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建築家 潤 の『独断と偏見』

「双龍物語:第五章・幼少期の四」

 このバイオリンを習う教室は同じ村内にあるお寺の一室を提供して行われていて、高齢と思われたバイオリンの先生は他の地域から週一回教えに来ていた。
そこの住職の嫁さんが母「滋子」と同じ小学校の教諭をしていたことからの縁で自分の子供達にも習わせようと思ったようで、嫌々ながら通っていたのだが、ある日のこと習いに行くと、家に入るとたまたま部屋にいた住職が急に呼び出されて部屋(教室ではない)から出て行った。
その部屋はいつも自分達の稽古の順番が来るまでの待機する部屋であつたのだが、たまたま住職が出て行った後の机の上に何やら不思議な道具が残っていた。
2本あるゴムのチューブの先端にはプラスチック製の突起が付いていて、その根元には同じく丸いゴム製の圧縮・吸い込みを行うようなものが付いていて、これは洟を吸い出すものではなかろうかと思った潤は好奇心に駆られて両先端を鼻にあてがい丸い部分を押してみた。
すると鼻の中に何か入ってきた瞬間、これはここの親父(住職)が使ったままが置いてあったんだ、これは何か少し危ないかも・・・と不安が過ったけれど、子供の頃である、大して深刻にも考えず、時が過ぎてゆくと案の定六年後には慢性副鼻腔炎と診断され、手術を受ける羽目になってしまった。
その後数十年の間で計3回副鼻腔炎の手術を行ったけれど、完治に至らず現在も不快な状態が続いているし、数年に一度くらいの割合で、鼻の横が腫上がり猛烈な痛みを生じることがある。。
 子供が大勢やってくる教室なのだから、好奇心でいっぱいの子供は何をしでかすか解かったものではない事くらい、人の道を説く坊さんでもある大人がその配慮すら出来なくてどうする・・・と言いたいが、既に手遅れである。

 丁度同じ頃だったと記憶しているが、潤は誠に犬を飼いたいとせがんでいたところ、二ヶ月程経って職場の部下から貰ってきたのだと、真っ黒い子犬が潤の手元にやって来た。
潤はもう嬉しくて、嬉しくて「クロ」と名前を付け、学校から帰ったら毎日一緒に遊んだ。
そんなある夏休みの日、潤はクロを連れて海を見ようと波止場に出かけていたところへ野良犬がやって来て、クロと喧嘩になった。
潤はクロを止めようと間に割って入り二匹を離そうと手を出した瞬間、野良犬が潤の手の平に横から噛み付いた。
その痛みと思いがけない反逆にあった潤は大声で泣き始めた刹那、傍で雑談をしていた漁師の一人が野良犬の足を捕まえて海に放り投げた。
野良犬は「キャイーン」と声を上げたが「ザブーン」の水音と共に一瞬海に沈み浮かんできた途端犬掻きを始めていたが、潮の流れが激しい海域である(大畠の瀬戸は鳴門に次ぐ潮流の速さで、渦の名所でもある)その後この犬が岸に到着したか潮に流され海の藻屑になったかについては定かでないが、手の甲を見ると犬に噛まれたところは唾液と犬の毛にまみれて穴が開き無残な状況を呈していた。
漁師達は潤の方を見て「ぼくは何処の子かいのぉ~、野良犬に噛まれたんじゃけぇ狂犬病を持っちょったら行けんけえのぉ家に帰ったら親に話して予防注射を打って貰いんさいよ」と言ってくれた。
泣きながら家に帰った潤は家にいた叔母に野良犬に噛まれた事を話すと、叔母は直ぐに近くにある外科の診療所に連れて行き、噛まれた傷の手当と狂犬病の予防注射を依頼した。
幸いこの事故のあとは手の甲に傷跡が残っただけで特別な異常は出なかったが完治まで1ヶ月近くを要したので、大好きな海で遊ぶことが出来ず夏休みが台無しになってしまった。
クロとは二年余り一緒に遊んだけれどもジステンバー(犬特有の風邪)に罹ってしまい、獣医の手当ての甲斐なく死んでしまった。
悲しんだ潤は墓を作ってクロの亡骸を埋めようと、その場所を色々と考えた。
人がよく通るところが良いと聞いた記憶があるから畑に行く途中の道に埋めるのが良いかなぁ・・・・でも道は地面が硬くて自分では掘れないなし、墓標が立てられないからダメか・・・いや待てよ!人がよく通るところが良いというのは確か猫のことだった。
ではどうする・・・と思いあぐねて出した結論は畑の端の方に墓を作ろう・・・であった。
そうすればクロは最後に土に還って行くだろうし、肥料にもなろうと考えて、板切れに「クロの墓」と書き、スコップとクロの亡骸を入れた紙袋を持って畑に行き埋葬したのである。
だが、この後三十二年が経ってから、このクロが何者であったのかを知らされる時が来るのだけれど、この時の潤にはそのようなことなど知る由も無く、ただ悲しい思いだけが暫く続いたのである。



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「酔龍の独り言:その014」

社会保険と厚生年金の続きの話です。
社会保険労務士に変更の手続きを依頼して二ヶ月余りが経った11月の中旬に全国健康保険協会(恐らく省益法人に類する組織と思われる)から、書類と一緒に私と社員(家族を含む)の健康保険証が封書で届きまして、見ると保険証の日付は11月1日となっていた。
 保険証が届いたら、国民健康保険証を持って役所に出向き変更の手続きを行うように言われていたので、区役所の年金保険課で変更の手続きを行いました。
手続きそのものは変更届の用紙に住所と名前に生年月日を書く程度の簡単なものであったが、11月分の国民健康保険料は支払ってもらいますと言うので、それはおかしい社会保険料が今月11月から支払いが生じるので二重払いになるのではないかと聞いたところ、保険料は数期に別けて支払ってもらっているもので、その月での支払いが生じているわけではないから、二重払いではありませんと言う。
しかし、11月分の健康保険料は国民健康保険と社会保険と両方に支払いが生じるわけだから、支払う側に於いては同じ月に国民健康保険料と社会保険料を支払うことになるから明らかに二重払いだとおもうがねぇ、行政は何が何でも国民から少しで多く金を徴収したい意図が見え見えである。
そして帰り際に私は窓口の役人に対して「社会保険庁は国民年金と国民保険を破綻さそうと思っているのかね?」と言ってみたら、苦虫をつぶしたような表情を見せたが返事は無かった。
ただ良かったと思えることは、厚生年金に加入したことで、社員の嫁に対しても厚生年金が自動的に掛けられることである。
尤も今まで支払っていた国民年金と比較すれば3.2倍の年金額を支払わなくてはならなくなりましたから、何と言えばよいのか・・・。

 さて、今年も残すところ一週間になりました。
欧米のみならず日本中に新型コロナウイルスが蔓延して、日本国民は大変窮屈な生活を強いられています。
政府や行政の方針を聞いていると、コロナウイルスは午後8時以降に活躍する「夜行性」で、4人までの会食では感染しないが「5人目から感染するんだね」など意味不明のことばかりを垂れ流して国民を混乱させている。
小さい飲食店の経営者は「店を開けているより、休んだら補助金が貰えるんだから、この方がよっぽどええわ」と嘯いている。
この補助金は国会議員や官僚・役人の給与・賞与を減らして支払われている訳ではなくて、全部国債(国民が負担する借金)で賄われている訳だから、いずれ消費税の税率を上げたり、別な名目の税金を作って国民に対して課税してくることは火を見るより明らかである。
当面が大変なことは飲食店に限らず誰も同じだが、手放しで喜んでいる場合ではなかろう。
国からタダで金を貰おうなど・・・そんな甘いことに浸っている場合ではなく、国や省庁はそんな甘いことが通用する組織ではないことを忘れてしまったのかと言いたい。
まあ飲食店の店主の言い分も判らなくも無いけれど、そもそも店が成り立って来たのは、お客さんあってのことで、店を開けたら補助金が少ないから・・・夜8時まででは大した売り上げにならないから・・・と言うようでは、自分の金儲けの為に店を開いている本性が丸見えである、お客さんに喜んで頂き、その笑顔を見て喜べないようでは事業をやる素質が無いと言いたいし、対価はお客さんの笑顔と共に支払われるもので、自分の方から手を出して、ふんだくるものではない事を肝に銘じよ!。

そもそも、新型コロナウイルスは他のウイルスと同じで自然界に存在しているものである。
そういう意味では、大地震や大型台風と何ら変わりは無い自然の脅威の一つなのだ。
地震も台風もそのものの姿は目に見えず、匂いもしないし、その力も見えないが、結果として被害が見えるから恐ろしい自然の脅威を感じているだけである。
近代になってから殆どの病原菌(細菌)による脅威を克服して来たものだから、人は錯覚しているだけなのである。
ウイルスは細菌の類では無いから殺すことが出来ない代物で、人智を超えたところで存在する自然の一部であるから、大地震や大型台風と何ら変わりは無いと言っているのです。
ウイルスの一部は上手くワクチンの開発がなされて事なきを得たものもありますが、全てと言うわけには行かないのでしょう。
自然の脅威とはそういうもので、人間驕ることなかれですよ。
鳥インフルエンザが一羽でも発生すれば、直ちに数十万羽を殺処分する人間だが、人には感染しないし、食しても別に害は無いと言うのなら、これは恐るべき大量殺戮である。
鳥も生き物人間も生き物(者)であり、人間だけが特別な存在ではなかろうと思うが・・・今の時代にこのような事を言う方が可笑しいかも・・・しかし事実である。
天の声「じゃぁ人間も同じ様にして見るか・・・」が今日の新型コロナウイルスかも知れません。
本来、牛の乳は子牛を育てるためにあるものなのに、根こそぎ人間が奪い「牛乳」「バター」「チーズ」「ヨーグルト」などにして食し、食肉牛や和牛は此の世に生まれ出でた時から殺されて人間に食される定めである。
丑年が来る前に牛に代わって擁護をしておきたく思いますし、以前も言いましたように、どのように考えても新型コロナウイルス感染者の多い年代・国・地域を見れば、チーズ・バター・ヨーグルトを日常的に食している人達が感染しやすい体質なのではなかろうかと思えてならないし、人間の傲慢さに自然が報復しているのではないだろうか。

