内でも食糧不足が起こるようになるに違いないと考え、これまで蓄えていた軍からの給与を全て父に送り自給自活をするための「農地」を買うようにとの手紙を添えた。
手紙と金を受け取った乙次郎は誠の意向通りに農地を探したところ、運良く山口県大畠村で米川馬一氏所有の山林付き田畑が購入できたので、この後は百姓で生計を立てながら糊口をつないで来た。(当時の売買契約書を見ると日付は昭和十八年三月二十四日で購入額は壱千弐拾円・購入者は三田誠となっていて、田畑の面積は田が二反五畝四歩・畑が九畝二歩で計約千三十坪程度になろうかと思われ、別に千五百坪程度の山林があった。これは誠の死後、遺品の整理をしていた時に偶然見つけたものだが、司法書士に見せると、このような古いものは始めて見たと言っていたし、貼られている壱円の収入印紙など見れば当時を思い起こさせるような感じのものである。)

その後何度か戦闘機が飛来してきたことがあったけれども、ただ基地の少し上空を通過するだけで機銃掃射を浴びせるわけでも無く爆弾を落とすことも無かったが、次第に戦況の雲行きが怪しい状況となって行く中で不運にも誠はマラリアに感染してしまい高熱で苦しみ医療施設のベッドに寝かされていた。
元々病弱体質の誠にとってフィリピンの高温多湿の気候風土は肌に合わなかったことにも拠るのかもしれないが、マラリアに対する十分な抵抗力を持ち合わせていなかったということだろう。
また当時のことだから特効薬など無い時代なので治りは遅く、意識も覚束ないほどの高熱が何日も続いていたところへ突然サイレンがけたたましく鳴り響いた。
見張りが油断していたのか居眠りでもしていたのであろう、廻りから「敵機来襲!敵機来襲!」の叫び声が聞こえてくるも、体に自由が利かず身動きが取れない状態なので、きっと医療班の誰かが来てベッドで寝ている誠を連れ出して一緒に避難させてくれるだろうと思い、少しの間待っていたけれども、誰も病室まで来て助けてくれそうな気配がない。
誠はこのままここで寝ていたらこの建物が機銃掃射を受けるか爆弾を落とされるかもしれないとの不安が過ったけれども体が思うように動かない。
数分間の慌ただしい騒動が治まると周囲は静寂に包まれたかのような静けさとなったので、どうやら医療班の連中は我先にといち早く防空壕や密林の奥へと避難してしまい、部隊の全員も避難を終えたようで、誠は病棟に一人置き去りにされ絶体絶命の窮地に陥ってしまった。
そして妙に静かになった中、少し遠くの方から十数機と思われる戦闘機の爆音が耳に入ってくるだけで段々とその音が大きくなってくるのである。
意識も覚束ない状態でありながらも恐怖に駆られた誠は意を決してベッドから這うようにして床に落ち、頭を持ち上げて何か杖になりそうなものはないかと周囲を見ると、何に使う目的なのか判らないけれど壁際に立てかけてある背丈より少し長めの竹竿のようなものが目に入った。
 「これこそ天の助け!」と思いながら竹竿の所まで這って行き、それを手にして渾身の力を込めて立ち上がり「早く防空壕に行かなければ・・・」と棒に体を預けながら一歩を踏み出した。
戦闘機の爆音は大分近くまで来ているように感じられたが、そんなことよりも早く建物から離れなければ・・・の思いが誠の体を動かし、何とか広場の真ん中の辺りまでは辿りついたのだが、そのまま意識を失い白衣を着たままうつ伏せに倒れこんでしまった。
 どのくらいの時間が経ったのだろうか、誠が意識を取り戻した時には既に爆音は消え去り、少し離れた辺りから叫び声に近い怒号の交錯が耳に入ってくるだけであった。
今の状況はどうなっているのかを確かめたくて誠は仰向けになり空を見上げると空は青さでいっぱいの美しさが広がっていて「ワシは助かったのか・・・」と安堵の思いと同時に体に別段痛みを感じないから機銃掃射も受けなかったのだろうとほっと胸をなでおろし、ただただ「良かった」の思いだけが心と体の中に満ち溢れて来た。
暫くすると避難していた者達が誠を見つけて「三田上等兵殿無事だったんですね。良かったですねぇ~。」と近寄ってきたが病人を置き去りにしたままで自分達は逃げておきながら「無事だったんですね」は無かろうと思ったけれども、今更そのようなことを言ってみたところで始まらない。
傍に来た二人が誠の両脇を抱えるようにして立ち上がらせくれたので周囲を見渡せば病棟の建物は爆撃を受けず無事で、密林の少し入った辺りから三本の黒煙が上がっているのが目に入り、その方から大勢の声が聞こえてくるので「あれは何で騒いでいるのか」と聞くと防空壕の一つに爆弾が直撃して中に逃げ込んでいた者全員が死んだのだと聞かされた。
 病室に戻ってきた誠はベッドに寝かされた後も暫くは興奮が冷めず、何が何だか解からない状態であったが、少し落ち着きを取り戻してから改めて今回のことを振り返ってみた。
マラリアに感染したことを不運と感じていたけれど、感染していなければ防空壕に避難していただろうからそこでワシは死んでいたのだ・・・と言うことは聖師さんが助けてくれたのか・・・と思い、腹に巻いている「さらし」に手を当てて「有難うございました」と心の中でつぶやいた。
その後数日が経過すると誠の熱は下がってきて症状は驚くほどに快方に向かい、食欲もでてきて十日ほど後にはすっかり元の体調を取り戻して元気にはなったが、今回のようなことが起こるようでは、もしかしたら日本は負けるのかもしれないと思うようになって、不安の毎日を過ごしていたところ、誠が感じた通り前線の高射砲小部隊に対して連日のようにグラマンの編隊が飛来してくるようになって、ここに来て始めて激しい戦闘を繰り返す日々が続くようになった。
高射砲のことについて少し述べれば、撃つ弾は炸裂弾なので、上空を飛んでいる飛行機に対してはある程度の威力を発揮するようではあるが、命中率はかなり低かったようである。
高射砲を撃つ誠にとって低空を飛行してくる戦闘機に対してはある意味無力であって、なす術がない。
しかしある日の戦闘で誠は遙か先より低空でこちらに向かって飛行して来る一機の戦闘機らしきものを見つけた。
まだ点のように見えるが、間違いない戦闘機グラマンだと確信した誠は高射砲に跨りながら手にしている棒で水平方向・上下角度を担当する兵のヘルメットを叩いて砲身を下げさせ真正面から近づいてくるグラマンの方向を棒で指し、そちらに向けて砲身を合わせるように指示を出した。
このグラマンは必ず何処かで上空へ向けて操縦かん切るはずだからその時が撃つ絶好の時とばかりに、息を潜めるようにして待った。
周りは戦闘機の爆音と大砲や機銃の音で、はち切れんばかりの轟音の中だから声など届くような状況ではない。
両傍にいる兵隊に棒切れでヘルメットを叩きながら照準を微調整させ、近づいて来たグラマンの操縦席に座っている若い白人の顔がはっきりと見えた時、誠はここぞとばかりに射撃の紐を引いた瞬間、号砲音と共にグラマンは木っ端微塵となって視界から消え、思わず「やったぞぉ!」と叫んだ誠であったが、フィリピンに来て以来戦闘に加わった誠の最初で最後の撃墜劇であった。
しかしその日の戦況報告会において、部隊長から「三田上等兵がグラマンを一機撃墜したと言っているようだが怪しいものだ」と揶揄されてしまう。
共にいて補助をしていた兵隊が証言してくれても良さそうなものだが、射手が撃とうとする気配を感じたら両手で耳を塞ぎ、顔を下に向けて防御体制を取るものだから、飛来してきたグラマンが木っ端微塵となったのか頭上を通り過ぎていったのか解からなかったそうである。
高射砲は字の如く高度に位置する飛行機を撃ち落とす目的で製造された砲身の長い大砲である。上空で命中したのなら黒煙を引きながら墜落してゆく飛行機の姿を見ることが出来たであろうが、元々すばしっこく動く戦闘機の撃墜用に造られているわけではないから、部隊長が疑いを持ったのも仕方がなかろうと思われるが、誠の悔しがりようと言えば相当のものだったようである。
何せ戦闘機を一機撃墜したとなれば本来なら大手柄となるはずなのに、それを軽くいなされてしまったのだからねぇその気持ち判らないでもないが・・・。
その後も戦闘が毎日のように続く中、弾薬も食料も底を尽きかけた頃には既にフィリピンに上陸していた米軍海兵隊は誠の所属する部隊近くにまで進攻し始めていた。
連日砲弾を浴びせられ、空からは機銃を撃たれて窮地に陥った誠の所属する部隊長は「弾薬も尽き最早これまでである。止むを得ず撤退する」と命令を出した後、フリピン総司令部がある方向から海兵隊が攻め寄せてきているのだから恐らく連絡が取れなくなっている本隊は全滅したのではなかろうかと考え、戦闘で生き残った部隊の約半数近くとなった百名余りを連れて、行く当も無く司令部がある反対方向へとジャングルの中を進み始めた。
部隊長は軍馬を連れて刀とピストルを携行し、他の兵隊は全員が歩兵銃を持っただけの軽装備で、もしこれで米軍と遭遇したなら戦闘にならないであろう偵察隊のような部隊と化していた。
その上、持ち出し出来た食料と言えば大した量ではなかったが部隊に残っていた米を全て皆が手分けして背嚢に入れ、他に残っていた物といえば少量の乾パンだけであったと言うのだから、玉砕覚悟の死地への旅路と言った方が的確な表現であったろう。
昼間は煙で居場所を特定される恐れがあるからと、夜間に飯盒で飯を炊いて皆に配分しながら当座は飢えを何とか凌いでいたが、十日もすれば米を食い尽して、唯一残っている乾パンを分けて食料は終わりとなった。
 食料が尽き、当ての無い逃避が続く中で飢えと暑さで体力を奪われた兵隊が一人又一人と倒れてゆく中で、可哀想だと思いながらも背に腹はかえられないと部隊長は愛馬を食べる苦渋の決断をしてくれたが、数十人の胃袋を支えるには馬一頭では十分でなく、その後も倒れる者あり、いつの間にか部隊に見切りをつけ逃亡して居なくなる者ありと部隊の人数は三十数名となってしまった頃から誠は不思議な夢を見始めるのである・・・それは本当に不思議な夢であった。
ある日を境に見始めた夢の最初は山田一等兵と村上二等兵が連れ立って部隊から逃亡する夢であった。
目が覚めた誠は変な夢を見たものだと思いながらも朝の点呼の時この二名がいなくなっていることが判り、一瞬正夢か?と思ったけれども、今まで随分の兵が逃亡しているので、さほど気にも留めなかった。
しかし、数日後に見た夢は井上伍長が翌朝には冷たくなって死んでいる夢であった。
井上伍長は何かの病に冒されていたわけでもなく、特別に衰弱しているようにも見えなかったので、そんなことがあるはずも無かろうと目が覚めた誠は思ったのだけれども、この夢は正夢となり、その朝には井上伍長は死んでいたのである。
眠っている間に見る夢が翌日にその通りとなって現実となるのは少し不思議なことだと思い始めた誠であったが、まさかとは思いながらも、やはり馬鹿馬鹿しいと、夢のことを他の者に話すようなことはしなかったけれども、その翌日に見た夢は正に生々しく映画でも見たかのような場面を見せられて目が覚めたものだから、思い余って部隊長に今まで見た夢のことを交えて昨日に見た夢の内容を話してみた。
その夢とは残った部隊の面々が一列となってジャングルを歩いているうちに巾一メートルに満たないほどの浅く水が流れている場所に出くわし、次々にその場所を飛び越えながら渡っている時のこと、突然左側より機関銃を浴びせ掛けられ、ちょうどそのとき水辺を飛び越えていた鵜飼二等兵を始めとする三名がその場で撃たれて倒れる様子であったことを伝えた。
部隊長は「そうなのか、それは不思議なことが続くものだが、まあ余り気にしても仕方がないので取り敢えず先へ進もう」と深く気に留める様子も無く残された兵隊を率いて先へ進め、誠の方も部隊長の数名後について歩きながら、頭の中には様々な想いが浮かんでくるけれども、いやそんなことはないと打ち消し、昼近くになるまで歩いていたのだが、突然目に飛び込んできた光景は昨日見た夢と同じ水辺の場所であった。
「部隊長!この場所です。きにょう・山口県では昨日(きのう)のことをこのように言う・見た夢の場所がここです。早く行って下さい」と声を荒げて伝えると、不思議そうな顔をして誠の方を振り返った部隊長は誠の恐怖に駆られた青ざめた顔を見て、その気配を感じたのか慌てて駆け出したその十秒も経たぬ内に機関銃の音がジャングルの中に響き渡った。
脇目も振らず後ろを振り返ることも無く息が切れるかと思われるほどに道なきジャングルを駆け抜けようと誠以下川辺を渡り終えた数名が後に続いていた。
撃たれて死んだ三名以外は水辺から一旦引き返して様子を伺いながら隠れていたのだが、夜陰に紛れて部隊長が進んだと思われる方へ再び歩みを進め、幸いなことに翌日には何とか部隊に合流してきたけれども、ここまできての生存者は僅か十数名になってしまっていた。
誠は否定しつつも何となく気にかかってはいたが、やはりあれは正夢だったのだ。もしかするとこれも「聖師(王仁三郎)さん」のお陰であろうと考え、心の中で祝詞を唱えながらそっと腹に手を当てていると、訳も無く涙が溢れて止まらなかった。
部隊長は誠から聞いていた夢の内容が寸分たがわぬ現実のこととなったことに少し畏怖の念を抱いた様子であったが、その後も敗残兵はジャングルの中を彷徨ように歩き続けるなか、一人倒れ一人離脱し又一人倒れるで、とうとう残った兵は十名以下となっていた頃に部隊長は「三田!昨日は夢をみなかったか。どんな夢だったか」と聞いてくるようになっていたのだが、流石に部隊長が毒蛇に噛まれて命を落とすことを告げるには忍びなかった。
そして部隊長が亡くなった後は、もうこれ以上皆で一緒にいても仕方がないと、それぞれが分かれ別れとなって再びジャングルの中を彷徨いはじめたのである。
 一人でジャングルを彷徨っているうちに朽ち果てた大木の辺りから松茸のような香がしてきたので思わず「ここには松茸がある!」と探し始め、見つけたキノコは松茸とは形が少し違っていたので毒キノコではあるまいか・・・と思いながらも「いや、子供の頃に匂いの良いキノコは食べられると聞いていたからきっと大丈夫だ」と己に言い聞かせて火を熾して焼いて食べたところ味は殆ど無く食感は松茸とは縁遠かったけれど、久し振りに食料にありついた誠は毒気を心配しながらも、他にはもう生えていないかと探してみたがこれ一本だけであった。