それにしても、新型コロナのお陰で飲食店・交通・宿泊旅行関連業界は大打撃で、倒産した店や企業も多いと聞く中で株価だけが上がり続けているこの不可解さと不思議さは一体何なのでしょうか?ここも狂っているとしか思えません。
不思議で不可解であっても金が欲しいか・・・やはり人は愚かである。

 取り留めの無い話になってしまいましたが、今年は本当に窮屈さを強いられる年でした。
来年の丑年は長年に渡る牛の恨みを買わないで済むような一年になって欲しいものです。
「双龍物語」の続編も更新しますので、休みの間に目を通して頂けると嬉しく思います。
皆様よきお年をお迎え下さい。  






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「双龍物語:第五章・幼少期の三」

 潤はこのような事情で三年生になる直前の春休みに大畠にある村立神西小学校へ転校した。
転校した時の記憶は曖昧なのだが、小学生の間は漁師町の子供達とも良く一緒に遊んだ。
学校からの帰りには潮が干ていれば海辺沿いの砂浜を歩きながら、大型魚に追われて砂浜に打ち上がっている鰯などを拾ったり、蛸を探したり、潮が満ちていて海岸沿いを帰り道に出来ない日は山道を通ってアケビや棗(なつめ)山桃に加え、食べられる木の実を探しながらの季節に沿った下校は兎に角楽しかった。
ある日のこと、悪ガキの一人が「三田!今日学校から帰ったら山桃を採(盗)りに行かんかぁ、すごいところを見つけたんじゃけぇ」と誘ってきたので二言返事で「おう!行こう。そりゃあ どの辺にあるんか?」と聞けば「口じゃあ説明できんけぇ、お前の家に誘いに行くけえそれでえかろう」「おう、それじゃあそうしよう」ということになって、家に帰ってから植物の茎で作られた買い物籠を探して準備をしていたところへ、数人が誘いに来た。
皆は口々に「そりゃあのう、兎に角凄いんじゃ。赤いのと大きな実の白いのがあってのぉ、採(盗)り切れんくらいあるけえのぉ」と言う。
潤の心もわくわくしてきて、皆に先導されて十数分ほど山道を登っただろうか、両側を松や杉に囲まれた薄暗い細い道を通っていると悪ガキの大将格が「三田!ここじゃけぇ、この木よ!見てみいや凄いじゃろう」と言う。
山道から少し下ったところに大きい山桃の木があり、見たところ確かに大きな白い山桃が溢れんばかりに実をつけていて、少し離れた方にある木には小粒だが真っ赤な山桃が沢山見える。
「お~こりゃあ凄いのぉ。早よ採(盗)ろうやぁ」と口にしながら山桃の木に群がり登り始めた。
早速取った山桃を口に入れてみると香と共に甘くて瑞々しい味覚が口いっぱいに広がり「こりゃあ本当に凄いのぉ、よう見つけたのう」と言いながら、これを家に持って帰れば妹や弟が喜んで食べるだろうし、親もびっくりするに違いないと思いながら皆と一緒に夢中で買い物籠に山桃を採(盗)っては放り込んだ。
それから十五分も経っただろうか、悪ガキ仲間の大将格がいち早く人の気配を察したようで、小声で皆に伝えてきた「誰か来る!じっとしとけ!」の声で皆は木にしがみついて気配を消した。
と思っていたはずなのだが、下から聞き慣れた声で「潤坊落ちるなよ」と言われたので、下を見ると誠と滋子の二人がこちらを見上げているではないか。
思わず「ここうちの山なん?」と聞くと誠が「お~そうじゃ。皆落ちんようにせえよ」と言いながら畑作業に向かって行った。
何と言う不覚であろうか、よりによって「自分のうちの山に山桃を盗みに入ったとは・・・」他の皆はこれで怒られる事はなくなったと安堵したようであったが、潤はあれだけ美味しいと思っていた山桃が急に美味しくなくなってしまい、買い物籠いっぱいに取った山桃を悪ガキどもに分け与え、皆と共に帰った。
終戦後の昭和三十三年頃のこと、甘くて美味しいものなど滅多に口に入ることは無く、山桃の甘味は格別で良い木を見つければ夢中になって取りに行ったものだが、潤はこれ以後この山桃を採りに行くことはなかったが、二十数年後に潤の長男が小学生になった頃、子供に食べさせてやろうと思ってこの山桃を採りに行き食べさせてみたが不評で、潤も食べてみたけれど美味しいとは思えなかった記憶だけが甦ってくる。

この山と田畑は誠が戦時中に祖父に依頼して購入していたもので、田で米を畑で野菜と穀物を作っていたけれど、大所帯の胃袋を満たすほどの収穫は無かったようではあるが、一家の糊口を何とか凌ぐ足しにはなっていたようである。
また果樹や花を育てることが好きであった誠は畑の隅の方で枇杷・柿・無花果・檸檬・葉蜜柑・さくらんぼ・フェイジョアなど当時では珍しい果実も栽培していたし、住まいの直ぐ裏手は鉄道のプラットホームに隣接していて、その端子の方には小さな花壇が設けてあったのだが、手入れがされていなかったようなので、ちゃっかりとそこにダリア・カンナ・向日葵などの花を植えて楽しんでいた。
しかし、花壇の無断使用について何ら国鉄の駅員からの苦情は無く、ある意味汽車の乗客にとっては目の保養と季節の移り変わりを感じる花壇となっていたかもしれません。

 大畠で借家住まいとなった両親は夜になると両親と誠の姉妹が住む家に風呂を使わせて貰いに毎日通っていた頃の話である。
冬の寒い中、風呂で温まった体で家に向かっている途中のこと、家の玄関に近づいた時に足を止め、耳を澄ますと家の中から何かガタガタと音が聞こえてくるので「今家の中で音がしよる!あれは絶対おもちゃがおもちゃ箱に帰って行った音じゃ」と白い吐く息で親に伝えると、誠は「お~そうじゃろうて、潤坊が帰ってきたから遊んじょったおもちゃが急いで隠れたんじゃろう・・・」と話を合わせてくれていたが、聞かされている童話の中の話をそのまま今の自分に重ね合わせるような子供であった。
しかし音の正体は恐らく鼠で、人が近づく気配を感じ取って隠れた時の音であろうと想像する。

これは大学生になった頃に聞かされた話で、誠が言うには「お前が何をしたんかもう忘れたが、お前を氷倉の倉庫の大黒柱に縛り付けたんじゃ、そしたらお前は「出せ~バカたれ!」と泣き叫ぶんで「悪かったと謝れば許してやる!」と何度も言うのに絶対に謝らなかったから、こっちが根負けして氷倉から出したんじゃが、本当にお前は強情な子じゃと思った」と言っていたが、その時のことは記憶に残っていて「あ~それはわしも覚えちょる。じゃがのう、親父も何をしたかを忘れた言うんなら大したことじゃあなかったんじゃろうし、わしも謝らなかったというんだから、自分では悪いこととは思っていないことじゃったんよ」と切り返したら「まあよう解からんが、強情な子じゃと思うたよ」と言っていた。


それから一年後に
子供の頃育った大畠村は海と山に挟まれた細長い地形の村で、大きな川こそ無かったが、潤は魚釣りや虫取りが大好きだった。
大学生になった頃に、何気ない話の中で滋子から「あんたは小学生の頃、学校に行く前に竿を持って波止場で釣をしてから学校に行っていた」と聞かされ、そう言われればそうだったかも・・・と思うのだが、潮が干ていれば、貝を探して掘ったり、蟹(モズクガニ)やウナギを捕ったり、浅瀬の海に潜りサザエや蛸を取り、毎日々夢中になって海で遊んだ。
虫取りも大好きだったから夏場には蝉・トンボ・カブトムシ・クワガタを朝に夜に追い掛け回し、秋になると閻魔コオロギ・キリギリス・すずむし・クツワムシ・ウマオイを探して野畑を這いずリ回していた。
そのような中、とても教育熱心であった誠は子供達に科学図鑑(生物・動物・宇宙・科学など分野別に数冊)と少年少女世界文学全集(全二十巻以上あったと思う)を購入して与えた。
少年少女世界文学全集は就寝前に滋子が子供三人に読み聞かせながら寝かしつけるのが日課となっていたが、今でも記憶に残っているのが「ゼ・ミゼララブル(ああ無情)」で主人公のジャンバルジャンが教会に置いてある銀の燭台を盗み捕まるけれども牧師は盗まれたものでは無く彼に与えたのだ・・・の下りは今も忘れていない。

そして、小学四年生になる少し前の頃だったと思うが、潤にはバイオリンを習わせ、妹の栄子にはピアノを習わせる(絵画の先生について絵も習っていた)など、後から考えると裕福とは言えない中で情操教育にも十分なお金をかけて貰った事に感謝の想いと、とても有難いことであったとの想いが自然に生じてきて愛憎が複雑に交錯した記憶がある。
しかし、当時は遊びたい盛りだから稽古の日が近づくと窮屈な想いと不満ばかりが募っていた思い出でがある(四歳年下である弟の崇にも小学三年生頃から同じ様にバイオリンを習わせていた)。



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「双龍物語:第五章・幼少期の二」

 当時における柳井町の銀天街というのは近郊の町村から買い物客が多く集まる天蓋を持つ商店街で、長さにして500m位はあっただろうか、4m程度の道路の両側に様々な専門店を含む商店が軒を連ねていて、それはとても賑やかな通りであったのに、三十年前頃からではなかったかと記憶しているが、大型量販店の進出などの影響で一軒また一軒と商店が店を閉め始め、長い期間のシャッター街を経て、現在では一軒の建物も無くなり、少し広めの道路と河川公園に姿を変えてしまいました。
自然の原野や草原に戻ったわけではないけれど、あれほど賑わっていた光景を思い起こす度に芭蕉が詠んだ「夏草や、兵どもが夢のあと」の心境と重なってしまう。