あれから何処くらいの日が過ぎたのであろうか・・・誠は一人ジャングルの中を歩いている内に木立の切れ間から小石を敷き詰めたような河原が見えたと思った瞬間に背後から一発の銃声が鳴り響いた。

「第二章・帰還」

 誠は一体何が起こって、何故白人の看護婦がいるところへ寝かされているのだろう、確か右腕を撃たれて河原に倒れ込み、珈琲の香がしてきた頃に意識が無くなったはずだが・・・ということは、恐らくここは米軍の医療施設の中だろう、それじゃあワシは捕虜になったのか・・・と少し恐怖を感じながらも窓には鉄格子は無く、近くに兵隊がいるような気配もしないので不思議な思いに駆られる中、曖昧な記憶を辿り推測を交えて思い返してみるのだけれども、これまでの状況が整然と繋がらず結局何が何だかさっぱり判らないけれど、何とか命は助かったのだと安堵の気持ちと失った右腕のことが複雑に絡み合い情けなくて、こぼれ落ちてくる涙が止まらなかった。
ワシはこの先一体どうなるのか・・・日本は戦争に負けたのだろうか、父母や姉妹はどうなっているのだろうと不安な想いが泉のように湧き出てくる数日を過ごしていたのだけれども、今まで口にしたこともない美味しい食事を提供され、毎日術後の手当を受けているうちに気持ちも次第に落ち着いてきて、強張っていた顔の表情も何となく穏やかになってきた頃、言葉こそ通じないけれど敵兵である自分を労わり、優しく扱ってくれる看護婦に対し感謝と申し訳ないような気持ちが芽生え、次第に心が開き親しみを感じるようになっていた誠は恐る恐るであったが洗って貰っていた「さらし」をまた腹に巻いてもらうように頼むと、確かナンシーと言う名の看護婦であったと記憶しているが快く応じてくれ再び誠の腹に「サラシ」が戻ったのである。
傷口が少しずつ癒えてきて体力も戻ってきたように感じた誠は、ワシはあの時死んだと思っていたのに何故自分が今ここに居るのか詳しいことが知りたくなり、拙い英語と身振り手振りを加えてナンシーに通訳を連れてきて欲しいと頼んだところ、数日後に日系人の通訳が病室を訪ねてきてくれた。
挨拶を交わして少し会話を進めているうちに感じたことは日系人とは言え、この通訳は本当に日本語が上手だと思って安心した誠は一気に知りたいことを聞き始めた。
「ワシは捕虜なのか」と聞けば「いや、そうではない。ここは赤十字病院だから敵味方の区別なく傷病兵がいれば、その者を助ける施設である」と言われたが、赤十字のことをよく知らない誠は不思議な思いをしながらも「では何故ワシがここにいるのかを教えて欲しい」と尋ねると、通訳は傍にいたナンシーと話を始め、当時の様子を聞いてくれているのは何となく判るのだが、少し甲高い声で大げさとも思える身振りを交えての話が長いこと長いこと。
十分位は待っただろうか、話を終えた通訳は納得したかのように首を縦に数度振りながらこちらの方を向いて語り始めた。
あなたを発見した日は赤十字の看護婦の方達がピクニックに行く途中で、偶然としか思えないけれども河原に倒れているあなたを見つけて傍に寄ってみたところ、まだ息があったので「助けなければ」と応急の止血を施して、数名が担架と医薬品を取りに赤十字まで戻って行き、応急処置を済ませてから直ぐにあなたを担架に乗せて運んだのだそうですよと言う。
女ばかりであなたを運んだのだけれどね、体が小さくて軽かったから運ぶのに苦にならなかったことも話してくれ、実は赤十字の施設に戻ってからの方が大変だったのだと聞かされた。
 一方の赤十字では担架と医薬品を取りに戻った看護婦から手術の必要がある手首を失っている日本兵を運んでくると聞かされていたので、誠が運ばれてくる間に医師たちは手術の準備を整えて待っていたというのだ。
手術室に運ばれてきた誠を見た医師は直ちに衣服を取り払って全身を清拭し、消毒する指示を看護婦達に出した。
看護婦達は汗と泥で汚れた軍服上下を鋏で切り、手術の邪魔になるからと腹に巻いていた「さらし」も切ろうとしたところ、意識のない誠が突如暴れ出して「さらし」を切らせなかったのだと言うのである。
それでも看護婦達は何度か「さらし」を切ろうとしたけれどその度に暴れて切らせないので、止むを得ず体を抱きかかえて腹に巻いていた「さらし」を解いたのだと聞かされたが、誠には全くその記憶は無く、また看護婦達は意識が無い誠に何故そのようなことが出来るのか不思議に感じたようで、きっとこれはとても大事なものなのだろうと察してくれ、解いた「さらし」を洗濯してパイプベッドの頭の部分に掛けておいたのだと聞かされた。
撃たれた誠の右手首から下は銃弾が手首の骨の中心に当たったのであろうと思われ、打ち落とされていて、傷口からの感染を恐れた医師は手術で右肩十五センチメートル下の辺りで切断して縫合したのだとも聞かされた。
 手術後3日間は眠っていたようで、看護婦達は衰弱した重症の誠をここまで運んできたけれど、無駄になるのではないかと案じていたことや、その外にも起こった些細なことまでも通訳が告げてくれたので、途切れていた意識の部分が誠の中に新たな記憶として刷り込まれていった。

 銃で撃たれた時点では既に終戦を迎えていたか否かについては、はっきりしないままではあるけれど、もしあの時日本兵に銃で撃たれずに河原まで出ていて、出くわしたのが米軍の兵士達であったら戦闘になって撃ち殺されていただろうし、撃たれた状態で出会っていても恐らく「この状態ではもう助かることはなかろうから楽にしてやれ」と止めの銃声を聞く羽目になったのではないかと考えると、これは奇跡に近い状況の組み合わさり方で、きっと天空から降ろされた透明な糸に導かれるように仕組まれていたことに違いないと自覚した誠は「聖師さん本当に有難うございます。聖師さんのおっしゃられた通りとなって大変なところへ来ましたが、命だけは助けていただきました。でも言い付けは、ずっと守って・サラシ・を肌から離さず腹に巻いて今日まで来ています。本当に有難うございました」と心の中で祝詞を唱えながら王仁三郎に感謝の想いを告げる誠であった。
 それからの誠は傷が完全に癒えるまで一ヶ月以上の入院をしていたけれど、その時点では既に大東亜戦争は終結し、日本が負けたことも聞かされたので、このような状況の中でワシは帰国できるのだろうかと思い始めた誠は思い切ってナンシーに聞いてみたけれど、看護婦ではそのようなことは判らないし自分達ですら、いつ帰国できるのか予定も聞いていないと言うのである。
それはそうであろう、一国を占領した国がその後の扱いや方針を決めるまでには相当の時間を有するはずだから、一ヶ月前まで敵国であった傷病兵一人の扱いなど、最後の最後であろう。
傷も癒えた誠は少し退屈を感じながらフィリピンの赤十字病院でこの後半年以上を過ごすことになるのだが、終戦直後の日本は食糧難で国中が苦しんでいる中、身の安全も保障されている上、飲食にも不自由することが無かったのだから、片腕を落としたことを除けばきっと楽園にいるような気分であったのではないだろうか。
 それから暫くたった後、誠に帰国予定の日が知らされたのは、年も明けて昭和二十一年の夏前の頃であった。
傷病兵だということで日本に向けて出向予定のある赤十字船に乗っての帰国だと告げられ、やっと日本に帰れる家族にも会えると心は弾んだけれども、戦時中に亡くなった戦友たちのことを思い出すと少し心が痛む誠であったが、いよいよフリピンを去る日には命を助けて貰った上に、日々お世話になった赤十字の方々に改めて厚く御礼を述べて別れを交わした後は、ジープに乗せられて港まで送ってもらったのである。

 港には病人や負傷兵などを収容するためであろう赤十字船が停泊していて、誠はこの船に乗せられた。
収容された船室には4人分のベッドが備え付けられていたが、他の日本兵はいなかったので、少しの不安と寂しさを感じたけれども、日本へ帰れる嬉しさの方が勝り、その日は両親や姉妹に会ったら何と言おうか・・・片腕を落としたことをどのように伝えようか・・・などの思いを巡らせている内にいつの間にか眠りに就いた誠であった。

翌朝出航の準備を整い終えた船は港を離れ、この港以外のフィリピンの港数箇所に寄りながら傷病人を収容して日本に船首を向けたが、日本兵の収容は一人も無かったので若しかしたら日本軍は全滅したのではなかろうかと思うようになったけれども、日本に帰るまで広い個室のような使用が許された病室になったので、誠にとっては米兵の負傷兵以上の待遇を受けたことになるが、船内には米軍の負傷兵・病人が多数収容されているのだから、この様な状況の船内で一緒にいても大丈夫なのだろうかと少し不安が過った。
何せ、以前は敵味方に分かれて戦闘をしていた相手であり、負傷の原因は日本軍によるものだろうから、その恨みが自分に向かわなければよいが・・・とこの時は思ったのだけれど、後にそれは杞憂に終わり、危害を受けることもなく、侮蔑や恨み言のような言葉を掛けられることも無かったと言う。

誠は日本に帰れる喜びと、片腕を失った失望感とが入り混じって複雑な感情と共に長い船旅を終えて着いた日本の港は横浜であった。
 横浜に着いた誠はここで日本側に引き渡され、その後に開放されて田舎へ帰れると思っていたようだが、そうはならず、相模原にあるアメリカ陸軍医療センター(現さがみ原厚生病院)へと移送されたのである。
この医療施設は終戦までは相武台陸軍病院と呼ばれていて、日本全国に六ヶ所あった旧陸軍造兵廠付属病院の一つであったが、終戦後はアメリカ軍が収用し、進駐軍が使用する病院となっていた。
誠の術後の経過は良好・完治していたので、この時点では既に退院できる状態にあったのだが、どうやら誠が助けられてすぐに終戦を迎えていたようなので捕虜ではないけれども捕虜のような扱いを受ける羽目になってしまい、これから約一年近くもここでの入院生活を強いられることになってしまったのである。
その訳と言うのは、要するに米軍が預かっている負傷していた旧日本陸軍の兵士を日本側に引き渡す手続きが非常に煩雑で、また終戦後間もない時だから日本の行政もまだ十分な受け入れ態勢(身柄引渡し書類の作成や手続きの手順など)が出来ていなかったのだと考えられ、その対応に相当の時間を要したと言うことであろうと想像できる。
また誠の下には米軍立会いで日本の行政側から度々役人が尋ねてきて、氏名・本籍地・父母姉妹の氏名・召集がかかった時期からフィリピンへ配属され所属していた部隊名や、はっきりと戦死したことが判っている所属部隊兵士の氏名・出身地など何度も同じ様なことを聞かれるので、最後の頃はうんざりしたと話していたが、恐らく戦死者の名簿作成に加えて戦後のどさくさに紛れた他人への成り済ましを警戒してのことであったのではないかと考えられる。
家族想いの誠にすれば、傷はとっくに治っているので、一日も早く田舎に帰りたかったのだけれど帰省は許されないまま身柄は病院に拘束されて思うようにならず、ならばせめて手紙でも出したいと願い出ても見たけれど、如何なる理由かについては伝えられないままその願いは叶えられずアメリカ陸軍医療センターに留め置かれ、結局終戦後二年以上経ってからの帰省となるのだが、一方誠の両親や姉妹達は激戦地であったフリピンの部隊は全滅したとの報道を耳にしていたものだから、てっきり誠は戦死したとばかりに思い込んでいたという。
 毎日々退屈な日を過ごしていたけれども、様々な手続きがやっと終わり、開放されることになった誠は帰省に掛かる費用だとして日本政府から一時金を支給され、帰省できる日がやってきた。
帰省日には、逸る気持ちからか数日前から身の回りの物を整理して準備を整えていたが、持ち物といってもほんの僅かで、戦時中に使用していた飯盒や支給された衣類など纏めていたものをリュックに入れた程度であった。
帰省当日の朝にはお世話になった方々全員を訪ねて丁寧に御礼を述べた後、仲良くして貰っていた数名に見送られて、気が逸るのか汽車の出発予定時間よりも随分と早くに駅へと向かった。
乗車予定の列車がプラットホームに到着するまでの時間が本当に長く感じられたが、列車が着く頃には次々と乗客が集まってきていて、プラットホームは人で溢れ返るほどになっていけれども、早くに駅まで行き待っていたことで何とか座る座席を確保できたことは幸いであった。
利き腕を失った誠にとっては様々な日常の動作に何かと不便や不自由を感じていたのだが、列車の中でも直ぐにそれが起こった。
 僅かな荷物だけれども網棚に上げることが叶わないので、止むを得ず膝の上に乗せての旅となったが、結果的には防犯と居眠りの枕代わりとなってくれたので返って幸いしたようである。
何度か乗り継ぎながら山口県を目指しての汽車の旅は買い出しの乗客などで、いずれも超満員であったけれども再び生きて家族に会える喜びから苦痛に感じることはなかったが、帰省の途中で何より先に「聖師さん(王仁三郎)」にお会いして御礼を申し上げなければ・・・の想いが強く誠の心を揺さぶったのだが、迷いに迷った挙句に出した結論は、まず家族に顔を見せて無事帰還できたことの報告をした後、少し落ち着いてから身なりを整えてご挨拶を兼ねた御礼に伺うことにしようと予定を立てたようである。
と言うのも出征前に「命だけは助けてあげる」と約束してくれた「聖師さん」は私が死んでいないことはきっとご存知のはずだから、まず家族の方を優先しようと身勝手な推論を組み立てたということであろう。
そのような想いの中、数日掛けた汽車の旅は最後の乗り換え場所である広島駅に着き、乗り次いだ列車は岩国駅を経由して、そこからは懐かしい瀬戸内の海や島々を車窓に見ながら誠を運ぶ役目を終えた山陽本線下りの列車は山口県大畠駅へと到着した。
 
 やっとの思いで生まれ故郷の駅に降り立った誠が大きく息を吸い込んで目を瞑ると、少し遠い記憶にあった潮の香と磯の香とが入り混ざった何とも例えようのない懐かしい香が誠の幼少の頃からの記憶を呼び覚まし、走馬灯のように、あの磯でサザエを取った、そこの波止場ではよく釣りをしたなぁと、思いを浮かべ心に安堵と感謝の気持ちを生じさせたが、直ぐに我に帰り、早く家に帰らなければとホームを渡り、改札口を出て駅前にある家へと向かった。