 ただ、柳井町に新しい住まいを構えることになったところまではよかったのだが、問題が一つ生じていた。
それは滋子の母親ムメの妹である隆子とその娘が、別れた主人に付きまとわれて困っている状況にあったため、誠は二間の内の四畳半をこの親子の為に住まいとして提供したのである。
誠一家は奥の六畳に親子四人で住み、叔母親子は四畳半に同居するという、狭い中ではあるけれど何ともにぎやかな共同生活が始まった。
この頃滋子は建物を購入した返済のためか生活のためかは定かではないけれど、次男を身籠っているにも拘らず小学校の教諭として再び教壇に立っていた。
潤と栄子の二人は叔母に面倒を見てもらいながら、潤は金座街の奥の少し先にある幼稚園へと通い、園から帰ると柳井川に下りて行って川に入り、ススリン(うなぎの稚魚)を捕ったり、網で鮠(はや)・ハゼを掬ったりしながら、商店街の子供達と一緒に毎日々子供らしく楽しい日々を過ごしていた。
やがて次男「崇」が誕生し、潤も柳井小学校へ通うようになっていた頃には行動範囲も広がって、少し遠くにある用水路ともドブ川ともつかぬような中に入り、足に蛭をいっぱい付けながら小鮒や田螺を捕っては家に持って帰り、小鮒を飼いたいから水槽を買ってくれと誠にせがんだ。
もともと誠はこのようなことが好きであったのだろう、小さいけれどもガラスの水槽を買ってきて潤に与え、潤が水槽に砂を入れ水草を植えて小鮒が泳ぐさまを楽しそうに眺めている姿に目を細めていた。
このように潤は水棲動物が大好きで、誠に釣に連れてゆけとせがみ、夜になると柳井川にいる鰻が穴から出てきて休んでいる姿が見えているので土手から見釣をしたり、夏には川の上流に遡って蛍を捕まえたりと、片腕で何をするにも不自由であったにも拘らず、よく潤の我が儘をきいてくれた。
 これは潤が大学生になった頃に滋子から聞かされた話なのだが、小学一年の時に学校で知能テストがあった。
この時のテストについては、はっきりと記憶に残っている内容があり、それは円の中に迷路が書いてあって、それを入り口から終点まで鉛筆で線を引いてゆくものがあった。
その問題は合計で三問か五問あったような気がしているが、最初の一問目は入り口から線を引きながら終点に向かって鉛筆を這わせていたところ二・三箇所行き止まりに出くわすので、又戻りながら線を引き終点まで辿り着いた時にふとこれは終点から逆に出発点に向かった方が行き止まりに出会うことなく線が引けるのではないかと思った。
次の問題からは、そのようにやってみたところ全く迷うことなく線が引けてゆくではないか。
そのようなことがあって、全部の知能テストを終えたのだが、その日の夜に担任の先生が突然家を訪ねてきて滋子にこう言ったという。
「お宅のお子さんの教育はどのようにされているのですか」と聞かれた滋子は何のことか、さっぱり判らず「それは一体どういうことでしょうか」と問い返したところ「いや、お宅のお子さんの知能テストの結果があまりにも高いので驚きまして、それでどのような教育をされていらっしゃるのかをお伺いしようと思って・・・」と言われたそうだが、滋子は「いえ、特別なことは何もしていません」と答えたという。
仕事から帰ってそのことを聞かされた誠はこの子は先ではどのような子になるのだろうか・・・と期待と不安が生じたと言っていたようだが、結果的には潤の知能の高さは学問には反映せず、別な方向へ向かっていったようである。

 この頃にはまだほんの僅かではあったけれども商店街の中には裕福な店もあって、早々とテレビを購入した家があった。
当時の放送はまだNHKだけだったのではないかと思っていますが、近所の人達も一緒になってテレビのある家に集まり面白い番組だけを見せてもらっていたものです。
その中で時に記憶に残っているのが連続番組で「恐怖のミイラ」というのがあって、面白いのですが、子供の潤にとってはとても怖いものでした。
テレビを見終えての帰り道、商店街の店は全て入り口を閉め、電気が消えた薄暗い中を僅か数十メートルの家路がとても長く感じ、怖かった思い出が残っている。
 柳井小学校での思い出は2年生の終わりまでで、何の理由なのか解からないけれど、誠は柳井の銀天街にある店舗付きの住まいを同居していた義叔母に無償で与えて再び大畠に居を移したのである。
大畠の住まいは祖父母が住んでいる家から百メートルばかり離れた山陽本線上り側の線路沿いにある十五坪ほどの木造平屋で、どうやら遠縁の方の家を借りたようであった。
そして、その隣には祖父・乙次郎が若い頃に製氷業をしていた時の氷倉がそのまま残っていて、それは階高が異常に高く、中から見ると屋根に近い位置に小さな明かり窓が一つだけ設けてある気持ちが悪いほど薄暗い平屋の建物があった。
 何とか病魔から逃れることが出来た潤のその後は、誠が闇市で購入してきた粉ミルクや練乳で母乳の不足を補いながら、すくすくと成長していった。
そして数年後、父親の誠は久賀営業所の所長から課長に昇進し、柳井支店勤務を命じられたので、
取り急ぎ両親と妹五人が住んでいる大畠の家に居を移して同居することにしたのである。
この頃にはもう三歳となっていた潤坊は、同じ村内にあって、お寺が経営している幼稚園(保育園だったかも)に通うことになった。
季節は夏を過ぎ秋になった頃、幼稚園では運動会が催されるが、今と違って当時の小中学校を含む運動会と言えば村内の一大行事で、弁当を作り朝早くから運動場を囲むように筵を敷いて、それぞれの家の陣を構え、爺ちゃん婆ちゃんを始め家族全員が参加するのが一般的で、もうまるで祭りのような騒ぎであった。
運動会が間近に迫った頃、誠は潤坊にと新しいズック(運動靴)を買ってきていた。
真っ白な新しい運動靴で運動会に出してやろうとの親心であるが、日曜日となった運動会当日の朝、新しい靴を出して履かせようとしたところ潤坊は「先生が新しいズックやら運動着を着てきちゃあいけん。いつもと同じものを着て来い言うて言いよったんじゃけぇ、こりゃあいらん」と言って靴を履こうとしなかったと言う。
それでも誠は嫌がる潤坊の足に無理やり新しいズックを履かせて幼稚園へと向かったのである。
半べそとなっていた潤坊は嫌々ながら皆と一緒に運動場に腰を下ろし座ったところ、左右に見える足の靴はいつも通り薄汚れたズックで、自分のズックが真っ白いのに違和感を覚え、心の中で「それみろ!」と自分の言う事を親が聞いてくれなかったことに対しての不満が募った。
運動会の式次が次々と進んで行き、お遊戯が済んで、いよいよ駆けっこの時がやってきた。
しかし、走る順番が来たにも拘らず潤坊は「新しいズックはいけん言うて、先生がそう言うたんじゃけえ走らん」と駄々をこねはじめた。
親と先生が潤坊をなだめるのだけれど頑として受け容れない。
先生は「私が余計な事を言ってしまいましたか・・・」と困惑している中、誠は思い立って自転車に飛び乗り家まで古いズックを取りに戻ったのである。
古いズックに履き替えた潤坊は顔に笑顔が戻り、それは一所懸命走ったそうな。
そのときの記憶はうっすらではあるが残っていて、親は真面目過ぎるのか頑固なのか、やれやれと思ったそうである。
大畠村の大半は漁業と細々とした農業で生計を立てている家庭であったため、先生は余分な出費に対する配慮をしたのだろうと思われるけれども、潤坊にとってはやさしい親の配慮が仇となってしまったようである。

 この頃の滋子は二歳年下で生まれていた次女・栄子と潤坊の世話に掛かり切りの中で、舅・姑・小姑五人との共同生活をする大所帯の中では随分と気を遣いながらの毎日であった為、気持ちの休まるときがないように感じていた。
いくら大きめの家であっても大人七人と学生二人に子供の潤と乳飲み子の栄子を入れて総勢十一人が住むには、やはり窮屈であったのだろう、誠と話し合い、思い切って誠の勤務先のある柳井町へ居を移そうとの結論に至った。
新しい住まいを探していたところ、ちょうど売りに出ていた柳井町の銀天街入り口付近にある店舗付きの住宅(平屋で間口が二間半、奥行きは六間半の面積十六坪余り)を運よく購入することが出来た。
この店舗付き住宅は表に衣料雑貨店が借りて営業しており、店舗の裏に四畳半と一間の土間を挟んでその奥に六畳の畳部屋を持つ建物で、六畳の間は柳井川(満潮時には海水が上がってくる川)に足(石柱)を立てて架けだしした造りとなっているもので、土間からは直接柳井川へ下りて行ける構造になっていた。
ただ便所はあったが風呂が無かったので、親子揃って毎日のように銭湯に通っていた記憶が甦る。
 ただ当時の記憶として鮮明に残っているのが昭和二十九年八月の台風5号(グレイス台風)による恐怖の出来事である。
大量に降った雨で柳井川が増水し、大潮で満潮時期と重なったのであろう家の土間にまで水が上がってきて、川に張り出して造られた六畳の間が今にも浮いて流されそうになったのである。
誠と滋子は子供たちを手前の四畳半の間に避難させて叔母に預け、自分達は膝まで水に浸かりながら六畳の間に置いてある家財道具を運び出そうと懸命に動き回っていた。
濁った水で溢れている土間を行き来する両親を見ながら子供達は家共々両親が川に流されるのではないかの不安と恐怖で「お母ちゃんそっちへ行っちゃあいけん。流されるけぇ!お父ちゃんもこっちへ来んさい!」と泣き叫んでいる内に何とか両親は大事な物だけは運び終えたようで、
全員が四畳半に身を寄せて暫くした頃に土間の水が引き始めたのを見て安心した思い出がある。