 丁度その頃に家では母ヲトミが急に何かに取り付かれたように「誠が帰ってきた!誠が帰ってきた!」と喚き始めたものだから妹達は何が起こったのかと玄関(とは言うものの、家は大きな借家で駅前に面した本来の玄関は店舗として別な人が使用していたから、実際はこの家の裏口を玄関として使用していた)の方を見れども誰もいないので、誠のことを心配する余り、気が変になったのではないかと思ったと言うのだが、その数分後に誠の姿が幽霊の如く、す~っと玄関に立っていたのである。
 誠を見るなりヲトミは嬉しさの余り「あっ~」と声を上げ裸足で土間に駆け下りて誠の体を抱きしめたが途端、一瞬の間を置いて悲痛な叫び声を上げた「誠の手が無い!誠!手はどうした!」と言いながら、誠の肩を両手で掴んで揺すり始め、小さな両拳で誠の胸を叩いていたが、膝から泣き崩れ落ちてしまった。 
利き手を失った誠はそのことを告げないまま帰宅した負い目からか「只今帰りました」の言葉も出せず玄関先に立ったことを後悔したが、ヲトミは狂ったように泣き叫ぶばかりで、妹達も誠の姿を見て泣き始めていたのだが、気を取り直して玄関先に行きヲトミの体を抱きかかえて座敷へと連れて上がった。
ヲトミの心をなだめ、落ち着かせるのには暫くの時間が必要だったが、やがて落ち着きを取り戻したヲトミは誠の帰還を喜び「今日は誠が帰ってきたお祝いをせにゃあならん。修子(しゅうこ四女)・瀞子(きよこ・五女)一緒に来い」と妹達を連れて食材を求めに出かけていった。
残された綾子(あやこ・六女・末娘)は「兄ちゃん、疲れただろうから、風呂に入りんさい。疲れが取れるよ」と誠のために風呂を沸かし始め、戦地ではどのような状況であったのか、どうして手を失ったのかを聞いてきたが、誠は「皆が揃った時に話すから、それまで待ってくれ。ただな、それは一口で話せるようなことじゃなくてなぁ、・・・本当に大変だったんだ」とだけ伝え、久し振りの我が家(とは言っても借家である)に帰れた安心感から、仰向けに寝そべり目を閉じて、これまでのことを思い返しているうちに、うとうとと眠ってしまった。
「兄ちゃん、お兄ちゃん!風呂が沸いたけぇ入りんさい。浴衣は出してあるけぇ」と綾子の声で目を醒ました誠は「お~そうか有難とさん。じゃぁ風呂を貰おうか」と下駄を履いて台所と隣り合わせにある風呂場へと向かった。
綾子が沸かしてくれた五右衛門風呂に身をゆだねながら、誠はとてもフィリピンから生きて帰れるとは思っていなかったが、こうして家に帰れたし家族にも会えたのだと思うと自然と涙が出てきて止まらなくなったけれど、これもあれも全て「聖師さん」のお陰だと改めて思い返し、声を出して天津祝詞(あまつのりと・仏教で言えば経のようなもの)を唱え始めた。
天津祝詞を唱えている途中で何やら外から話声が聞こえてきたので、そちらの方へ少し聞き耳を立てると、どうやら父乙次郎が帰ってきた様子である。
突然風呂場の扉が開いて「誠!おまえ無事だったんかぁ!よお帰ってきてくれた。てっきり死んだと思うちょったんじゃが、そりゃぁえかった(良かった)!えかったのう」と懐かしい父の声を聞き、顔が見えた途端、誠は湯船に浸かったままで突然溢れてきた涙と共に「お父ちゃん只今戻りました」と声にならないような声で帰宅の挨拶をした。
乙次郎は直ぐに扉を閉めて「さあ~て、こりやぁ今夜は祝いじゃ!祝いをせにゃぁいけん。ヲトミは何処へ行った。ヲトミは何処か?」と綾子に話しかけると「おかあちゃんはお姉ちゃん達と買い物に行った。兄ちゃんの祝いをするんじゃ言うて」それを聞くなり乙次郎は「そうかそうか、もう買い物に行ったか・・・」と呟きながら座敷に上がり八畳の部屋を熊のようにくるくると回りながら思案を巡らせ「そうか、それじゃあ親類にも言わにゃあいけんのぉ。え~と、それから、あそこと、あすこにも・・・いや、あそこはええか・・・」と言いながら土間に下りて下駄をつっかけ、そそくさと出かけていった。
誠は体を洗って風呂から出てきたが、肩まで湯船に浸かっていたせいで、乙次郎は誠が利き腕を失っていることにまだ気付いていないし、綾子もそのことを伝える余裕もなかったようだから、祝いの席を思うと憂鬱な気分になったが、今更どのように願っても手が生えてくるわけでもなく、どうにもならないと腹を括って夕餉の時を待つことにした。
暫くしてヲトミと妹達が買い物から帰ってきて「ただいま、お兄ちゃん、今日は大ご馳走よ!お母ちゃんがねぇ、お兄ちゃんが帰ってきた祝いじゃけぇ奮発するんじゃ言うて、特別に牛と鳥と卵とねぇ・・・」と嬉しそうに伝えてくれる。
綾子は「お母ちゃんが出た後でお父ちゃんが帰ってきて、お兄ちゃんが帰ってきた祝いをするんじゃ言うて、親戚の家とかを呼びに行ったよ」とヲトミに言うと、ヲトミは「それじゃあ足らんわぁ、こりゃあもうちょっと、ようけ(もっと沢山)買い物して来にゃあいけん、修子、もう一回行こう、瀞子と綾子あんたらはご飯の支度をしよりんさい」と言いながら、あたふたと買い足しに出かけていった。
 家に残った瀞子と綾子に誠は戦地へ行っている間に家で起こった出来事などを聞いていたが思い出したように「そう言やぁ田畑を買うように手紙と金を送ったが、それはどうなった?」と聞くと、米を研ぎ終えた瀞子は竈に向かつてご飯を炊く支度を始めながら「ここからちょっと上のほうに田んぼと畑を買うちょるんよ。それでお父ちゃんが毎日畑の世話をしよる」と言うので、誠はそれなら何とか食べることに困ることはなかろうと少し安心して「それはどの辺にあるんかいのう」と聞けば「瀬戸に焼き場(露天の火葬場)があるじゃろう、そこから少し西の方で、西村医院のそばの川を上へ上った辺よぉ」と言われて、何となく田畑がある辺りの見当がついた。
それから暫くは親戚の話や親しい人に加えて大本の信者の人達の様子を聞いていたところへ、ヲトミと修子が両手に持った買い物籠から溢れそうなほどの買い足しを済ませて帰ってきた。
帰るなりヲトミは「修子あんたは野菜を洗いんさい。瀞子は人がようけ来るんじゃけぇ膳の支度をしんさい」と言うやいなや直ぐに夕餉の準備に取り掛かり、あたふたと動き始めた。
暫くすると近所の手伝いに出かけていた文子(ふみこ・次女)と幸江(さちえ・三女)も帰ってきて、誠の帰還と失った利き腕のことで、もう大騒ぎとなってしまったが、それを見ていたヲトミは「うるさい!口は動かさんでええけぇ手ぇ動かせ!」と一喝して「幸江おまえは酒を買てこい。三升はいるじゃろうけぇ文子おまえも一緒に行けぇ、それから(金が無いので)附けにしてくれと言え」と指示をだす。
 ヲトミと妹達は祝いの夕餉に向けて漁協から求めた新鮮な瀬戸内の刺身に煮付け・散らし寿司・すき焼きの準備をして皆が来るのを待った。
日が落ちかけた頃になると乙次郎が声掛けをした親戚や大本信者・近所の親しい人達がそれぞれ祝いの酒や品物を手にして三々五々集まってきた。
そしてヲトミに「良かったねぇ、よく生きて帰れたもんじゃねぇ、フィリピンじゃったんじゃろう・・・兎に角、長男が無事じゃったんじゃけぇ何よりじゃ。何よりじゃ」とこれまでの苦労に対する労いの言葉を掛けてくれた。
最後の招待客は片道徒歩三十分以上もかかる遠戚の主人で、迎えに行った乙次郎と一緒にきて、皆が揃い祝いの席に着いた。
誠は戦地に赴く前に使っていた背広を着て上座に座り、皆が揃うのを待っていたが、誰も誠の右腕が無いことに気付かず、無事の帰還に対する労いと祝いの言葉を掛けてくれていたところへ、乙次郎が下座に座り「え~本日は突然ではありましたが、お忙しいところ長男誠の帰還の祝いにお集まり頂き有難うございます。粗酒粗肴ではありますが、誠の帰還の祝いをして頂ければあり難いと思います。誠何か言え」と乙次郎が開宴の口火を切る。
 誠は「皆様お忙しいところ私のためにお集まり頂き有難うございます。大変な戦地へ行きましたが、何とか帰って来ることが出来ました。これも皆さんのお陰と感謝しています」と懐かしい顔ぶれを見ながら話し始めたところ感激の余り少し涙声になってしまったのだが、皆が「よぉ帰ってきた。良かったのう」と口々に声を掛けてくれたので、心が楽になったのか戦地での話を少し語ったところで「何とか親不孝をせずに済みました」と締めくくった。
 誠の話が終わったところで乙次郎は寺の住職を名指しして「それじゃあ上川さん、乾杯の音頭をお願いできるかのう」と振ったところ、上川さんは待ち構えていたかのように「え~それでは僭越ではございますが、え~三田家の長男である誠君が戦地より無事に帰還されました。え~先ほどの話では戦地でのご苦労は大変なものであったようですが、こうしてまた誠君の顔を見れたことを何より嬉しく思います。それでは皆さん乾杯しますので、ご唱和お願いします。乾杯!」の声に引き連れられて一斉に「乾杯」「誠ちゃんおめでとう」「「誠さん良かったね」「誠さん何よりじゃ、何よりじゃ」の声で祝いの宴が始まった。

 宴が始まるや否や皆が次々に誠の前に来て酒を勧めるので、余り酒の強くない誠は少し困りながらも酒を注がれる度に一口ほど口に含んでは応対していたのだが、左手で猪口を差し出す誠を見ても誰一人未だ利き腕を失っていることに気付いていないようであった。
やがて、皆が料理を口にし、宴も盛り上がり始めた頃、料理に箸をつけない誠を見ていた乙次郎が誠の前に来て「誠おまえも食え、今日はおまえの祝いじゃ」と料理を勧めに来た。
誠は「う~ん」と言いながら左手で箸を持ちぎこちなく料理を摘もうとした時、誠の背広の右腕がだらりとしたままで袖口から手が出ていないのを見て「誠!お前右腕はどうしたんか。無くしたんか!」と乙次郎が声を荒げた。
その声を聞いた皆は一斉に誠の方を見て、今まで気付かなかったが背広の袖口の先から手が出ていないことに気付き、場は騒然となったが、誠は「黙っていようと思っていた訳じゃあないんじゃが、ちょっと話し辛うてねぇ・・・つい言いそびれちょったんじゃ」と伝えて、利き腕を失った経緯を皆に話し始めた。
話を聞いた皆は「日本兵に撃たれてアメリカに助けられたんかぁ~そりゃぁ不思議なことじゃったのぉ~、そんで正夢まで見るようになったとはのぉ~」と言い、大本信者は「そりゃぁ絶対に聖師さんのお陰じゃぁ、利き腕はのうなった(無くした)が、生きて帰れたんじゃけぇ、えかった(良かった)と思わんにゃぁいけんじゃろう」と、それぞれが想いを口にする。
暫くすると騒ぎも落ち着き、利き腕をなくしたことは残念ではあったが、生きて帰れたのだからと皆も喜んでくれた。
誠は「身体髪膚父母よりこれを受く、あえて毀傷せざるは孝の始まりなり」を思うと利き腕を失ったことの後ろめたさは消えなかったけれど、これも定めだと言い聞かせ、死んでいればもっと親不孝であったのだから・・・と心で折り合いをつけて、誠は母ヲトミが作ってくれた懐かしい料理の味を喜び噛み締めながら感謝と共に体に収めていった。
やがて祝いの席はお開きとなり、皆を見送りした後にヲトミと姉妹達が後片付けを始めた姿を見ていた乙次郎は誠の傍にやってきて「誠や、おまえこれからどうするんか?何か考えちょることはあるんか?」と聞いてきたが、誠は「う~ん・・・今は何をしたらええんかがようわからん。取り敢えず落ち着いたら聖師さんのところへ行ってお礼を言おうと思うちょるくらいかのう」と言葉を返すと、乙次郎は「そりゃぁそうじゃのう、まぁこれからのことはまたゆっくり考えようや。今日はもう寝たらええ。あ~それからのう、田んぼと畑はもう買うちょるけぇ心配せんでええけぇ」と誠の行く末を心配しながらぽつりと言い「ほんじゃぁわしはもう寝るけぇの」と二階の寝床へ向かって行った。
妹達と片付けを終えたヲトミは「誠今日はお前もえらかったろう(疲れたろう)布団を敷くけぇもう寝たらええ。今日はここで寝んさい」と誠のために宴会場となっていた八畳の部屋に床を整えてくれた。
寝床に入った誠は酒が入っていたせいでもあろう、もう何も考えられず少しぼんやりとしていたが、妹達が風呂に入る気配を感じながら、そのまま眠りに就いた。
 翌朝母ヲトミが朝餉の準備をしている物音で目が覚めた誠は襖を開けて板の間に向かい「母ちゃんお早う」と声を掛けると、ヲトミは「お~もう目が覚めたんか。もうちょっと寝ちょったらええのに」と言ってくれたが、台所から漂ってくる茶粥の匂いが懐かしく「母ちゃん、茶粥作りよるんかぁ懐かしいのう。早よう食べたいのう」と話しているところへ乙次郎と妹達が二階から下りて来て「お兄ちゃんお早う、もう起きたんね」と言いながら顔を洗って朝餉の準備をしているヲトミを手伝い始めた。
誠が顔を洗っている間に茶粥が炊き上がり、久し振りに家族全員揃っての朝餉を迎えることになった。
朝餉は茶粥と漬物に昨日の宴会の残り物であったが、誠が茶粥を食べる姿(茶粥が入った茶碗をちゃぶ台の上に置いたまま、腰をかがめて口を茶碗にあてがい、左手で持った箸で茶粥を啜りながら?き込むようにして食べるのだから、まるで犬や猫が食べているようにも見える)を見ていたヲトミは辛かったのであろう朝餉に箸がつけられず、とても寂しそうな顔をしていた。
三十年近く利き腕で生活をしてきていたのに、突然左利きで生活しろといわれても、そう簡単に出来るものではない。
米国所属の赤十字で療養してもらっている間の食事はナイフこそ使えなかったがスプーンとフォークだから然程に不自由を感じることはなかったのだが、いざ箸を使うとなれば上手くはゆかず、少し練習したからといっても、なかなか直ぐには使いこなせるようにはならなかったので、一番悔しい思いをしていたのは誠本人であったであろう。