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「双龍物語:第五章・幼少期」

 何とか病魔から逃れることが出来た潤のその後は、誠が闇市で購入してきた粉ミルクや練乳で母乳の不足を補いながら、すくすくと成長していった。
そして数年後、父親の誠は久賀営業所の所長から課長に昇進し、柳井支店勤務を命じられたので、
取り急ぎ両親と妹五人が住んでいる大畠の家に居を移して同居することにしたのである。
この頃にはもう三歳となっていた潤坊は、同じ村内にあって、お寺が経営している幼稚園(保育園だったかも)に通うことになった。
季節は夏を過ぎ秋になった頃、幼稚園では運動会が催されるが、今と違って当時の小中学校を含む運動会と言えば村内の一大行事で、弁当を作り朝早くから運動場を囲むように筵を敷いて、それぞれの家の陣を構え、爺ちゃん婆ちゃんを始め家族全員が参加するのが一般的で、もうまるで祭りのような騒ぎであった。
運動会が間近に迫った頃、誠は潤坊にと新しいズック(運動靴)を買ってきていた。
真っ白な新しい運動靴で運動会に出してやろうとの親心であるが、日曜日となった運動会当日の朝、新しい靴を出して履かせようとしたところ潤坊は「先生が新しいズックやら運動着を着てきちゃあいけん。いつもと同じものを着て来い言うて言いよったんじゃけぇ、こりゃあいらん」と言って靴を履こうとしなかったと言う。
それでも誠は嫌がる潤坊の足に無理やり新しいズックを履かせて幼稚園へと向かったのである。
半べそとなっていた潤坊は嫌々ながら皆と一緒に運動場に腰を下ろし座ったところ、左右に見える足の靴はいつも通り薄汚れたズックで、自分のズックが真っ白いのに違和感を覚え、心の中で「それみろ!」と自分の言う事を親が聞いてくれなかったことに対しての不満が募った。
運動会の式次が次々と進んで行き、お遊戯が済んで、いよいよ駆けっこの時がやってきた。
しかし、走る順番が来たにも拘らず潤坊は「新しいズックはいけん言うて、先生がそう言うたんじゃけえ走らん」と駄々をこねはじめた。
親と先生が潤坊をなだめるのだけれど頑として受け容れない。
先生は「私が余計な事を言ってしまいましたか・・・」と困惑している中、誠は思い立って自転車に飛び乗り家まで古いズックを取りに戻ったのである。
古いズックに履き替えた潤坊は顔に笑顔が戻り、それは一所懸命走ったそうな。
そのときの記憶はうっすらではあるが残っていて、親は真面目過ぎるのか頑固なのか、やれやれと思ったそうである。
大畠村の大半は漁業と細々とした農業で生計を立てている家庭であったため、先生は余分な出費に対する配慮をしたのだろうと思われるけれども、潤坊にとってはやさしい親の配慮が仇となってしまったようである。

 この頃の滋子は二歳年下で生まれていた次女・栄子と潤坊の世話に掛かり切りの中で、舅・姑・小姑五人との共同生活をする大所帯の中では随分と気を遣いながらの毎日であった為、気持ちの休まるときがないように感じていた。
いくら大きめの家であっても大人七人と学生二人に子供の潤と乳飲み子の栄子を入れて総勢十一人が住むには、やはり窮屈であったのだろう、誠と話し合い、思い切って誠の勤務先のある柳井町へ居を移そうとの結論に至った。
新しい住まいを探していたところ、ちょうど売りに出ていた柳井町の銀天街入り口付近にある店舗付きの住宅(平屋で間口が二間半、奥行きは六間半の面積十六坪余り)を運よく購入することが出来た。
この店舗付き住宅は表に衣料雑貨店が借りて営業しており、店舗の裏に四畳半と一間の土間を挟んでその奥に六畳の畳部屋を持つ建物で、六畳の間は柳井川(満潮時には海水が上がってくる川)に足(石柱)を立てて架けだしした造りとなっているもので、土間からは直接柳井川へ下りて行ける構造になっていた。
ただ便所はあったが風呂が無かったので、親子揃って毎日のように銭湯に通っていた記憶が甦る。
 ただ当時の記憶として鮮明に残っているのが昭和二十九年八月の台風5号(グレイス台風)による恐怖の出来事である。
大量に降った雨で柳井川が増水し、大潮で満潮時期と重なったのであろう家の土間にまで水が上がってきて、川に張り出して造られた六畳の間が今にも浮いて流されそうになったのである。
誠と滋子は子供たちを手前の四畳半の間に避難させて叔母に預け、自分達は膝まで水に浸かりながら六畳の間に置いてある家財道具を運び出そうと懸命に動き回っていた。
濁った水で溢れている土間を行き来する両親を見ながら子供達は家共々両親が川に流されるのではないかの不安と恐怖で「お母ちゃんそっちへ行っちゃあいけん。流されるけぇ!お父ちゃんもこっちへ来んさい!」と泣き叫んでいる内に何とか両親は大事な物だけは運び終えたようで、
全員が四畳半に身を寄せて暫くした頃に土間の水が引き始めたのを見て安心した思い出がある。




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「酔龍の独り言:その013」

 今回は社会保険と厚生年金の話をします。
私は31歳の時に当てもなく勝算もないまま無鉄砲にも建築設計事務所を開業してしまい、一筋縄では行かぬ多くの経験を積み重ねながら今年で創業40年を迎えました。
開業当時は一人ですから、これまで勤務先で掛けて貰っていた社会保険を国民保険と国民年金に切り替えました。
開業して数年が経った頃には業績も段々と上向いてきて、社員が一人増え又一人増え、経営的に安定してきた頃に税理士からの勧めがあって開業四年目で法人化に踏み切りました。
ここから先は勤め人(サラリーマン・役人)などの方には全く判らない内容になると思われますが、このような話を聞くのも勉強の内と思って読んでみて下さい。

 法人化にしたのは税理士による勧めであって、私の方から望んで行った訳ではありません(法人には株式会社・有限会社・合資会社・など他にも多くの法人格があります)。
当時税理士から「この位の売り上高になると法人にした方が良い」と言われ、大学を卒業して十年間勤め人をしてきた私にとって税法など詳しい内容など判るわけもないものだから、(無知な事を自慢しても仕方の無いことですが、税理士の善意による勧めだと思って)勧められるまま事業を法人化(株式会社)しました。
後に法人化したのが良かったのか悪かったのか・・・については諸刃の剣と同じで良い面と悪い面が表面化してきて、法人にするとこういうことになるのか・・・と言うことが徐々に解かってきました。
法人化するとごく簡単ではありますが絶対条件となるようなものを以下に記します。
1:確定申告の内容が余りにも煩雑なので、税理士又は公認会計士に依頼しなければ決算申告が難しい(税務署に23年勤めれば税理士試験が免除され自動的に税理士資格が取得できて税理士事務所を開設できるから、天下りが出来ない税務署員の退職後の救済が目的?)。
2:利益の如何に拘らず、法人市民税・県民税を支払わなければならない。
  資本金の額によって納税額は変るけれども、つまり会社が赤字であっても支払わなければならない税の負担が生じる。
3:これまで個人事業として購入していた什器備品・電話債券(現在はありませんが)など贈与税なしで法人へ贈与できる(買い取らせることも出来るが、個人所得になる)。
4:社員が一人もいなくても社会保険の加入が義務付けられている(現行法)。
  社長一人の会社でも社会保険に加入させられるのである。
個人事業主との違いを下記に記します。
1:個人事業主は確定申告を青色・白色申告で行える(比較的申告内容が簡単であるから個人で申告が可能)。
2:交際費額の枠が無い(無制限とは言えないにしても制限を受けない)。
  法人であれば年間400万円を超えた分については経費と認められず、課税される。
3:雇用者の人数が5名を超えなければ社会保険の加入の義務付けは無い。
4:法人ではないから法人市県民税を課せられることは無い。

以上簡単に個人事業主と法人との比較を記述して見ましたが、ここで問題になるのが社会保険に関しての事柄です。

 私が事業を法人化した頃のことから始めます。
当時の健康保険は国民保険による診療費の負担は3割で、社会保険の負担は1割であった。
個人事業では社会保険の加入が認められておらず、法人にしたので社員の医療費負担を軽減したいとの思いから社会保険の加入を申し出てみたが、社員が5名以上いなければ加入が認められないとのことで断念した経緯がある。
その後社員が5名以上になったのを機に社会保険に切り替えて十数年間続けていた。
その辺りの事を詳しく述べようとすると膨大な文となるので、別掲載「双龍物語」を読み続けていただければこの辺りの事がいずれ解かって頂けると思いますが、今回はそのような事柄ではなくて、社会保険に関してなので、先に続けます。
 
 そうしているうちに社会保険庁は国民が積み立てていた年金保険料を流用して全国各地に十数か所のグリーンピア(社会保険加入者のため?との謳い文句の福利厚生宿泊施設)を建設して、その結果、加入者が積み立てていた2千億円もの年金を消滅させた。
これに加え公的年金流用の不祥事も起こした経緯があるけれども、これらを主導した官僚を含め政治家全員の内、ただの一人も消滅させた2千億円の補償補填などしてはいない。
法律で決めてやったことだから自分達に非はない、仕方のなかったことの一点張りで頬被りを決め込んだ(感謝の気持ちや相手に喜んで貰う意識がない者達が事業を行っても上手く行くわけなど無かろうと思うが、上級国民と言われる者達の思い上がりが招いた結果で、当然の結果と言えばそれまでですけどね)。
国民は法で決められているからと、義務を果たして年金を支払い続けてきたにも拘らず、当時の官僚はその責任も取らず、高額な退職金を手にして省益法人へと天下り高額給与を貪り、退職後は特別な厚遇処置が施されている役人専用年金を受け取りながら暮らしていることだろう。
このように自分達にとって都合の良い法律を作っては何かを行おうとするのだけれど、必ず失敗してそのツケを国民に負担させる手法を取ることばかりが続いている日本の社会に対して、いつかは是正させなければならないと感じていることの一つである。
 私は不平不満を言っているのではなく、国民の福利厚生を目的として働き活動しているはずの官僚が、やって良いことと悪いことの区別すらつかないのでは日本の将来は真っ暗であるし、このようなことの良し悪しは子供でも判りそうな事柄であるにも拘らずやるのだから、官僚の性根の賎しさには辟易するが、性根の賎しさを治す薬も治療法も無いのだから、もう官僚=新型コロナウイルス役人と呼び名を変えては如何だろうか。

 話が少し横道に逸れましたので元に戻します。
その後、ある事情で社員には辞めてもらうことになったのだけれど、その時に社会保険庁は社員が5名以下となったので社会保険の加入を止めるようにと言ってきた。
それで、私は又国民保険と国民年金に切り替えて事業を継続して今日まで二十数年が経っているところへ年金事務所の委託先だと言うところから電話が掛かってきた。
電話の内容は社会保険に加入しろ!である。
そして「加入しなければ5年間遡って保険料を徴収する」と脅してきたので、私のことだから「やれるものならやってみろ!好きなようにやってみたら良かろう」と言って電話を切ってやった。
まあ、数年前に税理士事務所から「社会保険加入要請の電話が他の会社に掛かってきているけれどまだありませんか」の問い合わせを聞いていたので、その内容も把握していた。
税理士が言うには皆さん「5年間遡って保険料を徴収する」の脅し文句に負けて、嫌々ながらしぶしぶ加入しているのが実情ですと聞いていたので、やっと掛かってきたかの感ではあったが、少々腹の虫が治まらず、当社の社会保険労務士に電話をかけて聞いてみた。

社会保険庁が今までやってきた不始末や消えた年金のこと・都合よく法律を変えて結果的には国民に負担の多くを押し付けている現状を話して「裁判して勝つ見込みはありますか?多少の額なら社会性があるのでやってみたい」と言えば「いやぁ法律で決まっていることですからねぇ法律の論争になるので時間と費用が莫大となり、とても個人で出来るような範疇ではありません」と答えが帰ってきた。
「でも日本全国には同じ様な想いをしている中小零細企業の社長が多くいるのではないかと思うので、週刊誌を巻き込み記事にしてもらっても争えないかなぁ」と言っても空しい返事だけが返ってきたので諦めました。
そこで、こいつらに言われて社会保険に加入するのは何とも癪に障るから、社会保険労務士に依頼して変更の手続きを準備してもらうことにした。

話が前後するけれど、これまでは共に仕事の協力をしてくれている社員には国民保険と国民年金に加入してもらって、社員が支払う支払額の半分は会社の負担として年金と健康保険を支払いながら経営をしてきていたのである。
ところが、調べたわけではないので想像だが十年前位だろうか、法律が変更されて法人は現在社員が一人もいなくても社会保険の加入が義務付けられていているそうである。
社会保険労務士には次のようにも聞いてみた。
1・現在医療費の負担は国民保険も社会保険も同じ3割負担となっているから、保険料の負担多くなる分社員の生活を圧迫するようになるので社員も喜ばないし、伴って会社の負担分も多くなるから経営的にも余分な経費が必要となる。
  喜ぶのは厚労省の年金課だけで、福祉の相手先であるはずの国民は困るだけをどのように考えるか。
  「これに対する回答は:法律で決められているから」であった。
  しかし昔と違って医療費の負担額が同じになったのなら保険料は安いほうが良いのは当たり前である。
2・個人事業主は5人以上の雇用者がいれば社会保険加入の義務付けがあるが、それ以下だと強制力が働かないのは何故か?
  「これに対する回答は:法人は資本金があるからだと言っている」であった。
  資本金と言っても今では資本金が1円の株式会社も認められており、この額で資本金があるから???頭が可笑しくなりそうである。
  と言うことは会社設立時に関する流れも仕組みも理解できてないようなので、数千億円の資本金がある会社と1円の資本金の会社を同列で扱ってしまうほどの世間知らずなのかと言いたいが、いやそれよりこれはもう官僚と役人は無知に近い。
  社員数人の法人と同じ規模の個人事業との差が「資本金があるから」ではこじつけも甚だしいし、何が何でも金をむしり取れ!の姿勢だけはハッキリと見て取れる。
  しかし、実はこれらの事を知っていた上でやっているとしたら明らかな「国民虐め」である。
  学校での子供の「虐め」は許さないが、大人となった国民は「虐めても」許されるのかぁ。
  子供も学生も大人も同じ日本国民ですけど・・・。

厚生年金・医療保険については、まだまだ言いたいことが多くありますが、紙面数が多く
なりますから今回はこれでおきます。
最後に付け加えますが、当社も社員には大企業と同じく「労働災害保険・失業保険」を掛
けています(社長は失業保険には加入できませんけどね)。




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「双龍物語:第四章その3」

            四ヵ月
 
 げんのしょうこ 飲んだのが大へんよくきいた様で、お母さんの気のつけ方が悪かった為に腸をこわしてしまってすみませんでしたね。三月二十九日に大畠のお祖母ちゃんが可愛いゝ夜着や、袖なしを縫って持って来て下さいましたよ。

四月四日
 腸がすっかり直って大へんよいお便所でした これですっかり安心しました どうぞ順調に育って行って下さいね。此の頃大へん気元がよくて大きな声でお話をします。三日の日にお父ちゃんがおもちゃを買って帰って下さいました。あなたはしっかり握ってうれしさうにふってゐましたが、すぐお口へ持って行くのですよ。お母さんが今この日記を書いてゐる傍らで あなたは何やら分からぬ言葉でおしゃべりをしてゐました。・・・おとなしくなったのでそっとのぞいてみますと 気持ちよさそうにねんねしてゐます。可愛いこと。
 あなたが始めての子供であるため、お母さんはいろゝとあなたについて研究をしてゆかねばなりませんでした 何分 合ったことがないので 心配が大へん強いのです。(空白は原文のまま)
 暖かくなってのみがいるのに可愛さうです。早く寝台にねんね出来るようにして上げます。

四月八日
 柳井で例祭がある為に帰へりました。あなたの大きくなったのに皆びっくりされました。
どうか順調に育って下さい。もう笑ふときにもこえが出ますし、おじらがいへる様になりましたのよ。

四月廿十七日
 今日は久賀町の回向といふお祭りでしたので、柳井のお祖母ちゃんが来て下さいました。
 又會社のお父ちゃんのお友達がいらっしゃって、潤ちゃんにワンヽとかざぐるまを買って下さいましたよ。

五月五日
 今日は端午のお節句ですよ。あなたの初端午なのよ。
皆よろこんで下さって 金太郎のお人形を二つ立派なのを祝って下さいましたよ。
一つは末沢さんのお家から、も一つは会社の人々からですよ。
又、藤井さんといふ方からね、内のぼりの立派なのを祝って下さいましたよ。
柳井のおぢいちゃんはかぶとのかけぢくをもって来て下さいました。
又ね、大畠のおぢいちゃんはね、澤山に祝って下さって、ちまきや、おこわのご飯をつくって大祝いして下さいました。
空には他家からいただいた大きな〝まごひ〟や〝ひ〟こいがたくさん五月の風を腹一ぱいすいこんで勇ましく泳いでゐます。どうか立派な元気な子供になって下さい。

              五ヵ月
                    初節句親の喜ぶ鯉のぼり
 潤ちゃんの発育は大へん順調です。

五月七日
 御夕飯の時でした お父ちゃんとお母さんはお食事をしてゐました。潤ちゃんはお乳を澤山のんで一人で遊んでいましたが その様子が大へんうれしさうで大きな声を立てゝよろこんでゐました。お食事がすんでお母さんが どうしてゐるかとのぞいてみたら あなたはねかさせられたフトンからとび出て疊の上に出て手足をばたゝさせてよろこんでいるのにびっくりしました。お母さんはお父さんがそんな風にねせられたものと思っていましたが さうではなかったのよ。貴方は大へんな活動性を発揮できる様になったのです。お母さんは大へんうれしく思ひましたね。  
 
五月十日
 運動がはげしくなった為か お乳が不足らしい様に見えましたので練乳を補足してあげました。
 一日、一・二合位、混合榮養児になったのですね。お乳はよく体にふさう様でした よい便でしたよ。

五月十三日
 お父さんが柳井へ出張なさいました。

五月十七日
 大畠の森一家が東京へ行かれるのでお別れに大畠へかへりました。
えどは大きくなって会ふのですから しっかり見おぼえてもらはねばね~。
お祖母ちゃんがおもちゃを買って下さいました。少し風邪気味です。

五月二十日
 少し風邪がひどいので心配しましたが 漸く治り大事に至りませんでよかったね。

五月三十日
 とうとう五月もすんで 潤ちゃんも 丸五ヶ月が迎へられました。順調な発育で結構ですね。

             六ヶ月

六月
 月日の来るのは早いもの、あなたもすくゝと延びて健康です 少しお乳が不足なので哺乳しています。でもよく肥えています。
夕方の赤いお空を見て貴方は手足をばたゝさせてよろこんでゐました たくさんの男の子が遊びつかれてそれぞれ夕餉の家に帰ってゆきます。
でも皆元気いっぱいですよ、はやくあんなになったらね
オシッコもさゝげればよくする様になりましたよ。どうか神様潤坊の上に幸多くお恵みを下さいませ。
◎夕やけを 背にあびながら 帰り行く 子等の顔に 明るき笑顔あり。
◎産褥を はなれて むつきを洗ふ せわしき中に 喜びの深めり。