余談になるが、随分と前のこと「箸」の文化について考えてみたことがあり、その切っ掛けは種子島に鉄砲が伝来された時、ポルトガル人の饗応を担当した当時の役人(武士)が書き残している文面に「食するに箸を用いず、飲するに器を用いず、何と野蛮な人種である」というような内容が記されている歴史書を読んだことがある(この文面は現存し、資料館に展示されているとも記載があった)。
それまでにも三百年以上前の頃まではヨーロッパ人は食事をする際は手掴みで食べていて、飲料はラッパ飲みで、水道は無く便所すらなかった国々であったとの記述がある本を読んでいたこともあって、ふと「箸」について考えてみたのである。
 今の日本では幼児が自分で食事を食べ始めるころ最初に使う道具は「スプーンかフォーク」で、ナイフは危険を伴うので使わせることはないと思うが、単純な機能しか持たない道具である「スプーンとフォーク」は幼児でも直ぐに上手く使いこなすようになる。
それから四・五歳前後からであろうか、次の段階になると「箸」を使う訓練に励むようになる。
「箸(弥生時代から使用されていたようです)」は細く削って作った竹二本で食事が可能なとても高度な道具で、スープや味噌汁などの汁物は扱えないけれど、刺す・掬う・摘む・掻き寄せる・別ける・包む(くるむ)など多くの機能を持ち合わせている反面、相当訓練を積まなければ使いこなせないものである。
このような経緯から考えると「箸」は大人が使う食事用の道具で「スプーンやフォーク」は幼児の使う道具であるから、大人になっても数多くの「スプーンやフォーク・ナイフ」を使って食事をしている欧米人の文化意識は日本人と比較すれば、やはりかなり低いと捉えて良いのでないかと思う。
また金属製の「スプーンやフォーク」がいつ頃に日本で使われるようになったのかについては恐らく明治維新後ではないかと想像していますが、それまでの日本の幼児は木で作られた「匙」でも使っていたのだろうか?それとも親が箸を使って食べさせていたのだろうかの疑問が湧くけれど本題から逸れますので、今後の課題にします。
 
 誠が利き腕を失ったけれど帰還したことは、あっという間に小さな村中と近郊の大本信者に知れ渡り、話を聞きつけた多くの人達が誠を尋ねてきた。
誠から戦地での話を聞いた大本信者の方達は口々に「良かったねぇ、それなら直ぐにでも神前にお参りして聖師さんにお礼を言いに行かにゃあいけまぁ」と言い、誠も落ち着いたらそうしようと思っていたものだから、その気持ちに拍車がかかった。
数日が経つと尋ねて来る人も少なくなり、気持ちの落ち着きを取り戻した誠は京都行きを決意して、準備を始めた。
京都亀岡へは出征前に命の架け橋をして頂いた山脇さんを是非に誘ってと思っていたのだけれど、先日帰還の挨拶に伺った折に体調を崩しておられことが判ったので、誠一人で行くことにした。
山陽本線上りで京都駅を経由し、山陰線に乗り換えて亀岡に到着した誠は早速大本本部の事務所を尋ねて戦地に赴く前の経緯を話して、兎に角聖師さんにお目にかかり戦地から無事帰還できた御礼を申し上げたい旨を伝えたところ、聖師さん(出口王仁三郎)は体調を崩して誰にも会える状態ではないと告げられた。
誠が非常に残念がって少しうろたえ、もたもたしているところへ、誠が来ていることを聞きつけてきた「日向さん」がやってきて、王仁三郎の現在の状況を詳しく伝えてくれた。
そして誠が無事日本へ帰っていて、近い内に亀岡にやって来ることは既に聖師さんは判っておられ、自分も聖師さんからそのことを聞き及んでいたことなどを聞かされた誠は、そこまで判っておられたのか・・・と納得しながらも、会えなかったことを悔やみながら亀岡を後にし、そのまま総本山がある綾部へと向かい神前へ正座して祝詞・神言(かみごと・少し長い祝詞)を唱えて帰還の報告を行った後に、後ろ髪を引かれるような気持ちのまま山口県へと足を向けた。
 
 そしてその数ヵ月後、王仁三郎は自分の代では最早世界の平和は叶わず、その想いを次の世代に託す元となる誠が無事に日本に帰還できたこと確認したからであろうか、安堵したかのように穏やかにこの世を去っている。




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「酔龍の独り言:その011」

 東京では緊急事態宣言を解除した途端に新型コロナウイルスの感染者100名越えが続いていますし、その他の地域でもこれまで感染者が暫く0人であったところも数名の感染者を見るようになって来ました。
その最中、またもや九州を豪雨が襲い熊本・大分地方に大きな災害をもたらしていて、今日には岐阜県や長野県まで被害が増加している。
報道によると原因は「線状降水帯」が発生し、長時間停滞したことによるのだそうだが、これの報道は的を射ていないし、本質のすり替えであると思う。
確かに豪雨の直接な原因は「線状降水帯」であるかも知れないが、土砂崩れ・堤防決壊などによって引き起こされる災害はある意味「人災」ではないだろうか。
また今回の災害を起こした原因は何十年に一度の「記録的な豪雨」によるものでもあると報道者達は言うけれど「線状降水帯」が引き起こした「記録的な豪雨」は自然が原因であることに疑いの余地はないけれども「記録的な豪雨」=「(自然)災害」にすれば一般的には解かり易く、それが原因であると誰もが思ってしまうが、これは本質的な部分で問題をすり替えていないだろうか。
前段の方程式が成り立つのなら、豪雨が生じた全ての河川で氾濫が起こらなければならないが、そうなっているわけではなく今回の豪雨で主たる被害を受けたのは熊本県では「球磨川」大分県では「筑後川」であり、岐阜県では「長良川」である。
この「球磨川」は急峻な川なので、元より川の流れは速く、上流の水が下流域に到達する時間が早くて、蛇行している上に川幅が急に狭くなっている場所が多くあり危険な部分を持っている河川であることは県の河川事務所も国交省も把握しているし、過去にも数度の氾濫を起こしているから、この部分を捉えれば「記録的な豪雨」ではあるけれども「人災」ではないかと思うのである。
つまり、予測不可能ではなく予測は出来ていたけれども「予算」が口癖のお役所仕事では、事前に手を打つ事はせずに、事件にならなければ対処しない悪習慣の踏襲を繰り返し来た結果と言っても良いと思う。
ちょっときつい言い方になってしまいましたが、消費税を10%に上げたにも拘らず、以前より住み良い暮らしになったと感じている人はいないと思うし、毎回話題に上がる霞ヶ関の天下先創りに加えて、政府(官僚かも)ご用達の企業への莫大な金額の垂れ流しを「どげんかせんといけん」と言われ続ける中でも一向に改めようともしない為政者達では徴収した税を先立って国民に還元する気は髪の毛の先ほども感じられない。
この宇宙は人・自然・星を含め全てが調和で成り立っていることの自覚も認識も無く、調和を乱している張本人が日本に於いて「官僚」「政治家」となっていては、如何ともし難い。
本来なら人が生きてゆく手本となるべき職業に就いている「人物」であるはずの者達が「欲」に負け「権力」に諂い「性根」まで卑しくなってしまった今となっては、もう救われる事は無く、自然による報いを受ける以外になかろうと思われるので、残念でならない。
その犠牲となるのが国民だから、口先ばかりで「神国・日本」を唱えている為政者達よ、恥ずかしくはないか。
 とは言っても、私達国民も平常時には化学や科学の力に頼って恩恵を受けているので、日常の生活の何もかもが「安全」で「安心」であると、つい錯覚を起こしてしまい、人の持つちっぽけな力を信じて神である自然に抗うことばかりに血道を上げてきた。
為政者も口癖のように「安全」で「安心」な社会を目指して・・・と「安全」と「安心」を安売りし、いとも簡単に手に入れられるような発言をするけれども、実際に手にした者はいない。
そうは言いながら、実際に今「安全」と「安心」を感じている人はいると思うが、それは錯覚であり、いつ現在は何とか保たれている均衡の調和が崩れて「安全」と「安心」が失われるかの保証はないのである。
現に、数十年以前から現在に至るまで「被災した人達」は「被災するまで」は「安全」と「安心」を感じていた人達ではないだろうか。
洪水や津波が怖いのであれば、高台に住む以外にはないけれど、高台である山裾の土砂崩れを心配するのであれば平地に住むより外にないのだから、ではどうすれば良いのかと言うことになると、本来人が住む安全な場所など地球上には存在しないとの自覚が必要だと言うことになろう。
このように考えれば「(自然)災害」の捉え方が二通りに別れ、化学と科学の力をとことん信じるのであれば全ての災害は「人災」として裁判所に提訴も可能となるが、自然と共に共存する立場を取るのなら災害は全て「定め」により受けた結果であるから、裁判所など何の役にも立たない。

 地震・台風・竜巻に津波を含む水害に加えて土砂崩れなど自然災害と呼ばれるものの一つに「遭遇」するまでは、自分が住んでいる場所は「(ある程度)安全で安心」できる場所だと誰もが信じていたに違いない。
そして住んでいるその場所は、他の多くの選択肢があったはずなのに、その中から「ここが一番良い」と自らが選らんだ場所で、その理由とは次に掲げるものが該当すると思われる。
① :土地(建物を含んで)の価格など経済的な事情
② :仕事に係る利便性
③ :子供の教育に関する事情
④ :通風や日当たりの良さに加えて地域性などであろうと思われる。
その場所を選んだ主体を自分に置くならば、色々と考え迷った挙句にここ以外の選択肢はなかったからだと言うことであり、主体が別にあるとするならこの場所を「選ばされた」ということになるが、悪く言えば美味しそうなものがここにあるよと思わされ、食いついてしまったと言い換える方が解かり易いかも知れない。
結論から言えば、数十年後には「被災する」ことが決まっている場所を自らが選んで手にしてしまったと言うことです。
いずれにしろ、この場所を選んだ以上「時が来れば」もう避けられない「定め」であったことに疑いの余地はない。
 身も蓋もないような表現になってしまいましたが、残念ながら「本質」を捉えて時系列を重ね合わせた上で出来事を鑑みればこのような表現になってしまいます。