二十二日
 昨日ころねがへりしそうになってはようせずにもがいていました。
 もう少しよ、ホラと思ふ様になっていましたら、たった一日で今日から、一人でくるっとかへる様になりましたよ。ほんとに不思想なような気が致します 今日からもうかへれるようになりました。一度かへれる様になったら不思議ですね 何回でもかへれる様になるのです。頭をもたげてゐるのがつらくなったのでせう、たゝみにおでこをコツンとぶっつけて休んでゐます。
 お父ちゃんがねがへりが出来る様になって大へんよろこんでいられます。
はやくはへればよいですがね。

三十日
 面白いやうにくる々かへれるようになりましたよ。
座敷中をごろゞころげ廻ってゐるのでちつとも油断出来ませんのよ。今そこにいたかと思って  
ももうあちらの方へ その早いこと、少しも油断のならない様になってしまったので お母さん 
はおんぶしてお仕事をしてゐます。
暑さも加わって来るのできついでせう。あなたに可愛い夏服を縫ってあげました。可愛いです
よ。

           七ヶ月

何時の間にかもう7月よ、いよゝ夏になって暑いね。
潤ちゃんも夏衣にかへりましたよ。

二十三日
 七月の始め頃から少し咳をしてゐましたが どうもきつい様子になりましたので周東病院へ 行きましたが、どうも咳がひどくなり百日咳が流行してゐるので気になって 今度は小野病院へ参りましたら 百日咳と云うことでした。家に遊びに来る子供のがうつったのですね。お母さんの注意が不足だったのです。何卆か許して下さい これからはよく気をつけます。咳をする時はほんとうに可愛い想です。病院へ毎日通って注射をしてもらってゐます。
 二十二日急に熱が出て大騒ぎしました 三八度二分 先生 百日咳の熱と仰言いました。解熱薬や注射を致しました。
 一週間後には平熱となり 又三八度九分になりました。又先生がいらっしゃって下さいました。
  大畠のお祖母さんは歯の生える為ではないかと仰言っています。
◎今日からあなたはいよ々はふ格好が出来て前方の物をつかまふとしてゐます。両手でかいて両足でたゝみをけり面白いようです。
 早くどんゞはへるとよいがね。

二十四日
 夕方から少し熱がありましたが 夜中一時に三九度一分もありお父さん、お母さんびっくりしましたよ。そしてひやしたりすかしたりしてやうやく落着いて休みました。どうも歯の熱でせうか。
 お醫者さんは百日咳の熱と仰言いますが。

二十七日
 朝方から少し熱はありましたが おひるから下つてゐましたが 夕方五時頃から又三九度、七時に四十度と高い熱でした。早速雨の中をお醫者様が見えました。解熱と咳と両方の注射をなさいました。
咳をする時はほんとうにひどいです 傳染性の病気ですがお母さんの注意の足りなかったことを心からおわび致します。
夜中、一時、二時半、三時半、五時に起きましたが だんゞ熱は下がるやうでした。朝八時、六度八分です。

二十九日
 大畠のお祖母さんが心配して見えたが もう今日は平熱でした。
 百日咳で熱の出るのはよくない様です。お祖母様はお不動様の信者ですので、朝早くと夜中と二回〝水ごり〟を取って潤ちゃんの病気のよくなる様にお祈りになりましたよ。
 大体あなたは気嫌のよい子で熱が高くてもあまりむづがりませんでしたが、あまり高い熱の時はやっぱり心配でした。
 お不動様のお陰をいたゞいて大へん輕くなりました。又〝相知百日咳の薬〟と云ふのがよかったのでせう大へんかるくなって ホッと致しました。
でも油断は大敵なので毎日お醫者さまに通っています。

八月十二日
 白石さん

八月十四日
 大畠へ どんゞはふ。

と「滋子の育児禄」は八ヶ月で終わっているので、粗方気が済んだのか、忙しさにかまけて書く時間が取れなくなったのではなかろうかと想像する。
しかしこと、百日咳に関して、当の「滋子」から聞かされた話では「潤」が生まれて数ヶ月が経った頃、近所に住む子供を連れた母親が「お子さんを見せて欲しい」と尋ねて来たようで、応対した「誠」は「滋子」のところへ行き「潤坊を見たいと言って近所の人が尋ねて来ちょるんじゃが、ええじゃろう」と言ったところ「滋子」は「子供が変な咳をしているのが聞こえるから帰ってもらって欲しい」言ったにも拘らず「誠」はもう嬉しさのあまり、「滋子」の言うことなど聞きもしないで、背中に子供を背負い両手に子供の手を引いている女を「潤坊」のところへ案内したのである。
どうやらこれが百日咳に感染した原因のようで、兎にも角にも病気が治るまで三ヶ月(約百日)かかったと言うから本当に百日咳だと思ったと言っていた。
また高熱が三ヶ月も続くので、この子は死んでしまうだろうと思っていたと話していたが、どうやらこの時も二回目の闇に世界からの危機を逃れることが出来たようである。
 
 この育児禄は潤が嫁を貰う時のこと、嫁の家族と同居するため広島に転居することになり、荷物の整理をしていたとき偶然見つけて「へぇ~こんなものを書いていたのかと」と思いながら頁をめくった。
読みながら母が子を想う慈愛の深さと言うか優しさに触れて涙が留めなく溢れてきた。
嫁になる相手にも読ませたがやはり涙した。
そして、この物語に育児禄を書き写している時にも何度となく目頭が潤ってくるのである。
滋子と潤の親子間の個人的愛情というより、男親には解かりようがない母親という性の役割の中にある「母性」とはこいうものなのだろうという事に心が反応し、震えたのである。




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「酔龍の独り言:その012」

 安部総理が辞任して、三人の自民党総裁の候補者がいたけれど、選挙の結果、菅氏に決まり、新しい総理として今日(9月15日)にも菅氏が就任することのようである。
さて、では菅氏が総理になって何かが変わり、少しでも良き方向へ向かうのであれば大歓迎であるが、全く期待は出来ないだろうと思っている。
何より総裁選挙前には「消費税上げ」に言及して報道者達から突き上げられて直ぐに「言い訳」をした経緯があるからねぇ。
しかし、本音のところでは「消費税上げ」に関しては間違いなく腹の中にあると思われる。
そうでなければ新型コロナで景気が低迷しているこのような時世の中で「消費税上げ」など決して口にするはずがない。
しかし、もしそれを承知で口にしたのであれば、全く国民の想いや現在の重税に対しての意識がないという事の表われであろう。
こと日本の政府に関して言えば、これまで財政が窮屈になれば直ぐに「収入(税)を上げようとする」手法以外に採ってきた政策を聞いたことが無い。
もう一つの考え方である「経費の削減」を本気でやった総理を昭和以降今までに知らない。
官僚が省益のためにと、社会で何か事件や事柄が起こるたびに「法改正」を行って「天下り先(公益法人などと称しているが実体は省益法人である)」を作って出来の悪い我が身内や親族の就職先とし、上司や先輩方の定年後の安定収入の確保に奔走する組織に対して野放しで、国民の方へ税負担を押し付ける。
政府や国会議員は今の公益法人と称しているところが本当に公益だと思っているのだろうか・・・そうであれば全くの世間知らず無知であり、知っていて放置しているのなら全くの無能であろう。
口では「広く国民の意見を聞き、ご理解を得た上で・・・」などと言うけれど、70年生きてきた私は今まで意見を聞かれたことなど一度もないし、恐らく聞かれた国民は皆無であろう。
また理解を求められた国民も皆無であろうと思われるから、これは詭弁であり、騙しであるにも拘らず、一向にこういった表現を使いながら国民の首を絞めている政府(国会議員が構成している)に不満を持ちながらも、また同じ様な国会議員を選挙で当選させている私達にも大きな罪と責任があるのだけれど、如何ともし難い現実に腹が立つ。

ある女性曰く「菅さん石破さん岸田さんの中で一番顔が良いのは岸田さんでしょう。外国に行った時などを考えると岸田さんが良いんじゃないかなぁ」
ある男性曰く「だからいつも言っているように、女は好き嫌いと感情で物事を判断するから、ちっとも世の中が良くならないと言っているだろう」
このように本能が優先する自然的生き物に選挙権を与えたものだからどうにもならない社会が出来上がってしまった。尤もそれはGHQ(戦後の米国進駐軍)のマッカーサーが唱えたWGIP(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム:日本を如何にしてダメな国するか作戦)が功を奏し、当時の話によると「なに、日本の女に自由と平等と選挙権を与えたら30年も経てば日本はダメな国になる」とマッカーサーが言っていたというのだから、正しくその通りとなってしまい、取り返しがつかないほどに日本が堕落してしまったことは事実である。

と切り返したら「でも石破さんの目つき怖くない!普通の人の目つきじゃないよ」と言うので「確かに目つきは悪いし顔も良いとは言えないが、口にしていることは三人の中では一番まともで良い内容だと思えるがねぇ」
「でもやはり外国に行ってあまりにも顔が悪いと・・・」と言うのでこの話の先を続けても意味を成さなくなると判断したある人は話題を変えたようであるが、では米国のトランプと中国の習の顔は良いのか?と問われれば何と答えたのかなぁとの疑問が残ったのだが、そんなことどうでもよいことですから、敢て聞くほどのことでもあるまい。
顔の良し悪しで外交や内政の良し悪しが決まるわけではないし、国の代表とは世界の平和・国益・国民の安全・国民を良き方向へ導くこと等であり、顔の良し悪しで出来る内容ではない。
往々にして女性が錯覚して陥り易い部分であるが、当の本人にその自覚が無いのは残念なことである。
顔の良し悪しは「形態」であり、考えている内容は「質」であるから、いつも言っているように「形態に惑わされず、質を見極めて対処する」が出来なければ、良き国造りは出来ないだろう。
「形態」は「形態」の良し悪しで捉え「質」は「質」の良し悪しで捉えて、飽くまでも「質」を基本軸に置いて物事には対処すべきであろうと考えているけれど、これは女性が最も苦手とする分野であろう。

 さて、新型コロナに関して引き続き言わせてもらえれば、今まで飲食店の営業時間は大阪が20時で東京が22時までの要請をしていたけれど、今後は時間帯を緩める方針であると、十日ばかり前だっただろうか、そのような報道を聞いた。
これまでに夜間営業の時間を制限する方針を行政が出した時に不思議に思ったことがある。
それは、新型コロナウイルスは「夜行性」なのか?と言う疑問である。
夜間営業しているホストクラブやカラオケ店での感染が目立って多く発生したことによるせいだと考えることを否定するつもりはないけれど、ウイルスは生命体ではないから「昼行性」も「夜行性」もなく、24時間365日感染する危険性を持っているものだと認識すれば、夜の営業時間帯を制限すれば感染が治まるのかと言われれば否であろう。
少し感染拡大に減少傾向が見られるからと言って夜間の営業時間自粛を緩めることは明らかに医学会が最も嫌う「対処療法」と同じで根本的な対策にはなっていない。
新型コロナウイルスは自然界が産んだ産物(人為的な遺伝子操作が行われた形跡もあるようだと言われているが真偽のほどは定かではない)の内の一つであり、この他にも此の世には多くのウイルスが存在している。
ただこれまでに人間の英知でワクチンを作って克服してきたウイルスも多くあるけれど、この新型コロナウイルスは中々手強い相手だという以外に表現のしようが無い。
自然界で発生する台風や地震などと同じで小中規模程度のものでは科学と化学の力で克服できるようにはなったけれど、超大型台風や巨大地震に至っては人の英知は及ばず、ただただ過ぎ去るのを待つ以外に方法は無い。
ワクチンの開発が急がれているようであるが、各国共に手こずっていて“これだ"というものが中々出来てこないほど厄介な相手のようです。
尤もワクチン自体は人為的に作られるものだから人体にとっては異物である。
異物が人体に入り込めば体が拒否反応を示し、その病気に罹った方が良かったと言うほどの副作用に見舞われて辛い思いをする人がこれまでにも多く出ている現状をも見過ごしてはならないことを念頭に於いて、一人ひとりが自己の信念に基づいて、どのように対処するかを考える以外に方法は無かろうと思う。

そのために小中学校で最低ではあるが文字と自然科学を習得し、その知識で持ってこれ以上の知識と見識を積み重ね学んで行きながら自己能力を向上させて行くことが人生を歩むということでなくてはならないはずだと思っているのに、ある府知事がコロナ対策では、うがい薬が有効であるなどと口にすると店頭からうがい薬が消えてしまう。
コロナ対策ではマスクが有効であると言われればマスクを買い占める。
アルコールでの消毒が・・・と言うと何処の店頭にもアルコール消毒薬が設置され、手を消毒しなければ店内に入れないとまで強制しているところがある始末だし、店頭からアルコールタオルが姿を消しているのが今の日本である。
ウイルスの大きさは確か10万分の1mm単位の大きさだからマスクでは感染の予防に大して役に立たないこと位は誰でも判るはずだ。
新型コロナウイルス感染に対して全く防ぐ効果なしを0として完全に防げる効果を100とすればマスクの効果は恐らく5以下ではなかろうか。
アルコール消毒に関しては虚弱な大腸菌やカビ筋なら死滅させること出来るかも知れないが、新型コロナウイルス感染に対しての効果は恐らく1以下だろうと思う。
アルコールが新型コロナウイルスの外殻をある程度弱体化させるらしい?と言うことからアルコール消毒が広がったようであるが、効果が期待できることは殆どあるまい。
医師などはこれらの事を理解しているにもかかわらず、やらないよりはやったほうが・・・
程度の意識であると思えるが、別段反論などしない。
その理由の「本質」は何でしょうかねぇ?それとも本気で感染が予防できると思っている・・・?いやぁ幾らなんでもそれは無かろう。
一時期的ではあったがマスクが店頭から無くなり、アルコールタオルが店頭から消えて半年以上が経つし、よく考えもしないで店先のアルコールで手を消毒している姿を見ると何ともやりきれない気持ちになる。
はっきりとせず、大した根拠も無い事柄でも行政が言うと直ぐ飛びつく姿を見ていると、自分自身で基本的な知識の積み上げと組み立てが出来なくなっているから、結局著名人や行政に振り回されてしまう。
日本人ってこんなに節操が無く愚かだったのか・・・いや、なったのかと溜め息が出る。



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「双龍物語:第四章その2」

 そして「滋子」は「長男(潤)」が生まれる数日前から「養育禄」なるものを書き始めていた。

            序 潤ちゃんへ

 自分の生まれた時からの事を大きくなって知る事ができたらどんなに楽しくもあり有意義なことでせう。
本當につたない文で恥ずかしいのですけど此の世に尊い生を受けてからの事を真実そのままにあなたの為に書きしるしたいと思ふのです。
昭和廿四年の一二月二十四日の明け方六時 一番鳥の鳴く勇ましい声を聞きながらあなたは神様の御恵みによって安らかに此の世に の声をあげたのです。(空白部は原文のまま)
         出生地 山口縣大島郡久賀町伺津原
 お父様が日通にお勤めの為 久賀に借家住ひをしてゐました。それは前記の所なのですよ。
そして、あなたには明子(はるこ)といふ一つ年上のお姉ちゃんがありましたの、でも生まれて四日目にすぐ他界してしまいひました。お父さまもお母さまも明子姉ちゃんが亡くなったので早く代わりにあなたが生まれてくるのを待ってゐました。
生まれる時には柳井のお祖母ちゃまがお手傳ひに来て下さっていましたよ。それからすぐ大畠のお祖母ちゃまがお手傳ひなさって下さいました。
お父様はあなたの為に三代様からお名前をいたゞいて下さいました。
そのときのお名前が潤ちゃんなのですよ 若しか女でしたら榮子といたゞいてゐいたのですよ(短冊)。
三代様といふのはね、お父さま、お母さまが日頃信仰させていたゞいてゐる神様(大本愛善苑)のお道の方です。
この方については大きくなってあなたが信仰する様になったらよくわかってくることでせう。
別紙のお名前はあなたの名つけの日 廿八日にお父さまの書いて下さったものなのです。

              「養育禄」

昭和二四年一二月二十二日
 今日があなたの出生日の予定だったのです。お母さんは予定日の近づくにしたがって今日か々と心の中で言い知れない喜びとかすかな不安にて満たされてゐました。御手傳ひの人がないので二十日から柳井のお祖母ちゃんが来て下さってゐました。
予定日も何の兆もありませんでしたが、大部お母さんの体はきつくなって何れ近い内だと思ってゐました。動くほどお産がらくだと云われてゐましたので お母さんは体の調子がよい限り動きました。
今日は予定日でもあるし、あなたの安産を祈って氏神様にお詣りしてお祈りを捧げ お陰をいただいて来ました。

二十四日
 二十三日の夕方から腰のいたみが大部ひどい様でした。お父さんが会社から夕方七時頃おかへりになり お食事をすませた後会社が忙しいため又お出かけになりなり十二時過ぎにおかへりになりました。お祖母ちゃんと三人がつづいてお風ろに入りました お母さんはどうも今日は様子がおかしいと感じがしてゐました。神様の礼拝をすませて就寝しました。
 割合ひに暖かい日で晝間(昼間)の疲れにすぐぐっすり休みましたが 二時過ぎに目がさめてどうも様子がちがふので お祖母さんお父さんに起きていただいて用意をしていただきました。
外は雨が降ってゐましたが 産婆さん(鶴田キチ子)はお父さん達の後二分もたゝぬ間にかけつけて下さいました。お母さんはも一度神言を奏上させていただいて安産をおねがひしました。
その時・5時頃でしたが 何もかも調子よく六時には降っていた雨も上がり空もしらゞと明けて一番鳥の鳴く声と共に勢いよく、産声をあげたのです。
お母さんは只、ぶじかしらとそればかりお祈りしてゐました。やがて産婆さんが男の子であることを知らせて下さり ぶじである事を喜びました。
ちょうど満潮の始めです。お父さん始め皆はあなたの出生を大へんよろこび そのよろこびは言葉につくされず胸一ぱいでした。小ちゃな赤い顔のあなたはやがてお母さんの側にねかせられました 只々、すこやかに発育してくれる様にと願うのでした。
神様に御礼の礼拝をいたしました。
暮れの迫った日に生まれたのでお手傳ひの人がなか々ご苦勞でした。
それから毎日あなたは鶴田さんに産湯をつかはせていたゞいたのです。
大へんに丈夫ですよ、と喜んで下さいました。身長は普通寸より二寸も高いと御言いました。
目方はね、七八〇匁でした。
大へん可愛い顔だちだと云って皆ほめて下さったのよ。あなたの出生を知って数人の人がお見舞いに見えました。又澤山の産着をいただきましたよ。日に々とあなたは調子よく育ってゆきます。

二十九日
 年の暮れで皆忙しいので小沢ミドリ(愛善苑 信者)叔母さんが 柳井から手傳ひして下さったのですよ。又浜田先生(愛善苑 柳井主任)があなたの為にお取次ぎをなさって神様の御恵み多き事を祈られました。いよ々お正月も迫って来て あなたもお母さんもね正月ですよ。

二十八日
 前後しましたが二十八日はあなた名つけの日です。三代様からいたゞいたお短冊のお名前にある通り潤(じゅん)とつけていたゞきました。
神様からいたゞいたお名前です。どうかその御恵みに御礼申して下さい。鶴田さんの家でお祝いに よろ〝こんぶ〟をいたゞきましたよ。

一月一日
 お正月ですね 潤坊と母ちゃんは、ね正月でした。お手傳ひがなか々むつかしいのでね、お晝前(昼前)に柳井のお祖母ちゃまが又来て下さいました。

五日
 産婆さんに今日まで産湯をつかはせていたゞきましたのよ。
大へんに親切な頭のよい方でした。自分を取りあげて下さった産婆さんは あなたの出生に際して又大へんお世話になったんですね。