 洪水に関して私なりの見解を申し上げれば、人が便利さを追求してきた結果により引き起こされた二次的三時的な結末ではないかと思っています。
大東亜戦争後の復興期から日本人は次々と生活の豊かさを手に入れて行き、現在田舎においては一人一台の車を持つ生活を手にしてしまった。
私はこの「車」こそが洪水を引き起こし、過疎を産み、シャッター街を出現させた元凶であると考えています。
河川の中流域から下流域にかけて街や町が発展してきた歴史は「水利」故であるが「車」の社会が出現し始めると段々と「道路」は「アスファルト(油)」で表面を覆われて来て、現在日本における幹線道路で「舗装」されていない道路は皆無であろう。
そして車が増えてゆくに従い「空き地」は駐車場として活用され始め、街の発展の伴いビルや住宅が立ち並ぶようになって、その周辺は「雑草が生えてくることを嫌い」道路と同じ様に「舗装」されて地面は油で覆われてしまっているのが現状である。
それまでの道路と敷地(建物が建っていようがなかろうが)は土のままであった状態と比較すれば、降った雨が大地に浸み込んでくれていた量は激減し、その殆どが河川に放たれている。
また高度な文明と言う生活の下では、昔に比べると工場や家庭で使用する「水」の量は桁違いな増加を見せていて、使用された水は浄化され全て河川と海に流されている。
別な角度から見れば、経済発展の名目で核家族化を推奨し住宅政策を煽ってきたお陰で、田舎には高齢者ばかりが残されてしまい、それまで続けてきた「里山や山林」の手入れが出来なくなって「里山や山林」の持つ保水量が、これまた激減し、降った上流域の雨は河川へと流れ出る。
中流域や下流域の街から多くの雨水や排水が河川に流れ出ている中に、保水力を失った山間部から流れ出る雨水を受け容れるだけの容量を現在の河川は持ってはいない。
 元来河川は数千万年いや数億年以上かけて降雨が山間(谷間)を流れ、地表面を侵食しながら出来た自然の産物であり、河川の巾や深さは降雨の量と調和してできてきたものであるが、その調和を崩したのが前述した内容である。
急激に増えた流入量に比例して河川が成長してくれるのなら洪水が起こることなどなかろうが、都合の良い人間の勝手な思いを自然は受け容れてはくれない。
だから、便利さのみを追求し、愚かな人間が起こした自業自得の結果である洪水は、もはや止める事など不可能なのである。

それと、洪水を防いでいる河川の「土手」の構造をご存知でしょうか。
0メートル地域や天井川の「土手」の断面を切ると台形の形をしていて、垂直に近い側の表面(河川に面している側)は石積みやコンクリート又はコンクリートブロックで保護されているものが圧倒的に多く、上辺は道路に使用されアスらルトで覆われている状態のものが殆どであろうと思われます。
ではその他の部分は何かと言えば残りは全て「土」ですから、多量の「土」の重量で河川の水の圧力に耐えているとだと思われ、表面を覆う石積みなどが水による「土」の侵食を防いでいる役割をしているのでしょう。
しかし、この「土手」ですが現在使用されているものの殆どは数百年掛けて当時の為政達が改良に改良を積み重ねてきたものを使用しているに過ぎず、当時から多少なりとも進んだことは何かと言えば表面を覆う材料にコンンクリートを使用している程度だと思います。
まあ今になっても化学と科学の発達の恩恵は、こと治水に於いてはこの程度ではないでしょうか。
最もこの「土手の土」を全てコンクリートに置き換えれば洪水はなくなると思いますが、
日本の河川の全てを中流域から下流域までこれを行おうとすれば恐らく千年近い歳月・いやそれでも足らないかも・・・と天文学的な費用が必要になると思われるから現実的ではありませんね。
だからこそ小賢しい人間が自然に対抗できる術には限界があるということを為政者達こそ知らなければならないのではなかろうか。

 最後に余計な一言を言わせてもらえれば、このような事故が起こるたびにでてきて解説をする偉い学者達だが、今回なら「低気圧が」「梅雨前線が」「多量の水蒸気が」「線上降水帯が」と原因を的確?に言い当てますが、これは全て「後出しじゃんけん」ですよ。
学者が解説をしてどうするのか?これら「  」中を化学と科学で封じ込める策を考えるのが学者の役割ではないのか・・・と素朴で単純な疑問だけが残る。

しかし「被災した方々」にとっては家が使えなくなり、金銭的な余裕も無いとなれば生きて行く希望も失われる悲惨な状況下に置かれるので、行政は「それダメです。これもダメですが、これなら出来ます・・・」という形通りの支援ではなく、これから先もこの日本で生きてみようと希望が持てるような支援策を考えて欲しいと願うばかりである。




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「酔龍の独り言:その010」

 新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が4月7日に発令されて一月半が経とうとしているところへ、感染者数が減少傾向にある県への緊急事態宣言がやっと解除された。
街中を歩けば・・・電車・バスに乗れば乗客の全てがマスク姿で、マスクを着用していなければ、まるで犯罪者のような目線で見られる異様な社会が出現している。
前回の「酔龍の独り言:その009」でマスクの効果や有効性について述べましたが、今日の日本に於いて毎日約1億人がマスク姿を呈している情況は常軌を逸している様に思えてならない。
 そもそも何故マスクなのかを考えてみると、新型コロナウイルスにうつらない・うつさないと言うことなのだろうが、相手は自然の産物?なので避けようとしても、これには限界がある。
解かり易く言えば、台風・津波・火山の噴火・大地震も自然であり、これらは数百億年前から地球上で繰り返されて来ていることは皆様もご存知のことと思いますし、各種のウイルスも同じ様に地上に棲息している人間を含む動物に寄生して進化を繰り返しながら存在してきたようだと言われています。
顕微鏡のお陰で病原細菌が発見されて百六十年余、電子顕微鏡が出来てやっとはっきりとしたウイルスの存在と病気の因果関係が発見されてから高々百年に満たない数十年程度であろうかと思われる。
 これまでに、他のウイルスであるオタフク風邪や風疹・麻疹など大人へ成長するためへの関所としてほぼ全員が罹患し、長く人類と共存してきた歴史があるが、致死率はゼロではなかったけれどかなり低かったとのではないかと思っています。
では今回の新型ウイルスの致死率(死者数710人)はと言えば、昨年12月から今年の5月までの感染者数5054名(1年換算すれば11,020名)から割り出すと14%程度のようであるから、感染者の致死率は決して低いとは言えないと思うが、一方日本における昨年度の自殺者数は過去最低となっていても2万人いて、コロナ感染死亡者数を1年換算してみると1,550名となるので、なんと13倍近い人が死んでいることになるし、交通事故の死者数は3,215人で、これもコロナ死者数の倍以上となっている。
交通事故に遭い負傷した人の数は46万715名でコロナに感染した人数の何と42倍近い割合である。
自殺者は自らが死を選んでいるため比較対象にはならないかもしれないが、交通事故は自らが望んで遭っている訳ではなく、注意を払いながらも遭遇してしまっているのだから、コロナ感染と同じであるとも言える。
感染するウイルスと交通事故を同じ土俵に上げて論じるなと言われそうだが、これを自然界が人を間引く手法の一つだと捉えれば本質的には変わりはないと思えるのですねぇ。
何故この様なことを言うのかといえば、自殺者・交通事故死者の数の方が遙か多いのにも拘らず、こちらは余り問題にせず、何故新型コロナばかりを騒ぐのかと言うことにある。
騒ぎ過ぎる余り緊急事態宣言などを発したものだから、外出自粛で子供は親から「外に出てはいけないのだからTVゲームでもしていなさい」と言う。
この間までは「TVゲームなど止めて勉強しなさい」と言われていたのに、大人の身勝手さは一体何なのだと思ったことだろうし、景気対策で金を使え、金を使えと言っていた政府が外に出るな、飲食するな(金を使うな)と言い始めたのだから、さて良く似た話ではないでしょうか。
しかしここまで日常生活や経済を冷やすどころか冷凍にしてしまっては、もう直ぐに元のような状態には戻れまい。
小さな商店や飲食店などは廃業に追い込まれ、やがてコロナ倒産やコロナ自殺者が増えてきて、感染死亡者の数を上回るようなことになったら、本末転倒な政策であったと笑われそうであるが、そうなりそうな気配が既に漂ってきている。
日本の税法は税先取りの酷税となっていて、事業者に金銭的な余様を持たさないから、この様な事態に遭遇すれば事業者はひとたまりもない。
僅かばかりの金額を支給して貰っても大火のコップ水で、どれほどの役に立とうかと思うばかりであるし、これは国民の借金となるのだから何と言えばよいのかねぇ。
天下り先に垂れ流す莫大な金額と無駄とも思える部分がある高額な議員報酬・大企業並みに優遇されていても市民の為には働かない公務員の待遇に加え特定の業者にのみに工事などを発注する仕組みこそコロナ以上に国民を苦しめていることを当然の権利としている間は「国民の為・市民のために働いている」とは言うな!と言いたいし、この金を国民に還元していればこの様な事態が起こっても何とか持ちこたえる事も出来たであろうに。
しかし、私にとって良いこともありまして、それは新聞の折り込み広告が毎回1・2枚になったので処分が楽になったことでしょうか。

話を元に戻しますと、過去のことを言えばコレラなどの病原細菌の致死率の方が遙かに高かったけれども、現在では病原細菌による病は科学と化学の発達により殆ど克服してしまい、月に行って帰れるほどの技術力を持つ様になったものだから、人間が思い上がってしまい、何でも出来るし世の中全てが安全で安心なのだと錯覚しているだけである。
確かに化学や科学の力である程度の自然を克服することは出来たが、如何に化学や科学が発達しても自然に逆らうことは出来ないことへの自覚を失くした悲劇であろう。
その証は津波・洪水・ガケ崩れ・大地震よる建物崩壊などで多くの死傷者を出したのは記憶に新しい、つい最近のことですよ。
そしていつも言われることが「想定外でした」であるが、想定外の事を起こすのが自然であることを忘れているのである。
75年前に終結した大東亜戦争で死亡した数は300万人を超えるが、それでも日本は滅びなかったではないか。
決して人命を軽視しているわけではなくて、人が自然と共に共存して行く中では今回のようなことが起こること事態が自然なのだから、過度に騒いだり過剰な反応をしてはいけないと思うだけである。
どのように注意しても気を配っていても人は病に罹るときは罹るし、死ぬ時には死ぬ。
病になりたいと願ってみてもなれない、死にたいと望んでみても死ねないのが人であり、地上の生きとし生けるもの全ての定めである。
それは命そのものが自然であるからに他ならないのだから、人は覚悟と自覚を持って生かされている間の生を全うする以外に道は無いということである。
取り留めの無い文になってしまいましたが、十億単位の金銭を使ったと言われているアベノマスクの2枚が未だ届きませんし、たった2枚で何日持たすのだろうか・・・。
そう言う私はマスク1枚を1週間使い回していますが、何ら不自由も異変も感じません。
 もう一つおまけに異学説を唱えてみます。
欧米での感染者はアジアに比べると圧倒的に多いようであるから、その差は何によるものだろうと考えてみた。
日本でも人口が集中している大都市に感染者が多いのも事実で、比率から捉えればある意味当然と思われるが、北海道を除く山陰側に感染者が少ない(人口も少ない)のと、岩手県は感染者が一人もいないのは何故だろう・・・と素朴な疑問が湧いた。
世界的に見ても性別・血液型による感染者の比率を調査し発表しているところはないようだから、関連性は薄いのかもしれないが、そこで、異学説です。
感染者が多い欧米や日本の大都市では「乳製品の発酵食品を食する人が多い」方や山陰地方などでは「野菜・魚貝類の発酵食品を食する人が多い」この食習慣による体質と関連しているということは無いのだろうか?チーズやバターなどを日常的に食している人の体質は新型コロナウイルスに好まれ、漬物や味噌・醤油などを好んで食している人の体質は新型コロナウイルスに嫌われるのではなかろうかと思いましたが、何の根拠もありません。

反社会的思考に近い酔った龍の戯言になってしまったかも・・・お気に触ればお許しあれ。




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「酔龍の独り言:その009」

 世界中で新型コロナウイルスの感染拡散が止まらない様子で、アメリカやヨーロッパにおいては特に感染者が多く発生して大変な情況を呈している。
この新型コロナの発生は中国の武漢ウイルス研究所から漏れ出したものであるとか、野性の生き物を食することによるのが原因だとか様々な噂や憶測が飛び交う中、昨年12月の発症以来4ヶ月になろうとしているけれども、収まる気配を見せないし、アメリカでは動物園の虎(ねこ科の動物です)などにも感染したとの報道があった。
と言うことは、人にも動物にも感染すると言うことだから、ペットや野生動物への感染も視野に入れての予防が必要となるが、感染媒体が何十倍にも拡大するわけだから人間だけの予防では済まなくなり、人が出来る感染予防は限界を超える。
これらの事から考えると中国で野生動物を食する習慣があるが故に新型コロナウイルスに感染したとの報道はあながち噂だけに止まらず信憑性を帯びてきたことになる。
ウイルスはコレラ菌やチフス菌・結核菌の様な生命体ではないので殺すことが出来ないし、ウイルスの大きさは細菌より遙かに小さくて顕微鏡で見ることが出来ず、電子顕微鏡でなくては見つけられないほどに小さいというのだから、厄介なこと極まりない。
その上、人体に入り込むと細胞に同化(寄生)して増殖するそうだから、ワクチンの開発以外に打つ手がないことのようですが、そのワクチンの製造も見通しが立っていない。

 今日本中でマスクを着用して感染予防をしているようだが、本当に効果があるのだろうかの疑問も湧いてくる。
感染者が着用するのなら、くしゃみや咳でウイルスを含んだ体液が飛散する防止には多少役立つように思えるけれど、極めて微細な新型コロナウイルスに限らず、ウイルスや細菌は繊維を通り抜けるほど小さいのだから、どれほどの効果があるかは疑問だ。
況してやアルコールの消毒でウイルスが死ぬわけでもないのだから、まだ手洗いをして付着しているのなら、そのウイルスを洗い流す方が効果的ではなかろうかと思う。
アルコールの消毒で殺せるのはせいぜい生命力の弱い雑菌の部類で、その程度の雑菌なら人体に入って大した害も及ぼさないものでしょう。
だから、マスク着用・アルコール消毒を過大に評価しない方が良いのではないかと思うばかりである。
何事に於いても過剰は良くないし「過ぎたるは及ばざるが如し」の諺のように物事の因果関係を良く見極めてから対処したほうが良いと考える。

 しかし、今回の新型コロナの感染で、マスクを買い溜めして高価な値段で転売するとか、買占めによるアルコールタオルやトイレットペーパーが店頭から無くなるなど、前述したことが判っているなら「過ぎたるは及ばざるが如し」そのものだと思うが、許せない感覚になるのがマスクの買占め高価転売である。
法律違反ではないけれど、人としての良心に照らし合わせて後ろめたさを感じないのであれば、日本人の心も欧米と同じ様に地に落ちたと言うことだろうが、新型コロナウイルスと全く因果関係を感じないトイレットペーパーやティシュペーパーの買い溜めは一体何の理由でその行動になるのか理解が出来ない。
もし私がトイレットペーパーやティシュペーパーが無くなって生活に困るかと言えば、困りません。
トイレットペーパーが無くとも用便が住み次第浴室に行き尻を洗ってタオルで拭けば済むことであり、ティシュペーパーが無ければ水道・お湯を使えば殆ど困ることは無いのに、何故買い占める。
便器の汚物も浴室の排水も行く着く先は同じなので気にすることはありませんよ。
(余計かも知れませんが、トイレットペーパーが無いからと言って長い間ティシュペーパーを使っていると何れ汚水管が詰まります。ティシュペーパーは水に溶けないのです)

実のところ、私はC型肝炎のキャリアである。
感染源は小学生の時に打ったツベルクリン反応予防接種の注射針の打ち回しである。
注射器に10CCほど注射液をいれて一人1CCずつ十人に打っていたように記憶している。
六十年ほど前のことだから一人注射を終えるごとに針を替えることなく、腕の袖を捲くって並んでいる子供の腕に次々と注射針を刺して、注射器の中の液が空になると予備の注射器に取り替えて、また次の十人の子供達に予防接種を行っていたので、その当時医師が持ってきていた注射器は2本であったように記憶しているが、ウイルスの予防対策で別なウイルスに感染させられたのだから皮肉な話になってしまった。
余談になるが、当時の感染源(者)は出席番号が1番の生徒であったに違いないと思っていて、その当人は20数年前に肝臓がんで亡くなったと聞いているが、私は出席番号が6番目か7番目で最初の注射器から10人以内であり、次の10人には感染者はいないし、またその次の十人も感染者で、一クラス50名程いた生徒の約半数がC型肝炎に罹患し、現在も治療を続けている者がまだ多くいる、他のクラスではツベルクリンでの感染者はいないようであるが、町の診療所の注射針にて感染したものが何人かはいるようで、もう既に同級生の30名余りが早くに肝硬変や肝臓がんで死亡している。
町の診療所でも注射器と注射針は熱湯消毒をして再使用していた光景をはっきりと覚えているけれど、これが僅か五十年前のことです。
私が24歳まで住んでいた山口県の大畠町では当時人口1600名いや1800名だったかがいる中で肝臓病の患者が400名も出たものだから、山口大学医学部による調査団までやってきて原因解明に奔走したけれど発症原因の究明には至らず、水や魚介類・農産物に土壌にいたるまで調べたようであるが、顕微鏡で見つかる大きさのものではなのだから結局調査は無駄骨に終わったと言うことになってしまったのだが、その感染源は診療所における熱湯消毒した注射針の使用によるもだということが判明したのは、ウイルスというものが発見されてからなので、約20年余り待たなければならなかった。
つまらない話になりましたが、何が言いたいのかといえば、熱湯消毒をしても殺せないのがウイルスであるということ(故にアルコール消毒に如何程の効果があろうか?)。
 また、このC型肝炎ウイルスは血液に入らなければ感染しないという性質を持っているので、新型コロナウイルスやインフルエンザウイルスとは性質が異なる。
C型肝炎ウイルスは空気感染や皮膚・粘膜接触では感染しないのでキスをしようが性交を行おうが感染はしないけれど、お互いに何らかの傷がありその傷口から血液が交じり合えば感染すると言うことになる。
幸い?私はインターフェロンのお陰でC型肝炎は完治したけれど、私の血液中にはC型肝炎ウイルスが休眠していて、抗体が出来ているからウイルスに感染してはいるけれど、もう発症することはないが、私の血液を輸血したならその人は必ずC型肝炎になります。
日常生活に於いて、他の人に感染させることはありませんので、マスクも手洗いもアルコール消毒も必要ありません。
又余談になりますが、毒について言えば蛇毒は血液に入らなければ威力を発揮せず、飲んだり皮膚に付いたりしただけではなんら問題はないそうです(ただし飲んで口内に傷があったり胃潰瘍など消化器系統に傷があればそこから毒が体内に回るそうです)。
トリカブトの毒は飲んでも血液に入っても毒性を発揮するが、砒素やふぐ毒などは飲用しなければ大丈夫なようですから、ウイルスにもきっと特性があるのでしょう。
そうすると、案外血液型に関係しているのかも、いや体質に拠るものかも知れません。
と言う事で、麻疹もお多福風・ヘルペスなども全てウイルスによるものだそうで、なんとこれらのウイルスは数億年前から居たと言われているのを何かの記事で読んだことがあるから、上手に共存する以外に打つ手は無さそうである。
私ごとですが、子供の頃より両親から、お金を触ったら必ず手を洗うように躾けられていたものだから、その理由を考えると電車やバスのつり革・握り棒などに手を触れたら必ず手洗いを行い、外から家に帰ると手洗いと足洗いは数十年習慣付けているので、新型コロナだからといって、今更特別な注意をすることはなく、淡々と日常生活を送っている。
医師免許を持たない酔った龍の戯言です。




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「酔龍の独り言:その008」

先月の1月30日のこと、30年前に一緒に仕事をしていた方からの年賀状が来ていなかったので、入院でもしているのでは・・・と少し気に掛かっていたものだから思い立って電話をしてみたところ、本人が出て「あ~潤さん、久し振り。年賀状を貰っていましたね・・・」とスマホの向こうから元気そうな声がするではないか。
取り敢えず病気や怪我をしていたわけではなかったのだと安堵し、少し雑談をしていた後
「潤さん飯食いに行きましょう」と言うので「あ~良いねえ」と快く返事をして予定の入って無い日を選んで日時を決め電話を切った。
 会食の当日彼が18:00過ぎに事務所を訪れてくれ、馴染みの店があるからそこに行きましょうと言う事で一緒に出かけた。
彼の案内に従って馴染みだと言う居酒屋風の店へと向かい、久し振りの再会に祝杯を挙げて、歓談していたのだが、酒が入って少し悪ふざけが過ぎたのか、横に座っていた彼が私の肩を少し押したところ、高い椅子に座っていた私は均衡を失い椅子ごと真横に倒れ込んでしまった。
倒れ込んだときは何事もなかったのだが、起き上がろうとした時に足を滑らして、椅子の背もたれの部分で胸の左側面辺りを打ち、少し痛いな との感じがしたけれど酒が入っているせいもあり、大して気にもせずにそのまま飲食を続けた。
少し時間も経ち、酒と料理でお腹も満腹に近くなった頃「潤さん、もう一軒行きましょう」と言うので「いいねぇ~行きましょうか」と又もや快く返事をして、次は私の馴染みの店へと案内して二時間余り飲んだろうか・・・「もう一時になるから帰りましょう」と店を出てタクシーを捕まえ家路に着いた。
翌朝のこと目が覚めてベッドから起き上がろうとした時のこと、左胸の肋骨部分に急激な痛みが走った。
「あれっ何故?あっあの時に転んだせいで肋骨が折れたのかも・・・」と記憶が甦り、痛い思いをしながら朝食を済ませて支度を整え会社に出かけた。
 当日は10:30に約束事があって、依頼者と共に司法書士事務所を訪ね、打ち合わせを終えた後に直ぐタクシーを拾って市内の外科行院へと足を運んで診察を受けた。
レントゲンを撮り写真を見せて貰うと7番目の肋骨が折れていると言われ「折れ方と折れた場所が良いので?三週間もすれば治るでしょう」とのことであったが、胸に湿布薬のようなものを貼った程度でそれ以外は特別な治療もなく、ただコルセットを胸に宛がうだけの処置で終わりました。
その後は「咳」と「くしゃみ」に悩ませられながらの日々を過ごしています。
「咳」が出ると300ボルト「くしゃみ」が出ると500ボルト位と思われるような電圧の衝撃に近い痛みが胸の横辺りへと伝わり突き刺さるような感覚に襲われる。
やれやれ、七十年間生かされて来て初めての骨折が肋骨か・・・と、この起こった出来事を避けることが可能な状況があったのか、なかったのかを思い出しながら振り返ってみた。
しかし、飲食に誘われたことを断る以外に、いずれかの選択肢があったとしても、避けられなかったのだと自覚した(電話を入れたのは私の方であり、飲食の日も予定のない日を選んだのも私だからねぇ)。
つまりこの日は私が生まれ出でた時に持って出た私の人生の脚本に骨折をする日と決められていた日であり、その予定に従って骨折したという以外の何ものでもない事柄であると納得して痛みに耐えているが、なに高々後三週間の辛抱だ。