一月十日
 お父さんは会社が忙しい為殆ど家に居られませんでした。年末年始の御つき合ひも、しばらくしてひまとなりました。そしてゆっくりとあなたを見守って下さいました。お母さんも次第に日立ちがよく、今日頃から起きることにしました。寒い時でしたのでお手傳ひの人も大へんでした。お母さんはあなたの汚れたおむつを洗うのにも云いしれない嬉しさ、とほこりを覺えるのでした。何卆か健やかに成人して下さい。

一月十五日
 日に々太ってゆくあなたの様子にお父様もお母さんも只よろこんでをりました。お顔も生まれた時とは大へんに変わってきました。生まれた時はお母さんによく似てをった想です。今まで気づかない事でしたが あなたはお顔も大へんよく調ってよい子ですのに お耳が一寸両方がそろひませんでした。誰でも両方揃ってゐないのですが あまりひど過ぎるのです。お耳ですから気をつけて見なければわからない事ですが 一寸気になりました。
産婆さんも外入(とのにゅう・大島の南の方に位置する地名)の叔父、叔母(滋子の姉)さん達も大した事ではないですよ、心配は入りませんと御言って下さいました。お母さんはその時始めて、あなたの幸福を自分の体で代わることが出来るならどんなにでもしてあげたいと思ひました。早速にとりかえへられるものなら型のよいお母さんの耳ととりかへてやるのにと思ふのでした。別に気にして悩む程の事でもないのですが やはりお母さんは人の顔を見ると一番先に耳が目につくのでした。いろ々と見ましたが皆種々様々でずい分ちがった人もありました。あなたのは小さい気づかいでなければ別にわからないのです。
神様の教えにある様に現実は現実ですから それを悔いては発展がありません。大きくなるにしたがって少しでも型がよくなりますように神様お守り下さいませ。ついでにお揃いしてよかったらよいでしたのにやっぱりお母さんの心はいたみました。あなたにお乳を含ませる毎に神様の祝福あらん事をお祈りするのでした。
型が悪いからと云って気にしないで下さい。お母さんは只それがあなたへのおねがひであり、お詫びなのです。別に悪い事したわけでもありません。神惟のまゝに出来た事です。何卆か何物をも恨まず気にかけぬ子になって下さい。
人間は型ばかりで人格が決まるものではありませんからね。あなたのお父さんは日米戦争の為  
にフイリッピンで負傷され片腕を殆ど切断されました。片のつけねから十糎ばかりのこってゐるだけで役に立ちません 用を達せられるのに御不自由で本當に気の毒です。それでもよい心の人ですから毎日を楽しく有意義に過ごされます。あなたも大きくなったら神様の御恵みを享けられます様御信仰して下さい。

二月二日
 まだゝ寒いので床の中で安らかに眠ってゐます。
七日目に始めて涙を流して泣いていましたよ。

二月二十日
 どうやらお目めが見える様でした。鶴田さんがいらっしゃって あなたの成長をよろこんで下さりました。あなたはお目めが見えるのか笑ってあいそをしてゐました。可愛い顔でしたよ。

三月一日 初詣で
 日ざしも一日々と のどかになって参ります。今日は大畠のお祖母さんにおぶさって氏神様にお詣りして あなたの健やかに成長せられん様お願ひしました。これは本當を申しますと三十三日に氏神様にお詣りするのが本當なのですが あなたはちょうど寒い時生まれたので今日までのばしてゐたのですよ。
 お詣りの行きしも帰へりしも よくねんねしてゐました。

三月三日
 今日はあなたの初旅でした。
大畠へ帰へると、おぢいさんが大へん大きくなったのによろこばれました。あなたは笑って おあいそしてゐました。澤山のお姉ちゃん達にだっこしてもらって笑ってゐました。お母さんは初めておんぶするのであなたの鼻がつまりはしないかと心配でしたよ。
三日・四日・五日、と柳井の土井さんのお宅で愛善講話があったのをおききしに行きました。
柳井のおばあちゃんも小沢さんも大きくなったのにびっくりしていらっしゃいました。

三月八日
 久賀へ帰る。少し風邪を引いていた様です。
 夜中にあなたは一人が起きて大きな声を出して笑ってるものですからお父ちゃんがびっくりして起きられました。そして〝何だ 潤坊か 何かと思ったよ〟といって又やすまれました。
 あなたはほんとうに可愛い子ですよ。誰も居ないのにあなたが一人目をさまして あ・・・・・
 や・・・とひとり言を云っていると お母さんはうれしいやら お利口してゐかるのに かわいそうな程でした。此の頃はおめがよく見え、ひとり言がしゃべれて面白くなりましたよ。
 お父ちゃんが おもちゃを買って来て下さいました。
 がら々と廻る ねてみるおもちゃですね。あなたは鈴が鳴る音につれて一生けんめいに眺めていました。

三月二十日
 お母さんが虫下し飲んで腸をこはしてしまった為 あなたに牛乳を飲んでもらひましたが その後がどうもよいお便所でないのですよ。
 奇応丸といふお薬をお父さんが買ってきて下さったので ずっと飲んでいますよ。腸はなか々よくならないですね。

三月二十七日
 発育が目立たぬ様になったと思いますよ 時期ですか、腸が調子悪いためですか、早く良くなるようにお薬をあげてゐます。
 明日は げんのしょうこ を少し飲んでみませう。

四月二日
 今日は貴方の百日でした。神様にお礼の礼拝をし、あなたの幸福をおねがひ致しました。
 腸が悪かって一寸 太り目が見えませんでしたが 大部よくなって参りましたよ。



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「双龍物語:第四章その1」

  「第四章・長男の誕生」

 
日本通運 株式会社 周防大島久賀営業所の所長に抜擢された「誠」は「滋子」と共に住まいを周防大島久賀町に移して新しい生活を始めることになった。
この久賀町は南に小高い山と北に面した瀬戸内海に鋏まれた風光明媚なところで田舎にしてはとても活気があり、町内の方の人柄も良く、とても住みやすく感じた二人は直ぐに近所の方達と親しくなって暫くは平穏な日々が続いた。
「誠」の仕事は順調で「滋子」はこの時点で既に二人目を懐妊していたから二人は幸せを噛み締めていた時期であろうと想像できるが、季節が秋に差し掛かった頃、不運にも「滋子」は高熱を伴う風邪の症状に見舞われたのである。
最初は風邪だと思っていたようだが、一向に熱が下がらず症状の改善が見られないことから医師はインフルエンザと判定し「今の状況は母子共に危険な状態であり、このままの病状がこれから先も続くようであれば、覚悟はしておいた方がよい」と告げられた「誠」には、なす術がなく、ひたすら神棚の前に座り祝詞を唱えながら「滋子」の回復を祈り続けた。

「滋子」の腹の中にいる子は「聖師・王仁三郎」が特別に仕組んだ曰く因縁のある子供で、この子がこの世に出てきては都合が悪いと考えている敵対勢力である闇の世界が仕掛けた第一回目の命の危機が訪れたのである。

尤も「聖師・王仁三郎」が仕組んだ内容がはっきりと判るのは、この後四十三年も後のことで、
それまで「誠」「滋子」「腹の中の子供」共にそのようなことなど知る由もなく、ごく平凡な中流(の中か下)の家庭人として人生を歩んでゆくこととなる。

 しかし、この後「誠」の祈りが通じたのか「滋子」の体力が勝ったのか「聖師・王仁三郎」の導きがあったのかは定かではないけれども、ワクチンが無い時代であるにも拘らず、医師が驚くほどの奇跡的な回復を見せた「滋子」はインフルエンザを克服して母子共に危機を脱したので、父親となる「誠」がとても喜んだ事は言うまでも無く、臨月を迎えた十二月には母「ムメ」が大島にやってきて「滋子」と共に陣痛が始まるのを待っていた。
このような中「誠」は嬉しくて「大本」の教団本部に生まれてくる子供の名前を付けて欲しいと数ヶ月前に手紙を出していた。
長女「明子」の時は何故そうしなかったのかについては不明であるが、自分が付けた名前だから早死にしたのでは・・・との思いがあったのかもしれない。

予定日を十日も過ぎた頃「ムメ」は「こりゃあ、この様子じゃぁ何時になるか判かりゃあせん。もう年末が近こうなるんで、そろそろ正月の準備をせにゃあならんけぇ、私しゃあ明日は柳井へ帰るけぇね」と言って床に就いた。
その翌明け方近くになって「滋子」の陣痛が始まり昭和二十四年十二月二十四日午前四時過ぎに訳ありの子である長男が産声を上げた。
「誠」の喜びようは例えの言葉が見つからないほどであった言うが、一方祖母となる「ムメ」は「このクソ忙しい年末に生まれてくるとは何と親不孝な子じゃ」と自分の都合をぶちまけていたというが、そのようなことを言いながらも「ムメ」は甲斐甲斐しく娘と孫の世話を続け、もう直ぐ年が明けようとしていた頃となっていた。 

一方「誠」から命名依頼の手紙を受け取っていた「大本」では予てより死期が近かった「聖師・王仁三郎」より遺言の如く聞き及んでいた「いずれ、山口県の三田誠より子供の名前を付けて欲しいと必ず連絡が来るので、その時には男が生まれたら「潤」と女が生まれたら「栄子」と名付けるようにしてあるから、これを渡してくれ」との言いつけ通り「誠」に「聖師・王仁三郎」が半紙に書き残しておいた命名書を送ったのである。
この二枚の命名書にはそれぞれ「潤」と「栄子」とだけ書いてあり、命名の文字以外は「王仁三郎」の花押も落款も無いものであった。
命名書を受け取っていた「誠」は「潤」が生まれた三日後の昭和二十四年十二月二十七日に久賀町役場に出向き出生届を提出している。




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