 今日は先日テレビのニュースで見た内容が、ひねくれ者の私の心に少し引っ掛かったのでそのことをお伝えしてみたいと思います。
平成十年に台風10号が中国地方を襲い岡山県にも大きな水害が起こったときのこと、津山市の牧場で飼育されていた子牛が何頭も濁流に飲まれ流されたが、その内の一頭(生後六ヶ月)が90㎞ 離れた瀬戸内海の離島(黄島)に漂着していたそうである。
その約一週間後にこの子牛が発見されると行政を含めて報道者達は「奇跡の牛・元気君」と名づけて飼育されていた牧場とは別の場所で育てられ市民から愛され、惜しまれながら令和2年1月14日に天寿を全うしたということであった。
齢21歳(人間に換算すれば100歳を超える)で死因は老衰と言うことであった。
 何故発見された後に元の牧場に戻さず別の場所で育てられたかについては、その牧場は食肉用に子牛を飼育している牧場だから、そこで育てるわけにはゆかないという事になって、食肉にしないのであれば、観光用?として別の施設で育てようと言う事になったに違いない。
本来であれば数年後には屠殺場に送られて、これまでに奇跡の牛にあやかろうと見学に来ていた人達の胃袋にも入っていたかもしれないのだがねぇ。
さて、この子牛は屠殺場に送られての天寿が良かったのか、飼育されて21年間生かされた天寿が良かったのかについては(丑年生まれの私でも)牛ではないから解かりようがないけれども、余りにも勝手の良い人間の都合に少し違和感を覚えていると言うことです。
 子供の頃に見た映画「十戒」では神の子「モーゼ」を主人公にした物語の中に愚かな民が「金の牛」を作り偶像として崇め神の怒りを買った場面があったように記憶している。
もしかすると今回は「生きた子牛」を偶像化(商品化)したのではあるまいかとの疑念が湧いてしまったのです(愚かな民の表現は映画の中での話をしただけで、念のため申し添えます)。
昭和の30年代の頃まで「牛」は農作業などの労力の担い手として人と共に生活をしていて、個室?まで与えられ、人は牛もわが子のように慈しみ大事に育てていた。
その牛が病か老衰かで死んだ後は食用にしたのか肥料として使ったのかは知る由もないけれど、人と共に生活をしていた頃の牛は幸せであったのではなかろうかと想像する。
牛の労力が耕運機やトラクターに取って代わられてからは、乳牛(雌のみ)は乳を搾るために生かされ、黒毛和牛は食肉用へと用途を変換させられてしまった。
つまり、現在の黒毛和牛は一部闘牛としての用途を除けば殆どが食肉用としてこの世に生まれさせられる訳である。
牛に限らず競走馬を除いた馬も鶏・豚など全てが育てられた数年後には食用とされるその宿命から逃げられない定めを負ってこの世に生を受ける。
人は牛・馬・豚・鶏を殺してまで食べなくとも生きてゆける生き物であるにも拘らず、これら生き物の生殺の与奪権を行使してまでの傲慢さは如何なものであろうかと心が痛む。
それも高々「美味しさ」の追求から始まったものが多いのだから本当に人間の「欲」とは始末が悪い。
 キリスト教では「牛・羊」は人間が食用とするために神が与えた生き物であるとの話を聞いているが「十戒」での話の内容が本当であれば「金の牛」がもし「金の鯨」であったなら神の怒りを買うことはなかったのであろうか?との冗談交じりの疑問が生じる。
取り留めの無い内容になってしまいましたが、牛や馬の限らずこの世の全ての生きとし生けるものは「感情」を持っていることを知っている人は少ないであろう。
例え虫けらと言え「感情」はあるのだが、残念ながら人にはその声が届かないが故に無視されているだけである。
その声が人に届けば人は食用として牛・馬・羊・鶏などを食用目的だけに飼育することはなかったのではないかと思うばかりである。
このようなことを言う私でも黒毛和牛は食べるし宮崎地鶏は大好きな食べ物である。
ただ願わくは、生きている間はその鳥の卵を頂き、その鳥が天寿を全うして後に、その肉を戴くのが自然な生き方であろうかと信じているだけある。
でも労働力として使うことが出来なくなった黒毛和牛はどうする?の疑問に対する答えがない訳でもないのだが、現実的ではないので、残念ながら科学の発達が生んだ悲哀として片付ける以外にないのかも知れません。
 これを言うからいけないのは解かっているのですが、言いたくなるのが私の悪い癖で、「奇跡」を言うなら、若い方はご存じなかろうと思うけれど昔「坂本九」と言う歌手がいまして「上を向いて歩こう」の大ヒット曲(アメリカでのそのレコード名はスキヤキとして発売され大ヒットとなった)を歌った戦後の復興期を代表するような素朴な感じがする青年であったが、惜しいことに飛行機事故でなくなってしまった。
飛行機が墜落した山の名は「御巣鷹山の山頂」だと記憶しているので、インターネットで検索すればこの事故ことが詳しく出ていると思います。
亡くなられた多くの乗客に中でただ一人怪我を負いながらも助かった方(女子中学生だったか高校生だったか)がいました。
当時は同じく「奇跡」と言われていましたがマスコミに出ることを拒み続けていたとの記憶もあり、きっと未だご存命だと思いっています。
人を含め生きとし生けるものの生死は天(自然界)が定めるもの、この世に生まれ出でた時に死ぬ日と死に方まで決まっていると捉えた方が良く、つまり「奇跡」ではなく「定め」に従わされただけと捉えると全て(不幸な事故や奇跡と言われること)が解決します。
信じるも信じないもその方の価値観人生観に拠りますが、数秒の差や乗り物の座る位置で
生死が分かれている状況を見ればご納得頂けませんでしょうか。
尤も易学の大家や霊能力の優れた方にはある程度判るようですけれど。
雑学の一つとして捉えて下さい。
 「双龍物語」も校正を加えながら時間のある時を使って書き続けています。
次回は「双龍物語」の続きを掲載します。



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「酔龍の独り言:その007」

 昨年カード被害に遭った金額は先日郵貯銀行から直接貯金通帳に振込みがありまして、実質の被害は無かったことになりますが、このようなコソ泥のような輩の被害が防げない社会も困ったものだと思います。

 さて話は変わりまして、昨年のこと私は12月24日をもって古稀になりました。
ご存知のように自動車運転免許証は高齢者になると「高齢者講習」を受講するようにとの通知が来ます。
私にも漏れもなく誕生日の1ヶ月前までに通知が来まして、近隣の自動車学校にて「講習」を受けることになりましたが、案内の通知には講習内容についての記載はなく、講習を受けることができる曜日と時間帯に加え費用についてのみの記載だったと記憶しています。

交通安全協会からの通知なので、仕方なく講習の申し込みをして講習日を決め、2週間余り後の講習日当日に自動車学校に出向き、受付にて手続きを済ませて講習料の五千円程度(であったと記憶しています)を支払い「高齢者講習」なるものを受けることになった。
当日は私を含めて十数人の高齢者がこの講習を受ける予定のようで、案内された講習室では最初に簡単な「何故高齢者講習なのか」の説明がありまして、その後は二種類の機械を使った視力検査が行われたので(高齢者講習で視力検査・・・?)不思議な感覚を覚えました。
そして講師なる人物が言うことには「結果として目が悪いとか急激な明暗の変化に対して視覚の反射が遅いとかで免許の更新に支障があるわけではありません。ただご自身の視覚状況がどのような状態にあるかを認識しておいていただければ結構です」との話をしたものだから、余計にこの検査に重要な意味があるとは思えなかった。
目の検査が終了した後は免許の更新に至るまでのこの五年間で道路交通法に係る法令の改正などがあればその話があるのかと思っていたのだが、何と今度は自動車学校以内の施設である運転コースで実施運転をするのだというではないか。
それも教官を助手席に座らせてその指示通りに運転をするのだというのだから、まるで仮免試験のようなものである。
しかし、ここでも講師が言うには「普段通りで運転してもらって結構です。脱輪してもポールを倒しても別段構いませんし、それで更新に支障があるわけでもありません」なのだから、この「高齢者講習の目的」は一体何?の疑問が更に湧いてきた。
そして自分の順番が廻ってきたので、いよいよ運転する羽目になりました。
もう十年程前に車を手放してからは年に数度の運転を僅かな時間する位で日常の運転は殆どと言ってよいほど運転をしていないけれど、昔とった杵柄で難なくコース内の運転を終えました。
これで「高齢者講習」は終了となり不思議な思いをした数時間でした。
終了証明書を貰って帰途に着きましたが、帰りのバスの中でも「一体何の目的での講習内容だったのだろう・・・」の疑問が拭い去れず、ひねくれ者の私が想像した考えは次のようなことに至りました。
 近年の少子高齢化に加え、若い人の車離れで(理由は車の所持には費用負担が大きいし、所得も少ないから・・・のようである)、現在新たに運転免許取得に来る若者の数は団塊の世代の私達の時代と比較すれば激減している。
公認の自動車学校は、ある意味都道府県が管轄している免許センターに勤務していた定年退職者の受け皿になっている所でもあるから自動車学校には何とか収入を得て貰わなくては困るのであろう・・・人数が多い団塊の世代辺りに講習を受けさせれば十分な収入が見込めるので、これで何とか収入源を補えるではないか・・と目論んだのであろう推測した。
自分達の権益を何とか守ろうとして国民に負担を強いる役人の考えそうなことである。
間違っていたら大変申し訳ないことであるが「高齢者講習」の内容から推察してみてのことなので、恐らく外れてはいないと思います。

 そしてその後、仕事との兼ね合いを見計らって運転免許センターにて運転免許証の更新を行いました。
まず受付に始まり、目の視力検査(今回もこの為だけに眼鏡を新しく購入しました)を受け、免許証用の写真撮影が終わって暫く待っていると案内があり、長いこと待たされたけれどやっと優良運転者講習が始まるのか・・・と思って案内された所に行くと更新後の免許証が手渡され「これで終了ですからお帰り下さい」と言うではないか!?「講習はないのですか?」と尋ねたところ「高齢者講習を受けておられるのでありません」の返事が返ってきた。
「高齢者講習」は目の検査と実施のコース内運転だけだったので、道路交通法に係る法令の改正がその後あったのか無かったのかも解からずに帰途に着きました。
何なのでしょうか、この一連の流れは・・・高齢者は道交法の改正などについては自分で調べなさいと言うことなのですね。
さて、インターネットが上手に使える高齢者がどれほど居るのか判りませんが、何やっているのか理解出来なかった「高齢者の運転免許更新」でした。

最後に私事を・・・今年のお年玉付き年賀状の当選番号を調べてみたところ、2等の下4桁が当選していました(今年はありませんでしたが下3桁の当選は何度か経験があります)。
また、これまでに「暑中見舞い用のカモメール」で1等当選の経験が一度だけありますが年賀状では始めての下4桁当選です。
このようなことは宝くじと一緒で偶然のなせる業の結果ですから、当選したので素直に喜こんでいます。



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